実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

図書 実戦教師塾通信六百五十八号

2019-06-28 11:41:05 | 子ども/学校
 図書
     ~「本」のこと~


 1 本の場所
小さいころから本に親しみ、本に育てられた来たような気がします。何もなかった戦後の日本でした。自慢じゃないがそんな中でも、私はひもじい思いをしました。何度も書いたことですが。
でも、本がそれを救ってくれた。こんなひどいむごいことがあるんだと伝えてくれた『フランダースの犬』。自由に生きなさいと教えてくれた『トム・ソーヤの冒険』。いやなこと悲しいことがあっても、本の場所まで行けば救われた。逃げ込める場所でもありました。
と言っても、子どもたちに本を読むように進めるつもりではありません。本がいいもんであることは間違いない。でも本を読むのにも、運不運や出会いの有無があるのです。
「なんだかこの子は本が好きなのよねえ」
という親の声は昔も今も同じです。大人の及ばないところで決まっています。

 2 「学校へ行くくらいなら死んじゃおうと思ったら図書館も思い出してね」
今の子どもたちを黙って見ていられない大人たちが、たくさんいます。子ども食堂がこんなにもたくさん生まれることがそれを示しています。希望を感じないわけには行きません。図書館にもそれがあります。
ここでも以前取り上げました。鎌倉の司書さんがつぶやいたのは2015年の8月。
「もうすぐ二学期。学校が始まるのが死ぬほどつらい子は、学校を休んで図書館へいらっしゃい。マンガもライトノベルもあるよ。一日いても誰も何も言わないよ。9月から学校へ行くくらいなら死んじゃおうと思ったら、逃げ場所に図書館も思い出してね」
「子どもたちよ、死んではいけない」という「文化人」たちのメッセージとは全く別物だと思いました。「一日いても誰も何も言わないよ」なんて、簡単に言えるもんじゃない。「見守る」ことに伴う「覚悟」が簡潔です。
さて、これと同じものが千葉県柏にもあることを、割りに最近知った。どうやら新聞記事を見落としたらしい。つい先日、少し話を聞いてきました。

この絵は、柏市立図書館の本館一階フロアに掲示されています。絵本作家・大野隆司の手によるものです。鎌倉と同じく、2015年の8月に発表されたものですが、決して「追いかけ」たものではない。大野氏は2013年、すでに「死にたくなったら ふる本やにおいで」という、古書店バージョンを発表しています。

     2016年2月17日朝日新聞・千葉版から
私の知らない絵本作家だったので、どんな絵本を描いているか見たかったのですが、
「大野さんの絵って、ここは就学前の子どもが対象だから、刺激が強すぎるかな………」
とは、同じく柏市立図書館分館の職員さんの話です。
絵(ポスター)のある本館の職員さんは、相手が「誰でもいいんだ」ということを大切にしたいと言います。また、
「不登校を助長する気か」「学校に行かなくてもいいのか」
なる、鎌倉にあったような批判は寄せられてないとも言います。
柏近隣に住む人は、いや、それ以外の人たちも、こういう呼びかけがあることを知っていてください。

 3 問題集
昨年だったか、息子(中1)が国語を嫌いで、特に「長文読解」がダメなんだけどいい方法はありませんか、という相談を受けました。好きなものがあればそれを伸ばすのがいい無理することはないです、と答えたのですが、息子本人がどうにかしたいと思ってるという。それならこういう方法があります、彼が気に入るかどうかは別ですがということで提案したのは、「長文読解の問題集」をやること。私がそれで様々な本と出会えてきたからです。
この問題集に取り組まなかったら、たとえば太宰治のことは「『走れメロス』を書いた人」で中学時代を終えていたと思う。問題集のおかげで、私は『めくら草紙』『富嶽百景』を知ることとなります。そして太宰の闇を知り、文学の深みに入って行ったんだと思うのです。これはひとえに問題集のおかげで、それで成績が伸びただの変わらなかっただのは重要ではない。問題集をきっかけとして、その全文を図書館や本屋に求めたわけです。
さて、このケースの結果は上々だったようです。息子はすっかり長文を好きになったと言うのです。いつかこの息子から「『◇◇……』の話を聞いてください」と、そんな頼みが舞い込んだら、もう最高ですね。



 ☆後記☆
なんだか、台風が生まれたんだとか、こんなに近くで。だからあっと言う間に上陸の予報です。「日本は亜熱帯になってしまったんでしょうか」と、TBSのひる帯で言ってました。大したことがなければいいですね。

     夏ですね。久しぶりに、ハスが群生間近の手賀沼です
 ☆☆
バスケットボールに興味はないのですが、いやあ八村選手というか、八村君、いいですねえ。片言の日本語が出てくると思いきや、当たり前の顔して、なめらかに「日本の皆さん」へのメッセージ。そして、まるでアカデミー賞を思わせる会場で、今度は英語で「中学校の恩師」に感謝する。驚きました。「黒人として見られ」た「ハーフ」の子どもが、様々な苦労をして育ったのは間違いない。でも、「『ハーフ』に生まれてよかった」と口にする姿。さわやかです。NBA見ようかな。

蛭田牧場なう 実戦教師塾通信六百五十七号

2019-06-21 11:18:27 | 福島からの報告
 蛭田牧場なう
     ~牛も子どもを産んで乳が出る~


 ☆初めに☆
この写真覚えてますか。2年前4月のニュース、楢葉でのスナップです。みんな蛭田牧場のヨーグルトを食べてる。

左から蛭田さんと渡部さん、安倍首相が真ん中で、右端にいるのが今は懐(なつ)かし今村復興相。笑顔がひきつっております。
「自主避難者は自己責任、国が責任を負うものではない」という大胆な発言をした今村先生は、首相と共に「お詫び行脚(あんぎゃ)」のため福島へ来たのです。ついでながら、この二週間ほどあと、「震災が福島で良かった」発言で、今度こそ辞任とあいなりました。
 ☆☆
蛭田牧場のその後をお知らせします。子牛も入れれば100頭に達しようという蛭田牧場は元気です。「まだ胸を張れる状態ではない」という蛭田さんですが、明確な「明日」を雄弁に語ってくれました。

 1 オートマ牧場
体育館のような威容を誇る「たい肥」工場。

居並ぶ牛たち。藁(わら)の底に隠れている「木の実」を探ってます。

そのかたわらで、大型のルンバのごとく動いているのは、拡がってしまったエサを履(は)き集めるロボットです。


オートマの最たるものが「乳しぼりロボット」。

ロボットが乳を搾(しぼ)っているところです。分かりづらくて申し訳ない。扉の向こうでは、ロボットの「指」が牛の乳首を探っている。探り当てたあとは吸いついて搾るという段取りを、ロボットが自動的にやってる。それよりも感心したのは、このロボットに通じる道を牛が自分から入っていくこと。「乳が張ったらここに来れば楽になる」ことを牛が知ってるのですね。休みなくこの通路に、牛が入って来ます。
乳が楽になったあと、やれやれという感じで通路にしゃがんでしまう牛もいるのです。しかし、蛭田さんはそんな牛を甘やかしません。コノヤロウと角材で威嚇(いかく)します。
「いつも同じ牛でね」
ちょうどいいスペースだと思うのかなと、笑います。


この日は「つめ切り」の日でした。職人さんが三人がかりで牛のつめを切って行きます。油断するとすさまじい蹴りが飛んでくる。命がけの作業です。大きさは半径10㎝ほどの半月状で半透明のつめが、足元にたくさん落ちています。

 2 牛も子どもを産んで乳が出る
事務所の入口に、仲村トオルとのスナップと色紙が、変わらず鎮座(ちんざ)してました。大切そうな写真のふもとに、閣僚たちとの写真も見えます。

「牛は子どもを産んで乳が出るんでね」
蛭田さんが話します。子どもが大きくなれば、やがて乳は出なくなる。つまり当たり前のことだが、母牛ばかりだと牛乳が一度に生産されて、そのあとはまったく出来ない。
「赤ちゃんがいて、幼稚園生がいる。そのあとに小中学生が続いてという順にならないと、生産システムとしては不完全なんです」
以前聞いて、おそらくここにも書いたような気もするが、新鮮です。

     子牛たちは、下で放牧されています。
そのシステムは震災前までは先祖によって守られていた、それが震災ですべてなくなった、と。そして、大人の牛ばかりを購入して牧場は始まった。牛は夏場にたくさん水を飲むため、乳は薄くなって単価が下がる苦労もあるという。
北海道から、
「こっちでやったらどうだ」
という声もかかったという話。これは渡部さんも言ってましたが、
「慣れ親しんだ土地は置いてけない」「向こうは寒いんだ」
と言います。
「いいよな、渡部さんは」
話は続きます。渡部さんの息子が、専門の学校に進学して跡を継ぐ気持ちを固めていることをうらやみ、
「うちの娘は『(蛭田牧場の)社長になるんだ』て言うんですよ」
だから、その時は(お父さんを)使ってねって言ってるんです、とまた笑う。


楢葉ではこうしてホッとして、くつろいでしまう私です。



 ☆後記☆
いわき市内で500世帯を擁していた高久地区の仮設住宅も、つい先日撤去作業が終えて、工事用フェンスが取り外されました。広大な地面に、住宅を結んだ狭い路地のなごりと枯れ草だけが姿をみせました。おばちゃんたちの笑顔の行き交いは、どこかで続いているのでしょうか。
 ☆☆
地元の住民が、巨大噴火に対する安全性をめぐって起こした川内(せんだい)原発訴訟(そしょう)の判決が出ました。今週の月曜日です。
「合理的に予測される範囲を超える危険性については、発生の可能性が相応の根拠で示されない限り、対策を講じなくても社会的に容認されている」
これって「想定外」のことがあれば福島原発のような事故はまた起きますよ、だって「想定外」なんだからって言ってるようなもんです。腹が立ちます。
 ☆☆
先日お知らせした「取手いじめ事件」の動画がアップされました。一時間を切る感じです。良かったら見てください。
https://freejournal1.wixsite.com/kotoyorimasato/blank

取手いじめ事件報告書(結) 実戦教師塾通信六百五十六号

2019-06-14 11:15:42 | 子ども/学校
 取手いじめ事件報告書(結)
     ~「観る」という視点~


 ☆初めに☆
「ひどい担任だと思う」というのが、ブログへの多くの反応です。確かにその通りなのですが、私の力不足を感じます。誰もがいつも陥(おちい)る「学校的あり方」を、もっと分かりやすく書けないものかと思っています。
 ☆☆
「上」「中」「下」のあとを結局「結」としました。でももちろん、この問題がこれで完結するものではありません。
今回は予定通り、第三者委員会の提出したものを確認します。すでに何点か触れてますが、おさらいしてまとめます。

 1 子どものとらえ方
 妙なことであるが、いじめ問題をとらえる時、その前提の「子ども」について語られることがない。ちなみに「いじめ防止推進対策法」でも全く見られない。いじめの定義をしたあと、対策が続くだけだ。
 取手の第三者委員会の秀逸(しゅういつ)なところは、その肝心な「子ども」をしっかりとらえていることだ。子どもの積極面ばかりではなく、大人にとって「困ってしまう」一面もとらえている(< >はすべて報告書から)。
<もともと学校は子どもの集団生活の学びの場であり,複数の人格のぶつかり合いの場である以上,傷つけ・傷つけ合いが起こることは必然である。その中には,必ずしも援助者である教員の介入がなくても,教員の見守りの中で,子ども自身の能力によって解決に向かうものもある一方,………適切な対処をなさないことによって,行為の対象となった子どもの………生命の危険を招来する場合もある。>
こういうとらえ方をちゃんとしていれば、たとえば「人間として許されない」なる言葉を、私たちはもう少し慎重に使っているはずである。そして、子どもに「どうして?」と投げかける対応が出来ているはずだ。いじめは「してはいけない」行為なのではない。「そうせざるをえない状況で起こる」行為だ。その必然があればやってもよい行為だ、なんぞと言ってないぞ。その必然をつかまえて、大人は子どもの力になることが大切なのだ。その点を、第三者委員会がしっかりふまえている。

 2 「からかい」への踏み込み
 いじめが発覚すると、関係する生徒の口から「ふざけただけ」「からかっただけ」等という言葉が、お決まりのように出される。私が知る限りでは、この部分に踏み込んだ第三者委員会は少ない(2014年・天童市中学1年のいじめ自殺事件の第三者委員会は明確に論じている)。残念ながら館山のいじめ事件でも、昨年提出した第三者委員会の報告書は明言を避けた。
 ブログ「上」での奈保子さんの日記、
<ほんとうんこだよ,クソってるね! キモーw まぁ,がんばれよ 好きとかいってあげる>
を思い出してもらおう。この部分も含めて、奈保子さんを追い込んだ連中の「ふざけた」ことに対し、第三者委員会は明確に指摘する。
<お互いにふざけあって書いただけであり,本件生徒が傷ついているということはないとの弁明がなされているが,このような書き込みが冗談として許容されるのは,少なくとも,AやHと本件生徒との間に,強い信頼関係で結ばれ,相互に冗談で書き合えるような対等な関係性が存在する場合でなければならない。>
「強い信頼関係」と「対等な関係性」がバックにあって「冗談」は成立する。教員がちゃんと子どもたちを見ている時は、判断が難しい場面に出会っても「オマエたち、そんな(ことが出来るくらい)に仲よかったっけ?」と牽制(けんせい)できる。一度二度はごまかせても次はそうは行かない、はずなのだ。
 現場/大人の立ち位置を提示しているという点で、私たちは、この報告書から学ばないといけない。

 3 第三者委員会の葛藤(かっとう)?
 そしてまた第三者委員会は、時を追うに従い発言を変更する教育長を<到底信用できない>と断じ、関係者のヒアリングでは、
<文部科学省の基本方針に対する正確な理解が欠如していたとの回答が異口同音に返ってくるだけであった>
とする。ここで意味することが報告書には見あたらないが、
「法律理解という前に、もっと基本的なことはしましたか」
「あなたたちは、ちゃんと事実と向き合いましたか」
と言いたいのは間違いない。

 さて最後になる。あえて「葛藤」と考えるが、第三者委員会はいじめに対する子どもたちの姿勢を「問いただし」つつも、それが「出来ない状況」を承認していると思えるのである。
<周囲にいた生徒たちが………どのような態度を取っていたのか………という考察を欠かすことはできない。>
つまり「傍観者」という立場もまた、いじめに加担するという考えが見える。それは、
<「くさや」と呼ばれても,苦笑いなどをしてその場をやり過ごそうとしている本件生徒を見た周囲の生徒は,………Aらに対して………注意して止めさせることはしなかった。>
<周囲の生徒は………「臭くないよ」と答えるなどして,A及びFに同調しなかったことは認められるが,………止めさせるような行動や態度をとることができなかった………。そして,クラス内の他の生徒の傍観者的対応が,いじめの継続を容認,促進してしまったといえる。>
などという報告に見られる。
 しかし一方で、奈保子さんの、<携帯電話を持ち込まないように注意したり,教員に報告するようなことができるわけはない>という発言を取り上げ、
<携帯電話を持ち込んではいけないという規則があるにもかかわらず,あえて持ち込んだ………生徒に対して周囲の生徒が注意するなどというのは事実上不可能>
とする。また、すでに前回紹介したが、問題行動を注意したくとも担任からサポートがないと分かっている状況で、他の生徒は、
<そういう行動を取ることも控えるようになる。………無力感や無関心に支配され,これを抑止する行動に出るということは事実上不可能になる………。>
と報告書は続ける。私もこちらの考えである。
 第三者委員会の中で、どのような議論があったのだろうか。



 ☆後記☆
「いったんは娘になりきっていただいて」という奈保子さんのお父さんの言葉を、私たちは何度も噛みしめないといけません。こういう場所からは、「いじめかどうか分からない」などという「大人」の言葉は、そう簡単には出てきません。いじめの問題は、とにもかくにも「大人の問題」です。
 ☆☆
目を覆(おお)わんばかりの事件が立て続けです。皆さん、周囲の人たちとどのように話してますか。
先日、道場で私が川崎の事件について、「無言で背後からでは、どうにか出来たのだろうか」と言うと、みんな一様に「難しい」という反応でした。空手の仲間とはいつも、「どうして」とか「一体何があったのか」というより、そんな話になります。
「(子どもたちが)空手をやったいたら、致命傷は避けられたんではないか」
と言ったのは、剛柔流宗家(そうけ)の山口剛史先生でした。
 ☆☆
大河ドラマ『いだてん』が、最低視聴率を更新したそうですね。40年以上大河ドラマを見ていなかった私としては、相当期待して見たのです。クドカン(宮藤官九郎)なんだし、と思ってました。数字なんかいいんです。内容がよくない。ホントにクドカンなのかなあ。

取手いじめ事件報告書(下) 実戦教師塾通信六百五十五号

2019-06-07 11:23:10 | 子ども/学校
 取手いじめ事件報告書(下)
     ~「承認という断念」~


 ☆初めに☆
「バカは強いですよ。お利口(りこう)さんより、ずっと」
5年前の少し問題視されたソフトバンクのCMコピーです。正直は「バカ」で、狡猾(こうかつ)が「お利口さん」、それで「バカは強い」と言ってる、こんなくだらない奴らに負けてなるものかというメッセージだと思って、私は見てました。
いじめの事件現場に遭遇(そうぐう)すると、このコピーを思い出すのです。こんな卑怯(ひきょう)なまねしやがってと思うからです。でもここで「バカ」は怒ってはいけない、相手の思うつぼだぞ、今回の報告書を読んで改めてそう思う私でした。
 ☆☆
過去の幾多(いくた)の失敗を思い出します。私自身のです。
先生は、いや、人はどうして「断念出来ない」のでしょう。そうすれば自分の不十分さが「さらされる」から/信頼を失うから/周囲から責められるから、などでしょうか。もしかしてうまく行くかも知れないと、危険を顧(かえり)みずに突き進むこともあります。それで最悪の結果を招く例として、登山のことを思い出したりします。
報告書は、行政と学校・担任の過(あやま)ちに丹念にメスを入れています。「登頂を断念する」機会はたくさんあったのです。
前号の続きとなるので、いきなり「4」で始めます。

 4 「積極的分断」
 クラスが問題を抱えた時、私たちは生徒に何らかの投げかけをし、そこに葛藤(かっとう)を促(うなが)す。たとえば合唱の練習で、ちっとも真面目にやろうとしない生徒に、オマエはやらないでいい、外れてろ(もっと激しく「教室から出てろ」)などと言う。これは、この生徒に反省しろということだし、真面目な生徒の不満や不安を解消し緊張感をもたらす、というような目的でされる。これを「積極的分断」と呼ぼう。奈保子さんのクラスでも、こんな場面があったはずだ。
 今どきの子どもにはこれが通じない。無言で速やかに、相手は廊下に出てしまう。それを責めようものなら、出てけって言ったんじゃないの?という「正当な」反論が展開される(この辺りは拙著『学校をゲームする子どもたち』を参照願いたい)。
 さて歌声の話。少しでもよい兆(きざ)しがあったら、教師はそうだよそうそう、とエールを送り、明らかな前進が見えたら、いいね! と喜びの風を送ることで事態は変化する。歌声は生きている。クラスがそうであるように。クラスの空気は変わる。これもまた「積極的分断」である。前者の「分断」が、暗い陰と光の差を際(きわ)立たせるのに対し、後者は、光が徐々に暗い陰を開放していく、と言ったらいいだろうか。しかし地道な作業だし、歌(子ども)が好きでないと難しい。
 いじめはなかなかなくならない。しかし楽しい空気がクラスに満ちている時、その影は薄い。

 5 担任の「積極的分断」
 奈保子さんの担任は、前者の「積極的分断」を続けた。担任は携帯を校内に持ち込んだ案件で、奈保子さんに「(持ち込んだ生徒と)同じように悪い」と責める。同じく、問題を抱える別な生徒の「面倒を見させる」ため、隣の席に奈保子さんをあてがう。これも私たちがひんぱんに使う「リーダー育成」という身勝手な方法である。しかし奈保子さんは、この生徒たちと同じように授業に遅れるようになる。担任はその時<3名の生徒が一緒に遅れてきた際,担任教諭の呼びかけに応えた本件生徒(奈保子さんのこと)のみを指導>した(以下の< >は報告書からの引用)。
 担任の「こんな筈ではなかった」という、いまいましい思いが透(す)けて見える。つらいこういった現実を、私たち教員は「承認」しないといけない。そして「断念する」という道を選択しないといけない。この「リーダー育成」という方法は、私も採用してよく失敗する。その子が「リーダーとしては荷が重すぎた」、またはクラスが「生徒の手に負える状態ではなかった」のである。だからこんな時は、無理言ってゴメンね、と教師はこの子に謝り、あとは「大人として」火ダルマ覚悟でやっていくしかない。
 奈保子さんの担任はそうではなかったようだ。
<3名の生徒が一緒に遅れてきた際………A及びFが担任教諭の呼びかけには応じず,全く指導をなし得ない状況のもとで………本件生徒のみを指導する>
ことが続いた。こうして担任の中で奈保子さんが、理不尽にも「我慢がならん生徒」に育っていく。このあとの展開も第三者委員会は確認を忘れない。
<なお,A,Fに対し,再度指示をしたり,その後に指導を行った形跡はない。 その後………担任教諭は,A,Fが指示に従わない可能性が高いにも関わらず,3名まとめて呼び出し,指示に従った本件生徒のみを指導の対象>
とし続けたのである。これを担任が「A、Fから奈保子さんに対する罪悪感を促そうと思ったから」と言い訳するだろうか。しかし、それは成り立たない。すでに<A及びFにとって………指導も注意もされないという経験を通じて,担任教諭に対して優位に立っているという意識を自然に>持つようになっていたからだ。ここで事態を「承認」し、道を「断念」しようものなら自分の信頼は地に落ちる、というしがみつくような担任の気持ちは続いた。当然のことだが、
<他の生徒がこれを止めさせたいと思ったとしても,担任教諭に訴えて解決することはないと思っている………。また,正義感に基づいて………も,………担任教諭から守ってもらえることはない………から,そういう行動を取ることも控えるようになる>クラスの状況となっていた。
子どもたちはちゃんと見ている。生徒たちから見て奈保子さんは、担任から「八つ当たりされている」ようにしか見えなかったに違いない。

 6 「登頂断念」のポイント
 ガラスが割れる事件が起こった時、情報共有を怠(おこた)った教員たちにも責任はあるが、ろくろく事態を把握もせずに<「今回も帰りの会に遅れたことが悪い」「生活を引き締めるように」>と担任は「諭(さと)した」。しかし奈保子さんは、
<担任教諭に対して,「Aが割ったのはただ割れたのではなく,壁ドンをして割ってしまったこと」を訴えた。Fも「いきなり壁ドンを私にしてきて………割れました。」>
と言ったのである。すでに担任は、Aからは「私が割ったので弁償します」(「上」を参照願います)と言われている。でも、<担任教諭は,「なぜ,それをさっき言わなかったの?」>と聞いた。奈保子さんは<「友達を裏切ることになるから」>と返答したのだが、この部分で教師たちに奈保子さんが沈黙したのは、「教師たちが『そうだったのか』と思うことは絶対ない」「教師たちを信じることは出来ない」という理由だったのは間違いない。

 私がこんな時どうしていたか、いつも同じだった気がする。
◇いつからだ、こんな風になったのは
◇今日という日に明るい材料はなかったのか
◇昨日より今日の方が良かった点は何だ
◇焦(あせ)ってはいけない、怠(おこた)らないことだ

 そう思い返し言い聞かせ、耐えて忍んで来たんだと思う。



 ☆後記☆
結局、第三者委員会の提出したものについて、言及できませんでした。こんな大切なことを書かないわけには行きません。上・中・下のあとには何が来るのでしょうか。考えます。
 ☆☆
久しぶりに品川のスタジオで収録して来ました。取手事件のことです。アップされたら報告します。
だいぶ前の本田宗一郎の収録ですが、会社&スタッフからの評価が低かったみたいで、ボツになったようです。私としましては、そうかなあと思っておるのですが、まあ仕方ないですね。