実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

宇都宮市立陽東中学校 実戦教師塾通信七百三号

2020-05-08 11:18:49 | 子ども/学校

宇都宮市立陽東中学校

 ~GW(下)「道徳」の授業~

 

 ☆初めに☆

コロナに便乗したヘイトや中傷がニュースになっています。私のところでもいくつか報告/相談いただいてます。原因は「ストレスを普段にため込んでいた者ども」に、「自粛に耐えがたい人々」が加わったということでしょう。

そんな報道を目にしていたら、50年ほど前のことを思い出しました。大学の教育実習での二週間が、昨日のことのように思い浮かびました。その時にやった「道徳」の授業のことなんです。

 

 1 一回の遅刻

 宇都宮市立陽東中学校2年7組。色紙は長年の時を経てシミになっているが、子どもたちがくれた文字は、今も輝いている。「捨てられない」ではなく「大切に取ってある」色紙だ。

「S47」、つまり48年前。あの子たちは私の中で14歳(中2)のまんまなのだが、単純計算すれば60の大台を越えている! 他人が読めば在り来たりのメッセージなのだろうか。しかし私が読めば、どうしてこうもと思えるぐらい「私へのエール」だ。それでいいんだよ、大丈夫だよ、という温かさが伝わって来る。

 大学の付属小学校の実習で、成績「不可」というあり得ないものを私はもらった。まあ今思うと仕方ないのだが、私は学内の大会議室で、学部長相手に断固抗議した(「偏向教育」なるものをしたわけではない、念のため)。その後、200~300人の実習生は市内の協力校に配当される。この協力校で私は実習に没頭した。楽しくて楽しくて、当然のことだが遅刻、まして早退などない。色紙に「ちこくしないで」とあるが、遅刻は一回である。自慢ではない。おそらくその一回が印象的だったのだ。私もしっかり覚えている。

 初日の朝、実習生を紹介する全校集会があった。これがなぜか、体育館でなく校庭だった。まあとにかく、この日私は遅刻した。実習はおそらく職員室での紹介や、30人ぐらいの実習生のあいさつで始まったはずだが、そこに出た記憶はない。急いで走る私の自転車は、実習生を順に呼び上げる校庭の声を聞いた。大変だと思ったのか間に合ったと思ったか、前に並んだ先生や実習生の脇に自転車を止めた時である。私の耳に「琴寄政人!」というアナウンスがはっきり聞こえた。自転車を飛び降り走って壇上に駆け上がり、その勢いのまま「はい!」と返事した。私を待ってこうなったのではない。ちょうどの頃合いに私が駆け込んだ。こんなに間のよい(みっともない)ことがあるのですねえ。秋晴れの朝だったと思う。1000人を越える生徒たちの笑い声が空にこだました。

 

 2 担当の先生

 「担当」としか書けない自分が情けない。ホントにお世話になったはずだ。実はこの陽東中学校でも、先生たちからの私の評判はよろしくなかったようで、「指導に従わずジーパンとは何ごとか」等という理由で、成績「不可」となるところだったらしい。

「私のお蔭であなたは合格になったのよ」

「あの学生は素質がありますって、私が頑張って言ったからよ」

女の先生だった。どうせ私のことだ、この時も一体どんな奴がどんなことで私を批判したのか、ぐらいしか頭になく、先生にお礼など思い付かなかったに違いない。大体が実習で「指導」を受けること自体、私は拒んだはずだ。それでも先生からいやな顔をされた記憶がない。また私でも一応授業の略案を出したはずだが、先生は「指導」しなかった。先生が言ったことで覚えていることと言えば、7組の生徒たちが市内音楽発表会で受賞した曲を聴いてみませんか、という提案。私が体育館でたったひとり、聞き入った曲は『貝殻の歌』(だと思ったが、検索しても違う曲が出て来た)。

 ある日先生は私に、あの子たち(7組の生徒だ)はだらしがない、ひとつあなたがしっかり言ってあげて欲しいと、今思っても信じられないことを言った。確かに子どもたちは先生と激しいやり合いをした。それは「議論」だった。その原因は、先生の強引さとも見えたが、もしかしたら先生のおおらかさによっていたのかも知れないなどと、後で思った。まあとにかく、私は子どもたちに感心しては、先生のいないところで激励なんぞもした。おそらくそのことを知らなかったはずがない。でも、先生はそう提案した。そして、いや、しかしと言うべきか、先生はその授業を見に来なかった。私にはその方がいいと分かっていたとしか思えない。

 

 3 「汚穢屋(おわいや)」の授業

 九州柳川の通信記事を、授業の材料とした(ブログ114号で触れた「伝習館」の地元通信)。このことで子どもたちとどんな話し合いをしたのか覚えていない。ただ、今回のブログの初めに書いたように、コロナをめぐる報道で思い出した。公園で遊ぶ子どもたちや、ひっそりと営業する商店を、コロナにおびえる人たちが怒っている報道を見ていたら、なぜか思い出した。以下、記憶にまかせた要点のみ。水洗トイレがまったく普及していなかった時代の話だ。

「僕の父親は汚穢屋(便所の汚物をくみ取る人)である。住居の便つぼから汚物をくみ取った父親たちのトラックの臭いはすさまじく、人々は声を上げて逃げた。父親が背負いこんで帰って来る臭いは、家族にも忌(い)み嫌われた。自分も学校ではオワイヤとはやされ、何かといじめられた。だから父と自分との間では言い争いが絶えなかった。

そんな父が、会社の旅行でみんなと出かけた。列車が有明の水俣を通り掛かった時だったそうだ。父や同僚は、大変だ水俣病になるぞと言って、酔った大声で列車の窓を閉めたと言う。

僕と父とは、まだまだ話し合いを続けないといけないようだ」

 

 ☆後記☆

東京・檜原村の先輩から、立派なタケノコが届きました。

いやあ、都心の連中がこっちに遊びに来たいって言うんでね、絶対来るなって言ってるよと笑っていました。

昨日はタケノコご飯と若竹煮をしました。ちゃんとタケノコの旬の味がする。ありがたいです。

 ☆ ☆

コロナの続きを書けという声をまだいただきます。なるべくそうします。


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