実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

実戦教師塾通信六十三号

2011-07-31 20:15:27 | 武道
ブルース・リー


 もう閉鎖された避難所の「所長」がブルース・リーを好きで、夜よくテレビを独り占めにし、そこでブルース・リーのDVDを見ていた。私もブルース・リーを好きなので、一緒に見た。たくさん見ていたが、私が一緒に見たのは『燃えよドラゴン』と『ドラゴン怒りの鉄拳』である。たくさんのインチキがあるのだが、エンターテイナーとしてのブルース・リーとして見れば、その映像とのマッチングは絶妙だ。
 昔、これらの映画が公開になった頃(日本での公開は『燃えよドラゴン』1973年、『ドラゴン怒りの鉄拳』1974年)は私も空手とは無縁で、その闘いぶりに舌を巻き、信じられない思いでスクリーンに釘付けとなった。
 冷静に考えれば分かるのだが、多人数を相手とした渡り合いは、いわゆる「殺陣」の動きと同じで「打ち合わせどおり」でやればいいだけなのだ。しかし見る方は、背後にいる相手をどう攻略したのだろう、などと呆気にとられているのだ。完全に映像に呑まれていたのだった。
 一体どうなっているのだ、と「所長」が私に言いながら見ていたシーンのインチキのひとつ、
(フィルムカット)
 『燃えよドラゴン』の前半は、香港の沖合の小島で巨漢ウィリアムスと闘うシーン。手合わせをし、試合が始まってすぐにリーの裏拳が相手ウィリアムスの顔面を捉える。それが数度繰り返される。まさに目にも止まらぬ早業だ。しかし、私が稽古を積むようになって改めてその映像を見ると、画面が飛んでいることに気付く。ウィリアムスの掌近くにあったリーの拳が、一気にウィリアムスの顔面に移動している。間がカットされている。どうりで目に止まらないわけだ。しかし、そのインチキはブルース・リーのパフォーマンスによって覆われてしまう。映画っていいでしょう、とリーが微笑んでいる。それに私たちは共感していたのだ。

(早回し)
 ブルース・リーがヌンチャクを回す。「所長」も私愛用のヌンチャクをリーもどきでおっかなびっくりでやっていたが、まず言えるのはブルース・リーの回し方は完全に「営業用」で、まったく実戦では使えないこと。自分の周囲50㎝ほどのところを回した所で相手は怖くない。自分に向かっておらず、見せることに徹しているからだ。それに棒がどこに移動するか分かってしまう回し方なので、防御にもならない。
 インチキなのは、このシーンを撮る時ブルース・リーは、ヌンチャクを本当はゆっくりと回していることだ。ヌンチャクを回すシーンだけは、ブルース・リーの瞬きが異様に多いことでそれが分かる。ついでに言うが、ブルース・リーの使用しているヌンチャク、ゴムである。樫のような効果音を出しているが、うかつにも『怒りの鉄拳』で曲げてしまった。実に情けないエヌジーだが、香港映画にはよくあることで、後にハリウッドで大ブレイクということが分かっていれば、こんな凡ミスは放置しなかったはずだ。

(東洋の肉体)
 さて、以上は前座だ。世界が注目したのはブルース・リーの「肉体」である。それまで男らしい男の肉体とは、全身を覆い尽くす筋肉のことを意味していた。リンゴを握り潰し、あるいは四トントラックをロープで牽引する力だった。ブルース・リーはそれを変えてしまった。華奢な手足は、その引き締まった節の部分でメリハリを際立たせていた。そして、痩せているかに見えた身体は、いざとなるとその深い所から鍛え上げた筋肉を外に露出させるのだった。
 それはまさしく今までの男らしい身体と違っていた。しかし、まさしく「闘う」身体だった。東洋の私たちが目覚めたと言っていいかも知れない。戦後、テレビ時代の幕開けとして華やかにデビューした「力道山」。欧米とりわけアメリカに対する偏屈なまでの劣等感を力道山はものの見事に吹き飛ばした。あの感覚と似ているかもしれない。
 少し脱線するが、まだ父が生きている頃だから、私が小学校に行き始めた頃だと思うが、兄弟二人で力道山に「サインをください」と、手紙を出したことがある。父の「返事なんか来るわけないだろ」の声をよそに、私には葉書で、兄には写真にサインが届いた。父は前言を翻して「大したもんだなあ」と言っていたことを思い出す。
 
 ブルース・リーの上陸とほぼ時期を同じくして、極真の大山倍達がクローズアップされる。日本に空前の空手ブームが訪れる。流行に便乗したわけではないのだが、この頃私も空手を始める。
 この東洋の肉体は自在に身体を操り、実に分かりやすく相手を制圧する。それは従来の西洋的な「潰す力」ではなく「刺す力」のように見えた。しかし、それが「面」に対する力でなく「点」に対する力という点で違ってはいても、力対力という点では同じだということに気付いたのは、ずっとあとのことだ。パワーの対決という点では同じだということに気付いたのはやはり、自分自身の身体の衰えを考えないといけない四十路に入る頃だった。
 そうして昔の達人の姿を見てみると、ことごとく彼らのお腹は出ていた。おそらく今流行でいう「体幹」、あるいは「丹田」が鍛えられていたことの証だろう。武蔵の、
「楔をしむるといひて、脇差の鞘に腹をもたせて、帯の寛がざるやうに、楔を締むるという教へあり」(『五輪書』水の巻・より)
というくだりに見れば、やはりお腹と刀は共存していたようだ。
 肉体が違えば、「勝負」も違っていた。以前お知らせしたかと思うが、山本哲士と前田英樹両氏の座談会(『季刊iichiko 』111号に収録)で学んだ多くの中に「勝負」もあった。それまで(戦国時代)は、相手を否定することが勝ち負けだった。一方が他方を否定することが、勝ち負けだった。しかし、その対立を消すことを目標としたのが柳生新陰流であり、武蔵だった。
 例をあげて考えよう。相手が切ってくる、かかってくる、突いてくるというその時(またはそれ以前)は、相手と自分の直接のコンタクトはない。山本氏いう所の「未分化」な状態だ。それを撥ね返すことは相手を「否定する」行為となる。この時相手と一体化していくことが「非分離」の状態になることだ。それを前田氏は「あたかも、双方がその勝敗に協力しあうかのように働く」と話す。
 深い理想の極みから「勝敗」を考え、精進したい。

実戦教師塾通信六十二号

2011-07-30 12:17:06 | 福島からの報告
いわき市議会特別委員会


 25日午後、議会での東電副社長を初めとする数名の幹部の無内容な答弁は、東電の無責任な姿勢を示してはいた。しかし、彼らは躊躇する様子も見せず「申し訳ありません」と機械的に繰り返し発言していた。これが最初に言えることだ。
 この日、あらかじめ「質問書を出して欲しい」という東電の意向で質問をまとめたのは、創世会(無所属と民主党)・公明党・共産党だけだ。議場を見ると、そのことは歴然としていた。50人ほどで構成される席の、正面から見て左側は誰一人として発言しない。激しく貧乏ゆすりなどしているだけだ。右側の議員だけが発言している。そして、これも特筆すべきだが、市長が出席していない。6月の議会で「オレは東電に怒っている」発言をしたことは書いたが、その流れと考えていいだろう。以下、報告すべきことはいくつかあるが、東電の「関係諸機関と調査中」「国と協議したうえで答えたい」という『丸投げ』の姿勢ですべては貫かれていた。

・平安時代の貞観地震の検証がなされてなかったのか。
・原発による損害賠償の進捗状況はどうなっているのか。
・原発を廃炉にする考えはないのか。
・汚染された土壌の処分をどうするのか。
・原発事故は天災と考えるのか、人災と考えるのか。
・30キロ圏内では、小売店も仕事を奪われた。そういう補償も考えているのか。
・国民世論の7割が脱原発を言っているのに再稼働とは無節操ではないか。
・海水注入は、震災後24時間が経過してからだ。警告は直後にあったはずだ。
・現場作業員の健康被害はきちんとチェックできているのか。

すべてはびっくりするくらい同じ顔と同じ声で同じ答が繰り返された。一杯になった傍聴席から怒りの野次が耐えかねたように飛び出すが、眉ひとつ動かない。以下も同様なのだが、どちらかいうと東電が胸を張って答えた部分。

・「事故収束の道筋」STEP1はクリアした。放射性物質の放出は12日(一号機爆発時)の100万分の1である。

簡単な話、一号機爆発時は現在の100万倍放出していたということだ。その影響はこれからの長い検証がないと明らかにならない。野菜・お茶、海産物、牛乳・牛肉という順でやってきた。秋はもちろん、米の収穫だ。

・双葉活断層は従来7㎞としていたが、34㎞ということで「妥当だ」という国からの答をもらっている(質問書では70㎞を要求)。
・線量計の配布は、区長レベルでは考えないこともないが、現在量が圧倒的に不足している。
・全電源喪失の想定や訓練と言われても、今は収束が第一なので出来ない。
・原発施設は現在、立ち入り禁止のため視察は許可出来ない。
・いわき市に原発事故の通報をしなかったのは、国が定めたマニュアルにいわき市が入っていなかったからだ。

最後の答は驚きだ。それはまずかったと思っているとか、事態の緊急度からしてやるべきだったと思っている、とかいうことは一切語られなかった。「仕方がない」のだ。
 以下は少し注目したやりとり。

(質)事故検証委員会のメンバー上部に、かつて東電の弁護人をつとめたものがいるのはおかしくないか。
(答)構成メンバーを知らない。
(質)核燃料の取り出し・移送は技術的に可能なのか。
(答)出来る。使用済み燃料プールに出せる。国の許可が必要。
(質)暴力団が事故後原発に入って仕事をしている。仕事の効率が阻まれると同時に、暴力団の資金源ともなっている。
(答)警察の指導を受け、元請けに対しては指導を続ける。
(質)事故収束の道筋の「冷温停止状態」とはふざけている。その言葉の意味することは「健全な状態での運転」なのに、原子炉はすでにメルトダウンしている。不可能なことをなぜ言うのか。国民をバカにしてはいけない。
(答)あくまで目標ということで考えてもらいたい。格納容器の底は100度で安定している。そして、建屋の地下水から高濃度の放射性物質は検出されていない。

文書で質問をしたのに、文書を用意していないことで、議員連は何度か東電に抗議した。しかし、東電はまったく反応しなかった。
 質問する側にも不備は目立った。何より、東電の今後を考える上で、今、国会を通過しようとしている「原子力損害賠償法改正案」についての言及がされなかった。電力会社の事故に際して課せられる従来の「無限責任」という文言が、「有限」に書き換えられるこの法案についてなぜ言及しなかったのか。東電は「それは関係諸機関と協議中で答えられません」という基本姿勢を貫くだろう。しかし、単独で賠償可能な額をはるかに上回る災害だ、というぐらいの認識は東電自身にあったはずだ。ならば「会社更生法」の適用をすぐに願い出なかったのはなぜか、くらいは東電独自で答えることが出来る。それよりも、議会でそのことを話題にすること自身が大切だった。
 また、3月11日夜に、いわき市内の東電社員を逃がした(避難させた)ということへの言及も、裏をとっていなければ「そういう事実はありません」で終わってしまうのは当然と思えた。「あいも変わらぬ利潤追及、独断専行の姿勢だ」と言われても、東電には痛くも痒くもないと思える。



実戦教師塾通信六十一号

2011-07-29 17:41:04 | 福島からの報告
広野町にて


 言うまでもないかも知れないが、広野町は原発が建っている双葉町・大熊町から、富岡町と楢葉町を隔てたところにある。一部警戒区域・一部避難準備区域となっているところだ。
 熱心な読者は覚えているかも知れないが、以前、ケンタッキーはデトロイトのトヨタで勤務している女の子(前はここまで詳しく話さなかった)が、社員の皆さんから委託された東日本大震災への義援金の使い道で浮上したのが広野町だ。私の信頼するセンターの職員に「人の通らないところにこのお金を置いてきたい」旨を話したところ、出てきた話だ。
 今週の水曜日、私はケンタッキー女史のお母さんと共にこの広野に出向いた。ケンタッキー女史本人はすでにアメリカに渡り、勤務に戻っている。この日、私は広野のすぐ下にあたる四倉でゴミの片付け作業をしていたので、そこまでお母さんに迎えを頼んだ。
 四倉からはひたすらまっすぐ北上すればいいだけだ。暑い日差しが青い空を夏に誘う。しかし、久之浜のだらだらした上り坂が始まる頃、道路から一気に車の姿がなくなる。坂の向こうで生い茂った樹木と空が、緑と青の境界線を作っている。その境界線を突き破るように巨大な煙突が三本見えてくる。修理を終えた広野の「火力発電所」だ。以前、四倉の友人が海岸から見える煙突を指さして「原発だよ」と言ったが、「火力」だったのか。
 それ以外に何も見えない幹線道路の向こう側に、たくさんの点滅する赤色灯が見え始める。その交差点では右の道路にも左の道路にも多くのパトカーが待機していて、完全な封鎖状態だった。Uターンする以外にない。こんなにたくさんの赤色灯とパトカーを見るのは、学生のとき以来だ。
 仕方なくUターンする私たちだが、曲がることを許される道ばかりではなかったから、民家を探すのに結構な苦労をした。ようやく小さなプレハブのタクシー会社を見つける。今にして思えば「防護」のためなのか、扉という扉はすべて閉ざしカーテンも閉め切っている。誰もいないのかも知れないと思いながら扉を叩いたのだった。
 中には実に所在なさそうに、太った運転手が二人と、事務の女性が一人、アイスを食べることぐらいしかやることはない、といった体で椅子に深く腰掛け、アイスを食べていた。
 私は、広野からボランティアの仕事の依頼がないもので、という「わけ」を話した。こういうとき、ボランティアの腕章は役に立つ。名刺みたいなものだ。午前中の作業のあと、私はこの腕章をつけたままだった。アイスの面々は、意外そうな申し訳なさそうな、面倒くさそうな顔をして、仕事といってもここには人がいない、区長さん初めみんな避難所に行ってしまっているし、という。
 役所に行ってみたらどうかという勧めで、教えてもらい、出向いた。広野の町役場は臨時にいわき湯本に設置されている。だから、すぐ近くの元の役場はあるにはあったのだが、そこには当直の二人と、パソコンのメンテナンスかなにかで来ている社員の姿が見えるだけだった。駐車場に五、六台の車が止まっていたから少し期待したが、隣接する立派な図書館や公民館、どこにも人の姿はなかった。セミが鳴いている。「静かさや役場にしみ入るセミの声」。
 職員の返事は同じだった。もうこの町には100世帯、300人しかいない。ちなみに2011年2月の時点では町の総人口は5397人だったのだ。「兵どもの夢のあと」と言ったら叱られるのだろうか。しかし、なんということだ。幾ばくかの民家を見たが、主を持たない家だったのか。
 そんな私たちのかたわらで、大型のペットボトル入りの水の搬入が行われていた。床に敷きつめられるように置かれる水。ケンタッキーのママが、一体この水はどこから来たのか、どうするのかと質問した。答えたのは職員ではなく、トラックから水を職員に黙々と渡している男だった。白髪まじりの長髪で、歯もボロボロなこの男は、判読不能の文字が書かれた黒いTシャツを着た「銀河鉄道999」のゴダイゴの末裔のようだった。水は台湾製のもので、すでに過剰で不要となったところから引き揚げてきたものだという。そして、この被災地にいるすべての人に渡ることがいい、と言う。それはこの役場に勤務する人も同じ扱いだ、と言う。男の口からは意外なことが次々とでてきた。
 
 放射能も怖いが、この地震で地下水に硫化化合物が混入した。検査をしないとダメだと言うが、年寄りは聞かない。井戸水を飲もうとする。
 水もそうだが、物資はあるところにはあるが、ないところにはない。返品したり廃棄したりするのを自分は阪神でも見てきた。自分は大学でボランティアを学んでそれから何十年とボランティアをやってきた。そしてそういうまずい姿も見てきた。中には新品の服が入っているというのに、燃やしているのを見た。あんなことはあってはいけない。
 今回自分の自慢は3月11日以後ずっと、この広野町を離れた日が一日もない、ということだ。電気・水道、食料・水がない初めの二週間は、登山を趣味とする自分が蓄えていた燃料・非常食のおかげで救われた。
 その後、支援センターをあちこち探りながらこの町の支援をしてきた。あるところにはあるものを、ないところに回す。保管場所は千坪提供してくれる工場を探しあてた。返品あるいは廃棄を決定した冬物ももらってそこに保管している。冬になれば使うのに、今度の冬に今までのように服が集まるかといえば、そうではない。阪神のときも半年後は物資の支援が滞った。今あるものを大切にしないといけない。冬になったら、今度は仮設に出向いて、配るのではなく、「欲しい人はいませんか」と広場で呼びかけるのがいい。
 有償ボランティアではない、無償でやっている。生活費は補償金でまかなっている。ああいう性格のものはとっておいたり、ため込んでおくのでなく、使わないといけない。この町で最期を迎えたいというお年寄りも補償金で暮らしている。彼らは経済的にそれほど困窮はしていない。しかし、こんなに誰もいなくなってしまった町で、話し相手が誰もいない。それが一番問題だ。18歳以下の人は誰もいなくなった町だ。昨日、久しぶりに平地区に行って若い人の姿を見た。いつ以来かな。

 広野町はいわき市の管轄ではない。しかし、広野町の福祉協議会は機能停止・撤収状態にある。ボランティアセンターに水の運搬を頼んだが断られることもある、というそのわけはそこに大きく根拠を置いている気がする。力を必要としているのだ。
 私とケンタッキーママとは、この日の成果をおおいに感じたものだった。


 ☆市議会報告次号でいたします。
 ☆以前、支援をいただいた六年二組が、来週二日現地にきます。嬉しいです。

実戦教師塾通信六十号

2011-07-24 23:11:15 | 福島からの報告
希望はあるのか--ここまでのこと



 久しぶりに会った塾生と話した。震災時カナダにホームスティに行っていた奴だ。

 現地(カナダ)で強烈なニュースの映像を見せられる。早く日本に帰らなきゃと思って飛行機の搭乗を待った。飛行機の中で初めて日本語のニュースを見て、さらに不安と恐れが増幅した。
 日本に着いた。東京で見る風景もニュースも違っていた。みんな水や食料を買いあさっている。なんだこれは、わが目を疑った。ところが家に戻ると、自分の親も同じことをやっている。一体何をやっているんだ、ここは被災地なのか。被災地の様子はニュースで見る限り違うぞ、みんな行列はしてるが、それはそこにものがないからだ。
 被災地に行かないと何も分からない、でもどうしよう、仲間とも話したが、オマエやオレたちに何が分かる?何が出来る?そう言われてむきになって、でもこれだ、と言えるようなことも思いつかず、そうしてここまできてしまった。

 私もあの時、日本に何が起こったのかと思った。今までにない大きさで大地は揺らいだ。その後、絶望と崩壊の中にあって、じっと生きている人たちがいた。
 避難所をあちこち見回ったときのことを思い出す。高校の避難所で玄関口に無料開放された赤電話に被災者は安否の知らせをするため、寒いなか長蛇の列を作ったという。十円を入れて、電話が終わるとその十円が戻るというシステムだ。一時間も二時間も話したいんだ、でもみんな、十分ほど話すと受話器を置いてまた列の一番後に回るんだ、みんなえらいよ、そう話してくれたことを思い出す。あるいはスーパーに三時間並んでやっと買った一本の大根。誰も割り込もうとしなかったと言う。
 また、国や県が私の土地に道路を通すと言ったとしても、ここは私の家があった土地です、それは許せないなんていうつもりはないよ、と胸をはって言ったご老人。
 そんな東北の姿を見て首都圏でも騒ぐことの愚かさを戒めるように人々は行動した。
 「私たち」はあの時、明日を信じるというより、今は我慢することしかできない、ほかには何もできない、そう思って生きていた。
 あの一号機爆発の恐怖はなんだったのだろう。まだ明らかになっていないが、あの時日本の上空に大量の放射能が拡散したことは間違いない。あの時、自分がどういう人間なのか、問われていた。見苦しくも浅ましい人の姿は日本中に溢れたが、被災地からのメッセージは続いていた。
 私は、今、を確かめないといけないと思った。出発した。
 勿来のインターをおりた。道々補修中の高速もそうだったが、道は北上するほど荒れてきた。道路は平気で陥没と割れ目を見せ始めた。いわき市に入って夕飯を食べようとしたが、崩れた道沿いの店はすべて暗く閉ざされていた。とりあえず寝る場所の確保をしようと思ったが、ホテルの半分は壊れていて、営業していなかった。営業中のホテルはすべて復旧の工事に従事する作業員が貸し切っていた。駅とその周辺はびっくりするくらい暗かった。壊れた陸橋や道路にロープが張ってあった。思い起こせば、電車が不通だったのだ。機能の停止した場所の暗さは異様だった。
 ネットカフェなら開いているの声を頼りに市内を探すが、「修理中につき休業」の貼り紙。夜遅く、ようやく遠く離れた小名浜にその一軒を見つける。

 避難所の食事。夕方、皿に盛られた少しばかりのご飯。そこに添えられた小さな梅干し。小さいトレーにはサンマのかば焼きの缶詰が、ふたの開いたまま乗せてある。みんなそれを無言で食べるのだ。並ぶときも食べるときも、出るのは溜め息ばかり。背中には、どうしてこんなことになったのかという、あきらめとも憤りともつかないものがはりついていた。私がそんな姿を見たのは、私がいわきに入って三日後、四月六日頃だった。震災からあと少しで一カ月を迎えようとする頃だった。人々は生命が助かって、おそらくそのことに「落ち着き」を見いだすこともなく、まだまだ現実のものとも思えない日々の出来事に「とまどって」いた。
 やがて、現実は戻ってくる。
 電気・水道の復帰で、多くの被災者が自宅に戻る。ゴミになったと思った通帳が再発行される。財産というものが再び現れる。かたや、半壊だった自宅が余震で豪雨で、全壊になる。
 そして、自分の行き先、生き方が見えてくる。今さらローン、でもアパート暮らしならやっていける人。働きざかりで、職場も復旧、だったら壊れたアパートをあとにして、中古でもいいから家を購入する人。金がないものはもともとなかった。そんな現実が、再度登場する。また、借金を大量に膨らませた人もいた。いろいろな人が出てくる。
 震災で生気を奪われたのは老人ばかりではない。若者も避難所で一日を過ごし、仕事を探す気力もない。
 初めは「被災者」「助かった人たち」一色で染められていたのが、別な色を出し始める。できる限り「地域ごと」の避難所も、そんなに「ご近所なじみ」ではない。日々の苛立ちは、先行きが見えた分と見えない分が錯綜としながら、ときには憎悪と嘲りとなって避難所を覆った。
 希望はある。「もっと大変な人がいる」と言って、被災者に耳を貸すその人は、自宅も工場も流されて、借金まみれだ。そんな人を希望と言わずどうする。

 私たちが震災直後に、勇気や希望をもらったあの人たちは、今どこにいるのだろう。いや、私たちに勇気や希望を与えたあの人たちは、それらを奪われたのだろうか、と言い換えてもいい。
 希望はある。原発と震災の彼方にそれはきっとある。それが見つかるまで、私たちにはいくばくかの我慢が必要となっている。本当のことが見えない今「本当でないこと」を見極める目が必要となっている。

 いわき市議会議員の佐藤和良氏から連絡を受けた。明日、いわき市議会で東電を呼んでの聴取をするという。午後一時の開催である。
 希望はある。


実戦教師塾通信五十九号

2011-07-23 14:05:21 | 福島からの報告
始まりの終わり


 18日、私が避難所に着くと、もう最後のひとり、いや二人になってしまった方とちょうど顔を合わせるかっこうとなった。軽のワゴンに荷物を積んでいる彼女の顔はいつになく曇っていた。先日14日の「25日閉鎖を目途として」という職員の通知が現実のものとなっているようだった。「昨日、25日で閉めると言われて」と彼女は言った。
 体育館の一角には高齢で腰を悪くしているTさんのコーナーがあるが、そこにはわずかばかりの荷物があるだけで、姿は見えない。私の隣で寝ていて、いつも朝早く田んぼの仕事に出掛けるKさんのところは布団が敷いたままになっている。「ここのところ姿を見せないんです」と、ワゴンに荷物を積んでいる彼女は言った。二人とも「新しい生活」を促されて、きっと始めている。Tさんは不自由な身体と、アパートの近くを走る道路の騒音に悩まされつつ、そのアパートと避難所の生活を往復しながらなんとか「慣らし運転」をやっていた。タクシーでアパートと避難所をいったり来たりして、夜は避難所で過ごすことが殆どだった。でも、4、5日顔を見せないという。Kさんはもともと奥さんと息子の三人で避難所にいたのだが、避難所を先に出て、納屋暮らしを始めた奥さんと息子のもとへ行ったのかも知れない。
 私はすぐに避難所に併設されている市の事務所に出向いて、あくまであの25日という数字は「目途」だった筈ではないか、とたずねる。あいも変わらぬ説明だった。先日、この避難所を訪れた議員の「最後のひとりが決まるまで」「このままでいく」という言葉を再確認しておかないといけない。
 その後、私は前号でお知らせした集会に出向いている。そしてそこにいた、別な議員さんに会って「話が違う」と言った。この議員さんと先の議員さんはつながりがあるからだ。次の日の夜、先日の議員さんが避難所を訪れた。いきさつは

①この避難所の管轄である小名浜支所がいわき市に「25日で閉めたい」と打診。
②いわき市がOKを出す。
③支所は「市の決定」をバックに「閉鎖指示」を職員に出す。

だった。そのことがあって何人かの議員が動いてくれたようだ。そして「25日閉鎖」は「25日閉鎖を目標とする」ということで落ち着いているはずだ、という。
 次の朝、さっそく避難所の職員にそのことを確認するが「そういうことは聞いていない」という予想通りの対応。私はすぐ小名浜支所に電話で取り次いでもらった。次長だった。いつも通りの堂々巡りのあと、「では、議員と支所の認識にはズレがある、という理解でいいですか」という私の言葉に、初めて相手は動揺した。それで結局「25日を目標とする」という当初の言葉を確認出来た。
 しかし、もう事態は戻れないところに来ている。アパートが見つからないなら、親類なり知り合いなりを頼るしかないという道筋しか残っていない。しかし、その道を排し、この避難所に残るということがいかに困難なことなのか、それが精神的にいかに苦痛なのか、がこの間の動きで痛いように分かる。あの40名以上を擁していた平体育館は予定通り18日で閉鎖された。20日の時点でいわき市の避難所は5箇所、そこに暮らす人たちは82人となった。私がアパート(二次避難場所)で力になれないとか、被災者でないとかいうこともあるにせよ、被災者の中で、そして私の中で何かが終わっている。




「助かってよかった」気持ちは今

 もう賢明な読者は気がついておられると思う。大体の避難所がそうだが、この独特な共同体的感覚を持った避難所でも、
①出て行った人たちが顔を見せない。
②出て行く時に、行く先や連絡先を告げずに出て行く。
③出て行く、という明確な意志や日時を告げないで出ていく。
ということに気がついておられると思う。そうでないケースもあるが、避難所での生活は彼らが出る時に、彼らの中で多くの場合「終わる」らしい。理由のひとつはもちろん人々に「余裕がない」からだ。しかし、私には別なものも見えた。
 「助かってよかった」「ここでしのげる」人たちのひとつとなった気持ちは、避難所の中でも少しずつ変化していた。
 もうすぐ年金がおりる年頃の人は、出掛けるときはいつも大事そうに大きく膨らんだカバンを抱えていた。そして、自分の「余生」を語っていた。「二年間保証された家賃が終わったら別なところで暮らすんだ。仕事をする年でもない、もう働かない」と、彼は言っていた。今となっては通帳や年金関係の書類、保険証の無事が確認され、安心している。「大変だったが、今心配なことは特にない」人だ。
 お金持ちのおばあちゃんは、壊れた家の中に残っている荷物から貴重品だけを取り出し(一部はなくなっているらしい)、残っている高価な服や食器や箪笥の処分に困っている。
 もとから一文なしの男は、半壊のアパートから避難所に転がり込むが、失うものなどない。家賃滞納でガスが止められたのアパートに帰るときがあれば、弟のアパートを頼るときもある。
 原発周辺地域から無傷の自宅を離れ、避難所に逃げてきた一家は、東電を一生許さない、そして東電からは「ありったけの補償を」という。
 同じく原発隣接地域から避難してきた一家の自宅は津波で流された。東電の悪口は言わない。一家一族全員が原発関係の仕事を地元でやっていたのだ。今も東電からもらった仕事をやっている。「(原発関連の)仕事は山ほどあるんですから」と言う。
 当たり前のことだが、この四カ月の間に明らかになったというか、被災者ひとりひとりが再確認したことはきっと「元の生活」だ。全員がすべてを失ったかと思い、それでも「助かった喜び」を感受した。しかし、農場も家もすべてなくなった、借金だけが残ったという人ばかりではなかった。そして、徐々に失ったと思ったものがある人ある所に「戻った」。全部ではなくとも、戻った。全部ではなくとも、戻った事実に「これでもいい」「これでいい」という思いは大切だ。貴重だ。しかし、私には結局のところ「貧富」や「格差」が露出して来たという事実の方が重くのしかかっている気がする。再び見えてきた、仕方のない「元の生活」は、きっと被災地や被災者に切ない気持ちをもたらしている。