実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

『語られたがる言葉たち』 実戦教師塾通信六百七十一号

2019-09-27 11:23:08 | 福島からの報告
 『語られたがる言葉たち』
   ~演劇の中の福島~


 ☆初めに☆
福島県いわき芸術文化交流館アリオスで公演された「福島三部作」最終章を、9月に入ってすぐ観に行きました。良く知る人から勧められたのです。そんなことは滅多にないことなので、少しばかり意気込みました。

上演ホールは4階。8年ぶりに昇る階段から見える館内は、立派に整備されていました。

震災からちょうど一カ月後、震度6を越える余震ばかりでなく嵐がいわきを襲って、私もこの踊り場で二晩、毛布を借りてお世話になったことを思い出します。

 1 「放射能!」
 タイトル「語られたがる言葉たち」の意味することは、「おしゃべりしたがる言葉たち」ではない。

それは「様々な思いや傷が、別な言葉に変換されようとしている」ことだ。と思えた。震災直後に行き交った言葉の例を挙げれば、
①「ここは住める場所ではない。急いで避難しないといけない」
 『ふるさとを置いて一体どこに行けというのか』
②「福島は全滅する。この現実をみんなに知らせないといけない」
 『オマエは汚れているが、私は汚れていない』
②で二人は言い合い、「汚れていない」若者は、相手に「近づくな、放射能!」と罵(ののし)る。あの頃、避難中の福島の知人が「福島の車の窓は拭けません」と、東京のガソリンスタンドで断られたことが鮮やかによみがえった。
 これらが何年かを過ぎて変化する。小さい子どもがいるけれど、やっぱり福島に帰りたい//一体どのような危険でどのぐらい差し迫っているのか、確かめないといけない//誰にもなんにも話したくないと思っていたが、やっぱり聞いてほしい等々。そして、
「16万人の被災者というとらえ方じゃダメだ。今こそ被災者ひとりひとりに寄り添って、今の気持ちに耳を傾けることが大事なんじゃないのか」
という「局長」の言葉。
 開演前、「劇中に地震の直接的表現があります」というテロップがスクリーンに流れた。「この建物は耐震性の強い建物です」というアナウンスもあった。開幕直後の轟音と揺れに対する注意喚起だった。実際それで観客は本物の悲鳴を上げた。ここでまた?という驚きと、あの時そうだったなという確認が同時にやって来た。この驚きと確認は、劇中ずっと続いていたと思える。先の見えない、答の見えない毎日。「家路」という平凡なものの大切さを、私たちはあの震災で思い知り愛(いと)おしんでいる気がする。

 2 「風評被害」と「風化」
 終演後、監督とのフリーディスカッションがあった。私も出しゃばった。少し分かって来たことがあるように思う、という前置きで始めた。
「洗って食べてね」
敬愛する農家の方から野菜をいただいた時に言われた言葉だ。前から言われていたのかもしれない。でも私がそう言われてたことに気付いたのは、ここ半年前ぐらいである。この言葉がずっと頭から離れないでいる。これはもちろん「野菜は洗うものだ」ということを言っているのではない。そして、
「危ないから」
なんてことでは絶対なく、
「安全だとは思うけど」
という意味でもないはずだ。もっと深いところからこの言葉は生まれたんだと思う。
 劇中何度も「風評被害」という言葉が出た。根拠のない「風評」というものに福島の人たちが振り回されている、というものだ。ではかつて警戒区域に住んでいた人たちは、「風評被害」を鼻で笑って戻ったのだろうか。それとも不安を抱えつつ戻ったのだろうか。これも同じだ。そんな単純なものではない、もっと深いところから「戻る」ことを選んだと思える。
「洗って食べてね」
そこには悲しんだ記憶があるのだと思う。苦しんだ傷がある。でもこうして私たちはいま生きています、というメッセージが横たわっている気がする。以前のように平凡な暮らしが戻ってくるのだろうか。しかしそうなったとして、それを「風化」と呼ぶことを、この人たちはきっと許さない。

 私はそんなことを話し、そして話そうとした。



 ☆後記☆
これはいわき駅を出発する列車。てっきり「スーパーひたち」かと思ったら富岡までのローカル線と知り、あわててシャッターを切りました。いつも遠目に路上から見る列車と違っていて驚きました。北に復旧延伸する常磐線は、華やかに見えました。

 ☆ ☆
楢葉の渡部牧場で購入した牛が出産した牛の出荷はすでにありました。

でも、ここで生まれ育った牛が出産した子どもはまだ外に出たことはなかったのです。

それがついに実現します。来月の出荷です。

館山いじめ事件その後 実戦教師塾通信六百七十号

2019-09-20 11:49:50 | 子ども/学校
 館山いじめ事件その後
   ~「館山いじめ問題を考える会」総会~


 ☆初めに☆
館山と言えば今は台風です。千葉県は台風が大暴れしました。館山の人たちは、自分たちの現状さえあまり分からないままでいました。私たちが知る館山の人たちには、ようやく昨日電話が通じました。
 ☆ ☆
実は台風が上陸した日、私は「館山いじめ問題を考える会」の総会にお招きいただき、基調講演をいたしました。終了後の懇談会は、嵐が来る前にと早めに皆さんを後にしたのです。こんなことになろうとは思いませんでした。
 ☆ ☆
現地の安否確認も欠かせませんが、差し当たって総会の報告をしようと思います。

 1 田副(たぞえ)さん/石井議員
 この9月は第三者委員会の報告が出てから一年。来年は勝君の13回忌なのです。ずっと自宅にいた勝(しょう)君のお骨は、第三者委員会の報告のあと九州のお墓に収められました。勝君が最後に「ずっと見守っています。おじいちゃんと一緒に」と言い遺したからです。
 遺族の田副さんからは、第三者委員会の報告について、「感謝」と「不満」、そして「葛藤」があるというあいさつ。今後、館山の教育や子どもたちのことで、コミット出来る場面が出てきそうだという見通しも語られました。市議会でずっとこの問題を追求して来た石井議員からは、報告に下せる評価は50%だが、全国的に見れば成功した例ではないかというコメント。今後の方向性として、「(館山市の)いじめはどうなっているのか」と毎年提言していく方向もあると語りました。

 2 ぶしつけと思いつつ
 初めは第三者委員会の報告について、遠慮なく不信を提出します。以前このブログ上で書いたことは絞り込み、「考える会」総会で補足した部分を中心に報告します。

 10年間の取組での大きな成果をいくつか言えば、公文書の開示であり、そのことによって学校/行政の不誠実な対応が明らかになったことである。そして第三者委員会が発足したことだ。第三者委員会の大野委員長を「人柄は申し分ない」と言ったのは田副さんである。私もそう思っている。しかし大野委員長率いる第三者委員会は、残念ながら報告書を不十分なものとした。前後の脈絡もなく突然、
◇「調査用紙の破棄が……隠蔽等を目的としてなされた……とは考えられない」
まるで行政の発言かと思わせる耳を疑うくだりは、アンケート破棄を不問にしてしまった。一貫した「学校がそんなことをするとは考えにくい」という第三者委員会の姿勢は、学校側の不誠実さを不明瞭にし、奥歯にものの挟まったような表現を選ぶこととなった。その極みが勝君のカバンを無残に壊されたことに対するものだ。
◇「勝君の心を傷つける一因となった可能性は否定できない
どうして「許されることではない」「ひどい」という「良識ある」見解にはならかったのか。
 また、公文書の開示で明らかになった行政お抱えのスーパーバイザーの、
「下手に動くと次のうわさが広がる。時間が経てば正常な考えの保護者が意見を発してくれる」
なる回答は、「騒いでいる一部の保護者が学校への要求をエスカレートしてくるのではないか」という、学校の相談に対してのものだ。こればかりではない数々の迷答にも、報告書は沈黙している。開示されたこの文書は、遺族/支援者たちの必死の叫びでもあったというのに。

 3 成果と問題点
 報告書が積極的に示したこと、それは勝君の通っていた学校の野球部が強く大きかったことだ。第三者委員会は、学校の生徒指導体制が学年単位となっていることに気付いた。勝君の部活欠席に関する親との面談も、顧問は「対外試合のため」欠席する。それは通常の「学年での対応」という判断がもととなっているのだ。強い部活は顧問の多くが大きな顔をする。「(顧問に)お茶を入れなさい」と管理職が教員に指示する学校も、未だにないわけではない。そんな学校では、顧問に「世話になっている」「面倒をかけている」空気が出来る。そんな顧問が「部活があるので」と業務を回避する実態が続いている。ことのついでに言うが、部活をいやいややらされている人たちは、こういう顧問をどうにかしないと前には進めませんよ。
 そして報告書が出たあとの署名もない関係者からの「コメント」は、野球部顧問が二人いることを知らせた。
 第三者委員会が、もう少し分析を進めるのは無理だったのだろうか。そうすれば学年の上にあぐらをかいた部活動があったことまで到達する。これらのことを、現場の人間でも気付くものはごくわずかなのだ。

 勝君のことを無駄にしないため出来ることはあります。私は続けた。



 ☆後記☆
私たちが知る館山の人たちが受けた被害は、それほどでもなかったようです。電気も来たし、近所で被害のひどかった家の手伝いをしているということでした。
 ☆ ☆
先週の土曜日、クラス会がありました。千葉県八街に住む教え子は、家の屋根を飛ばされた!にも関わらず参加し、停電の心細さを訴えました。

写真を良く見れば分かる通り、前回は不動産会社の課長が参加したのですが、今回は法医学教授が参加しました。
みんな53歳ですよ。子育てや仕事はもちろん、親の介護や自分の身体が話題になる齢です。10年の闘病を経て!このクラス会に舞い戻ったメンバーもいるのです。
いつも20人を越える参加。すごいなあ。二次会の方が参加者が多かったというのがまたすごい。幹事長の地道な努力の賜物(たまもの)ですよねえ。

秋田の『じょっぱり』大吟醸と、おかきをいただきました。
みんな、ありがとう!

9回目の夏 実戦教師塾通信六百六十九号

2019-09-13 11:34:21 | 福島からの報告
 9回目の夏
   ~豊間海岸の現在(いま)~


 ☆初めに☆
8年前、初めはいわき豊間の海岸を中心に、私たちは瓦礫(がれき)の片づけをしました。その後いわき市内の仮設住宅にお邪魔するようになってからは海岸から遠ざかり、復興公営住宅に皆さんが入居するようになってからは、皆さんから遠くなりました。区画整理の工事が始まり終了するまで、私は二回ぐらいしか豊間の海岸を訪れていません。その後どうなったのか、久しぶりに行きました。

 ☆塩屋崎灯台☆
豊間の海岸から見える塩屋崎灯台です。ひどい状態ですが、これでも瓦礫を全部撤去したあとです。

高くなった堤防の上から撮りました。堤防の高さの違いがよく分かります。


 ☆蒲鉾(かまぼこ)工場/幼稚園☆
この辺り一帯は蒲鉾工場が林立していました。そして、みんな走って高台に移動した幼稚園の子どもたちと保母さんたち(地元の皆さんは「保育士」とは言いませんでした)。でも悲しいことも起こりました。
残された住居の土台に花が描かれています。美大の生徒が描いたもので、やはり震災から時間が経過しています。

現在の様子。上の写真の場所から反転して見たところ。このアングルだと、8年前と変わらないものを感じました。

道すがら住民の方と話してきました。堤防すぐそばの一戸建てに住んでる方です。以前ここに住んでいた人たちは、こんなに海のそばまで来ることに抵抗があるようです、と話してくれました。

 ☆八幡神社☆
これは神社の鳥居沿い道路から海へのショット。

この時は鳥居だけが建て直されていました。

同じく階段上の祠(ほこら)から見た、現在の様子です。

この海にサーフィンに来ていた若者を思い出します。まだ放射線の警報が出されていた頃なので、
「怖くないの」
失礼とは思ったのですが私は聞いたのです。波がいいんでね、と嬉しそうに答える若者でした。

 ☆塩屋崎灯台を越えて☆
灯台の反対側に来ると、当時はこんな風でした。

堤防上に設置された東屋(あずまや)から、現在のショット。

この海岸から陸を見ると、当時はこんな状態でした。

信じられませんが、上より少し右に寄った同じ場所です。

これは塩屋崎灯台と反対側を見たところ。向こう側は薄磯海岸。堤防に植えられた松は、何十年か後に波と風から海岸を守るのです。

堤防の上は整備されていて、花崗岩のベンチも置かれていました。




 ☆後記☆
こうしてすっかり姿を変えた(「戻った」ではなく)豊間の海岸一帯を見て、良かったというよりあの頃を思い出しました。民家の庭に流れ着いた大型クルーザー、大木の枝に乗っかった車。片づけをする私たちのため、泥と瓦礫まみれの庭にお茶を用意してくれた(一体どこまで行って持ってきたのか)住民の人たちは、優しくて静かでした。
 ☆ ☆
復興公営住宅に住むおばちゃんたちのことを気にはなるのです。でも、そんなに簡単に行けるものではありません。すっかり少なくなったボランティア、などというエラそうなニュースに腹が立つ自分がいます。


楢葉の渡部さんにいただいた栗ご飯。残り少なくなってからあわててとった写真です。

 ☆ ☆
小泉進次郎、入閣しましたね。ずいぶん前に切り抜いたスクラップを思い出しました。いまから4年と二カ月前の『福島民友』です。

東京で行われたシンポジウムの記事ですが、首都圏は載らなかった。福島に進次郎氏が通い続けていることが伝えられています。他には、
「『まだ被災地に行っているのか』と言われる。………なぜ簡単に関心をなくしてしまうのか、もどかしい」
「私は周りが何と言おうとやると決めている」
などの発言が見られました。

『朝顔』 実戦教師塾通信六百六十八号

2019-09-06 11:31:52 | 思想/哲学
 『朝顔』
   ~イチローから学ぶ~


 ☆初めに☆
ドラマ『監察医 朝顔』がいいですね。先週の裁判の部分には、ありがちでオーバーな場面が見られて残念だったのですが、基本は感心と安心です。丁寧な作りがあちこちに感じられます。

     第7話、裁判のシーン
 ☆ ☆
微細な部分まで観客や視聴者は見てない、というエンターテインメント制作当事者の声も、私には入って来ます。でもドラマ/映画の制作姿勢は、あちこちに顔を出します。それらを視聴者は無意識に受け取り、予感や余韻などとして所有するのです。
『朝顔』で感心した場所から、この間の違和感ある言葉たちを整理しておこうと思います。

 1 「遺体」「ご遺体」「死体」
 『朝顔』では遺体に三種類の表現がある。亡くなった人の体を、このドラマでは「遺体」と呼ぶことに私は耳をそばだてた。よそのドラマは、ほぼ「ご遺体」だからだ。実際の警察も「ご遺体」で通していないか心配だ。
 もうひとつの「遺体」が「死体」である。第2回か3回だったか、法医学教室のアルバイト学生が言う。
「遺体と死体、一体どこが違うんですか」
明らかな私たちへの投げかけである。
 と思っていたのだが、このドラマでも「ご遺体」が登場した。朝顔の父が言ったのだ。それほど気持ちが改まった「遺体」だからなのだろうと思っていたが、以降は「ご遺体」オンパレードなのである。よそから下らないチャチャでも入ったのだろうか。残念なことだ。

 2 「自信」と「覚悟」
 昭和の時代、「馬から落馬」「美しい美人」「一番最初」など、私たちはみっともない言葉を揶揄(やゆ)したものだ。これらの言葉は、いざ「そんなの関係ねえ」的ぶっちゃけた場面のためにあった気がしている。しかし今は強迫的(脅迫的ではない)だ。たとえば、
   「犯人の男のかた
だって!? そして、
「日本人の私が考えてらっしゃるのに、外国の人も考えてらっしゃるなんて……」
つい先日テレビで出会った言葉。おお、私の口から絶望を越えて感動のため息。
 おかしな言葉の現状をイチローのインタビューから考える。

雑誌number976号「イチロー戦記」から。
「アメリカに行って感じたのは……英語なんて勉強してる場合じゃない………学ばなきゃいけないのは日本語のほうです。もっと言えば国語か」
英語にうつつを抜かしているどっかの国の人たちに聞かせたい。
 スポーツ選手に限らないが、インタビューで、
「良かったと思います」
このグレードをさらにアップして、
「良かったかな思います」
などと言う。イチローにそういうのは見当たらない。

「こういう表現をした方がよかったなと……考えるようになった」(同紙)

潔(いさぎよ)い断定がある。良く見てほしい。「よかったかなと」でも「よかったなとは」でもない。「よかったな」である。これはひとえに「自信」から来る断定である。そして断定することによってこぼれ落ちるものを引き受ける「覚悟」がある。
 なにが「自信」で「覚悟」なのか。例えばひとつ。
「一番親しい友人のひとり」
とかいう醜(みにく)い言葉がそうだ。「一番親しい友人」と断定することが出来ない。「親友」なら「そのひとり」でもいいのだが、迷ったあげく美しくない日本語をさらすのだ。

 3 「自信のない」私たちの道
 以下は良く見られる回りくどい「正確さ」だ。汚い。「⇒」表現で十分。
「可能性があるかや、正しいかどうかが問われている」
      ⇒「可能性や正しさが問われている」
「反転に向けた政策を打ち出せるかが課題」
      ⇒「反転に向けた政策が課題」
 他にも「正直悲しい」「はっきり言って嬉しい」など、悲しくも嬉しくもない顔が語る言葉たち。

 イチローのような自信を持てない私たちは、周囲からのプレッシャーに屈し、過剰な「丁寧」や臆病な「敬意」で対している。そこに無残な言葉が生まれている。自分自身の誇りのために、まずは「」と「かな」を追放しよう。



 ☆後記☆
今回のような記事を出すと、必ずと言っていいくらい「さすがは国語の先生」という声が寄せられます。前も言ったことですが、全然嬉しくありません。イチローが言う「日本語=国語」の大切さとは、世界/人間をめぐることです。その深みに国語の先生だったら到達できるという安直なものではございません。

     黄金の秋。手賀沼そばの田んぼでございます。
 ☆ ☆
香港の「逃亡犯条例」改正案がひとまず撤回されましたね。「じゃあ、防犯カメラは必要ないのか」なる疑問が私まで寄せられたので、答えます。
「相手が犯罪人なら、警察はいつでも防犯カメラの使用をためらわない」
私たちは、まさにその現場を見ているのです。


 柔道の関節技、やっぱりやってました。前号の「☆」訂正します。