実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

水資源 実戦教師塾通信八百八十号

2023-09-29 11:38:42 | 福島からの報告

水資源

 ~エネルギーというもの~

 

 ☆初めに☆

8月の山梨・長野旅行レポートで書きませんでしたが、松原湖畔を歩いた時、小さな掘っ立て小屋を見つけました。

発電所でした。中部電力。昭和43年運転開始。取水量が0,91㎥とあります。出力は200kWを切ると思われます。私が良く紹介する広野火力発電所は1号機~6号機合計が440万kW。桁違いに小さいことが分かります。

今回の記事は、福島県楢葉町の水力発電所を見学して来た時のレポートです。この場を借りて、丁寧で親切な対応をしていただいた東北電力・水力電気課の方々に御礼申し上げます。

 

 1 発電現場

 このように、水力による小さい発電所が、日本という国ではたくさん稼働している。2017年のエネルギー白書によれば、その数は1500基以上に及び、前の年からも増えている。1万kW以下の小水力発電の設備容量は、国内の一般水力発電全体の約15%に相当するという。もっとも規模の小さい200kW未満の小水力発電設備については、300件以上が設備認定されており、そのうちの半分がすでに運転を開始している。1000kW以上の中小水力発電についても、1000kW未満(200kW以上)についても、多くが運転を開始している。

 案内していただいたのは、楢葉の木戸川第三発電所。80年以上働き続けている、最大出力1000kWの水力発電所だ。国道6号線沿いの楢葉の役所からだと車で約5分。タイトな山道を登っていくと、姿を現す。電力のもととなるダムから続く木戸川は、ここの山道沿いを静かに流れている。猛暑の日差しを和らげるように、水の流れは柔らかだ。

木戸川第三ダムからの水を引いてタービンを回す、いわゆるダム水路式発電だ。少し分かりづらいが、建屋後方に見える丸い煙突のようなものが鉄管内の急激な水圧上昇を逃がす調圧水槽(サージタンク)という設備である。下がいただいた資料の概略図だ。

多くの計器が並ぶ部屋に案内されて説明を受けた。東北電力の水力発電所は200個所以上に及び、全体を水力運用センターで遠隔監視規制している。水の流量・貯水量・落差が水力発電のかなめとなるわけだが、常に各所の発電量、ダム水位等を把握し、各発電所の運転停止、出力等の調整制御等を行っている。

ヘルメットと軍手を渡され、建屋に案内された。音がすごいですよと言われていたが、ホントにすごい。社員の方が私の耳元で叫びながら説明してくれるのだが、聞き取れない。写真が発電器機だが、地下のタービン(水車)と連動して回りながら発電する。地下まで行けば涼しいのかも知れないが、うだるような暑さが轟音と共に襲い掛かって来る。

 

 2 日本の水

 運転操作を開始して実際に発電するまでの「時間」がある。これが水力発電は数分と、他の発電方法とは桁違いらしい。また、水力発電は数ある自然エネルギーの中で、自然に負荷をかけない発電方法だという自覚を語る方々に、この仕事へのプライドを感じた次第である。

 福島原発からの「処理水」放出をめぐって、中国が「安全な水なら捨てることはないはずだ」という、私たちからすればズレた批判があったようだ。これは、日本での「湯水のように使う」という言葉が示すような、水事情の違いを表すとも思っている。日本の水使用の道は農業・工業、そして家庭用・飲料用にまで及ぶ。日本の水は、世界に有数の優秀な水である。だが、水が豊かな日本ではあっても、すでに開発が進み、技術的・土木的観点からすれば、電気事業用に水力発電所を建設できる場所は、ほとんどないらしい。自治体レベルの予算で設置できる川沿いの発電所や農業用水を利用したマイクロな発電などが実際に行われているのだが、そう簡単なことではないようだ。しかし、歯切れのよい自信に満ちた社員の方々の表情に、この日改めて、日本の水を考えるきっかけとなったことも確かである。

  発電所で仕事を終えた木戸ダムの水が、木戸川に戻っていきます。

 

 ☆後記☆

猛暑だったこの日、待ち合わせ場所になかなか到達できず、社員の方々を厳しい日差しの中で待たせてしまいました。携帯の電波が届くかどうか不安なのでと、目立つところに立っててくれたのですが、待ち合わせで失敗する私です。

伝言館から見える、この日の宝鏡寺。実は宝鏡寺脇の道を行くと、木戸川第三発電所はありました。

渡部さんが言うのです。オレたちが小学校の時、遠足は低学年が天神岬、中学年は木戸川の発電所に行ったもんだよ。みんなで弁当持ってな、と渡部さんの顔がほころびます。

 ☆☆

対馬市長の決断、すごいですね。市議会で通過した文献調査受け入れですが、僅少差だったことが「市民間の分断を招いている」と判断したこと。また、文献調査費用をもらった後の、いわゆる「食い逃げ」も同じ判断で一蹴したことです。お金の問題は「交付金20億円ではまかないきれない対馬の産業」と、具体的です。「感情論になってはいけない」とよく言いますが、こういうことなら納得ですね。


校風 実戦教師塾通信八百七十九号

2023-09-22 11:37:24 | 子ども/学校

校風

 ~子どもたちよ、輝け!~

 

 ☆初めに☆

前回に引き続き、子どもたちをレポートします。中学校における特別な全校行事は、体育祭です。もちろん、子どもたちにとって、です。体育祭が「特別」でない学校は、生徒にとってつまらない学校と言って間違いない。中学校は四年ぶりの通常開催体育祭の様子を、あちこち見たり聞いたりしています。熱い「校風」のように引き継がれている体育祭を始めとして、つまらない学校もあるのです(その年その年で生徒の様相は変わるので一概には言えませんが)。三年間のブランクを感じさせない、この日を待ってたゼ!的子どもたちの姿を見て、胸が熱くなりました。一枚の写真から一体どんなことがあるのか、見てみましょう。学校関係者にも、気が付いて欲しいことです。

 

 1 学ラン&裸足

 生徒数が多かった昔は四色対抗という団構成もあったが、今の体育祭は大体紅白対抗となっている。

私は先週の土曜、子ども食堂のため観戦できなかったが、先日の体育祭のワンショットが送られて来た。生徒の顔こそはっきりしないが、千葉県柏の住民でこれが馴染みの学校なら、一体どこの学校か分かるはずだ。

 まず注目するのは、男女揃って応援団が学ランであることだ。この漆黒の装束が健在な学校は、もう残り少ない。法被や袴も悪くはないが、男気を女も一緒に身にまとうのは「多様性」を標榜する社会にあって、これから難しくなるに違いない。それは置いといて、この学ランを女子がレンタルするにあたっては結構なドラマがある。兄のを借用というケースもあるが、レンタル申し出が相手への告白だったりと、それぞれエピソードを欠かさない。装着時はもちろんのこと、その手前にも熱くなるものが控えているわけだ。次が足元。「危険」&生徒のパワー不足のせいで、裸足というコスチュームも排斥されつつある。しかし、この応援団は裸足だ。胸の前で交差された腕(かいな)は、手首まで純白の布で覆われている。ずっしり落とした腰と共に、腕はこのあと空に前へと延びていく。そんな躍動と熱気が溢れかえっている。この日を待ってたゼ! 俺たちの場所だ! 声を挙げていいのだ!というオーラが弾けている。

 

 2 燃えよ若人!

 さて、団員の方を見てみよう。リーダーに習え的動きが覗いている。こちらは靴を履いている。注目したいのは、前回お伝えした「シャツ」だ。短パンに入れている者もいるが、みんな外に出ている。自然な立ち居振る舞いと言えるが、これがこの学校の伝統=校風だ。この学校にもいろいろな先生が出入りするわけで、これが続くのにも紆余曲折があったはず。実は簡単なことではない。その都度、子どもたちや子どもたちの声を聴ける先生たちが頑張って来た結果だ。マスクを装着する生徒もわずかだ。昨年、マスク着用・声なし・拍手のみの応援だったことを思い出す。

 これが学校によって、まちまちだから面白い。実際に見た(練習)ものや耳に入って来るものの中には、残念なものもある。前回に少し触れたが、一番過激だった学校は、応援団がジャージでリーダーシップを取っていた。クソ暑いさなか、このコスチュームで全校の前面に立っている。当然のようにマスクをしている。リーダー気取りの格好というわけではない。全校の半数近く、何故か女子の殆どがこの服装なのだ。マスクに至っては、上着を着ていない男子も右へならえで、ジャージを着ていない男子生徒の体操シャツを見れば、やはり、短パンの中に納まっている。コロナや流行り始めたインフルエンザの予防とでも言うか? 聞くところによると、体育祭実施後に大量の生徒がインフルエンザに感染したため、臨時休校にした学校もある。猛暑の中で練習が続いた疲労が、体力低下を招いたのだろう。しかし、マスクはともかく、炎天下、身体に熱をため込むジャージ着用が、病気予防であるはずがない。ちなみに、シャツ出し&マスクなしの学校と、ジャージ&マスクの学校、一校ずつインフルエンザ大流行である。大切なのは、ジャージ&マスクの生徒から見える「学校が嫌い」というオーラだ。という表現が激しすぎるなら「つまらない」でもいい。

 以下は私の好みの問題。開会式に歌われるのは、未だに「若い力」が圧倒的らしい。閉会式も「校歌」がダントツだという。この順が逆になったのは聞いたことがない。「若い力」が差す「みんな」は、世代を越える願い。普通は「燃えよ若人」なんて、若者本人が言わない。それを子どもたちが歌うからいい。後者は、ねぎらいの歌。ノーサイドでたたえ合う歌としてはもってこいである。この指揮を「今年は開会式は紅。閉会式は白」の形で続けて欲しい。紅白の団長が、揃って指揮しているところ、あれは美しくないですね。それは選手宣誓でやる形です。

 

 ☆後記☆

こども食堂「うさぎとカメ」も、先週の土曜は同じく燃えました。「キーマ」ってご存知でしょうか。「ひき肉」のことです。読者からの「検索しました」という連絡ありました。野菜も全てみじん切りにして、玉ねぎはあめ色になるまでじっくり炒め、美味しいカレーの出来あがり🍛 お代わりに来る人が「美味しい!」「美味しくて」と言ってくれる瞬間瞬間に、幸せを感じていました。ありがとうございます

これは皆さんの並んだ靴。右側にも同じ数だけ並んでます👞👟

オオタニさん、良かった。また元気な笑顔を見せて欲しいですね。前だけ向いてる。ホントにすごい

明後日は千秋楽。隆の勝、頑張れ


その後 実戦教師塾通信八百七十八号

2023-09-15 11:47:45 | 子ども/学校

その後

 ~様々な変化~

 

 ☆初めに☆

この夏、いろいろな場所から入って来ていた話をまとめます。例えば、休日の活動を地域に移行する部活動。千葉県の柏市では、従来の日当に匹敵する額が「時給」となります。ふたを開けてみると、これが顧問に対するものでなく、個々の部活への報酬だったようです。顧問がふたりいる部活は、報酬が半分になる算段です。多分に混乱はありますが、休日の指導を「断る」のが可能になった新しいシステムは、好意的に受け止められています。依然として、いやでも行かねばならないと考える職員もいるし、中には休日の部活に行ったら、翌日の月曜は休むと決めている職員もいたりで、当分、様々な問題も覚悟しないといけないと思います。みんな、それぞれの場所から声をあげて欲しいです。

 

 1 コロナと学校

 ブールのことを前に書いたが、今はもう中学校でも上半身を覆う水着を装着する(もちろん男子の話)傾向が強い。紫外線や猛暑を原因としたがるが、恥じらいに加え、裸というファッションはフィルターを一枚羽織ることでより引き立つ、という無意識のフォーマル意識構築に分がある、と信じて疑わない。いずれにせよ、胸を張って欲しい。

 マスクはどうか。どの学校を見ても聞いても、職員の率先した「マスクなし」行動の効果がはかばかしくない。コロナがもたらした「ソーシャルディスタンス」的世界、つまり「相手と距離を取らないといけない」世界は、相手を遠くからor後ろから見る日常を作った。この残暑厳しき折、校庭で!マスクを外さず、体育祭の練習をしている生徒を見ていてそう思った。驚くことは、女子に顕著なのだが、体操服の上にジャージを着ている生徒がいることだった。相手や現実への手ごたえの希薄感は、同時に自分を包み込んで守る思いへとつながっているように見える。身体に良くないぞ、という注意はしているのだろうが、そこは昔と違って強い指導はしていないのだろう。いいんだか悪いんだか。というより、やはりコロナは世界を大きく変えたのだ。面白いのは、昔ながら変わろうとしない指導のこと。

 体操シャツのことだ。短パンの下に入れること。多かれ少なかれ、このことは毎年と言わずとも必ず議論になる。学校にいる者/出入りする者は知ってるが、生徒は大体がシャツをパンツに入れている。今もだ。どうでもいい、コトではないんだ、学校では。「今までそうして来た」「決まりだ」「だらしがない」というのが理由だ。たかがシャツ入れ、普通は「決まり」として明文化しない。今どきあったら、どっかのバラエティー番組から血祭りにされる。仮に生徒手帳にあったとしても「生徒として恥ずかしくない服装云々」というムニャムニャ表記があるだけだ。しかし、積極的にシャツ入れを主張する方々は、確立している習慣=決まりと思っている。「決まり」は、要するに「今までそうして来た」と、さして変わりはない。では、これが繰り返し議論になるのは何故か。生徒が、うっとうしい/暑い/みっともない等々の理由で、繰り返し「違反する」からだ。そこに「指導」を入れる先生・入れない先生の違いが発生するからだ。「はっきりさせようじゃないか」というのは、大体シャツ入れ派。「このままでは真面目に指導した我々が損をする」なんて付け足しもする(損するならやめればいいのだが)。シャツ入れを「学校の根幹」として大真面目な顔する「学校的体質」の方が、本当の根幹なのだ。良識と熱情をあわせ持つ先生! 頑張って✊

 

 2 父親稼業

 私はその日の夕方、校庭に面した一階の特別教室にいた。テニスコートの向こう側から現れた黒い影は、ゆっくり校舎に向かってきた。近づいてくると、それが地面を引きずるような長い上着と袴のようなズボンを身に着け、ギラギラのパツキンにした集団だと分かった。集団がさらに近づくと、ここのところ学校で目にしていなかった2年生だというのも分かった。その時、特別教室にいた3年生の連中が、ゲ、逃げようぜ、と言ったのを覚えている。あとで分かったことだが、超ド級学ランで登場する理由は、学校と直接つながらないものだった。しかし、拠り所を失ったものの絶望がそこにはあった。自分たちがそうすることで自分たちが傷つくことはあっても、決して得にならないことも分かっていた。つまり、痛々しい決意があった。そこには、3年生に「逃げようぜ」と言わせる凄味があった。世界の全てが、自分たちを罵ると分かっている。にも関わらずする行為、これを自傷行為というのだ。30年以上前のことだ。

 引き継いだのは、これらを自虐的にした「なめ猫」か。次の代は素顔をさらすのを拒絶した「ガングロ」へ。でも、今の「スナチャ(スナップチャット)」は、仲間内or仲間づくりのコミュニケーションだ。拒絶する世界とは縁がないようだ。その後、ドカンや短ランで、学校を街を昼も夜も風のように吹いて回った男は、ふたりの子を持つ父親となった。上の子が夏休みに髪を染めた。高校生だ。お父さんのようにはならないよ、と常々言っていた子の「変身」である。夏休みが明ける前に黒くなおそうとする息子へ、そのまま学校へ行けよと父親は笑う。息子は最近、コンクールで賞金をもらうと言ってラップを始めた。うるさくてさ、と言いながら、息子の生活が少しまぶしいのだろう。高校ぐらい行っとけば良かったかな、とつぶやくのだ。

 

 ☆後記☆

楢葉の渡部さん家で、農協による子牛の認定を見て来ました。「鼻紋」というらしく、人間の「指紋」にあたります。それくらいに「鼻紋」は個別に牛を特徴づけるものです。その「鼻紋」をとる作業です。

牛の相場は、特に酪農(乳牛)関係ばかりではなく、やはり厳しいものがあるようです。高額で競り落とした雌牛が生んだ子牛の卸値は、その額の3分の1だったそうです。いや、親牛はまだ子どもを生むから、相場をどうこう言える段階じゃねえよ、という渡部さんの言葉をどう受け止めたらいいのか、分からないでいます。

元気な庭の畑。10月に収穫のものを植えたんだけどよ、と手前の大きくなったトウモロコシに困惑した様子。猛暑にやられたらしいです。写真では分かりませんが、キュウリのように大きくなった「白オクラ」もありました。

さて、明日はこども食堂「うさぎとカメ」ですよ。柏市内は多くの中学校が体育祭です。フレーフレー紅組🌞 フレーフレー白組🌈 明日発行チラシの裏側をお送りしま~す。

 


流言 実戦教師塾通信八百七十七号

2023-09-08 11:44:56 | ニュースの読み方

流言

 ~原則的視点~

 

 ☆初めに☆

ニュースでしか見ませんでしたが、昨日のジャニーズ事務所の記者会見で感じたのは、こんな時にさらされる「その人となり」でした。全員ではありません。馬脚を露すということです。この問題に限らず、弱者の必死の声は常に消されて来ました。この先を注視したいものです。かの社長様が他界した時、現役タレントもメディアも揃って、社長を「人格者」と垂れ流したのを思い出します。

同じ弱者でも、今回の記事は、原発内で発生した処理水/汚染水問題にまつわる弱者です。でも、カテゴリーは「福島からの報告」ではなく「ニュースの読み方」です。油断もすきもない。いま起こっている「処理水」問題は、国家間の戦略が入り組んでいます。でも、これは「ファクトチェック」の類ではありません。戦争はこんな風に準備される、ものとして読んで欲しいと思います。断りますが、私は「処理水」の海洋投棄に反対ではありません。何度かレポートしましたが、トリチウムについては、ほぼ安全と考えるからです。その上で今、実におかしい展開がされていると考えています。関東大震災から節目の百年と、様々な反省や提案がされていますが、この記事もそこにつながります。

 

 1 「処理水」と「汚染水」

 ALPS(多核種除去設備)の稼働したのは、2013年の3月。この半年後に安倍晋三先生が「(原発の)状況はコントロールされている」とスピーチし、オリンピックを東京に誘致したのは重要。事故直後、原発内に見つかった大量の高濃度汚染水は、当初10万トンと見積もられていた。ちなみに、現在タンクにストックされているのは、処理済みのもので130万トン。このALPS設置を境に「汚染水」は「処理水」と名称変更するのも可能だった。しかし、ニュースから「汚染水」は消えない。このふたつの水の呼び方の使い分けがデリケートな問題となるのは、当然のことだが「海洋放出」の具体的日程が打診される頃だ。処理水を放出する国が、それを「汚い」と言えるはずがない。ここに報道機関も横並びする。今までの報道「汚染水」が、「処理水」となる。オマエはトリチウムは安全だと思うのだったら、それでいいのではないか、と思う読者もいるに違いない。しかし、多くが報道しようとしない「汚染水貯蔵タンク満杯時期が延長された」ことを覚えているだろうか。当初、「夏には満杯」だったのが、降水量や施設改良に伴い、これが「早くても秋」、遅ければ「来年の春以降」に延びた。「一刻の猶予もない」のではない。漁業関係者や諸外国への説明・説得への時間が出来た。時間のある限り努力して欲しいという関係者の声は出ていたのだろうか。ニュースからそういう声が聞こえない=出ていなかった、とするのはまずいゾということは、以下に。

 

 2 関係者の沈黙

 今、メディア上をほぼ覆いつくしていると言ってもいいのが、日本から海産物輸入をストップする中国の動きだ。原発から出た水を放出することには、ロシアもだいぶ前から抗議をして来た。大統領が改選される前の韓国も、激しく反対していたし、「ビキニ環礁」の原水爆実験でひどい目にあった、南太平洋の人たちもそうだ。しかし、一貫してもっと強く反対して来た人たちがいる。日本の漁業関係者、とりわけ福島の漁業関係者だ。この人たちの声が今、一気に勢いをなくしている。現在、全面禁輸に踏み切った中国に対し、政府は「非科学的」であると、語気も荒々しく批判をしている。確かに非科学的なんだから、批判は正しい。しかし、これを聞いている漁業関係者はどう思ったのだろう。彼らは海洋放出に、一貫して反対して来たのだ。オメエらは何も知らないのかバカ者どもが、と面罵する中国への批判をどんな気持ちで聞いていたのだろう。相手こそ中国だが、これでは自分たち漁業関係者の立つ瀬がないと思うはずだ。オメエらも中国の片棒を担ぐ気か、と言われている気分ではないのだろうか。放出反対の声も小さくなるのは道理だ。そして、中国が「処理水」問題を外交問題にすり替えているという日本の批判は、大方の国民を味方に付けようとしている。いつの間にか、全ての問題が原発事故に起因しているなんて忘れている。漁業関係者が望むのはケンカではなく、漁業者が報われる平和的な外交だ。漁業関係者はどっちが正しいなんてことは、多分どうでもいいと思っている。海洋放出まで猶予のある期間に出来ることはあった、と思うはずだ。ちなみに、岸田先生は「処理水」を海洋放出する四日前に、福島に来ていた。しかし、東電幹部と面会はしたものの、漁業関係者との面会はしなかった。

 大切なこと、それは私たちの気づかない間、私たちは国の対立に巻き込まれること、そして、ある国に対する批判(憎悪)を育てかねない、ということだ。漁業関係者の沈黙は、それを教えている。

 

 3 関東大震災

 物事の判断を予断で行うのは、判断にあたっての材料不足と、時に伴う不安があるからだ。発生から百年の関東大震災を特集するニュースが、多く組まれている。我が千葉県でも福田村(現・野田市)での虐殺行為が、取り上げられている。想定外の災害に見舞われた時、増幅する焦りと不安の中での、危険な判断が指摘されている。噂(SNS)や、発信源の不確かなものではなく、国・行政から確かな情報を得る等、といった提案がされている。しかし、だ。

 今回の「処理水」放出問題もそうだが、原発問題で忘れていけないことは一杯ある。震災当時、中国人が被災地で泥棒を働いている、という噂があっという間に広まったことがひとつ。ニュースになったのは一部だったが、被災地での拡がりには驚くほどのものがあった。被災地のおばちゃんたちが、中国人がやったなんてことはねえよ地元の人間のやったことだ、と一蹴したのは、ここで何度か書いた。見える場所で確かめることを思い知った。

 まだ大切なことを忘れてはいけない。確かな情報源であるはずの国が、原発事故の時、全く役に立たなかったことだ。「原発は心配ない」「直ちに健康に影響を及ぼすものではない」と繰り返した国・政府を誰も信用せず、「自主的避難」を、首都圏に及ぶ多くの住民は選択した。これを流言に惑わされた人々、とは言うまい。貴重な反省が、この時期に取り上げられなかったのは、極めて良くないことだった。

 

 ☆後記☆

海洋放出問題に関し、福島で必ずと言っていいほど聞いたのは、漁業関係者の分断でした。漁業補償を巡るいさかいです。真面目に漁に出てない人間が補償金をもらってる、というのです。こんなのは、汚染水問題がなければ出ません。「お金が絡むと嫌なことばかりだよ」と、もう10年も前の二ツ沼直売所のおばちゃんの言葉を思い出します。

暑くて……今年は植えずにいたコキアですが、ようやく植えました。たった二株ですが、やっぱりかわいいですね

もう一枚は、火事ではありません。秋を感じさせる見事な夕焼け でも、今日の台風のあとは、猛暑だとか……

 


寄り添う 実戦教師塾通信八百七十六号

2023-09-01 11:21:40 | 子ども/学校

寄り添う

 ~二学期を迎えて~

 

 ☆初めに☆

今日から二学期。前回予告した「命を大切に」という呼びかけについて考えます。子どもの自殺する事件が多発した時期も、この言葉は使われました。文化人・著名人と呼ばれる人たちが、「子どもたちよ、死んではいけない」と、穏やかでない顔と文章で訴えました。死ぬこと以外に道がない/死のうと思う/死んでしまいたい/生きていてもしょうがない/生きる気力がない/生きてる意味が分からない等々、子どもたちの場所は様々で深刻さの度合いも様々です。当時も今も、子どもたちの話をろくに聞かないうち「死んではいけない」って一体何なの? と思っているのは私だけなのでしょうか。子どもたちに私たちの声よ届けと思う前に、私たちが子どもたちに寄り添えるのかどうか、それが問われているんだと思います。子どもたちの「サインに気づく」こととは、全く別なことです。

 

 1 必要な状態

 今のように子どもたちが粗末に扱われる時代であっても、親の大体は「子どものため」に生きている。多くが母親の責任として処理されてしまっているが、この「大体」の枠にはまらないケースもある。

新しい彼氏との生活選択(育児放棄)、ホストへ貢ぐため風俗営業( 〃 )や育児への絶望(虐待)等々、

これらと普通は一線を画して、親は「子どものため」に生きている。しかし一線を画そうがなんだろうが、子育て中の親は、これが難しいことを分かってる。この時期取り上げられる、登校しぶりや不登校で考えよう。

 「教育」とは「今日行く」ことで、毎日を続けることだとは、どこで読んだのだろう。この当たり前に続けることが、突然出来なくなる。病気ではないのに、本人は明らかに変調を来す。この時、私たちが必要な初発の認識は、

「この状態を、この子は必要とした」

ことだ。自分にも分からないことに向き合う方法として、この状態を子どもは選択した。この認識があれば、子どもや自分(親・教師)を責める危機から逃れられる。同時に、こんな時必ず悪無限的に繰り返す、言い訳と原因分析を回避出来る。原因が分かって平穏を手に入れる場合もあるが、多くは原因が不明瞭である。大切なのは、不安を感じる本人の気持ちに寄り添えるかどうかだ。手が汗ばんだり胸が高鳴る子どもは、多くがわけも分からないでいる。必要なのは、原因でなく「安らぎ」である。この子は自分の中に発生した正体不明のものに対するため、手が汗ばんだり胸が高鳴るという「方法」を選んだ。家で大暴れするとか、カッターで手首を切るとかいうのでなく、手の汗や胸の高鳴りを選んだ。暴力や自傷行為より汗の方がましだ、なんて言ってないゾ。どんなに暴力的or危なく見えようが、それが本人の選択した「解決法」なのだ。どれも、本人にとっては「大仕事」だ。つまり例えば、胸が高まる動悸の仕事をお手伝い出来るかどうか、大人は問われた。一体なにがあったのか/わけを教えなさい/この先どうするつもりなのか等々、子どもの周りでうろたえるのは、この子の仕事の邪魔することであって、お手伝いと言える代物ではない。

 

 2 「命を大切に」?

 寄り添う態度のひとつは「そっとしておく」ことだが、難しい。放っておくことではないし、はれ物に触るようなものでもない。戦っている子どものそばにいるものの役割は、いつでも子どもの声を聴ける場所にいることだ。安心は、親(大人)が心配するより、そばにいる中から生まれる。断りますが、両親がフルタイム勤務では不可能だ、なんては言ってませんヨ。親(大人)が見える場所で悩んでるのなら、声を掛けて欲しいのだ。悩む姿を見せる相手として自分は選ばれたと、しっかり受け止める。ここからである。「オマエの味方だよ」という言葉は、こういう時に使う。悩み苦しむ姿を、その原因のもととなる場所では見せない、救って欲しい場所で見せるからだ。子どもの苦しむ姿が見えない時、親(大人)は距離を置かれている。子どもの気持ちが緩むまで、残念ながら遠くから見ている以外にない。

 最初に書いたが、二学期開始前に必ず「命を大切に」なるメッセージが巷にあふれる。いま精一杯の人間に、こんなにいい加減な言葉がどの顔して出て来るのだ。広島長崎や(ウクライナ)戦争、そして有名無名の人々の、命にまつわる話を説いて聞かせる。君の悩み・不条理は必ず解決できる、生きたくても生きられなかった人々の口惜しさ無念を考えよう等々。いやあ、僕はそんな大変な人ではありませんと、悩みの渦中にある子は言うだろう。そして、あなたがたは、僕のことを聞いても分かってもくれない人たちですね、と思うはずだ。「命を大切に」を強弁する人は、恐らく誰にも通用する言葉や世界があると勘違いしている人たちだ。それに対し、不断に寄り添うものは、そんな時どんな言葉をかけたらいいか(「どうしようもない」ことも含め)、そしてそのチャンスが一瞬であることも分かっている。「何かあった?」「お母(父)さんに話せる?」……これらが無理だと思った時、そしてその後、そっとしておく前に「今日の夜(ご飯)は何食べたい?」「今日の晩御飯はカレーよ」と声を掛けることが出来る。この時この間、この親(大人)は、ずっと子どもの声を聴いている。顔を伏せていようが、こちらを向いてなくても、子どもはしっかり話を聴いているし、メッセージを送り続ける。寄り添うことで、道はいつか開ける。

 

 ☆後記☆

さて皆さん、二学期一日目どうでした。夏休み中の緊急連絡がなくてホッとしました、と大体の校長先生が言っていて、今日はどうだったかなと思います。中にはずい分やせてしまった校長先生もいました。猛暑はしばらく続きます。学校のエアコンはしばらくフル回転だし、体育祭も午前中で終了します。そうだ、相馬野馬追祭りも五月の開催になると、正式の決定です。ふざけるな地球!って、悪いのは人間、特に「先進国」の人間ですけどね。

今月のチラシお届けします。キーマカレー、初めてです。でも副菜はカレーと来れば、定番のフルーツヨーグルト。辛い&涼しい、今月の「うさぎとカメ」で~す。二学期もよろしく

福島に行って来ました。さて、昨日の農水相「汚染水」発言の中からも、この間の政府・東電の思惑ははっきりしているのです。明確な策略の下に「処理水」は放出されてます。福島でも熱く語って来ました。次回にレポートします。

そう言えば安住アナウンサー、「ストライキは労働者の歴とした権利だ」と言ったそうで。やっぱり違うんですね。