実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

いじめを防ぐ?  実戦教師塾通信三百六十九号

2014-03-30 00:52:57 | 子ども/学校
 遠い子どもたちⅨ

     ~いじめ防止対策推進法をめぐって(上)~


 1 袴田裁判


「再発防止につとめます」
のあいさつのあと、深々と頭(この場合は「こうべ」と読んだ方がいいかな)を下げる場面を、私たちはいやになるほど目にして来た。これが<学校化>社会の象徴的(しょうちょうてき)場面と言えるのかもしれない。
 <学校化>というカテゴリーは、メキシコのイリイッチ思想の中から山本哲士が抽出(ちゅうしゅつ)・紹介したものだ。
「学校とはこういうものだ」
と、学校は学校自身の枠(わく)づけをする。それに対応して、
「一体、学校は何をしているのか」
という声が必ず、その時その時、周辺にたちあがっている。それで、学校の内側と外側両方から<学校>は強化され、作り上げられる。学校がいったん出したものをなかなか引っ込められないのは、そういう背景があるからだ。ことは学校に限らない。社会が<学校化>しているからだ。< >の中には、学校ばかりでなく、病院や個別企業(トヨタなど)が入ってもいい。

 私もいつの頃からか、袴田というプロボクサーに関心を持つこととなった。「再審決定」のニュースが流れた時、私は思わず「やった!」と叫び、拳(こぶし)を振り上げてしまった。
 いったん出した結論を疑い、考えることが難しいのは、そこに結論を出したものの責任と立場があるからだ。その立場と責任とやらは、さきの<学校化>から生まれる現象である。
 袴田裁判に重ねてみよう。判決を出したものの立場が、時によっては人の命より重いという現実が生まれている。そしてその時、警察・検察・裁判所は、
「人の命を奪(うば)うことになる『死刑』というものを、簡単に出したのではない」
と、結論に執着(しゅうちゃく)する。無責任なくつがえしは出来ない、ということなのだ。まったくひっくり返っている。

 さて、いじめのことだ。もちろん大津ばかりではないが、滋賀県大津市の事件は、初めは例のごとく、
「いじめの事実はなかった」
に始まる。読者は覚えているだろうか。この事件、初めは「転落事故」だったのだ。そして次は、
「自殺といじめの因果関係はない」
と結論。そのあとは必死にこれにしがみつく展開となる。それはまるで、
「人がひとり死んでいる。だから簡単にくつがえせない」
と言っているかのようだ。その姿は、多くの冤罪(えんざい)事件で「死刑」を選択した検察と同じように見える。
 そんなことのないようにという、もともとはこの大津の事件が発端(ほったん)となって、「いじめ防止対策推進法」は出された。この法案の持つ限界をここで示しておく必要がある。


 2 いじめ防止対策推進法

 読者はニュースぐらいでは知っていると思うが、多くの方はこの法案を読んでないと思う。時間があったら読んでもいいが、その必要はない。今までやられてきたもの、語られてきたものとほとんど変わらないのだ。要は、大津みたいなことにならないようちゃんとやりましょう、というものを出ない。
 まず法案は、いじめに関する報告・調査を義務づけている。これは、これらのことに関して滞った(とどこおった)ことの反省から出ている。
「報告がなかった」
「調査(するかしないか)を検討する」
事例があいついだからだ。では、今までそれらが文言(もんごん)として、自治体ごとに、そして学校ごとになかったのか。そんなことはない。どこでもそんな「当たり前」「常識的」なことはあった。それでも、
「おおごとを恐れる」
「決断を回避(かいひ)する」
学校では、そのことが滞った。ということだ。だから目新しいことと言えば、インターネット上のことも調査・指導の対象とする、ということぐらいだ。
 今回、文科省の気合の入っているところは、各自治体、そして各学校ごとでの取り組みを出させるところにある。
「私たちは本気ですよ」
ということだ。このことを受けて今、各学校はこのマニュアル作りを終えた、またはもう少しで終えるところである。では、この取り組みは功を奏するだろうか。私はもちろんまったく期待できないと思っている。ふたつの点でダメである。

① 文科省と同じく、現場では、
「今までと同じものを出すしかない/同じものしか出せない」
と思っている。
② 基本的な姿勢が、
「子どもには分からせるしかない」
というもので、
「子どもを理解しようとする姿勢がまったくない」
からである。

これらの対策は、これから各学校のホームページに立ち上がる。読者もこれらの対策を読めばはっきりと分かるはずだ。
 でも、あらかじめここで、千葉県柏市教委の出した「策定(さくてい)の手引き」を使って検証してみよう。ぜひ読者は参考にして欲しい。


 ☆☆
というわけで、続きを次回の「下」で論じます。そしてその「限界」を検証します。ちなみに教育長には私の考えを聞いてもらいました。いつもうなずいて聞いてくれますが、もちろん肯定(こうてい)して聞いているわけではありません。私に言いたいことはたくさんあるはずなのですが、そこは慎重(しんちょう)なのです。立場のある人だからな、と私は素直(すなお)に思えます。今の教育長には「覚悟(かくご)」が感じられるからです。少なくとも学校の「エライ」人には、大体そんな覚悟はありません。

 ☆☆
冤罪と言えば、あのカレー毒殺事件て、あの判決で良かったのでしょうか。林被告って犯人なのでしょうかね。状況証拠だけでの判決です。それに、
「私たちは保険金詐欺(さぎ)のプロ、お金にならないことはしない」
と林被告の言った通り、動機がないんです。
「ひどいことをして来たんだから死刑でもしょうがない」
みたいに、私たちも流されている気がしてしょうがないのです。

 ☆☆
なんかバタバタして、真夜中の更新(こうしん)となりました。3月もあと一日、いいとも最後のゲスト、ビートタケシですね。
いわきの桜はまだです。公園の桃の花です。
            

三年が過ぎて(下)  実戦教師塾通信三百六十八号

2014-03-26 18:45:35 | 福島からの報告
 三年が過ぎて(下)

      ~奇妙な非現実感、そしてゴジラ~


 1 私たちの疲労


「オレは素直(すなお)に喜べねえなあ」
オリンピック招致(しょうち)が東京に決定したあと、知り合いがそう言った。昨年9月のことだ。目が覚(さ)めた。今までに何度も聞いた言葉だ。しかし、これは福島ではなく、千葉柏の地元で40を目前にした、二人の子どもを持つ父親の言葉だった。いや、中学校時代はシンナーと暴走でこの辺一帯を流した、いわゆる「ビーバップ」の先頭を切っていた男だと言った方がいいのかもしれない。そして今も、全国の祭りを渡り歩き、仕切っている男の言葉だった。
 東京でのオリンピック開催(かいさい)を、少なくとも反対でなかった私は、一瞬恥ずかしさを覚えた。しかし同時に思った、そして気がつくのだ。私たちは疲れている、と。震災、とりわけ原発事をめぐって私たちはどれほど考えただろう。私たちは行き着くところを見いだせないまま、いらだち、もがいた。だいぶ前のことだが、コンビニで「プチ贅沢(ぜいたく)シリーズ」が並び始まった。それを経営者が、
「消費者が『節約指向』に疲れたのでしょう」
と分析(ぶんせき)していたが、そんなことを思い出した。これをオリンピック賛成の言い訳ととられるだろうか。しかし、私たちは少なくとも原発事故の後、どこにも解決のカギを見いだせていない。
 先日、私の新刊本のお祝いの会があった。ついでにここで再び宣伝。
          
あとがきから読んでもらってもいいかな、などと思います。「私たちは日本一なんだ!」の部分、好きです。ぼちぼちありがたい感想も届いてて嬉しい。まだの方はぜひどうぞ。
 このお祝いの会で、少しばかり熱(あつ)くなった。しかし、私にはまたしても不毛なやりとりとしか思えないことだった。
「年間被曝1(20)ミリシーベルトは安全(安心)か」
同じことだが、
「安全な数値といって、それは科学的な根拠があるのか」
というものだ。こんな議論(ぎろん)が、もうどこにも意味がないことを私たちは分かっている。おそらく大切なことは、私たちの手元に届くことが、
「隠蔽(いんぺい)というベールに覆(おお)われているから」
というものではない。それが自分にとって、
「切実な問題かどうか」
で、私たちは結論や行動を決定しているように思える。限界値が「1」だろうが「100」だろうが、それが人々を動かす動機にならないことを、私たちはこの3年間で分かった気がする。都知事選でそのことを思い知らされたのだ。
 私たちは疲れている。そのことは間違いない。一体何を信じたらいいのだ、という思いで私たちはこの3年間を生きてきた。


 2 ゴジラ

 原発事故の後、3年間で作られたと思える、奇妙(きみょう)な「リアリティの無さ」に対して、私に異様なまで恐怖(きょうふ)に誘ったものがある。映画『ゴジラ』(1954年)である。今月上旬にテレビ(BS)で何度か放映されたこの映画を、読者は見ただろうか。
      
 私はまず、この映画の中で口にされる言葉に唖然(あぜん)としてしまった。
「本当(ゴジラ)のことを国民に言う気なのか。そんなことをしたら大変なことになる」(国会内での論議)
「疎開(そかい)が終わったと思ったら、また疎開か」(ゴジラから避難する人々)
「海岸線に高圧線を設置し、そこでゴジラを防ぐ。だから、そこから500メートル圏内の人たちは避難してください」(対策本部)
そして、ラストの志村喬の有名なセリフ、
「あのゴジラが最後の一匹とは思えない」
である。
 驚いた。まさしく今起こっていることが、60年前に映像になっていた。この時のゴジラは怖(こわ)かった。まったく無表情なゴジラは、この一作だけだった。怒るでもなく熱くなるのでもない、ただ無表情に海岸を東京を荒し回るのだ。服部セイコーも日劇に対しても、なんの感慨(かんがい)などあるはずがない。都電の電線の間から姿を見せるゴジラ。人々の驚愕(きょうがく)と恐怖、そしてそれと対照的に無表情なゴジラがリアルなのだ。そこには、
「どうにも出来ない」
という「絶望という名の恐怖」があった。
 自衛隊が出撃(しゅつげき)した時、60年前の幼い私たちは、館内(かんない)にこだまする拍手でこれを喜んだ。しかし、それも無表情に、そして無残(むざん)に打ち砕(くだ)かれる。なんということだ。同じだった。つい3年前、自衛隊のヘリコプターが原発に放水する場面を、私たちは神に祈る気持ちで見ていたはずだ。私はこの日、わざわざ部屋を暗くして見たゴジラにおびえたのだった。


 3 聞いて良かった

① 森大臣
 少子化担当である森雅子大臣が、福島出身であることを知っているだろうか。弁護士畑である森大臣が、秘密保護法案成立のためにずいぶんと頑張ったため、地元福島でも落胆(らくたん)の声がかなりささやかれた。
 それがつい先日、「お忍び」で福島にやってきた。SPこそ付いてきたというものの、なんと電車で来て、そしてこの第一仮設住宅に泊まっていったという。周囲に連絡をしなかったということもあるのだろう、集会所で会長さんと話した時は会長さんと数名だったという。

② 利権
 久之浜の景色を何度かここでも紹介(しょうかい)した。この景色を覚えていると思う。
           
海岸近くの山が土の肌を見せているのは、地震で崩(くず)れたせいか、と久之浜を訪れた人たちに聞かれた。見て分かると思うが、これはまるで崖(がけ)のように見えた。それで私は、崖ですね、と無責任に答えていた。違っていた。地震で山が半分削(けず)り取られたものだったのだ。
 写真は、新しいプレハブ建築も含めて、津波の傷跡(きずあと)を示すものとなっているが、震災前だったら高台からの絶景ポイントだった。この高台の道は、このあと大きくUの字を書いて下の道に続く。わざわざ海をめぐって180度回転しながらおりる道なのだ。
「まっすぐ下の道におりればお金は半分しかかからなかったのによ」
「地主と土木会社がくっついたのさ」
そう会長さんが言った。
 今、この地区に続く道は、山の上を使ったバイパスとして工事が始まっている。
「ただの山だったのが、今はとんでもない金が地主に舞い込んでるよ」
会長さんの舌はなめらかだった。
 

 ☆☆
21日の「いいとも」見ましたか。最後のキムタクの電話ですけど、ありゃなんなんですかね。ネット上でも話題になったようですが、やな感じぶっちぎりって感じですね。安倍首相を嫌い、反原発のひとキムタクってんなら分かりますが、それはあり得ないでしょ。いつまで「視聴率ナンバーワン男」にしがみついてるんですかね。終わったんだよ。何度も言いますが、私、大のキムタクファンでした。それが『華麗なる一族』(2007年)で初めて違和感を持ちました。それから坂を転げ落ちるように「嫌い」となり、今回のいいともで、ウルトラになっちまいました。あの人、まったく分かってないですねえ。勘違い男です。ったく。

 ☆☆
前回のブログへの「泥子」さんのコメント、読んでいただいてますか。あの傲慢(ごうまん)なやりとりの主は、市長でなく、いわゆるスーパーバイザーとか言われる「専門家」(!)でした。たいした違いはないとも言えますが、もしかして裁判、のような事情を抱えている場合は違います。反省した次第です。

 ☆☆
そうなんですねえ。ブログ開設して3年です。様々なことがあったのは、きっとみなさんも同じだったと思います。今は、福島に向かったこともあわせて、良かったと思えます。背番号のないエースさん、ありがとう。

無念『チームバチスタ4』  実戦教師塾通信三百六十七号

2014-03-23 13:20:21 | 思想/哲学
 無念『チームバチスタ4』

     ~命の重さと死~


 1 初めに


 『チームバチスタ』最終回を見て、やっぱりどうしても書いておかないと、と思った。教え子から、いつもダメ出しばかり、と言われる私だが、今回はきっとマックスになる。これでまた教え子が落胆(らくたん)すると思うが、残念だ。
 このシリーズに私たちは期待しすぎたのだろうか。『チームバチスタ』は今回がファイナルだった。気合を入れていた役者たちの奮闘(ふんとう)意欲に、まったく応(こた)えられなかった今回の原作(脚本)は、大いに反省して欲しいと思うばかりだ。最大のポイントは、このドラマが中途半端(ちゅうとはんぱ)だったということだ。ヒューマンなものでも、サスペンスでもなかった。
 15年前、80歳になった母に勧(すす)められ、私は尊厳死(そんげんし)協会に入会した。私もそれなりに終末(しゅうまつ)のことを考えているつもりであるが、そんな立場からしてもまったくいただけなかった。


 2 終末医療?

 このドラマは「明日ママ」のような議論にはならない。あくまでヒューマンな事柄(ことがら)を否定してないからだ。露悪的(ろあくてき)、絶望的な時世に乗っかって、まさしくその方法的な元祖(がんそ)と言えるどっかの脚本家のドラマではない。視聴率上がれば勝ち、みたいなことを動機としているドラマではなかったはずだ。
 今回のドラマをヒューマンなものとして制作しようとしていたのなら、そこで決定的に欠けていたことは、

① 安楽死・尊厳死の抱える困難と向き合うこと
② 命の深みに向かうこと

だ。②には①が含まれるが、大きく言ってこのふたつだ。
 その前に、まず感じたおかしいことは、終末期の患者がみんな元気なことだった。確かに、けっこう元気な人が「余命半年」と宣告されたりして、その通りになる現実はある。しかし、この「碧翠院」にいる患者はみんな歩いて、話していた。私も六十の半ばを過ぎた立派な高齢者である。だから終末期を迎(むか)えた身内(みうち)&知り合いや先輩たちをたくさん見てきた。ベッドでの様子を見て、首の向きを変えることがこんなに大変なことなのか、ということを知った。また、「手をあげる」「声を出す」ことの大変さに驚いた。ところが、このドラマの患者はみんな寝たきりどころか、立って、しかも歩いている。緩和(かんわ)ケアなんて、ドラマのどこにあったのだろうか。そして「患者の生きがい」と称して、病院の調理を担当している。きっと実際そんな病院もあるのだろう。しかし、これが終末期の患者ばかりいる「終末医療の病院」とは、信じがたいを越えて、ある程度事情を知っている視聴者ならばあきれたのではないだろうか。グッチの、
「昨日まではあんなに元気だったじゃないですか!」
とは、その通りで、少し強引(ごういん)にすぎないか。まあそれは、グッチが言うところの意味の強引さではなく、ドラマの展開そのものだ。それならサスペンスドラマと割り切れば良かった。ミステリアスな展開に徹(てっ)するべきだったと思える。私たちはこのドラマの行く手に、「命」か「サスペンス」か、どちらかを待ったのだと思う。私たちはなんとも中途半端な状態のまま、画面を見ていたのだ。そしていつの間にか、ずいぶん緊張(きんちょう)を欠いて画面を観(み)ることになった気がする。


 3 安楽死と尊厳死

 一体、このドラマを見て、「安楽死」と「尊厳死」の区別がついた人がどれだけいただろう。多分、その区別のないまま、
「人の命を簡単に奪(うば)っていいものだろうか」
などと思ったに違いない。大体、左時枝がラストで、
「管(くだ)だらけになって生きたくない」
とつぶやくのだが、はなはだ誤解を生むセリフだ。あれはおそらく、
「意識のないままで生きていたくない」
という意味の言葉だ。その不安から逃れることが「安楽死」への願いにつながっている。あんなに「元気な末期の患者」がそう言うことは、
「元気なうちに殺してください」
を意味している。水野美紀の、
「今夜しか(安楽死の)チャンスはありません」
という信じがたいセリフがそのあとに出る。これがサスペンスならいい。しかし、ドラマは十分ヒューマンな空気を流していた。一体患者の意思がどこにあるというのだ、と私たちが思っても仕方があるまい。実際そんな事例があるのかもしれないが、このドラマのテーマからは縁(えん)のない流れだった。
 尊厳死で考えてみよう。大きいニュースになった、富山・射水市民病院の「安楽死・尊厳死」事件がある。末期ガン患者が7人死亡するという事件だ(2007年)。これは人口呼吸器を医師が外(はず)すというものだった。家族は(一部)同意していた、ということは記憶しているのだが、どうにもあいまいな部分がずいぶんあった気がする。
 「尊厳死」は、

○点滴(てんてき)・酸素吸入までは終末治療として受けいれる
○苦痛を和らげるためなら、死期を早めても麻酔・麻薬治療も受けいれる

という理念を持つ。二点目がいわゆる「緩和ケア」の一部で、よく安楽死と混同される。この考えからすると、この射水病院のとった方法は違う。これでは「安楽死」である。
 さて、この尊厳死の考えに対して、

「『脳死判定』と同時に出されてきたものとして許されるものではない」
「社会に役立たないものはいらないということを理念としている」
「意識がないと言っても蘇生(そせい)した例はいくらでもある」

等という批判もある。三点目で思い出すのが、1975年のカレンクインラン事件だ。世界の注目を集めたこの事件は、偶発的だったが、睡眠導入剤(すいみんどうにゅうざい)とアルコールを同時に服用してしまった事件だ。彼女は植物状態になり、その後の両親の訴え(うったえ)を裁判所が受けいれ、彼女は酸素吸入器を外される。ところが、彼女は自発的に呼吸を始め、それ以後9年間生き続けた(意識が回復したわけではないが)。
 世界は二度注目した。一度目は両親が我が子の安楽死を申し出て受けいれられたこと。もう一度は彼女が「生き返った」ことで、だ。


 3 「敗北としての死」
 
 肝心なことは、死に向かう/向かっている当事者(たち)の中にある。まったく個別/個人的な、そして逆らうことの出来ない絶対的な出来事-「死」-をどう受け入れるか、私たちは苦慮(くりょ)している。この出来事-「死」-に対して、私たちは多くの場合「不幸な出来事」ととらえる。「敗北としての死」がそこにある。そこを乗り越えようとする時、私たちは「医療」や「科学」ではない場所を糸口にしようとする。死をめぐる論議が、「倫理」や「宗教」に傾くのはそのせいだ。ドラマが安っぽさを出してしまったのは、まさにこの点においてだ。院長と「碧翠院」が、一体どれだけ患者の「命-死」と向き合ったというのだろう。「死が最善の道」という結論を出すまでの患者とのやりとりは、まったくスポイルされていた。「安楽な死」を選んだ患者に「死」は「敗北」のままだった。その後、とってつけたような「幸福な装い(よそおい)」がやってくる。実はこの幸福は、死の前に可能だったことはドラマでも証明している。患者に周辺がしっかり寄り添っていれば、これは可能だった。しかし、なぜか院長は「死に急いだ」。「自分の父親の苦しむ姿を見た」からと、あまり積極的とはおもえない動機を語る院長に、なぜか白鳥も反論する言葉を持たなかった。 
 ラストが院長夫婦(息子も)の心中とは、なんとも言いようもない。法的なことはもちろん、道義的な正当性も何も語らず去って行った。

 これがファイナルとは……残念。


 ☆☆
すべては制作サイドの問題ではあっても、申し訳ないほどずけずけ言ってしまいました。仕事とはそういうものなのだ、と私は勝手に思うしかないですね。スタッフ・キャストのみなさん、お疲れさまでした。

 ☆☆
前もいいましたが「館山いじめ問題を考える会」のブログ、読むことをお勧(すす)めします。私もついため込んで先日まとめ読みしました。このブログにコメントくださる「泥子」さんのブログの3月5日号は「圧巻(あっかん)」です。石井敏宏議員が請求して入手した資料にある、市長と副市長のやりとりです。

Q1、再度保護者会を開いて自殺したことや分かったことを説明するのはどうか
A、やめた方がいい。何を告(つ)げるというのか。(以下略)
Q2、父親が市教委に、…略…対応マニュアルを示して欲しいと言っている。
A、マニュアルを出せと言うなら、文科省のマニュアル等を渡せばいい。言われたことをすればいい。細かいことをやることはない。
Q3、議員や議会からの質問にどのように答えたらよいか
A、出せるのは警察から出された自殺ということでしょう。警察は事件性なしと言っている。このことだけを伝える。

一部紹介しましたが、どうです。すごい迫力(はくりょく)と言えますね。人はここまで出来る・言えるという例でしょう。「我が辞書に『誠意』という言葉はない」って感じですね。

 ☆☆
とうとう最後の給油(きゅうゆ)をストーブにしました。もう灯油は買いません。晴天のお彼岸の一日です。今日もおはぎを食べます。

吉本隆明を偲ぶ  実戦教師塾通信三百六十六号

2014-03-19 11:38:34 | 思想/哲学
 吉本隆明を偲ぶ

    ~『横超忌(おうちょうき)』~


 1 偲ぶ(しのぶ)会


 吉本隆明が亡くなってちょうど二年(命日は16日)になる。
          
 火の秋の物語   
   -あるユウラシア人に-

ユウジン その未知なひと
いまは秋でくらくもえている風景がある
きみのむねの鼓動(こどう)がそれをしつているであらうとしんずる根拠(こんきょ)がある
きみは廃人(はいじん)の眼をしてユウラシアの文明をよこぎる
きみはいたるところで銃床(じゅうしょう)を土につけてたちどまる
きみは敗(やぶ)れさるかもしれない兵士たちのひとりだ
   ………以下略………
              (『転位のための十篇』より)

 NHK朝の連続ドラマ『あまちゃん』が終わった喪失感(そうしつかん)にとらわれた現象を「あまロス」と呼んでいるが、私たちの「隆明ロス」は続いている。
 17日、その二周忌『横超忌』が、東京・麻布台であった。『現代史手帖』の執筆(しっぴつ)者が中心と思われる、そうそうたるメンバーの集まりと思えた。私としては、あの人はこんな顔だったのか、という経験をさせていただいた感のある集まりだった。60~70人ほどの人が、隆明を慕(した)い、悼(いた)み、囲んだ。
          
祭壇におかれた「横超」というラベルの酒が、一体どこの酒蔵のものだったのか、最後まで分からなかったのが心残りとなった。この「横超」とは、
「他人の力(この場合は『仏の力』)によって、一気に浄土(じょうど)に往生する(いく)こと」
である。隆明を偲ぶために、この名前が使われている。うまく命名するものである。
 隆明が「特筆すべき三人の詩人」とあげたなかのひとり、吉増剛造があいさつ。私が若い時に、クラスの「学級便り」の冒頭を飾る詩として使わせてもらったことも何度かあったはず。まだ生きていたのかなどと失礼なことを考えてたら、まだ十分に元気だった。
 「絶叫(ぜっきょう)の詩人」として名高い福島泰樹は、この号の頭に引用した『転位のための十篇』を朗読。「いつもより遠慮(えんりょ)がちに読んだ」とは本人の弁であった。吉増と同い年ぐらいかと思ったら、なんと私より五つほど年下で、吉増より10も年下だった。分からんものだ。


 2 昔話

 結局、お前はどの飲料(いんりょう)を常用するかと問われたら、紅茶かコーラと
言うよりほか仕方がないのではないか。なぜなら、少年のとき飲んだおいしい井戸水
や、岩づたいに落ちてくる天然水の味を連想したのは、このふたつだったのだ。それ
が果たして当たっているのかどうかも、年寄りの鈍った(にぶった)味覚のせいでそ
う思えたのかもわからない。また特別、このことで自己主張をしたいという見識もな
い。それでは無意味だと言われたら、そんなことはないよと、答える。
                (雑誌『dancyu』より)

 こんなふうに隆明は、昔話をしてもそれで終わることがない。それですませたことがない。そして、「武勇伝(ぶゆうでん)」を語らない。60年安保の時、国会に突っ込んで警官隊に追われ、必死に逃げ込んだ場所が警察だった、などという話がどこまで、そしてどのように「本当の話」なのか私たちは知らない。ただはっきりしていることは、「そんなにカッコいい話じゃねえんだよ」という、いつもの変わらない隆明の姿だ。何人かの昔話のあいさつは、昔話の向こう側を聞こうとしても、むだだった。いらだちが、少しばかり私に生まれたが、隆明は笑って聞いているようにも、ちっと待てよ、と言いそうにも思えた。また、私の幼稚(ようち)な『共同幻想論』の理解からしても、大きくずれ込んだ、見当違いのあいさつ。それでも、
「あなたはボクのことをまったく分かってませんね」
「ちゃんと読んでくれ、としか言えません」
と返し、会場の私たちを沸(わ)かせた隆明を思い出せて嬉しい。

 また私は、吉本さん、みんな死ぬんですね、と突然思ったりもした。


 3 吉本隆明全集

 山本哲士は、『心的現象論』にまつわる話をした。吉本理論が世界最先端の水準にあるということに話は始まる。そして何度聞いても面白いのだが、吉本隆明は『共同幻想論』で、『古事記』の誤った解釈をしている、しかし、『共同幻想論』を理解しないと『古事記』の構造は分からない、という話だ。
 晶文社社長の太田泰弘の話も良かった。今月、ようやく『吉本隆明全集』が刊行の運びとなった。太田は、
「大手の会社をさしおくのは無礼(ぶれい)かと思い」
遠慮していたところ、ブログでのよしもとばななのつぶやき、
「全集が出せない……」
を発見。そんなバカなと、半分驚き半分喜び、全集企画(きかく)を決意したという。おそらくばななのつぶやきは、大手出版社の気後れ(きおくれ)を意味している。こいつらは自分たちの「自信のなさ」を、隆明のせいにするに違いない。あるいは、現在の文化状況のせいにするに違いない。自分たちのやってきた仕事に自信が持てない、ということにこいつらは気づかないのだ。
 第一回配本3,000部は売れ、そこで「浮足(うきあし)だたないように」と、700部増刷(ぞうさつ)を決めた、という報告だった。読者は、オヤ、と思っただろうか。ばななは10~50万部というのに、これでは丸がひとつふたつ足りないのではないか、と思っただろうか。このブログの読者にはそういう方もいらっしゃると思う。しかし、そうではない、とだけ言っておこう。「揺(ゆ)るぎない」ことの結果なのだ。
 単価6,500円、次回配本は6月、その後は隔月発行となる見通しである。この太田社長と話が出来た。良かった。
 
 トイレに行こうとしたら、出てくるところの三上治とちょうど顔をあわせて、少し話が出来て、これも良かった。
 暖かな『横超忌』の一日だった。


 ☆☆
山本氏が、
「もう、老人が進んでさ」
と言うのです。お昼に八重洲口(やえすぐち)でラーメンを食べたのです。そこを出て、すぐにタクシーを拾った(ひろった)のですが、タクシーの支払いで使おうとしたラーメン屋のおつりがない。いや、あるのですが、なかなか見つからない。それでまたお札を使う。おつりがたまって小銭(こぜに)があちこちのポケットで音をたてている。
山本氏やっぱり親友だなと、こんな時つくづく思います。

 ☆☆
そんなわけで、今回はどうしても吉本が書きたかったもので、福島の報告の「下」は次回となります。

 ☆☆
昨日は、ずいぶんおそい「春一番」でした。ちょうどお昼頃、バイクを転がしていたのですが、道々、花を一輪下げた親子連れとたくさんすれ違いました。小学校の卒業式だったのですね。時折(ときおり)強い風にあおられながら、子どもたちの、この日だけ見せる顔。いいものですね。

三年が過ぎて(上)  実戦教師塾通信三百六十五号

2014-03-16 12:02:17 | 福島からの報告
 三年が過ぎて (上)


 1 古峯(こみね)神社


 雪で車を出せなかった一周忌(いっしゅうき)の3,11は、電車で四倉に向かい、まだ道の駅が無残な(むざんな)姿の中での追悼(ついとう)だった。二年目と今年の3,11は、豊間・薄磯海岸にお邪魔した。
      
薄磯海岸である。向こうに見える灯台がつい先日再開した塩屋崎灯台で、灯台の向こうから豊間地区となるのは最近知った。灯台からこちらの薄磯の側に、津波で壊(こわ)れた中学校があるのだが、それはなぜか「薄磯中学」ではなく「豊間中学」である。こういうことになかなか慣(な)れない。写真では、浜まで降りてきている一部の人たちがいるが、写真にはない右側の堤防の上に、献花台(けんかだい)がある。今年は献花台の人たちを写真に納めるのはやめた。人波に紛(まぎ)れて献花していた人は、私の気のせいでなければ、二年間にわたって豊間海岸の「いわきキャンドルナイト」をプロデュースした倉本聰ではなかったろうか。間違いでなかったら嬉しい。まったくの「その中のひとり」だったからだ。
 この日初めて、私はあの3,11に、この地域の人たちが逃げたという「古峯神社」に登ってみた。当たり前のことだが、三年前、私たちの仕事は瓦礫(がれき)を片づけることだったのだから、高台の神社に私たちは行っていない。豊間の高台にある八幡神宮に行ったのは、昨年である。薄磯の古峯神社は初めてだった。
      
階段の下の方である。うっそうとした木々の間から見えるのは、
      
海と、下でじかに撮(と)ったものだが、三年後現在のこんな光景だ。
      
人がひとりやっと登れるような幅の階段。ここをみんな必死に登った。階段にたどり着く前に、後ろのおばあちゃんを見失ったという人。すっかり水が引いて底が見えた海を堤防から見ていて、そのあと行方(ゆくえ)知らずになった人たち。
      
一体何段登ったろう。高台頂上に、神社はあった。灯籠(とうろう)と鳥居(とりい)の基礎となるコンクリートは新しかった。


 2 三年が過ぎて

 神社から降りた私を待っていたかのように、お坊さんが近づいて来た。良かったら法要にお出でください、と誘(さそ)ってくれるのだ。黒づくめではあったものの、普段着の私は、喪服(もふく)でないためらいを伝えた。気にしないでください、というお坊さんの言葉を素直(すなお)に受けることにした。
      
向こうに見えるお寺が、会場の「修徳院」。左側に少し見える高台が、古峯神社のある高台である。地域の方々とメディア関係の車がひしめいていた。本堂にどうぞと、私も促(うなが)されたが遠慮し、境内(けいだい)で焼香した。写真の手前から奥にのびる緑のフェンスは、区画整理が始まったことを意味する。工事関係者以外、もう出入りが出来なくなっている。
 私がこののっぺりした地面を初めて見たのは先月のことだ。愕然(がくぜん)とした。三年前、辺りは瓦礫で埋めつくされていた。自衛隊や私たちの作業のあとには、コンクリートの基礎(きそ)だけが残された。それがすべてはがされて、このような地面となっていた。この景色は久之浜でも同じだ。仮設に住むみなさんが、このことを嬉しそうに話しているのを見たことがない。だから私も、この場を見て初めて知ったのだ。やっと区画整理が始まって復興だ、なんてことではない。おそらく、自分たちの住んでいた土地の上に新しい道路が出来る。そして新たな区域が決まる。それはきっと「前に住んでいた」場所ではない。あの日暴(あば)れた海は、前より地面を一メートル落とした場所から波を寄せている。きっと私たちが分からない、もっと深いところにみなさんはいる。

「追悼式(ついとうしき)に出たのかい!」
と頓狂(とんきょう)な声を上げたのは、第一仮設のおばちゃんである。仮設に着いた私が、式のことを話したのだ。来てないかな、と私はおばちゃんの姿を探(さが)したことを言った。行かなかったんですか、とも言った。
「いやあ、だって足がないもんよ」
とおばちゃんが言うのを聞いて驚いた。そうなのか、特別な日のために、マイクロバスぐらい出るものだと思っていた私がバカなのだ。だったらそんなことぐらい出来そうだったのにと思い、来年の課題だなどと考えた。しかし、もう遅いのだ。来年の法要におばちゃんたちは、豊間の復興災害住宅から直接向かう。予定では豊間の人たちは、この6月から引っ越しが始まる。またじんわりと悔(く)いがやってくる。

 ニュースでも新聞でも、
「被災者のことを忘れてはいけない」
「被災者に寄り添う(よりそう)べきだ」
と言う。あるいは身近なところで、そして遠くから、
「被災者の気持ちは分かるものではない」
という声が聞こえる。私はどっちの言葉もなぜか、
「分かったような」「分かったふうな」
言葉にしか聞こえない。
 三年後の仮設で、大好きなおばちゃんに、
「三年が過ぎて、どんなことを思いますか」
と、思い切って聞いてみた。
 そのことをここに書くためらいは、きっと大切なことなのだと思っている。


 ☆☆
群馬県桐生市の上村明子さん自殺事件の裁判、判決が出ましたね。判決は101ページに及ぶといいます。このブログで何回か書いたことがありますが、報道で触れられない残念な部分がたくさんあることを感じないわけにはいきません。あとできちんと、もう一度整理しないといけないと思っています。
少し書いておけば、あの事件はいわゆる「学級崩壊」の中で起こったことです。担任と管理職は、かなり対処が遅れた。遅すぎた。保護者の声でようやく学校が腰を上げようとした。その時、明子さんは自ら命を絶(た)ったのです。当初、遺族は「訴訟(そしょう)は考えていない」と言っていました。しかし立ち上げられた調査委員会は、残念ながらこういった学校の緩慢(かんまん)かつ、誠意のない対応に手を入れていない。
訴訟に踏み切った遺族に「金目的か」という噂(うわさ)がたち、たまらず栃木に引っ越した遺族の思いは、少しは和(やわ)らいだでしょうか。
このことを私たちの側で終わりにすることはならないでしょう。いずれ、このブログで展開中の「遠い子どもたち」で、書いていきたいと思います。

 ☆☆
そういえば、この間本池議員に会ったことを教育長にも報告して来たんです。
「ご両親(遺族)は立派な方たちでしたよ」
と、かみしめるように言ってました。久しぶりに会った教育長でしたが、通り魔事件の犯人が無事逮捕(たいほ)されたあとで、ホッとした表情でした。

 ☆☆
なんか風雲急を告げる感のある沖縄竹富町の教科書、気がつきましたか。この物議(ぶつぎ)を醸(かも)している教科書会社って、前回の「☆」コーナーで取り上げた『13歳からの道徳教科書』と同じ会社「育鵬社」なんですよ。要チェックです。

 ☆☆
今、スポーツは野球と相撲(スポーツではないけど)ですね。面白い。マー君いよいよだし、楽天の松井も楽しみ。大谷君やら藤浪君も、ついでに、斉藤(ゆ)君もがんばれ!
今日は遠藤対大砂嵐。そして、連日の白鵬の円熟した技。いいな。春ですよ。
そうだ、サッカーの本田、大変そうですね。でも、あの人は別格でしょ。
ついでをもうひとつ。本田と言えばF1。来年参戦ですが、今日は今年のF1第一戦。小林がどれだけやるんだろ。
そして、シューマッハ、なんとか状態が良くなりますように。