実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

あいさつ/部活  実戦教師塾通信五百九十三号

2018-03-30 11:35:22 | 子ども/学校
 あいさつ/部活
     ~「学校的合理性」を越えるために~


 ☆初めに☆
証人喚問、皆さんの予想通りではありませんでしたか。
「訴追(そつい)の恐れがある為……証言できません」
とは、「黙秘権の行使(こうし)」と言い換えさせてもらいます。ここでの黙秘権行使の目的は、
「逃げきれる」
「今を逃げきれば、なんとかなる」
と、相手が判断したことを意味します。場所が裁判に変われば、もうおしまいです。結審の時には世間の「熱が冷めて」いると分かっているのです。原発事故の事故調査委員会を思い出します。あれだけ「危なかった」報告が出たのですが、報告が出た時点で、読む人はもう少なかった。
 ☆ ☆
今年も桜がありがたいですね。春はいいな、日本はいいなと素直に思えます。雨にもたたられない今年の桜、ラッキーでした。

        手賀沼の土手、これは木蓮です。

        北柏ふるさと公園。
春は年度末/年度始めの季節です。今回は、この時期、必ずと言っていいほど職員会議で取り上げられることを考えます。この話題自体は、思い出したようにいつでも頭をもたげ、私のところに寄せられます。職員会議で悩む「流されてたまるか」な教師に答えます。



 1 「先生のこと嫌いみたいですよ」
「あいさつは出来る方がいいに決まっている」
という紋切り型の考えを多くの教師が持っている。まさにその通り、な「学校的合理性」はどこが変なのだろう。
 「こんにちは」「行って来ます/ただいま」、そして「ありがとう/すみません」、これらのあいさつは、私たちに大切な生活習慣であることは間違いない。小さいうちに習慣づけておくことで、これらが子どもたちに何らかの力になることも間違いない。
 しかし、これがなかなか習得できない。大人になっても難しい。そこにいろいろな事情が絡(から)むからだ。でも、体調や家庭の事情や性格や、そして相手と自分との距離やの、様々なことを「乗り越えて」するのが、あいさつの本分でもある。そうすることで、それらに変化をもたらすことも事実なのだ。だが、それら諸事情は考慮されないといけないし、何より、どうするかの最終的選択は、相手(子ども)が決めることである。相手(子ども)が今どんな状況にあるのか、そのことを見極(きわ)めることを、私たちは「生徒理解」と言っている、はずなのだ。その上で考えれば、
「あいさつは出来る方がいいに決まっている」
とは、思考停止状態と言っていい。そういう状態で、
「こっちがあいさつしてんのに!」
「元気がないなあ、もう一回だ!」
という姿が露出してしまう。
 老婆心(ろうばしん)ながら言っておくと、こういう原則論を戦わせることでは「信念」を持った人たちに通じません。子ども(相手)が、
「先生のこと嫌いみたいですよ」
「なんか、あいさつどころではないみたいなんです」
等と、様々なバージョンのあいさつ不調理由を説明し、当の「生徒を理解する」よう促(うなが)す方が賢明です。

 2 「ウチはにぎやかですけど、きれいなんですよねえ」
 掃除も同じことで、
「黙って掃除をすることのどこがいけないのか」
などと言う。教室をきれいにすることに集中し、黙ってやるのがいいに決まっている、という。
 このようにたった一点だけに活動や目標を絞(しぼ)ることは、子どもたちに集中することの「大切さと効用」を教える。しかしその一方で、そこから多くのものをこぼれ落とす。掃除の場合だったら、楽しい会話や、ひとり考え込む時間、そして友達との約束をつける時間等々。それらを手放す「副作用」を伴う。大体が、こういう「黙動」(業界用語ですね)を演説する人は、学校が、
◇楽しい/わくわくする
ことを積極的に考えられず、
◇正しい/真面目な
ことを重視する人である。
 そこで「楽しい」と「正しい」どっちが大事?みたいな議論や、黙動の効用かその副作用かという議論は、やはり原則論を戦わせることになるので、
「ウチはにぎやかにやってますが、きれいるするんですよねえ」
「静かな中だと、掃除中だけは私のそばに来て何かと話しかけるA子は、どうなっちゃうのかなあ」
等と、これも出来るだけ多くのバージョンを引き合いにして、生徒理解の「広さ」を指摘する方が生産的と思う。

 3 部活の複雑さ
 あいさつ/掃除で考えたように、
① 何事にも、バックに諸事情が控えている
② 何事もやり過ぎるといけません
なわけである。実は、部活がクローズアップされた大きな要因として、この②があげられる。誰も部活がいけないとは言っていない。たとえば、掃除中のおしゃべりは、部活に言う、
「(土)日曜ぐらい休ませてくれよ」
なのだ。
「そんなことさえダメなのか」
というぼやきである。スポ根時代、部活は「心身鍛練」「非行防止」「ヒマ防止」、ついでに「内申書のデコレーション」等と、キラキラ輝いていた。ついでに言えば、子どもも燃えてたんですよ。
 時代とともに子どもも変わった、というのが正確なところ。しかし、メディアの伝達は、不正確なのである。伝わって来るのは、
「子どもは苦しんでいる」
「教員もまさにブラック企業」
ほぼ一色と言っていい。でも①の「諸事情」が部活動の現実の中にもある。たとえばそれは、
◇どんな部活であれ入っていれば、放課後、校内でブラブラしていても、「用もないのに、学校に残っていてはいけない」
と言われない。
◇「家に帰してもらっても、家には誰もいないし」
という家庭も、たくさんある。
◇「部活中」を理由に生徒指導を避ける教員もいる。
現実を、それぞれ正直に語りぶつけないといけない。

 結論。「そんなカッコいい話ではない」んだぞ、ということです。


    我が家の木蓮と花モモ。にぎやかです。


 ☆後記☆
まことにカッコがつかない貴乃花です。謝罪会見、見ましたか。ああいうのは反省や謝罪とは言いません。
「警察の捜査に支障が出るかも知れないので話せません」
とは、財務局の佐川みたいに言ってた貴乃花です。なぜ、という疑問に応(こた)えて反省/謝罪が出来るのです。しかし出てくる言葉は、無内容な「深く反省」ばかりでした。
それじゃダメなんだよ、という親方衆の追求だったと言います。おそらくは「謝る理由が分からない」ということだったと、私には思えます。
貴の岩暴行事件の真相が明らかに出来るチャンスでもあるわけで、協会はそこまで分け入って欲しかったですね。
日馬富士、復帰出来ないかな。

     これは我孫子側の「親水(しんすい)公園」。

     向こうに見えるのは河童(かっぱ)です。
 ☆ ☆
大谷、やりましたね。イチローが初ヒットした日のことを思い出しました。今日が伝説の始まりだといいです。


 藤井君は残念。

7年が過ぎ(下)  実戦教師塾通信五百九十二号

2018-03-23 11:39:25 | 福島からの報告
 7年が過ぎ(下)
     ~福島の歩む道~


 ☆初めに☆
17日の土曜日、なじみの楢葉町・天神岬で反原発の集会があったので、顔を出してきました。知っている人も結構来ていたはずなのですが、五千人?規模の集会だったせいか、見つかりませんでした。

前日は天神岬にほど近い渡部家を訪ねておりました。改めて福島について考えました。


 1  「2018原発のない福島を! 県民大集会」
 多分、岬の駐車場はいっぱいと思い、渡部さん家に車を置かせてもらって、徒歩で向かいました。

天神様の鳥居(とりい)をくぐると、修理を終えた社(やしろ)が待っていた。

先日までは足場とシートに囲まれて見えなかった境内でした。鳥居はもちろん、門番の牛や砂利(じゃり)が真新しい。運動公園の方から太鼓の音が聞こえてくる。

集会はまだ始まっていない。太鼓の音は集会前のイベントで、地元の若者たちによる演舞だった。
参加者はバスで来るのだろう、ほとんどが40~50人のまとまった単位で会場にやって来る。



ゲストと呼びかけ人、そして県民からの訴えと、集会は進んだ。

 2 帰還すること
 経産省前の脱原発テント村について、以前レポートしたと思う。現在テントは撤去されてしまったが、テント村で三上治が活動している。吉本隆明や友人の山本哲士のつながりで三上治と知り合い、いつもテント村の新聞(「テント日誌」)を送ってもらっている。
 今回の集会も「テント日誌」で知った。しかし、それは、
「このタイミングで福島の楢葉で開催するというのはいかがなものか」
と、集会開催を真っ向から批判するものだった。国が奨励(しょうれい)する「福島に帰還/復興路線」に便乗する、というのだ。
 私は三上氏に滅多に返信しないのだが、
「福島に『帰らないといけない』のがまずいことはもちろんだが、『帰ってはいけない』とすることも、同じことではないか」
という要旨の返信をしたのだった。

 ゲストは鎌田慧があいさつ。

続いたのは、呼びかけ人の武藤類子のあいさつだった。

「この集会を福島の被災地で行うことに対する批判があった」
と、はっきり証言。集会実施の決断をするのは大変だった、と言う。そして、
「しかし、福島に帰りたい人たちがいるのも事実です」
と続けた。90歳のお年寄りは、
「避難を指示され」「あちこち引っ張り回され続けた」
でも、
「ここに帰ってくるのは自分で決めた」
「自分で決めたのは初めてのことだった」
しかし、
「孫とここで会うことはないと思う。そしてここに来いとは言えない」
と言ったという。誠実な報告だった。そして、今回の集会に反対する人たちへの気づかいを、あちこちで感じた。90歳の、この方の話を取り上げたからだ。
 福島に帰還する人たちは、原発に賛成しているわけではない。しかしこうして、人々が向き合う困難さが出現している。
 分断は無数の場所で起こっている。
 ここ最近、原発事故補償に関する訴訟(そしょう)は、いい判決が続いている。しかし、お金の問題は福島をますます狭いところに追い込んでいる。そこには必ず、
「まだ足りない」
という人が出てくる一方で、もらえない人や額の少ない人たちから、
「(あいつらは)もらい過ぎだ」「ちっとももらえない」
という声が出る。人々は細かく小さく寸断される。

 3 福島での生活
 いつもの渡部さん家の離れに上がると、思いがけなくリビングの棚の上に、家族三人の位牌(いはい)と写真を見いだした。いよいよこの三月で、いわきの仮設住宅が閉鎖する。いわきで生活していた奥さんや息子の荷物の移動が本格的に始まったのだ。
 位牌を見ながら、震災時の大変さを聞くこととなった。
「あの頃は大変で」
おばあちゃんがしみじみと言う。
「お金が全然ないしね」
いわき市内の避難所から会津、そこから新潟に移動し再び会津と移動をする。しばらくして楢葉町から、避難先で一万円が支給される。
「あれは助かったね」
まさに「着の身着のままの避難」をした。その間はずっと「姉妹都市」などのつながりを通し、受け入れる自治体が避難場所を準備し、避難する自治体は了解を取り付けた。それが「町ぐるみの避難」なのだった。

 お茶請けに出していただいたカブの花?のお浸し。ごまだれがかかっていて美味しい。醤油とカツオ節では誰も食べねえんだ、おばあちゃんが笑って言う。

   これはお土産にいただいたのを、私が調理したものです。
「渡部さんは、どうしてお金を使わずにすんだの?」
私が聞く。長い避難生活の中、パチスロやゴルフ練習場、そして資産投資などで補償金を散財してしまった人たちの話をたくさん聞いた。でも渡部さんはそうではなかった。
「仕事をしたからだろうな」
夏に始まった楢葉町の仮設住宅。渡部さんはすぐに、ここの連絡員として働き始めた。担当した百世帯の人たちの健康を確認し、相談にのる仕事だ。
「あとは、楢葉に戻って牧場をやるって気持ちがあったからな」
それは一度も揺らいだことがない、と渡部さんは静かに言うのだった。でも、酒に飲んだくれることもあったね、私がチャチャを入れる。
 三年前の九月の帰還宣言を待たず、渡部さんは、それ以前の「準備宿泊」段階から楢葉での生活を始めた。
「でも、戻ってきたところでやることがねえからさ」
そう言って「酒にのめり込む」期間を振り返った。そして、ネズミや猪(いのしし)そして、もとはペットだったアライグマなどの野生動物に荒らされていく母屋(おもや)は「途中であきらめた」。

 その母屋はいよいよ家の形になってきた。

小雨が降るこの日は、大工さんはいなかった。左側に渡部さんがいます。

大工さんの仕事に、ただただ感動するだけの私でした。

二匹の子牛たちも、すでに親のもとを離れて、元気そうでしたよ。


 ☆後記☆
前川氏の講演会をめぐる出来事、面白いですねえ。国家の教育内容への介入、という点は興味ないのです。面白いのは、たかだか一介の中学校が、国家直属の機関に、「凛(りん)としている」ことです。普通はなかなか、こうは行かないですよ。名古屋市長の持っている「空気」もあるのでしょうか。この先どうなるのか、見逃せませんね。
 ☆ ☆
今日は終了式ですね。子どもたちも、お疲れさまでした。短い春休みですが、宿題のない休み(宿題を出すしょうもない学校もあるらしい)です。ゆっくりしましょ。
桜も開花しました。桜の写真は次回にして、これは天神岬の見事な梅です。


7年が過ぎ(上)  実戦教師塾通信五百九十一号

2018-03-16 11:13:07 | 福島からの報告
 7年が過ぎ(上)
     ~写真で振り返る2011年~


 ☆初めに☆
森友問題が何とも信じがたい展開となってきました。何が信じがたいかって、真実が明らかになるかもしれないという展開が、です。こんなことは前代未聞。森友問題の当初、某(ぼう)官房長官の「怪文書」発言は、本気ありありでした。私たちもとぼけていてはいけません。こんな不正は「日常茶飯」のことだと思ってたはずです。「あり得ない」のは今の展開の方です。「民主主義の危機」とは、国会議員が言うのは仕方がないのかもしれません。でも、それが今まであったわけではありません。そんなもの初めからないと思っていたはずです。金持ちは不当な金もうけをし、政治家はウソをつく、私たちはそう思っていました。そして「分相応」な生活を送ってきたのです。そんなことを変えるきっかけとなるのかどうか、それが問われているのです。
 ☆☆
佐川辞めました。次は麻生、そして安倍ですか。でも、辞めるのは最後です。すべてが解明されてからです。そして追求するのは野党(与党が加わってもいいが)です。何が第三者委員会ですか。学校や教育委員会は解決能力がないからと、自他ともに認めた時と同じです。腹が立ってしょうがない。
先立っての「自衛隊日報事件」もそうでした。省庁間の利権、あるいは現場との確執(かくしゅう)が、いろいろなところで出てきている気がします。別の機会にきちんと考察します。
今回と次回は、8年目を迎える大事な福島の記事となります。

 1 豊間/江名海岸 
昨年は当時の新聞や雑誌で、震災を振り返りました。今年はあの当時、私が福島で撮った写真を集めてみました。ブログに載せてない写真も、まだ結構ありました。皆さんも見てください。

いま思えば、すぐにでもカメラを使えばよかったのです。でもあの当時、被災現場を写真に収めようという気はありませんでした。
でも、ボランティアで訪れていた多くの若者が「帰ったらみんなに伝えたい」と言ってはカメラに収めるのを見ているうち、私の気も変わりました。私が写真を撮り始めたのは、福島に入って二週間もたってからでした。

見渡す限りどこまでも続く瓦礫(がれき)。これでも道らしきものが出来ている。聞いたところによれば、消防/警察に先立ち、地元商店会の青年部がこの道を作ったと言います。

凄惨(せいさん)な光景ですが、これでも海岸からは一キロ離れている。そしてこれでも二週間後。この一週間前は、民家の庭先に大型漁船、大木の上に引っかかっている乗用車などがありました。それらは自衛隊によって片づけられました。

上の写真。建物の屋上まで津波が到達したことが分かります。

この辺りに多かった水産加工工場。右奥の工場は、大型冷蔵庫と屋根だけかろうじて残りました。この工場の片づけの時、カモメまで津波にのまれたことを知りました。

エアバッグが飛び出す時間もなかったのでしょうか。

テトラポットと堤防と車が、破壊されて瓦礫となっていました。奥に見える屋根と柱だけのガソリンスタンドは、再建を試みましたが、結局更地(さらち)になりました。

向こうに見えるのが塩屋崎灯台。この場所で右に90度、身体を回して撮ったのが、下の写真です。かろうじて形を残した家々の手前に見えるのは瓦礫です。


 2 四倉/久之浜海岸
四月いっぱいは、いわき久之浜地区に原発事故による避難指示が出ていました。いわき市長が避難指示を解除して、私たちボランティアが久之浜に入ったのは、五月になってからです。放射線量をちゃんとアナウンスするべきだ、という意見(私の意見です)を、対策本部がなかなか通さなかったことを思い出します。

だいぶ片づいて、道も姿を現しています。向こうに固まっているのは、焼けた家屋の瓦礫です。久之浜でも大規模な火事が発生したのです。高台に逃げずにいた久之浜のおばちゃんに、二階の下を渦巻く津波と、向こうから次々に爆発しては火の手をあげる家並みに、ただただ震えていたと、それは何度も聞かせてもらいました。

久之浜の幼稚園すぐ裏手の堤防。指で突ついたらひっくり返りそうな車でした。

これは震災から一年を過ぎてからの写真。やっと再建しようという干物屋「ニイダヤ水産」です。

 3 人々の姿
当初私は、写真になるべく人物が入らないようにと心がけました。でも、次第にそれも可能と感じるようになったのです。

これは震災の年の夏、私が「住み込んで」?お世話いただいた避難所の缶詰。まだ食べずに残っていたものです。仕方なく食べた時期もあったそうですが、ひどくまずいと、皆さんの意見でした。

愛車とともに真ん中にいるのが私。四倉で流されたセブンイレブンのあとに作った食堂「くさの根」です。三年後だったと思います。右側の人が、塩屋崎の避難所でご飯を担当していた板前さん。ここでも料理をしていたのですが、やめました。「くさの根」も変わったのです。そして左側が「ニイダヤ水産」の社長。なんとか会社をやっていますが、大変な状況です。やはり、ひどい風は吹き続けているというのが実感です。

これは震災からもうすぐで一年、という仮設住宅で。おばちゃんたちの元気で仕事の早いのは、いつも驚きでした。私の仲間たちが送ってくれた、支援の味噌の梱包(こんぽう)を解いているところ。この日はバレンタインで、仲村トオルが皆さんにチョコを届けてくれました。嬉しそうなおばちゃんたちが懐かしい。
今日から福島に行ってきます。


 ☆後記☆
今週は火曜日が中学校の卒業式でした。柏中学校にI WISHの川嶋あいが来て歌ったそうです。曲は「旅立ちの日に」だったそうですが、あの卒業式定番の曲ではなく「明日への扉」だったそうです。川嶋あい、元気でよかったです。

     我が家の桃。予定通り見頃を迎えました。
 ☆ ☆
新刊本、やっと仕上げです。前回の本の発行から4年が過ぎてしまいました。いま現在、慌(あわ)ただしく、でも楽しく作業してます。発行は5~6月頃だと思います。「希望篇」です。タイトルは『子どもの希望/絶望の大人』の予定です。

     手賀沼の早咲き河津桜です。春ですね~

博士との遭遇  実戦教師塾通信五百九十号

2018-03-09 11:51:18 | 日記
博士との遭遇(そうぐう)
     ~「平和」を貫くために~


 ☆初めに☆
今回のジャンルは珍しく「日記」です。つい先日のことなんです。面白いことがありまして、こりゃお披露目(ひろめ)しようということなんです。オマエの記事はいつも真面目すぎるというクレームというか、リクエストじみた感想も結構あるので、この機会に少し息抜きしましょう。
まあ会社での面倒、また学校ということなら、職員室や子どもとのやりとりの時、多少はお役に立てるかもしれません。でも、接客対応には使えませんね。とにかく面白いんです。ねちっこく書いてみますね。

 1 鴨せいろ
 私はそばが好きで、お気に入りのお店にふた月に一度くらいお邪魔します。
 駅近くのお店なのですが、この日はちょうどお昼時で、店は家族連れや老若のカップルなどでほぼ満員でした。入口近くの10人ほどが座れる四角いコーナーに少し空きがあったので、私はそこに座りました。
 席の様子を少し説明します。この話で大切なことなんで。
 壁に沿った席だけが板敷きです。ここだけ3人ぐらいだったらゆったりと座れる。残った三辺には椅子が二つずつありました。板敷きのスペースには男の方がひとり、その向かいに夫婦が一組、その右側には男の方がいました。私は残った側のひとつに腰掛けました。図まで付けますね。

ここまでやるのは恥ずかしいので小さめにしましたが、大きくして見てくれても結構ですよ。
 先も言ったように店は混雑してまして、私が「鴨せいろ」を注文しようとしても、店員さんがなかなか対応出来ない状態でした。私の左にいる男の人が、
「おい、から揚げ頼んだんだけど来てないんだよ」
と大きい声で言います。店員さんは、順番にやっておりますので、と申し訳なさそうに言うのでした。
 この男の人なんですが、多分年令は私ぐらい。つまりお年寄りです。その風貌(ふうぼう)なんですが、お茶の水博士なんですよ。あのアトムの。鼻こそレギュラーサイズですが、髪型はまさしくソックリさんなのです。

   お茶の水博士(雑誌『少年』1962年11月号より)
 さて、店は満員。次々に来るお客さんは、入口であきらめて出て行く方もいました。でもその中で、いかにも残念そうにたたずんでいる老夫婦がいらしたのです。

 2 地球外生命体
「じゃあ、ここに座るといいですよ」
私は入口のそばに立っている夫婦に声をかけました。そして、お茶の水博士のコーナーへと身体をずらしました。すると、
「こっちに来ないで欲しいなあ」
と、博士は気難しげな顔を私に向けて言うのです。面白~い。博士の両側には、客が入れるスペースが充分にあるのです。博士の席を見ると、つまみが二三品、鎮座(ちんざ)しており、左手には酎ハイらしきグラスが握られておりました。
「すみません、詰めてもらえますか」
私は言いました。これは右側のスペースを私が断りもなく侵略したため、博士が憤慨(ふんがい)したのかも知れないと考えたから。ではありません。それより、こんな面白い相手と遭遇した幸福を、私は喜んだのです。博士は、私が地球の生物ではない連中(中学生)を相手にしてきた人類であることを知るよしもないのです。私はやる気満々になったのです。博士はそんなことも知らず続けました。
「オレはゆっくりしたいんだよ」
おお、やる気だ。でも、ここで店内の混雑や世間の常識を説く愚(ぐ)をやってはいけません。相手は地球外生命体なのです。そんな見極めは基本です。そんなごちゃごちゃをやって店内の人たちが喜ぶでしょうか。お客さんはお茶の水博士の正体が分からず、不安になっているだけなのです。その正体さえ分かればいいのです。でも、私が向かいに残された席にぐるっと大回りして移動するとか、老夫婦が遠慮していなくなるという結果は、博士の正体を「?」のままにするのです。それもこの人たちは望みません。そばの味にもいい影響をもたらしません。
 私の仕事は、あくまで相手の正体を確かめること、です。私は博士の右側を侵略したまま、
「どうぞ、ごゆっくり」
と、博士に言いました。
「これじゃゆっくり出来ないんだよ」
酎ハイのおかげで、赤鬼のような顔をした博士のやる気は続いてます。私も喜んで、嫌がらせを続けます。
「それじゃ私がもう少し端(はじ)にずれるといいですね」
でも、ここで終了のゴングです。
「どうぞ、こちらに来てください」
向かいに座っていた男の方が隣を指さし、私に声をかけました。残念。でもこれで店の中にいる皆さんには充分のはずです。これ以上の答を必要としていません。博士の出身が、それでは火星なのか木星なのか、もうそんなことはどうでもいい。ましては、この生命体と人類の最終戦争など見たくも何ともないはずです。ちょうどいい頃合いなのです。
「すみませんでした」
私は深々と博士に頭を下げたのでした。でもホントは、こんな楽しいひと時をくれた博士には、お礼を言うべきでした。
 そっと私にお礼を言う店の人、お辞儀をする老夫婦。いえいえそれには及びません。


 ☆後記☆
今回は相手が老人でしたが、電車通学(下校の時?)する高校生のマナーがなってないと、よく取り上げられます。そういう場面に遭遇したいものだと、今回のことで改めて思いました。車内の床に座っている高校生は、ごめんね、と私が言うと、以前は身体をずらしたもんなんですが、そんなことも出来なくなったのでしょうか。

     我が家の桃?の花。来週は満開になることでしょう。
 ☆ ☆
やった、イチローやりました! 嬉しくて胸が熱くなりました。今年もイチメーターのフィギュア、セットしました。

ちなみに向こうに見えるのが、ホンダCB750。手前はホンダがF1で初めて優勝した、1965年メキシコGPでのリッチギンサーのマシンです。
 ☆ ☆
あさってで、東日本大震災から8年。7年が過ぎました。私が行くのは来週になります。

 あと関係ないですが、ザギトワのおかげで秋田犬がずいぶんと話題になってます。でも秋田犬て、いつから「アキタイヌ」になったんですかね。気になってしょうがないです。

「分相応」  実戦教師塾通信五百八十九号

2018-03-02 11:55:35 | 子ども/学校
 「分相応(ぶんそうおう)」
     ~秋篠宮家の問題の向こう~


 ☆初めに☆
内定した皇族の婚約が「延期」という、これはもう事件と表現していい出来事が起こりました。報道されていることが、どの程度まで本当のものか分かりません。でもこの報道から、私の記憶のあるものが呼び起こされたことは確かです。
カテゴリーは「戦後/昭和」かどうか、ずいぶん迷いました。戦後/昭和がどんな時代だったのか、を思い出させる出来事でもありました。

 1 「貧乏人は麦を食え」
 ずっと前も書いたが、少し私の生い立ちを書いてからにしたい。
 私たちが育った時代は、「貧乏」があたりの風景になじんでいた。それでも私の家は「とびっきり」だった。
 暮れに毎年、地域(当時は「」と呼んでいた)の人たちが、
「今年も選ばれました」
と、粗末な毛布と味噌・砂糖を届けてくれた。一番暮らし向きの大変な家に、気持ちの品を届ける習慣がこの頃はあったのである。私はいつも喜んだ。
 中学生の頃まで、私の頭には虱(シラミ)がいた。蚤(ノミ)は当時珍しくなかったが、虱を飼っていたものとしては、おそらく最後尾の方に位置していたと思う。海外滞在者が持ち帰る今どきの「外国産」ではなく「純国産」である。
 給食のない弁当の時代、私の弁当は黒い「麦飯」である。同じく極貧(きょくひん)の赤瀬川原平が、
「麦の真ん中の黒い線のところで、半分に折れたらいいのに」
そうすれば黒さも和らぐのにとどれだけ思っただろうと、何度となく書いている。思いは同じものである。
「お化けの家に攻撃開始!」
と、傾いた玄関に石を投げて逃げていくガキども。55人いたクラスで、たったひとりの生活保護児童。自分だけずっと続いた寄生虫検査。あげればきりがない。

 そんな時だ。60年安保のあと退陣した岸内閣のあとを、池田内閣が引き継ぐ。所得倍増を政策に掲(かか)げた池田総理が、かつて大蔵省の大臣時代に言った言葉が再び取り上げられた。
「貧乏人は麦を食え」
正確な表現はこうではなかったようだが、世間にはこう流通した。私の家は貧乏なのだ、私たちは麦を食えと言われている。まだ小学生だった私の頭で、この残酷なフレーズが繰り返された。「分相応(な暮らし)」という言葉は、こんな時に使われることを成長したあとで知る。

 2 「仕方がない」
 もっと暮らし向きがひどい人もいた。そして社会にはもっとひどい目にあっている人たちがたくさんいることも分かっている。ことさらにこんな断(ことわ)りを入れるのは、私が、自分の過去を自慢げに語り、「弱者=善人」というレールを敷いていると思われると困るからだ。一生懸命生きている「普通」の人たちに、高飛車になろうとしているのではないからだ。
 私の経験したことは「仕方がない」ことだった。

 さて、私に舞い込んでくる相談の中に、少し困るものがある。

「スマホを買ってほしいというのですが、家にはお金がないんです」
「国立大学に行くほど学力はないけど、私立に行かせるお金がない」

こういう相談に対し、私は大体黙っている。どうしようもないからだ。買えないものは仕方がない。また、金はないがどうしても行きたい大学なら、勉強して国公立に行くしかない。勉強してダメなら仕方がない。
 憲法25条の「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」文脈の下に、生活保護や最低賃金などが施行(せこう)される。その不十分性をここでは書かないが、プライバシーを事細かにさらすことなしには支給されない生活保護。窓口業務は、自治体や「職員の資質」で全く異なる。昨年、私は実に細やかで親切な対応をするある自治体の対応を目の当たりにし、感動さえ覚えた。そんなこともあるのだ。
 しかしたとえば「一家全員がスマホ」という生活は、一体いつ「文化的な最低限度の生活」になったのだろう。報道はそこまで「サポート」しているように見えるが、そんな必要があるのだろうか。少し前までは、一家に一台のパソコンに家族がそれぞれパスワードを登録して使った。機能はそれで充分だ。しかし、全員が「持ちたい」という、そんな現実が堰(せき)を切る勢いだ。
 私が今回の「事件」でハッとしたのは、

「おカネがないのは構わない。分不相応な生活が問題なのです」

という、秋篠宮家の紀子さん?の発言である。「仕方がない」ことはつらいことではあっても、必ずしも「悪い」ことではない。あくまでそれは「仕方がない」ことなのだ。

 「仕方がない」ことの中でどうやって生きていくのか、大人は子どもと向き合いながら、きちんと考えないといけない。

 ことの真相がはっきりしない中で言うのは少し躊躇(ちゅうちょ)するが、ひと言。真子さんの相手方で、400万円あまりのお金の貸し借りが取り沙汰されている。これって、「あんなものくれてやるよ」でも「死に物狂いで返してやる」でもいい、どちらかのそういう捨てぜりふがあれば終わってるんですよねえ。


 ☆後記☆
ひとつ補足したいです。最近、福島で経験したことです。
「オマエ、大学に行きたいって誰に言ってる?」
親が子どもに言っているのです。お金の問題というより、一体何のために? 流行(はや)りで行こうってのか? と問いただしているように見えました。
すごい、今でもこんな風に言える親がいる、私は驚きました。懐かしい風景を見た思いでした。

     さわやかに紅梅。ご近所です。
 ☆ ☆
ドラマ『99,9』見てますか。前々回だったかで「訴因(そいん)変更」なる用語が登場しました。簡単に言えば「検察側が出した起訴内容を、自ら変えたいと裁判所に要求すること」です。少し驚きますが、珍しくないんです。傷害罪が傷害致死罪になったりと。そんなことはどうでもよろしい。
2005年に栃木県今市で起こった女の子の殺人事件、年が明けた1月の控訴審で、検察側が「事件が起こった場所と時間を変更したい」と言ってきたのです。『99,9』の展開が似てたんで驚きました。
そしてつい先日、女の子の傷から容疑者のものでないDNAが検出されていることが判明。
この裁判は物証が実に頼りなかったのです。そんな中、
「取り調べの録画で犯行を認めるのを見て、犯人だと『思った』」
という裁判員の発言を、私はいまいましく思い出すのです。
 ☆ ☆
館山いじめ事件の第三者委員会、今日は節目の第24回。地道で大変な道のりは10年目を迎えています。行って来ます。

    明日は雛祭りです。明かりをつけましょ。