実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

新学期 実戦教師塾通信七百七十一号

2021-08-27 11:16:02 | 子ども/学校

新学期

 ~あてどない「正解」~

 

 ☆初めに☆

行政は新学期をどう迎えるか、上を下への様相で検討中です。行政の指針を待っている現場は、いっとき流行した「ブレーキとアクセル両方を踏んでる」不満であふれているように見えます。

明らかに誤った方針もあるのです。でも、ほとんどは「正解とは限らない」。少し子ども食堂の現場からも見てみます。「うさぎとカメ」の、本文でレポートは初めてとなります。

 

 1 小さな「嬉しい」を大切に

 ここ二か月ほど、子ども食堂「うさぎとカメ」の参加者が少し低めだったのですが、コロナによる外出自粛なのだろうかと考えたものです。しかしどうやら、土曜授業参観や部活の夏の総体のおかげだったようです。先週の「うさぎ」は大盛況。密になった行列を見て、早めに入室してもらいました。ちなみに、換気・マスク・消毒はもちろん怠りません。

大量に届けていただいたドミノピザ(新柏店提供)の前で集合。写真がアップされますが、それでも良かったらと言うと、お父さんお母さんたちのサポートがありまして、子どもたち(一部)が入ってくれた写真(せっかくなのですが、スタッフ以外は加工しました)。私が「小さい子は前に来て」というと、「オレ、小さくねえヨ」の抗議が感動です。子どもは元気だ。

この日、私たちが作ったのはポテトフライ。ファストフードでも冷凍食品でもない、手作りのポテトフライが美味しいことを、参加者の声から私たちは改めて確信した次第です。何度も繰り返しますが、お父さんお母さんたちの「いいんですか」「本当に助かります」の声が、私たちの背中を押してきました。千葉県に限りませんが、全国的にこども食堂の活動は、自粛・減少傾向にあります。昨年は続行することを何度も議論しましたが、その後は知らず知らず継続して来たというのが実感です。そして自分たちしている「調理/配布」というスタンスが、数少ない例だということも分かってきました。

 何かあったら、子どもたちばかりでなく全国の子ども食堂の迷惑になる、という不安はもちろんあるのです。だから出来る限り、予防をしています。何もないことを願う、そしてもし、何かあるんだったら幸せなことがありますように、と願っています。そう考えるせいでしょうか、スタッフの声はいつも「楽しい/楽しかった」です。

 

 2 部活継続?

 現在の柏市教委上層部に、珍しいことだが(いい意味で)力ある指導者が若干名いる。新学期を迎えるに当たって、その人たちがけん引した跡が見える。昨日発表された新学期の指針には、今までの経験を生かしたと思われる点が、いくつか散見される。部活の全面停止は、千葉県も同じ方向転換を行ったので当然と言える。でも、つい4日前までは口から泡を飛ばして「どうして部活だけが悪者扱いされるのか」と、部活動の継続をおっしゃる校長先生もいらしたことはお知らせしておきます。また、午前中の授業と給食が終えたら下校という短縮日課と、その後3時まで児童生徒の預かり等、前回の反省を生かした点が見られる。

 私が注目したのは、感染拡大の兆候に対する考えだ。

「感染が広がる恐れのある範囲に応じて、学級単位や学年単位等、必要な範囲で臨時休業を実施します」

という部分である。これが、従来やって来た「インフルエンザ対応」である。これまでの場当たり的「クラスター摘発」にすることなく、今までの流れの回帰であることを願うものである。

 さて、これまでの千葉県だが、教育活動に支障をきたさないようにというのが、知事の方針だった。前の首相が全国一斉休校を宣言した時「一体どのような事態を生むのか分かっているのか」と、全国に先駆けて抗議したのが熊谷知事(当時・千葉市長)である。あの時、学校が活動休止をすれば、世の中がとんでもなく停滞・混乱すると訴えた。しかし今回、部活も「教育活動」のひとつとして、当初は停止しなかった。部活は学校教育活動の中では、学校行事よりもさらに二義的なものだったはず。しかし、どうやら変更。部活は全面中止となった。

 オリ・パラと甲子園は実施。一方、国体は中止になったが、初め部活は全面中止とはならなかった。「オリンピックを、クソみたいなピアノ発表会やイベントと一緒にするんじゃない」と言って叩かれた五輪関係者がいましたね。部活中止を当然と考える私は、その片棒を担ぎたいわけではない。コロナを怖いと思えない私でも、マスクもうがいもする。病気は予防するのが当たり前だからだ。出来ることはやればいい。先日まで学校現場では、PCR検査をすれば(部活の)大会は可能だ、などというひっくり返った意見が徘徊した。それほどまでしてやることかとは、オリンピックに対しても言われたことだ。部活中止は、出来ない相談だったのか。

 部活が全面停止になった今となっては、その必要もなくなったが、たとえば「イチ顧問」が「私んとこの部活は当面やりません」と宣言すること、あるいは「一介の校長」が「ウチの学校は当面部活をしません」と宣言することは可能だった。県や、ましては国の指示や指導を仰(あお)ぐ必要はない。学級や学校が崩壊するのだって、ひとりかふたりの教員の引っ掻き回す「力」があれば十分なのだ。こんな時こそ、部活を自分たちの手にするチャンスと言えた。部活がブラックだと言っている人たちは、こんな時こそ出番だったんですよ。正論で、しかも可能なんだから。

 

 ☆後記☆

「フェラーリが工場に入ったよ」と、知り合いの自動車工場から連絡が入りました。見に行ってきました。

「乗ってみなよ」と言われましたが……遠慮しときました。見とくだけで丁度いい。欲しいとは思えないですね。

 ☆☆

「和さび」のテイクアウトは家呑みセット、から揚げ、おにぎりで~す。

トマトの肉巻き、モズクの天ぷら美味しかったなあ。テーブル代わりの喫茶店の看板『赤い靴』。「コーヒー80円」に、歴史を感じてください。

オオタニさーん41号! 藤井君タイトル防衛!


給食 実戦教師塾通信七百七十号

2021-08-20 11:16:48 | 子ども/学校

給食

 ~主語的集中と述語的分散~

 

 ☆初めに☆

千葉県柏市の給食が一括供給、いわゆる「センター方式」に変更することが発表されました。これに対し、各学校の専用施設で調理するものを「自校方式」と言います。老朽化した自校方式の学校が出てきていること、また、既存の給食センターが建て替えの時期に来ていることが契機となって、この方針が出されています。この移行をめぐって、激しい議論が展開されています。

改めて「食」や「子育て」を考える機会ともなっています。

 

 1 顔が見える

 当然だが、私は自校方式に賛成するものである。マスで中央管理によるものより、分散で自律的である方がいいに決まってる。柏の従来の自校方式は、数々の点で優れていた。給食の材料を調達するのが、町の肉屋さんであり八百屋さんなのだ。たとえば、私たちの子ども食堂「うさぎとカメ」がお世話いただいた八百屋さんだが(高田青果という)、入口一間の小さな八百屋さんだった。実はこの小さなお店が、学校給食の食材提供店だったのである。一斉休校や飲食店の休業などがあいついだ今回のコロナのお蔭で、残念ながら閉店に追い込まれた。ホントにいいお店だった。自分で探した生産者とのつながりを生かし、近所のお客さんやお店にあっせんした。私たちの場合、食材を取りに行くのが夜になっても都合をつけてくれたし、こども食堂と聞いて、それならこっちのもうけは二の次だ、と言ってくれたりと。これは「地産地消」というものではくくり切れない、「顔の見えるやりとり」だった。センター方式なら、当然ながら大型同士のやりとりとなる。そこに「大規模なプロジェクトだから安全だ」なる、実に根拠のない、小売店を侮辱するような言葉もうろつくようになる。

 自校方式の場合、一校にひとり「栄養士」が置かれる(小規模校の場合二校でひとりの時もある)。この栄養士が子どもたちの声を聞くため、頻繁に教室を訪れて味の感想を聞きに来る。こういう積み重ねは、間違いなく「次の味」となっている。また時には、「栄養指導」の授業を、栄養士自ら展開する。行政は、我々も学校にアンケートをとるし「視察」も行うなどと言うが、「顔の見える」レベルは比べようもない。

 

 2 給食の残菜

 市議会はこのことに関して、積極的に関与・機能している。はじめ、この計画が「関係者・保護者ともども賛同を得ている」という行政の言い分だったが、どのような調査だったのかと追及される。そして、とても「容認」と言えるような調査でなかったことが、みごとに露呈してしまう。私たちは「平気でうそをつく」行政の姿を、目の当たりにしたのである。そして改めてアンケート実施を約束したのだが、この新たなアンケートもひどかった。例えば「センター方式になったら、どんな給食がいいですか」等、移行そのものを打診するのではなく、センター方式を前提とした内容に終始したのである。野党議員の追及は、結構見ごたえがある。

給食の残菜量を、各学校は市教委に報告することになっている。上記のグラフは、議会質問にあたって、野党議員が使った「市教委発行」の資料だ。センター方式給食の残量が顕著なのである。行政は、センター方式だと小中学校同じメニューとなるので中学生には人気がない、という苦しい答弁だった。残量は小学校も多いのだ。

 残菜量は報告が義務となっているので、学校ごとの量も分かっている。ワーストに数えられる学校の栄養士の、傑作と思われる声が私のところまで届いている。

「あの報告はインチキなの。ウチの学校は子どもたちがあんまり食べないって分かってるから、初めから食缶から減らしてるの。だから、子どもたちが残してるのは少ないのよ」

初めから「残菜を減らすために」食缶から減らしたという「残菜」は、一体どこに行ったのだ。そんなことより、一体何が「インチキ」なのだ。この発言は度し難い。議員はもちろん、行政にも報告した次第である。

 

 3 保護者の関心

 あとはお金の問題だ。長期的に見るとセンター方式が安いとは、市側の意見である。これがこれからの攻防となる。

◇十年前の柏市教育長は、既存のセンター方式による給食もすべて自校方式にすると発言していた

◇文科省の設置基準より柏市の方が、調理室の面積が広く設定されている

◇新設校であるにも関わらず、柏市の設置基準より狭い調理室の学校がある

等の問題点がすでに指摘されている。

 さて残念ながら、肝心の保護者の関心であるが、いま一つなのだ。理由はお分かりと思うが、「自分たちの子どもには関わりがない」からなのである。新たな給食のやり方が現実となるころ、自分の子どもは学校にいない。

 

 4 自律的経済

 最後に、小規模自立の問題を考えたい。前にも紹介した。岩手・東京(林野庁)・島根をまたいで、地域自立経済システム確立を考え、50年にわたって展開している先輩のお話。地元・岩手に200KWを発電する水車があるという。驚きだが、未だ現役の水力発電で、10年前に100周年記念の行事をした大正期の発電所である。ちなみに福島第一原発は1~6号機までの合計は約500万KW。つまり、福島第一原発の200万分の1にも満たない発電量だ。これは河川を使うので、

◇取水口や導水路などの土木部分が半永久的に使用可

◇公的資産にならざるを得ない&私的独占が出来ない

等の理由で「次世代に自信をもって残せる地域遺産」と結んでいる。「地域遺産」の示すことは、地域ごとに建設・維持が可能だということだ。自立・自律を考えるに、うってつけのケースと思える。

 

 ☆後記☆

千葉県柏市で、コロナに感染した妊婦が流産しました。報道は「コロナに感染した妊婦の受け入れ態勢の脆弱さ」一辺倒ですが、そうなのでしょうか。この女性は、「自宅で出産した」のに「自分で119番した」のです。もっと悲しい話です。おそらく様々な事情を抱えたこの女性に、「かかり付けの病院」は機能したのでしょうか。

 ☆☆

夏休みもあと十日。みんな宿題すんだかな。良かったらお兄さんお姉さん、場合によってはおじ(い)さんおば(あ)さんたちも手伝うよ~

こども食堂「うさぎとカメ」、明日ですよ~。時間がいつもと違います。お間違いのないように。

 オオタニさーんも、藤井君も頑張れ~


加波山 実戦教師塾通信七百六十九号

2021-08-13 11:47:51 | 戦後/昭和

加波山

 

 ☆初めに☆

残暑お見舞い申し上げます。クソ暑い日が続きます。エアコン稼働は、今季の昼夜をすべて合計しても20時間に達していないはず。頑張ってます。アイスノンも、いい睡眠には向かないみたいで、今年は使ってません。発症して半年たちますが、70過ぎての「50肩」にもエアコンは良くない。いい今年の後半のために、頑張ってます。

旅行が出来ない今夏です。県境を越えてしまいますが車で小一時間、以前から行きたかった加波山に出かけました。激動の明治を追って、簡潔じゃまずいのですが、簡単にレポートします。

 

 1 福島県令(知事)

 猛暑の中の筑波山。青いたわわな稲穂の向こう。

近づきました。少し変わった形の筑波山ですが、真壁町方からみたもの。

この筑波連峰の一角に加波山がある。「福島事件」とされる福島・喜多方の農民たちの蜂起(ほうき)は、維新から10年以上が過ぎて起こり、栃木・宇都宮、茨城・加波山、そして埼玉・秩父の困民党へと引き継がれる。1882年~1884年のことだ。

 明治政府の富国強兵も地租改正も、小作農家を助けることなく、地主を優遇する結果となった。こんな時、福島の県令(知事)三島通庸(みちつね)が、会津三方道路(越後街道、会津街道、山形街道の3つの街道)の建設に着手。若手の労働力か建設資金の寄付を、地元の全戸に強制する。これが一連の農民一斉蜂起の原因である。ちなみに三島は、薩摩藩出身。戊辰戦争を戦い、東京の新生に活躍するのだが、どう考えても相性のよくない渋沢栄一とも交錯したはず。おそらくNHKの大河ドラマにも登場しているのではないか。

 

 2 加波山神社

 加波山神社に着いたのだが、ここが農民が蜂起した場所とはとても思えなかった。写真右手に神社の看板。

左手に神社。

詳細を聞こうにも、人っ子一人いないし案内板もない。山頂付近の加波山神社にて蜂起と、日本史資料にはある。あとでここに移されたのだと思われる。加波山の頂上は、荒れた道なき道を行かないといけない。猛暑の日差しにさっさと頓挫(とんざ)。気持ちを改めて来ないといけない。

 

 3 妙西寺

 蜂起は、福島・栃木・愛知の民権家16人の志士が「自由立憲の旗」を掲げた。厳しい罰に科せられた彼らの墓は、加波山から離れた筑西市の妙西寺にある。

門前墓地にも、寺にも人っ子一人いなかった。

いわゆる自由党左派が弾圧された一連の事件は、1886年の静岡事件で収束させられる。そして、1889年、帝国憲法が成立するのである。

 

 ☆後記☆

オリンピック終わりましたね。全部ニュースでしか見なかったけど、スケボー面白かったですね。ライバルとか敵とかない。国もない。あるのはいい演技をすること。「失敗しろ」はなく「頑張れ」がある。そんな姿がかわいらしい。なんて言うと、クレームが入るのかな。

面白いなと思ったオリンピック関連のニュースを取り上げようと思います。今日はバッハ会長の「チャイニーズ」。

謝罪したかどうか知りませんが、ずいぶんな炎上でした。ここへのコメントで注目したのは、ミッツマングローブ。「チャイニーズでなくアメリカンだったら、日本人は怒らなかったのではないか。日本人の中国に対する差別感情か優越感情が、はしなくも表れた」というもの。面白いですね。私たちの世代だったらそうかなと。若い世代はまた違うのかなとも思いました。

ごひいきの和食店「和さび」のタコ飯です。大変な中、テイクアウトで頑張ってます。「家呑みセット」も撮るんだったのに、また忘れました。セットにあった鱧(ハモ)のさつま揚げ、いやぁ美味しかった。お店で出すんなら、生で出したのだろうと。そんなお店の無念と、それでも客に美味しいものをという気持ちが感じられて……いやありがたい。

今日はまた、ずいぶん涼しいお盆だ。皆さん、お体ご自愛下さい。


2021読書特集 実戦教師塾通信七百六十八号

2021-08-06 11:45:41 | 思想/哲学

2021読書特集

 

 ☆初めに☆

毎年、読書特集の愛読ありがとうございます。この読書特集、新刊本の中に、いわゆるビンテージものがいつも混じってます。これは私の怠惰がなせるものだったり、読み返して改めて思いを強くしたりというのが原因です。

時間がある時、気が付くといつも本を読んでます。本はいいですね。先週の朝日の読書特集に、SNSも本も同じだという考えに対し、「SNSはどこか現実と同じ。本は違う」という文を見つけました。なるほどと思いました。

 

☆『愛されなくても別に』武田綾乃 2020年☆

芥川賞の『推し、燃ゆ』も読んだが、選考委員たちに現代若者へのコンプレックスめいたものを感じた。これが今の若者の「リアル」なのだと理解する、言うならば「必要」を、選考委員が思ったのではないか、ということだ。私にはこっちの小説の方がはるかにリアルだった。

映画『誰も知らない』のモデルとなった西巣鴨事件が起こったのは1988年。電気も水道も止められた家で、子どもだけが暮らしていた事件に、当時の人々は震撼とした。しかし今や、(母)親から置き去りにされた夜を過ごす子どもたちは、珍しくなくなってしまった。前も書いたが、子どものお迎えに来た母親が、ママ友に「今度の彼氏はね……」と、にこやかに話すシーンは、平気で目や耳に入って来るご時世なのだ。この物語の「家族」が特殊と言えるほど、日本は楽観できる状況にない。

「ねえ、早くごはん作って。ホットサンドが食べたい」「ハムとチーズに、キャベツもいれてね。あと、珈琲も飲みたい」「ねえ、まだ?」

これは年頃の娘が母親に催促してるのではない。新しい彼のため立派なバディを作ろうとジムに通い始め朝寝坊をしたキャミソール姿の母親が、3時間ほどしか寝てない娘(陽彩:ひいろ)に言う場面だ。陽彩は「自分のわがまま」で大学に入学したため、夜遅くまでコンビニでバイトをして学費をかせいでいる。このふたりの「家族」を中心に物語は進む。読者も推察する通り、この母親にアパートの家賃や生活費や、ましてジムの会費を払う金もその気もない。それらの金の恥ずかしい悲しい悔しい出所を、陽彩は知っている。それを陽彩から告げられた母親は少しうろたえる。陽彩は静かに言う。

「お母さんがそういう人だって知ってたよ。だって家族だもん」

信じがたいが、物語はハッピーエンドだ。バイト先の友達、渡辺直美のような(とは私が勝手に思った)「江永」とのタッグが生まれ、道が少しずつ開いていく。人はこんな風に弱くも強くもなれる、と物語は言っているかのようだ。

 

☆『アンソーシャルディスタンス』金原ひとみ 2021年☆

金原ひとみの作品というより、金原ひとみが「自身を持て余し気味」なんだと思う。それは時代や世界の最突端で、いつも震えているように見える。芥川賞の『蛇にピアス』は、気持ち悪くなって中途で読むのを降りた。しかしその後も、金原の作品に惹きつけられ続けている。本作品に登場する女は「彼氏を好きでも嫌いでもない」女であり、別な話は「嫌だ嫌だと言いつつ全てうまくやり繰りする彼氏&何とかうまくやろうとしても何も出来ない」女であり、そして「十歳以上年下の彼氏との歳の差を埋めようと、整形の悪無限スパイラルにはまる」キャリアである。それらの生まれ出る場所が、ギラギラした「どん欲」の種なのか、それとパラレルな「絶望」なのか分からないまま、女たちはそれぞれに逡巡・悶絶、そして猛進する。

第三話の「コンスキエンティア」のヒロインは、三人の男に翻弄(ほんろう)され続ける。若い男に抱かれた後、帰宅した彼女を待っていた夫は、嫌がる彼女をリビングで暴力的に身体を求め行き果てる。しかし彼女は、

「……嫌なセックスだったけれど、レイプではない。…………乗り気でないセックスを十把一絡げにレイプとすることは、セックスそのものの持つ意味を矮小化(わいしょうか)させてしまうし、……人間の意味を矮小化させてしまうことにも繋がる」

と思う。嫌で仕方ない夫とのセックスだが、彼女は夫の背中に爪を立てる。翻弄されているのは男たちでもあった。

東日本大震災、いや、福島原発事故に振り回される人々を書いた『持たざる者』は、苦しめば苦しむほど「わが身の醜さ」の姿ばかりが露出していた。本当は私たちがあの時、しっかり考えておかないといけなかったことが、あの作品には書かれていた。昔も今も、金原は「どん欲」と「絶望」の間をずっと行き来している。

 

☆『精神病院の起源』小俣和一郎 1998年☆

精神医療を批判する本ではない。でも本の帯にある通り、現在の精神医療の在り方を考えるものとなっている。洋の東西を問わず、治療というものには宗教、つまり神社仏閣が常に絡んでいる。以前、フーコーの『狂気の誕生』で触れたが、神代の昔から「水の力」は大きかった。日本における「水治療」の起源は、滝に打たれる修行であることは言うまでもない。これは「密教」に特有な修行だった。密教尊格・明王(みょうおう)のひとつ、不動明王をあやかった滝が「不動滝」とされているのも、そういう背景がある。この「水の力」の治癒は大きかったが、体力の衰退したものにとっては命を削るものでもあった。近代の精神医療においても、水によって気持ちを静める効果があることを理由に、患者が嫌がるのに「水を浴びせ続ける」治療として続けられた。

摂関政治の登場する時代、宮廷貴族間の陰湿な政争が繰り広げられる。加えて、当時(いや、ついこの間まで、と言ってもいい)は皇室での近親婚が当然のように行われ、積み重ねられていた。皇族間に精神病事例が多かった理由とされる。冷泉(れいぜい)天皇妃の精神病治療を記念して建てた観音堂には「聖水」と呼ばれた湧き水が、今も京都の岩倉大雲寺にある。

個人的資質で発生する狐憑きなどの憑依(ひょうい)現象でなく、個人に訪れた強烈な出来事で発生する、心因性疾患に初めて気づいたのは、能の世阿弥(ぜあみ)だという。『風姿花伝』をそんな風に読めるのだ。この本を読むまで分からなかった。もちろんそれは「物狂(ものぐるひ)」の部分である。また江戸時代という話で、溜(ため)という行き場のない者を面倒見る施設があった。が設立したので「溜」と言われる。この施設で、(精神)病者・困窮者・行き倒れ・無宿者などを収容・治療することを、浅草・品川の町奉行が依頼する。それはが最底辺にいたということばかりではない、頭の解決能力と人格の高さが記録に残っている。

 

☆『みうらじゅんと宮藤官九郎の世界会議』2020年☆

ふたりの名前を見れば、読者がこの本を真面目に読もうがバカにしてかかろうが、肩透かしを食うことは大体見当がつくだろう。

「第一部 男と女について」の目次(小見出し)を見れば、男なら?誰もが気にし&誰に聞くことも出来ない切実かつ曖昧(あいまい)なカテゴリーへの挑戦を、本書は試みている。と一瞬だけ思う。

「モテる男はどんなセリフで美人を口説いているのか/セックスは女の人を何回イカせたら許してもらえるのか/チンコはデカイ方がいいのか? そうでもないのか?」等々。

「チンコは……」の冒頭は以下のように始まる。

みうら ……人としての器がもう少し大きかったら、こんなことにこだわったりしないんだろうけど、いまだに人間のスケールが小さい者は、男性器のほうの器の話になっちゃうのかねぇ。

  ないものねだりってことですね。

おっ、結構スタンダード&シリアスな展開になりそうだと思う。しかし、「見かけが大きくなる」(対談では実例が示されている)のと「大きい」のでは違うという、議論はシリアスながらも堂々巡りである。そして、ジョンレノンの恥じらいのない包茎等を論じたふたりは、新たなスタートラインについている。ふたりは、「無理な注文です/ちょうどいいって難しい/なるようにしかならない/おあつらえ向きってわけには行かない」等と言っている。しかしこの新たなスタートラインは、元とは違っている。「等身大の自分」に向き合うことになっている。かくも「等身大の自分」とは実に困難な代物だ、とも言えるのだ。

 

☆『科学資本のパラダイムシフト』矢野雅文 2021年☆

哺乳類が地上で優位な存在として君臨して来たわけは、狩りや攻撃など一回性のものに対するレパートリーが広いことによっている。例えば、自分の前に物が飛んできた時、それが石なのかボールなのかと判別する前に、よけるという行動を選択する「即興性」に優れているという。また、滝の音を聞かせるだけだと不安が発生するけれど、そこに滝の映像を重ねると「ノイズ」としての滝の音が消える。つまり、そこで環境に適応する経験をする。

これらは単に喜怒哀楽を示しているのではない。著者は、生命システムが置かれた環境で、生命システム自身が環境とも関係づけをしていることを意味しているという。簡単に言って、人はそうして生きてきた、ということだ。そこで不可欠な指針は、著者の言う「真・善・美」なのである。このことを忘れて「完璧な答」を信じて進めているのが、現在の「人工知能」だという。著者は副次的可能性をロボットに入力して解決すべき課題を与えたら、結局ロボットは動けなくなってしまった、という実験結果を紹介している。また、人工知能のプログラムは、功利主義の理念で作られている決定的欠陥がある。暴走したトロッコの事例を挙げている。線路の岐路ポイント先の右側には線路工夫が五人、左側にはひとりいるという課題を人工知能に与えた時、人工知能は功利的な判断しか出来ない。

「中央集中の主語制科学」ではない「自律分散の述語制科学」を著者は目指す。いまは「情報の在り方が世界の在り方を決めて」いるが、大切なのは「自己言及する情報生成」だという。藤井君が、コンピュータの出せなかった「手」を打ったのを思い出した次第である。

著者から、これからも学んでいきたいと思っている。

 

 ☆後記☆

明日は立秋。何が秋だよと毎年思いますね。でも、夕方の風がやっぱり違うと。

池江選手、メダルに届きませんでした。でも、あの人はいつも表彰台の上にいるように見えます。みんなに幸福を届けるキューピッドのようです。すごいですねぇ。

二週間後となりました。ドミノピザさんのご厚意による無料提供です。ワンピースでなく、一枚です! 宿題の方は大丈夫ですか?

点検しますよ~。

皆さん、お待ちしてま~す!

あ、それと。先週、土用のウナギ食べました。写真を撮ってないことに気が付いたのは半分ぐらい食べたあとで、残念、今年はうな重の写真を載せられません!