実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

再開して 実戦教師塾通信七百十号

2020-06-26 11:32:34 | 子ども/学校

 再開して

 ~始まった学校の子どもたち~

 

 ☆初めに☆

先日の入学式は裏番組で通常の授業、というものでした。未だかつてない6月の新学期です。疲労&疲弊(ひへい)し、うろたえる気持ちを抱える一方で、遅刻して泣きべそをかく子がいる日常が戻ってきました。

このところ、多くの学校を回りました。そこで、やっぱり子どもはいいな、と感じるのです。先生方もそう感じていることに、嬉しさを禁じ得ません。現場はまだ生きているぞ、そんなことをレポートします。

「母校」です。見事に咲き誇っているのはニッコウキスゲでしょうか。

 

1 「密集しないと子どもはやっていけませんよ」

 柏市内の学校全体をリードする立場の先生なのだが、私の顔を見るや、いやあ琴寄先生、

「一体、この作業をいつまで続けるんだ、という先生方の声が聞こえてきますよ」

と言う。たとえば、子どもたちが帰ったあと、机やドアノブやと、アルコール消毒の作業を、先生方は際限なく毎日続けている。しかし、アルコール購入の予算が追加で降りてきたので、消毒作業を続けるしかない。現場はどうするのか、用心と油断のせめぎ合いの中、知恵と工夫が問われている。そんな学校に行くと、様々な生の現場が見えてくる。

「密集しないと子どもはやっていけませんよ」

ある校長先生の最初の言葉に、ォォと、感動の声を私は小さくあげる。登校する子どもたちの正門で、間を空けてねと言い、検温作業と健康観察のカードを集める先生たちは、思わず駆け寄り思わず声をかけ合う子どもたちに、注意するのをはばかるという。

「みんな嬉しいんだよね。手つないで登校してますわ」

別な校長先生は、仕方のない顔をして笑うのである。まだ「始まった学校」の感じをつかめずにいる子は多いけれど、休み時間の「密」はスゴイね、と言ってまた笑うのだった。良かった。この学校では、安全安心のために、と窮屈な思いを最優先しているわけではないのだ。学校によって景色は違うのだろう。下校時、門のところで集まってしまう子どもたちを、以前は「下校時刻」が理由だったのが、今度は「密」を理由に追い払う、そんな景色はやはり健在だ。また、教室に入れば、クラスによって全く空気は違うのだ。授業に大きく食い込むも、マスクのかけ方がダメだと「指導」する担任もいるわけである。重要だからだ。さっき校庭で走っていた生徒たちはマスクをしていなかった。ふと気がつけば、今度の体育の先生の授業ではマスクをしている。こんな時、私はいつも、

「人間に害をもたらさない治療はない。それでも治療を施すのは、それをしないことによって被る害の方が甚大だからだ」

という治療の理念を思い出す。私が訪れた学校の多くは、「密に寛大であること」の方が「密に厳格であること」より、被る害が少ないという判断をしていたのだろう。学校の再開をめぐって、全く相反する考えが社会にあるのだ。みんなが納得するやり方は不可能という点で、この「みんなが納得する」という言い方そのものが不誠実なのである。何らかの方法を選ばないといけない。「そこまで用心しなくとも」と「それは油断だ」という間を見極めるのは、やはり現場の知恵と決断なのだ。

 

 2 テレワーク

 感染予防のためなのだが、隣の流山市では給食を教師が配る。多忙と気づかいの中、大変な負担だ。トイレ掃除は柏の場合、児童生徒がやってもいいのだが、学校によっては教職員が行っている。学区の実態や校長の判断が、その差を作っている。そんなこんなの中で、テレワークの授業とやらが制作されている。先生たち大変ですよ、とは校長先生。当たり前のことだが、通常、授業の準備(ちなみに本番も)は担任または教科担任がひとりで行うものだ。これが最低でもふたり、まぁ三人は欲しいという状況である。そして、ここには通常ないはずの弱点がいっぱいだ。教室は小さいサイズの画面に収まり、音声はタイムラグがある。それらはすべて手触りや息づかいを欠いている。普段授業に集中できない子は、さらに集中出来ない。流れは常に一対一の、逸脱した流れに不寛容な(「許さない」ではなく)手続きを必要としている。当然それらに参加出来ない子もいるのだが、普段だったら視界の片隅にあるその子は、小さい画面にしっかり映っている。これはいいことなのだろうか。困難や面倒ばかりが目につく。前も言ったことだが、この授業の最大の欠点は、授業の目的を「知識理解」として偏愛することだ。ここには遅刻して入ってくる子を気遣う空気もないし、調理室から流れてくるカレーの匂いを共有することもない。大声を出して授業を妨害するヤツは「ノイズ」として処理されてしまう。

 そんな中、面白い報告があった。テレワークによる帰りの会を終え、子どもたちがみんなスイッチを切り、画面がスポット単位で黒くなっていく。しかし、一人分だけずっと消えずに、その子だけが画面に残ったという。スイッチは右下だから、と教えても切らない。切りたくないのだ。私は放課後、教室に残ってみんなが帰るのを待っている子どもの姿を思い出した。こう報告した先生は、この子の気持ちをつかんでいるのだ。そうか、この形式だと先生とふたり、つながるのが簡単でもあるのか、と思った。先生も頑張れ。

 

 ☆後記☆

消毒液が撤去され、レジの外にはお手拭きまで復活させたスーパーが出てきたのには、私もびっくりしました。これを「油断」と呼べばいいのでしょうか、「適切な判断」と呼べばいいのでしょうか。また、ニュースから「基礎疾患」という言葉が消え、「持病」が復活しています。そして、専門家が「こんな筈ではなかった」ということを言い始めている。これからしばらくは、政府と専門家の間で責任の押しつけあいが続きます。誰も責任をとらない新たな歴史が、また始まる。一体「8割削減」や「マスクは役に立たない」の後始末、いや検証はどうなったのでしょう。

 ☆☆

明日、子ども食堂「うさぎとカメ」です。再度お知らせします。


ウソつき 実戦教師塾通信七百九号

2020-06-19 11:25:01 | 子ども/学校

 ウソつき

 ~子どもたちの道標として~

 

 ☆初めに☆

前々号で書きましたが、政治家を見ていても分かる通り、ウソは重ねることでしか通すことは出来ません。でも、ウソを突き通したものは後味の悪さが残っても、罪悪感よりなぜか安堵感を抱いてしまう。子どもたちを見ていてもそう思います。東野圭吾の『新参者』を思い出します。

「人は嘘をつく。自分を守るため、他人を欺(あざむ)くため、そして愛する人を守るために」

政治家どものウソは、大体がひとつ目とふたつ目がセットになっていると考えていい。一方、かつて子どもたちにとって一番大切な「ウソ」は、「他愛ない」ものでした。それが変わりました。大きな荷物を背負いこんだ子どもたちの現状を、ウソを通して考えてみます。

 

 1 犬から学ぶ

 手賀沼でロードワークをしている折り、

「この子ったら、自分が大きいって分かってないのよ」

という声を小耳にはさむ。ちらと見れば、見かけは大きい犬がしっぽを振ってそばの犬に近づこうとするのだが、小さな相手はしり込みしてうなっている。私は「子どもの原点」を見たような気がした。威嚇(いかく)など本人には思いもよらないが、相手は自分の大振りな姿を恐れている。また、初めての出会いだっただろうに、犬どうし互いに飛び掛かっては噛み合っているのも目にする。しかし、相手が傷つくような「本物の戦い」にはならない。犬の大きさからして、これが将来の戦闘の訓練とは思えない。おそらく、これらは遊びであり、相手への愛情や存在を確かめる表現-ウソなのだ。

 

 2 ウソでも本当でも

 一体いつ頃から始まった言葉だろう、「ウソは泥棒の始まり」という言葉は、相手への憐憫(れんびん)や牽制(けんせい)のおもむきを、いま失っているように思う。学級目標に掲げられ、それが「約束」とされたりもしている。しかし、ウソにはみんなが聞きたがり面白がるものもあった。そして本当のこととそうでないことの識別、という技術を獲得する上で、ウソは欠かせないものだった。この点では犬も、じゃれ合いという修行の場を持っているのである。じゃれ合いは時折、本当の傷を相手に負わせることもあるのだが、そこからは子どもたちのみならず、私たち大人の、じゃれ合い=ウソのあり方に対する学習が始まるのである。それを一律に「いけないこと」としかねない現状は、子どもたちから、「日々の楽しみ」「他人を知る機会」、そして「自衛の技術」を奪っていることに、私たち大人は自覚しないといけない。「人は嘘をつく。自分を守るため」(前出)なのだ。だから私たちがウソをつく子を前にした時、この子は一体何から自分を守ろうとしているのだろう、という視点を忘れてはならない。「ウソをつくな!」では、相手には立つ瀬がないのである。

 それでも子どもの現場はまだまだ豊かで、ぺろりと舌を出して笑っているものが人気者だったりする。他愛ない冗談を真に受けて不安そうな顔をする子もいないわけではない。でも、見える場所でそれが起こっているなら、そこには修正する力があるのである。

 着飾った母親が学校で、この子はどうしようもないウソつきでと罵(ののし)る。しかし、話の中味はこの際必要ない。当の子どもの衣服は粗末で汚れたものだったからだ。母親が帰ったあと、そこに居合わせた3人ほどの教員は、オマエの(いつも)言っていることは本当なのかと言うのだ。何を言ってるんだ、本当かどうか、そんなことはどうでもいい。この子は自分を守るために必死に生きている。いや、死ぬか生きるかの瀬戸際にいる。ついこの間の本当の話だ。必要なのは、

「ウソでも本当でも、オマエは自分を守らないといけない」

という大人の言葉だ。そして、関係機関への通告である。

 

 ☆後記☆

柏市の行政が動いたことを、すでにお知らせしましたが、先日、議員さんたちからレポートを受けました。「議案提示と話し合いをしていては遅すぎた」「全会派の議員さんたちの協働で、柏市独自の動きを促すことが出来た」という報告です。力をもらいました。

 ☆☆

やっと子ども食堂再開します。調理室は使用できないし、密で食べることも出来ない。当面、パンや弁当の配布を行います。今回は市販のパンを配ります。地元の工場さんが協力してくれました。すぐ来週末です。お近くの方、良かったらいらしてください。

 ☆☆

イージスアショアですが、2月には撤回の議論が出ていたという一方で、寝耳に水という怒りを旧閣僚までが出しています。この撤回が、朝鮮半島の風雲急を告げる直前だった不可思議を、どうしてどこも報道しないのでしょうね。


きのこ丼 実戦教師塾通信七百八号

2020-06-12 11:24:57 | グルメ

 きのこ丼

 ~ヘルシー&美味しいB級グルメ~

 

 ☆初めに☆

まだ巣籠もりが続いている皆さんは、健康に留意してますか。今回は、初めてとなりますがクッキングといたします。以前からリクエストいただいていたので、この機会にと思いました。健康な食事と言えば、私には大豆食品やきのこ類、そして発酵食品とあいなります。今回はきのこをふんだんに使ったきのこ丼です。10年ぐらい前にNHKで見たのを、色々アレンジしたものです。んなの知ってるぜ、と言われそうですが、私なりに50年間やって来た料理です。何かの折りに参考にしてもらえたら幸いです。調理時間は、下作りを省いて考えれば、10分。簡単でホントにうまい。今週火曜の「あさイチ」で丼特集をやったようで、かぶってたらヤだなと思いつつ、まあとにかく。

 

 ☆材料☆(一人分)

◇玉ねぎ 中を半分

◇ニンニク 一片

◇きのこの素揚げ  半カップ

◇天かす 適当(とんコマなら30グラム シーチキンなら小サイズ一缶 豆腐なら2パックセットのひとつ)

◇紅生姜 適当

 ☆作り方☆

① きのこの素揚げを作る。

写真は30㎝のフライパンにてんこ盛りになってるが、中味はエリンギ/マイタケ/シメジ/椎茸。

塩をふたつまみほど振って蓋をして弱火で煮込むと、びっくりするほど水を出す。塩は水を出すためのもので、味付けには関係ない。水分を十分飛ばしてから、オリーブオイルでひたひたにして揚げる。

すると、こんな小ぶりのタッパーに収まる。全工程20分くらい。これを私は作り置きしてとっておく。サラダやスパゲッティなどに使えて便利この上ない。

② 玉ねぎを炒める

中サイズの玉ねぎ半分をスライスして、みじん切りしたニンニクと一緒に炒める。先にニンニクを炒めて別皿にとっておくというのはメンドクサイので、私はいつも一緒。この作業は弱火で丁寧にアメ色にしんなりとなるまで続ける。カレーと同じで、これが料理の味を分ける。下味として胡椒と塩を振る。

③ きのこの素揚げと「具」を加える

具に、私は良く天かすを使うが、驚くほどボリューム感が出る。肉でもシーチキンでも美味しい。代わりに豆腐を使えば、カロリーは断然優等生となる。でも、味に不足はない。

味付けは味噌もいいが、私は大体、醤油とみりんと酒。隠し味に酢をひとたらし加えると、格段にうま味が増す。面倒ならそばつゆでもいい。

熱々のご飯の上に、これを乗せ、さらに紅生姜を添えて出来上がり(薬味としてネギもいいし、トッピングとしてもやしを載せるのもあり)。

副菜は、ニラのお浸し。忙しい時は、味噌とあおさ、掟(おきて)破りで調味料を加え、熱湯を注いでみそ汁の出来上がり。美味しい。こういうB級飯っぽい時は必ず缶ビール。A級など滅多にないから、大体が缶ビール。秋~冬~春先はAだろうがBだろうが、日本酒。え? 夏にA級の時? 同じく缶ビールです。でもビールのグレードを上げる。そして泡立ての飛び道具を使って、グラスにちゃんと注ぐ。こうするとビールの味が全く違う。

いただきます。

 

 ☆後記☆

藤井君、姿が見えないと思ったら、コロナの影響をかぶってたんですね。なんかやっぱり、藤井君はみんなに元気をくれる。勝ち負けはいいから、やっぱり良かったという姿がみたい。そして、きっとそうなりますね。

 ☆☆

フロイドさんの葬儀が報道されました。ニュースでの一瞬、式場で流れていた曲は、私の気のせいでなければ『聖者の行進』でした。改めて、ジャズについて考えました。

 ☆☆

福島・楢葉の渡部さん、元気みたいです。私が、千葉ナンバーの車がウロウロしてたらまずいと思ってと言うと、こっちは北海道や東京の車でいっぱいだよ、と笑ってました。そう言えばそうだった。もうすぐ福島からのレポートも復活出来そうです。

関東も梅雨入りしました。皆さん、身体に気をつけましょう。


軽い重い 実戦教師塾通信七百七号

2020-06-05 11:48:03 | 思想/哲学

 軽い重い

 ~言葉の軽さ/明確な伝達~

 

 ☆初めに☆

先日まで、どこかでは「責任は私にあります」「責任を感じています」オンパレードでした。言葉がこんなに軽くあしらわれることに、いまいましく思う日々であったわけです。その一方で、私たちは謹慎に近い慎重さを要求されているという有り様なんだと思います。それらに見える変化を、ここ数年の様子を振り返りつつ考えてみます。

 

 1 「お止め下さい」

 先日、スーパーで買い物をしていたら、店内のアナウンスが「…………をお止め下さい」と言うのが聞こえた。私は我が耳を疑い、固まった。前半は聞こえなかったが、そんなことはいい、今までだったら、耳も傾ける必要のない「………とさせていただきます」だった。それが「やめてくれ」という。そんな折りコンビニのローソンが、ごみ箱の「使用中止」を発表した。ごみ箱には「禁止」の簡潔なお知らせが貼られていた。これらのことに少しばかり感動した。つい先日までは、丁寧や感謝を優先する中、とうとう卑屈/謝罪レベルの接客や対応をしていたはずだ。たとえば、

「場内への御入場は、御遠慮いただくようお願いいたしております」

なんて言うアナウンスが、平気で流れていた。まず最後まで聞くのが大変だ。外国の人が聞いたら「イミフメイ?」と母国語で言うに違いない。その時その場に応じた相手への対応を、私たちはずいぶん粗末にして来た。愛想や丁寧なんかより優先される姿は、出勤時の駅ホームの売店で見られると言ったら分かりやすいか。冒頭のアメイジングな「お止め下さい」は、伝えようという意思が明瞭だった。感染症の力恐るべしと言うべきか。

 この辺り、軍配を分けたというか、そんな出来事があった。ひとつはコロナ医療従事者に対する差別(正確には「排除」でしょ)に対して、厚労相などが言った「(こういうことは)あってはならない」という、何だコレ。神様が降臨(こうりん)したのかと思う。一方、マスクやトイレットペーパーに続き小麦粉が転売されたことに対し、農水相が「極めてけしからん」と言った。「許さんゾ」という。気持ちが伝わる、ということだ。

 

 2 暴走し続ける敬語

 しかし、軌道修正のないまま突っ走り続ける「敬語」たちは、跡をたたない。局長・佐川の頃の話で、

「逃げ隠れなさっておりますが」

などと、キャスターが「敬語」を口走る。この文脈だと、尊敬されているのは「逃げ隠れ」という行為か、その行為の「当事者」以外にはあり得ない。ところが「逃げ隠れ」という言葉には、何ものをも尊敬しない意味が内包されている。「逃げ隠れ」を使った時点で、「逃げ隠れしていますが」とならないといけない。まだ続く。

「(コロナに)感染されてらっしゃる皆さん」

一体「感染される」とは何のことだ。きっと「病気が移る」ことだろう。でも「感染する」がこれを意味する。「感染される」と文字変換しても出て来ないんだゾ。では、「感染してらっしゃる」という意味なのか。しかし、どうして「感染した」ことを尊敬されないといけないんだ。キャスターは心配を伝えたいのだろう。だったら「感染して困ってらっしゃる皆さん」と言うのが正しい。「お客様は神様」的奴隷の言葉が招いた悲劇、いや喜劇である。言葉の達人、文学者から学ぶがいい。赤瀬川原平が「おでん」は敬語なのかというくだりを読んで、思わず私は吹き出したことがある(『明解 ぱくぱく辞典』)。しかし、この「でん」とやら、もとを正せば「田楽」のことらしい。つまり「おでん」は立派な敬語だと言う。政治家もキャスターも、彼らの爪の垢(あか)を煎じて飲まないといけない。

 

 3 「ソーシャル」ということ

「ソーシャルディスタンス」が登場する前、実は「ソーシャル」を冠した言葉が闊歩(かっぽ)していた。学校関係者なら忘れはしまい。「ソーシャルスキル」、日本語で「生きる力」だ。曰く、「今の子どもたちは生きる力がない」ので、

「自ら考え判断する力を育てる」

という。何度か繰り返してきたが、子どもたちの「力」「強さ」は、誰かから「愛された」、または「愛されたという記憶」が形成する。しかし「ソーシャル」は、「社会で生きる自覚」に支えられている。「スキル」も「ディスタンス」もだ。だからこの「ソーシャル」を使う相手は、こちらを「見てくれない」し「聞いてくれない」。「指示」であり「指導」だからだ。学校が再開しても、給食時のささやき声に「こら、コロナにやられちゃうぞ」というのが優勢で、「楽しそうだね」というあいづちは劣勢のようだ。「ソーシャル」な勢いには、困ったものがある。

 学校関係者はいい加減気がつかないといけない。たとえば、グローバルやらIT革命やらに踊らされ、「生きる力」に変わって「アクティブラーニング」なるものが出された。こうして学校というものは、未だかつて「時代・社会に追いつき、追い越せ」という規範から自由だったことはない。そして現状は、操作可能・実測可能なものを優れたものとし、人間の感覚は低いものへとおとしめられている。パソコンもデータも使うなと言うのではない。しかし、今の流れの中で、子どもたちも私たちも、不安と焦(あせ)りを育て、不機嫌に生きている。このことを真っ先に考えないといけない。

 学校が始まった。友だちとの距離をとり、行動が制限され、マスクで表情も見えない。でも、子どもたちはささやかでも、そんな中に必ず楽しさを見いだし作っていく。私たちは、その子どもたちのため力を貸すことはあっても、決して邪魔することがあってはならない。

 

 ☆後記☆

「国語の先生は言葉を大切に思うんだね」という感想はご勘弁ねがいます。言葉とは人の問題、抜き差しならない現実との関わりのことです。ちなみに、言葉で「責任」と言う総理に辞めろという。私はその声に怒りを禁じ得ません。辞めたらもう何も話しません。まわりも「辞任という最大の責任をとったじゃないか」と言うのは間違いない。「定年延長法案は黒川氏を続けさせたいからか」なんて愚問は「違います」という答で終わります。こんな野党を誰も支持するわけがない。

 ☆ ☆

自粛生活で良かったこと。愛車が見違えるようになったことですね。やれば出来ると思いました。

こちらは、千葉県我孫子・水の館です。いやあ、空と空気が違ってました。休日なんですが、まばらな人影。