実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

夏ドラ 実戦教師塾通信八百七十号

2023-07-21 11:37:24 | エンターテインメント

夏ドラ

 ~静かな場所のため~

 

 ☆初めに☆

いよいよ夏休み。やっと来ましたね。オマエなんか毎日夏休みのくせして、と言われようがなんだろうが、あ~夏休み!です。久しぶりに脱力モードで、でも文句たらたらなエンターテインメントの記事をお届けします。

話題沸騰中の日本映画ですが、結局、ドイツのヴェンダース監督・役所広司主演の『PERFECT DAYS』だけ見ることにしました。是枝監督や北野監督はもちろん好きなんですが、いつも勝手に選んでて、特に是枝監督の作品は意外に観てないんです。宮崎駿監督の作品に関しては、欠かさない感じで見て来ましたが、メッセージが強そうだなと思った時は足が向いてません。今回もそうなんですが、そうではないと思えた方は教えてください。観に行きます。

 

 ☆妄想たくましく☆

観たいと思えるドラマが、実に長い間なかった。でも今回、面白そうだと思えて『18/40~ふたりなら夢も恋も~』を見た。久しぶりに、最終回まで見ようと思った。ネタバレすれすれのところで言えば、これは、予期せぬ妊娠が判明した大学生の有栖(福原遥)周辺の混乱や心配の中、「出産」「家族」とは何なのかと問い続けるドラマだ。「子どもを生めない身体かもしれない」失意に沈む、彼氏のいないキャリア瞳子(深田恭子)。このふたりを中心に、生まれて来る子どもとの新たな関係を構築していく物語、だと思う。「私たち家族だから」とか「一緒に子どもを育てよう」というセリフが登場するのは、間違いないと思える。ひとりで有栖を育ててきた優しい父親(安田顕)が妊娠を知るのは、多分隠しおおせぬギリギリの時期。妊娠の告白を、有栖の気持ちが揺れるうちはしない。その気持ちが固まる頃か、その間際に、突然消えた元カレが「留学」先から帰って来て、「やり直そう」「僕たちの子どもだよね」と言い出す。ドラマは佳境に入る。って、初回を見ただけなのに妄想たくましいと我ながら思うが、予想総崩れの時は、赤面さらして謝罪いたします。今週の配信を見たところ、予想はまんざら外れてなさそうだと思えました。

 

 ☆おせっかい?☆

このドラマのどこがいいのか。「肯定的」であることだ。憎悪をまき散らすことを「正義」と言ってはばからない愚者どもが、ずい分と幅を利かせて来た。内容のない批判が到達するのは「目的としての批判=中傷」という場所だ。

「あなたは全世界を敵に回しても自分の行きたい道を進みなさい」

という瞳子のエールは、当事者の事情を分かってないものの勝手な言葉だ。しかし、何故かそれでもいいと思えるのは、私たちが「必要以上に相手に踏み込まない社会」をずっと作り続けてきたからだ。それとは違うものを、この言葉が持っていると思えたからだ。小さいけれど静かで確かなものを、この言葉が目指していると思えた。友人にこの見解を話したところ、そんな話のどこがリアルなもんか、一緒に家族になろうよだなんて突拍子もない、と目を剥かれてしまった。そうだろうかと私が思い出したのは、「赤ちゃんポスト」のことだった。熊本市の慈恵病院が始め、継続している「捨てない場所」である。自分で産む力・選択の出来ない女性をサポートする「内密出産」も開始した。里親の失敗例や命を救えなかったケースなども聞いている。しかし、今もこの事業は続いている。病院の大変な姿を「見たことか」と罵るのは簡単だが、大変な議論と苦悩の中で、このことが続いているのは間違いない。

「(18歳が成人という)法律が、あなたを大人にしてくれるなんて思ってるの?」

「(大会社のキャリアの)あなたに、お父さんと私の何が分かるっていうの?」

このドラマに「赤ちゃんポスト」を重ねるのは不謹慎と思いつつも、ふたりの会話に共感出来る。

 

 ☆何が幸福なのかと☆

水曜日のテレビ朝日は、三つの刑事ドラマをローテーションしているが、『刑事七人』だけ見ている。今回その番がめぐって来て、『18/40……』と重なった。一年以上ドラマを全く見てなかったことになる。刑事ものや医療ドラマが廃れないのは、正しいことは正しいという思いや、救われたい気持ちは報われないといけないという私たちの気持ちがあるからだ。一方、ありがちな設定としてメガバンクを敵に回すだの、東大卒と専門卒だの、あるいは重い障害を抱えるとか虐待とか、もう食傷気味と感じているのは自分だけだろうか(見てないけど)。なんかキャスティングの豪華さを、これ見よがしにと始まったドラマも気持ち悪くてしょうがない。良くないことは、これらがサクセスストーリーとして構成されていることだ。『二月の勝者』は、少し違ってたみたいだけど、頭の悪い子が慶応に入ったなんて話、別にどうでもいい。アメリカ流、もっと言えばウォルトディズニーの世界は、最後に出世・結婚・名誉・富、総じて「成功」への道に通じている。今のテレビは、そんなドラマばかりだと思える。アンデルセンや日本昔話は、ちょっと違う。私たちは人魚姫の不幸を見て、知らず知らず「他人の幸福を願う」気持ちを育てている。幸せは小さくていい、地味で静かでいい、そう思える人が不幸な人に寄り添える。

 では『18/40……』が、そんなささやかな幸福物語なのかどうか、有栖の夢が「なるのは大変でも、不安定で給料も安い」キュレーターなんだが、瞳子は大会社のキャリアだ。これから上司や社長やと様々な男が動くし、金を巡る話も友人の嫉妬も出て来るはず。安っぽい結末にならんことを願うばかりです。

 

 ☆後記☆

そんなわけでというか、私のささやかで贅沢な幸福。少し早かったけど、今年も土用の丑を味わいました。

残念だったのは、気が付いたら完食していたこと。もっと味わえよ、と反省しきりです。

こちらは先週のこども食堂「うさぎとカメ」で~す。夏野菜のごろごろソテー🍆🥕

スタッフの工夫と苦労の一品です。そして、ペペロンチーノ風スパゲティは、少しもたついた食感になってしまいましたが、そこはもう夏休みですから 昨日は終業式。通信簿は、まぁとりあえず、でしょ!

 万歳\(^o^)/夏休み ゆっくり楽しもう!夏休み


超人 実戦教師塾通信八百五十三号

2023-03-24 11:39:58 | エンターテインメント

超人

 ~解放というカタルシス~

 

 ☆初めに☆

涙をそそる感動でした~。休日は仲間と見たけど、決勝の水曜日はリタイア組で良かった!と、心から思いました。私はジャパンの選手たちを知らな過ぎてて……。やっぱりオオタニさんのことを書くことにします。努力を積み重ね考えぬいている姿を、エンターテイナー!と言っては失礼と分かってます。でもたとえば、皆さんご存知でしょうが、今は解説者となっている元大リーガーのロドリゲスとオルティスが、オオタニさんに質問をするわけです。

「真剣な質問なんだけど、どこの惑星で生まれたの?」

「日本の田舎」なる答は、二人の爆笑を誘ったそうです。二人の質問はユーモアに満ちていながら、オオタニさんの超人的な実力をリスペクトしています。オオタニさんの周囲で起きることは、すべてにわたって「肯定的」です。

**記事を書くにあたっては、主にスポニチと雑誌『number』を参考にしました。

メキシコとの準決勝はサヨナラのシーン(これは3月22日のスポーツ報知)

 

 1 ささやかな幸せ

 ライト前にヒットを打ったのに、まるで水の中で走るようで、全く足が進まずアウトになる夢を良く見たという。2021年を振り返ってのことだ。その3年前に右ひじ(トミー・ジョン)手術を受けているのである。リハビリ状態のストレスが充満していた時だったらしい。もちろん、話はそれで終わらない。

「でも野球でストレスを感じるって、いいところだと思うんですよ。毎日毎日、結果が出て、よかった悪かったと思える職業ってあんまりないでしょ。そこが楽しいことろだし、キツいところでもある」

やっぱり人間だったんだと思ってホッとすると同時に、ここにオオタニさんの揺るがない「入口」を見る。しかし、その「入口」とやらは、自分が今まで最も絶好調だった時を問われて「小学校の六年から中一にかけて」だという、多分に相当タイトな「入口」だ。そして、常に忘れていない「入口」なのだろう。また、オフでも身体を絞りこむので、たまにしかしないという朝食の話がまたいい。朝の有酸素運動を終えてからコーヒーを淹れ、トーストにチョコレートのソースを塗る。こんな時に「ささやかな幸せを感じる」んだという。こんな人が、本人が言うような野球のことしか考えていない人間であるはずがない。匂いたつようなオーラが、周囲を巻き込んでいく。

「翔平はどうすれば自分が自分らしくいられるかを知っている」(エンゼルス・バトン元監督)

「とてつもないエネルギーは、みんなに伝わっていく」(同・レンドーン)

 

 2 どこまでも肯定的な

 オオタニさんの大リーグでの活躍を見ていたら、私たち世代のレジェンド、「力道山」を見ているような気がする、と以前に書いたかもしれない。力道山は敗戦で疲弊していた日本を勇気づけた。金髪のプロレスラーをバッタバッタとなぎ倒し、日本の雄姿を示した(実は出身は朝鮮半島だったが)。その頃まだ数少なかったテレビが据えられた神社で、人々はアリのように群れて熱い声援を送った。オオタニさんのバットとボールで大リーガーを圧倒する姿は、それと重なるような気がした。でも違った。相手を「倒す」ことは、相手を「排撃」することではなかった。ヒットで塁上にいる時、そして試合が終わってから、相手チームもオオタニさんに微笑んで話しかけるのである。そしてそれは、当たり前の景色となっている。オオタニさんが野球を好きなレベルは、尋常ではないものがある。

 王もイチローも、もちろん野球を好きだが、誰が見ても耐え忍んでいる姿は「99%」の努力を体現している。オオタニさんだって同じなのだが、徹底していることがある。野球を好きな自分のために、余計なことをすべて排していることだ。その姿勢に両親を始めとした(友人も)周囲が協力していることだ。オオタニさんの素顔を知りたいがため、あらゆる手が尽くされているのは間違いない。しかし、本人はもちろん、その周囲がメディア上に全く露出することがないのは、このことを示している。野球人としてでなく、エンターテイナーとして自分を売り込むことで野球界に貢献しようという御仁もいらっしゃる。それも悪くはないのだろう。でも、野球に徹したオオタニさんだからこそ、自分のプレイで「勇気や希望を与えたい」ではなく、

「次の世代の子たちが、僕らも頑張りたいと思ってくれたら幸せです

と言える。自分は「与える」方ではなく「与えられる」方だ、と言っている。この違いは大きい。などと言ったあと、オオタニさんはこんな風に誰かと比べるような言い方はしないよな、と恥ずかしくなる……のです。

 

 ☆後記☆

解説の松坂が「言葉にならない……って言ってたらダメなんですけど」というコメントが、すこぶる好感ありました。何とか「言いたい」という気持ちがいいのですよね。「……のひと言です」「……しかありません」てのが、実は感極まってない状態だということでしょうか。またこんなこと言ってマズイなぁと思うのは、オオタニさんのお陰です。

これは見事な、手賀沼沿いのハクモクレンです。下は国道呼塚近くの大堀川で。

先日のこども食堂「うさぎとカメ」 雨が本降りの中、たくさんの人たちが、カレーを「美味しい」と食べて行ってくれました その下は少し不揃いで、これはこれでなかなかな靴の写真 「なに撮ってんの?」と言われました。

そして、今日は修了式。一年間お疲れ様でした。進級・進学おめでとう


ジャンゴ 実戦教師塾通信八百七号

2022-05-06 11:15:52 | エンターテインメント

ジャンゴ

 ~ウクライナ侵攻・補(6)~

 

 ☆初めに☆

ゴールデンウイーク初日の渋谷は、嬉しそうな顔の人たちが一杯でした。それでも普段の休日から見れば、渋谷の人出は半分もいません。ハチ公は、人がいないところを見計らって撮った写真ですが、これもホントなら、人波に隠れて見えない。

思いがけず、舞台の招待を受けました。渋谷ブンカムラの「theaterコクーン」で上演された『広島ジャンゴ2022』(以下「ジャンゴ」と表記)です。千秋楽の鑑賞なる幸運を得ました。

迷いましたが、カテゴリーは「エンターテインメント」にしました。

 

 1 困難と覚悟

 残念な内容だった。秀逸だった『ハンドダウンキッチン』(2012年)と同じ演出家だったとは、信じられない思いである。役者たちのダイナミックな演技といい、舞台は水の豊かなエリア、安宿や枯れた街へと、目まぐるしくも鮮やかに変化を見せた。エンターテインメントで、楽しむものと割り切れば良いのだろうが、コンテンツがそうではない。そこには、世界にあふれる貧困と悲惨、傲慢と暴力が満ちている。

「それを言えば、その場所に寄り添う」ことにはならない。例えば、「風化を許すな」と言えば、風化を防ぐわけではない。私流に言えば、「それを言う時と場所」がいい加減ではいけない。これも例えば、大川小学校の事件の風化は、それを「私たち」が語り続けることで防げるとは思えない。私たちには「抱える悲惨がない」からだ。74人の子どもたちが津波に巻き込まれた原因は、高裁(最高裁)が言う避難訓練の甘さや避難場所の誤認ではない。それは「その場にいるものしか出来ない確認と決断の『欠如』」であり、今も学校的体質としてあり続けているものだ。「大川小学校の風化を許さない態度」とは、この体質が出て来る時の困難、に対する「覚悟」のことだ。

 「ジャンゴ」では、DV/幼児虐待/ブラック企業など数々の諸問題が、これでもかと描かれる。これらは、「盛りだくさん過ぎる」というより「不誠実」と言い換えた方がいい気がしている。メディアが良く使う「神の声」-これでいいのかという声、のように数々の不幸や悲惨が登場する。すべてをつなぐ道筋が微かな「希望」だとは、分かった風なことを言う。「絶望」のひとつについて言えば、父が娘を「犯す」動機もいきさつも語ったつもりなのだろう、でも、さっぱりわからない。

 対照的と思える舞台が、これも十年前となるが、前川知大演出の『奇ッ怪Ⅱ』だ。設定は津波と原発事故である。事故や臓器移植や自殺など、そのかたわらに残された側の「喪失」が描かれる。共感できるのは、死者との道筋(この頃は何にでも「絆」が使われたが)を安直に語らないことだった。死者とのつながりは、あくまで「予感」や「符号」、そして「不安」として描かれた。そこには控えめな、寄り添える「かもしれない」という、私たちのすがるような気持ちがあった。共感とは、強引な手続きで得られるものではない。

 

 2 民主と独裁

 注目した場面がある。

 ロシアのウクライナ侵攻があって「ジャンゴ」は直前、一部書き加えられたか、おそらく変更されている。「ライズアップ!」なる下りは、直近まさかのピンクフロイドか?と妄想してもみた。最後に、不正と暴虐に対する人々の抵抗と思える章立てがある。これが良かった。民衆の戦いがいいのではない。権力者の居直りがいいのだ。

 多くの川が流れ、井戸水も豊かだった町が干上がる。それが町長(仲村トオル)の策略だった、と暴かれる場面である。詳細は記憶にないのだが、肝心なことは、

町は誰のおかげで成り立っているか分かってるのか?/軽はずみな考えや行動は止めておけ

通訳すれば「分かった風なことを言うな」というのである。そして、「正義はひとつではない」と演説、いやこの場合「アジテーション」と言うべき熱弁をふるうのである。圧巻だった。この「正義」とやら、トランプの頃の流行りのフレーズだ。「独裁」にして欲しかった。

 今、ウクライナで起こっていることは、「独裁」と「民主」の戦いなのか。プーチンはもちろん独裁者であり、やってることは独裁だ。何の異議もない。しかし、ゼレンスキーのやってることは「民主」か。そんな甘いものではあるまい。将校は選挙で公選/徴兵も志願制とする等の民主化政策のおかげで、ロシア革命政権は兵士200万の戦線離脱があったことを、前に書いた。武力と財力すべてを抱え込んでいた帝国ロシアに、軟弱路線が通じるはずがない。レーニンが打ち出した「プロレタリアート独裁」とは、強力な独裁しか「帝国ロシアの独裁」に対抗できるものはないというテーゼだった。この「プロレタリアートの独裁」が、「共産党という一党の独裁」に変わったなどとよく批判される。このスターリン批判のいい加減さは、ヒットラーを批判すればナチズム批判は十分、といういい加減さと同じだと言っておく。マルクス主義者のクソどもが「右翼」と批判していた、小林秀雄のひと言が力強い。

「レーニンが目指したものは、コンミュニズムの勝利ではない。革命の成功である」(『ソヴェットの旅』)

レーニンは、ロシアの人々が何を必要としているか誰よりもよく知っていた、という。

ロシアと戦う人々と共にあるため、ゼレンスキーは「民主主義」を選択しなかった。そして、18歳~60歳までの男子を出国禁止にしたのだ。まるで「ロシアの革命なくして、ウクライナの解放もない」と、ゼレンスキーは言ってるかのようだ。

 

 ☆後記☆

「ひとり娘」を求めて、蔵元の茨城県・石下に行きました。途中に立ち寄った、大宝・八幡神社です。

京都・石清水八幡宮より歴史が古いと言われ、驚いているところです。日を改めてレポートします。

境内にはこの時期に満開となる、ヒトツバタゴが咲き誇ってました。

 ☆☆

大相撲、始まりますね。照ノ富士、隆の勝、あと若隆景も頑張れ!


詞の伝播 実戦教師塾通信七百九十一号

2022-01-14 11:28:50 | エンターテインメント

詞の伝播(でんぱ)

 ~2022新年所感(2)~

 

 ☆初めに☆

いつも通り、近くの広幡八幡まで初詣に行ってきました。

バイクシューズも悪くない。恥ずかしいほど立派ないでたちです。この着物、昨年知り合いの方から譲り受けました。今回がデビューです。詳細は控えますが、訳あって私が初めて手を通すのです。ありがたい。頑張るぞの思いで、祈念して参りました。

 

 1 「切符を用意してちょうだい」

 折に触れて聴く懐メロCDである。私と同世代なら知ってるはずの『夜が明けたら』。その導入部を聴いて、なぜかハッとした。今までどうして気づかず聴いていたものかと思った。

夜が明けたら一番早い汽車に乗るから

切符を用意してちょうだい

私のために一枚でいいからさ

今夜でこの街とはさよならね

わりといい街だったけどね

歌うのは浅川マキ。風貌も歌い方もそっくりなもので、カルメンマキだと思ってた。調べてみたら、カルメンマキは存命だが、浅川マキは亡くなっていた。カルメンマキは私より少し年下で、今も阿佐ヶ谷界隈で歌っているらしい。浅川マキは、生きていれば私よりだいぶ年上だった。そんなわけで『夜が明けたら』も、作詞はてっきり寺山修司かと思ってたら、浅川マキ本人の手によるものだった。こちらの方面でも、気づかされることが多かったわけである。

 さて、この導入部の広さに比して、二番以降は次第に狭い場所に進んで行ってしまう。導入部の特に最後の「わりといい街だったけどね」の部分に、オッと思ったのだ。一番列車に乗る。夜のうちに出発すればいいのに、おそらくすでに終電がない。でも「もうここはいいかな」という気分が、すっかり出来上がっているから、翌日の一番列車に乗る。そして「わりといい街だったけどね」という。後ろ髪を引かれているのか。切ない気分になったわけが、私にはある。

 

 2 「もうこごに来てくんねがと思うどよ」

 この曲、年に一度ぐらいは聞いてるはずである。でも、今年初めてハッとした。おそらく、私が新刊(『大震災・原発事故からの復活』)を書いているうちに、もたげてきた思いのせいだ。

「もうこごに来てくんねがと思うどよ」

かすれて詰まった声が、集会所でそう言った。新刊に出て来るこの声は、2015年の春で閉鎖したいわきの仮設住宅でのものだ。4年の間続けてきた定期的な支援を、私たちは2月で「区切り」をつけた。しかし中止したのは、あくまで「定期的」な支援だ。これはあの日、たくさんのお茶請けを用意して私たちを待っていた、おばちゃんの声である。おばちゃんたちの陰から、その声が出た。あの瞬間、それまで涙しておばちゃんたちの話を聞いていた仲間たちも、顔を上げた。

 この後何度も、私はおばちゃんたちのもとを訪れ、呼ばれもした。でもそのたび色々考え、いつしか足が遠のいた。新刊を書いて整理し、ようやく気が付いたように思った。あの言葉は、おばちゃんたちの優しい優しい「さようなら」だったのではないか。アンタたち、ホントにいい人たちだった、でもお別れだねと言ったのではないか。自分に厳しいおばちゃんたちだった。始め、私たちが支援を始めた頃、この仮設住宅には240世帯の人たちが暮らしていた。それが日を追うに従い、歯が抜けるように新しい暮らしへと移っていった。仮設住宅閉鎖までわずかとなったその頃、世帯数は半分の120まで減少していた。だから言ったのだろうか。「いつまでも甘えてられないんだ」と、おばちゃんたちの声は言っていたのだろうか。

 でもやはり、私はとりとめがないままだ。

「今夜でこの街とはさよならね」

「わりといい街だったけどね」

どうしてなのか、身に浸みる。

 

 ☆後記☆

ついでにもう一曲。福島に行く時、行きの高速ではクイーン、帰りは欅坂46(今は「櫻坂」となりましたが)をいつも聴きます。「不協和音」を聴こうと思って購入したのが、衝撃的で何度も聴いてしまうのが『月曜日の朝、スカートを切られた』(作詞・秋元康)。欅坂なのです。だからスカートは、ОLのものではない、高校の制服。いまとは違って、通学電車は満員。これが金曜夕方の電車だと事情は全く変わるのでしょう。大体、高校生の下校時、電車は満員ではない。「スポーツも友達も」という教師の「アドバイス」が待つ、学校へ向かう「月曜の朝」の電車の中での出来事。思わず「ガンバレ」と声をかけたくなるのです。

何年ぶりでしょう。アメ横に行きました。大晦日の夕方は、ホントの最後の大安売り。でも私は、狭山茶を買って満足な大晦日です。

もちろん、浅草にもお参りしました。内田裕也がいた大晦日を思い出す、雷門です。

最後は、子ども食堂「うさぎとカメ」です。明日ですよ~ この寒さです。公園での配布、今回も断念。残念。

お待ちしてま~す!


リアルな場所 実戦教師塾通信七百八十六号

2021-12-10 11:11:37 | エンターテインメント

リアルな場所

~『日本沈没』から考える~

 

 ☆初めに☆

期待している冬のドラマ、『日本沈没』のことです。残念ながら、残念です。ずっと前から読んで下さってる読者には「残念」の意味が分かると思います。もう少し見てから言った方がいいかとも思いましたが、それで前に失敗しました。ため込まないで早めに言っておこう。制作側にいる方々には申し訳ないが、この10年を思うに、言いたい気持ちを禁じ得ません。もうクランクアップしているのでしょうか、「甘くはない」大どんでん返しが起こればいいと思います。

 

 1 「東日本大震災」

 関東(一部)が沈没しても、どうして東京、それも霞が関周辺のライフラインが健在なのはなぜなのか、平気でスマホが使えている状況を気になってはいた。アニメ『天気の子』も、水没した街のマンション上層階や高速道路が平チャラで、なぜか生活は平穏に保たれていた。それはファンタジーだから許されるのかもしれない。しかし、このドラマはファンタジーではないゾと。その辺りを気にしないようにしていたが、先週の「移民」計画を見たら、これはまずい。私たちは、東日本大震災というものを経験している。それを思いながら見ている人も多いと思う。先週、なぜか機能している都心の大型モニターテレビが写したのは、世界中からのエールだった。東日本大震災の時も、似たシーンが多くあった。私は、2011年のF1開幕戦だったと記憶しているが、導入部で現れたシューマッハを始めとするF1ドライバーたちが、片言の日本語で「マケルナ!」「イッショニ!」「ガンバレ!」と呼びかけたことを思い出した。『日本沈没』も、あの時の思いをしっかり持っているはずだ、と改めて感じた次第である。

 あの時は「移民」でなく「避難」だ。原発事故直後に福島県で避難した人の数は、県内外あわせて7~8万人と言われた。「県内」への避難とは、浜通りから会津・中通り方面への避難のことだ。これが「推定人数」であることは、いわきの人口が一時半分の15万人になったことからも言える。またこれに、首都圏から関西方面への一週間とか一カ月とかの「プチ避難」も含めたら、膨大な数になっていた。早め&自主的な春休みに入った多くの児童生徒も加わるわけである。あの当時、政府主導でことは進まなかった。混雑した空港の窓口が、ドラマでも少し映ったようだが、空港勤務をしている知り合いの話では、2011年の外国航路窓口は怒号が飛び交い、地獄のようだったという。ドラマでも海外への「自主的移動」が真っ先で、政府の指示など待たず進むというシナリオはなかったのだろうか。

 

 2 「ドラマ」と割り切れず

 推定7~8万人の福島県内外避難者の苦しみを、かすかにだが私たちは知っている。事故の後、わずか原発から20~30キロしか離れてないところでも、避難するひとたちを「受け入れがたい気持ち」が膨らんだことを、私たちは覚えている。県内では「税金も払わないで」「金をもらって」と白い目で見られ、県外では「放射能を運んでくる」と言われた。後者の景色は、欧米が、中東からの移民・難民に対して「あいつらはテロを運んでくる」と危険視していることに重ねてしまう。日本が難民受け入れに厳格な現状は差し置かれ、「たかだか7~8万人」の避難経験を総括できないでいる現状も差し置かれ、ドラマでは千万人単位の移民交渉が進んでいる。

 実際に起こる、起きているのは、あても金もない人たちが置き去りにされることだというのは、難民問題のイロハではないのだろうか。温暖化によって初めに沈んで行くエリアが、最もエネルギーを消費していないという皮肉な、いや、悲惨な状況を考えないといけないのが「先進国」なのだろう。とりあえず、ドラマでは映してないが、すぐに逃げたに違いない資産家や役人もいるはずだ。その現場を10年前、私たちは見てきた。霞が関官庁内で、官僚たちが「逃げよう/そうは行かない」と、ドラマでは激論を交わしていたことが救いだった。

 また一つ救いだったのは、天海(小栗旬)の母親(風吹ジュン)が良かったことだ。天海の移民勧誘に、「今さらここを離れるつもりはないよ」「いま、忙しいから」と、電話をきるのである(まぁこの電話も簡単につながってるのだが)。母親の後には、いつもの生活をする人々の姿があった。なつかしいと言ったら怒られるかもしれないが、いわき・久ノ浜のおばちゃんたちを思いだした。

 原作者の小松左京の作品に、私はあまり縁がなかった。身近にいたからだ。小松や小田実とは、集会・シンポジウム、そして『週刊アンポ』での出合いだった。彼らとのコンタクトは、作品ではなく社会運動、という流れにあったと思っている。開高健や阿部公房もあの頃、私(たち)のすぐそばにいた。話が聞ける・出来る環境にあることは、作品に近づくことにならなかった。そんなわけで私は50年前の『日本沈没』を読んでないが、ドラマは小松左京「原作」でなく「原案」レベルではないのだろうか。

 こんな風に言うのは、高望みからだろうか。私が感じているリアリティの場所が、福島の避難所や仮設住宅にあるからなのだろうか。残された回に期待するつもりだ。

 

 ☆後記☆

50年前のことで言えば、公開中の『MINAMATA』もそうですね。写真家ユージンスミスのことは知りませんでしたが、「入浴する母と子」の写真を見て知ることになりました。転載は控えますが、読者の皆さんも見た記憶があるのではないでしょうか。実写も交えた映画だったので、改めてあの頃を思い出しました。悪人と言い切れない演技を、國村隼が実に上手に立ち回るのに感動しました。ついでですが、この國村の「だってppmですよ」というセリフで考えました。要するに「ちっぽけな量ですよ」という意味。これが水俣病を産んだのです。今も良く聞くこの言葉、覚えておかないといけません。ジョニー・デップ、いいですねえ。

近くの小学校。最後に紅葉するイチョウで~す。

ロータス7、ではなく光岡自動車のコピーものです。知り合いの工場に入ったというので、私の愛車とツーショットしてきました。車好きの人でないと、車がどこにあるか分からないかもしれません。姿はほとんどレーサーです。