ブルース・リー
もう閉鎖された避難所の「所長」がブルース・リーを好きで、夜よくテレビを独り占めにし、そこでブルース・リーのDVDを見ていた。私もブルース・リーを好きなので、一緒に見た。たくさん見ていたが、私が一緒に見たのは『燃えよドラゴン』と『ドラゴン怒りの鉄拳』である。たくさんのインチキがあるのだが、エンターテイナーとしてのブルース・リーとして見れば、その映像とのマッチングは絶妙だ。
昔、これらの映画が公開になった頃(日本での公開は『燃えよドラゴン』1973年、『ドラゴン怒りの鉄拳』1974年)は私も空手とは無縁で、その闘いぶりに舌を巻き、信じられない思いでスクリーンに釘付けとなった。
冷静に考えれば分かるのだが、多人数を相手とした渡り合いは、いわゆる「殺陣」の動きと同じで「打ち合わせどおり」でやればいいだけなのだ。しかし見る方は、背後にいる相手をどう攻略したのだろう、などと呆気にとられているのだ。完全に映像に呑まれていたのだった。
一体どうなっているのだ、と「所長」が私に言いながら見ていたシーンのインチキのひとつ、
(フィルムカット)
『燃えよドラゴン』の前半は、香港の沖合の小島で巨漢ウィリアムスと闘うシーン。手合わせをし、試合が始まってすぐにリーの裏拳が相手ウィリアムスの顔面を捉える。それが数度繰り返される。まさに目にも止まらぬ早業だ。しかし、私が稽古を積むようになって改めてその映像を見ると、画面が飛んでいることに気付く。ウィリアムスの掌近くにあったリーの拳が、一気にウィリアムスの顔面に移動している。間がカットされている。どうりで目に止まらないわけだ。しかし、そのインチキはブルース・リーのパフォーマンスによって覆われてしまう。映画っていいでしょう、とリーが微笑んでいる。それに私たちは共感していたのだ。
(早回し)
ブルース・リーがヌンチャクを回す。「所長」も私愛用のヌンチャクをリーもどきでおっかなびっくりでやっていたが、まず言えるのはブルース・リーの回し方は完全に「営業用」で、まったく実戦では使えないこと。自分の周囲50㎝ほどのところを回した所で相手は怖くない。自分に向かっておらず、見せることに徹しているからだ。それに棒がどこに移動するか分かってしまう回し方なので、防御にもならない。
インチキなのは、このシーンを撮る時ブルース・リーは、ヌンチャクを本当はゆっくりと回していることだ。ヌンチャクを回すシーンだけは、ブルース・リーの瞬きが異様に多いことでそれが分かる。ついでに言うが、ブルース・リーの使用しているヌンチャク、ゴムである。樫のような効果音を出しているが、うかつにも『怒りの鉄拳』で曲げてしまった。実に情けないエヌジーだが、香港映画にはよくあることで、後にハリウッドで大ブレイクということが分かっていれば、こんな凡ミスは放置しなかったはずだ。
(東洋の肉体)
さて、以上は前座だ。世界が注目したのはブルース・リーの「肉体」である。それまで男らしい男の肉体とは、全身を覆い尽くす筋肉のことを意味していた。リンゴを握り潰し、あるいは四トントラックをロープで牽引する力だった。ブルース・リーはそれを変えてしまった。華奢な手足は、その引き締まった節の部分でメリハリを際立たせていた。そして、痩せているかに見えた身体は、いざとなるとその深い所から鍛え上げた筋肉を外に露出させるのだった。
それはまさしく今までの男らしい身体と違っていた。しかし、まさしく「闘う」身体だった。東洋の私たちが目覚めたと言っていいかも知れない。戦後、テレビ時代の幕開けとして華やかにデビューした「力道山」。欧米とりわけアメリカに対する偏屈なまでの劣等感を力道山はものの見事に吹き飛ばした。あの感覚と似ているかもしれない。
少し脱線するが、まだ父が生きている頃だから、私が小学校に行き始めた頃だと思うが、兄弟二人で力道山に「サインをください」と、手紙を出したことがある。父の「返事なんか来るわけないだろ」の声をよそに、私には葉書で、兄には写真にサインが届いた。父は前言を翻して「大したもんだなあ」と言っていたことを思い出す。
ブルース・リーの上陸とほぼ時期を同じくして、極真の大山倍達がクローズアップされる。日本に空前の空手ブームが訪れる。流行に便乗したわけではないのだが、この頃私も空手を始める。
この東洋の肉体は自在に身体を操り、実に分かりやすく相手を制圧する。それは従来の西洋的な「潰す力」ではなく「刺す力」のように見えた。しかし、それが「面」に対する力でなく「点」に対する力という点で違ってはいても、力対力という点では同じだということに気付いたのは、ずっとあとのことだ。パワーの対決という点では同じだということに気付いたのはやはり、自分自身の身体の衰えを考えないといけない四十路に入る頃だった。
そうして昔の達人の姿を見てみると、ことごとく彼らのお腹は出ていた。おそらく今流行でいう「体幹」、あるいは「丹田」が鍛えられていたことの証だろう。武蔵の、
「楔をしむるといひて、脇差の鞘に腹をもたせて、帯の寛がざるやうに、楔を締むるという教へあり」(『五輪書』水の巻・より)
というくだりに見れば、やはりお腹と刀は共存していたようだ。
肉体が違えば、「勝負」も違っていた。以前お知らせしたかと思うが、山本哲士と前田英樹両氏の座談会(『季刊iichiko 』111号に収録)で学んだ多くの中に「勝負」もあった。それまで(戦国時代)は、相手を否定することが勝ち負けだった。一方が他方を否定することが、勝ち負けだった。しかし、その対立を消すことを目標としたのが柳生新陰流であり、武蔵だった。
例をあげて考えよう。相手が切ってくる、かかってくる、突いてくるというその時(またはそれ以前)は、相手と自分の直接のコンタクトはない。山本氏いう所の「未分化」な状態だ。それを撥ね返すことは相手を「否定する」行為となる。この時相手と一体化していくことが「非分離」の状態になることだ。それを前田氏は「あたかも、双方がその勝敗に協力しあうかのように働く」と話す。
深い理想の極みから「勝敗」を考え、精進したい。
もう閉鎖された避難所の「所長」がブルース・リーを好きで、夜よくテレビを独り占めにし、そこでブルース・リーのDVDを見ていた。私もブルース・リーを好きなので、一緒に見た。たくさん見ていたが、私が一緒に見たのは『燃えよドラゴン』と『ドラゴン怒りの鉄拳』である。たくさんのインチキがあるのだが、エンターテイナーとしてのブルース・リーとして見れば、その映像とのマッチングは絶妙だ。
昔、これらの映画が公開になった頃(日本での公開は『燃えよドラゴン』1973年、『ドラゴン怒りの鉄拳』1974年)は私も空手とは無縁で、その闘いぶりに舌を巻き、信じられない思いでスクリーンに釘付けとなった。
冷静に考えれば分かるのだが、多人数を相手とした渡り合いは、いわゆる「殺陣」の動きと同じで「打ち合わせどおり」でやればいいだけなのだ。しかし見る方は、背後にいる相手をどう攻略したのだろう、などと呆気にとられているのだ。完全に映像に呑まれていたのだった。
一体どうなっているのだ、と「所長」が私に言いながら見ていたシーンのインチキのひとつ、
(フィルムカット)
『燃えよドラゴン』の前半は、香港の沖合の小島で巨漢ウィリアムスと闘うシーン。手合わせをし、試合が始まってすぐにリーの裏拳が相手ウィリアムスの顔面を捉える。それが数度繰り返される。まさに目にも止まらぬ早業だ。しかし、私が稽古を積むようになって改めてその映像を見ると、画面が飛んでいることに気付く。ウィリアムスの掌近くにあったリーの拳が、一気にウィリアムスの顔面に移動している。間がカットされている。どうりで目に止まらないわけだ。しかし、そのインチキはブルース・リーのパフォーマンスによって覆われてしまう。映画っていいでしょう、とリーが微笑んでいる。それに私たちは共感していたのだ。
(早回し)
ブルース・リーがヌンチャクを回す。「所長」も私愛用のヌンチャクをリーもどきでおっかなびっくりでやっていたが、まず言えるのはブルース・リーの回し方は完全に「営業用」で、まったく実戦では使えないこと。自分の周囲50㎝ほどのところを回した所で相手は怖くない。自分に向かっておらず、見せることに徹しているからだ。それに棒がどこに移動するか分かってしまう回し方なので、防御にもならない。
インチキなのは、このシーンを撮る時ブルース・リーは、ヌンチャクを本当はゆっくりと回していることだ。ヌンチャクを回すシーンだけは、ブルース・リーの瞬きが異様に多いことでそれが分かる。ついでに言うが、ブルース・リーの使用しているヌンチャク、ゴムである。樫のような効果音を出しているが、うかつにも『怒りの鉄拳』で曲げてしまった。実に情けないエヌジーだが、香港映画にはよくあることで、後にハリウッドで大ブレイクということが分かっていれば、こんな凡ミスは放置しなかったはずだ。
(東洋の肉体)
さて、以上は前座だ。世界が注目したのはブルース・リーの「肉体」である。それまで男らしい男の肉体とは、全身を覆い尽くす筋肉のことを意味していた。リンゴを握り潰し、あるいは四トントラックをロープで牽引する力だった。ブルース・リーはそれを変えてしまった。華奢な手足は、その引き締まった節の部分でメリハリを際立たせていた。そして、痩せているかに見えた身体は、いざとなるとその深い所から鍛え上げた筋肉を外に露出させるのだった。
それはまさしく今までの男らしい身体と違っていた。しかし、まさしく「闘う」身体だった。東洋の私たちが目覚めたと言っていいかも知れない。戦後、テレビ時代の幕開けとして華やかにデビューした「力道山」。欧米とりわけアメリカに対する偏屈なまでの劣等感を力道山はものの見事に吹き飛ばした。あの感覚と似ているかもしれない。
少し脱線するが、まだ父が生きている頃だから、私が小学校に行き始めた頃だと思うが、兄弟二人で力道山に「サインをください」と、手紙を出したことがある。父の「返事なんか来るわけないだろ」の声をよそに、私には葉書で、兄には写真にサインが届いた。父は前言を翻して「大したもんだなあ」と言っていたことを思い出す。
ブルース・リーの上陸とほぼ時期を同じくして、極真の大山倍達がクローズアップされる。日本に空前の空手ブームが訪れる。流行に便乗したわけではないのだが、この頃私も空手を始める。
この東洋の肉体は自在に身体を操り、実に分かりやすく相手を制圧する。それは従来の西洋的な「潰す力」ではなく「刺す力」のように見えた。しかし、それが「面」に対する力でなく「点」に対する力という点で違ってはいても、力対力という点では同じだということに気付いたのは、ずっとあとのことだ。パワーの対決という点では同じだということに気付いたのはやはり、自分自身の身体の衰えを考えないといけない四十路に入る頃だった。
そうして昔の達人の姿を見てみると、ことごとく彼らのお腹は出ていた。おそらく今流行でいう「体幹」、あるいは「丹田」が鍛えられていたことの証だろう。武蔵の、
「楔をしむるといひて、脇差の鞘に腹をもたせて、帯の寛がざるやうに、楔を締むるという教へあり」(『五輪書』水の巻・より)
というくだりに見れば、やはりお腹と刀は共存していたようだ。
肉体が違えば、「勝負」も違っていた。以前お知らせしたかと思うが、山本哲士と前田英樹両氏の座談会(『季刊iichiko 』111号に収録)で学んだ多くの中に「勝負」もあった。それまで(戦国時代)は、相手を否定することが勝ち負けだった。一方が他方を否定することが、勝ち負けだった。しかし、その対立を消すことを目標としたのが柳生新陰流であり、武蔵だった。
例をあげて考えよう。相手が切ってくる、かかってくる、突いてくるというその時(またはそれ以前)は、相手と自分の直接のコンタクトはない。山本氏いう所の「未分化」な状態だ。それを撥ね返すことは相手を「否定する」行為となる。この時相手と一体化していくことが「非分離」の状態になることだ。それを前田氏は「あたかも、双方がその勝敗に協力しあうかのように働く」と話す。
深い理想の極みから「勝敗」を考え、精進したい。