遠い子どもたちⅨ
~いじめ防止対策推進法をめぐって(上)~
1 袴田裁判
「再発防止につとめます」
のあいさつのあと、深々と頭(この場合は「こうべ」と読んだ方がいいかな)を下げる場面を、私たちはいやになるほど目にして来た。これが<学校化>社会の象徴的(しょうちょうてき)場面と言えるのかもしれない。
<学校化>というカテゴリーは、メキシコのイリイッチ思想の中から山本哲士が抽出(ちゅうしゅつ)・紹介したものだ。
「学校とはこういうものだ」
と、学校は学校自身の枠(わく)づけをする。それに対応して、
「一体、学校は何をしているのか」
という声が必ず、その時その時、周辺にたちあがっている。それで、学校の内側と外側両方から<学校>は強化され、作り上げられる。学校がいったん出したものをなかなか引っ込められないのは、そういう背景があるからだ。ことは学校に限らない。社会が<学校化>しているからだ。< >の中には、学校ばかりでなく、病院や個別企業(トヨタなど)が入ってもいい。
私もいつの頃からか、袴田というプロボクサーに関心を持つこととなった。「再審決定」のニュースが流れた時、私は思わず「やった!」と叫び、拳(こぶし)を振り上げてしまった。
いったん出した結論を疑い、考えることが難しいのは、そこに結論を出したものの責任と立場があるからだ。その立場と責任とやらは、さきの<学校化>から生まれる現象である。
袴田裁判に重ねてみよう。判決を出したものの立場が、時によっては人の命より重いという現実が生まれている。そしてその時、警察・検察・裁判所は、
「人の命を奪(うば)うことになる『死刑』というものを、簡単に出したのではない」
と、結論に執着(しゅうちゃく)する。無責任なくつがえしは出来ない、ということなのだ。まったくひっくり返っている。
さて、いじめのことだ。もちろん大津ばかりではないが、滋賀県大津市の事件は、初めは例のごとく、
「いじめの事実はなかった」
に始まる。読者は覚えているだろうか。この事件、初めは「転落事故」だったのだ。そして次は、
「自殺といじめの因果関係はない」
と結論。そのあとは必死にこれにしがみつく展開となる。それはまるで、
「人がひとり死んでいる。だから簡単にくつがえせない」
と言っているかのようだ。その姿は、多くの冤罪(えんざい)事件で「死刑」を選択した検察と同じように見える。
そんなことのないようにという、もともとはこの大津の事件が発端(ほったん)となって、「いじめ防止対策推進法」は出された。この法案の持つ限界をここで示しておく必要がある。
2 いじめ防止対策推進法
読者はニュースぐらいでは知っていると思うが、多くの方はこの法案を読んでないと思う。時間があったら読んでもいいが、その必要はない。今までやられてきたもの、語られてきたものとほとんど変わらないのだ。要は、大津みたいなことにならないようちゃんとやりましょう、というものを出ない。
まず法案は、いじめに関する報告・調査を義務づけている。これは、これらのことに関して滞った(とどこおった)ことの反省から出ている。
「報告がなかった」
「調査(するかしないか)を検討する」
事例があいついだからだ。では、今までそれらが文言(もんごん)として、自治体ごとに、そして学校ごとになかったのか。そんなことはない。どこでもそんな「当たり前」「常識的」なことはあった。それでも、
「おおごとを恐れる」
「決断を回避(かいひ)する」
学校では、そのことが滞った。ということだ。だから目新しいことと言えば、インターネット上のことも調査・指導の対象とする、ということぐらいだ。
今回、文科省の気合の入っているところは、各自治体、そして各学校ごとでの取り組みを出させるところにある。
「私たちは本気ですよ」
ということだ。このことを受けて今、各学校はこのマニュアル作りを終えた、またはもう少しで終えるところである。では、この取り組みは功を奏するだろうか。私はもちろんまったく期待できないと思っている。ふたつの点でダメである。
① 文科省と同じく、現場では、
「今までと同じものを出すしかない/同じものしか出せない」
と思っている。
② 基本的な姿勢が、
「子どもには分からせるしかない」
というもので、
「子どもを理解しようとする姿勢がまったくない」
からである。
これらの対策は、これから各学校のホームページに立ち上がる。読者もこれらの対策を読めばはっきりと分かるはずだ。
でも、あらかじめここで、千葉県柏市教委の出した「策定(さくてい)の手引き」を使って検証してみよう。ぜひ読者は参考にして欲しい。
☆☆
というわけで、続きを次回の「下」で論じます。そしてその「限界」を検証します。ちなみに教育長には私の考えを聞いてもらいました。いつもうなずいて聞いてくれますが、もちろん肯定(こうてい)して聞いているわけではありません。私に言いたいことはたくさんあるはずなのですが、そこは慎重(しんちょう)なのです。立場のある人だからな、と私は素直(すなお)に思えます。今の教育長には「覚悟(かくご)」が感じられるからです。少なくとも学校の「エライ」人には、大体そんな覚悟はありません。
☆☆
冤罪と言えば、あのカレー毒殺事件て、あの判決で良かったのでしょうか。林被告って犯人なのでしょうかね。状況証拠だけでの判決です。それに、
「私たちは保険金詐欺(さぎ)のプロ、お金にならないことはしない」
と林被告の言った通り、動機がないんです。
「ひどいことをして来たんだから死刑でもしょうがない」
みたいに、私たちも流されている気がしてしょうがないのです。
☆☆
なんかバタバタして、真夜中の更新(こうしん)となりました。3月もあと一日、いいとも最後のゲスト、ビートタケシですね。
いわきの桜はまだです。公園の桃の花です。
~いじめ防止対策推進法をめぐって(上)~
1 袴田裁判
「再発防止につとめます」
のあいさつのあと、深々と頭(この場合は「こうべ」と読んだ方がいいかな)を下げる場面を、私たちはいやになるほど目にして来た。これが<学校化>社会の象徴的(しょうちょうてき)場面と言えるのかもしれない。
<学校化>というカテゴリーは、メキシコのイリイッチ思想の中から山本哲士が抽出(ちゅうしゅつ)・紹介したものだ。
「学校とはこういうものだ」
と、学校は学校自身の枠(わく)づけをする。それに対応して、
「一体、学校は何をしているのか」
という声が必ず、その時その時、周辺にたちあがっている。それで、学校の内側と外側両方から<学校>は強化され、作り上げられる。学校がいったん出したものをなかなか引っ込められないのは、そういう背景があるからだ。ことは学校に限らない。社会が<学校化>しているからだ。< >の中には、学校ばかりでなく、病院や個別企業(トヨタなど)が入ってもいい。
私もいつの頃からか、袴田というプロボクサーに関心を持つこととなった。「再審決定」のニュースが流れた時、私は思わず「やった!」と叫び、拳(こぶし)を振り上げてしまった。
いったん出した結論を疑い、考えることが難しいのは、そこに結論を出したものの責任と立場があるからだ。その立場と責任とやらは、さきの<学校化>から生まれる現象である。
袴田裁判に重ねてみよう。判決を出したものの立場が、時によっては人の命より重いという現実が生まれている。そしてその時、警察・検察・裁判所は、
「人の命を奪(うば)うことになる『死刑』というものを、簡単に出したのではない」
と、結論に執着(しゅうちゃく)する。無責任なくつがえしは出来ない、ということなのだ。まったくひっくり返っている。
さて、いじめのことだ。もちろん大津ばかりではないが、滋賀県大津市の事件は、初めは例のごとく、
「いじめの事実はなかった」
に始まる。読者は覚えているだろうか。この事件、初めは「転落事故」だったのだ。そして次は、
「自殺といじめの因果関係はない」
と結論。そのあとは必死にこれにしがみつく展開となる。それはまるで、
「人がひとり死んでいる。だから簡単にくつがえせない」
と言っているかのようだ。その姿は、多くの冤罪(えんざい)事件で「死刑」を選択した検察と同じように見える。
そんなことのないようにという、もともとはこの大津の事件が発端(ほったん)となって、「いじめ防止対策推進法」は出された。この法案の持つ限界をここで示しておく必要がある。
2 いじめ防止対策推進法
読者はニュースぐらいでは知っていると思うが、多くの方はこの法案を読んでないと思う。時間があったら読んでもいいが、その必要はない。今までやられてきたもの、語られてきたものとほとんど変わらないのだ。要は、大津みたいなことにならないようちゃんとやりましょう、というものを出ない。
まず法案は、いじめに関する報告・調査を義務づけている。これは、これらのことに関して滞った(とどこおった)ことの反省から出ている。
「報告がなかった」
「調査(するかしないか)を検討する」
事例があいついだからだ。では、今までそれらが文言(もんごん)として、自治体ごとに、そして学校ごとになかったのか。そんなことはない。どこでもそんな「当たり前」「常識的」なことはあった。それでも、
「おおごとを恐れる」
「決断を回避(かいひ)する」
学校では、そのことが滞った。ということだ。だから目新しいことと言えば、インターネット上のことも調査・指導の対象とする、ということぐらいだ。
今回、文科省の気合の入っているところは、各自治体、そして各学校ごとでの取り組みを出させるところにある。
「私たちは本気ですよ」
ということだ。このことを受けて今、各学校はこのマニュアル作りを終えた、またはもう少しで終えるところである。では、この取り組みは功を奏するだろうか。私はもちろんまったく期待できないと思っている。ふたつの点でダメである。
① 文科省と同じく、現場では、
「今までと同じものを出すしかない/同じものしか出せない」
と思っている。
② 基本的な姿勢が、
「子どもには分からせるしかない」
というもので、
「子どもを理解しようとする姿勢がまったくない」
からである。
これらの対策は、これから各学校のホームページに立ち上がる。読者もこれらの対策を読めばはっきりと分かるはずだ。
でも、あらかじめここで、千葉県柏市教委の出した「策定(さくてい)の手引き」を使って検証してみよう。ぜひ読者は参考にして欲しい。
☆☆
というわけで、続きを次回の「下」で論じます。そしてその「限界」を検証します。ちなみに教育長には私の考えを聞いてもらいました。いつもうなずいて聞いてくれますが、もちろん肯定(こうてい)して聞いているわけではありません。私に言いたいことはたくさんあるはずなのですが、そこは慎重(しんちょう)なのです。立場のある人だからな、と私は素直(すなお)に思えます。今の教育長には「覚悟(かくご)」が感じられるからです。少なくとも学校の「エライ」人には、大体そんな覚悟はありません。
☆☆
冤罪と言えば、あのカレー毒殺事件て、あの判決で良かったのでしょうか。林被告って犯人なのでしょうかね。状況証拠だけでの判決です。それに、
「私たちは保険金詐欺(さぎ)のプロ、お金にならないことはしない」
と林被告の言った通り、動機がないんです。
「ひどいことをして来たんだから死刑でもしょうがない」
みたいに、私たちも流されている気がしてしょうがないのです。
☆☆
なんかバタバタして、真夜中の更新(こうしん)となりました。3月もあと一日、いいとも最後のゲスト、ビートタケシですね。
いわきの桜はまだです。公園の桃の花です。