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旭川報告書 実戦教師塾通信八百二十八号

2022-09-30 11:38:00 | 子ども/学校

旭川報告書

 ~「他山の石」として~

 

 ☆初めに☆

昨年3月に旭川市の公園で凍死体となって見つかった広瀬爽彩(さあや)さんの、第三者委員会による調査報告書が、10日前に出されました。事件への「違法」という見出しや、調査結果に「遺族側は強く反発」(いずれも9,21付朝日新聞)という記事を見て、いささか不安な気持ちで読みました。確かに「自殺といじめの因果関係は明確でない部分がある」と、報告にはあります。遺族の心は乱されたはずです。しかし報告書は、爽彩さんの自殺が醜悪でひどいいじめの結果だ、としか読めませんでした。そして、170頁に及ぶ報告書全文を読んだ私の印象は、この報告書が今後のいじめ事件の指針になるべきではないか、というものでした。一刻も早く報告書について書かないといけないと思い、予定より早くの発行となりました。

 

 1 前提

 一般読者は読み流したのではないか、と思えるニュースの部分がある。21年に旭川市は「市総合教育会議」が、事件を「重大事態として調査を市教委に求める」とある。自治体における「総合教育会議」とは、2011年の大津いじめ事件を契機に、全国一斉に設置の動きとなった。「総合教育会議」に限り、教育委員会に自治体の長が介入できる。さかのぼるが、戦争の反省とともに、国や行政に左右されない機関として教育委員会は設立された。しかし、とりわけいじめ事態に対し、教育委員会が機能していないと、当時、大津の越市長は積極的介入をはかった。ちなみに、千葉県柏市でも現在、市長が招集している。

 報告書最初の「Ⅰいじめの重大事態の調査等の概要」、11頁の部分。

〈子どもが学校生活において他者と交流していく中で、互いの言動によって一定の心身の苦痛を感じることはある意味で当然というべきである。それは子どもの社会生活の中で避けられないものであり、成長の糧となるものでもある〉(以下〈 〉部分は報告書からの引用)

これは重要な指摘である。また繰り返すが、いま社会で安直に語られ大きなうねりとなっている「みんな友達」は、私たちの間に新たな窮屈をもたらすものとなっている。子どもが「みんな友達」となるには大変な道のりがある。そのことを報告書は明言している。これを読んで、この報告書は信頼出来るものだと思えた。

**報告書最後の「参考資料」に、茨城教育委員会の「いじめ重大事態対応マニュアル」が挙げられている。2015年に発生した「取手いじめ事件」の報告書をステップ・参考にしたのではないかと思えた。

 

 2 「言語道断」なのは

 生徒の過失や「犯罪行為」(私の表現)については、報告書は抽象的な表現にとどまっている。一方、学校や当局の過失については、一定ありのままに書かれたと思う。ここは公的機関である第三者委員会だからこそ出来た。学校も、まさかこんな日が来るとは思いもしないで、支離滅裂で恥知らずな対応をしたのだろう。それが残っている。端的にそれが出ているのが、ひどい仕打ちに耐え切れず爽彩さんが川に入り自殺を図った(入学から二か月後)あとの対応だ。加害側の生徒が自分の非を認めていない段階で、学校が「謝罪の場」を設けた。当たり前だが紛糾した。開き直りをする生徒たちにとって、謝罪は「不当な罰」だ。そして、事件後の爽彩さんは病院に入院・通院、そしてやっとの思いで数日登校という状況である。母親は弁護士同席ならという条件を付けて承認するが、いいことではない。しかも、学校はこれを拒否する。学校は「教育的見地から考えれば、弁護士同席など言語道断」という。被害側が学校を信用できないゆえの弁護士同席という状況を分かってないか、認めたくないとしか言いようがない。一体何のための謝罪なのか、これは学校が繰り返し言うところの「被害の拡大防止」のためなのだろう。このことで市教委が学校を訪問し、校長と教頭に面談している。席上で校長が言った、弁護士同席で謝罪の場を容認できない理由、これは看過できない。5点のうち2点抄出する。こういったやり取りがあったことは、表ざたにすることが分かっている文春オンラインには、口が裂けても言えなかった。「内輪だからできた」言表が、白日の下にされされるとは夢にも思わなかったろう。

〈ⅱ公的機関である学校は、生徒間の民事紛争には不介入である(下線部を施したのは私)

 ⅴ学校外で発生している事案について、学校がそこまで関わる理由がない〉(54頁)

あんぐりと口を開けるのはまだ早い。言うに事欠いてとは、こんな時に使うのだ。市教委の教育長は、校長から、

〈客観的な立場をとり被害、加害どちらか一方の味方をしない(立場)が担保されなければ謝罪の場に同席するのは難しい〉(75頁)と伝えられる。

「被害」にあった者に対して「味方」することは慎重に、と言っている。もうこれは、日本語としておかしい。報告書が文科省「いじめ対策方針」を引用した部分ではこうなる。

〈いじめの事実があった場合には、被害生徒等への「支援」と加害生徒の「指導」を行う〉(83頁)

誰もが「支援」は当然だと思うはずだ。しかし、そうではなかった。報告書の見解は、当然と思える。

〈被害者本人が希望しておらず、本人に伝わることのない謝罪は、いじめ被害者に対する対応としては、何の意味も持たない〉(116頁)

 

 3 いわれのない誹謗中傷

 もう一点取り上げる。6月の事件から3か月、事件に関する記事を地元月刊誌が掲載する。すると、その三日後、学校は校長とPTA会長の連名で「ありもしないことを書かれた上、いわれのない誹謗中傷をされ、驚きと悔しさを禁じ得ません」と書かれた文書を、保護者あてに配布する。6月の事件の際、教頭は母親に「いじめの証拠はあるのか」と問いただす。するとスマホの性的な写真を提示された。それを教頭は自らコピーしたのである。こんな文書を発行する自信が、一体どこから生まれたのか。報告書は〈PTA会長の連名の……必要性も認められない〉(114頁)とし、

〈(これは)いじめの事実や本件生徒が自殺未遂をしたことを否定する内容に読める(下線は私)〉(113頁)

〈文書を配布するにあたっては、被害者である本件生徒や母親の意向を確認する必要があった(同)〉(同)

としている。しかし遺族は、根拠もない気持ちを踏みにじる、こんな文書発行をすることが出来るものなのかと、当然思うことだろう。下線部分は、客観的にも遺族の気持ちをくむ表現としても極めて弱いものだ。報告がいいだけに、悔やまれる。「遺族側が反発」とは、こういったことも含まれると思われた。

 取手いじめ事件の時、法律を担う者の「いじめと自殺の因果関係」裁定の難しさを、調査委員会は吐露した。それでも一歩踏み込んだ、勇気ある報告だった。旭川の報告書も、その後を引き継ごうという気持ちがうかがわれた。加害生徒が言う「悪ふざけ」というこじ付けに、調査委員会はどう対応したのだろう。取手いじめ事件では、「冗談」が許されるのは、互いの強い「信頼」があっての上でだ、という報告だった。今回それが生かされたのではないかと思える。

 

 ☆後記☆

字数がすでに大分かさんでしまったので……とは不謹慎極まりありません。もし、メンタルに自信があるなら、報告書全文(『娘の遺体は凍っていた』も)読むことをお勧めします。『娘の遺体は……』の最後にある「Y中学臨時保護者会」部分には、涙ながら、多くの保護者の「(自分の発言で)何かあったら内申書がある」という発言もあります。学校側が、肝心なところで「何もお答えできない状況にあります」と繰り返す部分が、もどかしい。

稲もたわわな手賀沼の田園風景、と言いたいところですが。きれいな夕焼けだけ見えます

昨日から、久しぶりの福島にいま~す


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