実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

同調圧力(下) 実戦教師塾通信七百四十五号

2021-02-26 11:09:56 | 子ども/学校

同調圧力(下)

 ~子どもたちの「つながりたい」気持ち~

 

 ☆初めに☆

二回の記事を通して、ありがちな「村社会」や「天皇制」への批判を検証したつもりです。「同調」そのものは肯定的にとらえるというのが、私のモチベーションです。音楽の協和音も不協和音も、揺らぎながら快適な「同調」を目指します。いま流通している「同調」は、強迫的(「脅迫的」ではありません)なものとして、つまり「あるべきものとして」語られています。そこには協和も不協和もない、あるのは同一歩調=同調という息苦しい世界です。

でも、子どもたちの陰湿で残忍な行動は、積極的なものを動機として持っている。私は前からそう言ってきました。子どもたちの間で、この「同調」がどのような経過をたどり、どのような形になっているのか、実態を見ながらもう一度振り返ってみます。子どもたちはやっぱり信じられると思っています。彼らが「被害者」だとすることからは、何も生まれません。

 

 1 「ネクラ」と「プロフ」

 1990年代に入ると、ギャルの向こうを張った「コギャル」が街に姿を現す。彼女たちの「三種の神器」は、ポケベルとたまごっち、そしてプリクラだった。このプリクラこそ、自分が他人とつながり承認される世界だった。それから10年余りが過ぎると、携帯アプリ「プロフ」が、子どもたちの間に広まる。子どもたちはこの機能を活用し、自分のプロフィールを発信する。手軽で新たなツールが、承認を求めて躍動した。自撮りのヌードが拡散したりもした。子どもたちは承認を求めて、自身を開放しようとしたが、つながりは稀薄なものだった。どうしてそこまで彼女たちは、承認を希求したのだろう。

 これ以前に彼女たちは、強烈な「協調性」のフィルターを通過していた。「ネクラ」というフィルターだ。1980年代初頭のある日、子どもたちの会話に「クライね」という言葉が登場する。これはすさまじい勢いで拡がった。お陰で子どもたちはみんな、大げさなリアクションをしないといけなくなり、友だちには同伴しなければならなくなった。少し前まではひとりでぼんやりいても、友人は「なにセイシュンしてるの?」などとからかった。関わりはやんわりと、風のようにそばを優しく通りすぎた。しかしもう、本も窓の外の景色も胸の内も、行けない場所になった。一体何が起こったのか。おそらく子どもたちはこの頃、つながりたいのにつながれないという、もどかしい焦りに似た気持ちでいた。新幹線は時速300㎞営業が目前だったし、家庭のダイニングには「冷蔵庫にあるのをチンしてね」というメモが置かれるようになった。「同情するならカネをくれ 」と叫んだドラマ『家なき子』もこの時期である。社会のスピードも人々の分断もすさまじかった。こんな時に発生した、子どもたちの言葉であり行動だった。ここには止むに止まれぬ事情が横たわっている。

 つながっていたかったという子どもたちは、「つながらないことを許さない」気持ちを育て、本当は「ありもしないつながり」を求めるようになったのだ。つながり欲求と承認欲求は、境を見せることなく膨(ふく)れ上がった。

 

 2 リアルな「つながり」と「承認」

 学校に行きたくない生徒は、家にもいられなかった。家が厳しかったからだ。生活上の事細かなこともそうだったし、進路も「上」を目指すように言われる。そこで彼女は登校したあと、トイレに籠(こ)もることにした。具合が悪いからと、トイレに向かう。そこでスマホに浸(ひた)る。とりあえず学校には来ているのである。しかし、これが露顕(ろけん)しないはずがない。事実を知った親は、クラスで「いじめ」があって学校を嫌がってるのではないか、しがみつくように理由を求める。しかし高校の行き先まで強いる親に、子どもは心を開くわけがない。初め担任は「友だち」を保健室やトイレへと、お迎えに行かせる。しかし何の関わりもない人間が、相手を動かすことが出来ないのは道理だ。担任が動く。これが関わりであり、やがて「つながり」へと変わる。彼女は少しずつ口を開く。教室に「戻る」かどうかと関係なく、保健室とトイレを媒介に二人は対話を続けている。彼女の中で、静かに「つながり」と「承認」という事態が、同時に進行している。「つながり」も「承認」も見えるものであり、確かな肌触りを持っている。

 

 ☆後記☆

子ども食堂「うさぎとカメ」、親子の嬉しそうな顔がたくさんでした。嬉しいです。

フードバンクからの品々です。

ただいま奮闘中、調理担当スタッフの様子です。早くからたくさんの人が来たもので、作るのが追い付かず待ってもらいました。

このハンバーグ、大きさ伝わるでしょうか。高級牛肉なんです。私たちも食べたかった!

 ☆☆

私の実家で本籍地でもある、栃木の足利がずい分な様子です。10年ぶりぐらいでしょうか、電話を入れました。ダレだんべぇと思ったよという、懐かしい上州訛(なま)りでした。燃えている山が少し離れた場所だとは分かったのですが、いやあ煙と臭いがひどくてさぁと言うのでした。もうシャッターばかりの通りになっちまったけど、煙で道の向こうが見えねえのさ、と。まだ消火の見通しが立たないと、今朝のニュースでした。

 ☆☆

前号「1998~2017年」を「10年」の隔たりとしたのは間違いでした。「20年」ですね。引き算が苦手なもので、すみません。


同調圧力(中) 実戦教師塾通信七百四十四号

2021-02-19 11:44:47 | 思想/哲学

同調圧力(中)

 ~「田舎」そして「天皇制」~

 

 ☆初めに☆

予定では「同調圧力」は今回の「下」で締めるはずだったのです。思いもかけず、前回の記事に多くの読者から反応がありまして、これは書いておいた方がいいと思った次第です。

ひとつに「村」の体験とも言える、田舎の生活で読者が感じたこと。もうひとつは「天皇制」です。後者に関しては、間接的に少し触れたつもりでしたが、少し考えないといけないようです。簡単では済まないし私の手に余る作業ですが、少しばかり書こうと思います。

 

 1 「折り合いのつけどころ」

田舎のいやらしさは蜘蛛(クモ)の巣のようで

おせっかいのベタベタ息がつまりそう

だからおいらは町に出たんだ

義理と人情の蟻地獄

おいらいちぬけた (岡林信康『おいらいちぬけた』)

そんなみっともない格好で、みんなが見てる、あいさつも出来ないのか、変な噂がたつ等々、数え上げればきりがない監視と干渉。習慣と言えば聞こえはいいが、窮屈な生活に若いうちは反発するのだが、年がかさめば「昔はオレもそうだった」と若い者を抑え込んだ。それで自分を受け入れてくれる場所に、若者は殺到した。高度成長の1960年代、田舎をあとにした若者は、どうなったか。

ところが町の味気なさ砂漠のようで

コンクリートのかけらを食ってるみたい

死にたくないから町を出るんだ

ニヒリズムの無人島

こいつもいちぬけた (同)

昭和の若者は田舎を「故郷」と慕って身悶えし、町=都会との間を「帰ろかな」とさまよった。それはまるで、スマホの仮想空間/情報と、リアルな現実の間を苦しんで行き来する、現在の若者の姿のようだ。

 こんな時私たちは、白か黒かという対処をしないで「どこかで折り合いをつけ」ようとして来た気がする。このことを日本人の不可解と言ってしまうが、それは様々な「窮屈でも/ニヒリズムでもない」風景を生んでいる。たとえば小さな女の子が、大きなランドセルを背負ってホームの電車を「ひとりで」待っている。「みんなが見ているから大丈夫」なのである。また、時には売れた金額より多くのお金が箱に入っているという、東京近郊農家の無人野菜販売所。それは対面を必要としない場所だ。外国人が目を見張って驚くというそれらの景色は、長い時間をかけて作られた。

 今も私たちは、折り合いのつけどころと称して、窮屈ではない/風通しのいい場所を、きっと探している。

 

 2 「同居」してないもの

 前首相は「国難」がお好きだった。コロナの前は、北朝鮮のミサイルの時だった。北朝鮮のミサイルが日本上空を通過し、三陸沖に落ちたのは1998年だった。しかし「国難」としてアメリカに足並みを揃えたのは、それから時を経ること10年、2017年だった。この時の総選挙は「国難」選挙で、自民の圧勝。全国瞬時警報システム(Jアラート)で床に伏せる訓練の姿を、終戦間際の竹槍に重ねたのは私だけなのだろうか。そんな事になったら、もうおしまいだよと、永井荷風など当時の真っ当な人たちは言っていた。

 決まったようにこんな時、街頭でのインタビューや世論調査がされる。

「あなたはよその国が攻めて来たらどうしますか」

「自衛隊が交戦することを支持しますか」

攻めて来られたとしてどうしようも出来るはずもない。自衛隊には戦ってもらう以外にない。このことの承認を迫っているかのようなこの問には、人々の「如何ともし難い」認識に便乗し、自身を問うことのない甘ったれた空気が溢(あふ)れている。何より、私たちは「なるべくなら、そんなことにはしたく(なりたく)ない」のである。そこに「国難」が「同調」を畳みかけて来る。ここには、私たちが「同調している=何気なく過ごしている」現実との乖離(かいり)がある。私たちの殆どが「戦争はしたくない」場所にいるのだ。

 明治以降、零細/小農も包み込んでいた農村共同体が危機に瀕(ひん)した時に現れたのが、自然回帰思想「農本主義」である。これが天皇を頂点とするファシズムに組み込まれた根底には、天皇家の形成してきた歴史と文化があった。それを担ったのが稲作文化であることは『古事記』が示すところだ。どんなに形骸(けいがい)化しようとも「形骸」の名の通り、天皇は形だけでも歴史から姿を消すことはなかった。そして江戸で言えば幕末、実体として見事に蘇(よみがえ)る。

 私たちは幸せを願って神社をお参りする。また、東日本大震災の時、被災者を前に膝まづく天皇を見れば驚愕(きょうがく)する。私たちの深い場所に「天皇」はいて、それは見た目や人柄、たたずまい等とは関係がない。「天皇制」は、小室圭なる俗物を絵に描いたような人間が、どんなに引っかき回そうとも崩せない場所のような気がする。この深い場所との「同調=同居」が「圧力」と言えるのかどうか。もし「同調」に「圧力」を感じた時は、私たちの「同調=同居している実際生活」との乖離を、私たちは見極めないといけない。

「陛下は私たちの気持ちをきっとご理解下さる」

と言って決起した青年将校たちの2,26まで、あと一週間なのだ。

 

 ☆後記☆

次回こそ、このシリーズ締めます。ここのところ、あちこちで学校問題の総括が目立ちました。催促も受けています。次回で少し触れること出来ると思います。

地震、すごかった。やっぱり恐いですねぇ。改めて、原発いらないよと思いました。楢葉の渡部さん、大丈夫です。「いやぁ、(地震が)久しぶりで」などと、懐かしくもありませんがね。

浅草の「亀十」! 二年ぶりかな。なんと柏(セブンパーク)に出張販売でした。この味と食感、これこそ懐かしい。今月一杯やってるそうですよ。

子ども食堂、明日で~す!


同調圧力(上) 実戦教師塾通信七百四十三号

2021-02-12 12:15:42 | 思想/哲学

同調圧力(上)

 ~「村社会」を考える~

 

 ☆初めに☆

以前にも増して「同調圧力」なる言葉が聞かれるようになったのは、コロナのお陰でしょう。どうして外出を自粛しないのか営業を短縮しないのか等、いらだった声が辺りに響きました。この傾向は今に始まったことではない、日本に特有なものだという中で「同調圧力」なる言葉が出回っているようです。そうなのでしょうか。「この店つぶれろ」と貼り紙をする「自粛警察」が不当であるのは言うまでもありません。しかし、彼らは「足並みを揃えろ」と言っているのではありません。病気が恐いか、ストレスがたまっているかのどちらかです。当人が顔を見せないことを考えれば、やはり後者に分類されるでしょう。

閉鎖された社会を「ムラ」と言って批判する現象は、少し前は原発をめぐる組織に対して「原子力ムラ社会」と、揶揄(やゆ)する時に見られました。周囲に気づかいする社会として、「村」がずい分な窮屈をしているわけです。今回は、その「村」を検証します。違うんだゾと言うことになります。そして、次回の「下」では「いじめは『同調圧力』で起こっている」のか検証します。

 

  「村」の成り立ち

 古代より逆上る原始共同体と、稲作が始まって登場した共同体=「村」が同じものでないことは当然と考える。人間の手による大規模な自然改造の組織性・計画性は、律令制に明記される。それらは年間の区分・活動の順序、そしてエリアに至るまで細密にされる必要があった。たとえば、畦道(あぜみち)さえ不明瞭な田園においては、種まきは順序よく行われないといけない。すでに作業を終えた田んぼを横切って自分の田んぼを目指すことは、忌み嫌われるのは当たり前だ。この「当たり前」は、田んぼに入って作業する家畜が登場するようになれば、当然増幅する。すべては、農作業が人間による大規模な自然改造だったことに由来する。農業に「水」が極めて重大な要素であったことは言を待たないが、水に関する祀(まつ)りごとが、今日のダムをめぐる「治水」「利水」問題と考えれば、大規模な自然改造の理念は今も変わらず引き継がれていると言えるのである。

 中世/戦国時代に登場する村は、ひとつに山の上に築いた城を守るため地方の領主が周辺に作った村(根城百姓と呼ばれるものが構成)だ。大体において、荘園から発生する武士なるものが、農業/農民とは切っても切り離せない。そしてそれ以前の、社寺が持つ広い土地を与えて住まわせた門前百姓の構成する村等、村のあり方は様々であった。しきたりは当然、領主や村長(むらおさ)の器量にも左右されるが、社寺の村に関して言えば、信仰が基礎となった集合ゆえ、しきたりたは原則的ではあっても平穏だったという。それに対して「根城(ねじろ)」と言われる村は、常に戦乱を背にしたような事情を抱えている。作業や取り立てと、相当にきつい決まりが必要とされていたのは間違いがない。

 つまるところ、「村」にしきたりは「必要」なものだった。時と場所によってそれは厳しかった。しかし、必要な理由は「閉鎖された村社会」なる前時代あり方ゆえというより、戦乱を勝ち抜くという目的において、より根底的には自然を人間の支配下におく活動において、必要不可欠な要素だった。

 

 2 喪(うしな)われたもの 

「ママがスマホばっかりみてるから、ぼくはスマホになりたい」

子どものぼやきが絵本になった(『ママのスマホになりたい』WEB出版)。この本をめぐって様々な意見が飛び交っている。「自分のして来たことが恥ずかしい」という意見はもちろんある。しかし、「どうして育児は母親だと決めてかかるのか」「日本における男女差別が公認されている」等々という意見のボルテージが高いのだ。育児というものには、喜びの片鱗(へんりん)もなくなったのだろうか。ここで育児のことを言うつもりはない。この件は、村社会が成立していた時代と現在を対比するにあたって、格好の材料だと思った。

 村の家族は大所帯で、いろりや明かりを囲む団欒(だんらん)には中心があった。中心で語るものは年長のものと決まっていた。中心に聞き入るのは幼子も同じだった。年かさの語りを幼いものが理解することはないが、年の近い兄や姉のうなずきや笑いを眺めて彼らは育った。「分かりもしない」彼らは、その時ともに笑ったのだ。この笑いを日本人の不可解、と称するひとたちがいる。これは今もある日本人独特の、周辺への「理解よりは同調」から来る。しかし、それは恥ずべきことなのだろうか。このことは何度か書いて来た。家族を養い尊敬させしめる家父長制を頂点としたあり方は、そのまま戦争する国への賛同に導いた、現在に続く「同調圧力」はそんなあり方だとする考えが、「同調圧力」を批判する流れにはあるようだ。私には家族というものが、国家まで地続きとなっているとは思えない。家族はどこまで行っても家族で、拡げても親戚、頑張って同族・氏子ぐらいだと思っている。もちろんこれは、吉本隆明の『共同幻想論』が基調となるものである。

 日本は現在、文化を捨て方向を失いつつあるということである。村では子どもが安心できた。大人/先輩についていけばよかったのが、村社会だった。放蕩(ほうとう)で性悪な大人もいたはずだが、何よりそういうすべてを村という生活は抱え、子どもはそれを信じた。それが無くなった。家族は「大」から「小」「核」となり、現在に至っては家族というカテゴリーさえ疑わしくなっている。同時に父/母の変貌が進行し、そこから受け継ぐものの弱い/危うい現実が登場した。言うまでもなく、ここまで言って来た「村」とは、子どもが「頼れる」「承認される」、寛容な社会だ。村の名残はないのだろうか。

 コンタクトレンズを落として困ってたら知らないおばさんが一緒に探してくれた/コンビニで帰る家のない私を相手に話好きのおじさん/ラインで落ち込んでいると知らない先生が「どうした?」と廊下で声をかけた。運がいいとか悪いということはある。しかし、子どもたちの扉は必ずどこかに開かれている(って拙著『子ども/明日への扉』)。そして、私たちの叱り/すかし/なだめ/励ます態度はどこかで息づいていて、運がよければ開いた扉と遭遇する。

 寛容な「村」は、どこかで生き延びている。

 

 ☆後記☆

いやあ、『朝顔』の筋書き予想なんてするんじゃなかった。冷やかしや励ましをたくさん、ありがとうございます。クスリやってるかどうかではないということなのに、ダメですねえ。ちょっとおとなしくしないといけませんね。おっと来週は最終回ですか。第三クール来そうですね。

 ☆☆

2015年の内戦で「世界最悪の人道危機」とされたイエメンで、コーヒーの栽培をしているニュース見ましたか。その「スレイマニモカ」と「マサールハラズモカ」、いただいちゃいました。

港湾モカから出荷されるので「モカ」と名付けられた豆は、すっかりその名を聞けないでいました。久しぶりに味わうモカは、変わらず酸味の効いたテイストでした。

子ども食堂、来週で~す。


再び『朝顔』 実戦教師塾通信七百四十二号

2021-02-05 11:28:50 | 子ども/学校

再び『朝顔』

 ~子ども食堂開始から一年~

 

 ☆初めに☆

サスペンスでもミステリーでもない、純然たるホームドラマ『監察医・朝顔』に惹かれ続けてます。視聴率のランキングには登場していませんが、今や娘のつぐみ(加藤柚凪)を中心とする朝顔(上野樹里)一家は、そんなものと一線を画した我が道を、ゆっくりと確実に歩んでいるように見えます。

コロナの動向を見ながら子ども食堂を始めて一年間、続けて来ました。胸の内は、毎月穏やかではありませんでした。そんな中、私はなぜか『朝顔』から学び、力をもらっている気がするのです。

 

 1 優しい「肯定」

 事件や事故の「なぜ?」がどうなったか、それは拍子抜けするくらいにいつも簡潔だ。散々気を揉ませておいて、トンネル事故に巻き込まれた夫(風間俊介)はいつの間にか生還するし、家出した娘・つぐみも戻ってくる。その瞬間は実にあっけない。犯人と間違われ自殺した容疑者に代わって、真犯人がつかまる。しかし、捜査の過程はなんの説明もない。そこでは真犯人の顔も断罪も、すべて省略される。

 いつも提示されていることは、誰かへの非難や残されたものの絶望よりも、「生きている」「戻った」事実であり、亡くなった場合では、その人が「生きていた」こと、そして「どのように生きたか」への思いである。警察ドラマでも医療ドラマでもあるのに、内容も展開も地味になるのはそのせいだ。決して誰も責めない、あるいは責める場面を見せることのないこのドラマに、私は徹底した人間の「肯定」を見ているように思う。もし「否定」しているとすれば、無責任で安易な判断や批判を繰り広げる「新しい世間の姿」だろうか。それでも、その人たちをむやみに悪者にすることのない配慮を、このドラマは持っている。取り返しのつかない出来事にも出来ることがある、あかの他人でも寄り添えることがある、という力強い「共感」が、そこにはある。

 たったひとつ、この家族をいつも苦しめていることがある。それが東日本大震災なのだ。津波で妻(石田ひかり)を亡くした父(時任三郎)は自分の老いを迎える中で、また、娘を亡くした祖父(柄本明)は自分の衰えを加速する中で、あの日何もできなかったと悔やんでいる。そして、あの日から何もできずにいると思って、自分を責め続けている。いたたまれないほど揺さぶられる時、静かだったはずの家族が、それぞれ相手を罵倒(ばとう)し、時に海岸で嗚咽(おえつ)する。しかし、そんな長い苦しい道行(みちゆき)から出されて来るものは、決して「生きよ!」という強面(こわもて)のメッセージではない。仕方がない気持ちと、仕方がないとは思えない気持ちの間を行き来する家族に、私たちも寄り添えるような気がする。しかし私たちはここで、相手への安易な接近という「傲慢(ごうまん)」と、相手との距離を考え続ける「優しさ」の違いを知らされている。だから、見守るという態度を思い出すのだ。

 

 2 「本当に困っている人たち」

 私たちの子ども食堂「うさぎとカメ」に、行政から何らかの支援を受けている人たちが来ていることは分かっている。そうでない人たちも一定数いるように思う。どれほどのことが出来ているのだろう、といつも思う。それで私たちスタッフの中からも、本当に困っている人たちに届いているのか、という考えが時おり出される。「本当に困っている人たち」とは何だろう。

 この一年、会食形式はたったの一回で、あとはお弁当を配布するだけだった。そんな中でも、この子は一体、この人たちは一体どういう事情があるのだろうと思うことが何度もあった。もちろん詳細は書けないが、子どもだけで、それも小さい子が「家族全員」の分を取りに来る。コロナのため受付で名前を記入することになり、その子は名前を記入すると、自分の家の事情を話すのだった。あるいは、両親揃って子どもと一緒に「本当に助かります」と言って頭を下げる家族。また別な母親で、早々に引き上げる後姿には、日々の生活が張りついているように見えた。

 コロナ下での生活用品支援イベントがあった、という読者からの報告があった。どうしてこんな人までもらいに来るのか、という普通の暮らしをする人たちの盛り上がりだったらしい。そんな時、こういった事業に対して(私たちに対しても)、「自己満足」、そして受け取る側の「便乗」と批判がされる。仕方がない、と私は思っている。他に、貧困な場所につながれるネットや団体があることも知っている。しかし、私たちは「本当に困っている人たち」を発掘しているわけではない、といつも思う。震災の支援をする中でのことだが、「私の身体は、この間来てくれた看護士さんに診て欲しいんだよ」と言う避難所の声を思い出す。顔が見えるとはこういうことなのか、と思った瞬間だった。

 私たちは「本当に困っている人たち」を探すのでなく、「あの子」「あの人たち」から「選ばれ」ないことには仕方がないのだ。

 ひとりで家族の食事を取りに来たあの子は、どうしているのだろう。

 

 ☆後記☆

余計なお世話ですが、来週の『監察医・朝顔』予想しちゃいます。パン屋さんの彼女、クスリやってません。そういう悲惨を暴きたてるドラマではない、というのが理由です。って、皆さんもそう思ってますね。

そんなわけで、今月もお弁当の配布です。二週間後20日の土曜です。今回は作ります。あっつあっつのハンバーグ弁当です。

 ☆☆

勉強の遅れなんかどうにでもなるよ、という頼りになる大人の皆さん、優しい声を大にしましょうね。

春を待つ、大津川の土手です。

これは先日、冬の土用のうなぎです。夏まで待ちきれない。