実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

宇都宮  実戦教師塾通信四百十三号

2014-10-31 11:50:50 | 戦後/昭和
 宇都宮
     ~光と影~


 1 菊水祭

 五年ぶりぐらいだろうか。何年か置きにする「宇都宮もうで」をした。
 二荒山神社の蔵で行方知らずとなっていた山車(だし)が見つかり、今年の例祭「菊水祭」で百年ぶりのお披露目となった。
      
26日(日)の馬場(ばんば)の通りは、私の記憶の中でも屈指(くっし)の賑わいだった。もちろん私は10月に例祭があったことなど、知るよしもない。しかし、神社の看板をしげしげと見るお年寄りも感心しているのだった。
 写真は神社の境内(けいだい)、祭りがまだ始まる前だ。このあと、人々は身動きがとれないほどとなり、写真手前にある馬場交差点を武者行列が横切った。神社本殿につながる階段を、七五三の晴れ姿の親子連れが降り、行列と交わった。
 神社に隣り合わせていた地元有名デパート『上野』は、一階が銀行のタワーマンションとなっていた。宇都宮で喜ばれるパッケージは、かつて『上野』のものと決まっていた。西武が開店の英断をするもすぐに潰(つぶ)れたが、地元では予想通りだった。それが今は、二荒山神社の大通りを隔(へだ)てたパルコが威容(いよう)を誇っている。隣り合った地元の商店はみな、ウィンドーや看板の装(よそお)いを昔のままにしていた。歩道の上にはアーケードと呼ぶには傷(いた)みが強いものが突き出ている。それらはみんな地方都市の歴史を物語っていた。あの頃は饅頭屋も洋品店もみな、横並びで客を待っていた。


 2 フランス式庭園
      
 大学の正門を入るとすぐ、フランス式庭園がある。奥にすかして見える大谷石づくりの建物は、かつての図書館である。これが大学の中央位置に移転、新図書館としてお目見えすることになった。建物の建設が始まると、この建物はなんじゃ、我々の知らないところで何が起こってるのかと学生が声をあげ、全学を揺るがす闘争となった。
 そんな他愛のないことで闘争か、と思う読者も多いかも知れない。しかしこの頃、全国の大学でも事情は似たようなもので、学生寮の自治権要求とか、今で言うパワハラだが、学生への暴言など、始まりは小さなことだった。しかし、これも全国共通に、抗議相手の教授(会)なるものの対応が、見事に同じだった。要するに「たかが学生、何を抜かすのだ」という、居丈高(いたけだか)で、官僚的な対応をした。それで学生たちは旗を揚げた。すると今度は、これも全国共通、機動隊を学内に導入する。
      
1969年11月5日の大学正門。「実力封鎖中」と紙の横断幕を張っているのは大学べ平連。これに対して機動隊が「おい、ふざけんなこの野郎」と怒った。

対教授会団交で私たちはその責任を追求した。教授たちは、教授会全体の出した結論なのだと、責任の所在をぼかした。それに対し、今でも特徴的だと思うが、私たちは「教授個人」の姿勢を確認した。
「あなたは賛成したのですか。反対したのですか」
自分の姿勢を問われた教授たちの答は、実に様々で滑稽(こっけい)なものだった。

○私に乞食になれというのか
○君たちの主張は分かるが、やり方が間違っている
○学問追究に私が何年やって来たと思ってるのか
○こんなことをしてどうなるか分かってるか 等々

答とは別なことを言う教授たちに、私たちは「じゃあ、あなたは機動隊導入に賛成だったのですね」と確認しなければならなかった。また中には、

「私は機動隊導入に反対だった」

という方もいらした。この教授が発言したあと、演壇上の背後に控えている教授たちが、わずかだが色めいたのを覚えている。そして、傑作な展開が続く。

「じゃあ、あなたは機動隊導入反対に手をあげたのですね」
『いや、教授会は挙手するという場所ではない』
「賛成/反対の採決をしないということですか」
『そうだ。でも私は反対だった』
「じゃあ、あなたは反対意見を言ったのですね」
『いや、言ってない。でも反対だった』

体育館を埋める千人を越える学生の半分は爆笑し、半分は怒った。熱心な読者は覚えていると思うが、前も書いた通り、機動隊導入反対を貫いたのは、農学部に籍を置いた藤原信先生、たったひとりだ。『ダムとの闘い』(緑風出版)を続けた、あの藤原先生だけだった。

 私たちは団交やデモを終えたあと、あるいは討論でこのフランス式庭園にたまった。なんでもない昼休みにもたまるわけで、そんなある日、この庭園のはずれにある楡(にれ)の木陰に座っている工学部の先輩に気づく。今で言う山P風の先輩は、スーツを着込んでて、隣にはこの時代には早すぎた感のある、髪の長い浜崎(あゆみ)がいるのである。パンツが見えそうなスカートをはいた彼女に、先輩が物憂げに話しているのを見て、私たちはもう落ち着かない。なんせ、かの先輩は白いヘルメットを被り、デモの先頭で闘争ショウリだの、安保フンサイだのと言い、ウブだった一年生の頃の私なんかにも、
「最後まで戦う気があるのか!」
などと、迫っていたのである。その先輩が最近デモや集会に顔を見せないと思ってたら、浜崎を連れてスーツなのだ。私たちは彼らのそばを自転車で、あるいは歩いてそれとなく会話を探った。それによれば、
「闘争ったってむなしい」
「みんな所詮は自分がかわいいのさ」
「じゃ、大学に何があるのかって言っても」
みたいなことを浜崎に話していたようだった。あとの風の便りによれば、先輩は栃木放送のアナウンサーになったとか。よく言う「昔は大学の闘士、今となっては企業戦士」という話、悔しいがそういう仲間と呼ぶわけにはいかない輩(やから)は多かった。


 3 母の来訪
      
 これが闘争のきっかけとなった新図書館である。今となってはこの建物は消滅し、国際学部だかいう建物があった。写真は1970年1月28日のものである。この日が新図書館としてお披露目される日だった。しかし、式典は中止される。わけは「赤ペンキ」である。写真がモノクロで分からないが、建物正面の壁に叩きつけられ、大きく飛び散っているのはペンキだ。前日の深夜にされた。大学職員が朝から次々と現れ慌(あわ)てふためいた。みんな初めは壁を見上げながら建物に近づき、やがて地面に落ちているコーラのビンの残骸に気づくのだった。
      
 一体誰がやったのか、という話題は一時キャンパスの慰みとなった。ヘルメットの色ごとで、あいつらがやったんだろうとお互い牽制(けんせい)し合ったあと、最終的に赤だの黒だのというごた混ぜの色の私たちに、もしかしておまえ達か、と回ってくるのはしばらくしてからだった。

 大学通用門を出ると、そこになんと45年前と変わらない姿があった。表に「豚丼399円」の張り紙。そして「60周年」とある『平和堂』だ。入口の奥には「アパート空き室あり」の手書きの張り紙。さすがにカツ丼140円ではなかった。しかし、ここの奥をのぞけば、ベージュ色のヤッケを着てビッグジョンのジーパンをはいた私が、もどかしげに焼き魚定食を食べているような気がした。
      
 結局母は、一度も宇都宮に来たことがない、と思っていた。しかし、親戚筋から、母はこっそり何度か来ていたらしいと聞いたのは、母が亡くなったあとだった。おそらく何度か私に「行きたい」とは打診している。あの頃の私のことだ。きっと「来てもしょうがない」、果ては「何しに来る」と切って捨てたのだろう。来たところで心配するだけだと思って言ったのかも知れない。

 母は大学構内に入ったのだろうか。それともフェンス越しに中をうかがって帰ったのだろうか。


 ☆☆
そして毎日、私は仏壇に向かって「ありがとう」「ごめんなさい」を繰り返してます。今は、茨城の敬愛する先輩から届いた富有柿がお供えしてあります。最後にいつも通り「頑張ります」を言っています。

 ☆☆
半世紀前のお店が、宇都宮にまだあるだろうかと検索してみたら、あったあった『グリル富士』。ネット上での「お勧めの店」は昔、学生風情ではとてもとてもというステーキハウスでした。勇んで出向いたのですが、「二年前に潰れたんですよ」というお店の近くの人の話なのです。残念でした。

「道徳」正式教科  実戦教師塾通信四百十二号

2014-10-24 11:21:14 | 子ども/学校
 「道徳」正式教科に
     ~無理で無用な試み~


 1 山下智久書類送検

 元newsの山Pこと山下智久が書類送検された。ここんとこニュースでは小さく、ネットでは大きく報道された。22日に謝罪している。興味をそそった。山下が悪いのではないのだろう。有名人への一般人からの手ひどい扱いは、しばしば世の中の叱責(しっせき)や、慰みを生んできた。最近では、ふなっシーが数々の狼藉(ろうぜき)を受けている。また、名優である私の教え子は、街で買い物をしていたら、一緒にいた我が子を動画撮影された。しばしばあることらしい。もちろんことわりもなく、だ。子どもを撮るのはやめてくださいと頼んだそうだが、頼む時声が入るのでためらったという。まことに腹立たしいことが罷(まか)り通っている。
 今回の事件、ご存じかと思うが、夜の六本木路上で、両方ともグループだった。話しかけられた山下側。だんだんこじれ小競り合いとなる。それを向こう側の女が動画撮影しようとした。山下はその携帯を取り上げて逃走したのである。その場で壊(こわ)さなかった。傷もなくもどり、示談も成立だそうだ。動画は削除したのかどうか。腹にすえかねたのだろう、とは私が思ったことだ。
 写真は力のないものばかりでなく、力のあるものにも有効な手段だ。それは必要とされる時、証拠となる。しかしそうでない時は必要ないものだ。ケンカだったら、一般的に言ってどっちもどっちで、写真なんか出る幕ではない。しかし今、携帯で動画/写真を撮ることが、まったく違った意味合いを持っている。まったく私的なことであっても世の中にばらまかれる。この場合、山下側の暴力が限度を越えていたというなら話は別だ。でも、一方的に暴力をふるったらもうおしまい、の業界だ。その点から山下側はもうハンディを負っていると考えていい。
 この撮影行為は、芸能人が興奮してるぜ、みんなに見せよう、動画アクセスでランクインだ、などというえげつない下心があることは見えている。暗闇でかざされるスマホかタブレットか、照明が煌々(こうこう)と、そしていかがわしく光る。
 
 この件は、今回(21日)中教審が出した「道徳の正式教科」の思惑(おもわく)が無意味であることを示している。


 2 大人の手が届かない場所
 私個人で言えば、私は道徳の授業を率先(そっせん)した方である。変な言い方だが、別な授業やクラスの時間にあてる担任が多いという学校の実情である。「道徳」という名前に威圧感はあるが、子どもたちが「友だち」や「人生」、「平和」「国」について授業で話すことはまずない。だから面白い。ちなみに、
「友だちがメール依存。どうする」
みたいのは間違いなく面白い。みんながどんな感じ方や考えをするのか、今どきの子どもだからこそ、それを知らない。だから面白いのだ。
 さて先日、子どもの味覚障害が30%なる報告(東京医科歯科大学)がされた。子どもの三人にひとりが、味が分からない(味わっていない)というおぞましい結果だ。この結果が「甘い」「辛い」ということはもとより、子どもたちが「おいしい」場所から遠くにいることを示している。
 「おいしい」を形成する要因に、

① 共感する場所を持つ→食べる相手を持つ
② 確認できる場所がある→食べやすい環境
③ 専念できる時がある→食べることだけ出来る

などがあげられていい。だが子どもたちはコンビニの店頭やひとりのダイニングで、携帯の画面を見ながら「食事」をする。「おいしい」はずがない。ただし三人にひとりだ。それはやっぱり「多い」。これを私は「置き去りにされた子どもたち」と言っている。それではいけない、と言われないといけないのは、当然子どもたちではない。子どもたちにそれは直しなさい、と言っても無駄だ。そんなものは通じない。
 私たちの身近な「味」という存在が、こんなに遠い存在となっている。方や山Pの例に沿って言えば、普段はメディアで見かけるだけの存在だというのに、今やすれ違う機会があれば、まるで知人であるかのようにすり寄っていく人々が数多い。「遠い存在」を遠いとも思わない現象が発生している。私たちはこのことを「自我の拡散(かくさん)」と言ってきた。「自我の拡張(かくちょう)」とも思いかねないこの出来事で、私たちは世界を手にしているわけではない。そんな勘違いだ。気がつけば私たちは、動画サイトに目新しいシーンを探し、ツィッターのその後を確認している。ボンヤリすることなどいつの時代のことだと思って愕然(がくぜん)とする。頬杖(ほおづえ)をつくなど、恥ずかしいと思う人さえいるに違いない。これが現在の私たちの場所である。
 先日の文科省いじめ調査結果(16日)に対して、

「子どもたちが大人の手の届かない場所にいる」

とこぼしているのは、調査を担当した関係者や現場からの声である。それはネットでの出来事をさしている。子どもたちがそこに侵入(しんにゅう)し拡散していくのを、どうにも止められないと言っている。
 ひるがえってみれば、子どもたちはもともと彼らの場所を持っていた。それが「秘密基地」であり、「かくれんぼ」だった。空き地がなくなっても、子どもたちは「代替地」をどこかで都合した。しかし、昔の「子どもの場所」というものは、やはり「子ども」の場所だった。だから、必要な時は原っぱまで探しに行けば、親はなんとか我が子にたどり着いたし、夕方になれば子どもは自分で家路についた。これがとてつもない変貌をとげた。探すといって、親はどこを探せばいいのか見当もつかない場所に子どもが行ってしまったのだ。例えば、いつの間に自分の娘が、親と同じパソコンからいい年のオヤジとコンタクトを取っていた。それが堂々の昼間の出来事だったりする。まあこういう行為は、ネット上のパトロールで一定対処可能となっているものの、ことは個人間のlineとなると対処不能状態である。


 3 「今、ご飯中ですよ」
 取り返しのつかない現実を前に、中教審が動いたのだ。「なんの足しにもならないと思うが」というただし書きでもあったら救いはある。しかし、相も変わらぬ「生きる力」を前面に立てたいい方は、どうにか出来るとでもお思いのようだ。教科書「私たちの道徳」が教室に置きっぱなしにされていると指摘し、まじめに通達まで出した。肝心の教科用教科書が机の中でぐっすり眠っているというのに、今さら副教材で驚いている。一体、子どもが家に教科書を持ち帰らなくなって、どれくらいの年月が過ぎただろう。
 そしてこれも良くないのは、反論する側もまったく変わっていないことだ。「郷土愛を愛国に結びつける」「特定の価値観を国が強要」など。子どもの現実からかけ離れた中教審の報告に対しては「子どもの現実に即してない」との反論がされるべきなのだが、そうならない。要するに空中戦となっている。
 答は結局、繰り返しとなるが、

「子どもが子どもらしく居られる場所」

をもう一度探し出すことでしか得られない。子どもは親や周囲の大人から、

「そうしてるのがいいよ」「そうしてはいけない」
「こうすればいい」「こうした方がいい」

と言われることで子どもでいられる。ある時それは命令/アドバイスで、ある時それは承認だ。大人の威厳(いげん)を取り戻したいのではない。その時その場で大切なことがなんなのか、大人は子どもより分かってないといけない。失った場所を「食う」「寝る」場所から考え直すことだ。それは「道徳」の「授業」では出来ない。
「今、ご飯中よ」
と親が言えなくてどうする。今ここで何が優先するのか、大人は子どもより分かっているはずだ。失った場所は「聞く」「話す」ことでしか見えて来ない。「道徳」の「授業」ではない。
「どうしたの」「良かったね」
と学校の先生が言えないはずがない。警察だ病院だと騒いでどうするのだ。
 よく話してよく聞いて、私たちがそれでも子どもたちに憤(いきどお)りを感じるとしたら、それはきっと正しい行為だ。私たちはそれを「愛情」と呼んでいいのだ。
 わずかずつだ。しかし、私たちは子どもたちの前に光をともせる。


 ☆☆
動画撮影と言えば、先日(13日)、経産省前の脱原発テントが、右翼と称する連中に破壊されたのはご存じと思います。あまり大きく報道されませんでしたが、テントの発行するブログ/メールによれば、テントメンバーは徹底的に非暴力で対応したと言います。でも、向こうは暴れる連中の他に、カメラを構える奴らも複数いたらしい。こちらが身体をはったら「証拠」にしようというのですね。卑劣なやつらです。右翼の風上にもおけません。

 ☆☆
我が家のストーブ設置、少しばかり延期になりました。まだ写真のような状態です。仲間の話によると、会津方面の仮設住宅でも設置されたタイプというので華奢(きゃしゃ)なものかと思ったら、けっこう立派でした。
            
脱原発を目指す仲間で、薪(まき)ストーブというのは、そこがポイントです。排煙のファンを回すため電気を使うのですが、その電源をバッテリーでまかなうというのが売りなんです。今はそのためのバッテリーリサイクル専門の会社もあるそうです。今年の冬が楽しみです。

ユナイテッドアローズ Ⅱ  実戦教師塾通信四百十一号

2014-10-17 11:38:49 | 思想/哲学
  ユナイテッドアローズ Ⅱ
    ~着物の誘惑~


 1 「内服」と「外服」

 「キモノ倶楽部」第一回の「結城紬(ゆうきつむぎ)」から五カ月。原宿ユナイテッドアローズで、第二回の「キモノ倶楽部」が開かれた。
 10代目誉田屋の帯職人・山口源兵衛さんが、奄美大島で新しいプロジェクトを始める。その名も「レモングラス」である。あのハーブのレモングラスである。

「女の人が、ベニバナ(紅花)の下着をつけてますやろ。それから、私たちが『身体が冷えるから』と、漢方に相談にいきますな。すると、向こうはベニバナを処方するんや。おなじなんですよ」

つまり、今回の企画(きかく)は、生地(着物)と身体の関係を再構築する、と見えた。山本哲士風に言い換えれば、身体と着物の非分離な関係を開示せんとしているように見える。源兵衛さんは、こうして「ベニバナ」をあげて、着物と身体が共に生きていたんだ、と話すのだった。その昔、着物は身体の一部だった。

「薬を飲むことを『内服』言いますな。我々はそれに対して『外服』言います。我々が服着るのを『外服』言いますのや」

以前、京都の工房で話を聞いたが、ここでも「麻」の効用を話した。麻の解毒(げどく)作用は群を抜いており、戦国時代の武士には必需品で、必ず麻の服を着用した。この原料が「大麻」なので、きょうび誤解をまねく。エイベックスで、
「みんなで大麻を愛しましょう」
とぶち上げたかったらしいが、止められたという話だった。

「もともと『服用』いうんは、我々の言葉なんや。製薬業界に文句言ってまんのやが、ようけ聞かんのや」
そして、
「我々が失った皮膚感覚いうもんを取り戻したいんや」
とも言う。

服と身体の関係は、今とはもっと違ったもので結ばれていた。今、私たちが感じている服と身体の触れ合いは、昔は違っていたはずだという。それは、ダイナミックに機械化の進んだ明治が分岐点(ぶんきてん)ではないか。

「機械にやらしてもいいものと、機械にはでけんものとがあった。でも、それを機械にやらしてしまった」

そこに大きな変化、転落があったという。

 途中から山本哲士が進行役で、建築家の山本理顕と源兵衛さんの対談になった。面白い。理顕氏は世界の建築を見て、必ずしも「これが一番」というものはない、と思う。熱帯雨林地方に行けばみんな屋根がとんがっていて、雨が流れやすいようにしているかというと、そうではない。平べったい屋根も多くある。そばに川があったり、丘陵(きゅうりょう)にある、というそれぞれの「場所の違い」で建物が変わってくる。そこで「場所にあった暮らし」を営(いとな)んでいる。京都の人たちもこんな寒いところに、どうしてこんな寒い造りの家を建てたのかと思う。外に大きく開かれた建物、高い天井(てんじょう)。どう考えても寒い、おかしい。理顕氏は、
「つまり、京都の人たちは『寒くない』と決めた」
んではないか、と思った。すると源兵衛さんが、
「いやあ、寒いですよ」
と応じたもので、会場は笑いの渦(うず)だった。私には両方分かる気がした。おそらく「寒さとともにする暮らし」なのだ。


 2 和服は「未完成」のもの
 松竹出身、着物研究家の笹島先生があとを引き継いだ。

「背縫(ぬ)いは背骨」
「帯をちゃんと締(し)めれば、身体も着物も喜ぶ」

そして、
「洋服は完成品、でも着物は『未完成』のものよ。着物は着る人の身体に合わせていくのよ。それで自分の方も着方を分かっていくの。そうしてだんだん完成するの」

と言う。昔は着物とはこういう風に着るものだ、なんて言っていなかった。士農工商だったら、それぞれが家で過ごす時や仕事の時など、時と場合に応じて着物も着方も変えていた。それがだんだん「こういう時はこうすべき」だと変化してしまった。『訪問着』なんてジャンルはなかったんだ、という。「その場に応じて」という自由な考えと、「その場ではこうすべきだ」というのはまったく違う、と先生は話しているように思った。山本理顕いうところの「場所にあった生活」と重なった。
 そこで山本哲士が、自由な「着流し」のスタイルで参加している会場の若者を呼んで紹介した。着物の下にフードのトレーナーを着込んでいた。
 先生はそのあと、源兵衛さんが持ってきた古着と帯を使って、会場の参加者五名に着付けをした。私も昨年の夏、神田の「江戸の家」で着付けをしていただいたが、あの腰がキュッと伸びる感覚を、五名の者もみんな口にした。異様と思えるほど長い帯も、見事な飾(かざ)りとなって、男の人のわきを下がった。

「こうして男の人の服をぬがせて、身体に手をあてていつも思うけど、セクハラよね」
「でも、昔の母であり妻は、こうして息のかかる距離から、毎日子どもや亭主に着せてたのよ」
「そしたら、相手の少しの変化も分かるものよ」

笑いを誘(さそ)いながら講釈を進めるのだった。

 源兵衛さんに言わせれば、着物の値段は一桁(ひとけた)違っている。100万円のものは10万円で出来るし、本来はそういうものだ。
 笹島先生は、商売につなげる方に進んできたから着物がダメになった、と言う。着崩れ(きくずれ)するというのならこうしましょうと、新しい道具や必要ない着物の種類を作り出した。着崩れはしなくなっても、着物が身体に合わせていく働きや身体が着物と重なる感覚はなくなり、窮屈になっていった。そして、着物業界はもうかっていく。

 スライドショーで、源兵衛さんが奄美でハブをつかまえ、仁王立ちになっているシーンがあった。
 お気をつけて。


 ☆☆
この日、まったく写真を撮る余裕がなかった私ですが、山本氏(哲士)のこの日は、実に見事でした。真っ赤な着物に黒い陣羽織(じんばおり)は、
「もう山本先生は、すっかり着物生活を手に入れてらっしゃるわ」
と笹島先生に言わせる迫力でした。女物だそうです。

 ☆☆
帰り道、この日慌(あわ)ててた私が少しばかりほぐれた時、半世紀前のホンダのバイクが、目に飛び込んできました。原宿のメイン通りからひとつ裏手の道です。じっと見入っている私に気づいた店員の若者が、いろいろと話してくれました。
「乗ってるより、直してる時間の方が長いかもしれませんね~」
今は右側のマフラーから出てくる白い煙が悩みの種だとか。
            
           オーナーの若者とホンダベンリイ(125㏄)

 ☆☆
ようやく秋晴れですね。そして冷え込みもいきなり厳しくなって参りました。
実は念願の薪(まき)ストーブ、今日設置です。薪と言っても廃材(はいざい)利用の燃料(ペレット)ですが。いやあ、嬉しいです。ちっちゃな脱東電ってのもありますが、一番欲しかった暖房です。
次回、少しばかり紹介します。

豊間/四倉門出  実戦教師塾通信四百十号

2014-10-10 11:33:45 | 福島からの報告
 豊間/四倉門出(かどで)
     ~あふれる笑顔~

      
              収穫の秋、いわき市高久地区の稲穂

 1 板の間

「畳の部屋があってよ、その隣が板の間でよ、それが台所につながってんだよ」
「台所にガス台がねえんだよな。いろいろ買わねえどよ」
もう止まらない。豊間の復興住宅の鍵を渡され、今月中頃に引っ越すおばちゃんが話す。この人がこんなにしゃべる人だとは思わなかった。驚くばかりだった。
 豊間の人たちが引っ越してしまう前に、お醤油を皆さんにと、私たちは配布を10月入ってすぐの2日に設定した。いつもは月の後半に設定していた。しかし、10月の1日に鍵が渡されるや、すぐに引っ越した方もいたことを知った。
 この日、私はお醤油を配る前に何軒かの部屋を訪れた。集会所にあまり顔を見せない方たちの部屋だ。その部屋での話だ。ここではいつも何人かでお茶を飲んでいる。興奮気味に話すおばちゃんの横では、引っ越しをまだ半年先に控えるおばちゃんが静かに笑いながら話を聞いている。私はお茶請(う)けに出された大根の漬け物をいただきながら、話を聞く。
「金かかんだよ、板の間に置くソファ買って、カーテン買ったらよ、10万持ってったのによ、ほとんど残んねえんだ。でも、板の間にはソファだよな」
話の勢いが止まらない。聞いてたおばちゃんがそれを制して言った。
「オメエ、板の間板の間ってよ、それホントは『洋間』ってんだよ」
興奮するのもいい加減にしろよ、と言うようで、私は大笑いだ。こんなにここの暮らしが大変だったのだ、と改めて思う。ここでの生活、あいさつを皆さんは欠かさない。
「でも、それだけでよ、上がり込んでみんなでお茶飲んでっていう付き合いはねえんだよな」
家は流されたが、そこに戻れば前から住んでいた人がいる。
「みんないなぐなったら、オレひとりになっちまう」
もう海はたくさんだと、高台の集会所近くに家を建てたおばちゃんがこぼす。海の怖さの話で、またおばちゃんが興奮して話す。
「今度の住宅は高いとごだしよ、もう大丈夫だ。あんなとごまで津波は来ねえよ」
するとさっきのおばちゃんが、その勢いにまた水をさす。
「大丈夫だよ。今度の津波来る時までオレたちゃ死んでっから」
「オメエ、あと百年生きんのがよ」
笑った。笑った。私はもう涙が出そうだった。


 2 「道の駅で会いましょう」
      
            第一集会所前。お醤油と皆さんと私
 集会所でお醤油を配る前のひととき。お世話になりました、とカボチャの煮物。もうこれが最後だけど、ときんぴら。コトヨリさんに今度の住所を教えときなよ、と受け付けの職員に言われたおばちゃんは、まだ住所を知らないのを思い出す。こんなひとときをホントにありがたいと思う。また落ち着いた頃遊びに行きますよ、と私は言う。
 お醤油を配り始める。各部屋を回りながら、私は必ず、

「もう引っ越されるんですか」

と聞いた。間もなく四倉に引っ越す顔見知りの方とは、
「道の駅で会いましょう」
と話した。四倉は買い物が便利で病院もある。それが理由で、なれた土地を離れて四倉を選ぶ人もいる。
 もう引っ越したのだが、たまたまこの時戻った人がいた。
「後始末の掃除に来たんです」
「良かった。いただきます」
両手でお醤油を大切そうに抱える。感激してまた思う。たった一本の醤油なのに。
「今までちゃんとお礼も言えないで」
と、玄関先で何度も何度も頭を下げるおばあちゃん。涙、涙なのだ。私はようやく、お元気で、とだけ言う。
 まだ引っ越せない方の話も聞けた。来年春に湯本へ出るはずが、いわき市は土地の買い取りが遅れ、やっと取得した山をこれから崩(くず)すという。出るのはかれこれ2年か3年先ですと疲れた顔を見せる。また別な方は、もうすぐ卒業という子どもを「学生」として書類に書かなかったため、扶養(ふよう)対象とされなかった。
「もう出るお金がぜんぜん違ってね」
と、この母親はこぼす。よその県は違うみたいなのに、福島は厳(きび)しいのよとこぼす。安心と喜びの顔、一方でまだまだ続く暮らし。
 第一集会所を出て車に乗ろうとする。第二集会所から男の方が走って来て、今日はどうもありがとう、と言う。引っ越しはまだ半年先だが、部屋が決まったという顔が晴れやかだ。


 3 吉田調書
「娘なんか、震災のあと家に来やしないよ」
一度もですか、少し寄るくらいはするでしょうという私の言葉に、おばちゃんは笑って首を横に振る。
 広野の直販所のおばちゃんたちは、今日も穏(おだ)やかだ。また別のおばちゃんが言う。
「娘はあの時出産で広野に帰って来ててよ。いやもう、あわてて嫁(とつ)ぎ先の茨城に帰ったよ。でも爆発(原発)の時はいたからよ、検査したよ」
孫は「戦後」に生まれたから大丈夫だ、と言ったおばちゃんは気がつき、「戦後」じゃねえよ、「震災後」だったと言って笑った。
 県の農産物線量調査は「キロ単位」で抜き打ちだという。以前報告した「五百グラム」ではなかった。
「生姜(しょうが)なんて1キロ持って行かれたら大変よ」
「突然、職員が畑にやってくるからね。ごまかせないよ」

広野に「戦後」は健在だ。

 朝日新聞の誤報騒動について書かないといけない。あの騒ぎで見えづらくなったが「命令違反」はともかくも、原発は職員全員が退避する局面にあった。調書では退避という表現だが、より正確にいえば「避難」だ。原発から250キロにある圏内が崩壊するシナリオは現実のものだった。死を覚悟したわずかなメンバーによって、その危機が回避されたことを私たちは何度も思い出すべきだ。何が、
「『命令違反』はガセだ!」
「朝日は廃刊(はいかん)にせよ!」
だよ。この連中は、調書が朝日のフライングだったことを明らかにしたと「正論」をぶちまけている。まるで吉田調書を公開したのは「『命令違反』は朝日の誤報」を暴(あば)くためだったかのようだ。政府は調書公開のこんなタイミングを推し量(はか)っていたのか、とかんぐりたくもなる。調書が公開されればあの当時の恐怖が蘇(よみがえ)るはずだったが、論点はとんでもない方に向きを変えた。
 朝日の誤報は「日本に恥をもたらした」と言ったどっかの首相は、オリンピック誘致の時、
「原発/汚染水は完全にコントロールされている」
とは、ぬけぬけと言ったことだ。広野のおばちゃんたち怒るぞ。

 公開された吉田調書について。いくつか紙面を読んだが、読者はどうだったろうか。私が一番衝撃だったのは、

「……声を大にして言いたいが、原発の安全性だけでなく、今回二万三千人死んだ(実際は死者一万六千人、行方不明者が約二千六百人)。誰が殺したのか。M9が来て死んでいる。こちらに言うなら、あの人たちが死なないような対策をなぜその時に打たなかったのか」

という部分だ。驚きだった。海岸の町や集落を津波が襲(おそ)って人々の暮らしと命を奪った。我々ばかり責任を問われるが、だったらその部分の責任はどうして誰も問わないのだ、という吉田所長の発言に、私は唖然(あぜん)としないわけには行かない。
 津波に家も命も飲み込まれた人々は悲しみ、苦しんでいる。しかし、私たちはこの人たちが、今回の天災に関して、誰か「責任追及」する姿を見たことがない。その姿に今でも心打たれているはずだ。失礼を承知で言うが、その一方で、まるで故郷を追われた「難民」のように、今も行き着く先を見いだせない原発周辺の人たちが、原発を憎むのは当たり前だ。吉田所長はじめ、決死のメンバーのおかげで私たちは生き長らえたのは間違いない。しかし、所長はやはり「東電の人間」だったのかと落胆を禁じえなかったのは、私だけではあるまい。

「再開した広野のゴルフ場はいつも昼間からいっぱいよ。東電から金もらってる人はいいよね」
おばちゃんたちが笑って毒づく。 


 ☆☆
「牧場主さん」ではなく、ちゃんと「渡部さん」と書くことで了解得ました。写真まで載(の)せておいて「牧場主さん」もないだろうと思ったからです。楢葉の渡部さん、2トン?のダンプを購入しました。嬉しそうに、
「前は中古だったんだけど、今度は新車だよ」
と言うのです。ぴかぴかの青いダンプで飼料を運ぶんだそうです。やっぱり早く牧場を始めたいんですね。気もそぞろなのかも知れません。

            
           台風一過の手賀沼そばのパン屋さんで。
 ☆☆
先週の土曜夜、テレビ東京の「cross road~京都帯職人~」見ましたか。源兵衛さんでした。春に現物で見た帯が紹介されてました。驚いたのは、源兵衛さんが自分でポルシェを運転していることです。いやあ、驚いた。あれって「959」じゃなかったのかな。すごい、うなってしまいました。筋トレは感心しませんでしたが。
明日、前回と同じく原宿のユナイテッドアローズ本店で「第二回着物倶楽部」が開催されます。また源兵衛さんの話が聞けます。なんかこの話が私の口から漏(も)れたようで、娘が、
「連れてって」
とせがんで来ました。これも驚きでした。そんなに着物が好きだったんだなあ。

この一番  実戦教師塾通信四百九号

2014-10-03 11:51:45 | 武道
 この一番
     ~秋場所で起こっていたこと~


 1 武蔵と小次郎

 鎖鎌(くさりがま)の使い手・宍戸梅軒との戦いでも、武蔵は遅れた。事前に場所を下見したことはもちろんだが、当日の約束を大幅に遅れる間に、武蔵は周到(しゅうとう)にこの日強くふいた風向きを測(はか)り、風上へ自分を運んで現れたという。武蔵の、策を弄(ろう)するという評判は巷(ちまた)にあふれていた。小次郎がそれを知らないはずはないが、武蔵が巌流島にようやく現れたのは、夕刻だった。諸説あって真相は分からないが、武蔵は小次郎との戦いを恐(おそ)れ、九州は小倉をすでにあとにしているという話もあったようである。汀(みぎわ)に現れた武蔵を見た小次郎が、待ちきれず自分の鞘(さや)を捨てて浜を走ったという話は、オーバーな話ではなかった。そして小次郎は、太陽を背負った武蔵の背後からの光に視界を遮(さえぎ)られる。


 2 稀勢の里
 危うく今場所を台無しにするところだったのは、稀勢の里だ。逸の城が事前に、
「胸を借りるつもりで行く」
と言っていたのは多分うそではない。ところが、快進撃を続ける怪物を前に、稀勢の里は立てなかった。かけひきで立たなかったのではない。立てなかった。正面から相手を次々となぎ倒してきた怪物の頭にこの時、「逃げ」が閃(ひらめ)く。「勝とう」とするのでなく、「逃げ」たのだ。逸の城の変わり身に、稀勢の里はあっさりと土俵に手を突く。逸の城は「勝とう」として変わったのではない。「逃げ」た。しかし「勝った」。
 生来なのか未熟ゆえか分からないが、まだ「臆病」なこの若者は、この一番で「戦略/戦術」というものに知恵を働かせるようになった。こんな時、「百年ぶり」や「優勝」が頭をちらつくようになる。まだまだ若いこの怪物には、「勝つ」かどうかより、どのような「取組」をするのか、ということが最重要な課題だったはずだ。翌日(よくじつ)の豪栄道に対しては、実に堂々とそして見事に投げ飛ばす。しかし、次の日の相手の鶴竜に対して言うのだ。

「勝てませんよ。だって横綱ですよ」、
そして稀勢の里の時と同じく、
「胸を借りるつもりで行きます」

と言う。しかし翌日、この若者は鶴竜に対して立ち会いで変わり、横綱はあえなく地を這(は)う。取組後、
「勝てないと思ったので、初めからそうすると決めてました」
と若者は言った。まだ力の限界の見えない「怪物」は、通俗的な「勝者」になってしまうのだろうか、と落胆したのは私だけではないはずだ。
 しかし「策」という道を走り始めた若者には、多くの持ち駒があった。
○「新入幕」という経験の浅さ
○「勝つ」ことで生まれる「優勝」という現実
○百年ぶりの「新入幕優勝」
これらは「取組内容」はともかく「結果」を期待する圧倒的大衆を生み出したのだ。失うものなどなかったはずの若者に、それが生まれた。


 3 白鵬
            
            14日目白鵬対逸の城
 11日目の稀勢の里戦を終えて、秋場所の土俵は次第に異様な空気となっていく。この稀代の新人を歓迎する空気は、どちらを応援したらいいか分からない多くの相撲ファンを生み出し、白鵬の31度目の優勝という歴史的数字まで飲みこんでいく。「勝てば優勝」という言ってみれば「心技体」のうち「体」だけの場所になっていく。逸の城が、
「明日は胸を借りるつもりです」
と言ったところで、それを裏付けるものはすでになくなっているのだ。ホントのところ、どうするかは分からんぞ、という展開になった。それも面白さのうちと言えば言えるが、しかし、横綱は「結果オーライ」ではない。優勝インタビューで横綱が言った、
「疲れました」
とはそういうことだ。私に言わせれば、土俵はこの時点で充分に「汚され」ていた。それを掃(は)き清めて、さらに結果を出さないといけないというのが、横綱に課されたミッションだったのだ。
 前半戦、「省エネ相撲」などと揶揄(やゆ)する連中の言う引き技も横綱にはあった。しかし、それは苦し紛れのものでなく、いわゆる「流れ」の中で出されたものだった。そのあたりは鶴竜や豪栄道の引き技とは違う。横綱はいわゆる磐石(ばんじゃく)の相撲をとってきた。そして、それこそ逸の城も含めて若者に稽古(けいこ)をつけることも欠かさなかった。だというのに、
「一体オレは何のためにこんなまじめにやってきたのか」
と白鵬が場所中に思っても、不思議ではない。そして逸の城戦後、横綱が言った、
「若い者の壁になると言ってきた自分を信じて」
とは、悩んだ末(すえ)に選んだ言葉だ。そんなに追い込まれていたのか、と私には思えて仕方がなかった。
 逸の城はやはり緊張したようだ。立ち会いの踏み込みに鋭(するど)さを欠いていた。対して白鵬は相手を「受ける」態勢だったように見える。「迎(むか)え撃つ」という形だ。そして相手に上手をとらせず機をうかがう。「技を封じるも技」であることを教えているのである。


 4 「土俵/取組」のために
 優勝力士インタビューは、最近あまりよろしくない。
「お父さんの具合はいかがですか」
だのと聞くようなレベルだ。そんな具合だから、妻の容体を聞かれる気配を見せる記者会見をキャンセル、という事態もあるわけだ。どこのインタビューもそうだが、
「今後の課題は、目標は」
とかいう紋切り型の質問は繰り返された。それに対する横綱の受け答えは、ああやっぱりいいなあと思った次第である。31回優勝という大記録を刻(きざ)んだ千代の富士を忘れてませんか、とでもいうかのように聞こえた。そこに自分がいることを感謝したいという気持ちが満ちていた。私には、
「今/ここという場所」
が、「土俵」であり「技」であることを白鵬が教えているように思った。先のことを言えば、千代の富士はもちろん、何より父親のように思ってきた大鵬に失礼ではないか、そう横綱が思ったことは確かなことだ。
 夜のデーモン閣下のインタビューは、いつも通りさらによろしくなかった。
「新入幕の人間に対して重圧感があったのではないか」
「豪栄道に三回続けて負けた」
「相撲取りはだらしなくなった」
横綱を挑発(ちょうはつ)するようなこれらの質問は、横綱をさらに鍛(きた)えようとするように受け取る向きもあろう。しかし質問に対して、例えば、
「豪栄道に負けたおかげで場所が面白くなりましたよ」
と横綱に返されて閣下は絶句するのだ。通俗的な目線は、
「面白ければいいと思っている」
それをはしなくもさらしたことに気づいただろうか。

横綱・白鵬翔関、おめでとう。そしてありがとう!
ゆっくり休んでください(ってもう巡業始まるけど)。私も武道家のはしくれ、残る人生を「技」にはげむべく頑張ります。力をもらいました。
            
            今年も満開の我が家の金木犀です


 ☆☆
逸の城の三賞インタビューが終えたあとの映像見ましたか。逸の城はまだ裸でしたが、浴衣(ゆかた)に着替えた照の富士や旭天鵬と談笑している映像でした。戦いを終えた力士たちがお互いの健闘を讃(たた)え、あるいは故郷モンゴルを語っていたのでしょう。それをすきまなく記者たちが取り囲んでいるんです。記者たちより頭ひとつ出た姿を見せる力士の顔は、みんな笑顔でした。いいなあ、そしてこんな時に立ち会える記者たちもいいなあ、と思いました。

 ☆☆
御嶽山噴火の「予知は出来るものではない」という、学会のコメントでした。方や、桜島の噴火については「危険性なし」として、川内原発の再稼働が認められてる。規制委員会は、政府や東電の圧力のもとでホントによく頑張ったというのは私の考えです。でも、とにかくめちゃくちゃですねえ。

 ☆☆
お醤油配布の報告、次週といたします。豊間のみなさんの門出です。