実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

大会 実戦教師塾通信八百六十六号

2023-06-23 11:35:37 | 武道

大会

 ~六年ぶりの代々木体育館~

 

 ☆初めに☆

剛柔流の全国大会は、思えば東京オリンピック開催に伴う整備のため、代々木体育館は使用出来ませんでした。その後はコロナの騒ぎのおかげで、全国大会が代々木体育館で開催されるのは六年ぶりのことです。

真夏日の代々木界隈は多くの人でにぎわい、神宮前では休日恒例、若者の躍る姿がありました。青々とした木々の間を縫って、ポルシェやベンツSLの上級グレードが山の手エリアを演出します。

 ☆宮城長順☆

今年は剛柔流の流祖・宮城長順が没してから70年の大会。長順の教えを書きます。

「人に打たれず 人打たず 事なきを もととするなり」

この日、宗家・山口剛史先生の大会を宣言する時にされたお話によれば、この教えは、

「人から非難されるようではいけない、人を誹謗中傷してはならない、事が起きたら平常心で対処しなさい」

となります。船越義珍の教え「空手に先手なし」は、実戦に際してのものと言えますが、こちらは普段の心構えです。

 ☆三戦(サンチン)☆

いつもの受付の場所ではなかった。通り過ぎた私を呼び止めてくれたのは、震災前に大学で、共に呼吸法を学んだベテランの門下生でした。元気そうですね、の挨拶が嬉しい。アリーナを歩く私を呼び止めたのは、雑誌『新・空手道』の藍原編集長でした。この人に聞けば、周辺の空手界の様子は大体わかる。流派同士の交流が始まってるようでした。

午後の競技が開始される前の集団演武。上段受け。その後は、山口先生が上級者を主導する「三戦」。

山口先生とツーショット。カナダ?の指導者に撮っていただきました。日本語は全くって感じの方だったので、下手くそな英語でも安心でした。少し分かりづらいですが、先生、道着ではありません。白の羽織と袴(はかま)です。

帰り際、今度は和服の方がにこやかに手を振ってる。先生の奥様でした。干物、ありがとう美味しかったわよ、と言われました。先日、いわき・四倉から「ニイダヤ水産」の干物を送ったのです。嬉しい。

 ☆☆

この前日、実は千葉県・柏に、将棋タイトル七冠の藤井聡太が、将棋AIポナンザ開発者とのイベントで来ていたそうです。少し前、ここで「将棋と武術は似ている」と書きました。さわりを書いておきます。

 武術における真剣勝負を、截相(きりあい)と言います。柳生新陰流では「刀中に身を蔵する」、つまり刀に我が身の入ることがスキのない状態となります。そして、相手の見えない仕掛けに応じる。これは受けのように見えて、相手の先を制することとなります。つまり実力の高い、実力の伯仲する者同士の戦いは、相手を制圧するというより、互いにより高い完成形を目指すものとなります。将棋と武術の似ている点、今日はこの辺で止めときます。

 

 ☆後記☆

その藤井聡太を囲む会でファンとの質疑応答、面白かったみたいです。子どもからのきわどい質問も出たようです。苦手な戦法は何ですかという質問には、ここでは答えづらいと、困ってる感じが笑えます。反抗期はなかったのですかの答が、プロ棋士の登竜門・奨励会の頃は、家でずい分怒りっぽかったという。意外と思えたし、納得もしますね。

賑わう神宮前。これでも人波が途切れた時に撮ったもの。そして、新しくなった原宿駅。以前の可愛らしい駅舎とは、すっかり変わってしまった、という印象です。駅前も表参道風になってました。

 ☆☆

最後に、先週のこども食堂「うさぎとカメ」の報告です。近隣の多くの学校は授業参観だったのですが、予想に反して多くの方がいらしてくれました。から揚げ屋のサンプルみたいに一杯作ったのが……もっと作ればよかった。

そして、野菜をたくさん寄付いただいて、皆さんに喜んでもらえました。

 ありがとうございました


攻防の極み 実戦教師塾通信八百二十六号

2022-09-16 11:19:14 | 武道

攻防の極み

 ~向かう場所と迎え撃つ場所~

 

 ☆初めに☆

大相撲、始まりました。読者から立て続けに「相撲」の話を聞きたい、というリクエストを受けました。「武道」について、ずい分書かずにいました。でも、相撲は好きですが、そんなに分かってるわけではありません。「生涯現役」とは何か、そして何ゆえに「生涯現役」が可能なのか、という話です。つまり、日本刀や身体への思いを書きます。

   

あと、なんですが、この「武道」カテゴリーは「武術」に書き換えないといけないと思ってます。

 

 1 道具の在り方

 足に一番負担にならない履物と言えば、逆説的だが履物を履かない状態ー裸足である。裸足は足を最も自由な状態とする。しかし、道路・地面の事情に合わせて、草鞋や草履が出来た。そして、固い舗装路に対応して、靴は生まれた。人類は足を守るため、足に様々な制約を加えてきたのである。裸足のときに足は最も自由だった、このことは重要だ。

 リンゴをむくのは、包丁よりピーラーでむく方が早いと思う人もいるようだ。しかし、リンゴ剥き器なら間違いなく早い。お気づきのように、包丁は極めて単純な形だが、他のふたつは、構造が次第に複雑になっている。

作業のスムーズ化を図るため、道具の複雑化を必要としていると言い換えてもいい。しかし道具の複雑化は、その役割を限られたものにして行く。ピーラーはニンジンやごぼうに、まだいくつか用途を残す。しかし、リンゴ剥き器となれば、リンゴを剥く以外に出来ることは何もない(多分)。一方、包丁はあらゆる果物や野菜の皮を剥くばかりでなく、切る・裁断することも出来る。様々な使用法は、私たちの身体が道具を機能的に扱うことで生まれる。あるいは、道具の有効性は、私たちの身体が道具と一体化されることで生まれる、と言ってもいい。以前書いたと思う。包丁でリンゴをむく時、私たちは包丁でなくリンゴを動かして行う。正確には、両手でリンゴを固定しながら包丁をあてがっている。身体の延長上に包丁がある。

 以前、ウクライナの記事「火炎びん」の時だったか、どんな時どんな武器が有効かという話を書いた。刀と拳銃、どっちが強いかという話で考えよう。刀の構造のシンプルさに比し、拳銃が複雑なことは間違いない。ここの話の続きをすれば、一定の距離を置いた二人が正面で向き合った場合、「そのための武器」の拳銃は圧倒的強みを見せる。しかし同時に、その時のため「だけにしか」役に立たないリンゴ剥き器のように、拳銃の役割も極めて狭い。1m以内に近づかれれば、負けは必至となる。なにせ、拳銃で防御・受けは出来ない。刀ではそれが可能だ。

 役割が数多く、構造がシンプルな道具・武器が役に立つか否かは、それを「身体化」出来るかどうかである。

 

 2 武器化した身体

 空手・唐手の武器について少し。写真はサイを操る厳誠塾の宗家・田中将護師範。

見て分かる通り、己の身体に密着し一体となることで防御し、反転攻勢をねらう。

 次が、二本の棒を鎖でつないだヌンチャク。大きさはサイと同じくらい。

ヌンチャクは、もみ殻を脱穀する際に使われた農機具から生まれたという。これも使用する際は身体に密着させる。ブルースリーのようにぶんぶん振り回すことを、本当はしない。身体から離れても一瞬である。前も書いたが、武器というものは相手の手に渡ると面倒なことになるが、このヌンチャクだけは一定の修練をしないと使い物にならない。振り回すと自分が怪我をするのは、ヌンチャクに言えることである。「身体化した」「身体に密着した」武器、あるいは逆に「武器化した身体」というものを、私たちは考え修練している。一体どのようなものなのか。

 摩文仁賢和著『攻防自在・護身術空手拳法』(1934年)を参考にしながら書く。身体の攻防、相手と向かい合うとは、どんなことなのかが肝心だ。下は、型・セーエンチンを分解したひとつである。

この部分を、実際を想定した稽古である。

分解組手、または約束組手と名付けられた稽古である。突きがそこに行きます蹴りが行きますよ、という約束の下での対処だ。お察しの通り、こんな約束をして相手は攻めてこない。型どおりに相手が動くわけがない。

**念のため断るが、受ける時に初めからしこ立ち(М字開脚)しているわけではなく、前に出ながら(または後ろに下がりながら)この形にとなっていく。

肝心なのは相手の動きに型のどこかが反応する、という武術的対応である。いわゆる「身体が反応した」ことである。それが可能だと考え、私たちは修練している。たまたま「道の器用」があって勝ったとは言わせない、と武蔵が言ったことを信じて修練している。この修練を最初のリンゴの話で言えば、包丁とリンゴを会話させ最良の関係を結んで行っているのが「リンゴを剥く」作業だ。最良の角度を見出し刃をずらす、これは大変な修練の結果だ。ゴルゴ13が、ダイヤの唯一弱い場所を唯一の角度で射撃し打ち砕いた(『死闘 ダイヤ・カット・ダイヤ』)話に重ねてもいい。

 相手の「懐(ふところ)を探す」とは、すきを見出すというより、相手に無駄な力の入っている場所へ向かうことであり、相手の重心を迎え撃つことである。相撲の力士は全員やっていることだが、見えやすいのは宇良、正統派では豊昇龍がそうだ。

 

 ☆後記☆

東京は神保町で、久しぶりに山本哲士のレクチャーに出向きました。今回のウクライナ侵攻に、エンデの『モモ』、宮崎駿の『風の谷のナウシカ』を重ねたものです。ナウシカは映画しか見てないので分からなかったけど、モモで展開される時間泥棒の話はやはり面白い。次回に少し触れたいと思います。25日にも埼玉の大宮でトークショウがあるそうです。近場の皆さん、お勧めですよ。

ハムハウス #8 ハムハウストークイベント「今を生きる!ナウシカの戦いと愛 対関係のたいせつさ」

  By ハムハウス

16時〜18時

場所:大宮、ハムハウス:さいたま市大宮区高鼻町2丁目1−1 Bibli 1階

https://humhaus008.peatix.com/view

 

 ☆☆

明日、千葉県柏の中学校は多くが体育祭。応援も徐々に復活してます。気合いだぁ

そして同じく、こども食堂「うさぎとカメ」、明日はハンバーガー

皆さん、おいでくださ~い


火炎びん 実戦教師塾通信八百六号

2022-04-29 11:19:02 | 武道

火炎びん

 ~ウクライナ侵攻・補(5)~

 

 ☆初めに☆

ウクライナから日本に避難して来た方への会見がニュースになりました。「ウクライナの平和を祈っています」の通訳は違っているのではないかと物議をかもした、あのインタビューです。「ウクライナの勝利を確信しています」という訳は、戦争を肯定する言葉になるのではないかと「配慮」した結果だと思われました。ウクライナの人たちの「戦争は嫌だ」ではない「ロシアに勝つ」思いを、強く印象付けた出来事でした。

「『市民を守るために降伏するべきだ』と主張する人に何を言いたいか」という記者の質問へのゼレンスキーの回答にも、同じものを感じました。「降伏すべきだと主張する」のは「私(記者)」ではないのです。この記者という輩(やから)が立つ「安全な場所」に笑ったのは私だけでしょうか。

 

 1 「非人道的」

 今回のカテゴリーは、久しぶりに「武道」だ。ウクライナの人たちが火炎びんを用意するシーンを見てから、ずい分経った気がする。読者の皆さんはあの時、どう思っただろうか。「戦車に竹やり」と同じではないのか、と思っただろうか。実は「戦車に竹やり」でも、十分有効性がある。確かに、竹やりが鋼を貫通するわけではない。すべては「間合い」が決する。

 最大規模の「間合い」は、大陸間弾道弾だろうか。いや、ミサイルでもいい。これらの武器が為すことは「破壊」「殲滅(せんめつ)」であるが、「制圧」ではない。あくまで敵地に踏み込まない限り、制圧は出来ない。そこでアメリカは戦後(1950年代)に、ネバダ砂漠を使って原爆を使った実戦訓練をする。原爆投下直後、爆心地点めがけて進軍するという、制圧に向けた訓練である。これで多くの兵士が大量かつ重篤な被爆をし、ガンにかかって死に至る。訴訟も起きるが、政府は「原爆との因果関係は不明」とする。また、この砂漠を使った西部劇映画の制作陣(有名どころではジョンウェインなど)が、同じくガンにかかって死んでいる。制圧までの戦略を考えた時、原爆は必ずしも有効ではないことを、アメリカ始め大国は学んだのである。「非人道的」な武器は「殲滅・全滅」や「降伏を許さず」を、主たる目的とする。原爆はまさに「非人道的」ではあっても、「勝利のため」の有効な武器とは言えない。プーチンもそれが分かっていて、放射性物質を使うことは考えても、原爆はあくまで威嚇(いかく)の道具にしているようだ。

 

 2 「間合い」

 戦車はどうか。分かると思うが、頑丈な鉄で固めたこいつの身体は、見返りに視界がほとんど遮(さえぎ)られている上に、武器が主砲以外に何もない。主砲は大きく回転するものの、攻撃出来るのは前方だけだ。それで仕方なく、天蓋(てんがい)を開いて兵士が頭を出し、小銃などで辺りをうかがうのである。そこに待ち構えた相手が、ビルの上などから不意打ちをする。なんだったら、大きな石を落とすだけでも十分な打撃だ。こんな時、火炎びんは実に有効だ。思い起こせば、1989年の天安門事件の時、火炎びんを浴びて火だるまになっている戦車をたくさん見たはずだ。鋼が燃えてるのではない、燃え上がったガソリンが戦車内に忍び込み、内部から火を出している。戦車の中で消化器って使えないはず。「アラブの春」の時、ビンの蓋に紙を詰めて投げる前に火をつける映像をよく見た。あれでは簡単に消される。ウクライナのものは「化学反応による発火」タイプだろう。あの時ニュースは、発泡スチロールが材料になると、信じがたいことを伝えていた。ここだけの話だが、「化学反応で発火」と検索すれば作り方はすぐに知れる。恐らく、一般人に入手困難な材料がひとつくらいはあると思うが、映画『パルチザン前史』(1969年)を見ると、火炎びんの製法が詳細に語られている。2年ほど前に見たら「悪用される恐れがあるため」に、一部削られていた。

 分かったと思うが、そして間違って欲しくない。結果を決定づけるのは「間合い」だ。これらは「相手が近くまで来た時」「相手を引き寄せて」有効なことである。自動小銃と拳銃が3メートルの至近距離でよーいドンをする時、ゴルゴ13のような超スナイパーでなければ、機動的な拳銃が優る。槍と刀も同様、槍の切っ先を見切れば勝敗は決まる。もちろん柄(え)の部分で防御は出来るし、本体を反転し攻撃に転ずることも可能だ。しかし、槍の刃が攻略されればお終いである。ましては狭く閉じられた場所では、刀が圧倒的に有利となる。

 さらに思いがけず、出合い頭で相手とばったり対面したとなれば、最も有効なのは格闘技なのだ。武器というものは、どんな時も「準備」する態勢と時間が要る。さらに厄介なのは、武器というやつは相手の手に渡ると、相手がそれを使えることだ。核のボタンを有しているプーチンが、柔道をたしなむ所以(ゆえん)である。

 

 ☆後記☆

知り合いが「頼まれて映画に出たよ!」というもので、『とんび』見て来ました。原作が重松清なので期待できないと思ってましたが、やっぱりそうでした。昔は良かった的ノスタルジックな基調が、画面にあふれてしまうんですよね~ 涙を誘われる場面はあるのですが、それはそれ。ジョージルーカスの『アメリカングラフィティ』みたいなもんです。

 ☆☆

市立柏高校の生徒「転落」事件の報告書が出ました。複数方面から「分析並びにコメントを」と言われていますが、まださわりの部分だけしか読んでません。近いうちに書こうと思います。

今年も庭に紫蘭が咲きました。去年も書きましたが、年々増えるんです。可愛いです。

これは何だと思います? 柏市内の大堀川に置かれた石の上にいるのは……亀なんです! いい日和に皆さん、気持ちよさそうに甲羅干しでした。

そしていよいよ、ゴールデンウイークです! ゆっくりしましょうね。バンザーイ


ルール 実戦教師塾通信七百七十二号

2021-09-03 11:52:14 | 武道

ルール

 ~「公平」とは違う世界~

 

 ☆初めに☆

九月場所が目前です。大相撲が始まります。先場所の横綱・白鵬の取り口について、ずいぶん騒がれました。私のところへも意見が寄せられました。多くが「ルールを明確にする」ことで、弊害はなくなるんではないかというものです。大相撲の審判部や親方衆は口を濁しました。でも、これは問題をあいまいにするとか、白鵬を甘やかすというものではなかったと思います。

ここには「闘い」というもの、とりわけ格闘技系の持つ特性があります。難しい問題なのです。白鵬が、その「難しさ」をないがしろにしてしまった、という記事になります。

 

 1 訴えないわけ

 まず私の実戦上の経験から始める。私は空手の稽古の最中、目を抜かれたことがある。幸い、それが白目の部分で、指が奥まで到達しなかったのが幸いし、「これは大変な怪我です」と病院で警告されたものの、無事に回復した。いまも右目の白目は、内側をよく見ると年輪のように指跡が残っており、この時から右目は乱視となっている。もちろん(目の)抜き手は禁じ手である。試合であれば負けが宣告される。しかし、この時の私もそうだが、反則行為があっても抗議しない。反則とはいえ「技」が入ってしまったことが重要なのだ。目をねらうのが禁じられているものの、目を無防備にしていいというものではない。私の場合、顔面をねらった拳(けん=こぶし)が開いてしまって、指が入った。その指は回避しないといけない。

 相撲で、髷(まげ)に手がかかったかどうかで物言いがつき、双方の力士が土俵下で待つという場面をよく見る。待っている力士は黙って待つ。それは審判部に一任しているからとか、作法として必要だから等ではない。髷をつかまれた力士は、反則の有無よりも負けたという事実の方に沈み込んでいる、はずだ。野球でも、ボールにヤニをつけているかチェックするのを、打者全員が果たして気にしているのだろうか、などと素人の私は思う。ヤニのおかげで回転やスピードが上がったとして、それも打たなきゃと思う選手がいないとは思えないからだ。ラグビーの試合を見た時に感じた気分の良さに、思いは共通する。シンパ~ン、いまの反則です、取ってください的アピールが全くないからだ。サッカーには無数にあるこのシーンが、私にはとても醜悪にしか思えない。それで、自分でやるのは好きでも、観るのは嫌いなサッカーとなっている。

 

 2 不可能な「作法」の改定

 相撲の48手は、足を使った「かけ」/手による「投げ」/腰を使った「ひねり」/頭を使った「そり」を基本に、それぞれの12手を「決まり手」とし、合計したものである。成立は奈良時代と言われる。この時、今では最も強い勝ち方と言われる、「押し出し」「寄り切り」が見当たらない。土俵が無かったからだ。昔の相撲は、今風にギャラリーと呼ばれる、野次馬や見物人が取り囲んだ中で行われた。興奮した群衆が、相撲を邪魔しないように設けられたのが土俵だ。そこで初めて「寄り切り」「押し出し」が生まれる。

 48手以外で、禁じ手となったのが「蹴る」「殴る」「突く」である。これが結構、難解だ。「突っ張り」は、もちろん「突く」のだが、手を開いているので「突く」にならない。「張り手」も手を開いているので「殴る」を免れる。ちなみに、顔側面を張られる時、力士はまともに耳も食らうことも多い。我々ならもちろん即死であるが、左手で右の耳を抑えられて、反対の手で左の耳に張り手を食らえば、お相撲さんと言えど脳内圧力が異常になって死にます。禁じ手なのかどうか知らないが、誰もこれをやらない。「突っ張り」はともかく「張り手」は、相手のスキを誘うものだからだ。相手を倒すものではない。「け返し」はもっと微妙だ。キックボクシングや空手の「ローキック」に見えなくもない。しかし、これも「突っ張り」と同じく、蹴りで相手を倒そうというものではない。相手のバランスを崩しながらの「投げ」が伴わないと決まらない技である。「蹴り」だけで相手を倒そうとした時には反則となる。

 つまり、その見極めとなると結構難しい。そこまではとか、それはまずいんではないかという、言ってみれば「作法」に近い暗黙の了解が、その場を仕切っている。白鵬が、先場所の対照ノ富士戦で見せた執拗な「突っ張り」はマナー違反で、相手のスキを誘う戦略を逸脱する「失礼」なものだった。マナーや作法破りを、横綱たるものがしてはいけません、という問題である。

 この部分に手を付ける「ルールの改定」なんて、始まったらきりがない。ろくなものではない。

 さあ、照ノ富士の新しい、楽しみなスタート。隆の勝は足を揃えてぶつからないこと。踏み込んで立ち会って。

 

 ☆後記☆

いやあ、長雨とは言うものの、涼しくなりました。ありがたい、ホントにありがたい。

これはまだ残暑厳しきおり、2丁目に没する太陽です。そして今、すぐ近くの大津ヶ丘の田んぼの稲穂は、黄金一色となっています。

最後は先週に引き続き、「和さび」のテイクアウト。家呑みセットと、サバの竜田揚げ&おにぎり。「和さび」のサバが食べたかった。やっぱり美味しかった! おにぎりは蕗(ふき)みそを乗せたのが、いいんです。穴子の煮凝(こご)り寄せも旨かったなあ。食欲の秋。もう1キロ太っちゃいました。

菅総理、辞めるんですねえ。


復活? 実戦教師塾通信七百六十六号

2021-07-23 11:49:34 | 武道

復活?

 ~さようなら、白鵬~

 

 ☆初めに☆

制限時間一杯でにらみ合う両者を批判する向きもありましたが、照ノ富士が白鵬から目をそらさずに、堂々と最後の蹲踞(そんきょ)する姿は、見ごたえたっぷりでした。にらみ合いなど、問題にすることではない。後味の悪さは、その他の所にありました。

朝日新聞より。最後の小手投げ。

振り返れば、土俵下から審判に待ったをかける不作法は文句なしにひどかった。その他、万歳三唱や三本締めなど、白鵬に多くの「過失」はありました。しかし、それをカバーして余りある実績が白鵬にはあります。優勝回数だけではない、野見宿禰(のみのすくね)や双葉山に始まり髷(まげ)をめぐる歴史まで、白鵬には相撲文化を日本人以上に愛する姿があったのです。東日本大震災の後、被災者から頼まれ海に向かって土俵入りした姿は、今も記憶に鮮やかです。土俵入りのあと余震が減ったという感謝の言葉を、白鵬は受け取っています。

でも、もう違う。人は変わる。まさか白鵬に、この言葉がずっしり寄り添っているとは思わなかった。悔しくて仕方がない。

 

 1 「そんなにしてまで勝ちたいのか」

 二年前の五月場所で栃ノ心と対戦し、まさかの物言いの後で勝利した朝乃山の言葉だ。

「一生残るんじゃないか」「昨日の相撲はすみませんでしたと謝りたい」

土俵際の下手投げで、完全に栃ノ心の勝ちと見えた取り組み。自分でも負けたと思っていた朝乃山に、この後白星と優勝が転がり込んだ。自分は負けていた。それほどまでして勝ちを得たいとは思わなかった、という朝乃山の言葉だ。

 何度か書いた。朝青龍と白鵬が勝ち星を重ね、千秋楽を迎えるという状況下、朝青龍が体力を温存し、星を得る目的で変化し白星を重ねた。直後、白鵬は朝青龍に対し、変化して勝ちをもらう。「あなたがしたのは、こういうことです」、朝青龍を土俵で見下ろす白鵬は、そう語っていた。そんな自分の姿を、白鵬は忘れたのだろうか。名古屋場所13日までの立派な相撲/復帰戦は、残り二日間ですべて台無しになった。

 

 2 「技」

 繰り返し問題として取り上げられる「かち上げ」。今場所見せなかったこの技を、千秋楽の照ノ富士戦で初めて見せた。いまだに素人筋から「ダメというならルールを変えるべきだ」という声があるが、関係者は「かち上げとひじ打ちは全く違う」と繰り返し指摘している。白鵬のやっているのは「ひじ打ち」であって「かち上げ」ではない。何度も書いたが、以前、妙義龍戦で見せた「かち上げ」で、妙義龍は土俵上で痙攣を起こし立ち上がれなかった。あれは上体と上腕が一体となった「かち上げ」である。ツボに入った偶然を「技」にまで高めようと、白鵬は稽古を重ねるが失敗した。その結果が「ひじ打ち」だ。遠藤や豪栄道は、失敗作のおかげでさんざんな目にあっている。それを封印しようという白鵬の思いは、使用頻度の低さで伝わっていた。しかし、まさか復帰場所、それも大切な千秋楽での再来。

 前日の正代戦で見せた、徳俵ぎりぎりまで下がる取り口。親方衆は「弱い相手のすること」と評した。私は「相手のかく乱を誘う作戦」と見ている。以前、栃煌山戦で使った「猫だまし」と同じ目的である。相手を侮辱する取り口と言える。しかし、正代があまり動揺する様子を見せないとみるや、白鵬は激しい突っ張りに転じる。今度は怒りを誘おうとする作戦である。私に言わせれば、千秋楽でようやく勝ち越しを決めて小躍りするような「大関」相手に、どうしてあれほど警戒をするのか、理解に苦しんだ。稀勢の里がまだ大関の頃、白鵬の感情を高ぶらせようとして取ったのが、この「突っ張り」である。稀勢の里から学んだというには、白鵬はあまりに「大」の付く横綱である。この突っ張りを千秋楽でも使う。そっちが怒るまで続けるぞと言わんばかりの執拗さは、照ノ富士の逆鱗に触れる。照ノ富士がまんまと白鵬の作戦に乗った形だ。白鵬の技が勝ちを収めたのではない。下品な作戦が功を奏しただけだ。

 

 3 「相撲よ!」

 白鵬の著を何冊か読んだ。一番は最初に出した『相撲よ!』だと思う。双葉山が69で連勝が止まった時、「我いまだ木鶏(もっけい)たり得ず」と語った時のことを、当時は(!)かみしめるように言った。

「私は人から優しいとか、闘志が顔に出ないなどといわれるが、この(双葉山の)『泰然自若』の状態を目指してそうしているからなのだ」(「相撲よ!」より)

今場所13日までの取り組みの要所にも、確かに「未熟な点」(同書より)は見られた。遠藤戦では、やはり熱くなるし、隆の勝戦では完全に追い込まれた。しかし、ここでも全盛期を思わせる対応の早さを見せ、思わず土俵下の審判部を見渡す目はいたずらっぽかった。それとは対照的だったのが、大栄翔戦と高安戦。白鵬の身上としている「流れ」。土俵上では流れが目まぐるしく変化する。その変化を一瞬で見極め、新しい流れに合わせていく姿に、誰でもをうならせるものがあった。北の富士さんいうところの「これが出来ちゃうんだよなあ」だ。

 私たち格闘技・武術を学ぶ者の多くは、そのきっかけに「勝つならきれいに」というものを持っている。死に物狂いの相手に、自分は平然としていたい、という在り方だ。「泰然自若」を目指した白鵬も同じだった。勝つだけなら、闇討ちや多勢に無勢や武器使用など、方法はいくらでもある。きれいな勝負だからこそ、勝とうが負けようが相手を尊敬できる。だから「試合」を「仕合」、別読みで「つかえあう」という。白鵬の最後のガッツポーズを見て、朝青龍の再来かと思った人は少なくないはずだ。「もう執念ですね」、待ってましたと舞の海が喜ぶ。

 「食道がん」(柳生新陰流・前田英樹氏の説)に冒され苦しみ、それでも霊厳洞まで這うように通って書き上げた、武蔵の『五輪書』。

「われ三十にして跡を思ひみるに、兵法至極にして勝つにはあらず。おのづから道の器用ありて天理を離れざる故か。または他流の兵法不足なるところにや」(『五輪書』・地の巻)

一体何度引き合いに出しただろう。六十回以上戦って負けを知らないまま三十を迎え、その後三十年稽古を重ねた武蔵の言葉だ。負けなかったのは、生まれついた自分の身体や資質によるのか相手が弱すぎたのか、いやそんなはずはないという強い思いがここには記されている。その理由の解明に、武蔵は執念を燃やした。これも執念だ。しかしこれは、白鵬のような勝ち負けへの執念ではない。

 観客席の白鵬の家族「全員」の涙は、おそらくここに至るまでの白鵬の大変さ苦しさを示している。祝いねぎらう家族も、きっとつらかった。でも、もういい。家族の誰かがそう思っているような気もする。

 悔しいし寂しいけれど、そして再生する日が来る奇跡を願わないこともない。でも白鵬、さようなら。

 

 ☆後記☆

なんか、オリンピックが大変なことになってますね。「安心・安全」でないものに「万全を期す」って、「ある程度覚悟する必要があります」のようにしか聞こえません。それと、あれよあれよって感じの関係者の不祥事と、その気もない「謝罪」。今回の五輪って、相当なレベルの突貫工事だったのですねえ。

オリンピック見るかって? 内村君と大坂なおみは見たいかな。池江選手の表彰式も。あとは別に。それよりオリンピックのせいで、大リーグが見れなくなってる。そっちが悲しい。

 ☆☆

最後に先週の「うさぎとカメ」で~す。ターメリック風味のピラフ、絶賛の声をいただきました。