実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

館山事件続報 実戦教師塾通信六百三十六号

2019-01-25 12:48:53 | 子ども/学校
 館山事件続報
     ~今後の手だてとして~


 ☆初めに☆
唐突ですが、東野圭吾の『麒麟の翼』で、容疑者の恋人が、
「加賀さん、信じてください。冬樹君は人なんか殺してません」
と訴える部分を、読者の皆さんは覚えていますか。彼女の予想をひっくり返した加賀の答は、
「ええ、分かっています」
でした。作り話だ、で片づけていいとは思いません。これが職を賭(と)した言葉だと思うからです。仕事を続けている中、自分の首を賭ける時というものは、小さく見える出来事の中にもあるのだ、ということを示すシーンだと私は思っています。
館山いじめ事件の第三者委員会の報告後、関係者はどのような見解を示したのか、お知らせします。読者の皆さんはどのような印象/感想を持つだろうか。「職を賭して」という覚悟の片鱗(へんりん)も見えない、ひどいものでした。

 1 「誰に/誰が」語りかけているのか
 昨年9月の第三者委員会報告(以下「報告書」と表記)後、館山の金丸市長から田副さんは報告書を手渡された。記者会見で、
金丸市長「残念なのは、ご遺族の立場に立ってきたのかが、一番残念です」
田副氏「市教委も学校も行政的に重きを置いているようにおもえました。教育=子どもですから、第一に何を守るかですね」
 こういうやりとりがあって、二カ月。学校関係者がようやく重い口を開いた。どこまで逃げられるだろう、いや逃げきりたいという思いのどっさり詰まった「回答」が、遺族の田副さんに渡った。11月の末だ。
 思うに、当局の相変わらずの姿勢は、報告書が保障したと思わざるを得ない。第三者委員会の採用した「客観性」「正確さ」という視点は、世の中の「常識」「世間」という視点とずれていく。あくまで「行政」の視点なのだ。ひとつ言えば「隠蔽(いんぺい)かどうか」より大切なことは「誠意を持っていたかどうか」だ。あとになってようやく開示された、いじめの指摘をした複数のアンケート回答。当局は「単なる事務上のミス」と言い切った、いや、居直った不誠実極まる出来事。報告書はこの居直りに触れることなく、「慎重さを欠いたもの」とした。「誠意/誠実」「世間の常識」という観点からは出て来ない結論。
 さて、では「逃げ」の「回答」に目を移そう。「誰の」そして「誰に向けた」文書なのか、がタイトルに明示されている。だから五人からの回答はまず、タイトルと署名に注目、である。本文は退屈なので読むこともないです。










上から順に、当時の校長/教頭/担任/野球部顧問(二名)である。校長/教頭/担任の三名は署名入りだったが、伏せた。名前や顔は二の次と考えるからだ。しかし、この文書を読むにつけ、一体どんな顔の奴らがこれを書いて渡したのか、と憤(いきどお)りを禁じ得なかった。問題の核心に鎮座している野球部の顧問にいたっては「野球部顧問」とあるだけだ。
 次。誰に対する回答なのか。いや、「回答」でいいのかと思うのは、私だけではないぞ。まあ置いとく。校長のタイトルは「報告書に関する回答」となっている。「報告書を読んで思う」という形さえとっていない。タイトルをそのまま読めば、「報告/提案があったので答えます」という内容だ。たったひとり教頭だけが「御遺族の皆様へ」とある。以下三名、担任/野球部顧問は差し出す相手不明。
 遺族の田副さんは、確かに「直接渡すのが無理なら、間接的にでもいい」と言っていた。ああそうですかと言ったかどうかは分からないが、これらの書面は教育長を通じて田副さんに手渡された。校長の違和感ある「回答」は、気のせいではない。相手の「こっちはとばっちりを食らってひどい目にあったんだ」ぐらいの気持ちが、この簡単なメモに透(す)けて見える。報告書は26頁にわたっていたことを付け加えておこう。

 2 「再発防止」
 以下は大雑把(おおざっぱ)に、でも注意深くメモを検証してみよう。お悔やみがどのメモにも並ぶ。ずいぶん遅きに逸(いっ)した行動だ、と田副さんは思ったのではないか。こういう重大事態が発生すると、基本的な姿勢を学校は見失う。お悔やみ/哀悼(あいとう)の意を忘れ、ミスしてないか、うかつな言動は慎(つつし)むことという「貝」の状態になる。
 絶対に触れられないこと、それは事件後の自分たちの不誠実な対応である。五人に共通していることだ。

 これで終わりにするが、五人のメモに繰り返し出てくる「再発防止」「二度とつらく悲しい出来事が起きないよう」なる言葉について。
 「再発防止」なる言葉は、それが「終わったこと」を宣言している。皆さんもご存じかも知れないが、すごく分かりやすい事件があった。年明けに発表されたことだ。2009年にひき逃げされさた小学4年生の身につけていた、証拠品の腕時計が紛失したという。埼玉県警がお詫びの会見をした。
「ご遺族の方には大変ご迷惑をお掛けしております。この件に関しては現在調査中であり、適正に対処してまいります。今後このようなことがないように職員を指導してまいります」
「適正に対処」は間違い。「猛省(もうせい)して対処」が当たり前だ。そして、これが肝心。「今後このようなことがないよう」ではないぞ。「全力をあげて時計を探し出します」が当然だろう。「探し出せなかったら無責任な発言となる」ことを恐れて言えないのは分かっている。「覚悟がない」とはそういうことだ。「誠意を示す」とは、こういう時に試されるのだ。
 「再発防止」とは、出来事の「収束宣言」を意味する。田副さんは「これで終わったとは思っていない」と明言している。私に言わせれば、まだ「再発防止」を言える段階ではないだろう、と言っているのだ。埼玉の男の子の無念が腕時計ならば、「勝君の腕時計」はまだ見つかっていない。



 ☆後記☆
さて、読者の皆さんは、オマエは映画『マスカレード・ホテル』を観に行くのか、と言いますか。東野圭吾だぞ、と。もちろん行くわけがありません。
それと『家売るオンナ』見てて気がついたのですが、依頼人の人生を見極め、無表情かつ冷静に仕事をこなす姿って、まさに『ゴルゴ13』! そう思いました。
 ☆☆
大相撲、いやあ分からなくなってきました。今日の貴景勝との一番、見物(みもの)ですねえ。力のピークを過ぎた白鵬の、相撲というものの奥深さを教えてくれる一番となるのではないでしょうか。楽しみですね。

インフルエンザにやられました~

1968年(下) 実戦教師塾通信六百三十五号

2019-01-18 11:48:47 | 戦後/昭和
 1968年(下)
     ~`68/`69年の軌跡~


 ☆初めに☆
50年後のこの日がやって来ました。
     
あの朝、機動隊が控えた本郷の正門前で、
「東大がこんなに美しく見えたことはありません」
詰めかけた学生のひとりが言ったひと言が、鮮明に思い出されます。
 ☆☆
あの時期/時代、間違いなく現実は手応(ごた)えをもって目の前にありました。見えないとき聞こえないとき、私たちは前に出て行った。それは新たな現実を生んでいた気がします。行動をともにするか否かに関係なく、「あの場にいた」ものは誰も、「全共闘には『みんな』ついていけなかった」なるおしゃべりはしません。いや逆に、全共闘という場所を拒絶出来ないままでいたと言えるでしょう。
タイトルは「1968年」ですが、この記事の出所は1969年です。宇都宮での出来事を通して、書き記しておきます。思い出にひたろうというのではありません。現実や「手応え」とはどんなものなのか確認しておきたいのです。

 1 農学部林学会報『山びこ』
 記事を書くにあたって多く使用したのが、当時の朝日新聞に栃木の下野(しもつけ)新聞。これらは栃木県立図書館に、マイクロフィルムから印刷してもらったもの。そのせいで写真が不鮮明だ。
 そしてもうひとつは、宇都宮大学農学部の林学科で出していた年会報『山びこ』。

(左下に見える「ことより乃印」なる篆刻(てんこく)は、当時の私の手作りです。ご容赦ください)

これが表紙。文字のレタリングと写真は、某(なにがし)党派の冊子かと思われてしまいそうだが、れっきとした学科の年報で、教官たちの手による学術論文も載せられている。この時の林学科3年の誠実な先輩たちが編集して出来上がったもの。大学闘争の経過をきちんと残せたのはこれだけである。当時の宇都宮大学全共闘で、党派以外の「ノンセクト・ラジカル」層では、林学科が最も自立的だったと思っている(ベ平連も無視できない存在だった)。念のため断るが、私は教育学部。でも、この林学科の先輩たちには、とにかく語り尽くせないほどお世話になった。卒業後、先輩たちがみんな東大の大学院に行ってしまったあと、残された私は、しばらくロス状態になった。

 2 11月4日
 宇都宮大学の全共闘運動は、もともとが学生寮の新設に伴う反対闘争に退学処分、というものに端を発したものだった。同じ1969年の10月13日のレポートを、読者は覚えているだろうか。
 10月13日のショット。封鎖解除に来た教職員と相対する私たち。

 座り込みした仲間をごぼう抜きする職員。

この時封鎖解除に失敗した大学側は、綿密な計画のもとで11月を迎える。春の全学ストライキがあったため、秋の試験休みはないゾと宣言していた大学が、突然、10月31日~11月5日までの間(休日もはさんでいる)を全学休講と通告。以下は11月5日付朝日新聞の記事から。
「大学側は(前回の失敗を反省し)今回はまず裏側入口で『陽動作戦』をし、そのすきに正面入口から解除する」
計画だった。こんな内輪の事情まで書いてある。
 コスチュームはヘルメット装着を始め、バールやペンチも携えた教職員は多数を極め(新聞には100名とあったが、少なくともその倍はいた)、本部を取り囲んだ。10月13日の時との違いは、学生がいなかったことだ。あの時、封鎖解除を阻止する仲間は200名を数えた。しかしこの日、休講で連休となった学生の多くはいなかった。人々というものは、その場にいるだけで違う。10月13日の時は、無関心な学生まで、何をしているのか何が起こっているのかという眼差しを形作った。あの時学内は、現場検証の場となっていた。しかしこの日は違っていた。

     

これは新図書館の封鎖を解除しようという教職員。後ろ向きに見えるのが、林学科/ベ平連を中心とする無党派の仲間たち。みんな丸腰だ。私はここにはいなかったのだが、
「新聞社はうまく写真を撮ってくれたけど、オレたちは大波に呑まれる木の葉のようだったよ」
と、仲間が言った。多勢に無勢だったのだ。

そしてこれが本部前。新図書館の仲間を含めても、この時私たちは50名ほどしかいなかった。

 3 「そんなことは当たり前だ」
 新聞は見出しだけでも雄弁だが、
「林学科3年のA君は『われわれのクラスは今度の試験を全員が受けず、問題解決のための討論を続けてきた。また大学側にも団交を要求したが話し合いの機会さえ持たせなかった。怪我人が機動隊導入につながることを大学側は知らないのか』と解除策動に憤る」
という下野新聞の本文は、状況をしっかり伝える。「噛み合う」とはこういうことだ。
 以下は『山びこ』からの抜き書き。
「報道の目を恐れてか教職員は表立ってなぐりかかったりしなかったが、腹部、下半身に対する攻撃を加えた」
「(全共闘が封鎖した)本部の水道、電気を切ったことは、教授会が……やったのでしょうか」
「ある程度のケガ人もやむをえまい。教職員のケガ、衣服の破損はすべて大学で面倒みる」(大学の決定)
「学生が職員に袋叩きにあっているのを、『ああいうときは、ちゃんと頭をかかえるもんですなぁ』などと言って、笑って見ていた彼らは、一体なんだ」
「私たちは証拠というものは作られるものであることを学んだ。本部封鎖中、役人は土足で歩くじゅうたんの上を、共闘の諸兄ははだしで歩くほどだった。そのような……所も機動隊が土足で踏み荒らし……机、イスは窓から投げ出して破損する。………報道機関は、全共闘による……室内は荒らされていたと発表するのである」
教授や職員のひどさよりも、そして承服/納得できない怒りよりも、私は当事者同士をこんなにも「近く」で「確認」出来ることに、驚きさえ覚える。
「機動隊導入の責任をとるとかで、学長代行は辞任した。………が、驚いたことに、教授は代行をやめただけで、教養部長として………これからも宇都宮大学で教鞭(きょうべん)をとるのだそうだ。……責任をとるというから、当然彼らが宇都宮大学から去るのだ、と思っていたのは僕だけだろうか」
これも『山びこ』からの引用である。昔も今もそうなのだ、というのではない。私たちは、大学で「当たり前を通そうとした」だけだった。改めてそんなことを思わせる一文なのである。

 残された私たちが、<いま>言うことは同じだ。
 「そんなことは当たり前だ」



 ☆後記☆
稀勢の里、引退しました。このブログの熱心な読者は覚えていることと思います。稀勢の里が横綱に昇進した時、もう少し様子を見た方がいいのではないか、と私は書きました。本人の実力より、周りの「担(かつ)ぎだす」勢いが優っていたからです。この点は貴乃花が横綱になる時とは対照的でした。あの時、父親の二子山親方は、
「もっと苦しめ、それから横綱になれ」
と言っていたのです。稀勢の里の悲劇は、
「国技で日本人の横綱」
という勝手で一方的な思い入れと、それを背負いこんだ稀勢の里自身が生んだのです。
いずれにせよ、この件についてちゃんと書きたいと思っています。
 ☆☆
『ボヘミアン・ラプソディ』観てきました。内容もそうですが、確かに噂通り「コンサート会場」のような気分を味わえました。クィーンってああいうバンドだったんですねえ。

加齢 実戦教師塾通信六百三十四号

2019-01-11 11:34:44 | その他/報告
 加齢(かれい)
     ~出来事/目標など~


 ☆初めに☆
人の出入りが多い暮れ・新年でした。その中で、気に留まったことを書いておきます。皆さんのご飯のお供か酒の肴(さかな)にでもなれば幸いです。

いつもこの時期にもらってはいただく、浅草の「亀十(かめじゅう)」。どこもまね出来ないふっくらした皮に、はみ出そうな餡子(あんこ)。いつもの新年を味わいました。


 ☆年賀状☆
定年退職のあと、非常勤をやっている友人からです。
「孫のような小学生から『先生の将来の夢はなんですか。僕の夢は………』と真顔(まがお)で言われて、心の底から嬉しかった」
こんなびっくりするようなことが起こるんです。子どもはホントにいい、いいものですね。
私が出したお返事の中で、結構気に入っているのは、
「人の命も限りがあるのです。いい年をして資産運用の喧騒(けんそう)をになってる奴や、カツラをかぶってる奴らは、命に終わりがないと思(いたが)ってる奴らです」
であります。
私の今年の年賀状です。下部は削りました。

今年もよろしくお願いします。

 ☆絶滅な敬語☆
暮れ、教え子の出産祝いをデパートで注文した時のこと。
「では、お包みさせていただき、送らせていただきます」
と店員。呆然としました。もう日本は終わりだ、みんな死んじゃうんだなどと思ったのです。
これが京都のホテルのスタッフが違っていた。空いた食器を、
「お下げいたします」
でした。「下げさせていただきます」ではなかった! 嬉しかった。日本は終わってない、オレもまだ死なないぞと思いました。
ちなみに、絶滅している敬語、ほかにどんなものがあると思いますか(「→」の右側が平気で闊歩(かっぽ)している表現)。
「申し上げます」→「言わせていただきます」
「参ります」→「行かせていただきます」
そしてさらに、絶滅が危惧されている敬語は、
「召し上がる」
です。レストラン/食事処(どころ)で「どうぞ、いただいてください」なんぞと平気で言うもので、気の小さい私は、思わず身体がすくんでしまいます。
ここである反応が予想されるので、ひと言。これとは別件ですが。
新年になって「さすがは国語の先生」と言われました。ほめてもらった私ですが、
「それ、嬉しくないんだけど」
と言いました。

 ☆報道の傲慢(ごうまん)☆
新年に会って話した人たちが、学校の大変さを「モンスターペアレント」のせいだと言う。報道や噂を丸のみ/鵜(う)のみにした、この間抜けな物言い。これが私を良く知っている人たちの現状だと分かれば、これで私の本を読んだのかと思えば、又してもオレはまだ死ぬわけには行かないぞ、などと思うのです。
京都でのことを思い出します。観光地での外国人のマナーはどうなのか、私が聞いたのです。運ちゃんの話です。
「京都のお客さんは、皆さんマナーしっかりしておりますよ」
「そりゃ大きな声を出しはるお客さんもおります」
「でも、それは日本人でも同じですよ」
「テレビは、一番ひどい例を面白おかしく取り上げますからね」
思った通りだった。と言えば、
「じゃあオマエは100人の運ちゃんに聞いたのか」
などと反感を買うのでしょうか。

 ☆加齢/老化☆
今年の目標。「筋肉を作り直す」です。
四年前に「脊柱管狭窄症(せきちゅうかんきょうさくしょう)」が発症したことを報告したと思います。鼠蹊部(そけいぶ)に今まで経験したことのない激しい痛みを覚え、リンパ腫だと観念しました。
医療系友人のすすめで整形外科に行くと、医者は「脊柱管……」と。しかも「あなたなら自分で直せる」と。医者のすすめは「ストレッチ」。おそらくは「そこからやり直せ」という意味だと思い、頑張った。その過程でいいと分かったのが、ロードワークを「足」でなく「自転車」に切り換えること。腰とひざへの負担がまったく違っていた。自転車は医者&整体院泣かせのツールだと思った。ちなみに他の内臓に関する数値は良好で、毎年「血圧が正常な数値はあなただけです」「医者いらずの身体だ」などと、医者が言ってくれた。
でも間違いなく年はとる。見た目や髪はモチのロンであるが、たとえば道場の夜の稽古。次の日疲れが残る、ではない。それよりも、夜の食事時間が遅くなることで、就寝時間がずれることで体調が崩(くず)れる。少なくとも50代ではそんなことはなかったし、60代前半まではなんとかなった。もう違う。夜はやめた。
なんぞと思っていたら、持病(「脊柱管……」)が再発した。持病の名の通り、持ち物なのだった。その後、あれほど人に「良くない」と言っていた筋トレを、ジムでやった。走り込みもした。血迷ったのだ。状態は悪化した。昨年の秋だった。
逆らわず行こう、改めて思った。外側でなく、身体の芯から柔らかく作り直そう。
今は呼吸中心。超スローに腹筋/背筋/四股/スクワットを繰り返しています。効果は目に見えてて、早ければ春には稽古(けいこ)に全面復帰しようと思います。マリナーズでの練習と食事・睡眠以外はすべて、ウォームアップ&クールダウンと言っても過言ではないイチローや、怪我を公言し休場に踏み切る白鵬から学ぼうと思っています。最後は結局みんな、医者や薬に頼り入院して死んでいく。でも、それは出来るだけ先にと思うのは、みんな同じでしょう。そのために短気を起こさず、医者に通っているつもりで身体を調えようと思っています。
良く言ったものです。「年には勝てない」。その通りです。



 ☆後記☆
「レーダー照射」をめぐって日韓の確執(かくしつ)が続いています。様々な思惑(おもわく)がからんでて、単純に断言できる状況ではないようです。皆さんはどう思いましたか。1937年の7月、日中戦争の引き金となった「発砲事件」(蘆溝橋事件)を思い出します。
「そっちが先に撃った!」
こうして戦争に突き進んだのを思い出した人は多いことでしょう。
 ☆☆
初詣(はつもうで)行って参りました。
       
恒例の広幡八幡宮、いつもより早めに行ったせいでしょうか、行列はそれほどはありませんでした。

お礼とお願いを、しっかりとして参りました。

 ☆☆
続編「家売るオンナ」始まりましたね。

補・師走 実戦教師塾通信六百三十三号

2019-01-04 12:43:12 | 旅行
 補・師走
     ~維新から150年(後編・京都)~


 ☆初めに☆
新しい年が明けました。今年もよろしくお願いします。本来ならこの記事は「下」になるはずなのですが、年が明けてしまったので「補」としました。いずれにせよ間が抜けてますが、よろしくです。
大晦日はいつものコースで東京に行ってきました。
アメ横をぶらつき、


その後浅草へ。






仲見世通りの干支(えと)も「亥」。


尾張屋で年越しソバ。今年はいつもの銀杏(ぎんなん)のから揚げに、そば豆腐もつまみました。お酒は吉の川。


師走はいいなあ大晦日はいいなあと、人波に身を任せながらゆっくり歩いて参りました。

 1 建礼門
 単なるお飾りに過ぎなかった朝廷が存在感を増すのは、天明の大飢饉(ききん)が契機となる。この天災に際し、幕府は有効な手だてをまったく打てずにいた。人々の請願(せいがん)の対象は、幕府から御所へと変わる。天明七年の六月、おびただしい人々が御所にやって来る。後に「御所の千度参り」と呼ばれる人々は、多い日で七万人を数えた。
人々は御所の築地塀(ついじべい)をまわり、

南門(建礼門)の衝立(ついたて)と門柱の空間を、賽銭(さいせん)箱に見立てて、祈って金を投げ入れた。

これに対し朝廷(光格天皇)は、築地塀に沿った堀をきれいにする。人々が水を必要としたからだ。そして、果物を振る舞う等の対応をした。それまでは朝廷と幕府のやりとりはすべて幕府の方針通りで、形ばかりの「朝廷の了解/承認」だった。しかし、幕府にもの申す天皇がここに登場する。

 2 その前に
 京都御所を少し下ると、ほどなく京阪三条駅である。そのそばの交差点に銅像がある。

高山彦九郎と呼ばれるこの人物は、早すぎた尊皇思想というべき人物か。京都に入るときは必ず御所に向かって平伏(へいふく)したという。全国各地をまわり尊皇を説いたものの、幕府から監視され追い詰められ、天明の大飢饉を目にしながら自刃(じじん)してしまう人物である。
 銅像を見ていた時である。近くで、日本第一党だったか、そんな方たちが演説を始めた。街宣車は普通の大型ワゴンで、スピーカーは中型。出で立ちは背広の老人たちだった。
「政府は年間三千万人の外国人観光客を誘致(ゆうち)するという」
「たかだか一億人の日本に、三千万の外国人が来たらどうなるのか」
と言っている。でも、移民でなく観光なんです。一日に換算すれば十万人にもならない。笑ってしまいました。

 3 石清水八幡宮~二条城
 海外の勢力が、天保(てんぽう)の時代以降、次々と日本に押し寄せる(ペリーは嘉永(かえい)で少し遅れる)。ここでも無定見/無方針の幕府を見て行動を起こすのが孝明天皇。50年もの間中断していた石清水(いわしみず)八幡宮の臨時祭を復活する。神に仕(つか)えるのが朝廷である。これは朝廷の幕府に対する宣戦布告とも言えた。

新年を迎える石清水八幡宮。本宮(ほんぐう)の飾りは、矢柄(やがら)である。石清水八幡宮は武神でもある。


正月の注連縄(しめなわ)を張っているところでした。

 舞台は再び御所となる。これは、幕府側(政府軍)と長州藩がぶつかった御所の蛤御門(はまぐりごもん)。


初めて見ました。無数の弾丸の跡は、弘道館にあったものと比較にならない。


 尊皇攘夷(じょうい)派が席巻(せっけん)し、幕府内では公武合体(こうぶがったい)が公然と叫ばれた。この時まさしく、朝廷の力はピークだった。
 そして大政奉還の二条城へ。






徳川慶喜(よしのぶ)が奉還を言い渡す二の丸は工事中で入れませんでした。こちらは本丸で、やはり工事中でした。


 幕末/維新をめぐって、駆け足の旅でした。

 4 こちらも
 ついでにこちらもどうぞ。京阪三条からさらに下ると祇園(ぎおん)です。舞子さんの姿が見えます。


外人さんたちがどっさり写真を撮っていた場所。なるほど、確かにいい眺めです。

八坂神社から清水に向かうと、八坂の塔がなんとも言えない佇(たたず)まいです。




 それと、石清水八幡宮そばの上木屋橋、ご存じですか。

木津川にかかった400m近い長さのこの橋は、通称「流れ橋」と言われ、川の水位が上がると水とともに流されるという橋です。
手すりも欄干もないこの橋は、戦後作られました。それまで石清水八幡宮の御参りは舟で行き来していたのです。

宮司(ぐうじ)さんに聞くと、
「今年も流されて………直ったかなあ」
と言うのがとても印象的でした。



 ☆後記☆
昨年もお世話になりました。昨年は新刊を出した年でもありました。ネット上や、直接いただけるあたたかい感想/意見に、この場で御礼申し上げます。
「忘れていたものを思い出すような気がする」
といった感想が、おそらくは30~40代の方たちに多いように思えます。励みになります。
 ☆☆
50年前は今日から数えて二週間後、
        
この日がやって来ます。報道は今でも「この日から学生運動は衰退(すいたい)する」と伝えます。でも、全国の大学が激動の時となるのは、この日を境にしていました。

 今年もよろしくお願いします。