実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

センセイは見た!  実戦教師塾通信四百六十二号

2015-09-25 12:35:19 | 子ども/学校
 『センセイは見た!「教育改革」の正体』を読む
     ~肩の力を抜くことの難しさ~


 ☆☆
本来、国際軍は自分の国の法律にしばられません。しかし、海外の日本の自衛隊をしばってきたのが「憲法9条」です。今回の安保法案は、そのしばりをどれぐらい解くのか、まだ分かっていません。安保法案が通過して、メディアが南スーダン滞在中の自衛隊PKOについて報道を始めました。こういう具体的な場面を想定した議論も、国会会期中、少しはあったというのに、と地団駄踏んでみました。
それにしても、今回の安保反対運動の中で収穫と思えたのが石田純一。
「(不倫は文化ですが)戦争は文化じゃない!」
とは、男をあげましたね。

 ☆☆
二週間前にお知らせした、館山市教委の石井議員への謝罪要求について、市教委が会議で取り上げたそうです。
「傍聴人規則に違反しないので許可」された「考える会」メンバーの報告(『泥子のブログ』9,19号)によれば、当初には入っていなかった議題だそうです。ひとつの意見も出ないままに承認されたそうです。世間ではこういうのを事後承認と言ってます。
 会議ですが、面白いですよ。

「館山市議会議長への(石井議員謝罪要求)申し入れについては、規則に基(もと)づいて行ったが、会議を開くひまがなかったので、各委員と個別に協議しご理解いただき、教育長に委員長臨時代理として取り扱ってもらった」

これは「臨時代理」とやらが発行したもので、教育長ではなかったのか、と少し驚きました。また、委員会決議ではなかったというのも驚きです。ひとりひとりにあたった「個別の協議」を総合した結果だったというのです。
これが出たのは7日、月曜日です。まさか土曜か日曜に「個別の協議」がされたのでしょうか。その「協議」が、電話だったのかどうか、大いに興味がわくところであります。これらが「規則に基づいて行った」という。一体どんな「規則」なのでしょう。
「臨時代理」というこの人が、これらの「個別の協議」を行ったことになります。一体この人は誰? ミステリーです。ていうか、ふざけるなということです。


 1 岡崎勝先生
 名古屋の岡崎さんから本が贈られてきた。『センセイは見た!「教育改革」の正体』(青土社)である。
            
 岡崎さんを知らない方は少ないと思うが、念のために紹介。
 岡崎さんは、著書多数。また、雑誌『おそい・はやい・ひくい・たかい』の編集責任者でもある。テレビや新聞で教育相談をやっている。そして、多くの大学からの(教員への)お誘いにも、
「僕は別に……いいです」
と断っている。と思う。
 岡崎さんとは何度か一緒に本作りをした。また、岡崎さんから寄せられる、私の本への書評がいつも力強く、そのたびに元気づけられている。その岡崎さんの血液型が「A」か「O」かと、いつも私は考えた。岡崎さんはほんわかしたものを漂(ただよ)わすのだが、それで「O」だと思うと回し蹴りを食らう。考え抜いた場所から言葉を選んでくるのは、やはり「A」ゆえの資質だからだ、と思っている。

 2 「簡単」ではない「簡単」なこと
 岡崎さんが一般的な教師と違うのは、結論を、あるいは、方法を急がないことだ。つまり、

○そこにある事実がどのようなものか、現象として捉(とら)えようとする
○だから、それが「いい/悪い」という態度をとらない
○その時に、自(おの)ずから複数の方法が、選択肢として生まれる

のである。本の中の話(「6 いじめ問題における現場感覚」)で見てみよう。

「……『ゴミを拾ってよ』と近くにいる子どもに言ったら『なんで私なんですか?』と問い返された」

同僚の話である。岡崎さんはこう続ける。

「彼らはこう考えるのだ。『自分でゴミを落としておきながら、誰かに拾ってもらって、落とした子は得している』と。つまり、損得なのである」

学校的日常を過ごしてしまうものは、なかなかこう捉えられない。「いい」か「悪い」かで裁断する。つまり、「『いい』ことは、もともと『いい』」という頭なのである。

「いや、先生はゴミがあったらいけないと思うから言ったんだ」
「オマエはそう思わないか?」
「じゃあ、教室中、いや町中が、いやいや世界中がゴミだらけになってしまってもいいのかあ!」

思わずこめかみに青筋を立てたりする。子どもたちは、これらに対して、
「じゃ、先生が拾ったら」
と言っていたのは、昔の話だ。今は、
「そうですか」「別に」
と言うだけである。私たちは、いつの頃からか、子どもたちに頼みごとをする時、特定の○○君(さん)に頼まず、「誰か」と言って頼むようになった。頼めそうな「○○君(さん)」がいなくなったこともあるが、この特定された「○○君(さん)」に迷惑が及ぶことが起こるようになったからだ。そういう見極めは、以前にまして必要になっている。
 岡崎さんの態度は、これらの教師と同じ言葉/行為を生まない。子どもたちに見る「損得」を、「断罪すべき」ものとして見ずに、「現実の姿」として承認しているからだ。お間違いなく。「承認」であって「公認」ではない。私の言い方で言わせてもらうと、子どもたちに「書き込む」前に、子どもたちを「読もう」としているからだ。その子のいる場所が「損得」という抽象的な場所だとしたら、私たちには「その子だけ」の「具体的な場所」を提示することが問われたことになる。「なんで私なんですか?」に対しても、おそらくたくさん方法がある。

「あ、ゴメン(オマエそういう人だし)」
「頼む人、間違った。オレって無能だなあ」
「こいつインポ(ッシブル)なんで、誰かやってくんない?」

最後の方法は、この子と仲が悪くて、なおかつ力関係が拮抗(きっこう)している子ども/グループに向かって言わないといけない。もちろん本人がそばにいないと、意図(いと)する効果はない。この子があとで、壁でも叩(たた)いていたら成功である。この子は「損得」とは別な気分に支配されたからだ。
 岡崎さんが子どもたちに、こんな対応をするかどうかは別にして、

「大人と対等に理屈で反論出来ない子どもにとっては、交戦したら敗北なのである」
「(子どもは)教員に対して、受けいれないことによって『自立』している」
だから、
「理屈あるいは常識、または社会通念での『説得』を拒否する」(以上「3 静かにしてセンセイの話を聞きなさい!」より)

という子どもの姿をとらえてくれたら、今の子どもたちは助かる。そして、そうだったなと教員が思い返したら、もっと教員自身が楽になるはずだ。


 3 自分で考えて
「発達障害児が増えていると言っても、その子どもは昨日まで『一人の手のかかる子』にすぎなかったのではないだろうか」(7「俺のとは違うなぁ」)

的確かつ簡潔明瞭である。この言葉に、私たちは岡崎さんの子どもへの「愛」を感じるに違いない。しかし岡崎さんは、

「あえて、『いたちともぐら』労働から逃げずに、『愛』のない自由さで子どもたちとつきあう」(「1 眠れない夜…には…『愛国心』がよみがえる」)

んだそうだ。岡崎さんに、「O」ではない「A」を見るのはこのあたりである。だから、

「(PTA役員決めで苦労した時)どうせ……やるんなら、私の担任の時の方が楽しいですよ」(「いまどきの学校メモ⑩」

などと言う岡崎さんを真(ま)に受けて、まねしてはいけない。
ひどい目にあうぞ。


 ☆☆
シルバーウィーク、どうでした? 私は久しぶりに井の頭公園まで出向いて、秋の日差しを浴びてきました。又吉いませんでしたが、地元ばかりではない家族連れやグループが、ゆったりした時間を楽しんでいました。
ここを通り道にしているという別役実がもしかして、という気持ちもよぎりました。
            
             これは手賀沼ほとりの彼岸花です 

 ☆☆
今日から鈴鹿F1開幕です。今年は試練の年ですねえ。頑張れ、マクラーレンホンダ!
照の富士・鶴龍も頑張れ~!
      
              これも手賀沼ほとりの稲穂

柏市教委HP  実戦教師塾通信四百六十一号

2015-09-18 11:11:01 | 子ども/学校
 柏市教委HP
     ~岩手県矢巾町中学生自殺事件をめぐって~


 ☆☆
今日がどうなっても、これからです。安保フンサイ!

 ☆☆
本文に入る前に、常総市の大雨災害のことで少し書きたいです。火曜日に明らかになった「15人の無事」についてです。私は誰一人として「みんな無事で良かった」と言おうとしないことに驚きました。「捜索作業がみんな無駄だったということですね」「どうしてこんなに確認/発表に手間取るのか」等々。そして、見つかった方は「こっちは無事なのに」などと言う。唖然としました。そんなのは私だけなのでしょうか。東日本震災の時、無事なのに行方不明とされた人の数は膨大でした。その人たちは、避難所や知人の家にいました。その人たちが見つかった時、私たちは「良かった」と言い、見つけられた人たちは「心配かけました」と言った。災害規模の違いから来るのでしょうか、それとも地域差かまたは市長の人柄のせいなのでしょうか。
私たちは昔、夕焼けの空を見て、翌日のため鎌を研(と)いだり、月に輪がかかっていれば、雨具を用意しました。みんな自然と会話しながら生活していたのです。今、「正しい」情報はすべて「テレビや専門家がやることになっている」。今回の出来事は、そのもたれ合いが尋常なレベルでないことを示している。そして、ネット社会の「文句は言われる方が悪い」という現象だと思えました。

 ☆☆
話ついでに、気になってることをもうひとつ。大阪寝屋川の中学生殺人事件の犯人とされる山田容疑者、ホントに犯人なんでしょうか。この事件の犯人像に、私はまったく興味がありません。でも、警察が緊急逮捕するのは、「犯人が証拠を隠滅する恐れがある/逃亡する恐れがある」場合だということを忘れてはいけない。しかし、山田容疑者の周辺に、証拠がちっとも出て来ないんです。
この事件が、あの和歌山カレー事件のような展開にならないといいがと思っています。「林真須美は悪い人間である」ことと、「林真須美はカレー事件の犯人である」ことは別なのです。


 1 事件のその後
 岩手から、矢巾町中学の事件のその後が送られてきた。ありがたい。以下はすべて『岩手日報』の記事によっている。

「納得のいく人選になったと思う」
遺族(父親)の発言である。今月の1日、町教委と遺族の間で、第三者委員会の人選が合意に達した。弁護士や精神科医など6人で構成される。
 そして、その初会合が6日に行われた。調査状況はその都度遺族に報告される。どうだったのだろう。

 2 担任は頑張っていた
 さて、本題である。
 柏市教委が開設しているホームページを見ているだろうか。月に一度開催される定例会議が報告されている。私もたまに読むが、柏市民と言わず、皆さんも読んだ方がいい。以前も一度取り上げたことがあるが、今の柏教育長(河原健)がとても良い。こういう教育長は、これが初めてで最後ではないかと思っている。いや、全国広しと言えども、こういう教育長が一体何人いるのだろうか、とまで思っている。私はたまに庁舎までお邪魔するが、そんなわけで、思わず話し込んでしまうのである。
 7月の会議で、矢巾町中学のことが取り上げられていた。ここに書き抜いておく。教育長の勤勉さと誠実さを、まずは感じるはずだ。

 *教育委員というのは、学校関係者ばかりでなく、医者や民間人も入っている。学校内部のことをあまり知らない人もいる、と思って読んでほしい。

岩佐委員
その他としてひと言、ご質問をさせていただきたいと思います。……岩手県矢巾町の中学校で、生徒さんがいじめの結果として自殺をした……。この事件を受け止める時に、市における学校教育がどう配慮していくことが必要か……そこらあたりについて、お考えをお聞かせいただければと思っております。……あの学校では、生活記録ノートというのがあって……生徒が自分の心の内をある程度書いているわけです。……あの学校の先生は、子どもが訴えているにもかかわらずそれを本当に聞き取って、会話をして、それに対して手助けの手を差し伸べたとは思えないわけです。
いじめについてもっとも大事なことは……なにかちょっとした変化でも、それにサポートできるような言葉かけをやっていくことではないかと思います。……生活記録ノートが(柏で)導入されるとすれば、大きく活用できるのではないかと思っております。

教育長
岩手県の事件については、大変残念なことだったと思います。
メディアではさまざま報道されていますけれども、私は逆に、この担任の先生はかなり頑張っていたのではないかという受け取り方をしています。新聞の報道等では生活記録ノートへの自殺を予告するような書き込みに対して、「今度の研修旅行を楽しみにしようね、頑張ろうね」みたいな……答えをされているようなことを厳(きび)しく批判しているメディアもありました。複数の新聞や週刊誌などもたくさん書いてます……かなりの種類私は読んだのですけれども、担任はこの日、朝、生活記録ノートを受け取って……本人と朝のうちにさまざまな話をしているのですね。昼休みにも話をして、5時間目の空き時間にもその話のときに、今度は、来週の研修旅行をとても楽しみにしているんだと本人が言ったので……「じゃあ、頑張ろうね」という書き込みをしたというような報道をされているメディアもあるのです。……報道を見て、簡単に先生の批判をするのは、同じ教育の道を歩いてきた者としてできないなという感想を少し強く持ちます。
この子については……先生はしょっちゅうお話をしたり、席をわざと自分のそばに置いたり、いろいろな手だてをしているということが……報道されているのですけれども、結果としてこういうことになってしまうと、そういう努力がすべて無駄になってしまったなということです。
生活記録ノートについては……導入している学校はかなりあります。……子どもの状況を把握(はあく)したり、励ましたりするのに使っているということでございます。
いい点ももちろんあるのですけれども、気にかかる生徒ほどなかなか出さなかったり……ということもあります。先生が朝受け取って、放課後生徒が帰るまでにそれを返さなければならないということで、空き時間の1時間、2時間分……潰(つぶ)れます。
エネルギーをある方向に注(そそ)げば、別な方向のエネルギーが枯渇(こかつ)するような状況になりますから……全部の先生/担任にしてもらうというのは、ちょっと自分としてはちゅうちょはします。けれども各学校でさまざまな工夫をして、子どもの状況をしっかり把握したら、やはり必要最大限の努力をもって……働きかけをしなければと、この事件を教訓に自分としては強く思いました。

 どうだろうか。事件を丹念に追っている。そして、私が感心するのは、この教育長が、あえて一歩踏み込んだ発言をするところだ。普通だったら、

○こういうことはあってはいけない。私たちも他山の石としたい
○大変な事件とは思うが、その場の人間でない以上、無責任な発言は控(ひか)えたい

ぐらいの「ほぼノーコメント」か、亀のように手足を引っ込めた「守り」に入る。一歩間違えば集中砲火を浴びるからだ。子どもひとりが亡くなっているのである。そして「明日の研修旅行楽しみだね」なる能天気な担任を許すのか、と手ぐすねひいて待っている、巨万の「正義漢」がいるのだ。
 教育長は、
「先生方が働きやすい環境を作りたいと、いつも思ってるんだよ」
とよく言うのだが、私は、
「現場は覚悟を伴った、方法としてのアプローチを持たなくてはいけない」
というメッセージをいつも感じる。教育長自身に、現在、その覚悟があると思えるのである。

 この会議の中で疑問もある。問題早期発見のため、現在の学期に一回のアンケートを、略式のもので、二週間に一度やろうという、指導課長からの提案である。
①学校へ行きたくないと思うことがありますか
②時々からかわれたり、仲間外れにされていると思うことがありますか
まずこのふたつ、大体が「○」と思っていい。健康な、あるいは普通の子どもは、こう思っている。
③なんでも話せる友だちがいますか
これも大体が「×」と思った方がいい。「友だちがいない」と思う子がホントに多い。そして、項目はあとふたつあるが、どれも「子どもを見ていれば分かる」ことである。
 「取り組んでいる証拠」でしかないこのアンケートは、教育長言うところの「エネルギーの枯渇」へとつながる。教職員の新たな仕事なのだ。空き時間が、またしてもなくなる。


 ☆☆
仕事用机のZライトが、突然壊れました。思い返したら、なんと30年も使ってました。早々LEDのライトを買って、「これであと30年大丈夫」と言ったら、仲間に、「どっちが先にくたばるかね」と笑われました。

 ☆☆
白鵬まさかの連敗、嘉風の取組はいかにもおかしかった。そして休場。つらいんだろうなあ。でもせっかくの機会、ゆっくり休んで欲しいです。
      
      スーパーで駅弁フェアをする季節となりました。摩周の豚丼です。

「考える」会総会  実戦教師塾通信四百六十号

2015-09-11 12:07:36 | 子ども/学校
 「考える会」総会
     ~困難な課題~


 1 石井議員へ謝罪要求

 6日(日)、館山において「館山いじめ問題を考える会」総会が行われた。市議会で一貫してこのことを取り上げている石井議員の報告と、遺族からの提案、そして私のレクチャーという内容だった。
 まず、その後の館山事件の経過だが、あまりよろしくない。昨年9月に、市長がそれまでの態度を翻(ひるがえ)したかのような、突然の「第三者委員会の設置」の発表は、ここにも書いたし、ニュースでもご存じと思う。ここ一年、その「第三者委員」をどうするか議論されてきた。当初、市側は、遺族側が推薦する3人について「各種団体の推薦にはこだわらない」としていたのが、「団体推薦によらないといけない」と変化した。遺族の推薦する調査委員を、拒否に転じたのである。簡単に言えば「市側の方向に沿ってやってもらおうか」ということだ。市側がこんなに強気なのは、
「『第三者委員会の設置』という方向を認めたのはこっちだ」
という恩きせがましい気持ちがあるからだ。
「今までさんざん、市教委が迷惑をおかけいたまして」
などという、しおらしい気持ちなど微塵(みじん)もない。まあ、今日のところ、分析はこの辺にしとくが。
 嫌がらせと思うしかないことがたくさんあるのだが、ひとつだけ直近の例を挙げる。石井議員が、先週の3日に出した新聞折り込み(「館山市政かわら版」)について、今週の7日、市教委が抗議文を出している。謝罪せよというものだ。石井氏が出した「かわら版」の、
「(館山事件は)学校と教育委員会が『隠蔽(いんぺい)した事件です」
「私は……隠蔽を見て見ぬ振りをしながら『道徳教育』だの『いじめ撲滅』だのと、子どもたちに語る自信はありません」
という部分が良くないという。
「これらは、事実に基づかない一方的な解釈による」
「市教委は隠蔽について明らかに否定している」
と、市議会議長を通して謝罪要求を出したのである。市教委は「隠蔽を否定」すれば「隠蔽でなくなる」とでも思っているらしい。市教委は一貫して、公開の議論を拒(こば)んで来たというのに、だ。
 このことを知った私は、さっそく当の石井氏に連絡を取って、事実の詳細を確認した。
要点のみ報告する。まず、このことは、
「私にひと言も抗議することなく、いきなり市に対して要求」
だったという。謝罪要求に対して、石井氏は、
「当然のことですが、拒否しましたよ」
ということだった。昨日、石井氏は、館山市教育委員長(半澤美緒子)に対して、『(謝罪要求に対する)回答と公開議論の要望』を出した。以下にその回答書の一部、石井議員本人が施(ほどこ)した下線部を紹介する。

○記載内容の訂正および謝罪を行うつもりはありません
○半澤美緒子委員長に『公開の議論』を要望いたします
○半澤様は、中学2年生自殺事件のあった平成20年9月10日も教育委員長であり、その当時もその後の経緯も十分に理解されているはずだからです
○正々堂々と(反論を行っていただきたく思います)
(詳しくは「館山市議石井としひろ」のブログを参照することをお勧めします)

 館山事件の現状は、予断を許さない状態と私には思える。

 2 役立たずの「相手の気持ちを思いやる」
 私の話にする。演題は『学校的対応はなぜ繰り返されるのか』である。あらましは、
Ⅰ 学校に固有の<病理>(病にいたる道筋)
 ①学校は「危機を回避する」ことと「決断を回避する」ことを混同する。
   この話は2011年の石巻市大川小学校での出来事を紹介しながら話した。
 ②「善意」をバックに学校は「決断を回避する」
  この話を、私は自分の経験(柏・西原中学校)で話した(良かったら『さあ、ここが学校だ!』(三交社)を参照してください)。

Ⅱ やってしまいがちな過(あやま)ち
 群馬県桐生市の上村明子さんの事件の例をあげて話した。
Ⅲ 第三者委員会のあり方
 大川小学校/上村明子さん事件の第三者委員会のあり方を振り返りつつ、館山事件の今後の見通しについて話した。

 今回は「Ⅱ」に絞(しぼ)って書こうと思う。

「相手を思いやる気持ち」が陥(おちい)る過ちがある。
群馬県桐生市の事件で、裁判でも取り上げられた、
「オマエはこんな日だけ学校に来る。ずるい」
という児童/生徒の発言だ。やっとの思いで遠足の日に登校し、教室に入った明子さんに投げられた言葉だ。この二日後、明子さんは自殺する。
 裁判で、被告(市/学校側)の弁護人は、この「ずるい」発言をした児童/生徒が、遠足の数日前、明子さんをビデオレンタル店で見かけたことを取り上げ、
「いじめの発言ではない。事実を指摘しただけ」
という答弁をしている。
 この発言に対して、原告側からの明確な反論はなかったのだろう。調べても聞こえて来ないからだ。おそらくは一般的に、
「明子さんの心情を思いやれなかったのか」
という程度のものだったのだ。
 かくも「思いやり」とは、それが「あろうとなかろうと『本人の自由』」なのだ。それ以上は大人の一方的介入となる。さらによくないのは、「本人の意志を曲げて持った思いやり」には無理が来る。相手を「かわいそう」と思う、相手を「見下す」日が来る。いわく、
「せっかくこっちはあいさつしてんのに」
「大丈夫?って聞いてやった」等々。
 以前も書いたが、明子さんをレンタル店で見かけた生徒がかける言葉は、
「元気になったんだね。良かったね」
ではなかったのだ。遠足の日は、
「今日は学校に来れたね。良かったね」
ではなかったのだ。「ずるい」と言い放つ場所と違う場所を、私たちは探さないといけない。「探さないといけない」と思うぐらい、私たちも<学校化>されている。
「せっかく学校に来たのに、なんて『意地悪』を言うんだい」
と、誰も言えなかった。担任ももちろん、だ。じめじめした「意地の悪い」場所が正当化されている。私たちは別な場所があることを示さないといけない。いきなり、
「優しさはいくらあげても減らないよ」
という標語のような「思いやり」を説いて、相手の「意地悪」を指摘しないというのはいけない。
 この押しつけの「思いやり」が生むもう一つの過ちは、この「思いやり」を「みんなが持って当然」と考えるからだ。「そんな余裕のない子」もいるし、毎日を「つつがなく無事に過ごしている子」もいるのだ。「気がついた子」「心配している子」が声をかけるしかない。それが、
「みんな別々でいいんだよ」
の世界ではないのか。それなのに、世を挙げて、
「傍観者でいることは許されない」だの、
「大変な思いをしている子に気づけないのか」
だのと言う。またそう言って窮屈な世界を強化するのだ。なにが「みんな別々でいいんだよ」だよ。馬脚(ばきゃく)を現すとはこういうことだ。

とまあ、そんなべらんめえな調子で話したわけではない。しかし、会場の皆さんの表情に確かな手応(てごた)えを感じた私は、50分間熱くなったのだった。


 ☆☆
終わってから、何人かの皆さんと館山市内の海鮮食堂に行きました。いや美味しい! あら煮はどっさりと丼に大盛りで出てくるし。刺身も寿司も、変な言い方ですが、「魚の味がする」んです。地元名産「サンガ焼き」や「なめろう」も、やっぱり柏で食べるのとは、一味もふた味も違ってるんですよねえ。ビールの大ジョッキなんて、何年ぶりに飲んだかなあ。残念だったことは、この日、「考える会」会員が釣り上げた「石鯛」を、「さばけねえんじゃしょうがねえ」と、もらえなかったこと。
館山は、柏で電車を5分遅れると、一時間以上の遅れとなるんです。この日、そんな遅刻をした私でしたが、海はいいなあ、でした。

 ☆☆
大雨、みなさんいかがでしたか。私のお気に入りの「下妻ビアスパーク」やられました。結構なやられ方で残念、というか心配です。栃木の思川なんて、おとなしい川があんなに暴れてました。なんかやっぱり地球が変なのでしょうか。
      
         雨で収穫を迷っている手賀沼の田んぼ

「図書館にいらっしゃい」  実戦教師塾通信四百五十九号

2015-09-04 11:08:03 | 子ども/学校
 「図書館にいらっしゃい」
     ~必要な期間/空間~


 1 温(ぬく)もりのメッセージ

 もうすぐ二学期。学校が始まるのが死ぬほどつらい子は、学校を休んで
 図書館にいらっしゃい。マンガもライトノベルもあるよ。一日いても誰も何
 も言わないよ。9月から学校へ行くくらいなら死んじゃおうと思ったら、逃
 げ場所に図書館も思い出してね。

こんなに分かりやすくて素敵なメッセージが、鎌倉市の図書館職員(河合真帆さん)から出された。読者もご存じの通り、あっと言う間に10万ほどツィートされたという。何がいいのか。まず、ただ「休んでいい」のではなく、「図書館という場所があるよ」というところだ。自宅でないのがいい。行き場のない気持ちが、自宅で渦(うず)巻いている場合、どんなに救いとなるだろう。
 子どもが学校を休むのには、葛藤がある。それは切羽(せっぱ)詰まったケースばかりではない。子どもたちには、
「行かないと(まずい)」という気持ちと、
「行きたい」
という気分が、はっきりと別れているわけではない。しんとした授業中の教室や休み時間のざわめき、給食のにおいと校庭に響くセミの声。多くの子どもは、それらの全部が全部をいやなわけではない。私たちは、「行かないと/行きたい」子どもの気持ちを受け止めないといけない。苦しくても、子どもたちは、そこを通過しないと先に進めない。そんな時間のあとに、子どもたちはようやく結論めいたものを出すのである。いきなり、
「休んでいいんだよ」
と言われたところで、子どもは、自分が承認されていると思うわけではない。
 さて、このメッセージの一番いいところは、
「一日いても誰も何も言わないよ」
である。「ゆっくり休みなさい」と言うのだ。不登校になった子が、仮に家にひとりでいたとして、一体どうするのだろう。やはり夏休みにしたように、じっと汗ばんだ手を握りしめるのだろうか。あるいは、母親と二人で過ごすとしよう。その母親が「我が子が一体なぜ」と追い込まれているのだったら、その子は「休めない」。不登校の我が子のため、地下に実験室を作ったというトーマスエジソンの母親のようには、なかなか行くものではない。
 広い図書館で本に囲まれた子は、実はひとりではない。本棚の向こうには、ひとり、あるいは数名の大人がいるのである。でも、その大人たちは、
「何も言わない」
のだ。私は以前、このブログ上で「ぽっち」の大学生のことを書いた。それを思い出した。お昼を共にする仲間がいない「ぽっち」の学生は、しかし、みんなのいる学食や教室で食べる。外でひとり食べようとしない。その距離感/空間を、彼は選んでいる。彼は多分、「みんなといる/誰かといる」のである。人はそういう承認のされ方があるに違いない。いや、あってしかるべきだろう。
 図書館に来た子どもたちは、ぼんやり出来る。それを承認しますよ、というのだ。「休める」のである。疲れ切った心身に、これが必要な時間と空間であることは間違いない。なんて素敵なことだろうか。
 新聞は、これを後追いするように、
「学校つらければ休んで」(朝日)
なるメッセージを組んだが、これらは不登校の子ども本人には、とても伝わるものではない。まあ、保護者に対しては有効と思われるので、悪いことではないのだが。
 「どこで/どのように休む」のか、これほど明確な河合さんのメッセージに、私はいたく感動したのだった。

 2 露出する学校化社会
 さて、この鎌倉市の図書館のメッセージに、やっぱりというべきか、クレームが入っていることをご存じだろうか。想像がつくと思う。まず、
「死ぬほどつらい」「死んじゃおう」
というフレーズが、子どもたちに余計な刺激を与えるという。そして、ありがちな、
「不登校を助長する」
という批判である。
 そしてさらに気に入らないのが、
「誰も何も言わないよ」
の部分らしい。要するに、
「図書館に来た子を放っておくのか」
という批判だ。
 十件ほどらしいが、「あのメッセージを削除しなさい」という要請があったのである。
 「不登校を助長する」なる批判から始めよう。これは、学校に行かないことを、
「怠(なま)け」
だと思う考えから出てくる。
「苦しんだあげく、登校出来ない」
という結果になっているとは、夢にも思わないらしい。仮にそんな「怠け病」があったとしても、「怠け」を必要としている、その子の現実を否定していいものか。「三年寝太郎」は、三年間の居眠りを必要とした。
 この「不登校を助長する」なる意見の持ち主は、
「学校に行かぬなどとは不届き千万」
という、学校神話の中に漬かっていることに気づいていない。そして、これからも永遠に気づくことはないのだ。
 河合さんたちは、間違いなく、子どもたちが「ゆっくり/休める」ように最大の気づかいをすることは間違いない。それが「放っておいていいのか」と考える連中には、子どもが居眠りしたり、ぼんやりしているようにしか見えないとしても、だ。
 鎌倉の図書館関係者は、これらの「削除要請」を検討し、「削除しない」という結論を出す。そのバックには、
「図書館は利用者の秘密を守る」
という、図書館協会の「図書館宣言」があるんだとか。
 学校化社会は、こんな時必ず、
「なにかあったら誰が責任を取るのか」
という言葉を用意している。こんなもの、何もしない/出来ない連中の言い訳でしかない。そんな誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)を覚悟の、河合さんたちに頭が下がる。


 ☆☆
30日の安保法案反対のデモ、12万人というニュース。嬉しかったです。規模こそ昔をしのばせるものですが、何より若い母親の姿が多く見られるのが嬉しいです。
「今の学生は何をしてるんだい」
と、私の老いた母親が憤(いきどお)っていたのは、湾岸戦争(1991年)の時でした。母親が生きていたら、今のデモを見てなんと言うのでしょうか。嬉しいです。
さて、国会もそうですが、どうも議論の膠着(こうちゃく)を感じます。誰も言おうとしませんが、その湾岸戦争の時のことを私は思い出します。
あの時、日本は世界の中でも飛び抜けた1兆2000億円という追加支援を行いました。戦争終結後は、ペルシャ湾の機雷を取り除くために、自衛隊の掃海(そうかい)部隊を派遣しています。それでも世界から日本への風当たりは強かった。戦争終結を祝い、協力した国々に感謝するクウェートの祝賀会場に、日本の国旗は掲揚されませんでした。また、2003年にイラク戦争が開始された時、
「(湾岸戦争の時)日本は巨額の金を払って観客席から見ていただけだ。今度はマウンドまで降りて来い」
と言ったのは、当時の米国防副長官アーミテージです。
あの時に留保された結論は、そのままになっています。首相の安倍は、
「石油の恩恵を受けるだけではすまない」
と言えないでいます。また、反対する側も、
「世界を向こうに回しても、戦争を回避しないといけない」
という議論を設定しません。もちろん、チョー右派もネトウヨも、
「我々の血も流すべきだ」
とは言いません。もっぱら、
「やっつけろ」
と言うだけです。
集団的自衛権を語る時に、私たちはちゃんと歴史的基礎/記憶を持っているのです。
それにしても、SEALDSのデモだと思いますが、「WAR IS OVER」のプラカードが登場したのは、二カ月前ぐらいでしょうか。この「戦争は終わりだ」のあとには「If you want it.(もし君が望むなら)」と続きます。これらの言葉/歌詞が、ジョンレノンのものだということを、彼らは知っているのでしょうか。ジョンレノンは生きていた!
胸が熱くなりました。

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鎌倉市図書館へのエールため、『子どもの分水嶺』の続きは次回に回しました。こんな形での延期なら、いくらあってもいいですね。
二学期が始まりました。先月末日、パン屋さんの食事コーナーで、夏休みの宿題をやっている親子がいました。変わらない夏休みの最後の風景です。子どもたちの幸せを願いました。
それにしても雨にたたられる日が多くて、体育祭大変だ。もう明日です。
フレー! フレー! です。 

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9月1日、コンビニのサンクスから、ランボルギーニのミニカーが発売されました。雨の中を買いに行きました。中身の見えない、ずるい販売方法なんで、仕方なく三台買いましたが、一番欲しかった「ヴェネーノ」が当たったので良かった。
            
            
        世界で9台しか作らなかったというふざけたマシンなんです

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明後日、館山の「館山いじめを考える会」総会に行ってきます。男の子が亡くなって7年です。