「抱え込まない」わけには行かない
~「子どもの扱い」あるいは「子ども扱い」~
☆初めに☆
コロナのお陰でマスクの下となった見えない顔、むやみに接近してはいけない、家庭内会話の飛沫警戒、そんな中でGIGAスクール構想が語られています。顔が見えなくとも、離れていても、話さなくともいい社会がこれからの未来だって、つまりこれで東京集中の、会社人間の、会議偏重等々が変わるというんです。これ間違ってませんか。
学校に関しては、ひとつに不登校の子どもたちにも道が開けるという。その通りでしょう。でも、その道を開くのは「現場」の人間であり、その子の「息づかい」を分かる人たちです。微妙で、そして肝心なものがそこにはあります。前回に続く記事は、いくつかの現場からの相談ですが、事例の特定を避けるため、新聞記事を使いながら書きます。
1 「いい悪いは小さいうちに」?
暮れの新聞(12月29日・朝日)に、早期退職を考える小学校教員の五段抜きレポートがあった。定年まであと四年の先生なのである。これが三十代だったら自主退職もいいのだ。しかし五十代後半の方だ、おそらく記事にあるひどいことばかりではなく、楽しい時期もあったはずだが、読ませる側としては、それを書いちゃアピールなしってことなんだろう。記事には、この方もうつによる病休を四回とったとあるが、精神疾患で休職する教員は毎年五千人を越える。ストレスの高い職業ランキングとして、教員はいつも上位にランクされる。
原因は何だろう。社会変動や多忙と様々なのだが、その根本は「子ども=未熟な人間」を相手にしていることだ。「子どもだからと言って許されるのか」とか「人間として許されない」なる物言いが安易に流通している昨今だが、子どもというものに対して、「ダメです」と言ってうまく行った試しはない。経験したことを振り返り身につけることを、私たちは「学習」とか「習熟」と呼んでいる。子どもは経験することでしか先に行けない。あっと言う間に博物館入りした「歩行器」で、それは証明されている、とは以前にも言った。「はいはい」も「つかまり立ち」も無駄なものではなかった。
先生は「いい悪いは小さいうちに教えることが大切」と考えて対処しがちである。特に小学校の先生にこの傾向が強い。これが壁になっている。「(結果が)こうなるから止めなさい」と言っても子どもはやめられない。「子ども」だからだ。地味で大変なこと(何度も言って来たことで恐縮)だが、その都度子どもと向き合って、「どうしてこうなったんだろう」と一緒に考えていくしかない。そうすることで、実はその子が嫌がらせする相手のことを好きだったとか、家庭の事情が浮かび上がったりする。それは「ならんことはならん」的あり方からは絶対に見えて来ない世界だ。「謝らせた」というような「ちっとも聞いてくれない」対処は、子どもからは反感を買うばかりだ。「仲直りさせた」ような「子ども扱い」に至っては、子どもをなめてるとしか言いようがない。ちなみに、この記事中の先生も「いい悪いは小さいうちに」と考えていたのだろう。その後、特別支援のクラスを担任したからだ。「普通(学級)の子どもが信じられなくなった」からだと思える。申し訳ないが、この手の先生は数多い。
2 「学級王国」
「うまく行かない」時は「大変」だが、「大変」なことと「うまく行かない」ことは同じではない。不登校の子どもを抱えれば「大変」&「うまく行かない」と考えがちだが、その子との間で信頼関係を築けていれば、そして学校は子どもが「来るべきところだ」と思い、休む責任は自分にあるなどと思わなければ何でもない。いわゆる発達障害の子どもに関しても同じだ。親や周囲の無理解で「病者」となりかねない現状だが、少し前までこの子たちは、単に「手のかかる子」だった。この子たちは大人や周囲の助けで育った。というより、この子が育つ過程で大人を親にし、友情を育てた。本人や親が「病気と知って安心しました!」というなら話は別だが、医者の診断は、要するに「手がかかりますよ」、あるいは「たぐいまれな才能をお持ちです」という判定にすぎない。
偉そうに言ってる感じなので、自分の「大変」&「うまく行かなかった」ことを言っておこう。新聞記事中にあった学級崩壊だが、そうなりそうな時もあった。いじめはもちろん受け持ったどのクラスにもあったし、ピアスや土足の教え子もいた。それでどうしたか、記事の先生は「自分を責めた」とあって、それがよくないような書き方だ。しかし、子どもへの無理解、あるいは迎合(げいごう)とも言える、無原則な「理解」をするような「自分」は責め(検証し)ないといけない。これを怠れば、「大変」&「うまく行かない」は、らせん状にエスカレートし子どもは自分を見放すからだ。
そんな時、ひとりで「抱え込まないで」とは良く言う。しかし殆どの教師に、それは無理な注文である。今は死語となった「学級王国」だが、教師(これも小学校に顕著だが)にとって、自分のクラスは入り口であり最後の砦(とりで)と考えている。オレたちゃ世界一、それが「学級王国」を目指す教師のあり方だった。この言葉が死語となった今でも、教師は「こんなクラスにしたい」という思いを持ち続けている。それが、この仕事のモチベーションだからだ。だから、悩みを打ち明けるという行為は、その教師の挫折に近い選択であることに、相談されたものは注意を払わないといけない。「あなたは間違ってます」「私が代わりにやりましょう」なんぞという答を返してくる相手は、リーダーでも何でもない。そんな奴は、さっさと相談相手として見切りをつけた方がいい。
とにかくに、「抱え込まない」ことは難しいのだ。こんな中、ハイテク&GIGAみたいなところに大変なエネルギーを費やす状況が待っている。いまGIGAスクールでは、タブレット端末の使い方と称して「あれも出来るこれも出来る」とあおっている。これが程なく「先進校」「先進例」として、メディアを通して喧伝(けんでん)される。追い付き追い越せが、また始まる。
そっちの対策こそどうにかしてくれよ。
☆後記☆
いやあ、マツジュンだのなんだのって、いい度胸だとしか言いようがないですね。スクープねらいの連中がたくさんいるってことくらい分かってたはずなのに。それにしても、国会の野党追求に「どのような処分をお考えですか」というのが全く出ないって、なぜなんでしょう。返り血を浴びる心配でもあるのでしょうかね。
いや寒い。厳冬の手賀沼です。
☆☆
そんなことはどうでもいいや。マー君、帰ってくるんですね! いやあ、春が待ち遠しい。満員とまで言わなくても、楽天のスタンドの観客とマウンド。あの感動がまた見れる。嬉しいですね。
寒い中、それでも春をみつけました。菜の花です。