実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

ベンツ 実戦教師塾通信九百十五号

2024-05-31 11:38:26 | 福島からの報告

ベンツ

 ~穏やかな時間~

 

 ☆初めに☆

いつも世話になってるホテルの浴衣が変わってました。フロントさんに、さらさらで気持ちいいですねと声を掛けたら、これでお客さんが外に出るわけではないし、なる議論もあったんですと嬉しそうでした。しっかりした生地。

もうすぐ夏を迎えるいわき駅前。週末を迎えた通りでは、高校生集団が立ったまま、おしゃべりしてました。

 1 「ワタナベですけど……」

 昼休みの時間帯だったので、楢葉・渡部さんの娘さんの職場に寄りました。入口付近だった担当が奥になったと聞いてたので、その辺りで似たシルエットを探しました。通りかかったスタッフに、渡部さんお願いしますと声を掛けました。すると、怪訝そうな顔をした「ワタナベさん」が現れました。違うワタナベさんで少し知り合いで、とあやふやなお願いをしました。娘さんの名前を言えばいいのですが、こんなじいさんがどうして?と思われるのもヤだなと思ったのです。待ってくださいと、なんとトイレに探しに行ってくれて……。やがて同じく不思議そうな顔をした「ワタナベさん」が出て来てしまいました。仕方なく、知り合いと言ってもお父さんの方でしてと言い訳するハメになりました。そしてようやく、この四月から二階のポストに移った娘さんに到達。この経過を渡部さん宅で報告。いや、ワタナベとかスズキとか、メジャーな名前には困ったもんだと、負け惜しみを言えば、ご夫婦大笑い。

 2 牛/肉の値段

 5月上旬に本宮で競りがあった。どうでしたか?と聞くと、結果を見せてくれた。福島のものだけで400頭。一時間で100頭を落とすという。楢葉の分、12~15頭を前日、競り場まで専用トラックで運ぶ。

そんなたくさん運ぶなんて無理に決まってると思ったが、牧場裏に停めてあったものを確認して分かった。デッカイこいつらと、高速ですれ違う。これだったら牛も安心して乗っているだろう。一頭300キロでも10頭で3トン。4トン積載トラックで充分。町のものだ。農林課の畜産部会が所有する。購入にあたって畜産農家の負担もあるが、町の支出が半分以上だ。車検も税金も町が負担する。出動一回毎に農家の供出金はあるが、これが畜産農家を育てる町ぐるみの取り組みだ。前日に運んだあと、そのままゆっくり飲んで当日を迎えたのはもう昔の話、だそうだ。

 競りの結果表では安いもので5万円!高いものが100万円、という値段の幅だ。父親・母親は血統で示すので、同じ名前が多い。前に聞いた通り、血統で値段が決まる。優秀な新種の開発も大学や農協の試験場で行われるが、血統には確実な保証がある。しかし、中には血統が良くても安いものがある。例えば、体重が軽ければそうなる。素人考えでは今から肥ればいいと思うが、同じ育成期間で体重が違うのだ。買い手には子牛の「その後」が見える。

「相手はプロだよ。ごまかせるもんじゃねえ」

和牛にいい風向きはないものか。円安で海外の旅行客は増えている。でも、みんな高級な和牛を食べてくれるもんじゃねえ。修学旅行先・京都の旅館で出される料理は、すき焼きが未だに主役だ。写真を見れば、肉のグレードは一目瞭然。国産牛だな、と渡部さんは笑った。グレードの高い和牛なんて出せるもんじゃねえと、また笑った。

 3 ベンツ

 カラスが減ったように思ったが、いやいっぱいいる、バーカ!って鳴いてやがるよ、かすみ網を張ったところで破られちまうという。イノシシはブタ熱のお陰か激減したが、アライグマはエサを漁っていく。こっちでまだクマは出てないが、浪江では出た。私は、お父さんじゃなく息子にライフルの資格を取らせたら?と提案する。

「オレが殺されっちまうわ」

その息子さんがトラクターを庭から出している。裏の畑の草場をうねるのだそうだ。給料はどう見積もっているのだろう。「出来高」⁉ 給料がゼロの月もあるって、私の開いた口がふさがらない。渡部さんの知り合いは自分の息子に、競り落としの10%を給料にしているという。やはり、月によって別々の給料になる。改めて、サラリーマンと全く違う世界を見ている。話の途中で親戚筋の若い子が、レクサスで顔を出した。実は、渡部牧場のトラクターは多くが外車だ。私の思い付きは続く。息子が、自家用も外車がいいベンツを欲しいって、そのうち言い出すぞ。

「買えるもんなら、買ってみろ」

渡部さんの言葉に、生業(なりわい)の姿が分かりやすく見える。

 

 ☆後記☆

立派な玉ねぎとお茶請けに出たさつま芋を、お土産にいただきました🍠

今年も山菜は豊作だったようで、いやぁ食った食ったと満足げにつぶやく姿がうらめしい。山菜はとにもかくにも旬が短いのです。来年は苦みの効いたフキノトウ・タラの芽にありつけますように🌞

 ☆☆

横浜の校長先生、判決が出ましたね。地裁は注目される事件を除いて、傍聴は抽選でなく先着順とは迂闊にも知りませんでした。確かに、注目される事件でなければ、行列も出来ないわけですからね。でも、動員された職員以外でも傍聴希望者って結構いたような気がします。そういう事件です。地裁も甘かった。「被害者の保護者が一般傍聴者に事件を知られたくない」のが、動員の理由だと言います。だまされちゃいますね。身内でやるな、ということです。裁判所に要請することです。それにしても、横浜・仙台・佐世保(旭川も)って学校関係の事件、多いですねぇ。

 ☆☆

知ってますか。今日、千葉・柏で叡王戦5番勝負の第4局が行われるんです。市内に開校した英国の名門ラグビースクールの記念イベントに関連してなのかな。藤井八冠、王手をかけられてます。さて、どうなるか⛊☖


柏・その後 実戦教師塾通信九百十四号

2024-05-24 11:17:37 | 子ども/学校

柏・その後

 ~重大事態の顛末~

 

 ☆初めに☆

いずれも先日のこと。地方版もありましたが、東京新聞は全国版(関東版と言えるのかもしれませんが)だったのが市立柏高校の問題。もうひとつが、同じく柏市の中学校で起こったこと。メディアの力では、すくい上げようのないものがあります。どちらもこのプログで、以前に取り上げましたが、私なりの検証と提案をして来たので報告します。

 1 「今度」はどうする?

 要点のみ振り返れば、2018年に「校舎から転落」として報道された市立柏高校の2年生の事件は、2022年に報告書が出される。後に自殺とされた事件の背景の一端は、過度の部活動が考えられると報告された。今回、ニュース上にこの問題が浮上したのは、国の出した部活動の指針を市立柏高校が守ってないと、遺族が文科省に申し入れをしたからだ。一日約2時間・休日3時間・週2日以上の休養日が、国のガイドラインである。現状を言えば、大会前という条件下で変更は可能だし、学校運営上の「調整」はある。そういうものとしてのガイドラインだ。国も恐らく、そこまでの介入をするつもりはないと思う。その結果なのだが、指針を「緩やかに」解釈して、違反ギリギリで部活をやってるところはある。やっぱりと思う学校の、やっばりと思える部活である。市立柏高校の部活動は、一日約3時間・休日6時間以内・休養日が平日は週1日、週末は月二日以上というもの。初めは本当にそんな短くする気があるのかと疑ったが、実際クールダウンしている。盆と正月しか休みがないような活動に、むしろ憧れて入学した生徒の「熱量をコントロールする責任」(遺族の言葉)を、学校は感じているように見える。そのくらいに市立柏高校の活動は、目に見えて少なくなった。それでも、報告書が残した課題に、まだ忘れてはならないものがある。

 勉強も部活もという「文武両道」なる校風を掲げている高校が、多くある。大体(すべてではない)の実態は、部活重視だ。例えば、テストの結果が思わしくないと、活動停止を命じられるからだ。成績が下位になることは許さんぞ、という程度を「学業道」とは言えまい。スポーツ推薦で入学したものが、怪我を負ったら退学がほぼ確実というのと似ている。市立柏高校の報告書は、もう少し実態を掘り下げている。英検を受けたい生徒(複数)の気持ちが、軽んじられたことだ。顧問が問い詰めたのだろうか。そうは思わない。生徒は精一杯の思いと不安で訴えている。休むのか?の確認程度で、生徒の気持ちはくじかれる。これらの不安・不満の多くが、本人からではなく保護者から、顧問にではなく担任に訴えられる。しかし、担任は顧問に訴える力を持たない。代表顧問は、校長より力を持っていた。様々なものが、マグマのように渦巻いていたのだ。これが生徒の死をきっかけにふき出したのである。これだけでも、生徒の死は無駄ではなかったと思う。繰り返せば「生徒の自主的活動」と括っていけないものを、学校・大人は自覚しないといけない。同じ年に起こった所沢の中学生「転落事故」で明らかになった、体力テストのため昼休み等の「自主練」も思い出しておきたい。一方、私が現場や行政で訴えていることは、これらと別なことだ。

 柏の教育行政を担う方の話だ。市立柏に着任した職員に報告書を読みなさいと口を酸っぱくして言っている。それくらいに過去の話になっている。もちろん生徒においておや、である。これに水を差すようだが、切実な「命」を巡る当時のことを、私は蒸し返している。今度あのようなことが(あってはいけないが)あったとして、生徒が倒れていた駐車場にいつも通り車を止めるのか否かは重要だ。「生徒が動揺する」という理由で、結局花も手向けず職員の車を止めたことの是非について結論を出さないといけない。そして、生徒が亡くなってすぐ(10日後)に控えていた大きなイベントの「実施の可否」を遺族に打診した混乱も、まだ検証されていない。柏市のいじめ対策は「教育委員会が主導する」方針がこの件で変わったのは、これらの積み重ねがあったからだと思っている。遺族は途中から代理人を通すようになった。この理由を「人権団体が介入した」と考える管理職がいるのは、残念としか言いようがない。

 2 切実な現実

 もうひとつも要点から振り返る。2015年、柏市の中学生が校舎から飛び降りる事件だ。瀕死の重傷で、起き上がることは出来るようになったが重い後遺症が残った。この時は教育委員会が主導した調査で、報告書は学校・職員の見守りと指導の不十分さを厳しく批判するものだった。怪我を負った元生徒と保護者が提訴に踏み切ったのは、2019年である。前に書いたと思うが、後遺症への補償はずっと続くわけではない。提訴したのは、補償の期限を迎えたからだ。当事者の無念と後の生活補償を考えてのことだ。学校の設置者である柏市との間では和解した。しかし、原告が訴えた元生徒4人との間で結論が出ず、先日(15日)、千葉地裁は「いじめの証拠がない(判決文の表記ではない)」として訴えを棄却した。柏市教委の報告書を読めば分かるが、関係した生徒の被害生徒に対する行動が執拗であったことは容易に推察される。また、当該学校にいなかった教職員でも、あの部活のあの顧問? そうだったら周りの教員のサポートがなければダメだろうと、生徒の非より大人の無能力に気づき嘆いたはずだ。そう考えると、裁判所の決定は「子どもの過ちに対する寛大」にも見えて来る。しかし、被害生徒側にすれば、それで済むはずがない。

 切ないのはそれだけではない。この報告書について責任を負っているのは、提出した設置者・柏市だ。しかし、報告書の公開に柏市(教委)は二の足を踏んだ。個人の特定やプライバシーに及ぶことを配慮してもなお、抵抗があったのである。時を経て報告書は公開される。「当局の隠蔽」と指弾もされたのだが、当事者の事情を知り考えてしまった。公開されることで、学校・大人たちの不手際と無能力があきらかになるのだ。それでも公開によって発生する悲しみがあった。それを乗り越えて公開に踏み切らせたのが何だったのか、そこまでは知らないでいる。

 

 ☆後記☆

先週の「うさぎとカメ」は、市内で運動会が多い中の開催でしたが、こんなに⁉と思うたくさんの人たちが来てくれました💛 50回を記念してのじゃんけん大会、盛り上がりましたよ✊✌✋ 小さい子は必ず後出しで、前にいるお姉さんと同じにするのが笑えました☺ 皆さん、ありがとう! あと50回よろしくお願いします👍

東京・檜原村の敬愛する先輩から、筍が届きました。こんな時期に?と、毎年思います。嬉しいです🌲

昨日から福島にいます。元気をもらって来ま~す🏃


足利・下 実戦教師塾通信九百十三号

2024-05-17 11:39:26 | 戦後/昭和

足利・下

 

 ☆銘菓/そば☆

「名物」に旨い物なし、でも「銘菓」となれば、裏打ちされる歴史がある。両毛の駅を降りて線路沿いに、片側二車線の道を歩くと、ほどなく細い道に通じるY字路に出る。もう、多くの足利市民は知らないと思うが、この細い道がかつての銀座通りだ。町の賑わいは太い道の方にあって、かつての銀座通りは多くがシャッターを下ろしていた。合流地点近くの踏切辺りに、足利銘菓『古印最中』はあったはずだが姿なく、踏切も隧道に代わっていた。仕方なく検索すると、だいぶ離れた広い道沿いに案内された。間口も奥行きも大きくなった店に入ると、そこに『古印最中』はあった。

前は助戸にあったはずですが、と店員さんに声をかける。こちらに引っ越して、今は姉妹店もあるんです、という答だった。確かに、少し離れたところ同じ屋号のお店があった。しかし、そこに『古印最中』はない。あったのは『古銭最中』だ。ネーミングに分店の事情が容易に想像できる。「こ〇んもなか」。〇の中に入るひと文字の違いに、お家騒動が見える。何より、姉妹店に『古印最中』は置いてないんだから。のれん分けではない、跡継ぎか販売戦略でもめたと考えるのが道理だろう。小豆をしっかり残した粒あんの程よい甘み、『古印最中』は懐かしい確かな味がした。

 もうひとつ。名店『一茶庵』。本店は足利だ。このそばを初めて食したのは大学時代。宇都宮の市内にうまいそば屋があると教えたのは、いつも面倒ばかりかけていた林学科の先輩。説明されたように、東武の賑わいから離れた閑静なエリアまで出向いた。言われてはいたが、お屋敷と思しき門構えと手入れされた庭にたじろぐ。敷石を歩いて玄関の高い敷居を越えて声を掛けると、奥から中居さん!が案内に現れる。大きい座敷に客は、私たった一人だった。学生の自分でも食べられる、極めて庶民的単価なのだ。ざるそばを頼んだと記憶している。それっぽっち頼むことにずい分躊躇したが、中居さんは静かだ。見えないずっと奥の厨房で、たった一人の客の一人前のそばのために大量の湯が使われ、冷たい水で引きしめられるのである。ソバの実を惜しげもなく磨いたのだろう、真っ白なそばが盛られて出てきた。若かったお腹には少なすぎるはずなのだが、濃厚な香りとのど元を過ぎる腰のあるソバが、お腹で満足感と共に膨らんでいく。千葉県で先生をするようになって間もないある日、柏駅のすぐそばに『一茶庵』を見つけた! 宇都宮と違い普通のそば店だったが、期待を胸に入店した。それから50年経つが、駅ビル内に移転した後も含め、行ったのは3回ほどしかない。宇都宮の味には遠かった。大昔のその時、足利の従弟に宇都宮の味を報告すると、本店にかなうわけがないよ、と笑ったのを覚えている。その本店に出向いたわけである。二回。一回目はお昼を少し回ったあたり。店の入り口に「売切れ」という貼り紙を見つけた。そばが無くなったら閉店、というやり方のようだ。次の日、開店間もない時間を見計らって出向く。しかし、店の入り口には信じられない長蛇の列。待つことしかやることのない行列が、こっちを見る。『新参者』(東野圭吾)のたい焼き屋を思い出す。並んでも「ここまで」と札止めされる、あれです。諦めました。**ネットで検索したら、宇都宮一茶庵は、大体記憶通りのようです。表の佇まいが少し違ってました。

 ☆足利学校/大日様☆

足利学校が地元から愛されていたのかどうか、はなはだ疑わしい。従弟から行こうと誘われたり、大人から行ってこいと促された記憶が全くない。整備されて公開されたのもつい最近のこと。一応行ってみました。

京都を思わせる空気も感じました。水戸の弘道館や岡山の閑谷学校と共に、日本教育の歴史的建造物だそうです。以上。って感じなんです。私には毎日が縁日のようだった「大日様」(正称『鑁阿寺(ばんなじ)』)が、大事。

参道の正面に入口。四方を巡るお濠には、錦鯉がのんびり泳いでます。ここは足利尊氏の屋敷跡です。ずい分、賑わいが変わったと思いました。ここは子どもたちの遊び場で、そばで大人も笑っている場所でした。地元の賑わいが凝縮した場所でした。奥の広場でも木のたもとでも、子どもがいっぱい遊んでいました。そんな気配もありますが、奥の広場は車のための駐車場となっていたし、何より、わざわざここまで来たという観光客の顔が歩いてました。境内の空気に浸るというより、観る・歩くという目的が満ちています。憩いの場というわけにもいかないようです。いや、市民や商店の努力が集まって、賑わいが守られて来たのでしょう。郷愁を押し付けてはなりません。確かに今は、鎌倉に来たという錯覚を覚えたりするのです。実際、一茶庵のそばを逃がした一日目、参道沿いのわらび餅をお昼にしましたが、出店は鎌倉のお店だった。食事処はみんな、しゃれたカフェスタイルの店が多く、熱い日差しの下で順番を待っています。二日目のお昼は、ブティックも兼ねたカフェでチキンサンドを食べました。そうか、ここって足利だったっけと思い直す、手の入った街並みでした。自分が好きだった足利ではない、と思うのがいけないのです。

 ☆菩提寺☆

実家から少し行ったところに、琴寄一族の菩提寺・龍泉寺があります。山門を入って右手に、手水処があります。水を汲んだ桶を持って転んで、情けなさに泣いて……泣いた場所。生きているうちは、もう来ないかもしれません。しっかり挨拶をしました。頑張ってます/身体に気を付けます/見守りください。

 胸を張ってお二人に会えるよう頑張ってます、と両親に誓いました。

 

 ☆後記☆

実家近くの踏切です。昔は、つい手前まで町の賑わいがあって、突然こんな景色になるのです。今もこうなのか、と思った次第です。吸い込まれそうにまっすぐの線路。少年時代に戻されそうです。

先日、爽やかな天気に誘われてバイクを転がしました。向かいからやって来たバイクの若者が手を挙げます。私も手を挙げます。一年間で数日しかないバイク日和。気持ちいいね~🏍

さて、明日は節目の50回「うさぎとカメ」です。いつも通り、明日用の記事をお届けします。✊✌✋もありますよ~

 


足利・上 実戦教師塾通信九百十二号

2024-05-10 11:39:42 | 戦後/昭和

足利・上

 

 ☆初めに☆

何年振りっていうか、叔父の法事か叔母の葬儀以来のはずで、十年以上ご無沙汰の足利詣です。私の両親が結婚したのが5月3日であることは前も言いましたが、ふたりの結婚を祝ういいタイミングだったと思います。

頂いたシャクヤクです。結婚記念日のその日、固かったつぼみは、見事に開花しました。花瓶というには目障りなジョッキ、握りの引き金を引くと泡立つプラスチック製品です。おめでとうございます。乾杯🍺

当然ちゃあ当然なのですが、超久しぶりの足利なわけで、諸行無常という感じになりました。

 ☆織姫神社☆

夏のような日差しが注ぐ中、懐かしの織姫神社に出向きました。すっかり観光地として有名を得た「あしかがフラワーパーク」には、もともと行くつもりはありません。それなりの知名度があった足利学校と織姫神社は、フラワーパークにドミノでブレイクしたようです。小さい頃です。長い階段を上ると、眼下に足利の町を見下ろす山頂が織姫神社でした。織物は縦糸と横糸で結ばれる男と女のようなもの。それで神社は織姫となった。明治以降、絹織物の人気と需要が急上昇し、群馬は富岡、栃木は足利で増産されます。足利が織姫神社を地の神として確信したのは間違いありません。父や琴寄一族が育った場所からは散歩コースで、早朝の織姫神社からは、低い木立の山頂から薄もやの中に町が一望出来ました。でも、山と川のある町という以外は、すっかり変貌の姿を見せている。静かだった境内では、多くの人々がお参りや撮影に余念がありません。駐車場には横浜や長野ナンバー等がぎっしり停まっている。

229段?の階段を登ってここに着きます。でも、朱塗りの本殿やら欄干やらは一度として見た記憶がない。あるいは、大昔の織姫神社は、本殿も境内もこじんまりとしていたかもしれません。さらに階段を登ったところにある、簡素な鳥居と祠を抱える大山神社まで登って、私たちが愛していた織姫神社はこれかと思った次第です。ホッとして町を見下ろすも、今は高く生い茂った木々の間からやっと見える町は不細工なビル群に埋もれていました。

そして何と言うか、神社の上をさらに登ったところに、レストランが建っていたわけであります。この罰当たりめが! 山頂の神社を人間の建物が追い越す非常識は、レーダー基地建設をした富士山頂しかしなかったゾ。……って、あてにはなりませんが。渡良瀬川と鉄橋(当時は茶色だったと記憶してます)が救いでした。

 ☆鉄橋☆

渡良瀬川と鉄橋を確かめに行きます。お世話になっている整体院の先生が、思いもかけず「足利は日本で一番いいところだ」と言ったのを聞いたのは、つい先日のこと。どうやら水と空気のことらしく、今はすっかりダメになったよ、という付け足しがあるのです。見るたびに感動していた鉄橋は、隣に新しい橋が出来るのか、周辺の景観の変化と共に無残な様相です。工事中を示すグロテスクなフェンスや足場の中から、昔の記憶をたどります。

父は長男で、目抜き通りにあった米屋を継ぐのが当たり前だったはずです。法学部を目指して東京に向かうことは、家を飛び出すことを意味していた。父と足利に来た記憶がないのは、そのせいだと思います。父は足利に顔向け出来なかった。記憶に間違いがなければ、私が初めて足利に来たのは、父の遺骨を菩提寺に納めた時です。父のとばっちりを食らって米屋を継いだのは、ふたりの弟(叔父)です。大学時代とその後の「活動」のお陰で、父の身体はボロボロだった。こんな生活をしていてはいけないと腰を上げ、父は法律事務所を立ち上げる。運転資金はあとで何とかなるという算段は、自らの死で崩れる。丸ごと残った借金はともかくも、請け負った仕事のキャンセルと事務所閉鎖手続きを真っ先にしないといけなかった。途方にくれる母。様々な種類の客が訪れる毎日。実務処理に明け暮れた叔父は遺骨を納める時も一緒で、常磐線から東武線で足利へ向かう。道行きは長く、6時間と記憶している。駅からタクシーという乗り物を、初めて経験します。黒いタクシーが、巨大な檻のような橋をいくつも潜り抜けるように渡る。鉄橋は当時、列車が通る川にしか架けられないものでした。列車から見える鉄橋は斜めの鉄骨だけですが、タクシーは前方の窓からもその姿を見せていた。そびえる巨大な鉄橋は、賑やかできらびやかだった足利の入口にありました。

 納骨を終えて帰るまで、緊張がなかったと言えばうそになるけれど、悲しみに沈むことはありませんでした。今は旧市街となって静かな界隈は当時、元気な品物や声で満ちていました。店の品物は行く先を知っており、それを待っている人がいる。これを「商い」というのか、と思って見ていた気がする。表には米や雑貨を買いに来る人たちが、裏からは炭や薪を運んで来る人たちが出入りしていた。その元気な声が、天気や商売以外の「情報」だった。私は道の向かいにある、たくましい木々に囲まれた神社で従弟たちと遊び、疲れて店に戻るとお盆におやつが載っている。店の前には舗装された!道があるだけではない、耳をすまさなくとも、すぐ近くを通る両毛線の列車(汽車でした)と踏切の警報音が聞こえる。道を少し入ると、白い土塀の壁が続く奥から、機織り機の轟音が聞こえていた。紛れもなく、ここは足利のど真ん中だった。父が死んで、明日をも知れぬ生活に入った私たちの前に、大きな町の不自由ない生活がありました。いや、親戚筋の優しかったことを強調すべきかもしれません。私には贅沢と発見の日々でした。

 

 ☆後記☆

すっかりブルーに、のめり込んでしまいました。お付き合いいただき、ありがとうございます。しょうがない、少年期は薄暗い地下道のようなもの(吉本隆明)ですから。またしても、バックナンバーの曲を思い出しちゃいます。

公園の落ち葉が舞って……/駅前のパン屋と踏切の閉まる音(『アイラブユー』)

学生時代、足利から寮に戻ると、店からもらう即席ラーメンを待ち受ける仲間(でないものまで)が、部屋に合掌してやって来ました。いつもふた箱(40個)もらって来るのですが、幾日ももたなかった。それでもみんな持って行くのは一個だったし、盗むようなことは絶対しなかった。確か、サッポロ一番(みそ味)でした🍜

次号は紀行文的内容になるよう、心掛けます。次号も⁈と言わないで。なんせ最後の詣かも知れないんだから✋

 ☆☆

なんか腹の立つことが続きました。ひとつは、東京15区で立候補した乙武氏への妨害活動。メディアの取り上げ方に異議があるのです。それと、水俣病患者と環境省との懇談。これも取り上げ方です。また、相も変わらぬ敬語の暴走。柏市立高校の問題も、ニュースにあがってました。言いたいことが山のようです。順を追って書こうと思ってます。

皆さ~ん、そろそろ五月病。寝る・食べるを、心しましょうね☺ 最後は我が家のツツジ、今年は満開🌺

藤井・オオタニ両氏から目が離せませ~ん☖⛊🥎👀


作法/マナー 実戦教師塾通信九百十一号

2024-05-03 11:21:48 | 子ども/学校

作法/マナー

 ~新しい行動規範~

 

 ☆初めに☆

世の中あげてGWとあって、人出の波間に見えるオーバーツーリズムとやらが、マナー違反を伝えています。実は、この「マナー」という言葉自体の使用頻度が、極めて低くなっていることに気が付いてますか。そして、死語に近いものが「作法」なんです。これらに変わって闊歩し始めているのが、ご存知「適切」であることに気が付くと思います。こうして三つ並べると、私たちの生活・習慣の激変ぶりに驚きます。子どもたちの生活の変化と一緒に考えます。

 1 「食事」の場所

 私たちの子ども食堂での話。配膳の時、大盛りか少なめか等を確認しながら、順番待ち親子の皿やお茶碗に盛る。楽しい時間。たまに、お母さんの横でスマホをやっている子どもがいる。これを「マナー違反」と言っていいだろう。母親は、スマホで手がふさがってる我が子の分まで受け取ろうとする。今はスマホじゃなくて受け取る時間だよ~と、子どもに言うことにしている。すると親は、子どもの方に顔を向けるか、ありがとうございますと言うのが大体である。子どもの方は、少し慌てるか恥ずかしそうにする。うるさそうな顔をする子はいない。私たちの子ども食堂は、ひとりひとり手渡しでやって来た。「そこのを持って行って下さい」「そこに置いといて下さい(片付けで)」とは言ってない。私たちの「食事の時間」は、これらの積み重ねで出来て来たと思っている。「無言の食事は気持ち悪かった」とは、対面形式で給食を復活した時の校長先生の言葉だ。「食事」は食べる行為だが、体内に食物を取り込むことではない。「胃ろう」**による食物摂取は食事ではない、という場所にも繋がる。

**胃ろう(胃に穴をあけて外部から直接食物を注入する、点滴に代わり登場した治療法)

 2 大人の問題

 昭和の半ばごろまで「作法」は健在だった。これが徐々に「マナー」へと変化する。大きな要因は高度成長である。ひとつに、身だしなみ(「作法」)と呼ばれる服装が、全く違う「おしゃれ」とやらに出会う。それまで私たちは「普通」の習慣を持っていた。「そんな恰好はおかしい」という指摘は、あくまで「みんなと違っている」という意味だった。ところがおしゃれは、「違い」がポリシーだ。それまで「作法」の対面にあったのは「不作法(みっともない)」である。しかし、それと「おしゃれ」は対立することとなる。「みっともなくない」んだから。「作法」は自分の居場所を探すことになる。今は消滅した校則で分かりやすいのがある。昭和の末まで、くつ下は白の無地、という決まりがあった。もちろん中学校での話。ワンポイント飾りのあるくつ下を履きたいという生徒と、無地白地&意地の学校との間には、常に緊張があった。しかし、ワンポイントの飾りが「みっともない(不作法な)」はずがない。結局、白い無地のくつ下が店頭から消えているのを学校が知るところで、この議論は終わる。この一件は学校の無知と頑なさ、そして「作法」の現在地を示した。以前は「常識」と言われたものが「杓子定規」と呼ばれるようになる。

 「弱い者いじめ」からは、「弱いもの」が消えた。今は「いじめ」だ。障害を持つ、あるいは貧困に苦しむ等の「弱い子どもたち」への「不作法」は、みっともないものだった。しかし、この「弱い者いじめ」という表現は、障害や貧困を抱える当事者を「弱者」と断定することでもあった。ハンディを背負うことと「弱い」ことは別なことだ、という当事者からの発言もあった。この表現から透けて見える加害者の姿は、エラそうであったわけでもある。ここでも「作法」は後方に退き、広い場所を称して「弱い者」の消滅となった。方図を失った社会は、同時にダイナミックな崩壊を始めていた。ファミコンの登場から始まったゲーム機はゲームボーイ(ポータブル)になって、子どもたちは閉じられていた子ども部屋から「解放」される。外だったらマナー違反をうるさく言う親もいない。実は親たちも穏やかではなかった。「金妻」が大ブレイクしたのが、ファミコン発売と同じ年であることは偶然ではない。妻たちも「家からの脱走」を始める。社会が大きく動揺していた。2016年には、真夜中によそ様の庭に入り込んで「ポケモン」を探す堂々のマナー違反を、いい大人がやってのける。肩身の狭い思いを、今度は「マナー」がすることになる。

そんなにゲームやる時間あるなら、塾行かせるお金ないから/10万課金しただと?親をなめてんのか/自分の身体をそんな簡単に見せて恥ずかしくないの?

どれも私が関わったケース。親が我が子に言ったという言葉だ。日本捨てたもんじゃない、と思ったものだった。子どもに泣きを入れるでない、また、犯罪に巻き込まれる、だのと脅したりするのでもない。どれも目の前にいる自分の子とストレートに向き合う言葉だった。しっかりした親でも子どもは何をしでかすか分からない、ということだろうか。それとも、様々な試練を通して親は親になる、ということだろうか。実は大人がどうするか、が問われている。

 

 ☆後記☆

「不適切」まで話が及びませんでした。次の機会にしたいと思います。それと、本文前半のくだりに少し断りを入れておきます。私たちの子ども食堂利用者に、スマホを所持している子どもがいることに危惧した方がいると思ってです。利用者・家族は「本当に困っているのか」という疑問を持つ方がいるかもしれないと思ったからです。ご存知の方も多いはずですが、スマホは今や、重要な「インフラ」です。学校からの連絡はもとより、子どもたちのグループ・仲間づくりに不可欠なツールともなっています。それで、スマホ購入や通信料のため、あらぬバイトに手を染める高校生もいるわけです。危険な誘惑に導く道具である一方、スマホは食料と同じく必需品です。

いやぁ、驚きのポルシェ356! いつもお世話になってる修理工場に入ったもの。運転してみる?と言われました。もちろんお断りしましたが、運転席には座りました。写ってんの、私です。そして、前もだけど、後ろのグラマラスなこと モンロー百人分、象のお尻です。写真では伝わらないのが残念🥵 向こうに私の愛車(チャリ)も🚴

5月となりました。今月の子ども食堂「うさぎとカメ」は、また定番のカレーです🍛 去年からカレーの時はフルーツヨーグルトと決めました。「美味しかったです」の言葉を楽しみに、頑張ります💛