実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

密と疎・上 実戦教師塾通信八百三十二号

2022-10-28 11:39:58 | 子ども/学校

密と疎・上

 ~往復する私たち~

 

 ☆初めに☆

「うさぎとカメ」ですが、ありがたいことに、あちこちから支援を受けることが多くなりました。先日も、社会貢献活動の一環としてお聞かせ願いたいと、経営者の方からのヒアリングの申し出も受けました。お芋やお米を届けていただく中でも、いろいろなことを感じているこの頃です。

先日の「うさぎとカメ」の様子をお伝えしながら、その手ごたえを書いていきます。来年の話はまだ早いですが、私たち「うさぎとカメ」の足跡を、スタッフ間できちんと確認しようとも思っています。それは、コロナを渡りゆく中で味気なくなったことにも、何らかの力になると信じて疑いません。「めんどくさいのが大切」がキーワードです。どうも一回で終わりそうにありません。

 

 1 「渡す」「受け取る」

 会食形式がすっかり定着してテーブルが足りず、今月は会場に出せるだけ出してみた。これが全て埋め尽くされる。お持ち帰りの方にも喜ばれ、料理やお土産も幸せだ。

感動のあまり撮った写真。見事に並んだ靴は、スタッフや親が並べ直したものではない。配膳しながら、子どももみんな上り口でかがんでいるのに気が付いた。教室ぐらいのサイズのフロアにブルーシートを敷いた即席の「食堂」だ。段差があるわけではない。これは、和室で開催した時、皆さんが気持ちよさそうにくつろぐ様子をみて、椅子とテーブルではない座布団と座卓というやり方に変更したからである。小さな靴もある。あくまで「自分で靴が履ける」子どもたちだが、注意深く脱いでそろえる姿は、まことに心を和ませた。

調理スタッフ奮闘中。この日は生姜焼きとカボチャのみそ汁でした。

テーブルの掃除までして帰る人も多い。そのまま帰る人はひとりとしていない。みんな食べ終えた食器を配膳台まで持ってくる。前も言ったと思うが、スタッフ間で気を付けていることがある。そのままテーブルに置いといてください、という声掛けは行わない。食器を返却するテーブルも設けない。運ぶのは大変だろうという気遣いや、片付けの迅速さよりも大切なものがあると考えたからだ。食器を渡そうという気持ちをしっかり受け止めたい。そこで必ず発生する「対面」が、私たちの大切にしたいものだ。

 

「お金を受け取ってもらえないんですねぇ」

というスーパーのレジでのお年寄りの声は衝撃だった。コロナ下で進んだ非接触の生活。逆に、おつりをもらう客が「この中に入れろ」と自分の財布を開いて店員に指示する等という例は腐るほど聞いている。そんな話をしたいのではない。お年寄りの嘆きを聞いて分かったのは、支払う時にやっていたのが、お金のやり取りではなかったことだ。コロナ下でレジや仕事上のやり取りは、確かに迅速で無駄が無くなった。そんな中、「うさぎとカメ」がやっていることは、ひどく効率の悪いものに違いない。配布するお菓子や野菜も、袋詰めしておけば「簡単」だ。しかし、自由にお持ちください、と書かれた貼り紙を見る大人は野菜を自分で選ぶし、このお菓子は取り放題だよとか選んでねと言われた子どもたちは、喜んだり迷ったりするのである。「面倒な対面」に伴うアクティビティは大きい。

 学校によって違うが、登校後に子どもたちが健康状態をタブレット上にグレードで報告するところがある。絵文字だったりもする。これだと担任ばかりでなく、教科担任・副担任に共有される。いいこと尽くしのようだが、この報告を丸ごと信用するほど現場は硬直してはいないはずだ。子どもたちが自分の状態をデジタルな記号に置き換える時一体何が起こっているのか、そこには結構深いものがある。前号で紹介したが、普通に朝の会で「元気です」と答えるところも、まだある。ここでも教師のキャパは問われる。「元気です」がどれほどのものか、声や顔色やの様々なトーンをうかがう必要が発生する。どちらにせよ、それは確認に留まらない、手のかかるものが控えているのだ。

 

 2 私たちを「選ぶ」人たち

 2011年、支援の任意団体「いつかは米百俵」を立ち上げ、私たちは醤油や味噌を仮設住宅で配った。月に一本の醤油か一個の味噌を、200世帯の人たちに配り、仮設住宅が閉鎖される2015年までは続けた。被災地には、その他色んな人たち・団体がいた。すごいと思えることが、被災者には必ずしもそうではないことがあった。カツオやサバの缶詰が、ひと家族にひと箱支援で届いたことがある。ちっとも嬉しくなかったという。食べたいと思う時に欲しいものなんだ、それはひとつでいいんだという。必要なものがたくさんあれば安心する、というものではなかったのかと思った。また、大手の会社が、何がどのぐらい必要なのかとやって来た時の話だ。我々は今まで十万食配って来た、胸を張って言ったそうだ。十万食とは、これもスゴイと思ったのだが、被災者側は違っていた。要らないから帰ってくれと言ったという。缶詰の時は、仮設住宅の集会所に届いた。部屋に山と積み上げられた缶詰のひと箱を、被災者の皆さんは自分の部屋まで運ぶのだ。あるいは、集会所に「〇〇社は福島と共に頑張るぞ!」の大きな字のバックに社員の勢ぞろいした制服姿が写っている、そんな写真をたくさん見た。社員たちのガッツポーズの傍らに、仮設の人たちではない荒れ果てた海岸が写っていた。

 缶詰ひと箱がいけないというのではない。たとえば、こども食堂で余計なことをすることはない、たくさん配ればいいという考えだってある。それもひとつである。私たちがカバーする対象はすべてだとは思っていない。ただ「顔が見える」とは何か、考え続けている気がする。私たち「いつかは米百俵」のする支援は、たったの一本・たったの一個だった。でも、顔を見ながら渡す時の手ごたえは確かだった。ちょうどなくなったところです、いつもありがとうございますの声を、必ず受け取った。

 こども食堂「うさぎとカメ」も、同じことをしていると思う。

 

 ☆後記☆

808号「市立柏」の記事、一部訂正しました。記事前半の「学校が遺族の意向を確かめずに調査を始めたことだ」の部分です。このような表記は報告書にはありません。しかし、記事にも書きましたが、学校側の不誠実な対応が続いた後、学校とのやり取りを「代理人を通す」方法に遺族が変更しました。そのことがあったため、私は上記のような判断に至りました。関係者に確かめた結果、この部分の誤りが判明しました。お詫びいたします。

 ☆☆

統一教会の記事を書かないのか、という問い合わせをいくつかいただいてます。思った通りの展開になっているので、ほったらかしていたのですが、いずれ近いうちに書こうと思います。よろしくお願いします。

すっかり紅葉した我が家のコキアです。


訛り 実戦教師塾通信八百三十一号

2022-10-21 11:46:41 | 思想/哲学

訛(なま)り

 ~味わいと歴史~

 

 ☆初めに☆

先だって楢葉にお邪魔した時、渡部さんの奥さんが、ワタシあんなにズーズー弁じゃないのにと、新刊『大震災・原発事故からの復活』に「抗議」しました。もちろん冗談なのですが、意外でした。思い当たるのは、一家の皆さんが新築の母屋に戻った新年のくだりぐらい。でも、全くそんなことはない。それだったら、仮設住宅が閉鎖される2015年の春、みんなで最後の支援に行った時のおばちゃんたちのつぶやきの方が、それに該当します。「もう会えねえがど思うどよ」。これをのっぺりした「共通語」に「通訳」しようとは思いませんでした。おばちゃんたちの人柄や優しさを、訛りに満ちたこれらの言葉は伝えるのです。

ズーズー弁の味わいと由緒正しさを、軽めにですが考えます。

 

 1 フェイク

 バラエティー番組は、滅多に見ない。でも何か月か前、テレ東だったかの「ありえへん世界SP」を見た。栃木と茨城の誇りだか名物だかの張り合いだ。こんなもの、蔑(さげす)みとユーモアの境目がせめぎ合うものなのだが、私の本籍地・栃木と育った茨城とあっては、見ないわけには行かなかった。

 本題から外れるのだが、番組の演出上で作り上げられる「フェイク」を少し。以前、この番組だと思うが、千葉県柏の日没に合わせて流される「夕焼け小焼け」のこと。これを柏市民は「パンザマスト」と呼んでいるんだと。もう子どもたちは家に帰りなさいと流れる曲を、高いマストに付けられたスピーカーの名前で呼ぶ習慣なんだとか。誰かが言ったのを聞きつけて、インタビュアーが「そう答えてください」とお願いしたか、同調する市民を探したんだろう。柏市民の私は、あの放送が「パンザマスト」だなんぞとは、先生時代も今も聞いたことがない。まぁ、この日の番組の話にしよう。茨城か栃木か忘れたが、その県の児童は、朝の出席を取る時「はい」ではなく「元気です」というそうだ。この紹介があると、ディレクターの合図に合わせた、例の「えー!」という嬌声。なに言ってんだ。全国どこでもそうしてるよ。少なくとも小学校はそうだ。知ってるくせに。いま学校で、出席を「はい」で済ませるわけがない。朝、子どもが居るか居ないかを確認するだけでいいと?  それで今の学校がすむわけがない。逆に先日、タブレットでは登園してるはず、なんていう確認があることを静岡の事件で知ったのではあるが、それはおいとこう。親が元気に子どもを送り出してるはずだとでも言うか? また言うが、熱が出たから親が引き取りに来いだと?仕事を何だと思ってるのか!と激怒する結構な親がいるこのご時世、学校は「無理して登校したのだな」ぐらいの確認は当然してますよ。要するに「元気です」は、茨城県や栃木県のことではない。

 

 2 下野(しもつけ)上野(こうずけ)

 「茨城ダッシュ」(信号無視)はフェイクっぼくも面白かったが、「茨城は『イバラギ』じゃない『イバラキ』なんです」と茨城出身のタレント?が抗議する。来たよやっぱり。ここの修正をしたくて、なぜか茨城県の行政も必死なんだよねえ。この濁点訛りは、茨城や栃木のいわゆる下野に特有のものだ。前に言ったが、茨城も「宮城」と同じに考えれば、濁点「ギ」にアンテナが立つこともなかったはずだ。「イバラギ」の「ギ」にある訛りをどうにかしたかった、それだけだ。U字工事の訛りは、下野のもので、同じ栃木でも、足利などいわゆる上野の上州弁となると消える。栃木出身のタレント?が「栃木人はU字工事のようにナマッてない」という発言は、栃木を愛するが故のものではない。だから「ふるさと訛りが……君を無口にしたね」(太田裕美『赤いハイヒール』)なる歴史は繰り返される。これも前に根拠と合わせて言ったが、茨城の「水海道」は「ミズカイドウ」ではない、正しいのは「ミツカイドウ」だ。では「イバラキ人」に聞きたい。福島との県境、「五浦」は「イツウラ」か? 違うよ。「イヅラ」だ。

 

 3 ハハ=ファファ

 柳田國男の「方言周圏論」をご存じと思う。方言の語や音などの要素が、文化の中心地から同心円状に広がるというもの。これをヒントに、松本清張は『砂の器』を書いたかと思う。東北訛りで話す「カメダカ」を探しに北上するが、答えは出雲にあったという謎解きだ。東北弁は京(みやこ)の言葉であることを、間接的に説いていた。

 東北訛りは縄文人に始まっていたという。昔の日本人は、どのように発音・音韻をつかさどっていたのだろう。この辺りから、城生栢太郎(言語学)を参考に進める。まずは中世のなぞなぞである。

「母にはふたたび会いたれども父には一度も会わず」

とかけて何と解くか。答えは「唇」だ。「ハハ」とは唇が二回出会うが「チチ」とは出会わない。つまり、発音をめぐるなぞなぞである。「ハ」の発音をする時、これがいわゆる破裂音(呼吸を吐きながら唇を開く法)「ファ」だったことを意味する。それで「ハハ」は、二回唇が出会う。たとえば「ファッシリファンブァトンビファンズメ!」は、「走り幅跳び始め!」を意味する。これが奈良時代までさかのぼると「パ」になる。「パギャダマ」は「ハゲ頭」だった。

 U字工事の登場は、方言の見直しや復活というものではないだろう。彼らがメディアに登場した時に発生するものには、共感と言うには不十分なものがある。彼らがお笑い芸人であることを、私たちもメディアも知っている。それはあくまで、笑っていいものなのである。U字工事もそれを知っている。このもたれ合いの意味するものはおそらく、ギャラと視聴率以外ではないように思える。これも「みんな違ってみんないい」という範疇に囲い込む、安っぽい流行りでしかないと思える。この安っぽさに乗ってたまるかという気概が、U字工事に見える気がするのが救いだ。

 

 ☆後記☆

言葉と言えば、先月のネットニュースだったと思いますが、どっかの私鉄ホームでの、

「痴漢はたくさんいらっしゃいます。〇号車が空いてますので、そちらに移動していただくようお願いします」

が猛烈な批判を浴びたというものです。この批判が「移動しないで痴漢にあったら自己責任か」というもんなのです。何それ?ってわが耳わが目を疑いました。違うでしょ。この「いらっしゃる」という奴じゃないんですかね! 痴漢さん、尊敬されてますよ~。堂々と痴漢しましょうって感じですかね。ついでに「素直に嬉しい」だの「嬉しい、のひと言です」だのってみんな横並びで……、なんだろねぇ。カッコ悪。せめて「うまく言えないですが」とか「まだ興奮してて」とか言えないのかねって感じですね。

 ☆☆

今日は10月21日。79年前の今日、神宮外苑で学徒出陣がありました。

「誰も笑ってなかった。泣いてたよ」

お祝いの儀式なんかじゃなかった、という意味です。母は目撃者だった。神宮外苑の、一体どこに母はいたのでしょう。もっと良く話を聞いておけばよかった。

 ☆☆

先週のこども食堂「うさぎとカメ」のワンシーン。準備中。書きたいことが満載なもので、次号で詳しく報告します。

 


温度差 実戦教師塾通信八百三十号

2022-10-14 11:46:05 | 福島からの報告

温度差

 ~11年のその先へ・下~

 

 ☆初めに☆

楢葉町・伝言館の宝鏡寺は、金木犀が満開。

所狭しと積まれた書類と資料の奥から、マスク外して! あいさつ代わりに早川住職は叫ぶのでした。マスクのお陰で聞こえないし、しゃべりにくいし、という住職の言葉にホッとします。来年の春に始める、国相手の裁判の準備で、ワタシの小さな頭はひどく大変な思いをしているんだよと笑いながら、それは丹念に美味しいお茶を淹れてくれました。

以前から興味をそそられていた雑誌でした。その『月刊住職』を、今回初めて購入したのです。すると、トップ記事が宝鏡寺の「原発悔恨・伝言の碑」だったのには、もう驚きました。買ったのかい、ご住職は笑いました。

急速に秋の始まりを告げる福島で、皆さんの元気な顔にエネルギーをもらいました。

 

 1 東電の次へ

 多くの読者の皆さんはご存じでないと思う。今年の6月、東電は楢葉町や南相馬など210人の原告住民に謝罪している。最高裁の判決が確定した。この損害賠償請求裁判の団長が、宝鏡寺の早川篤雄住職だ。法衣を着た早川住職に、東電幹部が謝罪する記事は福島で大きく報道された。何度聞いても50年の闘いは重みがある。

「71年に第一原発が稼働する。不安を感じた我々は翌年、反対住民の会を結成した。73年に全国公聴会を申し入れたら応じた。あっけないほどだった。何のことはない、それは説明会であって東電の証拠作りに加担しただけだった。86年のチェルノブイリ原発事故があっても、東電は平気だ大丈夫だの一点張り。東大の安斎育郎先生は我々の学習会の講師を引き受けてくれて、あんなのはウソだ出鱈目だと言った。東日本大震災で、第一原発事故が起きた。そして我々は東電を訴えた。いわき地裁は不当判決。訴状をちゃんと読んだのは仙台高裁だ。この高裁の賠償命令を、最高裁が採用した」

東電訴訟のあとに残ったのは、国の責任である。原発訴訟は、どこでも国と電力会社の両方を訴えている。それで多くが「一部勝訴」となっている。我々はそうしなかった。多くの方は、国の責任が無理な注文と考えるに違いない。しかし、よく見れば司法界も頑張っている。高裁までならば、国は責任を「とるべきだ」とする判決は出ている。早川住職は齢82歳を数える。ここの読者の中でさえ、福島や原発事故に対する関心の差は大きく、その温度差に私はいつも驚いている。しかし、ご住職のやせた身体からは、このままでは終わらせない、というエネルギーがみなぎっていた。

 

 2 「和牛」とは

 天神岬の鳥居が新しくなったよ、楢葉の渡部さんが言った。福島民友でも大きくアップされた。たまたまこの日は、お披露目の翌日だった。震災の時のことを話すのってコトヨリさんが来た時ぐらいだなぁと、奥さんがしみじみ言う。あの日、奥さんは自宅近くのこども園にいた。そこから町役場近くの福祉会館に避難。晩御飯は、子どもたちだけにバナナがひと口だけ出たという、この日はそんな話をした。しかし、この鳥居建設という出来事も、震災・原発事故からの新しい一歩だとうたわれているのである。

鳥居をくぐって正面を行けば天神岬公園。右側の石柱の鳥居を抜けると北田天満宮へとつながる。県はおろか東北でも最大級(『福島民友』)という木製の鳥居は、17mの高さを誇っていた。こんなに大きい木を一体どこから持ってきたのだろうと、こちらは空を見上げるばかりだ。

 娘さんの職場に顔を出した。牧場の様子が変わったと思うはずですよ、と言われた。前回来たのは6月。この夏は千葉柏に限定しても、1日の感染者1000人なるコロナの勢いのおかげで、こんなに久しぶりとなった。

この間まで新しいと思っていた牛舎。前はガラガラだったのが、ずい分増えている。「変わった」とはこのことかと思ったら違っていた。なだらかな斜面を下ると、前は林だった山が削られて真新しい牛舎が建っていた。どうも「息子さん専用」の牛舎となっているらしい。息子さんが、あるカテゴリーの牛たちを「責任もって育てる」のである。

手前にいるのが奥さん。向こう側から私たちは降りて来た。牛舎全体が分かるように、坂の上からも撮ればよかった。秋のさわやかな日差しが、さんさんと降り注いでいる。

 しかし、収支の方は思わしくないようだ。一番は円安とウクライナ戦争による飼料の高騰だ。倍近いという。牧場の牛は前より増えているのに、だ。採算は取れてるのですか、私の質問への答はなかなか返ってこなかった。対策のひとつに、「いい肉質のものを、より多く」があるようだ。オスを去勢したものがそれなんだとか。以前にレポートした時は、それをF1種と呼ぶと書いたはず。違うようだ。ここで改めて確認しておきましょう。「和牛」という呼び方に、渡部さんたち和牛農家のプライドがのぞいている。私はいつも「肉牛」と確認しながら話すのだが、渡部さんが話す時は、常に「和牛」だ。そもそも「国産牛」と「和牛」とは違う。選び抜かれた黒毛など何種類かの「国産牛」、それを「和牛」と呼ぶのである。スーパーに行ったらラベルを確かめよう。

 さて、では去勢した牛がどうなのか。まず、雄牛の方が大きい。たくさんの肉が取れる。一方、雌牛の方が肉質がいい、という以前のレポートに間違いはない。そこで「去勢」という方法がとられる。肉がムキムキでなくなる、というわけだ。奥さんが、だってウォーッ(「雄たけび」のこと)ていうんでなくなるだろ、とジェスチャーで示した。しかし、これは痛そうだ。おばあちゃんが笑っている。

 それにしても、牛たちは増えた。子牛も入れると50頭ぐらいだそうだ。大変じゃないですか、私が聞く。いやぁ、酪農(乳牛)に比べたら和牛は楽だよ。渡部さんはあの日に奥さんと二人、停電で搾乳機が動かなくなった中、夜通し手作業で乳搾りをしたことを話すのだ。この話をする時は、いつも声がかすれる渡部さんだった。

 

 ☆後記☆

そうそう、広野町の「のらっこ」も忘れちゃいけません。今でも県の職員の飛び込みで、検査があると言います。

「検査っても、置いちゃいけないものがあるかどうかなんだよ」

職員は持って帰るわけでもないそうです。でも、たまに放射能が検出されたってニュースがあるからね、持って帰って測らなきゃ出ないはずだよ、一体どうなってんだか怖いもんだネと、おばちゃんたちは笑って首をすくめるのでした。新鮮な野菜が載った棚の写真を忘れてました。今度こそ撮って来ます。

これは渡部さん家でご馳走になったさつま芋。お土産にくださいとおねだりしたもの。もっとたくさんもらった。ホッコリした味わいは「紅あずまだったかな」と言うことでした。野菜も一杯いただいて。みんなで分けました。

明日は「うさぎとカメ」ですよ~


双葉消防本部 実戦教師塾通信八百二十九号

2022-10-07 11:19:05 | 福島からの報告

双葉消防本部

 ~11年のその先へ・上~

 

 ☆初めに☆

縁あって、双葉地方広域市町村圏組合消防本部(以下「消防本部」と表記)に出向きました。繋げてくれたのは、千葉県柏の消防署と市内の中学生です。その辺のいきさつは、いつか書くと思います。

消防本部の方に長い時間お付き合いいただく中で分かったこと、それは消防士さんたちの、双葉に暮らす人々と場所への愛着でした。いつも楢葉の渡部さんたちに感じているものを、ここでも感じました。

 

 1 「バス型」消防車

 Jビレッジの交差点を反対側に進むと、広い敷地に消防本部と分署の建物や車輛を収める大きな建物が現れる。

右側が正面玄関となります。

入るとすぐ、敷地に巨大な消防車が目に入る。消防士が現場に駆け付けたまま宿泊可能なもので、キッチンやシャワーがあり、ベッドの部分は部屋に早変わりする。車輛の内側を、せり出させたところだ。

県内に何台だったか忘れてしまったが、数日にわたり現場に駐留できる、相当に希少な車輛なのだ。軽量化も考えて設計されたという。指で叩いてみたが軽い音だった。鉄製ではないという。訓練に備えての点検だった。

この右にはみ出ている部分が部屋になり、寝室になる。下の写真がはみ出た部屋を内側から見たもの。

この日ずっと私を案内&説明してくれた、司令官をつとめる鈴木達也主幹。いただいた名刺に「全力で その先へ 双葉消防!」とあった。私の髪が赤く見えるけど、白髪が単に消防車の赤に反射している、だけです。

 

 2 「これからも続けてください」

 鈴木さんは何度か「琴寄さんもご存じの通り」と言って話した。柏の消防署が渡りをつけてくれて、私の『大震災・原発事故からの復活』をすでに読んでいてくれたからだ。二時間にわたる話はあっという間だったが、暗黙の了解があった分、中身は濃かったと思う。ありがたい気持ちでいっぱいである。

 読者も覚えている通り、楢葉の渡部さんも地元の消防団だった。「双葉地区」の消防団の一員として、一定期間消防車で移動したのだ。全体としてどんな連携をとっていたのだろう、前から気になっていたことだった。鈴木さんは、いやぁ、と言ってから、

「あの時は自分たちの範囲をやるだけで精いっぱいでしてね。他のところまで、というところは……」

津波だけではない、火事も発生した。けが人の救出や行方不明者の捜索、施設の入所者や入院患者の搬出もあった。消防車で津波をブロックして消防さんたちが助けてくれた、という久ノ浜のおばちゃんたちの話を思い出す。そのさなかで、原発が爆発したのだ。

貴重な資料をいただきました。2015年に発行されたものなので、まだ元気だった浪江・馬場有町長、そして今も活躍中の楢葉・松本幸英町長の挨拶に始まり、震災は原発事故を分刻みで追う記録、隊員の健康状態も含めた支援の困難、教訓等々。地域や災害の歴史も、明治以前に及んでいて膨大です。思わず涙することもありました。

この資料の「消防組織体制の変遷」の部分を示された。

図が示す通り、原発事故前まで双葉消防本部は浪江にあった。しかし、3月12日に出された「第一原発から半径20キロ圏内・第二原発から半径10キロ圏内避難指示」により、消防全体も圏外移転を強いられる。この二時間前の午後3時36分、原発の1号機が爆発したのである。

「本部は川内と葛尾に移転し、管内の消防署や分署は全てそこに動いたんです」

電話は全て使えなかった。唯一の回線は衛星電話で、それを頼りに指揮連絡系統の整備がつづけられた。三日後の15日、4号機から出火。「出火」とあっては、消防が出動しないわけには行かない、双葉管内から原発に向かって出発する。この時鈴木さんは川内に移した本部に残り、部隊を送り出した。

「みんな防護服を着てはいますが、切ない思いでシールドや服の縫い目にテープで目張りをしました」

そのまた三日後、東京消防庁からハイパーレスキュー隊(翌日は大阪市消防局も)が到着。双葉消防本部はこの時、いわきの四倉で現場の引継ぎを行っている。

 正直、この日うかがったことも書ききれない思いだが、ちゃんと資料を読み込んで、また新たに話をうかがってから書こうと思う。最後に言われた言葉を、ありがたく何度も噛みしめている。

「(本にあった)あちこちの声を拾ってくれて、嬉しいです。聞いてもらえたと思っている人たちが、恐らくたくさんいると思います。でも、まだ聞いてもらってない、まだ言えていない人たちが、たくさんいると思います。これからも琴寄さんの活動を続けて欲しいです」

ありがたく何度も噛みしめています。

 

 ☆後記☆

福島で力をもらう、今回もそんなことが続きました。最後の鈴木さんの言葉は、いわきの自立生活センターでも聞かせてもらえました。何人かの方から、ぜひお話を、と嬉しい言葉をもらえて。頑張ります!

 ☆☆

早いもので、来週はこども食堂「うさぎとカメ」ですよ~ 第30回の節目は「生姜焼き」

カボチャでスープかみそ汁か、思案中で~す  裏の記事、古くなってしまいましたが、お読みください。