実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

さらなる精進  実戦教師塾通信四百二十六号

2015-01-30 11:55:26 | 武道
 さらなる精進(しょうじん)
     ~白鵬ありがとう~


 1 日刊ゲンダイ

 千秋楽の夜、いても立ってもいられずNHKの意見・広報窓口に電話した。大相撲と白鵬のファンとしてである。千秋楽のこの日、私は表彰式の途中から横綱の顔が固いように思えた。相撲放送が終わってネットを検索してみて驚いた。「非行のデパート」なるバッシングの矛先(ほこさき)が白鵬なのだ。笑みの絶えた原因はこれかと思った。「引退しようかと思った」なる言葉も、このことなんだと思えた。日刊ゲンダイのこの記事は、6日目の遠藤戦のことを取り上げたのだろう、「張り差し」と「かち上げ」が中心だった。そしてさらに、懸賞金の受け取り方や様々な所作(しょさ)まであげてこき下ろしているのだ。
 遠藤戦に関しては、横綱自身反省し、
「こういうこともある」
と言っている。まあ、これを反省と言えるのかと思う向きもあるだろう。しかしここには「あってはいけないことだ」という思いがある。また、
「遠藤に対する歓声が大きくて熱くなった」
とは横綱自身の発言だ。この正直なところが横綱の類(たぐい)まれなところと言っていい。横綱は「未(いま)だ木鶏たりえず」をみずから認めている。
 号外まで出してスポーツマスコミはいいと思っているのか、と言わんばかりのこの記事に、私は驚くばかりだった。やっぱりいるものなんだ、こういう輩(やから)が。私は、この夜のNHKのインタビュアーがデーモン閣下だということを思い出した。閣下は、話を面白くするため、また横綱をさらに鍛(きた)え上げるためと、理由はいろいろなのだろうが、何かと横綱を挑発するような言い方をしてきた。しかし、今夜に限ってはどうなのだろう。
 以上のことを電話口で話した。
「(デーモン閣下に)いつもの調子でやられたら、横綱はつらいだろうし、寂しいんじゃないでしょうか」
窓口のスタッフが打つキーボードの音が、せわしく響いていた。
 うかつにも私は、「今日の日刊ゲンダイの記事」と伝えたが、その千秋楽の記事は『続報』で、前座は19日、つまり本場所の九日目だということをあとで知った。つまり横綱は、その月曜から千秋楽までの7日間の相撲をとり続けたのだ。
      
十三日目の稀勢の里戦、取り直しの一番。行司の三十五代木村庄之助なんですが、顔がすっかり緩(ゆる)んでて、う~ん、これは少しばかりまずいかな。

 この稀勢の里戦での物言いを、白鵬が「子どもでも分かる勝敗だった」と、翌日の記者会見で批判したことが、審判部の「決起」を促(うなが)すまでの騒ぎとなっている。このブログ発行のころにはどうなっているのだろう。この「本音」は、確かにうかつだった気がする。千秋楽のインタビューでは、
「もう一番とってやろうという気持ちだった」
と言っていた。そして、取り直し一番の仕切りの塩の時の爽(さわ)やかな顔からは、そんなことはまったくうかがえない。

 「引退」発言といい、異例づくめの横綱である。雑音への挑発なのか、いやこの場合は挑発に乗ったということになる。それともこの審判部への批判は、私たちなどには知り得ない疲労があったからなのだろうか。
      
 これは2010年11月16日の、対稀勢の里戦で破れた白鵬を知らせる新聞である。連勝が63でストップしたこの時、多くの観衆が「万歳」をするのは、私たちも記憶するところだ。地元九州の観客は、永久の数字と言える双葉山の「69」が守られたことを祝った。横綱は当時、このことを受けいれたのである。そのくらいの器量が、横綱にはあると思っている。いや、その器をも覆(おお)い尽くすことが続いていたのだろうか。「外人でも頑張っているんだ」というこぼし方も気になった。それにつけても、この「非行のデパート」なる記事のあとに、横綱はまず逸の城戦を戦い、その後大関/横綱戦をすべて圧倒したのである。私は横綱の胸の内を思うばかりだ。

 NHKの窓口スタッフは、ていねいな対応だった。私はこの夜のインタビューを見てホッとし、お礼のあいさつを入れた。


 2 汚(きたな)い手
 前も言ったが、日刊ゲンダイが非難している「張り差し」は、大鵬も良く使った。分かりやすく言えば、これは「フェイント」である。ボクシングで言えば、フックでもなんでもいいが、顔を打つと見せかけ、相手のガード(手)が上がったところでボディ(お腹)を打つ手と似ている。白鵬が相手の頬を軽くはたくと、固めていた相手の脇が一瞬甘くなる。そこで相手のまわしを取るのである。大鵬の「張り差し」の洗礼を受けたことのある北の富士だったか、
「軽くぱちっと入るんだけど、効(き)くんですよねえ」
と言っていたのを覚えている。
 実はこういうことを含めて、大鵬は「負けない相撲」と言われ続けた。私たちの時代も横綱の勝ち方が話題になった。ひたすら前に出ていく豪快な柏戸の取り口を讃(たた)える人も多かった。白鵬の周辺でもそんな喧騒(けんそう)が絶えないのだろう。遠藤戦で乱暴とも思えるかち上げをしたのも、張り差しというには力の入った張り手をしたのも、豪快にきめてやるという気持ちだったのかも知れない。本当はどっちでもいい。「剛」も「柔」も、どっちもいいのだ。しかし、柏戸で言えば、豪快な相撲につきものの「ケガ」に泣かされた。ケガがまったくないとほめられる白鵬は、大鵬に似て、これから「負けない相撲」などと揶揄(やゆ)されるに違いない。そして「後の先(せん)」を目指す白鵬に、今度は「省エネ相撲」などとチャチャが入るのは間違いない。まったく違うというのに、残念だ。


 3 後の先
「相手に相撲を取らせてから攻(せ)めているように見えますね」
と、今場所の白鵬の取り口をアナウンサーが言っていた。本人も言うように、「後の先」が始まったのだ。まだ身についていないため、無駄な動きもある。こなれていないため、横に変化しているようにも見えるが、目指しているのは「後の先」である。
 このことは、また来場所話題にする積もりなので、軽く触れるが、武道関係者は武蔵に「三つの先」があることを常識としている。
一 「懸(けん)の先」
二 「待(たい)の先」
三 「対対の先」
である。白鵬の、そして双葉山の「後の先」は、武蔵の二番目の「待の先」に近いと思われる。私の意訳だが、一部を書き抜くと、

「敵がかかってきた時、いきなり身体を引いて飛び掛かるとみせかけ、そこで見えた相手の隙(すき)を撃つ」(『五輪書』)

である。なんとも無味乾燥/実用一点な教えだと思う読者も多いのではないだろうか。『五輪書』が歴代の武道家に、そんな評価を受ける所以(ゆえん)である。しかし、ここに来るまでのくだりを抜きにしては、ことを誤る。
 武蔵は手や指のわずかな「間(ま)」(分かりやすく「長さ」と言って差し支えない)や、刀を振る「速さ」が勝負を決するとは言わない。

「(敵の)刀の刃、棟(むね)の道を弁(わきま)え」(同上)

ることが肝心だと言うのである。これも前書いたが、日本合気道の祖・植芝盛平が満州で銃撃にあった時、弾筋(たますじ)が見えれば避けることになんの雑作(ぞうさ)もない、と言っていたことと同じだと言ったら分かりやすいだろうか。これは「省エネ」でも「ずるがしこい」ことでもない。「流れ」「自然」の中に身を置くことだ。

 白鵬はこれからますます「体力の限界」だの「逃げた」だのと言われ続けるだろう。また、この連中が「横綱にないものをねだっていく」ことは見えている。そんな五月蠅(うるさい)周囲に対して、横綱が早まって欲しくないと思うのは私だけではあるまい。
 こんな意地の悪い世の中で、この横綱は、弱音と言うより本音と思える言葉を何度も口にした。それは「大変な時は口に出せるものなら出していいんだよ」と、みんなに教えているようだった。そんなことが本当に多かった。いやな思いをしている子どもたちや大人たちが、今までどれだけ勇気をもらっただろうか。
 白鵬ありがとう! 
 ゆっくり休んで。どうか早まらずに。
 またの精進を楽しみにしています。
            
            26日の新聞・住友林業の広告


 ☆☆
赤瀬川源平のお兄さんの赤瀬川隼さんが亡くなりました。学校で授業をしてくれないかと言ったら、知り合って間もないというのに、快く引き受けてくれたことを思い出します。15年前のことです。当時の教科書に隼さんの『一塁手の生還』が載っていたのです。
当日、私たちはずいぶん待たされたのですが、教室に遅れて入って来た隼さんは、駅の反対側に出てタクシーに乗っちゃってと、疲れた顔で笑ったものです。生徒の質問に、そういう考え方もあるんだなとうなずき、サインに応じ、給食を一緒に食べ、と色々な思い出が蘇(よみがえ)りました。83歳でした。

 ☆☆
「自己責任」の連中、まだ生きてたみたいですね。こいつらは、
「強姦されるのは強姦される方に原因がある」
って言い方を自分たちがしてるって、分かってません。

 ☆☆
このブログ始めて二回目かな。あとからの付け足し。
一段目の終わりに「お礼のあいさつを入れた」と書いたんですが、ここを誤解される方がいらっしゃったようなので念のために……これって「私が意見を言ったことでインタビュー内容が変わったから」なんて思うわけがないです。意見を言ったあとの礼儀と思ったから。当たり前ですよね。

『戦後70年の幸福論』  実戦教師塾通信四百二十五号

2015-01-23 11:47:39 | 戦後/昭和
 『戦後70年の幸福論』(上)
      ~父と母の歩んだ道(1)~


 1 弱者の声

 東京新聞の新年特別号『戦後70年の幸福論』で、山田太一と赤坂真理が対談をしていた。例えば、イスラム国に志願したという北大生のニュースに触れた時、私たちは、オウム入信を望んだ若者たち(の心)は、こんなところに行っていたのかと思わなかっただろうか。また、震災の時に堰(せき)を切ったように巷(ちまた)にあふれた「絆」のことなど、いちいちもっともなことが両者の間で交わされている。同じ「山田」でも、私は今まで「太一」の方には触発されてきた。
 そして、50歳になる赤坂の発言に私は注目した。大正時代の「モボ/モガ」(モダンボーイとモダンガール)対「女工哀史」、また昭和の「全共闘」対「集団就職」、「バブル」対「オウム」は「光と闇」の世界という認識だった。本業は小説家の赤坂は、『ヴァイブレータ』や『東京プリズン』で知られるらしいが、私はノンフィクションの『愛と暴力の戦後とその後』を求めた。
 礼を逸(いっ)しているとは思ったが、私は第四章まで斜め読みして、予想通りそこでたたずんだ。第四章は「安保闘争とはなんだったのか」であった。

「(学生運動が)なぜか社会に記憶されていない」(『愛と暴力の戦後とその後』より)

の一節は、私の背筋を伸ばした。筆者は学生運動の終わりを告げたのは連合赤軍の「あさま山荘事件」(1972年)だと言う。おそらくその通りだと思う。しかし、筆者も感じているようなのだが、本当の終わりはソ連解体の時(1989年)だと私は思っている。

 弱者の声というものは、常に強い風にかき消される。分かってもいない連中は、分かった顔して、
「もっと声を大にして訴えるべきだ」
「でないと、みんなに伝わらない」
などと言う。しかし、弱者は常に精一杯の声を上げている。その声が残らないのは、なんらかの「形」に残せなかったからだ。田中正造の声が残っているのは、足尾銅山が閉鎖されたからである。水俣の悲劇は、チッソの水銀垂(た)れ流しが断罪されたから、その時その後を残している。
 「ソ連という国」の登場(1917年)は、それまで書物の上での話でしかなかった、民衆の手による政治/生活というものが、現実化したことだった。その後、この国は強大な勢力を誇り、腐敗と堕落の道を進んだことは周知のことだ。しかし、この国の手助けがあってベトナムの解放があったことも間違いないことだった。なにより、
「パンをください」
と請願(せいがん)に求めた、日曜礼拝の20万の人々が、歩兵と騎兵に次々と殺される(1905年の事件は「血の日曜日」と呼ばれる)国に起こったのが「ロシアの革命」だった。この時、すでに武器も近代化され、戦争は国家総動員という時代だった。日露戦争で日本が破ったのは、無敵を誇ったロシアのバルチック艦隊だったことを思い起こしても分かる。組織された近代的な武装権力を持つこの国で、鍬(くわ)とハンマーしか持ち合わせない農民と労働者が革命を起こしたという知らせは、間違いなく世界を震撼(しんかん)させた。皮肉にもここで革命に対してある誤解が生じた。あとで書くが、ひとつには連合赤軍のような、
「何十丁かのライフル銃や爆弾で、戦争ができると思っている見通しの甘さ」(同上)
がそうだった。
 戦後の民衆の手による運動のモチベーションはどこにあるのだと訪ねたら、ほとんどの人が、この「ソ連」だと答えたに違いない。歴史上初めて「ソビエト」(今風に言えば「自治区」)となったペテルブルグという都市は、ついこの間まで、レニングラードという名前だったのである。
 ソ連が解体することで、ロシアの革命も「社会に記憶されず」にいるのだろうか。また赤坂が言うように、そこを源流とした学生運動も同じなのだろうか。今、どのように私たちに記憶されうるのか、私はまたしても試みないわけには行かない。


 2 二度大学に入った父
 1985年、茨城県で「治安維持法犠牲者を偲(しの)ぶ会」があった。治安維持法公布から60年を過ぎた時だった。その会があげる「不屈に闘った人」五名の中に父はいた。主催するのは、私が大学の時に決して相いれることのなかった組織の人々だった。しかし同時に私は、
「お父さんのころの共産党と、今の共産党は違うんだよ」
と母に言っていた。私はずっと「父の時代」を知りたいと思っていた。そして母の誘いで、私はこの集会に出向いた。
 父は大学に在学中、治安維持法に違反したかどで投獄される。父は48歳で病死するのだが、母はいつも、
「お父さんは、牢屋の中で身体を壊(こわ)したんだよ」
と言っていた。
 おそらく母も父の詳細(しょうさい)を知らない。しかし、この「偲ぶ会」で紹介された父の経歴は、それまであった私の父に関する空白を、驚きとともに埋(う)めたのだった。以下は「○」が父にかんするもの、「□」は当時の出来事である。
○1930年 大学入学
□1931年 満州事変
○1932年 病気のため中途退学
□  〃   5,15事件
□1933年 小林多喜二 特高警察による拷問死
○1936年 大学再入学
□  〃   2,26事件
そうして、父が大学を卒業するのは、満州とソ連を分けるノモンハンで戦闘が起こった年だった。
 父が投獄された正確な時期は分からないが、獄中での拷問は凄惨(せいさん)だったという。幼かった私には、話す由(よし)もない。その時、獄中の父に差し入れをしていたという女の方は「ワタマサ」の母だった。1928年、台湾で拳銃所持を見つかり、警官隊に包囲され、その場で自殺(警官隊が射殺という説もある)した、渡辺政之輔のお母さんである。私の「政人」はその一字をもらい受けた、という話は母から聞いていた。
 父は大学の卒業後、茨城の武器工場に就職。組合活動をしつつも、英語の通訳が出来るという理由で、どうもこの頃は優遇されていた気配もある。本当の大変さは、終戦後だ。戦後処理のひとつで軍関係の会社に解散命令が下る。もともと組合活動家だった父が、終戦と、この会社解散を機に共産党に入党する。このことで、父と母、そして私たちのとんでもない道が開けていった。終戦当初「平和革命」をうたった共産党は、1950年、再び武装闘争路線を打ち出すのである。
      
 私が大学時代、押し入れから引っ張りだした父の蔵書。右側はいわゆる「50年テーゼ」である。党員だけに極秘に配られた、日本共産党の「闇」の部分だ。


 ☆☆
今週の日曜は18日でした。「1,18」とは、紛(まぎ)れもなく「安田講堂」の日です。でも、読者もニュースで見たかもしれませんが、1990年のこの日、本島長崎市長が撃たれたんですね。この時の衝撃を、母が日記でつづっていました。市長が助かりそうだという続報のあとで書いたようです。
「良かった、本当によかった。こんなことで殺されてたまるか」
母の気持ちが凄味(すごみ)を持って伝わって来ます。父と母、今頃どうしているのでしょうか。
この連載、三回の予定です。

 ☆☆
今回のイスラム国による人質事件、どう思いましたか。私がまず頭に思い浮かべたのは、2004年のイラク人質事件のことです。あの時の政府の迷惑そうな顔。そして流行語ともなった「自己責任」。プラカード持って羽田までいった連中、どうしてるんですかね。もちろん、この急先鋒(きゅうせんぽう)だった、同時に海難事故で助けられた辛坊次郎サン、あなたはどうしてますか。

頑張れ、先生(下)  実戦教師塾通信四百二十四号

2015-01-16 11:35:18 | 子ども/学校
 頑張れ、先生(下)
     ~悪意/無邪気~

      
      グレイからずっと遠ざかっていた私ですが、最近聞いてばかりです
 
 卒業まで慣れたこの道で
 果たされなかった約束ばかりを数えていたね
 How are you darling?
 僕たちは何を願い泣いてたろう?
 ねえあれからどれだけの風に かすれた僕たちの声
 どれほど強く望んだことも 叶(かな)わぬ夢と笑った
                (『卒業まで、あと少し』より)

 1 ケッパレ

 私が先生になってすぐ、一年目のことだ。私は小学校の三年生を受け持っていた。いつも落ち着きのない、人一倍好奇心の強い男子が、休み時間にある女子をつかまえて、
「おい、ケッパレ」
と言うのである。私も周辺のみんなも、この「ケッパレ」が不可解で、
「おい、『ケッパレ』ってなんだよ」
と聞いた。言われた女子も不安そうに見上げた。
「こいつのケツ、膨(ふく)らんでっからさ、それでだよ」
なんのためらいもなく、こいつは言った。「ケツ」が「ハレ」ているからなのだ。
 学校そばのお菓子屋さんのこの女の子は、ふだんから泣き虫で、この男子の言葉を待っていたかのように泣いた。それが先かその前か、私たちはこの女子のかわいらしいお尻を思い、またそれをふだんから注目していたこの悪童の視線を思い、そして、それを形容するこいつの技術と結果に感心しと、様々な想像を働かせて大笑いしてしまった。女の子の胸の内を考えれば笑えないのだが、仕方なかった。そして、私はそのあと、
「違うんだよ。悪口じゃない」
「こいつはオマエをからかったんだよ」
と、女の子に言った。するとこの子は顔から手を下(お)ろし、
「からかったの?」
と聞きかえした。張本人の野郎も周囲のみんなも、そうだよ、と声を合わせた。女の子は安心したように笑ったのである。
 おそらくそういうタイミングだったのだ。今までもこんなことはたくさんあった。でもこの子は泣き続けた。しかし、この時はそうではなかった。今までのあり方に終止符を打ったのである。この女の子は今まで屈辱(くつじょく)を吸収し続けた。そして、この日初めて、「からかい」というカテゴリーを了解したのである。


 2 無邪気
 おそらくこの男子の両親のどちらかが、「性」のふるまいやあり方に厳(きび)しかった、あるいは厳しくされた過去をこの男子が持っている。そこで傷を負った分、異性に対する好奇心が強くなったと思われる。ちなみにそれは、良い/悪いという範疇(はんちゅう)にはない。深い/浅いの違いはあっても、誰もがこんな傷を負う。
 大切なことは、この男子がとった解決の方法(カタルシスと言っていい)が「無邪気」という結果を生んだことだ。分かると思うが、この結果はこの男子単独では得られない。周囲の了解と、女の子の心的成熟という三者の「場所」が成立しないと出来上がらない。このどれかが欠けてもダメだ。この悪童が単独で「ケッパレ」を宣告し、女の子が泣いた時、この男子に開かれる道は、「謝(あやま)る」か「逃げる」か、あるいはさらに「繰り返す(しつこくする)」しかない。「謝る」以外は、解決にならない。そして「次」がやってくる。無邪気なはずが、底意地の悪いいたずらに発展するのは、当事者たちの未熟と、周囲の「立ち会い」がないからだ。「当事者たちの未熟」とは、泣かせた方は相手の人格や「傷」を読む力のないことだ。泣いた方は、同じく「他人」という「未知の存在」を了解する力のないことだ。子どもの未熟は著(いちじる)しい。しかし、子どもはこの未熟さを、ひとりひとりの「他人」を経験することで克服して行く。まどろっこしいようで実は一番の近道だ。
 また、ここに立ち会う「周囲」が子どもである時、彼らは自分の未熟を克服する機会に遭遇したと言ってもいい。「そうだよ~」と言う彼らは、本当は目の前で繰り広げられる物語に対し、「そうなのか~」と思っている。立ち会いは当事者も集団も変える。


 3 悪意
 今まで何度か書いてきたとおり、今が不幸な時代であるとは、こういうことである。子どもたちが、「近くにいる者/立ち会う者」を持たないからだ。だから何かことが起こった時、子どもが抱えたことがらは「自分で」なんとかしないといけないからだ。
 子どもの三人にひとりが睡眠障害であるという現実に対して、原因を塾やスマホ(ゲーム)に特定するのも解決につながるのかも知れない。しかし私たちは「子どもたちのそばに私たちがいない」という肝心な部分に、大人として気づかないといけない。
 子どもたちが大人並みに、相手の都合や時間を「気兼ね」するようになってずいぶん久しい。子どもは「獣」(この言い方が分かりにくければ「動物」でいい)だ。相手の都合や気持ちをまったく考えないのが子どもだ。そんな大切な「獣」の時期を、ディスプレイ相手や自動的生活を過ごした子どもに、いいことが待っているはずがない。ずっと「ひとりで育った」子は「悪意もなく悪事を働く」。例えば、振り込め詐欺犯人の中学生も、「悪意もなく悪事を働い」ている。ていねいに追っていけば、実はこの「無邪気」に「邪気」が潜(ひそ)んでいたことを、本人もどこかで気づいた瞬間がある。私たちはその瞬間を見いだし、そして指摘しないといけない。その時がダメでも次の機会がある。子どもはどのみち子どもだ。いい意味では「分かる」時が、悪い意味では「馬脚(ばきゃく)を現す」時がくる。大人はそれを見定めないといけない。それが「そばにいる大人」の責任である。
 前著(『震災/学校/子ども』)でも取り上げたことだが、世間やマスコミが、愛子さんがいじめられていると、こぞって慰(なぐさ)みものしていたころ、
「いじめたという男の子は、このあとどうなるのでしょう」
と言ったのは天皇である。男の子の「先」を案じたのだ(確か転校したはずだ)。また言うが、これは、子どものことは大人が責任を負わないといけないという、注視すべき発言だと私は思っている。

 小学校に勤務している、我が塾でも優秀な塾生が、
「中学校は楽しいよ」
と、生徒に説(と)いている。私は言下(げんか)に、そんなことはない/そんな甘いものではない、と否定する。そして胸の内で、
「それはオマエの中学校生活が、たまらなく楽しかったからだよ」
と思う。

 汗を吸ったグランドの上 背なを照らす太陽が燃えている
                     (『卒業まで、あと少し』より)


「そんなオマエは、子どもたちに幸せをしっかり受け渡せるよ」
と思う。
 頑張れ先生。私たちは幸せだったことを、どれだけ慈(いつく)しもうとかまわないのだ。それは次の幸せになるのだ。
 最後に、同じく引用した歌からの一節。

 「優しさからはぐれそうな時、答えをあせらないで」(同上)

とは、紛(まぎ)れもなく好きな人からのメッセージである。これを全国の親/教師にも聞いて欲しいと言ったら、作ったタクロウに笑われるだろうか。


 ☆☆
ご近所の広幡八幡宮に遅い初詣(はつもうで)に行きました。
            
成人式の晴れ着を着た女の子もたくさん来てました。
「人形を処分したい方は受け付けまでお出でください」とあったので聞いたところ、焼却処分だが川に流すのと同じですよ、という返事。長年どうしようかと思っていた五月人形です。最後の見納めにと出して見たら、惜(お)しい/いとおしい、となり、結局今年から飾ることにしました。
      

 ☆☆
この間、テレビでたまたま女子の大食い選手権大会を見ました。静岡と福島の予選だったのですが、やせててかわいい子が多かった。でも、食べているうちに、だんだん醜(みにく)い表情になっていくのがたまらず、電源を切ってしまいました。食べ物もおなかもかわいそうに、と思うのです。もうお母さんになったというギャル曽根ですが、きれいでおいしそうな食べッ振りが懐かしいです。

頑張れ、先生(上)  実戦教師塾通信四百二十三号

2015-01-09 11:45:23 | 子ども/学校
 頑張れ、先生(上)
    ~懲(こ)りない不能状態~


 1 「先生、出てって」

 昨年もいいのか悪いのか、多くの相談をいただいた。年の初めに、それらの中では学校の縮図とも言える「保健室」のことを取り上げたい。今回は先生が相手の記事ということになる。しかし、この学校社会を、世間の目線から見てみるのも面白いですよ。まずは生徒の、よくある「お願い」&申し出から。

「カイロちょうだい。寒くてしょうがない」
「氷くれよ。熱くて死にそう」(もちろん夏の話)
「ストーブつけて。教室にはまだないし(11月ごろの話)」
「ジャージ(上着と思ってもらっていい)貸して」
「次の授業出たくないし。一時間休まして」
「こいつらと相談あるから。先生少し、ここ出てって」

中にはかわいらしいと思えるものもあるのだが、これらがかわいげのない態度で言われるので、私に報告されるのだ。(して)くれるのは当たり前だ、なぜそうしないのだという不貞腐(ふてくさ)った態度で連中がやって来るからだ。
 保健室&その備品は、それを必要な人のためにある。カイロは、冷える身体の病人がとりあえずの暖(だん)をとるために、氷は熱を出した病人、または打撲で炎症を起こしたけが人にあてがう為に。ジャージは、粗相(そそう)をしてしまったという生徒のためなど、緊急の場合に備(そな)えてストックしてある。生徒が寒いだの、忘れただのという理由であるのではない。例に挙げなかったが、この時期、マスクをくれと言ってくる生徒はごまんといる。
 信じられないことだが、そして面白いことに、多くの場合、これらの生徒のバックには「先生」がいる。


 2 「一時間くらい、なんだってんだよ」
 保健室での原則的な対応を、授業に出たくない生徒のことで考えてみよう。まず生徒は、「出たくない」とストレートに言わない。バレバレの状態であっても「具合が悪いから」と言う。そこで、
「次の授業に出られないんなら、まず(教科)担任に言いなさい」
と、指示。しかし、敵もしぶとい。行くのが面倒、あるいは担任からダメだしされるとあって、廊下で不貞寝(ふてね)する。それで仕方なく保健の先生は職員室に出向く。
「あの~、○○さん、具合が悪いって言うんですけど……」
「話聞いてやってくれませんか。廊下で寝てるんで」
ここまで極(きわ)めて原則的対応と思う。すると……職員の腰って重いのですよ。もちろん優秀な職場もあり、素敵な先生もいることは当然なことです。しかし大体が、次オレ授業あるんで、とそそくさと席を立つ人。または、聞こえない人たち。また、担任でとっても分かりやすい反応は、
「なんだよ。一時間ぐらい寝かせてやれねえのかよ」
「オレたちは一日中あいつらと顔突き合わせてるってのによ」
なんて反応をする。こいつにとって生徒が病人であるかどうか、そんなのは関係がないのである。つまり、生徒と同じ土俵にいる。
 このブログの読者(先生)にこんなバカはいないと思うが、こういう場面は腐るほど見ているはずだ。まあとにかく、保健室あるいは保健の先生への対応で、その先生のグレード/キャパが分かる。
 もちろん正当性があるのは保健の先生の方である。ここで管理職に、
「困ってます」
と言いに行くとすれば、その正当な理由を持つのは保健の先生。しかしこういう下衆(げす)野郎はそうなると逆恨(さかうら)み、今風に「逆切れ」するのが通常で、保健の先生の正当性は、大体が事務室あたりの「噂話」としてしか流通しない。こうして学校社会の「風通しの悪さ」は、内部でも温存されるである。


 3 風通し
 結局このことは検証されることなく、同じような「次」を迎えてしまう。では検証するためにはどうすればいいのか。簡単である。今は週二回か三回ある職員打ち合わせで、そのことを提案することである。自慢話と聞いて欲しくないが、私は年に一回必ずと言っていいが、「ジャージ」についてクレームをつけた。
 ある朝、保健の先生が立って発言。
「先生方、保健室に生徒がジャージを借りに来るのですが」
でも、それをやめて欲しいとは言わず、
「借りる時は担任を通すようにと言っていただけますか」
要するに、生徒が勝手に借りに行っているのである。しかし保健の先生、気をつかっているのである。私は間を置かず手をあげ、
「先生方、保健の先生はああ言ってくださいますが」
「保健室はジャージをレンタルするところではありません」
「生徒には『やめなさい』とはっきり言ってください」
ときっぱり言う。誰も反論なし。しかし、このあとが面白い。
 私は自分のクラスや学年の生徒が保健室に来てないか、または迷惑かけていないかと何かと保健室には出向く。その日もそうだった。すると他学年の生徒が、朝言ったばかりの「ジャージレンタル」にいらしているのである。理由が寒いだったか濡(ぬ)れたかもう忘れた。いやあ、こういう時はもう快感としか言いようがない。そこで私は、
「おい、担任から何も聞いてないのか。ここはジャージを貸すところじゃねえよ」
「ダメだって、コトヨリから言われたって、そう担任に言っときな」
「何か文句があるならコトヨリに言いなってそう言うんだぞ」
と言う。そのあと、その生徒がどうしたか知らない。担任は言い訳にも抗議にも来なかった。
 噂は噂でしかない。それは風でも風を通す窓にもならない。検証されないからだ。

 頑張れ、まじめな先生。有能は初めからあるのではない。幾多(いくた)の検証を通して獲得されるものだ。まじめを嫌うな、恥じるな。まじめは良いことだ。

「まじめにコツコツやっていればいつか分かってもらえる」

とは、大鵬が白鵬に言っていたことだ。頑張れ先生。


 ☆☆
新年が明けました。今年もよろしくお願いします。
考えて見ると、このブログの「子ども/学校」カテゴリー、久しぶりです。「子どもの声 騒音対象」「母・祖母殺害の少女」(北海道)など、話題には事欠かないのですが「なにがあったのだろう」という、まだ受け止め方を知らないままでいます。
久しぶりと言えば、今月号の『danchu』(「日本酒クラシックス」)に、久しぶりに吉本隆明の名を見ました。平松洋子のエッセイに登場します。胸が締(し)めつけられる思いです。

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昨日始まった日テレの『五つ星ツーリスト』(渡辺直美主演)ってドラマ、きっと面白かっただろうなあ。みたいのですが、深夜の配信とあって、年寄りには無理な時間です。地デジになってから、もう録画することを止めてしまいました。自分では良かったと思ってます。でも、今回のことは残念と思ったのです。……と言いながら、ホンダの参戦する三月からのF1中継は、健康被害覚悟で見ると思います。

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雑誌『大相撲』買いました。今までもこの雑誌はありました。でも、大きい書店でしか置いてなかった。それがコンビニですよ! お相撲さんも頑張れ!

平穏  実戦教師塾通信四百二十二号

2015-01-02 13:25:03 | 戦後/昭和
 平穏
    ~『一意専心』~

            
            初めての冬季札幌・大通り公園のテレビ塔

 1 生き残った人
 暮れにお見舞いに行った。月に一度も行かないが、ずっと長い付き合いの中、引きつけられるものを感じて来た方だ。昨年この方は、脳の発作(ほっさ)で入院後、施設に移った。高齢だが、若い時は組長の用心棒として働き、その後、一代で工場を立ち上げ大きくした人だ。しかし、今も昔の義理を欠かさないという人でもある。
「今日は忙しいんだ」
と元気そうに言った。会話の半分も聞き取れないが、私はいつも聞きかえさず分かる部分で話をつないでいる。
 世話になった叔父(おじ)が亡くなって、その日がお葬式だった。身体は動かなくとも心は会場なのだ。百歳近くの大往生(だいおうじょう)だったという。「東中野の」と言えば知らない人はないともいう。
「世話になったんだ」「百まで生きるって言ってたのに」
「みんな来てんだろな」
などと言ったあと、
「オレなんか死んじまえば良かったんだ」
と言った。
 私はどっかで聞いた言葉だと思って言った。
「津波で助かった福島のおばあちゃんたちが、あの時死んでいれば良かったってやっぱり言ってますよ」
そして、どう思いますか、と聞いた。社長さんはすぐに、
「いやあ、ばあさんたちは生き残る価値があって生き残ってんだよ」
「選ばれて生き残ってんだよ」
と言った。でも自分のことはそう思えないんだろうなと思い、
「そう聞いたらおばあちゃんたちが喜びますよ」
とだけ私は言った。本当に喜ぶかどうか、そんなことはいい。私がそう言うと、社長さんは、
「そう言っといてくれよ」
と言うのだった。そして、今は冬休みなんだろうと言った。いやあ、私はもうずっと休みなんです、とはもちろん言えない。
「休みなんだったら、また顔を出してくれよ」
珍しいことを言った。
 言われて私は、嬉しいのか悲しいのか、よく分からないままだった。よいお年を、とも言えないまま帰って来たのだった。
      
             雪に浮かび上がる旧北海道庁舎

 2 「きれいごとじゃない」
「そんなことはあとになって出てくることなんだよ」
暮れの居酒屋でTさんは言った。Tさんは某大手建設会社で世界中にビルを建て、デッカイ肩書を終え、今は自由の身となっている。二年前Tさんを知り、話すようになった。
 暮れのテレビタックルの猪瀬直樹を見られなかったこともあり、私はTさんから大手事業の話を聞きたかった。
 猪瀬直樹の『道路の権力』(2003年刊)は、ノンフィクションとしては大ブレイクの5万部を売り上げた。バブルも崩壊したあとであり、いわゆる「文字離れ」のご時世も考えれば、爆発的売れ行きである。そこで触れているが、道路公団が民営化されてのち、本州と四国をつなぐ橋(本州四国連絡橋)は、供用開始から膨大な赤字を抱え、年間八百億円の赤字累計はすでに一兆円を大幅に越えている。それを国と10の府県が払い続けている。この橋は、当初の予想をはるかに上回って「使われなかった」。四国という「地方」の活性化を目標としたこの橋の工事は、フェリー業界の反対を押し切って始められた。しかし、本州と四国の物と人の交流を自由に行き来させる、という当初の目論見(もくろみ)は見事に破綻(はたん)。本州からの人/物はまばらで、一方、四国から人や物が流れ出るという最悪の結果を生んだ。地方の活性化ではなく、衰退(すいたい)に手を貸している。こんなことが罷(まか)り通っていることをどう思うかという私の疑問に、Tさんは冒頭の言葉を口にした。
「途中では誰も言えやしない。分からないんだよ」
 さて、今をときめくリニアモーターカーによる移動は、東京-名古屋を一時間で結ぶ。膨大な工賃と掘り出される土砂はもちろん問題だが、そのリニア線で掲げる目標のひとつが、やはり「地方再生」だ。一体、誰が途中下車するのだろう。「日帰り出張」の距離がまたのびるだけである。新幹線で得た教訓がここで引き合いに出される様子はない。すでに今の時点で分かってるんじゃないのか。
「いや、あなたのように言う人が少ないということだよ」
Tさんは言った。みんなまだ分かってないと言う。確かに少ないのかも知れない。しかし、そういうことではない。私はここ何年か、いやずっと持ち続けている疑問を見たような気がした。
 私は原発を見ていて、また昨年の香港の「傘の革命」を見ていても思った。人々は原発(事故)よりも、今の平穏を脅(おびや)かされることを嫌っている。それで、
「自然エネルギーによる変換は大きな不安を伴(ともな)う」
「電力と経済の安定のためには必要」
と言われ、乗ってしまう。
「きれいごとじゃない」
というわけだ。しかし、小さなため池がバッテリーの役割を果たすことさえ、私たちはまだ知らない。
 また、規制委員会の田中委員長が、
「安全とは申し上げない」
と繰り返しているのは、政権と業界の圧力下にあってぎりぎりの抵抗と、私には思える。そんな中、川内原発立地自治体(県・市)が、「安全」は約束された、また「地元発展のため」に、
「いたしかたない」
と再稼働を受けいれた。避難経路のずさんさに抗議の声が上がっている。しかし、どこに逃げようとどうしようもないことを私たちは福島で見てきた。思うに原発の「安全神話」とは、上から押しつけられるものではない。人々が不安から目を覆(おお)って、今までの「平穏」が続くのを望むことで作られる。
 一方、香港の選挙「改革」は、立候補者が国から任命される人が選ばれるべきだ、という誰が見ても中国本国の不当な介入だった。しかし「民主派」の人々の抵抗が長引くと、それまでシンパシーを持っていた人々が離反し始めた。こういう時、そんな人々から言われる言葉はいつも同じだ。
「考えは分かるが、方法が間違っている」
そして、もとの平穏な香港に戻すべきだという商店主たちの反撃が始まる。彼らは政府からの雇(やと)われだという声もあるが、核心はそうではない。人々は平穏を望む。
 1960年代、黒人活動家キング牧師たちが抗議活動の中で一番恐れたのは、警察でもクー・クラックス・クランでもなかった。
「『正義』よりも『平穏』を望むおとなしい白人たちだった」
という。

「結局『金』なんだよ」
とTさんは言ったが、そう思えない私だった。
 私は思ってしまった。私たちが原発事故で突き動かされたのは、事故の悲惨さによってではなく、「もとの平穏を取り戻したい」と思ったからではないか、と。
 私たち戦後世代は、その昔、下着を重ね着し身体を丸くして、ようやく冷たい煎餅蒲団(せんべいぶとん)に入った。穴のあいた天井(てんじょう)と雨戸と、そして破れた畳から容赦なく寒風が寝床を通り過ぎた。あちこちに綿を見せる掛け布団の中で見た夢は「明日の平穏」だったのだろうか。今日のように明日も平穏でありますように、と私たちは願ったのだろうか。そんなはずはない。
 今はそんな時代は終わっているんだ、と思った新年である。

            
               真っ白にふぶくすすきの通り

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新しい年となりました。今年の「四文字」は、少し熱いかなと思える『一意専心』としました。いつもと違っている根拠はあるのですが、そこは「焦らず」「欲張らず」「謙虚」を外(はず)さないようにしたいと思っています。今年もこのブログ、熱っ苦しい/重ったいと思いますが、よろしくお願いします。

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『週刊現代』の年末年始合併号の「高倉建さんと暮らした三百日」って、見出し小見出し読んだだけでゲップって感じ。死人に口なしってこういうことですね。死んだあと、愛人が続々と請求書を持って来るっていう図とどこも変わらない。つまらん女にはひっかかるなっていう訓示ででもあるのでしょうか。
でも、「立派だった日本人」のコーナーは面白かった。長嶋さんやっぱりですね。大鵬も良かった。ランクインされなかった白鵬は、まだ早いってことですかね。あ、そっか、日本人ではないんだ。
            
              ウィスキー万歳! すすきの通りのニッカ