分断する社会
~コロナから見えてきた様相~
☆初めに☆
選挙もそうでしたが、トランプへの対抗図はバイデンでなく、今も「反トランプ」であることに変わりはありません。私たちが注目するのは、トランプの一挙一動なのです。分断の深化を見ている思いです。今までの分断に拍車をかけたのは、黒人差別やコロナです。「理解/解決」という途(みち)を、現職の大統領が切って捨てたことで分断は深刻化しました。
この分断は、他人事ではないと思われます。コロナによる日本の分断を、強く感じるようになりました。学校からの報告を受けているうちに、様子がどうもおかしいと思うようになったのです。どちらかが正しいという方向ではなく、傷や分断を修復する方向を考えてみたいと思います。
1 「あっちの部屋で食べて」
学校で、生徒がコロナに感染(したかも知れない)となり、関係する保護者や生徒の検査までの段取りや書類、打合せも終わって職員が夜に帰宅する。玄関先でその家族が言った。
「近づかないでね。食事は隣の部屋で食べて」
家族とは自分の親のことだ。検査はどう?もなく、大変だったねの労(ねぎら)いの言葉なんか宇宙の彼方だ。もう一度断るが、この職員が勤務する学校で感染者が出たわけではない。ましてクラスターが発生したわけでもない。この職員はいい。そんな言い方はないだろう、と毅然と対処した。しかし、入ってくる報告は無残なものばかりだ。
高齢(と言ってももちろん50代だ)の職員が言う、コロナになったら死んでしまう、教室で授業をするわけにはいかない、私が授業する別な教室を用意し消毒して欲しい。あるいは、コロナの疑いがある生徒のクラスの給食食器と、私たちのクラスは分けて洗ってと主張する職員。コロナにかかった母親が学校に対して、申し訳ありませんと詫(わ)びを入れる。等々。
多くのコロナに「かかりたくない」人々の思いは、今やコロナに「かか『わ』りたくない」に近いと言っていい。私は当初、何をバカなことをと思っていたが、どうもそれではすまないようだ。家族は自分の子どもの気持ちを忘れ、50代教師は自分のことだけ思い、ある担任はよそのクラスの生徒たちを忘れる。「忘我(ぼうが)/妄執(もうしゅう)」状態である。猛烈な勢いで、コロナが社会を分断している。
2 京都五山送り火
日本における最近の分断で、そして「目に見えない/拡がるものの恐怖」で、私が多少語れるとしたら福島での経験しかない。出口は見つからないと思うが、必要/不要な注意や気づかいには到達できるはずである。
もうすぐ発生から10年となる東日本大震災・原発事故の切り抜きを読み返してみた。前段記事の「近づかないで」で読者も思い出したと思う。やっとの思いで福島から首都圏にたどり着いた被災者が、「大変でしたね」と労われるどころか、駐車場から出て行けと貼り紙をされ、あるいは、福島の車の窓は拭けませんとスタンドに言われたことを。あの原発災害で、日本は大きな分岐点を迎えた。前段の最後で、学校に母親が頭を下げる景色は、2012年に試験栽培した稲から規制値を越えるセシウムが検出され、申し訳ないと農家が謝罪したのと重なる。違うのは、前者が「仕方がない」のに対し、後者は「東電/政府のせい」なのだ。いずれにせよ謝ることではない。
2011年9月21日『福島民友』、怒りの記事だ。川俣町の業者が製造した花火に、愛知県製造の花火が差し替えられた。この一カ月あとには、郡山市の会社が製造した橋桁(はしげた)に、住民から不安の声が出て大阪の橋梁(きょうりょう)工事が中止になった。そして、ここから二カ月逆上れば、あの京都五山送り火の件がある。岩手県陸前高田の名勝「高田松原」の薪(まき)を、京都五山で燃やす話が断ち切れになった話だ。7月下旬にすべての薪を線量検査したが、規制値を越える数字は検出されなかった。そのうち400本の薪には、鎮魂の思いが書かれていたのだ。「不安が払拭(ふっしょく)しきれないので」と、京都の担当者は謝罪した。
思い出すことがある。原発事故の直後、いわき市最北の久ノ浜が屋内退避指示を受ける。これが4月11日に解除となり、私たちボランティアが、活動に入れることになった。私はセンターの代表に「久ノ浜地区の線量を発表し、立ち入りは安全なものになりましたとアナウンスして下さい」と提案した。しかしこれは、大もめとなった。センターは、そんなことをすれば久ノ浜は危険だと言ってるようなものだ、と言う(断るが、報道は全地域の線量を明らかにしていた)。堂々巡りとなったが、結局アナウンスはすることになった。一体どちらが住民を気遣うものだったのだろうか。はっきりしていたことは、放射能の現実がデリケートなものを生んでいることだった。安全かどうかを議論することさえ、悲しみを呼び込むのだった。今もある古里に「帰りたい」「帰れない」の声は、行き着くところを知らない。
3 人としての矜持(きょうじ)
2011年、福島の人たちへの数々のバッシングに対し、エライ人たちがやったのは、「科学的根拠のないものに振り回されれば、傷つく人たちがいる」という、極めておとなしいものだった。それに対し今回、心を動かされたのは岩手県知事の発言だ。感染者ゼロをキープしていた県は、8月に初の感染者を出す。その男性を特定しようという動きに対する、「誰でもなるものだ、誹謗中傷には厳正に対処する」という強力な発言だ。「来るな!」「営業やめろ!」等、全国に席巻(せっけん)した「正義警察」の動向に、知事の発言は大きな影響を与えた。
いま振り返っても、放射能という分断に対して私たちが可能だったことは、わずかだ。2012年の年明け、『福島民友』に「警戒区域に定住11人」見出しの記事がある。事故から10カ月後の積算線量4~92ミリシーベルト(日本の規制値は年間積算量「1ミリシーベルト」である。念のため)という、極めて危険なエリアの中で逃げずにいる住民の記事だ。「気持ちは分かる」「同情できない」という県民の声と、警察の「慎重な姿勢」が書かれている。していけないことは「相手を傷つけること」だった。みんなが傷つけあわないことが大切だった。
首都圏でさえ、事故から半年ぐらいは食材を選び洗い、地上の線量を測った人たちも多い。今やっている人はいないだろう。「安心」を感じるようになった、あるいは「放射能との共存」を決めたからだ。10年近い時間を要している。コロナの感染症のグレードを、インフルエンザまで下げられれば、今のパニック的な動きも変わると思うが、政府はしないだろう。つまり、これも時間がかかる。おそらく、答は「撲滅」ではなく「共存」だ。それまで相手を大切にすること、そして「人としての矜持」を持ち続けることだ。佐藤愛子は震災の時、テーブルの下に潜るのをやめたという。人として恥ずかしいと思ったからだ。
「近づかないで」はないだろう。
☆後記☆
あと少しで師走となりましたね。いやぁ今年は忘年会どうなるのかなぁ。いつもだったら浅草やアメ横をぶらついて年越しそばを食べるのに、紅白見るしかなくなるような展開なんでしょうか。絶対ヤですね。
近くの大津ヶ丘公園の紅葉です。すっかり秋も深まりました。