教える/育つ(上)
~「ロンリーワン」のために~
まつりごとなど もう 問わないさ
気になることといえば
今を どうするかだ
おきざりにした あの悲しみは
葬(ほうむ)るところ
どこにもないさ
ああ おきざりにした あの生きざまは
夜の寝床に 抱いてゆくさ (吉田拓郎『おきざりにした悲しみは』)
1 ビョードー?
478号への感想があちこちから届いている。youtubeを読んでの感想もそうなのだが、私がだいぶ前から感じていることが、ここに来ていろいろ形になって来ているように思えた。私たちのぶつかっている壁は、目に見えるところより少し深いところにある。その部分を意識下におきたいとは、常々思っていることである。
そんなわけなので、この「教える/育つ」は、久しぶりの連載で、「上/下」の二回にわたって書こうと思う。
まずは、
「コトヨリさんは子どもがみんな平等になるようにと思っている」
という感想。これを言われて、私はぶっ飛んだ。「ビョードー」? しかし、なるほどとも思う。子どもたちがみんな幸せでありますように、というようなことを、私はどこかで何度も言っていると思うし、その通りなのだ。しかし、これってもしかして、よく言われる「組合の悪しき平等主義」なんかというやつと並べられてるのかしらんと思ったら、いても立ってもいられなくなった。
そして少し考えた。すると、私の言う「幸せ」は、「不幸な子ども」に向けられていることに気づいた。さしあたって幸福な子どもは放っておいていい、そう思っている。たとえば、もしかして世界一の運動能力を持っている子や計算力がある子がいたとして、彼らの能力を生かす/伸ばすなどということは、どうなろうと知ったことではない。彼らにも苦労や挫折がやって来るだろうが、あんまり周りがいじり過ぎるなよ、と思うぐらいだ。
しかし、「不幸な子ども」で、私が忘れていけないと思っているのは、多くの子どもたちが「幸福ではない」ことだ。「愛されていない」多くの子どもたちのことだ。
2 大人もいじめ?
次が、
「今やいじめは、大人社会の問題である」
という感想である。結構な数だ。子どものいじめ問題を大人も考えないといけない、というのではない。大人社会でもいじめはあるという、よく聞くようになった声である。もちろん、今の日本社会が「意地悪」に満ちていることは、私も何度も取り上げた。腰抜けな「仮面」をかぶったやつらの発言が、承認/公認されている。そこで噴出している無責任と露悪(ろあく)現象。それは、本当は鬱積(うっせき)した人々のエネルギーが引き金になっている。またそれであらたな鬱憤(うっぷん)を作り出す、という悪循環をしている。
しかし、ここは少し乱暴に言うぞ。大人の社会にあるいじめを解決しないと、子どものいじめはなくならないとかいう考えは、捨ててしまえ。
まず最初は、いつも言うが、
「いじめは、子どもが通過しないといけない道」
なのである。いじめと言って抵抗があるなら、「率直/素朴な感想/行動」と言い換えてもいい。そこを通過して初めて、子どもは「他人という人間」を知り、自分を知るのである。
取り返しのつかないことは、子ども時代でもたくさん経験する。それらがある日ふっと頭をもたげ、布団で寝ている自分を苦しめたりする。私たちは、おきざりにした子ども時代の自分や友人の傷の上に、かさぶたを被(かぶ)せるように、年齢を少しずつ重ねている。だから、まだそれが乾いてないというのにとか、せっかく身体の深いところに眠っていたというのに、という経験もやって来る。一体これらの後悔や苦しみが、どれだけ私たちを成長させただろうか。思い出したくないことや、忘れてはいけない多くのことは、私たちを成長させる。だからこそ、できるだけ小さい頃この道を通ることを願うのである。
通常、法令や条例で守られるのが大人、ということになっている。もちろんそれは建前だし、諸事情をみんな知らずにいる。そんな中ある時、事件/事例は発生し問題になる。騒ぎになる。調整/調停が始まる。もちろん始まらない/始めないで、泣き寝入りする人たちもいっぱいいる。泣き寝入りすればおしまいである。仕方がない。それが大人社会のあり方だ。
大人と子どもの違いを考えるため、いじめではないが、分かりやすい例で考えよう。夫から暴力を受けた妻は、自分でシェルターに向かう(ことが出来る)。しかし、親から暴力を受けた子どもは、誰かがシェルターに保護しないといけない。それが大人と子どもの違いである。
困った時に何とかしようと思うとか思わないとか、周りにアドバイスしてくれる人がいるいないとか、孤独に耐える力があるとかないとか、それらはすべて、子ども時代をどう過ごして来たか、ということにかかっている。これらの力は、子ども時代に養われる。子ども時代は大切だ。そして子どもに対して、私たち大人が責任を負っているとは、そういうことだ。
3 「世界に一つだけの花」
私はスマップ騒動にあまり関心がなかった。生の謝罪会見も見ていない。でも考えることは多々あった。スマップがこんなにもアイドル界をリードする存在だったのか、ということも改めて認識することとなった。
こんな騒ぎになった要因は、芸能メディアが明らかにした「内紛」がもとだったこと。それが「突然」だったことである。紛争当事者が問題に関われない、いや、関わらなかったという事実は残念だった。この事件は、今の時代の良くない流れを変える、ある可能性を持っていたからだ。
まぁこれは前置きである。この機会に何度もニュースで流れた、彼らの『世界に一つだけの花』(2003年)を聞いて思ったことなのだ。今を引き継ぐ「オンリーワン」の幕開けを告げる歌ではなかったろうか。その時までは言うまでもない、「ナンバーワン」だった。はじめはなるほど、と納得した思いを記憶している。しかしほどなく、この「オンリーワン」も「ナンバーワン」も、大した違いはないと思えていた。これが「『ロンリー』ワン」の心に届かないと思えたからだ。巷(ちまた)には「ロンリーワン」があふれている。
「オンリーワン」とは、「(君が)いるだけでいい」ということだ。なんて素敵な言葉だ。しかしこの当事者は、ある誰かのおかげで、自分の「オンリーワン」を知る。自分を承認する誰かがいないと、「オンリーワン」にはなれないのだ。
「自分を理解してくれる人は、ひとりでいい」
とよく言う。
「それ以上はいらない。それで幸せ」
という。その通りだと思う。一方、「ロンリーワン」は、自分一人で大地に足を踏みしめないといけない。オマエはえらい/オマエは立派だ/頑張っているじゃないか等々と、自分で言える強さがないと、おそらく大地も空もそれに応えてくれない。大変だよな、せめて近くで/遠くから見ていていいかな、ぐらいの気持ちでいることしか私たちには出来ない気がする。いや、それも仕方のないことではある。
そして、数多くの「ロンリーワン」を前に、もちろん「全員」などという思い上がったことは言うまい。数多いその「ロンリーワン」の「ひとりのため」、私たちが出来ることは必ずある。
☆☆
春きたるらし手賀沼の……って感じの暖かい日でした。
大相撲終わりました。白鵬、気になります。双葉山の言う、
「稽古は本場所のごとく、本場所は稽古のごとく」
ところに従えば「後の先をやろうとした」のも分かる気がします。でも、迷いは隠せなかった、というのが私の印象です。白鵬の最新ブログに、双葉山の「後の先」ばかりを編集したものがアップされてます。良く見ておこうと思ってます。
あと気になって仕方なかったのは、審判です。どうしてこれが?と思う「物言い」が多すぎます。一番ひどいと思ったのは、栃の心と稀勢の里戦です。栃の心が先に足と手をついたのは、後ろ向きに倒れ込む稀勢の里を、同体で倒れ込んだ栃の心が、かばったものでしょう。なんと行司の差し違えという。しかも決まり手が「うっちゃり」ではなかったかな。
なんとも割り切れないことの多い場所でした。
☆☆
暖かな空の下に現れたのは、富士山。雲のようにも見えますが奥にいます。
一転して今日からまた、寒くしみったれた天気が続くようです。今日はストーブでモツ煮込みやってます。みなさんあたたかく過ごしましょう。1月が終わります。
~「ロンリーワン」のために~
まつりごとなど もう 問わないさ
気になることといえば
今を どうするかだ
おきざりにした あの悲しみは
葬(ほうむ)るところ
どこにもないさ
ああ おきざりにした あの生きざまは
夜の寝床に 抱いてゆくさ (吉田拓郎『おきざりにした悲しみは』)
1 ビョードー?
478号への感想があちこちから届いている。youtubeを読んでの感想もそうなのだが、私がだいぶ前から感じていることが、ここに来ていろいろ形になって来ているように思えた。私たちのぶつかっている壁は、目に見えるところより少し深いところにある。その部分を意識下におきたいとは、常々思っていることである。
そんなわけなので、この「教える/育つ」は、久しぶりの連載で、「上/下」の二回にわたって書こうと思う。
まずは、
「コトヨリさんは子どもがみんな平等になるようにと思っている」
という感想。これを言われて、私はぶっ飛んだ。「ビョードー」? しかし、なるほどとも思う。子どもたちがみんな幸せでありますように、というようなことを、私はどこかで何度も言っていると思うし、その通りなのだ。しかし、これってもしかして、よく言われる「組合の悪しき平等主義」なんかというやつと並べられてるのかしらんと思ったら、いても立ってもいられなくなった。
そして少し考えた。すると、私の言う「幸せ」は、「不幸な子ども」に向けられていることに気づいた。さしあたって幸福な子どもは放っておいていい、そう思っている。たとえば、もしかして世界一の運動能力を持っている子や計算力がある子がいたとして、彼らの能力を生かす/伸ばすなどということは、どうなろうと知ったことではない。彼らにも苦労や挫折がやって来るだろうが、あんまり周りがいじり過ぎるなよ、と思うぐらいだ。
しかし、「不幸な子ども」で、私が忘れていけないと思っているのは、多くの子どもたちが「幸福ではない」ことだ。「愛されていない」多くの子どもたちのことだ。
2 大人もいじめ?
次が、
「今やいじめは、大人社会の問題である」
という感想である。結構な数だ。子どものいじめ問題を大人も考えないといけない、というのではない。大人社会でもいじめはあるという、よく聞くようになった声である。もちろん、今の日本社会が「意地悪」に満ちていることは、私も何度も取り上げた。腰抜けな「仮面」をかぶったやつらの発言が、承認/公認されている。そこで噴出している無責任と露悪(ろあく)現象。それは、本当は鬱積(うっせき)した人々のエネルギーが引き金になっている。またそれであらたな鬱憤(うっぷん)を作り出す、という悪循環をしている。
しかし、ここは少し乱暴に言うぞ。大人の社会にあるいじめを解決しないと、子どものいじめはなくならないとかいう考えは、捨ててしまえ。
まず最初は、いつも言うが、
「いじめは、子どもが通過しないといけない道」
なのである。いじめと言って抵抗があるなら、「率直/素朴な感想/行動」と言い換えてもいい。そこを通過して初めて、子どもは「他人という人間」を知り、自分を知るのである。
取り返しのつかないことは、子ども時代でもたくさん経験する。それらがある日ふっと頭をもたげ、布団で寝ている自分を苦しめたりする。私たちは、おきざりにした子ども時代の自分や友人の傷の上に、かさぶたを被(かぶ)せるように、年齢を少しずつ重ねている。だから、まだそれが乾いてないというのにとか、せっかく身体の深いところに眠っていたというのに、という経験もやって来る。一体これらの後悔や苦しみが、どれだけ私たちを成長させただろうか。思い出したくないことや、忘れてはいけない多くのことは、私たちを成長させる。だからこそ、できるだけ小さい頃この道を通ることを願うのである。
通常、法令や条例で守られるのが大人、ということになっている。もちろんそれは建前だし、諸事情をみんな知らずにいる。そんな中ある時、事件/事例は発生し問題になる。騒ぎになる。調整/調停が始まる。もちろん始まらない/始めないで、泣き寝入りする人たちもいっぱいいる。泣き寝入りすればおしまいである。仕方がない。それが大人社会のあり方だ。
大人と子どもの違いを考えるため、いじめではないが、分かりやすい例で考えよう。夫から暴力を受けた妻は、自分でシェルターに向かう(ことが出来る)。しかし、親から暴力を受けた子どもは、誰かがシェルターに保護しないといけない。それが大人と子どもの違いである。
困った時に何とかしようと思うとか思わないとか、周りにアドバイスしてくれる人がいるいないとか、孤独に耐える力があるとかないとか、それらはすべて、子ども時代をどう過ごして来たか、ということにかかっている。これらの力は、子ども時代に養われる。子ども時代は大切だ。そして子どもに対して、私たち大人が責任を負っているとは、そういうことだ。
3 「世界に一つだけの花」
私はスマップ騒動にあまり関心がなかった。生の謝罪会見も見ていない。でも考えることは多々あった。スマップがこんなにもアイドル界をリードする存在だったのか、ということも改めて認識することとなった。
こんな騒ぎになった要因は、芸能メディアが明らかにした「内紛」がもとだったこと。それが「突然」だったことである。紛争当事者が問題に関われない、いや、関わらなかったという事実は残念だった。この事件は、今の時代の良くない流れを変える、ある可能性を持っていたからだ。
まぁこれは前置きである。この機会に何度もニュースで流れた、彼らの『世界に一つだけの花』(2003年)を聞いて思ったことなのだ。今を引き継ぐ「オンリーワン」の幕開けを告げる歌ではなかったろうか。その時までは言うまでもない、「ナンバーワン」だった。はじめはなるほど、と納得した思いを記憶している。しかしほどなく、この「オンリーワン」も「ナンバーワン」も、大した違いはないと思えていた。これが「『ロンリー』ワン」の心に届かないと思えたからだ。巷(ちまた)には「ロンリーワン」があふれている。
「オンリーワン」とは、「(君が)いるだけでいい」ということだ。なんて素敵な言葉だ。しかしこの当事者は、ある誰かのおかげで、自分の「オンリーワン」を知る。自分を承認する誰かがいないと、「オンリーワン」にはなれないのだ。
「自分を理解してくれる人は、ひとりでいい」
とよく言う。
「それ以上はいらない。それで幸せ」
という。その通りだと思う。一方、「ロンリーワン」は、自分一人で大地に足を踏みしめないといけない。オマエはえらい/オマエは立派だ/頑張っているじゃないか等々と、自分で言える強さがないと、おそらく大地も空もそれに応えてくれない。大変だよな、せめて近くで/遠くから見ていていいかな、ぐらいの気持ちでいることしか私たちには出来ない気がする。いや、それも仕方のないことではある。
そして、数多くの「ロンリーワン」を前に、もちろん「全員」などという思い上がったことは言うまい。数多いその「ロンリーワン」の「ひとりのため」、私たちが出来ることは必ずある。
☆☆
春きたるらし手賀沼の……って感じの暖かい日でした。
大相撲終わりました。白鵬、気になります。双葉山の言う、
「稽古は本場所のごとく、本場所は稽古のごとく」
ところに従えば「後の先をやろうとした」のも分かる気がします。でも、迷いは隠せなかった、というのが私の印象です。白鵬の最新ブログに、双葉山の「後の先」ばかりを編集したものがアップされてます。良く見ておこうと思ってます。
あと気になって仕方なかったのは、審判です。どうしてこれが?と思う「物言い」が多すぎます。一番ひどいと思ったのは、栃の心と稀勢の里戦です。栃の心が先に足と手をついたのは、後ろ向きに倒れ込む稀勢の里を、同体で倒れ込んだ栃の心が、かばったものでしょう。なんと行司の差し違えという。しかも決まり手が「うっちゃり」ではなかったかな。
なんとも割り切れないことの多い場所でした。
☆☆
暖かな空の下に現れたのは、富士山。雲のようにも見えますが奥にいます。
一転して今日からまた、寒くしみったれた天気が続くようです。今日はストーブでモツ煮込みやってます。みなさんあたたかく過ごしましょう。1月が終わります。