実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

子どもの分水嶺(下)  実戦教師塾通信四百七十一号

2015-11-27 12:01:59 | 子ども/学校
 子どもの分水嶺(下)
     ~貧困の新しい形/子どもと「向き合う」~


 1 追い詰められて

 ここ最近、現場から、「就学(しゅうがく)援助」を受けている家庭の話を、よく相談される。
「医者や病院になぜタクシーなのか」
「どうしてスマホ(携帯)や自家用車なのか」
などだ。生活保護を受けている家庭の優先順位としていかがなものか、ということである。子どもまでスマホ(携帯)を持っている。そんなお金があるのなら、別な使い道があるのではないか、ということなのだ。食べるものまで切り詰めてやっているのはどうなのだろうか、と思うのは道理である。
 タクシー利用に関しては、車がない家庭は、子どもが風邪や熱に冒(おか)された時には致し方ないとも思う。子どもを思いやっての処置と思える。
 では、スマホ(携帯)はどうか。結論から言ってしまおう。
「持っていない苦しみが大き過ぎる」
「周囲との関係に支障をきたす」
となれば致し方ないと思える。私は、スマホがないことによるコミュニケーションの可否を言っているのではない。「貧困の形」が変わったのだ。
 だいぶ前に書いた私の少年時代のことだが、それを思い出した。
 私が小学5年生の時、石油系の繊維によるジャンパーが大ブレイクした。絹のような光沢と触感(しょっかん)を持つこの生地(きじ)が、巷(ちまた)にあふれたのだ。これは保温性と防風に優(すぐ)れており、絹のように高級品ではなかった。やがて、次の年の暮れには、400名もいたと思われる6年生で、このジャンパーを身につけていないものは、もうひと桁(けた)だったと思う。あちこちの綻(ほころ)びと穴を繕(つくろ)った上着しかなかった私が冬にやったことと言えば、その上着を着ないようにすること、薄着(うすぎ)で過ごすことだったように記憶している。
 そんな私を母親が不憫(ふびん)に思わないはずがない。洋裁で生計を立てていた母は、その年の暮れ、デニムの生地を用意したのだった。しかし、新しい上着が出来るという喜びより、微妙な陰が私の顔に落ちていたはずだ。だから、その暮れに突然「正月資金」が亡き父の実家から舞い込んだ時、母は「ナイロンのジャンパー」を買うことに決めたのだ。新しい年のために、母は何をおいても、餅や炭(燃料)、割れたままの窓ガラス、そういったものを「正月資金」でまかわないといけなかった。でも、母はそうしなかった。
 嬉しかった。正月が来るんだと思った。母はみんな分かってくれてたんだと思うと同時に、申し訳ない気持ちにもなった。しかし、あの時の空に浮かぶような気持ちは、何のたとえようもなかった。
 正月、あの頃は元旦が登校日だった。ベージュかグレーか忘れたが、キラキラの新しいジャンパーを着た私は胸を張っていた。自分はみんなと同じなんだ、と胸を張った。嬉しかった。
 これを読んだ読者は、
「着るものとスマホとではわけが違うでしょ」
と思うかも知れない。果たしてそうだろうか。必需品とは、
「何をおいても、それがないと生活に支障をきたすもの」
だ。貧困の形は変わったのだ。
 本当は買うだけの力があっても、
「子どもに我慢をさせる」
家の子と、
「買ってあげられない」
家の子の事情は、まったく違う。
 ことはスマホなので、小中学生はともかくだが、高校生ともなれば我が身をどうやってかばうのだろう。
 彼らというより、おそらく「彼女たち」は、アプリやゲームやラインが欲しいのではない。彼女たちは、それを「持っていない」心細さに追い詰められているのだ。持っていない時の中で、彼女たちは繰り返し、自分の境遇-貧困を確認している。
 私は、「温かい上着」が欲しかったのではない。周囲はそれまで綿入れやウールやネルやと、まちまちの服だった。それで私はきっとぼろに耐えられた。しかし日を追うに従い、周囲はナイロンのジャンパー一色となった。私は校庭で教室で空き地で、一体どうすればいいのだろうと身悶(みもだ)えした。

「スマホがない/スマホもない」

と言って身悶えする子を、見ていられない親がいるのだ。

 2 子どもへの目線
 『子どもの分水嶺』(上)は8月のアップなので、多くの読者は忘れたと思う。子ども問題のプロフェッショナルであるお二方との座談だ。
 後半をお届けします。今日のブログと重ねながら読んでください。

 J  塗装工にしても建築にしても、運送にしても大変。……そういうところが底無しの不況にさらされてるから、そういう点でいうと、子どものことどころじゃない。しかも、彼らなりの欲求充足のパターンというのは失いたくないからさ、40前後の親たちは食い物にしても、車にしても、そんなレベル下げないわけよ。だけど、生活はものすごい厳(きび)しくなってきてて、とても子どもまで気が回らないというのが、うちの周りに二、三件あって、ちょっと苦労してるんだ。
 S  だから、どっかで放り投げられちゃうみたいな子どもの危険性もなくはないと思うし、何とかいい生活を維持できながら、それでもまあ子どもも大事だななんて思いながら、子どもがやってられるんならばオレはいいなと思うし、そうでなくとも琴寄さんみたいに付き合ってくれる人がいるならばまだいいなという感じは、実感としてするね。
 琴寄 よく言うけど、昔、親の後ろ姿を見て育ったってね。親としては見せてたわけじゃなくて、そんな余裕がなくて、子どもと向き合うことが出来なかったという、だから、親も同時に子どもの後ろ姿しか見えなくて、それで教え合ってたという部分が多分あると思うんだけど、結局今、別な意味で向き合っちゃってるような気がするんですよ。
 S  ほんとにそう思う。まなざしか変わっちゃったんですよ。
 J  向かい合ってはいても。
 S  問題だけを見られてるような感じがあるんだよね。それが社会全体の感じとしてあって、もともと子どもの起こすことなんて、例えば新聞沙汰やテレビで報道することなんてほとんどなかったでしょう。それが……やっぱり97年(酒鬼薔薇事件)が境目で、97年以前は、例えば殺人という事態に対しても報道は……10分の1しか報道していないわけ。
 ところが、97年を境に、事件数よりも何倍の報道に変わってひっくり返っちゃう。なんかそういうまなざしの転換点があって、そうすると、すごく子どもの問題だけを見るようになってる気がして……問題しか見てない。
 琴寄 この間おもしろかったのは、家出。家出は女の子が多くて、最近変わってると思うのは、ちゃんと見え隠れするんですよ。あちこちと。
 S  寅(とら)さんが行ったり来たりするみたいに。
 琴寄 うろうろしてる。だから、家に戻るまえに学校に来ちゃったりとか、友だちの家にいますみたいな。メールやってるから「ここにいる」と確認できたり。それでその子は、まず学校に戻って来ちゃった女の子だったから、「いつ戻ったんだ」と聞いたんです。そしたら「今」って。その時、私思ったんですけど、この子と校内で会った先生たちが、一体どんな対応したんだろうって。まず、「何やってんだ」。まずこれか。……つまり、ジャージでマフラーして、ピアスしてスリッパはいて。家出したことも知らない先生は、「何やってんだその格好は。授業に行け」。トンチンカンですよ、絶対これ。その子にしてみれば、うるさいというしかないね。
 J  それどころじゃないもんね。
 琴寄 あれ、いつ来たのと言ったんだよね。そしたら「今だよ」って。「どこにいたんだ」「うーん」、ああ、言いたくないんだなと思って、とりあえず「どうするの?」「保健室行く」「ああ、そうか。じゃ、よく話すんだね」と、こんな話をして。
 S  子どもの目線ということは、子どもの側から見るということだから、子どもの側に入るということだから……それはなかなか難しいでしょう。
 J  大人はさまざまな前提を持っているんだよね。その前提から始まっちゃうんだ。学校に来るからこれだけのことをしてるのは当たり前というふうに見てると、そこからずれて行っちゃうんだよ。
 S  格好が違ってるじゃねえか、みたいなことが気になる。
 J  それを抜けるのは大変だよ。やっぱりちょっとばかにならないと。やっぱり修行だよね。ほんとに。


 ☆☆
マイナンバー届きましたか。先日、我が家にも届いたのですが「受け取り拒否」ということにしてもらいました。若い配達員さんは、いやな顔ひとつせず持ち帰ってくれました。これで私のプライバシーが守られるわけではありませんが、お荷物がひとつ減りました。

今年も小さな庭のカエデが色づきました。もっと色づきます。

 ☆☆☆
靖国神社で爆発、花火?ですか。なにやってんの。「ガキのつかいやあらへんで!」と言ってやりたくなりますよ。
トルコとロシア、これも同じだ。なにやってんの。

 ☆☆
同窓会がありました。今度は40歳! 家庭でも会社でも大切な役割を持っているはずなのに、みんな中学生のままで……。嬉しかった。
もっと話したかった、でも連休明けに学校でまた会えるというのが幻覚だったことに気づいたタクシーの中でした。25年が過ぎたんだよ、そう自分に言い聞かせたタクシーの中でした。

 不惑の教え子たちから。今年評判だった富士山の江戸切り子と「八海山」です。

福島の米/酒 実戦教師塾通信四百七十号

2015-11-20 11:14:52 | 福島からの報告
 福島の米/酒
     ~「風評被害」/酒蔵さはこ~


 1 デロリアン

           
これは福島はではない。我が家の近く、国道交差点のリサイクルショップの入り口である。ここの反対側は、とんでもない行列となっていた。
 読者もご存じの通り、映画『バックトゥザフューチャー』で、2015年10月、このタイムマシン「デロリアン」は誕生する。これを記念に、ゴミを燃料とするデロリアンが、日本人の手によって作られた。ここのリサイクルショップが、格好のデモンストレーションに持ってきたのである。私は入り口で携帯を構(かま)えた。
「あ、すみません。今日は撮影会をやっておりまして」
首から名札を下げた店員とおぼしき若者(♂)が、声をかけて来た。いやな予感がした。
「当店で1800円以上お買い上げになった方に、この撮影会に……」
最後まで待たず、私の口から、はぁ~? としり上がりの声が出ていた。
「ずいぶんふざけたことをやるもんだな」
まずはひと言。見せるだけで売り上げが伸びるはずなんだがとか、この店でいろいろ買ったとか買ってもらったとか、もっといろいろ言おうとも思ったが、若者が下を向いて赤くなってるので、やめた。
 どっからだって撮れるじゃねえかよ。と思ったあと私は、
「写真は困ります」(ブログ467号)
という、あの福島での出来事を思い出したのだった。

 2 「風評被害」
 これも柏でのことである。NPOの人たちの主催で「福島からの避難者と語ろう」会があった。双葉町から柏に避難している若い女の方の話だった。まあ今は柏にいると言ってももちろん、それまで親戚や埼玉スーパーアリーナやと、あちこちを振り回されて、やっと今にいたっている方である。3,11から今に至る話だった。
 私はこの日、話を聞いて、あとは「ニイダヤ水産」の現状と干物の宣伝だけするつもりでいた。しかし、会場(中央公民館)のみなさんの話が、「風評被害」に及んで黙っていられなくなってしまった。福島の作物/産物は安全なのに、それを忌避(きひ)することはないという、今も繰り返されている話だ。私はこの「風評被害」の持つ意味が、5年間の経験でようやく分かってきたように思っている。

久しぶりに通りかかったいわきのイベント施設「アリオス」である。木々が冬支度(ふゆじたく)を急いでいた。いわき市役所に隣接する中央公園に、この建物はある。
 このアリオスが避難所だった2011年の5月、私はこのロビーに設置された大型テレビを、避難していたみなさんと一緒に見ていた。テレビは政府担当者と福島県の農家とのやりとりを映していた。

「地面が安全だ安全だって言うけどね、じゃあ、来年のために作付けをしてもいいのか!」

担当者が絶句した。私も頭を殴(なぐ)られたような気がした。いま米を作ることがどんな意味か分かっているのかという、絞(しぼ)り出すような声だった。そうか、作る側の現実はこんなところにあったのだと、うかつにもあの時初めて感じたのだった。
 そして2013年9月、避難指示を解除された広野町が、二年かかってようやく米の販売にこぎつける。

火力(発電所)をすぐそこにのぞむ、これも冬支度を急ぐ広野町二つ沼公園。
 ここにある販売所に、その9月、私が喜んで米を買いに行った時のことを、熱心な読者は覚えていると思う。

「私たちは食べないよ」

笑って言う販売所のおばちゃんたちは、だって孫がいるんだよと、ちっとも悪びれなかった。まあ、今は食べているはずなのだが。いつも聞こうと思っていて、この間も忘れた。
 柏での「語ろう会」で、今のことまで言うんだったなと後悔した。しかし、「カッコいい話ではない」ということも、私はこの場面で思い知った気がする。
 話は前後するが、2012年の2月、南相馬での「南相馬世界会議」でのことだ。これも覚えている方いると思う。パネラーの東大アイソトープ研究所長・児玉龍彦先生の話だ。会場に向かって、
「明るい話もあります。30秒で米一袋を検査する機械がこの秋に二本松でデビューします」
と報告したことである。先生は、この大スクープをメディアは黙殺するはずだ、と付け足した。画期的なこのフィルターを作ったのは『島津製作所』。ノーベル賞の田中さんの所属する会社だ。
 その通りだった。その年の秋、二本松での米の全袋検査が始まった。これは福島で大きなニュースになったが、首都圏ではまったく話題にならなかった。
 この時私たちは、先生と一緒に楽屋で弁当を食べたが、先生が弁当の米粒を口から飛ばしながら怒って言う姿を、昨日のことのように思い出す。
「文科省のやつらは、『そんな精密機械を作れるものなら作ってみろ』と平気で毒づくんだ」
 この二カ月後の2012年4月、文科省はそれまでの放射線量摂取(せっしゅ)基準を、

 水  : 「200」→「10」
一般食物:「500」→「100」

と、突然変更した(単位はいずれもベクレル)。
 つまり、それまでの機械では、「200」以下のものはすべて「不検出」となっていた。すでに青息吐息(あおいきといき)だった福島の農家/漁師(りょうし)は、

「オレたちに死ねというのか」
「それじゃあ今まで安全としていた『500』という数字は何だったのか」

と言って怒った。
 私は、原発事故と、現在も続いている汚染水や大気への拡散の中、不安は解消しないと思える。それを「風評被害」と言ってみたところで、私たちの不安は消えるものではない。
 今年の6月、政府は「居住制限区域」での営農を、「住民の要望があったから」と、一部容認した。このことを楢葉の渡部さんは、

「一体その米を誰が売るんだ。誰が買うんだ」
と言った。そして、
「無責任だよな」

と言って怒る渡部さんだった。

 「風評被害」とは、あまりに安易な言葉だと思える。

 3 「日本一の酒」
 
湯本の旅館「ふじ滝」さんから見える秋。ここから湯本の駅まで車なら10~20分。温泉街の裏道に、小さな酒屋がある。前も書いたと思うが、この「酒蔵さはこ」がいい。福島のお酒が揃(そろ)っている。主(あるじ)の解説は正直で分かりやすい。店の奥にはいつも静かに、これも高齢の奥さんが座っている。
 冷蔵のガラスケースの前で、今年の新酒を眺めながら、私は、

「今年の日本酒品評会で、いわきの『○兵○』(失礼かと思い○で隠しました)、金賞とったんですよねえ」
と言った。そして、
「よくとれたなあ」

と、言わずにいられないことを言った。「○兵○」が、並みいる福島の銘酒の中に入る酒とは思えないからだ。
 すると間を置かず、奥から「ホントにねえ」と奥さんが応じるのだ。主が笑って、

「確かに、他の酒と比べると、ワンランク落ちるよなあ」
と言ったあと、
「でも、福島の酒の評価は高いよねえ。福島の酒は日本一だ」

と言うのだった。
 小さな酒蔵(酒作りの「酒蔵」)が頑張れるなら、小さな酪農家/畜産家も頑張る道はないのだろうか。この話を酪農家・渡部さんに振ってみた。すると渡部さんは、「ブランドへの道」を延々と話してくれた。甘くはない道筋を、延々と話してくれた。


 ☆☆
「語ろう会」には、ジェイコムが取材に来てました。私たちが、味噌/醤油の支援の対象を、いわき沿岸の人たちにした理由が、
「双葉郡の人たちはお金をもらえるので」
と発言したこと、あの部分だけ取り上げたら、すんごい意地悪な発言になってしまう。ちゃんと編集してくれたかな、と気になってます。

 ☆☆
いやあ、面白かったですねえ『下町ロケット』。見る人が見れば「ブラック企業」になってしまう「佃工業」。かつての「本田技研」を思い出しました。
それにしても、阿部寛良かった、いいなあ。なんですけど、私にはあの役に最適と思う人がいるんですがねえ。

 ☆☆
パリで恐ろしい事件が起きました。
なんともコメントしようありません。一方私は、女子のスカーフにさえ厳格なフランスの世俗主義と比べ、イスラムに祈りを捧(ささ)げる設備を整えるレストランや会社が生まれる日本はいいなあ、と思ってます。

いわき勿来(なこそ)・植田の銀杏。もっと鮮やかに色づきます。

『戦後70年の幸福論』(下)  実戦教師塾通信四百六十九号

2015-11-13 11:23:36 | 戦後/昭和
 『戦後70年の幸福論』(下)
     ~父と母の歩んだ道(2)~

 ☆☆

前回のブログに多くの感想をいただいたので、終わりの「」にいくつか掲載しました。「戦後/昭和」のジャンルは読まないという人も、良かったらどうぞ。

 1『下町ロケット』も見ずに
 私の連載ものは、いくつか中断している。たまに、一体あれはどうなったのかと言ってくれる読者もいるのだが、忘れているわけではない。今回の記事は、年が明けた一月下旬の『戦後70年の幸福論』の後編である。
 先月の24日だが、この日はドラマ『下町ロケット』の第二回だった。でも我慢して、NHKの『新・映像の世紀』を見た。革命家だったのかスパイだったのかと、今もって語られるイギリスの陸軍将校ロレンスと、ロシアの革命家レーニンを特集していたからだ。ロレンスをもう一度検証するのは、今のアラブの謎解きとして絶好だったし、私はやっぱりレーニンだった。いまだ「レーニンから疑う」ことが出来ずにいる私の手だてになればと、『下町ロケット』、あきらめた。

 いや、これがひどいものだった。レーニンを「暗黒政治の創始者」とする根拠のひとつが、帝国ドイツが用意した「封印列車」に、レーニンが便乗して「ロシアの革命」に向かったというものだ。実際、このことを取り上げた当時の革命評議会が、レーニンをスパイだと追求し、一時的に追放している。
 しかし、これは当時、南下して領土拡張をねらった帝国ロシアと、これと敵対関係にあった帝国ドイツの、トルコ/バルカン半島を挟(はさ)んだ紛争が前提だ。ちなみに、つい先だってのプーチンロシアのクリミア半島をめぐる侵出/戦争は、私たちの記憶に新しい。この地域をめぐるロシアの牽制(けんせい)は、二度や三度ではない。こんなもの中学校レベルの歴史だ。ついでに書くと、トルコが日本に好意的な理由は、1905年の日露海戦で、日本がロシアに勝利したことに始まる。この番組でも言っていたと思う。
 あの時、帝国ロシア内部からほころびを拡げるのに最適のレーニンがいた。レーニンこそ、帝国ロシア内の混乱に拍車をかけることの出来る人物だった。そのこと抜きに、革命家が帝国ドイツを素通りすることなどあるものか。NHKなにやってんのということだ。
 そのあと、赤軍による処刑のことを取り上げていたが、多分「チェカ」(全ソ非常委員会)のことなんだろ。当時、この「世界史上初めての労働者国家」を、世界中の列強(れっきょう)、イギリス/アメリカ/フランス/トルコ/チェコなど(そしてもちろん日本も)がつぶしにかかっていた(ただしアメリカの立場は、微妙だった)。そしておまけに、ロシア革命後のソ連はまだまだ弱く、健在だった帝国ロシアの勢力との戦いに明け暮れていた。要するに「戦争中」だったのだ。私たちはその後のスターリンの暗黒時代を知っている。その目線から見れば、ナチスもソ連も同じに見える。しかし、帝政ニコライの時代から、人々は「パンをください」と懇願(こんがん)しては殺されていた。その数は数百万とも千万とも言われる。少なくともそのくらいの視点は必要なんだが、NHKさん、こんな安っぽいドキュメントを、ずいぶんな能書きでやってるのですね。加古隆のテーマ曲『パリは燃えているか』が泣きますよ。

 2 母の日記
 ドイツは、戦争から、
「ナチスのような過(あやま)ちを二度としない」
という反省を手にした。「戦犯はナチスであって、私たちとは違う」と言っているようにも見える。日本での戦争責任/戦後処理は、いまだ議論が尽くされたとは言えない。それで今も、日本では「戦後」なる表現が続くのだと思う。
 私たちが戦争世代から強く感じて来たのは、
「戦争は二度とごめんだ」
という気持ちだった。私たちの親たちが掲(かか)げるのは「反戦」ではなく、いつも「厭戦(えんせん)」だった。

 あと10日で母の誕生日である。その誕生日から二週間が過ぎると12月8日。太平洋戦争の火ぶたが切って落とされるのだ。

「ついにやって来た日米開戦 堪忍袋(かんにんぶくろ)の緒が切れた
今朝起きるとすぐ、ラジオの臨時ニュース
西太平洋に於いて、火蓋(ひぶた)は切れたのだ。今米軍と向かい合ってやって
いるのだ 一億国民の今こそ一致協力せねばならぬ秋だ
やるならやれ 飛行機なんか畏(おそ)れないぞ
支那事変どころではないのだ 本当に勝たねばならないこの戦(いくさ)!
聖上天皇には …… 略 ……
大宣勅(だいせんちょく)をいただき、国民みな、かたじけなき君が代の音とともに
いまさらのごとく日本に生まれた喜びを思ひ どうしてもやるどうしてもやる
と心にちかった」


去年、母の日記をパラリとめくったら、この1941年12月8日の日米開戦が出てきた。母のこの勢いに、私は思わず唖然とした。まさか自分が死んだ後、こんな形で世に出ようとは、母は思っていなかっただろう。母は怒るだろうか。いや、自分にこんな時があった、恥ずかしい時があったことはしかし、みんなも知っていた方がいい、と言うに違いない。
 ここで何度か書いたと思うが、

「戦争はみんな反対だった」
「軍部/軍人が怖かった」
「言いたいことが言える世の中ではなかった」

などという繰り言(くりごと)は、みんなでたらめだ。母の日記も、それを証明する理由のひとつと言っておく。仮に「戦争反対」が本当だとしても、

「いつから『反対』に転じたのか」

と語るべきだ。きっとその時はもう手遅れだった。

 母は、この日の日記の最後に、

「一日も早く平和、明るい日本が来るように ----」

と、曇る胸の内で結んでいる。ここで見せた元気は、あっと言う間に真っ黒い雲となって、母を覆(おお)い尽くした。二年後の10月21日、学徒出陣。20歳で「出陣出来る」ようになった(翌年は19歳まで下がった)。この明治神宮外苑のスタンドで、女子学生だった母たちは、学生を見送った。

「冷たい雨の日でね。誰も笑ってなかった。みんな泣いて見送ったんだよ」
この映像が流れると、母は必ずそう言って下を向くのだった。でも、日記のような高揚感が母にあったことは、ついぞ聞いたことはなかった。母のいうことはいつも、
「戦争は二度とごめんだ」
であった。


 ☆☆
前回の「風邪は治る」に、多くの感想をいただきました。その中からいくつか紹介します。
「子どもの心を読むって難しいですね。だけど先生の話を思い出してやっています」
とは、当日お邪魔した学校の先生。
「子供に書き込もうとするというくだりがありますが医療にたずさわる人間としてかなり共感できました。ただ中には書き込んであげることで上手くいくことがあるとも思っています」
というご質問。そうなんです。しっかり読みこんでからする、ということなんですよ。という返事を差し上げました。
「ストーカーの部分に『こんなにオマエのことを思ってるのに』というのが欲しかった」
という感想も。ずしりと重かったですねえ。実感こもってます。
「娘が小学生の頃、小さい事ですが学校で嫌な事があったと言うので、『嫌だという事をきちんと相手に言おう、だめなら先生に、それでもだめなら帰っておいで。お母さんがカタつけてあげるから。』と言いましたが(私は母にそんな事を言って欲しかったんですね)、私の出番はなく、よかったです。……私も今のこの図々しさをもって、苦しかった時期に1日くらい戻ってみたいです」
小中学校のある時期に苦しんだお母さんからの感想です。最後のひと言も良かったけど、私には( )内の言葉がとてもしみ入りました。
あと、ブログとは直接関係ないのですが、30年以上前の教え子のお母さん(つまり、私より年上です)が、youtubeの私を見て、
「(琴寄先生)前よりいい男になったね~」
と言っていたそうなんです。もういい加減ジジイなんですが、私の顔を見たことのない人も、良かったらどうぞ。山本哲士との対談です。二時間やってるんです。「youtube山本哲士」で出てきます。
その他、感想寄せてくださった方々、ありがとうございました。
            
           近所の公園の銀杏。左手に私愛用のチャリ。

 ☆☆
私の敬愛する茨城の先輩が、夫婦で丹精込めて作った柿を送ってくれました。感謝!です。
           

風邪は治る  実戦教師塾通信四百六十八号

2015-11-06 10:57:51 | 子ども/学校
 風邪は治(なお)る
     ~ またしても「暴走」し始めたいじめ対策へ向けて~


 1 風邪は治る

 過日、小学校で先生たちに話をする機会をいただいた。いくつかの事情が働いて、直前に話の内容を急きょ変更した。変更した冒頭のあとは、ずいぶんと舌を噛み、端折り(はしょり)まくった。しかし、この冒頭 だった、本日のあらまし「風邪は治る」は、
「すごく分かりやすかった」
と感想をいただいた。この「たとえ話」を大幅に補足しつつ報告しようと思う。

 先週は、文科省のいじめ調査結果がニュースを賑(にぎ)わした。千葉県は、多かった京都と宮城(愛知もかな)をも大きく上回って、驚くほどの数だった。しかし、読者も察しはついていると思うが、実はこの数字の6~7割は「軽微」なものである。たとえて言えば、「風邪」のようなものだ。この「風邪」でたとえた話。

 風邪は誰でもかかる。いいですか。誰でもかかるのです。
まず初めは、その「兆(きざ)し」だ。
○何か様子が変だ
○気のせいかも知れない
そして、
○大丈夫だろうと思っていつも通りに過ごす
○気にしながら過ごす
などと対応する。そして実際、それで治(おさ)まってしまうこともある。

やがて、頭が痛い/熱が出る/お腹が痛む等の病状が出る場合もある。本人は対応を迫られ、
○我慢しつつ誰かに伝えるかどうか迷う
○近くの人(親/先生/友達)に訴える
○やがて周囲は、休養や薬や医者という処方に動く
○「学校を休む」という選択をすることもある
こじらすことも、ぶり返す場合もある。そうなれば面倒なことになる。重篤(じゅうとく)な場合は、肺炎を併発して死に至ることもある。

しかし、ここからが大事だ。私たちはこういう繰り返しを通して、
「風邪は治るものだ」
という気持ちと体力を身につけてきた。学んだというより、身につけてきたのである。でも、身につくまで何度も「風邪をひいた」。そして段々、風邪をひいてもあわてず対処するようになった。ちなみに大人になってもやはり、風邪はひく。
 私たちは「無理」への反省を役に立てた。
○雑踏(ざっとう)の中ではやられる
○やられたと思ったら、普段の生活を断念する
○疲れていればやられる
○治ったと勘違いするとぶり返す
○なめてかかるとこじれる

こうした数々の教訓を、私たちは実に多くの経験を重ねることで手に入れていく。
○身体をあたためよう
○弱った身体に優しいものを
○この高い熱もいつかは冷める。今はやり過ごそう
そんな数々の手だてを獲得する。

そしてやがて、
「風邪は治る。恐れることはない」
という気持ちを手に入れる。そして、そんな自分の姿を見る親からは、
「ずいぶん大人になったね」
などと言われる。
 気をつけた方がいいのは、早めの治療もいいが、周囲がさっさと勝手にいじり回してはいけない。「まずはどういう状態か、見極めた方がいい」からだ。
 また、薬の処方もいいが、薬に頼る生活が続けば、子どもは「自分の身体(こと)」を知ることもなく、先と同じように、自分が不能化する。ついでに、こういったことも含めて、薬には「副作用」がある。
 大切なことは、私たちが「風邪」という病(やまい)に対して、
「簡単にみえる病が、実に複雑なしくみと原因を持っていることを学習してきた」
「数々の経験の中で、それらにまつわる困難さを克服してきた」
ことだ。
 風邪は誰でもかかる。そして、必ず風邪は治る。

 しかし、現状は非常に危うい。つまり今私たちは、
○風邪はひいてはいけない
○早期に発見し、治さないといけない
○そのためには全社会が取り組まないといけない
と言っているかのようだ。

「風邪はひかないにこしたことはない」というゆったり感を、「風邪はひいてはいけない」という強迫(「脅迫」ではない)的観念は、持っていない。
 ニュースを見ただろうか。文科省が出した「いじめの定義」を項目別に板書(黒板に書くこと)し、それにあてはまるかどうかという授業である。子どもたちが縦横に仕切られた項目を眺めながら、「これはいじめだと思う」とか何とか言ってる。まるで、算数の「表の見方」の授業をしているようだ。何をやってるんだ。こんなものにぬくもりなどあるものか。ただ単に教室が「監視カメラ」化するだけだ。
 たとえば「(からかい/暴言の)繰り返し」という項目だったら、
「まだやってるの?」
「またやってる」
という、「気がついた子」の「当たり前」のまなざしが大切なのだ。しかしこんな授業から、それはちっとも伝わって来ない。
 私たちへの「警戒レベル」は相当高い。

 2 「ストーカー」
「オレは今まで何をやっていたんだって思いました」
研修終了直後、こんな感想もいただいた。「ストーカー」の部分だ。今風な草食男子には縁のない姿なのかも知れない。しかし教師は、多くが「ストーカー」となる。念のため断るが、「多く」であって「全員」ではない。

 ストーカーの気持ちは、「彼女の気持ちが分からない/知りたい」というものを基盤としている。おっと、これってストーカーが男だと決めつけて書いてる。女のストーカーもありだけど、まあそれはいいですね。
 彼は思う。そしてついに、我慢しきれずに彼女に言う。
「キミの気持ちが分からない」
「一体どう思ってるんだい?」
「はっきり言ってくれないか」
「黙っていたら分からないよ!」
とうとう大きい声を出すのである。
 しかし、だ。実は彼自身も本当のところを分かっている。彼女から伝わってくるネガティブな景色を何とかできないか、いや、どうにかしないでおくものか、と思っている。彼女は、
「よく分からない」
「今は考えたい」
「今はそっとしておいて欲しい」
いや、もしかしたら、
「近寄らないで欲しい」
と、沈黙の中で雄弁に語っている。のである。
 その彼女の「言葉」に耐えられない時、彼は絶望のあまり、「次の道」に進んでしまう。まずいのである。ここでの確かな、あるいは正しい判断/選択は、
「今は距離を置く以外にない」
「しばらくはそっと見守ろう」
である。彼女は今、自分(他人)が入り込む余地がないのである。彼女の様子をうかがいながら、その距離を推し量り、次のチャンスを待つしかない。また、
「オレって、もしかして嫌われてる?」
と思ったら、自分の何がいけないのか/いけなかったのか、さらに距離を置いて考える以外にないのだ。
 私たちは「先生」なので、「彼女(生徒)をあきらめる」という選択肢がないのがつらいところである。そんな最悪な場合は、彼女とつかず離れずの距離を保つしかないのだ。そして、彼女の来年以降の幸せを願うしかない。寂しいことだが仕方がない。

 これらを称して私はいつも、教師が、
「子どもに『書き込もう』とする体質を持っている」
しかし、大切なことは、
「子どもを『読む』ことである」
と言っている。

 先生って大変だなと、私はいつも思うのである。
 先生方、ホントにお身体大切に。



 夕暮れの近い手賀沼。柳の向こうに見えるのは、真っ赤に枯れた蓮の帯です。

 ☆☆
何十年ぶりかで小学校の教室を見せてもらいました。整頓された机に学用品。壁に貼られた写真や習字の作品。朝自習では漢字や計算ドリルもやってるということでした。小学校の先生の事務量ってハンパないんですよねえ。懐かしかったです。

 ☆☆
本屋での民主主義テーマのフェアが批判されて中止、というニュース知ってますか。本屋が偏(かたよ)った売り方をしていいのか、という批判だったそうです。どうして「売れるからやってんだよ」ぐらい簡単な対処が出来ないんですかねえ。まじめっていうか、すぐに思想信条に走りたがるっていうか。「ぼくらの『商業主義』なんだぜ」ぐらいに言ってもいいのにね。

あと少しで見事に色づく、柏ふるさと公園の銀杏。

   これは柏から我孫子方面を眺めた手賀沼です。
 ☆☆
内村君やりましたね。森末に言わせると、この前人未到(ぜんじんみとう)の六連覇は「1000年に一度の記録」だそうです。「もう破られることはない」というより、はるかに気が利いた言い方ですね。ホントに内村君から元気をもらえます。
おめでとう、内村君!
私、今日も内村君のリーシャオペンの分解写真を眺めてます。