実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

実戦教師塾通信百九十三号

2012-07-27 20:16:02 | 福島からの報告
 写真立て


 夏休み


 いわきでも市街地の平地区は首都圏のような暑さだが、中央台高久の仮設住宅には避暑地のような風が吹いていた。駐車場には隣接したプールでの子どもたちの声が、いつものようにこだましていた。この小学校も夏休みなのだから、プール開放で来ている子どもたちの嬉しそうな声だ。
 この日、いつもより第一仮設集会所は人が少ないようだった。でも、どんな日でも必ず来ているお二方は嬉しそうな顔で、そしてこんな日でもいるんだという恥ずかしそうな顔をして出迎えてくれた。たまたまなのかも知れないが、テーブルの上には何も乗っておらず、二人とも冷えた麦茶を飲んでいた。お坊さんたちのボランティア「足湯」の時だったかと思うが、私は「この人たちの口にはいつもなにか入ってて」と、お坊さんたちのいる前で言ってしまったことを少し後悔した。
 でも、この日手土産に持って行った『三万石』の水ようかんを差し出すと、二人は相好を崩してくれた。「いつもどうも」「たまには手すきで来てよ」と言う二人に私は、つい買ってしまうんです、と自然に口が動く。今はみんないないし、よく冷やしてあとでいただこうか、と管理人(市職)さんに、これ冷蔵庫、と頼んでいる。明日みんなが来た時にでもどうぞ、と私が言えば、いやいや明日とは言わねえ、と顔の前で手を振る屈託のなさが私にはたまらない。確かにまだお昼前のことだから、午後に食べてもいいというものだ。こんなことがあるだけで私はお土産を持ってきた甲斐があったと思う。
 ふと気がつくと、本棚の脇の飾り台に、つい先日まではなかった写真立てが置いてある。2月、味噌とチョコレートの配布をした時、飛び入りで参加した仲村トオルと皆さんが入った写真がそこにはあった。社協(社会福祉協議会)の人がこの間置いてってくれたんだ、という。
 ナカムラはいつも、皆さんによろしく、と言ってるんですよ、是非また来たいと言ってるんです、と私が言うと、
「そうかい、ありがたいねえ」
「でも、ああいう人は忙しいんだろうしね」
と言う。この写真立てをはさんで写真をとりましょう。私は誘いをかける。二人は、モデルは美人じゃねえとな、と求めに応じる(冒頭写真)。
 読者の皆さんは覚えているだろうか。2月のチョコは、仲村トオルからの支援だった。私はあのチョコの入った缶ケースはどうなったのか聞いてみた。
「もちろんあるよ。捨てでねえわ」
「ウチは孫が持ってっちまった」
「わたしんとこは、娘の付けまつげのケースよ」
と、途中から顔を出した副会長さんも言う。
 プレハブ住居で、隣の生活音はまるで同居している家族のように筒抜けだという。話し声や咳払い、床を這う足の音まで伝わるという。一個つながりの長屋のように見えるプレハブだが、よく見ると一戸一戸の間にわずかなすきまはあるのだ。
「でも、そんなのかんけーねえ。よく響くんだわ」
お互いさまだからさ、我慢するしかねえのよ、と彼女たちは言う。そんな暮らしの中で、ミッキー&ミニーのハート(or丸)型缶が残されている。つつましく残っている。
 話は一転、ぼやきとなった。夏休みのイベントである。京都は真言宗のお寺の誘いで、仮設の子どもたちがお寺に招待された。一週間、ただではないが(交通費もすべて込みで一万円)お寺の暮らしを体験するという。
「いいよねえ」
「料理も精進料理なんだど」
「子どもなんかいいんだから。年寄りを招待しろって」
次々に出てくる言葉。
 おいとまを告げる。そんな私に、またゆっくり来てね、お盆もいますから、という声が追いかけてくる。
「お盆もいますから」
という彼女たちの声。前、暑中見舞い用の葉書をたくさん置いていった時、嬉しそうな彼女たちはしかし、
「ここ(仮設)からは(葉書を)出せねえんだよ」
と言った。私は思わず、エ? と聞き返したが、同じ言葉を彼女たちは繰り返した。私はもう繰り返し質問出来なかった。ただ、そうなのか、そうだったのか、いやそうではないのか、とあれこれ考えただけだ。そして私たちに彼女たちのことなんて、これっぽっちも分かっていないのだ、という気持ちを改めて味わったような気がした。
「お盆もいますから」
私は、嬉しくも、申し訳ないような気持ちになる。


 地元情報(線量偽造)

 浪江町の建設作業員が会社(「ビルドアップ」)の指示で、線量計を鉛のカバーで覆って作業をしていたことは知っていると思う。その問題を、全国のニュースよりはるかに地元のニュースは大きく扱った。『福島民友』(7月24日)が詳しく報告している。以下はその記者会見の様子である。
-鉛カバーを製作したのはなぜか
「現場調査に行った時、高線量で鳴り続ける線量計のブザーの音に作業員が驚いた。ブザー音が減れば作業員の不安を解消できると思った」
-効果があった場合は使い続けるつもりだったのか。
「使い続けていた。間違った判断だった」
-カバーの装着は強制だったのか。
「強制していない。使用中止を決めた後で装着を拒否した3人を作業から外したのは、今後作業をする上で自分の指示に的確に対応してくれないと考えたから」

つまり「使用は強制だった」ということだ。

 いつも通りパオに立ち寄った時、このことが話題になった。職員が相槌とともに、地元でしかニュースにならなかったことならまだあるわよ、とふたつ。
① モニタリングポスト
 福島県内のモニタリングポストの周辺の土は広範囲にわたって掘削され、取り除かれていた。モニタリングポストの出してくるデータは低かった。
② スクールバス
 除染が終えて開校した広野町の小学校。まだ住居は高い線量のため自宅に児童は戻れない。それで町のスクールバスで町外から通学をする。学校が終われば多くは隣のいわき市に戻っている。そのスクールバスが、それ以前は原発作業員が現場の原発と、寮(Jビレッジ等)の往復に使われていた、ということ。それはいいのだ。そのバスが除染されずに渡されていたことが地元では大騒ぎとなった。
 
 給食の材料は多くが県外のものを使用している、とは前にも報告したが、本当はそんなにたいしたことではないのよ、という。給食がセンター方式になった時点で、食材を県内生産品ではまかなえなくなっていたらしいのだ。原発の事故がそれにダメを押した結果だという。
 それにしても、目を凝らしていないといけない。


 ☆☆
イチロー電撃移籍!でしたね。すごいですね。ルーキーの道を選んでしまう凄さです。背番号の保証がないことはもちろん、もしかしたらスタメンから外されるという現実も分かっている。いつもは読まないスポーツ紙もそば屋やコンビニで読みました。難しい立場にいたことも確かでしょうが「このままで終わってたまるか」「メジャーナンバー1という栄光が欲しい」とかいうそんな気持ちではない、もっと厳しいところに自分は自分を追い込んできたはずだ、というイチローの決意を感じた私です。
被災地も24、25日は天気の挨拶代わりにこの話。
松井選手も戦力外通知という現実の中で闘っています。ファンというものはそんな本人たちの苦労も知らず、ただ応援するだけ。それでいいのですよね。

 ☆☆
大津市皇子山中事件は、遺族が第三者調査委員に「尾木直樹を」と提案したようです。私に言わせれば中味のない「有名/高名」を軸とした考えの提案と思えます。尾木が、自分の名声を投げうっても遺族の話を聞いてくれるような人間だと思ったのでしょうか。また遺族は「自殺といじめの関係の徹底解明」を訴えたともいいますが、本当なのでしょうか。「犯人」の「犯行」を明らかにするとかいうバカげたことに意味があるとは思えません。いずれにせよ、行く末をきちんと見ていかないといけません。
「確かにいろいろと問題のある親だったようだけど、そんな親がもしかしたらこの事件で初めて『親になる』きっかけを持てたのかも知れない」
と言ったのは優秀な私の仲間です。優秀だな、と改めて思いました。

実戦教師塾通信百九十二号

2012-07-22 21:23:45 | 子ども/学校
 大津市皇子山中事件 ⑦


 いじめ予防


 こういう時期にこの「いじめ予防」という対策もどきが必ず巷に出てくる。いじめは予防出来るものではない。もちろん、私は悲惨な事件が起こることを肯定するわけではない。出来ることとはなにか。
「子どもの様子を見守ること」
これが第一であって第二第三である。これが難しい。
 まず「いじめ予防」あるいは「いじめの早期発見」なる考えからいくと、していけないこととそうでないことの区別を子どもにきちんと教えること、大人が毅然とした態度で子どもにそう臨むこととやらである。そしてそのことですべては解決する、である。しかし、多くの親は知っている。我が子が泣いて帰ってきたとする。そして、どうしたのだ、と聞く。しかし、子どもは言おうとしない。その時、親は根掘り葉掘り聞くことがいいのか、少し様子を見ようという判断をするか迷う。それを「見守る」という。そのことを親のみんなが知っている。その時親は、

「我が子がこの事態に対して自分で解決することが出来るのか、あるいはすでに解決不能の状態に陥っているのか」
判断に迷って苦しんでいると言える。それを「見守る」という。この「早期発見」という発想は、「見守る」姿勢の躊躇であり、放棄に到る危険な道につながっている。悲惨なことが続いていいはずがない。しかし実は、きちんと子どもを見守ろうと思っても、その時に出来ることがわずかであることに忌ま忌ましくも、仕方がないと覚悟するしかない。
 あちこちで何度か言ってきたことだが、子どもというものは動物や獣という段階を通過することを「宿命」とする。生理的にはなんでも口に入れたり、そして精神的な出来事として「違和感の強烈なこと」があげられる。例えば他愛ないことだが、幼稚園(保育園)のお迎えが、

「どうしてお母さんじゃなくてお父さんなの?」
「自転車でなんてカッコ悪い(自分とこは車だ)!」
こんなことだ。こんなことで子どもは傷つけるし、傷つく。それが子どもというものだ。私たち(今の社会)は、他愛のない出来事に対しては、
「だからなに? そんなことでなに?」
といさめればいいものを、
「そんなこと言うものではありません」
という対処を積み重ねている。「それでは相手が傷つく」という物言いは、我が子の馬鹿げた考えを認めていることに私たちは気付かないといけない。また、障害者と鉢合わせしようものなら、子どもは「見たことのない」驚きで、とても大人が口で言えないようなことを平気で言う。それが子どもというものだ。私たち(今の社会)は、我が子の反応をやはりいさめてしまう。

「そんなことを言うものではありません」
またはもっとウルトラ過激に、
「見てはいけません」
などと言っちゃうのだ。電車に乗っておそらくは久しぶりの外出に興奮しているか、不安にたかぶっているかしている障害を持ったその子に近づいて、
「いいわね、今日はお出かけ?」
と話しかけるなどということは想像だにしない。本当はそんな自分の母親の姿を見れば、さっき驚き、恐れさえ覚えた子どもが、ガラリと観方を変えしまう。それもまた子どもというものだ。なにせ動物なんだから。しかし、そうなっていない私たちの現状だ。
 「してはいけないこと」「言ってはいけないこと」を「子どもに教える」ことは重要なのだろうか。大切でないはずはない。しかし、それが「身につく」かどうかは別な問題なのだ。繰り返し「教える」ことで「身につく」わけではない。大切なのは、子どもはそういう動物的段階を通過しないと「身につかない」ことであって、それは承認すべきことだということだ。しかし、それを否定する方向を持つのが「いじめの早期発見」だ。「悩む」ことも「迷う」こともない、すぐに介入するべきだ、という導きを「早期発見」が持っている。
 「昔はリーダーがいた。子どもの世界にも自治・淘汰する力があった」
などとよく言う。私はこういう時よく少年スポーツチームを思い出す。サッカーも野球も、お揃いのユニフォーム、弁当・レジャーシート持参の親、そして資格を持ったコーチ、すべてがお膳立てされた子どもたちの世界。今や子どもたちがぶつかった壁を子どもたち自身で解決することがずいぶんと困難になっている。いや、壁がたちはだかる前に大人が処理することを「大人の責任」と言ってはばからない、そんな現状だ。そんなことを少年スポーツは象徴的に示しているように思う。少年スポーツは「なんとかする」「やりくりする」という「遊び」の要素を、「当たり前」「規律」の「訓練」にしてしまった。「バカヤロウ」をコーチが言うのと、がき大将が言うのとではまったく違うのだ。
「昔はその場を仕切れる子がいた。いじめを許さなかった」
そんな時代からどんどん遠ざかっている。
 大津市皇子山中事件がきっかけで、いじめ事件の悲惨な数々が少しでもいい方向に行くことを願っている。しかし、間違いなく学校はまたしても今までの学校的な傾向を強くする。「過失のないよう」に、行く末を見守る「迷い」や「躊躇」を捨てて、子どもに介入する方向を選ぶからだ。それは子どもを「監視する」方向だ。


 ☆☆
過日、『吉本隆明を偲ぶ会』が専修大学でありました。まだまだ前座の感の強い会でしたが、いろいろ感じるものがあり、来て良かったとの思いはありました。反面、吉本さんの思想が私たちの血となり、肉となるまでにはまだまだ遠いのだな、とも思いました。『共同幻想論』の「幻想」がやはり「イリュージョン」のままなんだ、と愕然としました。また、懇親会まで出席したのですが、昔の「青春の徒花」をひけらかし、店に迷惑をかけるメンツも出てくるわけで、私には「まだ昔の話を?」と思わせる展開は、予想通りとはいうものの「頽廃」だよな、そんなこともありました。

 ☆☆
「ニイダヤ水産」のネット閲覧、まだだいぶ先になりそうです。8月の上旬あたりだということで、社長さんが恐縮しておりました。あの後、イカの干物もいただいたのですが、薄味はご飯というより、酒がすすむというタイプでした。ホントにうまい。

実戦教師塾通信百九十一号

2012-07-19 12:15:20 | 子ども/学校
Ⅰ 大津市皇子山中事件 ⑥
 
 Ⅱ 被災地の顔 ②

 

 Ⅰ 最悪の結末


 昨日、全国ニュースとしては流されなかったようだが、三重県津市の小学校校長が自殺したことを知っているだろうか。18日のネットニュース(共同通信)によると、校内の女子児童に対するいじめを先日の保護者会で指摘があったあとだという。市側は「自殺といじめの関係は分かっていない」とのコメントを発表したというのだ。
 読者はこのニュースの「自殺といじめの関係…」をどう思っただろうか。多分、多かれ少なかれいじめのことが校長を追い込んだだろう、あるいは「知らなかった」ではすまない事件だったのかな、と思った。それが通常の反応だ。大津市教育長の厚かましい顔が変わらない。17日夜のニュースでは、因果関係がないと言ったことはありません、あくまでいじめは自殺の一因だということです、のあとに
「家でもなにかあったということですね。学校からそれは聞いていますし」
と相変わらず「笑み」を浮かべながら(あれはやっぱり笑ってるとしか思えない顔だと思いますがいかがでしょうか)、または踏ん反り返って言っていた。これが世間の常識範囲の発想・考えだろうか。もう一度言う。こいつらは「大切な、かわいい生徒」が死んだというに、一度として「悲しいと言う」ことも「悲しい顔」も出来ない。そして、校長は全校集会で
「一人の命は地球より重い。命を大切に」
なんとかいうちっぽけでデインジャラスなことを言う。
 昨日、朝のニュースで皇子山中の生徒のインタビューが流された。ある男子が
「大変なことが起こったっていうのに、普通なんです。普通の顔して普通に授業やってるし。こんなことでいいのかって思う」
ダルビッシュの「野球なんかやってていいのか」をまた思い出す。
 学校現場を経験したことのない読者の皆さんは分からないだろう。学校というものは「生徒の気持ちが動揺する」ことには触れない方がいい、という言い方をする。しかし例えば、生徒は気になる。ウチのクラスの○君はここ一カ月学校に来てない、なぜだろうと思う。三階の三年がうるさいし、タバコの煙も漂ってくる、どうなってるんだと思う。○○先生死んだってホントなのか、と思う。これをなかなか説明しない。噂ばかりが渦巻く。いい加減にしろ、ぐらいまたせる。それが学校だ。「生徒の動揺を防ぐ」というのは半分以上ウソである。「自分が動揺して何も出来ない」のが本当だ。皇子山中の現状は、この生徒の発言が雄弁に示している。先生の誰一人として、
「今なにがどうなっているのか」、そして「自分はどう思っているのか」

ということに触れていない。授業を始めるにあたって、「どうなっているか」「自分はどう思うか」を言うことは教師の最低の責任だよ。それは今の段階では毎日必要な作業だ。
 さて「『息子は悪くない』加害者の母が撒いたビラ」(FLASH7月31日号)を読んだだろうか。事件後、加害者の一人の母親が撒いたというビラは「配ったらしい」という複数の生徒の発言だった。なので、それは確定的なものではなかった。しかし、この母親の秋の緊急保護者会での発言は信憑性が高い。
「うちの子は仲良くプロレスごっこをしていただけなのに、犯人扱いされて学校に行けなくなった。うちの子が自殺したら、ここにいる保護者や先生の責任だ」

というものだ。「プロレスごっこ」という古い言葉が使われたかどうかは不明だが、有名な発言だ。この生徒は事件後、すでに京都市内の学校に転校した、とも記されていた。
 第二回口頭弁論で加害者側3人の生徒は「いじめはやっていない。ふざけただけ」と口を揃えたが、昨日の警察の調べに対し、一人は態度を明確にしなかったという。加害者側が迷っている、逡巡している様子は経過のあちこちにうかがえる。この事件の最悪の結末があるとすれば、加害者の生徒の一人が自殺してしまうことだ。死んでお詫びの遺書でも残せば別だが、おそらく彼らは誰一人として、現状を理解する力をいまは持っていない。ついに罪を償うこともなく、こんなことにならないことを願う。わけも分からず苦しんでいる加害側生徒がきっといるのだ。こうなった責任の大半は学校にある。彼らがこのことをきちんとせずに生きていくことがいいことであるはずがない。「夏休みには一緒に大坂まで遊びにいった」仲間が死んだというのに、悲しい顔も出来ない残酷さを学校とその保護者は分からないといけない。そんな機会をことごとく奪っているのは学校と、それに加担している加害側保護者だ。
 金八でいいから、せめてひとり出て欲しい。


 Ⅱ 菅総理? 間違ってはいなかったね

 いつも楢葉の牧場主さんとは世間話から入る。でも、この日は国会事故調の話を私は聞きたくて、単刀直入に
「どう思いました? 国会事故調の最終報告」
と言ってしまった。被災者の皆さんは、今さら「人災」という言葉をどう受け止めたのだろうかと、私は考えたからだ。この勤勉で率直な主さんは、第九仮設全体を毎日聴き取り巡回をしている。みんながどう思ってるかって? しばし考えたあと主さんは言った。
「困惑してるって感じだな」
つまり、
・国は東電および原発に対して打つ手を持っていなかった
・技術的・知識的なノウハウは、すべて東電が上回っていた
・国は東電に全面的に依拠していた
・つまり、責任のとり方さえ国には分からない

そういったことが明らかになっているのが国会事故調であるという。そうか、国は何も知らなかったのか、国は何も出来ない、出来なかったのか、と被災者は思っている。だから「困惑する」ということらしい。どっかの首相が何かのおりに必ず言う「国が全面的に責任を持つ」と言っているその責任とやらだが、それが一体どんなことを指すのか、さっぱり分からないのが被災者なのだと思った。
 読者の皆さんはあの国会事故調最終報告を読んだだろうか。新聞のトップや三面おそらくは読んだと思う。
・「東電・国は対策を先送りした」としている
・「東電と保安院の馴れ合い体質」も指摘した
・「東電の全面撤退は誤解であるが、それを招いたのは東電の社長に責任がある」と指摘
等々。
不思議なことだが、大見出しの記事も、またテレビニュースも、実際の事故調の報告書よりはるかに「マイルドな表現」だと思ったのは私だけではあるまい。どの社でも全面か見開きの特集でその報告を組んだはずで、そっちの方まで読んだ人は少ないのではないのだろうか。そこにはっきり書いてある。一、二点目だが
・福島第一原発は地震にも津波にも…対応出来ない状態だった
・当初の耐震設計は明らかに不十分だった。最低限の改善すら怠った
・安全性再評価はわずかしか行わず、保安院は黙認
とはっきり書いてある。
 こんな欠陥施設が堂々と動いていたのか、と震撼とする内容なのだ。全国の原発立地点の活断層が指摘されるこの頃である。良かったとも当然とも思えるし、やっぱりという怒りも湧いてくる。ので、やっぱり特集記事も読んだ方がいい。これがトップや三面では「対策先送り」「馴れ合い」という抽象的な表現になってしまう。「今さら人災ですか」という記者の質問に黒川委員長は「オマエたちになにが出来たというのか」と、言葉を荒らげたというが、おそらくあの分厚い報告書にはもっと生々しいことが書かれているのだ。その具体的な報告から少しでも「今後」が見いだせればと思う。
 この委員人選に少しの疑問がないわけではない。委員長はじめほかのメンバーは、自民党系とそして民主党は鳩山系である。私個人としては、失敗学の大家畑村洋太郎が委員長を務め、柳田邦夫も委員として所属する政府事故調の最終報告(今月下旬に発表)予定を少し期待している。
 さて、前から気になっていたことを主さんに聞いた。
「菅総理はなにがいけなかったか、そして腹が立ちますか?」
意外な主さんの答がかえってきた。菅首相かい、
「確かにずいぶんと取り乱したけど、やったことは間違ってねえと思うんだよな」
菅じゃねえと出来なかったことがずいぶんあったんじゃねえか、と言うのだ。
 でも、ニュースではずいぶん叩かれてますが、の私の言葉に
「だってマスコミはどっちの味方か、はっきりしてるじゃねえか」
感心する私の方がおかしいのだろうか。


 ☆☆
一学期も残すところとうとうあと一日となりました。いつも思ってましたが、皇子山中の捜索は通信簿やその下書きも対象となったんですよねえ。今学期の通信簿どうなったのかな。A君のクラスの担任はなんて言って生徒に通信簿渡すんだろうって。まともな生徒なら荒れますよねえ。
 私は退職した今も夏休み直前の時期になると嬉しくなります。子どもの顔も輝いてくる。そんな時期です…

 ☆☆
昨日のテレビ朝日昼のニュースのコメンテーターは、あのピンク映画の元祖山本晋也だったのです。山本が紹介した91歳のカメラマンは、私たちが忘れようもない福島菊次郎でした。私たちを追いかけて撮っていた1960年代後半は、だから40代ということになる。その福島がいまは東北の福島に入っている。山口県にある小さなアパートの一室で福島は、
「(今みたいに)マスコミがモラルとか言ってたらダメだろ。マスコミは反権力でなきゃ」
と言っているのです。91歳の言葉です。

実戦教師塾通信百九十号

2012-07-17 15:41:01 | 子ども/学校
 大津市皇子山中事件 ⑤


 第二回口頭弁論


 傍聴希望者は定員の10倍近い340人超が集まった。閉廷後、裁判所構内で被告側(市側)弁護人は「こんなことになって申し訳ありません」と、泣いて謝罪した。遺族に言わせれば「アンタが謝ってもしょうがねえよ」ということになるだろう。大体「こんなことになって」ってそれは「どんなこと」なのか、まだ分かっていない。まず、この法廷で3人の加害側生徒は「いじめはやってません」と口を揃えた。第一回の法廷では「やってません」と言ったのは2人。態度を明確にしなかったもう一人も加わったということだ。「こんなことになって」の中に、こんな情けないこともこれからは含まれないといけない。残った一人が加わった事実の裏側には、加害側の保護者が「○○ちゃん、はっきりしないのはあなただけよ。しっかりしなさい。あなたこそ被害者なのよ」と強力に「ケア」したことは間違いない。先生を経験したものには分かるが、生徒同士争いでおおごとになった時、10人中8人は「我が子の正当性」を訴える。学校は自らの責任も含めて「汚れる」覚悟をしないといけない。それでなんとか乗り切ってきた、ということは実に多いはずだ。
 昼のニュースをあちこち見たが、前回の法廷で「いじめはあった」と認めている、とそこでは報道されている。私は市側が「いじめを認めなかった」とこの通信で繰り返した。これが間違っているのか。読売の7月13日の経緯を示す表で、その前回公判の様子を「市側は全面的に争う姿勢」とだけあった。私がこういう時ネットで選ぶのは、ある程度信頼性のある「ヤフーニュース」や「朝日ニュース」であって、
「この学校、朝鮮語が強制履修だとよ」
「組合が強いんだってさ、かなわねえよ」
「この辺じゃ日本人が死ぬと在日も喜ぶんじゃねえの」
みたいなオナニー軍団の情報に振り回されてはいないつもりだ。いくつかの公的ネットニュースでの報道によれば「いつ・誰が・なにをしたというのか、証拠を言え」と遺族に食ってかかったのが、第一回口頭弁論における市教委のアメイジングな姿勢である。まあ、その後の学校・市教委の態度&姿勢を見ればその発言を裏付けているわけだ。
 今日、遺族はこの事件の刑事訴追を決めたという。それに対してテレビ朝日のコメンテーターが「(遺族は)真相解明をしたいのでしょう」と語った。違うぞ。遺族の怒りが収まらないからだ。市教委・学校、加害生徒・保護者がちっともこっちを向こうとしないからだ。「大切な、かわいい生徒」が死んでもちっとも悲しい顔をしない学校や先生、そして「仲良しだった、からかい相手」が死んでもちっとも悲しい顔をしようとしない生徒に、はらわたが煮えくり返っているからだ。


 真相解明

 警察の威信回復をかけてか、あるいは別な力が働いたのか、警察の異例の介入はしかし、たいした結果を期待出来ない。警察が出来ることは例えば、
「○月○日午後、二階トイレでA君の腹部を二階殴打した」
「○月○日夕、A君に2万円を用意するように言った」
というようなことを証明するだけだ。
 1994年の大河内君の時もそうだったが、あそこでは恐喝の罪に問う、というようなことだった。今回は傷害と恐喝の罪を立証するという、こんなバカバカしいことしか出来ない。おそらく市長がいうところの「和解」とは、被害者と加害者がきちんと向き合うことを想定していることを言ってる。「示談」という意味ではあるまい。「真相解明」とは、従来のあり方で言えば「犯人探し」を出ない。遺族は、そしておそらくA君もそんな犯人・証拠探しを望んでいない。
 東野圭吾に登場してもらおう。『赤い指』で、息子が犯した罪を認知症わずらいの祖母におしつけようとした両親。刑事加賀は、
「これで犯行はあなたのお母さんだということになる。あなたはそれでいいんですね」
「あの女の子を殺したのはあなたのお母さんだ。それでいいんですね」
と執拗に息子(父親)に迫る。
 また加賀は『麒麟の翼』で「ぼくは子どもたちのことを思って!」とあくまで事実と向き合おうとしない教師の胸ぐらをつかむ。まあこういう捜査は出来るものではない。さて、事実の隠蔽を大体の教師は多かれ少なかれやってきた。それは「ウソも方便」ということもあったはずだ。いい悪いをおいて、それは仕方がなかったはずだ。また、ことの大小はともかく「覚悟の事実確認(公表)」も同時に多くの教師はやってきたはずだ。なぜかどちらも「おおごとにしたくない」思いが支えとなっていたはずだ。この大切なターニングポイントを重大局面になると学校関係者は見逃す。今回がその象徴だ。ことは「真相解明」などというところに出口はない。誠実・正直・まっとうな姿勢を、事実と相手に向けることだ。それ以外に道などあるのか。
 前回取り上げた岐阜県の事件(2006年これもなぜか10月)で学校側は、
 いじめの確認はされていない・調査中(→遺書に名前があった生徒と保護者の一部が謝罪に動く)→学校はアンケート調査をする→被害生徒の立場にたつといじめと考えられる→いじめと自殺が関係している可能性がある→可能性が大きい→自殺は100%いじめのせいだ

という実に醜悪な展開をする。この結論が出るまで遺族の心は雑巾のようにずたずたになる。そんなことをまた繰り返そうとしている。


 因果関係

 この皇子山中事件では、A君「転落!」の二週間後、すでに市教委は「専門家の助言では自殺との因果関係は判断出来ない」という意見を言っている。この専門家なるものの意見は充分に想像がつく。私も何度かこの通信で書いたが、「家庭が子どもにとって『最後の砦』であったら子どもは絶対に自ら生命を絶つことはない」のだ。しかし、だ。だからと言って、その当人の弱い部分を攻撃したことが不問にされていいはずがない。死んだのは「最後の砦」が悪いんだって、そりゃ悪ふざけも過ぎてる。どのみち遺族は我が子が生命を絶ったという現実に、後悔と呵責がうずまく。「あの時こうしていたら」「子育ての仕方をもう少し」「甘やかし過ぎたかも」「厳しすぎたかも」と、悶々とする。
 予告した群馬県桐生市の上村明子さんのことで書こう。一昨年のやはり10月に自ら生命を絶った彼女はその日「学校に行くくらいなら死んだ方がましだ」、そして「私は学校でも家でもひとりぼっちだ」と訴えている。こういうところに学校は飛びつくのだ。前者ではなくもちろん後者の彼女の発言だ。裁判は今「支援する会」が支えてはいるというものの、それは凄惨なことになっている。
 自殺の二日前、遠足だったこの日、おそらくは「やっとの思い」で行った学校で、明子さんが「なんでこんな時だけ来るの?」と言われたことを読者の皆さんも御記憶のことと思う。このことが裁判で「学校を休んでいる彼女を、ビデオレンタル店で見かけた子がそう言った。単にいじめようと思ったのではない」と、学校側から反論されている。待ってくれと言いたいよ。そいつはレンタル店で明子さんをみかけた時「良かったね。少し良くなった?」と声をかけたのではないのだ。そんな優しい子だったら、遠足の日「良かったね。あの時も少し良くなってたみたいだし」と言えるのだ。「秘密発見」とばかりこんないい訳に使われてる。なんてこった。いいのかよ。
 また、いじめが発覚する前の年に母親がすでに明子さんのことで学校カウンセラーに相談に来ている、という事実をカウンセラーから得ている、というのだ。要するに「自殺といじめは関係あるのか」ということを学校は焦点にしている。いや「関係がない」という方向に学校は躍起となっている。学級崩壊状態となっていたこのクラスの担任が今どうしているのか知らないが、おそらくは「死んでしまったら取り返しがつかない」と思っているのだろう。しかし、明子さんが死んだあとも供養(誠意)は問われる。そのことから逃げていれば明子さんは浮かばれないのだ。担任が辞職しても死んでもダメだよ。ましては判決に服するなんていうことでもない。
 「因果関係」という発想自体が、現実回避という方向を目指している。


 ☆☆
もう連日の投稿はやめます。でも怒りが手を休ませません。次回はまた被災地に話題を変えたいと思います。今日、買い物袋や古着を届けたいと連絡をうけました。以前ボランティアでご一緒いただいた方からでした。私は自宅だったのですぐに集会所に連絡をとりました。副会長さんが電話にでました。するとやっばり優しい静かな気持ちになるのです。

 ☆☆
先日、フリーのライターから「新刊案内」が届きました。いつも新刊が出ると進呈いただく方ですが、今回は「出版不況のおり」自分で購入してもらいたい旨でした。その本のタイトルを書くのは控えますが、私はとても買う気になりませんでした。私たちはあの震災後、誰もが程度の差はあれ「選択する」ことをしている、と今回もつくづく思いました。「こんなこともあんなことも面白そうだ」「こんなことやあんなことも知りたい」と私たちは思わなくなった、そんな気がします。逆に今までまったく興味のないものに気持ちが動いたり。申し訳ないが、今どうしてこの本を読まないといけないのだ、と私は新刊案内を見て思いました。

実戦教師塾通信百八十九号

2012-07-16 18:11:57 | 子ども/学校
 大津市皇子山中事件 ④


 いじめは続く


 今回のことと関係ないと思うかも知れないが読んで欲しい。夫婦関係がうまくいかなくなった。本人同士の話し合いがうまくいかない。周囲が心配しだす。しかし二人は離婚すると決めた。親族がまず聞く。「一体何があったと言うんだ」。仕方なく両者説明するが、その説明の過程でまたもう一度泥仕合をする。その後も友人や知り合いから心配するがゆえの「どうした?」があるわけで、その都度また憎悪をぶつけ合う。とうとう折り合いがつかず、調停・裁判となる。今度はその調停・裁判の度に、「いつ・どこで・こんなことがあった」と主張する。確かに「親権」や「お金」のことでの「勝ち負け」はある。しかし、両者には何も残らない。ぼろぼろになるだけだ。積極的な方向があるとすれば、この話し合いのどこかで一方が、
「すみません! 実は浮気をしてました、お金も使い込んで家のことはほったらかしで、働いて妻のために頑張ってたなんてのはウソです!」
と泣いてわびる、とかいう局面にでもなれば訴えた方の傷も少しは癒える。
 分かってもらえるだろうか。いじめ問題というのは繰り返し本人(親たちをも)を苦しめ続ける。いじめた方にはいくらでも逃げ道はある。
・そんなつもりはなかった。からかっただけだ。
・いつのことを言っているのか? 誰のことを言っているのか?
・ぼくたちは友だちです。誤解もあるかも知れないけれど、よく遊びました。

すでにA君は死んでいる。だから両親がこのことを反証しないといけない。証明するためには
「あれがからかいと言えるのか」
「○月○日の午後、息子にこんなことがあった」
「初めは息子の友だちだと思ってました。でもある時期から…」

のように言わないといけない。その「いつ・誰が・どんなふうに」という具体的な回想と弁明は、すでに何度も学校関係者に繰り返し訴えたはずだ。その具体的な回想・弁明はその都度、恥ずかしさにも似た悔しさをもたらしたはずだ。いじめは続いているのだ。それが当事者というものだ。分かるだろうか。訴えをいじめた側が認めなかっただけではない。いじめの場合、必ず学校側もそちらに同じ形で加担するのだ。いじめの過酷さは、相手がその事実を認めない限り、そして相手が別な理由を掲げる限り、遺族は論駁の義務を背負うことだ。そしてその都度、
「その事実は本人をこんなふうに悲しませた」
「この事実は本人をこんなにもみじめにさせた」
「あのことは本人の誇りを微塵に吹き飛ばした」

と言わないといけないことだ。いじめは続くのだ。分かるだろうか、この反論のひとつひとつがまた一度、被害者(死んでしまった場合はその遺族)をみじめにさせ、苦しめる。
 もっともっともっと早い段階で、学校側の誠実な対応があれば、
「申し訳ありません。こんな悲しい結果にどんないい訳もできません」
という言葉があったらと、両親は悔しさを募らせ、そして息子に対する温かい言葉や対応がなぜないのだと、怒りに体を震わせたはずだ。
 私の目に触れたニュースでは、7月12日夜の臨時全校説明会で、校長の説明の前に全員の黙祷があった。そのことにきちんと触れたのは同日夜のNHKのニュースだけだったと思う。読売では「保護者の要請で全員の黙祷」とある。NHKによれば、校長が「学校は早期に調査を開始していた。報道にあるように取組が遅いということではなかった」なる説明をした時だったという。保護者の父親が、

「あなたたちは間違っている。なぜ、説明の前に黙祷しないのか」

と抗議した。そのことを「要請」と読売が言っている。その父親の声に会場は満場(800名近い保護者)の拍手だったという。そんなわけで、皇子山中の教師の良識はもう地に堕ちているようなので、保護者の「当たり前の感覚」そして、市長(側)の正道に期待するしかない現実のようだ。まあ、保護者の良識ある対応として端的だったのが、2006年、岐阜県の中学生の自殺でのことだったと思う。学校側が「いじめの事実調査をどうでこうで」と言っている間に、加害側の生徒の保護者が「謝罪したい」と速やかに動き始めてしまったことだ。今回それはない。ここで少し訂正。再び言うが、皇子山中が特殊なのではない。私はいじめ事件で学校側が「悲しむべき出来事を悲しむ」と明言した記者会見を知らない。せいぜい「本日、あってはならない出来事が起こりましたが…」とかいう枕詞をつけるのが関の山だ。その後は「現在、いじめがあったかどうか調査中」になる。「誠実な対応」が身体から抜け落ちて「正確な把握」に苦慮するマシンとなるのだ。こいつら一度として「とってもかわいい子だったのに…」「笑顔がかわいくて…」と言ったことはない。これらの言葉はすべて、児童生徒が交通事故や事件に巻き込まれた時の学校関係者の声だったはずだ。
 それにしても、ある時は「そっとしておいて欲しい」と自ら学校に頼んだ両親の、具体的な知られたくない事情にもこれから踏み込まれる。まだ多くのことが語られていないが、全国の津々浦々の人間に、そこまで知られてしまうのかということも出てこよう。そんな辛いことをまだ学校は止めることができる。まだ間に合うのだ。担任(どうせクズ野郎だ)が、加害生徒のところに行って、
「なあ、本当のことを言おうよ、こんなことA君はイヤだって思ってたんだろ? たまたま身体がぶつかったなんてウソはやめろよ。オレもおかしいと思っていたのに、こんなことになるまで何にもしなかった。オマエの父さん母さんにも一緒に、まずはご両親のところに謝りに行こうよ」

と、働きかけること、そこからしか始まらない。担任は説明会に出席しなかったらしいし、加害生徒は学校を休んでいるという(ネットでは実名がとっくからでている。そんな実名をネットで暴いてどうする? 全世界に実名ばらまいてどうする? 正義の鉄拳か!? ネット依存の臆病バカどもが!)。
 学校がいじめ問題を隠蔽するのは、
① 親・生徒に学校を信用されなくなる
② 加害生徒およびその周辺に重篤な影響を与えるかも知れない

といった理由で「正確な把握」を訴える。ひいき目に見れば「間違いであってくれたら」の思いがある。そして、
③ 学校の過失を認めれば「賠償問題」を引き受けないといけない

これは市民の血税なのだ、ということだ。こういったことをひっくるめて
④ 自己保身
以上で理由が完結する。
 学校だけではない、今の日本は「日々の流れの攪乱、システムの乱れ」を恐れる。日本のどこでも黄色や赤の警告ランプが点滅したままの状態で、なぜか、なぜかその日常を保っている。今の原発を見ていればそのことは明々白々だ。「それだけのことが起こった」という覚醒は、原発だけではない、この皇子山中事件もどうも不明瞭だった。
「警察も夜の家宅捜索だったから良かった。でなかったら土曜か日曜にやってもらわないと」と言ったのは、私の優秀な仲間。
「警察も、学校にはたくさんの生徒がいるんだから、あんまり大騒ぎして欲しくない」
とは、インタビューに応じた皇子山中の生徒の発言。
 学校(化社会)とは、こんな風にメカニックに自動化している。こんな状況になっているというのに、まだ「おおごとになったらどうしよう」という働きが動いている。

 真相解明・因果関係の解明に明日はない、という話、今日は少し触れることができたけれども、本論はまた延期。


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いいニュースはないのか。あります。冒頭写真が「ニイダヤ水産」の試作品です。昨日届きました。おいしい! 昨日は秋刀魚と銀鮭を食べました。社長が「腕に少しは自信がある」と言ってましたが、焼いている時の脂の感じといい、箸を入れた時の身のほぐれ具合といい、充分な手応え。そして「塩加減をどうしようか」と悩んでいたそれは、甘塩の、ご飯がはかどるいい塩梅ってやつだったと思います。試作品は無印ですが、本番は表に福島県を形どったラベルを貼るといいます。皆さんもおいしい「ニイダヤ水産」の干物をどうぞ。ネットでの閲覧も近いうち始まるということです。ちゃんとここで連絡します。

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白鵬、今日の取組(対豪栄道)さすがですねえ。白鵬の『相撲よ!』(角川書店)にある言葉を引用してこの号を閉じましょう。
「いつも、いつも、私の前には『これを越えてみろ』と言わんばかりに 『試練』という山が現れる」