実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

教える/育つ(上)  実戦教師塾通信四百八十号

2016-01-29 11:55:24 | 子ども/学校
 教える/育つ(上)
     ~「ロンリーワン」のために~




まつりごとなど もう 問わないさ
気になることといえば
今を どうするかだ

おきざりにした あの悲しみは
葬(ほうむ)るところ
どこにもないさ

ああ おきざりにした あの生きざまは
夜の寝床に 抱いてゆくさ   (吉田拓郎『おきざりにした悲しみは』)

 1 ビョードー?
 478号への感想があちこちから届いている。youtubeを読んでの感想もそうなのだが、私がだいぶ前から感じていることが、ここに来ていろいろ形になって来ているように思えた。私たちのぶつかっている壁は、目に見えるところより少し深いところにある。その部分を意識下におきたいとは、常々思っていることである。
 そんなわけなので、この「教える/育つ」は、久しぶりの連載で、「上/下」の二回にわたって書こうと思う。
まずは、
「コトヨリさんは子どもがみんな平等になるようにと思っている」
という感想。これを言われて、私はぶっ飛んだ。「ビョードー」? しかし、なるほどとも思う。子どもたちがみんな幸せでありますように、というようなことを、私はどこかで何度も言っていると思うし、その通りなのだ。しかし、これってもしかして、よく言われる「組合の悪しき平等主義」なんかというやつと並べられてるのかしらんと思ったら、いても立ってもいられなくなった。
 そして少し考えた。すると、私の言う「幸せ」は、「不幸な子ども」に向けられていることに気づいた。さしあたって幸福な子どもは放っておいていい、そう思っている。たとえば、もしかして世界一の運動能力を持っている子や計算力がある子がいたとして、彼らの能力を生かす/伸ばすなどということは、どうなろうと知ったことではない。彼らにも苦労や挫折がやって来るだろうが、あんまり周りがいじり過ぎるなよ、と思うぐらいだ。
 しかし、「不幸な子ども」で、私が忘れていけないと思っているのは、多くの子どもたちが「幸福ではない」ことだ。「愛されていない」多くの子どもたちのことだ。

 2 大人もいじめ?
 次が、
「今やいじめは、大人社会の問題である」
という感想である。結構な数だ。子どものいじめ問題を大人も考えないといけない、というのではない。大人社会でもいじめはあるという、よく聞くようになった声である。もちろん、今の日本社会が「意地悪」に満ちていることは、私も何度も取り上げた。腰抜けな「仮面」をかぶったやつらの発言が、承認/公認されている。そこで噴出している無責任と露悪(ろあく)現象。それは、本当は鬱積(うっせき)した人々のエネルギーが引き金になっている。またそれであらたな鬱憤(うっぷん)を作り出す、という悪循環をしている。
 しかし、ここは少し乱暴に言うぞ。大人の社会にあるいじめを解決しないと、子どものいじめはなくならないとかいう考えは、捨ててしまえ。
 まず最初は、いつも言うが、
「いじめは、子どもが通過しないといけない道」
なのである。いじめと言って抵抗があるなら、「率直/素朴な感想/行動」と言い換えてもいい。そこを通過して初めて、子どもは「他人という人間」を知り、自分を知るのである。
 取り返しのつかないことは、子ども時代でもたくさん経験する。それらがある日ふっと頭をもたげ、布団で寝ている自分を苦しめたりする。私たちは、おきざりにした子ども時代の自分や友人の傷の上に、かさぶたを被(かぶ)せるように、年齢を少しずつ重ねている。だから、まだそれが乾いてないというのにとか、せっかく身体の深いところに眠っていたというのに、という経験もやって来る。一体これらの後悔や苦しみが、どれだけ私たちを成長させただろうか。思い出したくないことや、忘れてはいけない多くのことは、私たちを成長させる。だからこそ、できるだけ小さい頃この道を通ることを願うのである。
 通常、法令や条例で守られるのが大人、ということになっている。もちろんそれは建前だし、諸事情をみんな知らずにいる。そんな中ある時、事件/事例は発生し問題になる。騒ぎになる。調整/調停が始まる。もちろん始まらない/始めないで、泣き寝入りする人たちもいっぱいいる。泣き寝入りすればおしまいである。仕方がない。それが大人社会のあり方だ。
 大人と子どもの違いを考えるため、いじめではないが、分かりやすい例で考えよう。夫から暴力を受けた妻は、自分でシェルターに向かう(ことが出来る)。しかし、親から暴力を受けた子どもは、誰かがシェルターに保護しないといけない。それが大人と子どもの違いである。
 困った時に何とかしようと思うとか思わないとか、周りにアドバイスしてくれる人がいるいないとか、孤独に耐える力があるとかないとか、それらはすべて、子ども時代をどう過ごして来たか、ということにかかっている。これらの力は、子ども時代に養われる。子ども時代は大切だ。そして子どもに対して、私たち大人が責任を負っているとは、そういうことだ。

 3 「世界に一つだけの花」
 私はスマップ騒動にあまり関心がなかった。生の謝罪会見も見ていない。でも考えることは多々あった。スマップがこんなにもアイドル界をリードする存在だったのか、ということも改めて認識することとなった。
 こんな騒ぎになった要因は、芸能メディアが明らかにした「内紛」がもとだったこと。それが「突然」だったことである。紛争当事者が問題に関われない、いや、関わらなかったという事実は残念だった。この事件は、今の時代の良くない流れを変える、ある可能性を持っていたからだ。
 まぁこれは前置きである。この機会に何度もニュースで流れた、彼らの『世界に一つだけの花』(2003年)を聞いて思ったことなのだ。今を引き継ぐ「オンリーワン」の幕開けを告げる歌ではなかったろうか。その時までは言うまでもない、「ナンバーワン」だった。はじめはなるほど、と納得した思いを記憶している。しかしほどなく、この「オンリーワン」も「ナンバーワン」も、大した違いはないと思えていた。これが「『ロンリー』ワン」の心に届かないと思えたからだ。巷(ちまた)には「ロンリーワン」があふれている。
「オンリーワン」とは、「(君が)いるだけでいい」ということだ。なんて素敵な言葉だ。しかしこの当事者は、ある誰かのおかげで、自分の「オンリーワン」を知る。自分を承認する誰かがいないと、「オンリーワン」にはなれないのだ。
「自分を理解してくれる人は、ひとりでいい」
とよく言う。
「それ以上はいらない。それで幸せ」
という。その通りだと思う。一方、「ロンリーワン」は、自分一人で大地に足を踏みしめないといけない。オマエはえらい/オマエは立派だ/頑張っているじゃないか等々と、自分で言える強さがないと、おそらく大地も空もそれに応えてくれない。大変だよな、せめて近くで/遠くから見ていていいかな、ぐらいの気持ちでいることしか私たちには出来ない気がする。いや、それも仕方のないことではある。
 そして、数多くの「ロンリーワン」を前に、もちろん「全員」などという思い上がったことは言うまい。数多いその「ロンリーワン」の「ひとりのため」、私たちが出来ることは必ずある。


 ☆☆
春きたるらし手賀沼の……って感じの暖かい日でした。

大相撲終わりました。白鵬、気になります。双葉山の言う、
「稽古は本場所のごとく、本場所は稽古のごとく」
ところに従えば「後の先をやろうとした」のも分かる気がします。でも、迷いは隠せなかった、というのが私の印象です。白鵬の最新ブログに、双葉山の「後の先」ばかりを編集したものがアップされてます。良く見ておこうと思ってます。
あと気になって仕方なかったのは、審判です。どうしてこれが?と思う「物言い」が多すぎます。一番ひどいと思ったのは、栃の心と稀勢の里戦です。栃の心が先に足と手をついたのは、後ろ向きに倒れ込む稀勢の里を、同体で倒れ込んだ栃の心が、かばったものでしょう。なんと行司の差し違えという。しかも決まり手が「うっちゃり」ではなかったかな。
なんとも割り切れないことの多い場所でした。

 ☆☆
暖かな空の下に現れたのは、富士山。雲のようにも見えますが奥にいます。
一転して今日からまた、寒くしみったれた天気が続くようです。今日はストーブでモツ煮込みやってます。みなさんあたたかく過ごしましょう。1月が終わります。

広野町の試み  実戦教師塾通信四百七十九号

2016-01-22 11:06:42 | 福島からの報告
 広野町の試み
     ~イオン建設~


 1 イオン


 二つ沼(農産物)直販所に行く時、そして楢葉に行く時必ず通る6号線沿いの広野町役場。驚いた。中庭に「イオン」が形を見せていた。イオン? そうです。紛れもない、スーパーイオン。イオングループのイオンである。
 役場は道路に面している。以前、庁舎前には芝を施(ほどこ)した庭があった。その庭にイオンが建っていたのである。きっと、この建物が、南から入る日差しを遮(さえぎ)って、一階部分などは暗くなるのではないかなどと思った。役所の敷地内、いや、もう建物と合体と言えるような距離だ。
 私はあちこちでことの経緯を聞いた。その中でふたつほど。
「去年から(工事)やってたよ」
とは、二つ沼直販所のおばちゃん。確かに道路側なもので、工事をやっていたのは知っていた。でも、それがイオンとは思わんでしょ。何せ役所の中、下手すると役所を食ってしまいかねないようなものである。
「この辺の人たちは助かるよね。それにこの先の楢葉の人たちだって、買い物も楽になるしね」
逆に、この販売所にしてみれば、売り上げに影響するんじゃないんですか、という私の言葉に、
「もしかしたらそうなるかもね」
おばちゃんたちはそう言った。そして、
「でも、私たちも頑張るよ」
と言うのを忘れなかった。
 いい正月でしたよと、この日の話を切り出したおばちゃんである。やっぱりいいなあと思う私であった。
 これは久々に、寒空へ白い煙を上げる広野火力(発電所)。

 楢葉の酪農家、渡部さんの話では、このイオンに置く品物は地元のものを、そして従業員も地元の人で運営するらしい。土地の賃貸料も入るはずである。しかしイオンも、看板だけ貸すというわけにもいかないはずで、そこのところを地元の行政と突き合わせているんじゃないかという。
 また別ルートで聞いたところでは、イオンは、住民の帰還をうながすための、いわゆる「ビジネス拠点ビル」ということである。そうならば、復興庁の交付金も関わっていることになる。
 どうなるのだろう。工事の進行具合から見て、春にはオープンするのではないだろうか。3,11に合わせるのかな。

 2 輸入牛肉

これは14日の『福島民友』の三面を飾った写真である。全農県本部が前日に行った、和牛の初競り(はつせり)の様子だ。昨年を大きく上回る平均74万円という相場は、過去最高である。震災前競り価格の約二倍で、全国平均と同じ水準に並んだという。
「生産者の努力のたまものだ」
という担当者の喜びの声も書かれている。
「まあ、御祝儀(ごしゅうぎ)相場というのもあるし」
と、渡部さんが言う。私はスーパーに行っても、輸入牛肉の値段など全く見てないが、
「今は高めなんだよ」
という。例のBSE騒ぎのあと、考えて見れば当たり前だが、アメリカも牛にやる餌(えさ)を変えたらしい。
「日本向けの牛には、高くつく穀物を食べさせてるんだよな」
「そのうえ今は円安と来ている」
ふたつも重なって、牛肉の値を上げてるんだとか。つまり輸入肉は、本来の相場より高いというのである。それでも和牛と比べたらけた違いの安さである。渡部さんはやはり、TPPのことを気にしている。日本の畜産農家がガタガタになるんじゃないか、と。
 ちなみに、あちらの人が和牛を食べると、やはり、おいしいと絶賛するそうだ。でもふだん食べるのは、昔から食べていた肉が主になる。
「あっちの人は毎日のように牛肉を食べるのさ」
「脂(あぶら)がたっぷりの和牛を食べてばかりいたら、体を壊すんだ」
というのが理由だという。ホントなのかな。
「でも(競りは)、いいニュースだね」
ずっと先のことを思うのだろう。渡部さんは、言うのだった。

 3 ウェイトリフティング部!?
 牛馬の話から、相馬の野馬追い祭りの話となった。震災の年こそ中止を余儀なくされたが、毎年夏に開かれる。相馬中村神社を出発し、小高(南相馬)神社まで、30キロにわたって馬を奉納する祭りである。祭りのクライマックスと言える「甲冑(かっちゅう)競馬」と「神旗争奪戦」は、壮観である。山本哲士たちと支援をかねて行った時のレポート(ブログ)は、2012年の7月か8月だ。
 渡部さんは、高校が相馬の農業高校だった。当時、部活の合宿費用をまかなうために、みんなで野馬追い祭り手伝いのバイトをしたという。部活? 何をしてたんですか? 私は聞いた。
「ウェイトリフティング部だよ」
事も無げに、渡部さんは言うのだった。
「あ、あの、三宅の!」
笑っている渡部さんから目を離せなかった。そして、渡部さんの細い腕と体を見てしまった。
 笑っている渡部さんの向こう側に、暮れの天神岬を飾(かざ)ったイルミネーション、そしてこれも天神岬のそばにある、「子どもの園」で行われた成人式が見えたような気がした。

 どうか広野も楢葉も、そしていわきも、みんなご多幸でありますように、と思う正月の福島だった。


 ☆☆☆
福島の新聞から少し。14日の『福島民報』トップ記事は、
「県、ADR初申し立て」
というもの。福島県が原発事故に伴(ともな)い行った損害対策/除染対策/健康管理などに費やした費用を請求したのですが、東電が、
「原発事故との相当因果関係が認められない」
として、請求額通りの賠償を拒否したためです。こういった東電の行為を、地元以外の人間はなかなか知ることが出来ないんですね。
念のため、ADRとは、東電と申立人(自治体や個人)との間を仲介する、政府が開設した機関です。
もうひとつは、13日『福島民友』の記事。飯舘村の102歳の方が自殺した事件です。原発事故当時、飯舘村から避難する直前に自殺したという方です。遺族の訴えに対する東電の言い分が振るっています。
「事故に基づく精神的損害額の算定に、東電の過失有無の審理は必要ない」
です。すごい。さらに、
「原発事故に重大な過失はなかった」
と続きます。私たちの知らないところで、信じられないことが起きてるんですね。

 ☆☆
 前回お知らせした、「早すぎる春の訪れ」です。二週間前の写真です。
これがお隣さんの梅。

これは、手賀沼湖畔に、わずかなんですが、植えてある河津桜。

「青山がくい~ん! 大好きで~す!」
下校途中の小学生たちが叫んでました。駅伝のことですよ。分かってますね。
春よ来~い! ですね~

体罰をめぐる私たち  実戦教師塾通信四百七十八号

2016-01-15 11:34:54 | 子ども/学校
 体罰をめぐる私たち
     ~柏市教委資料に見る~


 1 忘年会

 また去年のことである。教え子たちとの忘年会だ。
 その中で「体罰」の話となった。この日は年末の日曜日だったが、教え子のひとりが中学校の先生をしている。そいつが勤務(部活)を終えて、この席に駆け付けた。そこで持ち上がった話である。生徒をのどわで押さえたことが問題になったという。少し前の話らしいが、
「ここ一、二年くらい前から(体罰に)うるさいんですよね」
ということなのだ。すると、
「今の親はうるさいからね」
と、教え子たちが反応する。
 しかしこの場合、大切なことは、
「なにがあったの?」
である。でも大体がそう応じない。かつての自分たちの仲間が「そんなバカなことをするはずはない」と思うのだろうか。確かにこの教え子は、あまり激することのないタイプだった。ちなみに顧問するのは、サッカー部である。きっとよほどの事情か、相手だったのだろう。それでもやはり、私にはいま流通している認識に、みんなが便乗したとしか思えなかった。うんざりしたわけである。
 このあと、私は多くを語った。大体が3年前の大阪桜宮高校の事件の時のものなので、あの時の繰り返しとなるが、明らかにまずいのは、やられた生徒が、
「自分も悪いが、ここまでやることはないじゃないか」
という時。また、
「オマエにはやられたくない」
と思うようなケース。
「セクハラと同じですね」
とは、キャリアOLとなった教え子の感想。
 さて、この二つのポイントは、あくまで、
「(暴力を受ける)生徒の側の視点」
である。指導者/先生の立場からは、
「やっちゃダメだって分かってる?」
のどわを食らわした教え子に、私は言った。
「やることは許されてないよ」
という意味ではない。
「やる奴は無能だ」
という意味である。体罰が、
「熱意のなせるわざ」だの、
「生徒のためを思ってやった結果」
だのということが、今もって繰り返されている。しかし、「熱意」も「ため」も、
「生徒がぶつかっている壁」、または、
「生徒と教師(自分)の間の壁」
を超えるためのものである。「殴(なぐ)る/蹴(け)る」が、その手だてになるわけがない。
 私がこう言うと、
「何を言ってるんだ」
「相手(生徒)をどんな人種と心得るか」
と思う教師は少なくない。つまり、相手は、

○こちらを先生、いや人間と思ってない
○話せば分かる、という次元の外にいる
○「向上心」などという場所を知らない
場合によっては、
○自分はどうなってもいい
○ひとつ殴ってもらいたい

と思ってる場合だってある。この後者のケースだが、最初に登場した教え子は、
「当人は、あとで謝(あやま)って、お礼まで言ったんですよ」
と報告した。確かにそういうこともある。
「センセイ! 僕を殴って下さい!」
なんて気持ち悪いケースもないわけではない。たとえば、リングに上がる前、猪木に「往復ビンタ」を頼むなんてのもそうだ。殴られることで苦しみや恐怖から逃れられるという思いで言ってる。ホントはこういう手合いに楽をさせてはいけないのだ。
 まあこういうケースは置いて、ちっとも手応え(てごたえ)のない子どもたちの現実を、多くの教師は憂(うれ)えている。だからと言って、相手がヤマハや東海大のラガーマンのような屈強な体を持ち、かつ自分を忌(い)み嫌っている奴だったら、あなた(先生)は、殴ります? やらないでしょ。つまり、「体に訴える」教師/指導者は、相手に対する自分の(立場/体力)のアドバンテージを前提にしていることに気づいてない。では、
「言っても無駄だ/通じない/通じると思えない」
時はどうするのか。いったん諦(あきら)め退却し、出直す以外にないのだ。

 2 教育長の「訴え」
去年の暮れ、文科省は、前年度(2014年)に体罰行為で処分された教員の数を発表した。952人という数字は、その前の年の4分の1だったという。ただし、先も紹介した桜宮高校の事件前と比べると、その数は2倍なのである。事件の申告と、それに対する姿勢が変わった結果だろう。数字というのは分からないものである。
 どこの自治体の教育委員会も体罰に関する資料を出しており、学校ではその資料を使って研修をしている。柏でも教育委員会が、この資料を毎年改訂しながら出している。ここで、昨年の夏に出された改訂版を紹介したい。冒頭にある教育長の発言がいいのだ。また言ってしまうが、こういう教育長が日本のどこかにまだいるとしたら、日本の学校ももう少し変わるのではないかと思う私である。少なくとも今現在の時点で、柏の河原教育長は頑張っている。「君子豹変」と題された文章である。少し長くなるのだが書き抜く。

「体罰をなくす研修資料というと、懲戒処分をはじめ刑事罰、民事賠償が問われ、重い責任があることが強調される。また、廊下に立たせてもいいが用便に行かせないと体罰/掃除当番は体罰ではない/グランドを何周させるかは、天候や子どもの体力次第/等の解説が詳しい。これでは『処罰をうけては損をするから体罰はやめよう』『体罰にならない範囲で上手にやろう』と読み取れてしまう」
「時代は変わっている。子どもの考えも保護者の価値観も変わっている。いい加減に教員も教育観、価値観を変えないと体罰はなくならない。『根性』や『気合い』をやたら強調する部活動の指導、罰として与える練習や作業や宿題、恫喝(どうかつ)的な叱責(しっせき)、連帯責任や見せしめの発想はもうやめよう」

「体罰問題が柏市全体として憂慮すべき状況にあるとは考えていない」とした上で、しかし「なかなかなくならない」ことを理由に、教育長は書いている。どちらか言うと、前半は管理職向けに、後半が教員全体に向けたものだという気がする。
 たとえば最近、
「教育委員会に、専属の弁護士を置いた方がいい」
なる声/傾向が、現場であらわになって来ている。私に言わせれば、
「その前にもう少し相手(保護者/生徒)と頑張って向き合えよ」
ということなのだ。
 生徒も保護者も変容し、学校現場が大変な思いをしていることぐらい、私には経験も含め分かっているつもりである。しかし、あえて言わせてもらえば、
「○○があって大変/どうにもならない」
というのは、教員が過去からず~っとやってきた「どうにもならない」ことの「言い訳」だ。それで思い出す。私が最後に勤務した学校の保護者が、
「教員てのは、世の中でなにも出来ない連中がやってる仕事じゃねえのか」
と言っていたことだ。職人さんである。確かに、昔の「先生」に世間の風は当たらなかった。しかし今、その風当たりは容赦ない。このお父さんは先生たちに、そこで頑張らないといかんのじゃないかと言ってる気がして、私はこのお父さんの物言いに好感を持ったのだった。

 「君子豹変」が、
「ひとかどの人物であれば、変革や改革を恐れることなく、過(あやま)ちと分かれば直(ただ)ちにやり方や態度を変えることが出来る」
という意味だったことを、私は「忘れて」いた。
 「いい加減に」「もうやめよう」という下りを、読者はどう感じただろうか。私は、教育長の熱い言葉の後ろに、「失望」をかいま見るのである。
「こんな教育長がいたら、日本の学校ももう少しましになるのではないか」
と私は書いたが、この教育長の「苦言」は、それが楽観的であることを示しているのかもしれない。


 ☆☆
いよいよ厳しい寒さがやって参りました。これが冬というものですね。しかし、今年の暖冬に自然界が驚いてますね。
ということで、新年早々お隣さんの庭に咲いた梅や、例年は2月に開花するはずの手賀沼の河津桜の写真を、ここに載せるはずだったのです。諸事情ありで、残念ながらとりあえず未掲載のやつ。昨年暮れ、快晴の手賀沼です。梅/桜は次回に。


 ☆☆
大相撲、始まりましたね。いいお相撲さんがいい相撲をとる。元気がもらえます。白鵬びいきの私としては、初日の勢戦にうなりました。いつも一瞬見合って動きが止まる悪い癖があるのですが、この日はまったく動きを止めなかった。腕をたぐって回り込む見事さに、私はひざを打ってしまいます。勢もいい。いいお相撲さんがいい相撲をとる。これが一番です。

『喜びも悲しみも幾歳月』  実戦教師塾通信四百七十七号

2016-01-08 11:21:42 | 戦後/昭和
 『喜びも悲しみも幾歳月』
     ~父と母が歩んだ道(3)~



 1 「お父さん!」

 正月恒例の映画鑑賞。DVDだがこれを見た。58年ぶりである。

おいら岬の/灯台守(とうだいもり)は
妻と二人で/沖ゆく船の
無事を祈って/灯をかざす  (作詩・作曲 木下忠治)

 この灯台守、今や海上保安庁の管轄下であるが、主題歌のメロディはまるで労働歌を思わせる。この主題歌を子どもだった私たちも、校庭や道々で高らかにうたった。大ヒットしたのである。歌ではない、映画がだ。木下恵介原作監督・高峰秀子/佐田啓二主演のこの映画は、1957年の秋に公開された。
 1932年、観音崎の灯台に赴任(ふにん)する新婚夫婦が、灯台守という仕事と歴史にもまれながら生き抜くという、なんとも心温まるというよりは、切ない話である。1932年と言えば、満州事変の翌年で、上海事件の年だ。このニュースが流れるラジオで映画は始まる。太平洋戦争時には、灯台が標的になるという理由で、灯をを灯(とも)せないということも起こる。しかし物語は、灯台がになっている役割と、その役割を引き受ける人々の姿が中心となっていたと思えた。

「どっちみち『日本のはじっこ』に転勤を命じられる灯台守」
は、船の安全航行に専念するがゆえに、我が子の出産にも臨終にも立ち会えない。またある時は、灯台の沖合(おきあい)にある点滅灯(「灯浮標」というそうだ)が、台風の前に消えそうになる。その時にも夫が、手こぎのボートで向かう。やめて欲しい思いで見つめる妻に、職員が言う。
「いま頑張ってるのは、あんたの旦那じゃねえ。あの灯が頑張ってるんだ」
の言葉が鬼気せまる。荒れ狂う海の沖合で、たくさんの船が小さな灯を頼りにしている、というのだ。
 最後は結局、夫婦二人だけが灯台に残される。間違いなく二人は幸せだったのだ。しかし、なんとも切ない、私たちはそう思うはずである。

 全国の灯台を転々とする夫婦/家族だ。福島いわきの塩屋崎灯台が、この映画の舞台になったというのはかねてから聞いていた。しかしそれは、空襲を受ける一瞬の映像だった。間違いない、塩屋崎の海だった。
 そして、三重県の安乗岬の灯台に、この家族が赴任していたというのが驚きだった。30年も前、この安乗岬灯台敷地内の中学校に、大学で一緒だった先輩が勤務していたからだ。この安乗灯台の生活に、映画はだいぶ時間を割(さ)いていた。四角い灯台は、30年前の記憶に鮮明だ。私が当時三重まで行った時、
「灯台守が中で働いてるの?」
と、先輩に聞いたものだが、
「いや、今は自動運転だよ。無人ということだな」
という答が返ってきて、拍子抜けしたのを覚えている。

 それにしても、男と女ではどうして戦争に対する態度が、こうも違っているのかと思う。男はみんな、
「絶対に勝たないといけない」
と言い、女は、
「どうしてこんなバカなことを続けるの」
と言う。しかし、映画の夫婦はそんないさかいの中で、愛し合っている。
 ラストシーン。灯台の上から、はるか彼方に娘夫婦を乗せた船をみつけた夫が立ち尽くす。
「お父さん!」
妻がそばから大声で呼びかける言葉だ。「あなた!」ではない、「お父さん!」なのである。それが妻のラストのセリフだったと思う。

 2 「最後の晩餐」
 なにか、自分の両親を見ているようで、タオルが手放せなかった。
 この映画が上映されるのが10月(1957年)。私たちの暮らす小さな町のたったひとつの映画館にも、この映画はやって来た。私たち家族が見に行ったのは、この年の秋も深まる頃だったと思う。父はこの映画を見て間もなく、この世を去る。
 すっかり身体も弱っていた父のことを、六年生か中一だった兄が、自転車の荷台に乗せたのだろうか、一体どうやって父を映画館まで連れて、そして帰って来たのか記憶にない。それよりも、そんな身体を押してまで、なぜ「最期の映画」を見ようとしたのだろう。覚えていることは、この日が私たち家族にとって、とびっきり特別な一日だったことだ。
 映画は当時二本立てが当たり前だった。この『喜びも悲しみも…』が160分だ。もう一本とあわせて優に5時間を越えていたと思う。私たち家族は、おやつにピーナッツバターをぬった食パンを持って行った。一階が満席だったというより、父のために持って行った座いすが使える二階に、私たちは席をとった。二階席は「畳敷き」だったのである。家族で見る初めての映画、そして同時に最後となったのだが、私は映画の内容が分からなかったというのもあった。でも、とにかくはしゃいだ。二階席のすき間をぬって走り回る私を、母が、静かに、と何度もたしなめた。
 映画が終わっても、この興奮は続いた。帰って夕飯の用意というには、もうとっぷりと夜がふけていたからだろう。両親の会話から、それは予定外のことと知った。このまま外で「ご飯を食べよう」というのである! ご近所や「党」の仲間、あるいは親戚とともに家族が外食、という経験はあった。しかし、4人の家族だけの外食、それは初めてだった。そして、これも最後となった。
 覚えている。映画館を出ると、まだ舗装されてなかった暗い大通り沿いに、うどん屋が灯を道に落としていた。私の胸の高鳴りを今でもはっきり覚えている。こののれんの向こうに、私たちが行くのである、そう思っただけで幸せだった。私の見上げる父の背中が、目の前でのれんをくぐっていく。
 客は誰もいなかった。そんなに遅い時間だったのだろうか。店のオヤジは土間のかまどに薪(まき)を入れて、釜にお湯を沸かすのだ。長い待ち時間、私たちはなにを話したのだろう。何にも覚えていないが、それが「家族の会話」だったことは間違いがない。それが30円だったか、40円だったか覚えていない。でも、それが「ねぎうどん」だったのははっきり覚えている。みんな一人前ずつなのだ。半分ずつというのではなかった。
 いただきます、父は言葉すくなに、そして母は一体なにを話したのだろう、兄と私は温かいうどんを味わった。どんぶりを抱きしめて味わった。
 家族の「最後の晩餐」。
 ここから二カ月もたたない翌年の正月、父は私たちを残していなくなる。
 母が最後に言った言葉は、
「お父さん!」ではなく、
「あなた!」
だったような気がする。きっと間違いない。
「お父さん!」
と言った映画の妻。その目の前には、自分たちの娘がいた。
「あなた!」
と言った母の目の前には、もう届かないところに行こうとする父がいたのだ。


 ☆☆

アメ横で人波にもまれ、お茶と海苔(のり)を買いました。


浅草寺で新年の準備を眺め、

これは、ニュースでもやってた鏡餅のオブジェ。
最後に「尾張屋」で年越しそばを食べました。こんなに細い!でもしっかり腰があってという感じの、大混雑の、でも、幸せな店の中でした。

 ☆☆

これは近所に初詣。広幡八幡宮です。

 ☆☆☆
私のいつものロードワークのコース上に、手賀大橋があります。いつものように通り掛かると、消防車と湖水の上に救命ボート。たくさんの人が見守っていたのは柏の事件だったと、あとで知りました。事件現場は、ここからさらに2㎞ほど下った、通称「古利根」の方の橋だったようです。

金沢  実戦教師塾通信四百七十六号

2016-01-01 11:11:34 | 旅行
 金沢
     ~40年ぶりの訪問~


 駅




 北陸新幹線を降り立った。
 『鼓(つづみ)門』というそうです。いやすごい。地元の人もそう言ってるのです。明らかに京都駅を意識していると思うのです。寿司屋のオヤジさんが、
「金沢は自分で二番手の都市や思うてる」
と言ってましたが、金沢、好きです。40年ぶりに足を踏み入れました。


 金沢城


 言わずと知れた『石川門』です。


 『河北門』より『石川門』を臨(のぞ)む。


 本丸跡から見える、レンガ造りの弾薬庫。こんなに危険なものが本丸のそばにある違和感をいうと、
「本丸まで敵方から攻(せ)められたらおわりですよ。昔の人はその時にはこれを使おう思ってたんでしょうな」
とは、河北門の職員さん。

 兼六園/尾山神社/街

 兼六園と言えばこれ。琴柱灯籠(ことじとうろう)。前来た時も、さまざまな映像を見てもこれだけ、という印象の兼六園です。関係ないけど、私、中学校教員時代のある時期、「コトジ(琴爺?)」と呼ばれてました。


武家屋敷の通りです。雨が降ってましたが、存分に風情(ふぜい)がありました。


前田利家/おまつを祀(まつ)った尾山神社です。全国/天下を見つめていたのは、秀吉や家康ばかりではなかった、そんな時代だったのですね。


古い街はいいなあという気分です。建物の間の排水口を流れる川。
 近江市場は、行った日が悪かったのか時間が災(わざわ)いしたのか、人影の少ないのに驚き、カメラのシャッターを押す気になれませんでした。それでも十分な人だとは思うのですが、40年前の違いにちょっと考えてしまいました。


 これは金沢でなく、加賀温泉そばの「潟(かた)」から、日没を眺めたところ。釣り人がひとり。


 ☆☆
もう「去年」のことになってしまうのですが、「濃い」年の暮れでした。若いのも、もうすでに「いい年」のものも、いろんな教え子と飲み歩き、仲間と語り合ったなと思うのです。「自分が生きた痕跡(こんせき)」を実感した次第です。マックの前で号泣(ごうきゅう)した女子。
「オレたちはいつでもいいので、またやりましょう!」
とこだましたアーケード。
「『ふなふな船橋』読みますね!」
とは彼氏復帰の教え子。
「いいよなオマエは。老後が安心で」
と、いつものように口にしなかった仲間。
「孫子(まごこ)に『あの時オマエ(親)たちはなにをしていたんだ!』と言われないようにと頑張ってます」
と別な仲間。
みんなみんなありがとう!
ちなみにこれは、私の力作『ローストビーフ』


 ☆☆
2016年が明けました。今年も老体にむち打って……ではなく、大事にしながらも精一杯頑張ります。よろしくお願いします。
次号は、新年の話題に入る前に、大晦日の東京(きっとアメ横)から入ると思います。多分、紅白もおわり頃は見ると思います。出来れば吉田類の年末スペシャルの方がいいんですがね。