実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

終戦 実戦教師塾通信七百十九号

2020-08-28 11:15:45 | 戦後/昭和

 終戦

 ~「学校教育のせい」を考える~

 

 ☆初めに☆

今年も終戦特集が多く組まれました。日本だけではないかも知れないけれど、こうして毎年、戦争を振り返ることは大切なことだと思うようになりました。戦争の話を次第に耳を傾け、目を凝(こ)らすようになって来た気がします。歳を重ねるごとに、「戦争は絶対に嫌だ」と言っていた母親の言葉が鮮明になります。私はずっと、「厭戦(えんせん)なんて簡単に引っくり返されるんだ」、「積極的な反戦でなきゃダメなんだ」と言ってきました。母は聞く耳をもたないそんな私を相手に、空襲の経験をいつもするのでした。結局、母の「厭戦」が力強く今も残っている。

同時に、自分の中にあった違和感は、歳を重ねるごとに確かなものになってもいるのです。「軍部の独走」とともに、「教育が戦争に導いた責任は重い」というものです。今年も一体どれだけそういう記事を見たことでしょう。歴史のずぶの素人だからこそ、歴史に弄(ろう)されてはいけないと思うのです。

 

 1 欧米の侵略

 日本は国内諸国制圧の経験はあったが、諸外国からの本格的侵略を幕末で初めて経験する。欧州は、産業革命と精巧な羅針盤を武器に、アジアへのダイナミックな侵出をはかる。この図式は少なくとも1945年の終戦まで変わらない。欧州にとって第二次世界大戦とは、欧州・アフリカ地域の覇権をめぐる争いとアジアの分割だった。満洲から南方への日本の転進とは、まさしく欧米列強によるアジアの占領や屈辱外交への「反攻」を理由としていた。満州事変以降の中国東北部(満洲)への移民は、困窮農家の次男三男坊排出と、新たな資源・土地を求めた全く一方的なものだった。それに対し、南方への転進は正当な口実に見える。掘っても掘っても出なかった満洲の地下資源、とりわけ石油が出なかったことが南方への転進の理由だとは、絶対に言わなかった。

 満洲とソ連の国境を「日ソ中立条約」(1941年4月)で安定させた三カ月後、日本軍はベトナム進駐を開始する。日中戦争から4年後だ。欧米による東南アジアの資源収奪を、日本は許さないというわけである。実は、それまで一定の静観をして来たアメリカが動き始めていた。今までも軍縮を迫るとか輸出を許可制にする等もあったが、1941年の8月、ついにアメリカは日本に対し鉄と石油を全面禁輸とする。これで日本は戦艦はおろか弾丸も作れない、作っても動かせないという状態になる(国内の「金属類回収令」は1943年)。実に真珠湾攻撃の4カ月前である。アメリカはとっくにフィリピンを手に入れており、近隣の港から中国へ湯水のように資源を運ぶという紛れもない侵略をしていた。

 これらは欧米列強のアジアでの利権争いに、日本が参加したということ以外の何ものでもない。そこに「東洋の正義」を重ねたとしても、だ。一方、国民の明日への不安とおびえは日に日に大きくなり、制裁を次々と繰り出すアメリカへの憎しみが膨(ふく)らんだ。「バスに乗り遅れるな」に始まり、「空に神風、地に肉弾」に続く国民の声は、意図的なものだったとばかりは言えない。「軍部の独走」「教育が国民を戦争に導いた」とは、戦争を我がこととしてとらえる姿勢としては、はなはだ心もとない。ファシズムに走ったのはナチスのせいだ、というドイツの精算の仕方に似ていると、私は思っている。それで今、ネオ・ナチが力を得ていると思っている。

 

 2 「学校」を形成するもの

 この「学校教育のせい」に関して思い出したことがある。20年以上前のことだが、それを書いて閉じる。

 教育雑誌の「普通の子どもが何故荒れるか」というテーマで、精神科医のなだいなだ、評論家の芹沢俊介、そして私の鼎談(ていだん)があった。今は故人となってしまったが、この時は十分に元気だったなだ氏は、TBS子ども電話相談室で楽しい回答をしており、著書も『くるいきちがい考』を始め分かりやすくもシャープなものを出していた。その何冊か読んでいた私としては、ソフトなスタートをしようとしていた。ところが、

「アンタらが、ピアス禁止だの制服だのと余計なことをする」

「学校が悪いんだ。さっさと規則を全部やめちまえ」

激しいスタートを切ってしまった。少し呆然とした私との間に芹沢氏が入って流れはいったん収まったが、結局この時のもつれは最後まで続いた。対して、ひとつに「一度ついた習慣というものが変わるのは、そう簡単なことではない」と、私は言ったように思っている。

 80年代まで続いた体罰や坊主頭の容認は、学校が一方的に強行したものではない。そこまでしての「子育て」を、地域社会が求めたからだ。「お願いします」と「責任もちます」の下に流れていたのは、「甘えは許さない」という理念だった。ここに「どうしてそこまでしないといけないのか」という波が、徐々に寄せてくる。そこで「学校は一体何をやってるのか」という流れが、ひと通りでなくなる。半分は「(子どもに)甘過ぎる」で、残りが「厳しすぎる」もので作られる。そのせめぎ合いを決定づけてきたものは、多くの場合、それまであった「習慣」だ。そしてこれが大事なのだが、その習慣を支えてきた「子どものために」という、実にいい加減な理念である。それで今も、体操シャツをパンツ(ズボン)に入れさせるような「指導」を、一生懸命&熱心にやる教師/学校が後をたたない。新しいところでは、男子生徒が日傘をさすのはいいか、みたいなことについて熱く議論するのである。

 繰り返すが、「学校は一体何をやってるのか」という問いかけは、ひと通りではない。教師にとっても生徒にとっても部活をブラックだと告発し続けてきた人たちは、このコロナ騒ぎの中で各種大会が無くなる辛さを訴えていた中高生にどう応えたら良かったのか、考えないといけない。

 

 ☆後記☆

先週土曜日の子ども食堂は「焼きそば」でした。好評でした。会食は無理だったのですが、調理室で作ったものを配りました。コロナ対策で、建物すべての窓と扉が開け放たれた中、焼きそばのいい匂いがセンター内に充満しました。母親と子どもの四人連れが、わざわざ再びやって来て、

「とても美味しかったです。どうしたらあんなに美味しくできるんだろう、家で作るのとは全然違う!」

と言いに来てくれたのに、私たちスタッフ一同感激しました。

 ☆☆

ホンダはF1に続きインディ500、佐藤琢磨やりましたね! 二度目の表彰台のセンター。「これでもうやり残したことはない」などと少しばかり気がかりなこと言ってますが、43歳からのF1復帰とか無理なのかな。

夏休み、少し遠慮がちに栃木へ。これは那須ロープウェイ。

茶臼岳です。

いつもひしめく行列で入ることが出来なかった『Penny Lane』。この日初めて入れました。二階のバルコニーから四人が迎えてくれました。


障害者の死(下) 実戦教師塾通信七百十八号

2020-08-21 11:23:57 | 思想/哲学

 障害者の死(下)

 ~「死を受け入れる」こと~

 

 ☆初めに☆

2016年に安楽死宣言をした脚本家の橋田壽賀子が、二年後に宣言を撤回したことはご存じですか。インタビューによれば、本当は撤回したくなかったが、一生懸命生きなさいとか、他の人までまきこむ気かと言われ、面倒になったということらしいです。橋田氏の話は、ちゃんと読んだ(聞いた)人は分かると思いますが、終末ホスピスのあり方に一石を投じたものです。死ぬと分かったらさっさと死んでしまいたい、というような乱暴なものではありません。

京都のALS患者の女性が、昨年11月に二人の医師の手によって死を遂げていたことが、この7月に明らかになりました。報道の流れはやはりよくない。医者の資格の有無を始め、罪に問われないような戦略や報酬やと、医者への弾劾(だんがい)に流れていると思うのは、私だけではないでしょう。確かにこうしておけば、批判されることのない安全な記事が作れます。「死への畏(おそ)れ」「生き続けることの意味」という困難な問いを、報道は回避したいのだと思われます。

 

 1 太宰治

 「受け入れがたい」とは何だろう。今まであったものが無くなったり、出来たことが出来なくなった時、私たちは初めうろたえ、次にその受け入れを悩み考える。でも、眼鏡や入れ歯という道筋は、私たちは悩むことなく受け入れる。これが「髪」は別物で、容易に「受け入れがたい」例としてうってつけなのが「髪」のようだ。まぁ、男に顕著な出来事かと思う。育毛発毛剤はともかく、まさに「受け入れがたい」意志の表明とは、カツラのことだ。

 今回の事件を、きっと多くの高齢者が他人事ではないと思っている。加齢に伴う不自由と、いつかは動けなくなるという厄介(やっかい)な必然をどう「受け入れたらいいか」という不安と、改めて向き合うこととなった。報道に不足している点は、この点だ。事件をALSに特化した内容は、やはり「みんな生きる自由がある」「誰でも安心して生きられる社会」とハンで押したようだ。4年目を迎えるやまゆり園事件と時が重なった、という理由にもよるのだろう。しかし大体が、生産性のない人はいなくてもいいとか、重度の疾患がある人は死んだ方が幸せとか思ってる人は多いとは思えない。

 ここでナンだが、太宰治を思い出した。学生相手の講演だった。「自分は何をやってもダメな人間で、もう作家ぐらいしかないと思った」と話したそうだ。するとある学生が、「じゃあボクも何をやってもダメだから、作家になれますね」と、発言した。太宰は激怒して言ったそうだ。

「ダメだったと言うくらい、君は死に物狂いになったことがあるのかね。ひとつでもいい、そう言えるくらい頑張ってみなさい」

一体太宰が何度自殺をはかったか忘れたが、他人の死についてあれこれ言う人たちをみていたら思い出した。ひとりの死や死に際というものは、簡単に他人を寄せつけない。しかし今回の事件は、人々に我がこととして引き寄せるものを持っていた。

 

 2 残すもの/残されるものの悩み

 冒頭の橋田壽賀子の話は、カテゴリーとしては「安楽死」ではなく、「尊厳死」に入る。2014年、アメリカの女性が医師の処方した薬を服用して亡くなった。このことが日本では「尊厳死」として報道され、日本尊厳死協会は対応に追われた。単語の訳として「尊厳死」もあり得たらしいが、原文を読めば「自殺幇助(ほうじょ)」も含まれており、日本で言う「安楽死」であったことが段々明らかになった。

 「尊厳死」は終末医療において、延命よりは苦痛を和らげ死に臨むという理念だ。そのため、点滴と人工呼吸は受け入れても、チューブによる栄養補給や胃ろう(胃に穴を開けて外から栄養分を供給する施術)、心臓マッサージを拒絶する等というものだ。私の母親がこの尊厳死協会に入っていることを知り、私自身入会したのは40代後半か50歳になってからと記憶している。協会の通信や講演会で、多くの声を聞いて来た。それで、人の死というのは簡単なことではないなと、いつも思って来た。今回の事件に対し、生産性のない人はいなくてもいいと大見得切る人はいなかったと思うが、いい気なものだと思える意見が「絶対に生きないといけない」というやつだ。私の尊厳死協会の経験で言えば、チューブや人工呼吸等の技術面より、本人の「どんな最期を望む」かという思いが大切と思っている。簡潔明瞭、と思えた協会医師の発言。

「本来、自然な死は安らかで穏やかなもの 食べないから死ぬんじゃないんだよ、『死に時』が来たから食べないんだよ。従って、腹は減らないし、のども渇かない

◇自然死の実態 …… いわゆる゛餓死゛

 ・飢餓……脳内モルヒネの分泌

 ・脱水……意識レベルの低下

 ・酸欠状態……脳内モルヒネの分泌

 ・炭酸ガスの貯留……麻酔作用

死は心地よいまどろみの中でのこの世からあの世への移行」

と続く。これは、栄養・水分・酸素の供給を不可欠なミッションとする医療行為、それを鏡に映しているかのようだ。尊厳死の形はひとつではない。この医師の考えをそのまま反映したような最期とは、ある家族が自宅で介護する父親の例がそうだった。家族が口元まで運ぶ食事を自分で食べられないと知った時、父親は口を固く閉ざしたという。家族は食事をこの日から止める。いや、何度か与えようと試みるが、この父親は二度と口を開かなかった。父親との前からの約束通り、点滴・酸素の吸入さえ行わなかった。本人と周囲の強い意志がなければ無理な話だ。

 医者も家族もそれぞれ悩み、決断は様々なのが現実だ。少し前の話だが、「神々の詩」など多くの名盤を創った音楽集団『姫神』のメンバーが亡くなった後、病院側にどうして治療を中断したのかという周囲からの抗議があった。しばらく後、本人が延命の治療を続ける意志を持っていたとは思えないという、これも周辺の気持ちが固まって収まったと記憶している。また、治療を続けますか、という医師の問いかけに「もう結構です」と言ったあとの家族は、自身を責め続けるとも言う。「本人がどんな最期を望むか」が大切と私も思うが、本人の認知があいまいになった時点でそれは揺れる。そして認知がしっかりしていたとして、本人が揺れないということもない。最期を迎えるとは、そんな様々な困難を抱えている。

 今回のALS患者事件は、これらの困難を私たちに突き付けた。どうすればいいのか、それは実は明瞭なのだ。前回の「匿名」問題も同じだ。

「『死』も『名前』も、その人にふさわしい、その人が望む形で行われること」

なのだ。結論は簡単だが、難しい数々が待っている。だからこそ、その場所を確かめ寄り添う気持ちが大切なのだ。ALS協会の、「(亡くなった)本人を責めることは出来ない」という公式見解は救いだった。

 

 ☆後記☆

読者の皆さんに老婆心ながら………。一度始めた治療、一度取り付けた器具を止めることは、病院/医者側には不可能と言っていいほどの現実があります。「する」「つける」にあたっては、よく話し合い考えようと思います。

☆☆

やりましたね、藤井君! 元気が出ます! 夕方のネットニュースの字幕に、オオッと声を上げてしまいました。相手の実力や気持ちをちっとも考えない、この喜びの感情はなんなのでしょうね。「それでも冷静で謙虚な」と讃えられる藤井君ですが、多分、将棋の奥深さの中にいるからでしょうか。まだまだなんだな、という言葉と表情が、これからも見られるといいですね。

熱き陽を入れるのは、柏キャンパス方面。

に安楽死なんてとんでもない。もっとちゃんと生きる希望を持ちなさい。一生懸命生きなさい」と叱られたり、「他の人にまで死を強制することになりかねない」と言われた

障害者の死(上) 実戦教師塾通信七百十七号

2020-08-14 11:11:06 | 思想/哲学

 障害者の死(上)

 ~「みんな同じ」を考えるために~

 

 ☆初めに☆

津久井やまゆり園の事件から4年を数える、まさにその時、ALSの患者が医者に薬を投与されて亡くなるという事件が起きました。ふたつの事件を前に、「障害者」のことを改めて考えようと思いました。

今回の報道にも感じたことです。はっきり言いますが、命の重さが「みんな同じ」という考えは、余りにも安直です。少なくとも私のような人間には、それでどんなことが伝わるというのか、とても心もとない。もう少し考えようよ、そんなことを思います。

障害者をめぐるふたつの事件、今回はやまゆり園の事件、次回はALSの患者の死について書きたいと思います。これらのことは過去に触れたことがあるので、少し重複する部分も出てきます。よろしくお願いします。

 

 1 控訴せず

 やまゆり園事件の植松聖被告は、弁護人による控訴の申し立てを自ら取り下げた。あと4カ月で事件から4年となる3月のことだ。どんな判決が出ようと控訴はしないという当初の主張を、植松は貫いたのだろうか。裁判後の言葉は、植松にとって「敗北宣言」と言えるものだ。

「主張はもう十分伝えた。二審、三審と続けるのは長過ぎる。間違っている」

一体何を植松は「間違っている」と言うのか。判決が間違っているというのなら、植松の主張は「伝わっていない」のだし、公判が「長過ぎる」というのだったら、そこには判決への是非が欠如(けつじょ)している。植松は、自分の正当性を自ら撤回している。植松の主張は強靱(きょうじん)なものではなかった、と言ってもいい。植松の優生思想は、内容も「装備」も余りに脆弱(ぜいじゃく)だったのだ。間違ってるのはアンタらの方だと、ついに言えなかった「孤立した思想家」だった。この点を私たちはしっかり押さえるべきではなかったか。そうすれば、

「人間みな平等/命の重さは同じ」「何をもって優れている/劣っているというのか」等々

という、本当は植松にとってさして興味のないことで時間をつぶすことはなかった。植松も私たちも、事件に向き合うチャンスはあったはずだ。津久井やまゆり園がそうだったかどうか、余りニュース上にのぼることはなかったが、

「まるで家畜にエサを流し込むような、施設での食事介護」

は、れいわ新選組の木村英子議員からの発言を始め、複数の告発があった。植松は初め、「熱意ある真面目」な勤務態度だったというが、次第に障害者は「不幸な存在」という考えに変わっていく。やまゆり園家族会の前会長である尾野剛史氏は、テレビに写った犯人を見て、それが植松だと分からなかったと言っている。別人に見えたのだ。きっと、「どうしてオレは、こんな不幸になってしまったんだ」と数年間、植松は思っていた。

 もうたくさんだ、とでも言いたげな植松の核心にあるのは、多くの挫折だと思って間違いない。オレも死ぬけど、オマエらも一緒だという姿には、酒鬼薔薇のような強い自己愛はない。

 

 2 匿名(とくめい)裁判

 謝罪も含め、植松は面会や取材に応じる中、いくつか注目すべき発言をしている。

「匿名ってのが、この裁判を象徴してるよな」

が、そのひとつだ。警察署の「実名報道」という方針をしりぞけて、遺族や被害者家族は事件直後から被害者はもちろん、その家族まで多くが匿名の報道を要求し取材も拒む。前記した尾野氏の発言(月刊誌『創』2017年9月号)は貴重だ。尾野氏の息子さんは、事件で大腸を切り裂かれる重症を負っている。

「あえてきつい言い方をさせていただくと………被害を受けた当人でなく、家族が差別されるから名前を出したくない。自分の保身で出さないんだと、僕はそう思ってます」

「僕が知っている範囲でも、子どもが津久井やまゆり園にいるのに一度も来ない人がいるんです。障害をもった人が亡くなった時に、家族がお墓にいれないという例もあるんです」

私は1980年に端を発した、戸塚ヨットスクール事件を思い出した。訓練中の中学生が死亡、あるいは訓練から逃げたい余り生徒が海に飛び込むという事件が相次いだ事件だ。一流のヨットマンを育てるという、自身も国際的ヨットマンだった戸塚が立ち上げた「スパルタ式」学校。

 裁判で被告は、「体罰は親の懲戒権の委託に基づく正当な行為だ」と主張。そして、この学校に我が子を通わせるも、全く見舞うことがなかった保護者は、「学校を全面的に信じていたから」と言った。

 さて、匿名報道の話に戻ります。報道の責任/存在価値は、当事者/現場に耳を傾けること以外にはない。かつて、そして今も「メディアスクラム」と呼ばれる、報道機関の無節操な取材姿勢が存在する。同時に個人情報の垂れ流しと悪質使用が進んだ社会の中で、この報道姿勢は奇妙な舵(かじ)取りをする。大きいものが「表現の自由」だ。報道規制が自主的であれ強制的であれ、そのことに対抗するのが「表現の自由」だという。待て。「それはおかしい」「それは真実ではない」と主張するのが、報道機関の責任ではなかったのか。「言いたいことは『自由に』言わせろ」とでもとられかねないのが「表現の自由」という代物(しろもの)であることを、私たちは嫌になるほど知らされている。

 政治家の賄賂(わいろ)でもタレントの不倫でも、衆目の集まりそうなところならどこにでも同じようにスクラムを組む集団は、たとえばポケモンGOで真夜中の民家に群がっていく連中の感覚と同じだ。嫌気のさした人々は、自分の存在を消す方法を選んだ。京都アニメーション事件の後、遺族が匿名を希望したのは、そんな理由だと思っている。

 当事者/現場の声に耳を傾ける、これが私たちに必要な姿勢だ。断じて「表現の自由」なんかではない。やまゆり園事件の「匿名報道」について、しっかり考えなければなりません。

 

 ☆後記☆

欅坂46、いきなりの注目です。日本の私たちが「応援してくれてありがとう」(周庭)と言われています。どんなことが出来るのか、何か出来ないかと考えますね。

 ☆☆

千葉県柏で、コロナに感染した中学生のことがニュースになりました。これが実に情けない話でした。対外練習試合があった日、その生徒はまだ陽性の判定は出ていなかった(翌日判明)。でもその日、周囲を遠ざけるような「その中学校の様子は明らかに変だった」と、試合にいた他の学校の顧問が言っているのです。その理由は、その後ニュースで知らされたそうです。どうして知らせてくれなかったのか、という他の学校の教員の抗議に、「これは小中体連の行事であって、学校行事ではない」とチンプンカンプンな答を言った校長がいたそうです。分かっていたら我が子を試合には行かせませんでしたという抗議が、保護者から殺到したそうですが、一体どう答えたのでしょうね。

ホンダやりましたね! 今季初V! これは私のコレクション。1966年のメキシコGP優勝マシンRA272。


2020読書特集 実戦教師塾通信七百十六号

2020-08-07 12:39:28 | 思想/哲学

 2020読書特集

 

 ☆初めに☆

千葉県柏市の子どもたち、ようやく明日から夏休み。帰省や旅行も決まっていない家庭が多いのでしょうか。まだ躊躇する声がたくさん聞こえて来ます。今年はその代わりというか、短い夏休みには宿題もなし。本を嫌いにするには効果抜群の読書感想文もないようで、良かった。

こちらは今年も読書特集を組みました。いつもの年より多い7作品を紹介します。

 

 『マッチ売りの少女』 別役実 二十一世紀戯曲文庫

別役実が今年の3月に亡くなって、まだこの作家の戯曲を読んでないことに気がついた。それならこれだろうと、慌てて読んだ。もちろんアンデルセンの作品をもじったものだ。別役は、人間や社会の「立ち入って欲しくない」ひだに分け入っていく。

舞台はクリスマスではなく、大晦日なのだ。しかし、裸足で歩く少女のエプロンのボケットにはたくさんのマッチが入っている。そして、ある暖かな家を訪ねる。ここまでは同じ。家の中に入った少女は「私、なぜ、あんなことをしたんでしょう」と話し始める。

「あんなことをどんなふうにして一体考えついたんでしょう。………七つの子があんなことを思い付くでしょうか」

「あんなこと」を教えたのは、自分の父親以外には考えられないと、少女は言う。「あんなこと」とは、「売ったマッチを一本すって、それが消えるまでの間、その子はその貧しいスカートを持ち上げて見せていた」ことである。老夫婦の前で、少女は二人を「お父さん」「お母さん」と呼ぶことで、物語はひとつの山を迎える。ラストは原作と同じだ。

「新しい年の朝が、小さななきがらの上にのぼりました。そのなきがらは、ほとんどもえつくしたひとたばのマッチをもっておりました。人々は云いました。この子はあたたまろうとしたんだね………。そうです、この子は、とても寒かったのです」

 

 『<いじめ>考』 別役実/芹沢俊介/山崎哲 春秋社

別役実に言及したからには、古い(1995年)けれど、この本をあげないわけには行かない。四半世紀の時を越えて、少しばかり古くなった部分もあるけれど、三人の優れた評者がある意味じたばたしながらの議論は、誠実で中味のあるものだ。とりわけ別役の考察が深い。わずか5頁の氏による、おそらくはこの書を仕上げる段階で書かれた「序」に、それは凝縮されている。

「なぜ『いじめ』の被害者は………自殺という手段を選択する」のか、そして「なぜ『いじめ』の被害者は………当事者を告発しようとしない」のか、と別役は投げかける。それは自殺が、

「誰が誰に何をしたか」

を揺るぎのないものにするからだ、揺るぎのないものになるということは「修正が拒絶される」ということだ、だからこそ「そこにまきこまれた当事者は………その実情を知的に解読して見るべき」だと、別役は言う。誤解してはならない。これは、文科省が考えた「『いじめ』の事実はいじめられた側が判断する」ような思考停止の類ではない。解読は「知的」に、つまり良く考えないといけないと言っている。ここには「いじめた側が悪い」ところに留まることなく、そうする子どもたちに「新たな、より親密な対人関係を築こうという積極性」はないのか、という問いかけがある。こんなことを言って通じる教師-大人は、全国に何人もいない。「悪戦苦闘すること」が唯一の道だ、と考える私たちを「いじめを容認放置する」という勘違いと反論は、これからも続くに違いない。しかしこの書は、そんな「悪戦苦闘する」大人たちを応援/激励している。

 

 『「言葉」が暴走する時代の処世術』 山極寿一/太田光 集英社新書

爆笑問題の太田は「まえがき」で、言わずと知れたグレタさんの演説、

「あなた方は、私たち若者に希望を見いだそうと集まっています。よく、そんなことが言えますね。あなた方は、その空虚なことばで私の子ども時代の夢を奪いました」

を引き合いにだす。もちろんこれに反対ではない。しかし太田は、自分の多感な時期を思い起こしつつ、大人への憎悪よりも「怒りの半分は自分に向いて」いたと述懐する。太田の真面目さは、グレタさんへの言い訳めいた言葉に顕著だ。

応じるのが京都大学総長で、霊長類学者の山極。氏は「生身の人間同士の付き合いを前提にした『古い』考え方」は、これからどうでもよくなる、「自分の代理となるアバターを活躍させ………情報操作をしていればいい」、それに「生きがいを感じ」れば「ひきこもりという概念そのものがなくなる」と始める。

この発言に対する違和感を率直に伝える太田は、いま多くの議論が「勝ち負け」にこだわったものになっていると、出口を見いだそうとする。音や間も言葉である、和服の自由不自由、若者の立ち位置などを通過して、着地点は静かだった。ゴリラは戦わない、勝ちに行かないが絶対負けないと背中が語る、周囲が頼り信頼する白い背中はシルバーバックと呼ばれる。これが『「言葉」が暴走する時代の処世術』だった。

 

 『子どもたちの階級闘争』 ブレイディみかこ みすず書房

子どもがケガして出血しないかと待っている虐待が趣味の園長の保育園で、子どもたちがケガをした。その時あなたはどうします?的に始まるこの本は、「現場の目線」で貫かれている。一行目の「わたしは保育士である」がそうだ。

初期のビートルズを「下品」だ、あいつらの表現は英国にはストレート過ぎるという紳士たちの批判を思い出した。本当は違っていたことが、この本を読んで分かった。髪形や服装よりも、出身階級を示す「話し方/語彙(ごい)/発音」が問題だったようだ。「ソーシャルレイシズム」と呼ばれるこの差別は、たとえばそんな発音をする保育士や親に対する、保護者の露骨な態度に現れる。

イギリスの裕福な家庭は、私立に子どもをやる。中流の家庭は、評判のいい公立に通わせるため、その近くに家を購入する。貧困な家庭はその地域から追い出されるか、肩身の狭い思いで残り続ける。いびつな地域社会には移民の習慣や宗教までからんで、白人と移民との、また階層の違う白人同士の罵(ののし)りがこだまする。そこに子どもたちのうんちやおしっこや、暴力や放置で育った子どもたちが参加する。しょうもない子どもとのやりとりで、ついに吹き出した筆者の言葉を私は好きだ。

「こんな風に笑いながらやっていけばいいのだ。辛さと笑いは案外同じ場所から表出してくるものだから」

「分裂した英国社会の分析は学者や評論家やジャーナリストに任せておこう。地べたのわたしたちの仕事は、この分断を少しずつ、一ミリずつでも埋めていくことだ」とは「現場の言葉」だ。

 

 『バビロン行きの夜行列車』 レイ・ブラッドベリ ハルキ文庫

作品紹介の前に、この本の訳者「金原瑞人」に触れたい。読者もご存じかもしれないが、この人は金原ひとみのお父さんだ。芥川賞受賞作『蛇にピアス』を読んで分かる通り、少なくともこの当時の金原ひとみは、生と死の両方に親近感を持っていた。このブラッドベリの作品にも、同じく「生と死への親近感」を感じるのは私だけではないだろう。この作家を知ったのは、国語の教科書だった。衝撃だった。さわやかな清々しい空気の中に、暗いよどんだ明日が横たわっていた。教科書を編集する人たちに、感謝とも敬愛ともつかない気持ちになることがある。この時もそうだった。

21個の短編小説集である。どれもいいのだが、私は『いとしのサリー』がとりわけ気に入っている。バーのピアノから懐かしい曲が流れる。「サリーはどうしているだろう 僕の恋人」「どこにいこうと………ほかにだれもいないなら ぼくのところに帰しておくれ」 このあと、物語は意外な方向に進む。そしてラスト。

「ばかやろう、と自分につぶやく。これだから、恋をしてはいつもしくじるんだ」

取り返しのつかない後悔の気持ちはしかし、やり直そうという破滅の道を拒絶してもいた。

 

 『♯スマホの奴隷をやめたくて』 忍足みかん 文芸社

この忍足(おしだり)さん、今はガラケーからスマホに戻ったかも知れない。でもそれはそれ。それはガラケーにしたことが「自分にとって決意の現れ」であり、そうすることで「デジタルデトックスが上手くいった」からだ。

23歳が今どきの若者というカテゴリーに入るかどうか知らないが、このスマホの「依存」現象をたどる姿は、たまらなくリアルでかつ、世代を越えた実感のようでもあった。小学校から大学まで同じ友だちという「春さん」との会話。

「ここ来てから何回SNS更新してるの? 教えてみ」

「え? えーっと? 乗り物に乗った数と食べ物を食べた数じゃないかな」

「待って、待って。相当乗ったし、お昼食べて、チュロス食べて、アイス食べて………」

「あと入口の所と、門でしょ………あと駅前でしょ、あと着ぐるみのキャラクターでしょ」

「いちいち載せてるの?」

いたいた。鎌倉にも。神社入口でじっと下向いてスマホとにらめっこしてた黒いTシャツ女の人。その人、境内のベンチでも、おみくじ売り場でも、同じ格好で下向いてた。忍足さんは、「3時間並んで撮ったパンケーキの写真に゛いいね!゛がひと桁しかつかず」「既読がついているのに返事が来ない」ことに、次第に「けだもの」になっていった。

これは、スマホの奴隷から解放されるための本ではない。どのようにしてスマホの奴隷になっていくのか、そして奴隷とはどういう状態を指すのかということを知るのに、うってつけの本だ。面白い。

 

 『ノモンハン戦争』 田中克彦 岩波新書

上記した6冊で特集は終わるはずだった。しかし、新聞紙上に辻政信の『ノモンハン秘史』の広告を見つけ、そう行かなくなった。まだ読んでないが、本当はソ連(現ロシア)は「惨敗を喫(きっ)していた」等のうたい文句を見つけ、そう行かなくなった。私はソ連側につくゾという話ではないゾ。満洲を語る上で、いくつか大切なことを指摘しておきたい。

稀有(けう)の言語学者である筆者の書は、2009年に出された。

「ノモンハン事件を話題にする人の中には、『本当は日本側が勝っていた』とか………自らをなぐさめるような記事が、いまだに新聞や雑誌をにぎわせている」

まさに今回の広告がそうだ。日本・満州国軍がソ連・蒙古(モンゴル)軍と戦う戦争が、ノモンハン戦争である。断るが、満州国が日本の傀儡(かいらい)なら、この時蒙古はソ連の傀儡だった。さて、歴史に禁じ手の「たら/れば」を、筆者は「この戦争で日本が勝っていたら」と設定して見せる。すると、日本の領土だったモンゴルは戦後、中国の手に渡っていたという間違いない事実が浮上する。1万7千人あまりの死傷者(あくまで公称)を出して、あやうく中国にモンゴルを提供するところだったのだ。

途中までモンゴルは、ソ連から相対的自立する「モンゴル人民共和国」を名乗る。これがソ連崩壊に伴い、ついに「モンゴル国」となる。これこそモンゴルの悲願であったことを、本書は示す。なるほど民族というものは、そして民族の分断というものはこんな風に進むのか、と思える書だ。

 

 ☆後記☆

あっつ~いですねえ。でも、今年も(寝るとき以外)エアコン使ってません。独居老人の熱中症、他人事ではないんだゾと、言い聞かせてはいます。そんなことより、ビールがひたすら美味い。

そうだ、先週の子ども食堂ですが、40人以上の子どもたちや親子連れが来て、お弁当美味しそうと言って、持って行ってくれました。よかった。

 我が家のむくげです。かわいいので再び。

日曜は東京ですが、マスクを忘れずに、と念を押されました。