実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

浜通りの台風 実戦教師塾通信六百七十五号

2019-10-25 11:23:11 | 福島からの報告
 浜通りの台風
   ~断水のさなか~


 ☆初めに☆
いつも宿泊するホテルから「断水のため、シャワーが使えませんが」という打診の電話をいただきました。どうやら伝えられるニュースをなめていたようです。
 ☆ ☆
いわき四倉の干物工場「ニイダヤ」に連絡してみると、やはり断水で製造が出来ないといいます。在庫を売ってしのいでいるという。停電が重なったら品物もダメになっていたはずです。不幸中の幸いと言っていいのでしょうか。
今回の福島行は、お見舞いとなります。

 ☆いわきで☆
かく言う千葉県柏も、我孫子から利根川を抜ける道があちこち通行止めになっての出発なのです。
福島に着くと、この日ちょうど給水が始まったという。大丈夫ですと言うホテルはフロントのお姉さんが、笑っていました。ロビーにはまだ「トイレはこれで流してください」と書かれた大型のタンクが置かれていて、そばにバケツがたくさん重なっていました。
いくつかの家にお見舞いに行きました。被害のひどいところの見当はつくのですが、見るために行くものではありません。途中で出くわしたところを写真に収めました。

こんなに秋いっぱいの装(よそお)いのそばに、こんなところもあるのです。

ここは夏井川下流ですが、来る時に見た水戸北インターの「下界」が、土色にまみれていたのを思い出しました。
家屋の写真は遠慮しました。東日本大震災の時、私は初めの二週間、申し訳ない気持ちで携帯のカメラを使えませんでした。でも同じボランティアの若者が「これを報告しないといけない」と住民の方にことわりつつバシャバシャ撮っているのを見て、私もそうするようになりました。やっぱりもっと早くから撮るべきだったと、今も思います。でも、今回は撮りません。ニュース以上のものを伝えられない気がするからです。

 ☆考えさせられる☆
せっかくですので、ドラッグストアで買って行った水を配りました。久しぶりに会った人たちもいて、長くおしゃべりをしたのです。
今回いわきの川は、河口より市街地に水をあふれさせるという異例の状況でした。私の知っている方の地区を、何度かニュースが伝えたのが耳に止まっていました。行って良かった。ちょうど片づけが始まったばかりでね、というその家は隣の家まで水が入って、あわてて二階まで荷物を運んであったというのです。
震災の頃の話はやがて現在の双葉地区にまで及びました。フレコンバッグを見たことがありますかという唐突な質問に、ないはずがないと言いそうになり、私は思わず知らず口をつぐみました。ニュースではもちろん見ているのだろう、でも現物を初めて見たという衝撃を語るのです。仙台まで行くときに高速から見えたという。おびただしい数の、地面をふさぐ真っ黒な袋。
いわきから車で30分も行けば見えるものである。でも、それこそわざわざ見に行くものでもないのかも知れない。知らないでいることは、それはそれでいいことなのだろうか。
様々なことが頭をめぐりましたが、それが「風化」というには、余りにも無表情なものに思えました。
別な方の話です。最近は小名浜港に出来た大型ショッピングモールに良く出かけるという。ニュースでモールのことは知っていました。同時にそのニュースでは、以前賑(にぎ)わった桟橋(さんばし)付近の市場がすっかりさびれてしまったことも伝えました。地元産の刺身やわかめが格安で売っていた、元気な市場のことを思い出します。そのお客がみんなモールに流れてしまうという。残念ですねという私に、
「コトヨリさんのような東京の人たち(私は千葉ですが、福島の人はこう言います)には珍しくないもんだからそう思うかも知れないけど、こっちの人にはモールがいいんだよ」
相手の方はこう言うのです。便利でなんでも売っている都会の人間には分からないことがあるんだよ、そんなことをきっぱり言われた気がしました。
次の日は楢葉の渡部さんのところにお邪魔したのですが、丘の上に出来た大型体育施設を「一体誰が使うんですか」という私に、
「ありゃあ東電の策略だよ」
という渡部さんなのです。こっちの人には必要なんだよとは言わなかった。
やっぱり福島に来ると色々考えさせられる、改めて思います。



 ☆後記☆
楢葉では以前行った小学校にお邪魔いたしました。校長先生にお付き合いいただいたことは次回書きたいと思います。


渡部さんの母屋の畑。白菜が元気で、玉が大きくなるのはこれからだそうです。

これはおばあちゃんの手作り。ご馳走になるばかりでなく、お土産にももらっちゃいました。大根と里芋が美味しい!

 ☆ ☆
香港の人たちから台風の義援金が届いたそうですね。
「日本に友好的な香港として、われわれも苦難の中にいるが、隣人のために支援の手を伸ばすべきだ」「日本がんばれ!」「香港と日本は困難に直面しているが、ともに乗り越えることを願います」
などの言葉が並んでいます。嬉しいですね。

大川小学校最高裁判決 実戦教師塾通信六百七十四号

2019-10-18 11:23:56 | 子ども/学校
 大川小学校最高裁判決
   ~「勝訴」だったのか~


 ☆初めに☆
第三者委員会の経過と報告に失望した大川小学校の遺族が、仙台地裁に提訴したのが2014年。主文の、
「原告に対し………記載の各金員及びこれらに対する………支払済みまでの金員をそれぞれ支払え。」
に始まる最高裁の判決は、地震に対する行政の備えが不十分だったとする一方、震災後の行政の対応に対しては多くが「仕方なかった」というものでした。原告の遺族の方々にも悔いが残った判決でしょう。 
 ☆ ☆
163頁(資料もあわせると800頁近い)の判決文からは、今まで伝えられて来たものより、現場での激しい葛藤が伝わってきます。しかし、そこでの決断は「困難ではあった」が「しなければならなかった」という判決は、しっかり受け止めなければならないと思いました。


 1 「バットの森」
 前回の判決が出た時、村井宮城県知事は控訴理由で「判決を受け入れるとあらば、宮城県のみならず全国の現場への重い負担が考えられる」と言った。今回の最高裁判決に対して、ニュースでは「学校現場の責任重く」と伝えられた。
 これは具体的には、最高裁でも採用した「三次避難の場所」のことを指している。大川小学校から700mのところにある「バットの森」がそれだ。楽天イーグルスの誕生を記念し、宮城県内で作られた公園のことである。石巻市では2007年、釜谷地区に作られた。

これが二審の判決で「三次避難の場所として適当」と、降って湧いたように登場する。今まで原告も被告も注目して来なかった場所なのだ。実際、それまでのニュースや資料の中には出ていない。小さい子や老人の足だと大川小学校から20分を要し、新北上大橋そばを抜けたあとは低地を歩く。その上「バットの森」はあまり使われていなかった。村井知事は、これらの事情を指して「重すぎる」と訴えたと思われる。

 2 「学校保健安全法」
 高裁/最高裁が、この「バットの森」を三次避難の場所として選んだ背景に、10年前の「学校保健安全法」改正がある。判決では26条/29条/30条を多く取り上げた。簡単に説明するため第26条に絞り、省略しつつ紹介する。
「学校は子どもたちの安全確保を図るため、事故・加害行為・災害等で生ずる危険を防止し適切に対処できるよう、学校の施設設備や管理の整備充実などに努める」
というものだ。近年多発している学校内外での事件や悲惨な交通事故に鑑(かんが)み、この改正が行われたと読者も推察したのではないだろうか。教職員が保護者や警察と共に子どもたちの登下校を見守り、あるいは放課後パトロールする姿は、法律が裏付けられているように見える。
 しかし、学校保健安全法は「災害」にも適用される。昨年の年が明けた一月、私たちが大川小学校を訪れた時、遺族の佐藤和隆さんが「学校保健安全法」の適用範囲を強く主張していたことが思い出される。
 判決は、学校保健安全法の自然災害の部分に言及する。たとえば、二次避難から次への避難の検討を行政/学校はしないといけなかった。遅く見積もっても東日本大震災がある前年に可能なことだった。その年の4月から、法改正に伴う教職員の各研修事業があったからだ。それを受けた学校での防災計画等の見直しはされるべきであった。大川小学校が避難場所として適切なのか検討されないといけなかった、というものである。
 「学校現場の責任重く」という報道は、このことを指している。

 3 学校現場の認識
 私が残念だったのは、学校保健安全法に関することではなかった。津波への危機感をやはり持っていたにも関わらず、現場がそれを生かせなかったことだ。校長/教頭は、日頃から「津波が来た」時のことを考えていた。大川小学校の標高の低さ、目の前にある北上川の堤防が津波に耐えられるかどうかという不安だ。
 以前、石巻市支所の職員が来た時の説明に校長は納得せず、三次避難の場所を話し合ったという。そしてここでも何度か書いたが、震災2日前の3月9日の地震の際、校長は堤防の様子を職員に見に行かせており、校長・教頭・教務の三人が三次避難の場所について協議している。教頭は震災の日、裏山に避難することを近隣住民に打診した。しかし釜谷地区の区長に「ここまで来ないから大丈夫」と反対され意見を下ろした。大川小学校に着任して間もない教頭が、古くからの住民の考えを受け入れた形だ。だが、「古い住民」は「新しい川(海)」を知らなかった。
 判決によれば、昭和初期の河川工事があるまで、北上川は釜谷地区ではない石巻湾に注いでいて、釜谷地区を流れる川は追波川という地域河川に過ぎなかった。しかし河川工事により追波川は北上川の一部となり、大川小付近の流域面積は大幅に広がった。慶長/明治/昭和の三陸大津波が太平洋に襲来した時点と現在とでは、北上川河口の地形は大きく変わっている。
 つまり「ここまで来ないから大丈夫」ではなかった。

 4 遺族の無念
 震災の日は有休のために現場にいなかった校長が、大川小学校にやって来るのが震災後10日余りを過ぎていたこと。その日は校長室から出ることもなく捜索現場に声もかけなかったこと。「間借り」した小学校での「開校」連絡を遺族にはしなかったこと。
 行政に対しても遺族は不満でいっぱいだった。石巻市長の「自然災害の運命として受け入れる」発言。説明会開催の遅れ。時間のリミット設定と「もう説明会はありません」という宣言。
 さらに、助かった子どもたちへの聴き取りメモの廃棄。そして、メモを廃棄した職員の「そんなに大切なものだとは思いませんでした」という言葉。
 これらはひとつの流れとなって「不誠実」の姿を遺族の上に投影した。だが判決は、大体において「違法ではない」「(隠蔽という)証拠がない」とした。判決の基調は「みんな大変だったのですよ」というものだ。
 この手応えのなさは「法の壁」によるのだろうか。そんなことはない。遺族/被害者に「謝罪しなさい」という判決などいくらでもある。今回の裁判所の尽力(じんりょく)を否定するものではない。しかし、法律を盾に「人の心は立ち入れない」とするのだとしたら、この先もっと、人々は「謝る」ことも「感謝」もしなくなってしまうのだ。



 ☆後記☆
台風19号、みなさんいかがでしたか。私の近所でも亡くなった方がいたことを新聞で知って驚いています。何人かお見舞いしましたが、逆に心配してくれた方もいらっしゃいました。

 台風の翌日に見えた富士山です。高くなった木の右側です。

今年のF1Grand Prix、やっぱり予選と決勝が同じ日でした。なんか、台風とラグビーに消された感じです。

関西電力 実戦教師塾通信六百七十三号

2019-10-11 11:26:08 | ニュースの読み方
 関西電力
   ~「裏日本」という場所から~


 ☆初めに☆
にわかに脚光を浴びている関西電力(以下「関電」と表記)。原発のお金をめぐって、企業とお役所の駆け引きが荒波を立てていたのですね。今回特徴的なのは、受け取る(収賄(しゅうわい))の側であるはずのお役所の方が、普通なら贈る(贈賄)側にお金を渡していたことです。
 ☆ ☆
核心にいる人間が亡くなるのを、まるで待っていたようなタイミングで問題が発覚したことはチェックしておかないといけません。「後出し」の内容や順番も含め、十分な作戦を立てて臨んだ会見と見た方がいいでしょう。何せ、関西電力の幹部が「被害者」として演出される状況は、異様という他ありません。


 1 田中角栄
 日本海側を「裏日本」という蔑(さげす)みをむき出しにした呼び方は、実は明治以前にはなかった。北前船(きたまえぶね)は江戸期に華々しく活躍するが、それ以前も海運の主流は日本海~瀬戸内だった。そして明治以降の表/裏日本という呼び方は、たかだか百年でなくなる。
 揺るぎない「日本のドン」田中角栄が、1962年に政界閣僚のトップ大蔵省(現在の財務相)に躍り出る。それまで「雪は春に溶けるから」という理由で災害に認められていなかった北陸に、田中は初めて災害救助法を適用した。非礼な「裏日本」なる呼び方が、学校の授業ばかりでなく一般的に消滅するのが1960年代後半である。田中角栄の影響は明確だ。
 1972年に列島改造論を発表した田中は北陸新幹線を招致した。また、新潟の柏崎に続けと福井の大飯(おおい)でも「絶対に壊れないから」と原発を勧め、医科大学設置にも助力。まさに「豪雪地帯の神様」として君臨する。田中が農村の疲弊(ひへい)に一石を投じたのだ。

 2 若狭(わかさ)のドン
「同じことを役所内でやれば懲戒免職だ」
と関西電力を批判したのは大阪の松井市長だ。しかし、関電に金品を渡していた森山という元助役は役人だ。この元助役から福井県の幹部も贈答品を受け取っている。元助役は故人だが、現職の役人は懲戒免職になるのだろうか。
 さて、森山から贈答品をもらった県の幹部は、高浜町などを管轄する「嶺南」地区の人間だ。

  (『技術と人間』1981年4月号より転載)
嶺南地区は半島で構成される。この地区は「陸の孤島」と呼ばれ、橋も道も未整備で一日わずか数回の連絡船が往復する地域だった。対して、敦賀から武生(たけふ)に抜ける北陸トンネルから北は「嶺北」地区と呼ばれた。この地区は高浜原発が許可された1967年頃、人口65万人を擁し嶺南地区の4倍を超えていた。国会・県会議員のほとんどはこの地区から選出された。
 森山栄二が過疎の嶺南地区高浜町長の誘いで町役場に入るのは1969年、原発認可から2年後である。1977年から助役として10年間勤め、退職後は30年間!関電のプラント顧問を果たす。
 以下は、嶺南地区に原発が着工した頃を振り返った住民の発言だ。
「男は漁で海に出とったから、農作業するのはみんな女。天気がええ日は男の力を借りて丸木舟で刈った稲を運んだけど、海がしけると女が稲を背負って道なき道を歩く。そりゃあ、大変な騒ぎやった。けど、橋と道路ができるならって、(原発に)反対意見は出んかった」(中日新聞社2001)、「(橋が出来るまでは車の免許を持っていたのは数名だった)陸の孤島で自給自足の生活を強いられていた大島の住民は、開通の日が近づくと次々に自動車教習所に通い車を購入した。あの頃は(島の)あちこちで車の話ばっかりだった」
住民が騙(だま)されたとするべきなのだろうか。ヤミ企業の原発の常套(じょうとう)手段とするべきなのだろうか。しかしどれも、住民のこれらの切実な声に応えるものだとは思えない。
 森山に裏金を回したと言われる吉田開発は高浜町だ。森山が「地元に企業を誘致した」と讃(たた)えられて来たのは間違いない。そして森山が「私腹を肥やすのでなく、町のために頑張ってくれた」とされてきたのも事実だろう。しかし福島で原発が爆発した後、これら数々の言葉は封印された。
 福島の原発事故の後、いつかこれらのことが白日のもとにさらされるに違いないと、関係者は戦々恐々として来た。今年の3月に森山が死んでから準備を始めた、と考えるのが自然かと思う。
「原発立地地域との信頼関係を大きくそこなう」
関電を批判したのは福井県知事なのだが、自分の役人も懐(ふところ)に金品を収めた。足元に火がついてる。



 ☆後記☆
ラグビー日本チームの活躍に興奮してます。でもTシャツは、オールブラックスを買いました。
15年前、花園まで教え子を応援に行きましたが、今ぐらい面白さを分かってたらという後悔がありますねぇ。
 ☆ ☆
ついでっちゃアレですけど、今週末F1Grand Prixは鈴鹿なんです。いつも台風の時期に開催なんで、何年か前に予選と決勝を同じ日にやったというサプライズを思い出します。

   秋満載の手賀沼なんです。

 台風また来るんですね。それもとてつもないのが……。バイクや自転車を固定しました。

続・表現の自由 実戦教師塾通信六百七十二号

2019-10-04 11:13:39 | ニュースの読み方
 続・表現の自由
   ~香港を考える~


 ☆初めに☆
タイトルは「表現の自由」ですが、ジャンルを久しぶりの「ニュースの読み方」としました。映像や文字から見えることを確認したいと思ったのです。香港の若者から目を離すわけには行きません。治安部隊は、高校生相手にとうとう実弾を使いました。
 ☆ ☆
報道は、依然として人々を「反対する市民」と呼び、「反対派」と呼ぶことを避けているかのようです。「一部の人たち」と呼ばせないうねりがあるのです。学校(中学生も!)は全校レベルで行動を起こしていて、学校当局もそれをおとがめするどころか一緒に行動しているように見えます。
 ☆ ☆
昨年、後に「黄色のベスト」運動と呼ばれたマクロン政権に対する抗議活動がありました。1968年のフランス5月を思い起こしながら以前レポートしましたが、50年前との決定的な違いは、今回のフランスの抗議活動に「略奪」という行為が見られたことです。
香港の若者にそんな動きは見られません。冗談ではなく、彼らは命がけで「香港人の自由」を守ろうとしています。


 1 催涙(さいるい)ガス/催涙弾
 香港の治安部隊が使用する放水に色が着くようになった。若者が現場から去った後でも、逮捕する根拠に出来るからだ。銀行や郵便局の窓口近くに置く「カラーボール」と同じである。
 思い起こせば香港の学生運動の雨傘は、放水と催涙スプレー対策として登場した。それが今、雨傘に混じって鉄パイプが登場しつつあり、頭にヘルメット、顔にガスマスクをかぶるようになっている。前のレポートでは彼らを「丸腰同然」としたが今は違う。しかし治安部隊のそれに比すれば、依然として「丸腰同然」であることは言を待たない。
 火炎ビンの多くはおそらく、ビンが割れた時に化学反応でガソリンに引火するものだ。丸めた紙をビン口に詰め火を点けるものも見られるが、これだと燃える前に放水で消される。
 そして、平穏なデモは「過激な」彼らと連帯している。

 「催涙ガス」について書かないといけない。催涙ガスは「毒ガス」だ。成分はクロルアセトフェノン(CN)で、米軍の毒ガス一覧表にちゃんと書いてある。忘れもしない、1968年は原子力空母エンタープライズの佐世保寄港反対闘争の時、機動隊が使用したことが国会で議論され、政府高官が「催涙ガスであって毒ガスではありません」とヌケヌケと言い放った。ちなみに催涙弾はこの時ばかりではない、前から使っていたし、このあとも使い続けた。直撃の例もたくさんある。1970年代は三里塚成田空港反対闘争で、デモの参加者(救護要員だった!)がガス弾を至近距離で頭部に撃たれ、脳挫傷で亡くなっている(警察は「学生の投石が当たった」とした)。
 経験すれば分かる。このガスを浴びれば、ヒリヒリと顔面が腫(は)れ上がり汗が吹き出す。服の中に侵入し身体が熱くなる。涙があふれ目は開かず、尋常でない量の鼻水が出てくる。身体が内部に入れないよう必死に抵抗するからだ。良く、のどが咳(せ)き込むというが違っている。呼吸出来ないように身体が働いている。
 あの当時、仲間がすぐ近くでガス弾を受けた。帰宅後に洗い流したが吐き気と震えがやって来て、私たちは病院に搬送した。医者はこの時、
「水で流さないとダメなんだ。シャンプーや石鹸を使うと身体に入ってしまう」
と言った。どんな処方をされたか覚えていないが、肌がずっと紫色に腫れ上がったままだった。今後香港のニュースで、催涙ガスを繰り返し浴びる危険性がレポートがされないといけない。ものの辞書には「洗い流せる」などとあるが、あなどってはいけない。

 2 覚悟
 香港の若者に対し、あんだけやれば警官もやるでしょ、みたいに日本の若者がつぶやいてるが、これが耳に届いたところで、彼らは頓着しないはずだ。「覚悟」があるからだ。撃たれた若者も、撃つなら撃つがいいと叫んでいたのは間違いないと思われる。
 中国建国70年の晴れの舞台で、周近平が「香港での一国二制度を保障する」と、中国にとって「屈辱」のメッセージを送ったのは、中国の経済的なバックボーンが香港にあるという事実ばかりではない。若者の「覚悟」を無視できなかったからだ。
 さて、「表現の自由」である。もともとそんなものは存在しない。「存在すべきもの」としてのみ存在する。人々はひとつひとつそれらを獲得すべく取り組み戦ってきた。先だって書いたことに付け加える。津田大介氏に関して言えば、ネット社会と現場をつなぐ大切な存在だという認識は変わらない。しかし、今回の「表現の不自由展」の主催者側に欠けていたものがある。「覚悟」だ。香港の人たちの闘いは、それを教えていると思える。



 ☆後記☆
台湾の若者は、香港の若者に大量のガスマスクを送ったそうです。年寄りの私に出来ることは、彼らの必死の行動を受け止め、彼らの身を案じることだけです。情けないことではありますが、それぐらいはやっておきたいと思います。
 ☆ ☆
当時の私たちに、「一般学生(人)がついて行けなかった」とか「はしかもどき」「革命ごっこ」などと冷やかした評論家どもは、今も健在なようです。当時の新宿西口広場は週末の写真です。そんなところで今日はやめます。

 歌ばっかりやってたわけじゃない。激しく討論を交わしたのです。


   ホントの秋よ来い。コキアが見頃です。