実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

『絶歌』(補 1)  実戦教師塾通信四百四十九号

2015-06-26 15:36:59 | 子ども/学校
 『絶歌』(補1)
     ~「生活」という時間~

 ☆☆
この号で李珍宇に言及するはずでしたが、この号もついつい長引きました。そして、李珍宇を論ずるなら、1967~69年にわたった連続殺人の犯人、当時19歳の永山則夫を書かないわけにはいかないことに思い至ったのです。というわけで、次号「補2」で、書きたいと思います。よろしくお願いします。


 1 「死んじゃえばいい」

 私の知る編集者がひとり、怒りをぶちまけた。それだけでも、私がこの『絶歌』を論評して良かったと思えた。このブログ『絶歌』(上)で引用した太田出版編集者の、

「私が手を入れると世界観を崩してしまう」

とは笑止千万、一体なにが「世界観を崩」してしまうような決定的要因だったのか、どんな立場で編集したというのか全く知らぬ顔を決め込んで、どの面下げて「出版」か、という勢いは私の溜飲(りゅういん)を下げたのだった。
 また、Aが淳君の両親にあてた手紙の「膨大であった」ことを、
「この分量が示すことは、自分の気持ちを伝える『手紙』ではない」
「自分を語るものだったはずだ」
という指摘に、私は納得したのだった。
 さて、この太田出版は、前掲『文春』にもあったように、大ブレイクした『完全自殺マニュアル』(1993年)を出した会社だ。どんな自殺方法が楽なのかというマニュアル本である。その時の編集者・落合美砂氏が今回の『絶歌』を担当している。この『完全自殺…』のあとがきは、今回のことを考える上で参考になると思われる。

「こういう本を書こうと思ったもともとの理由は、『自殺はいけない』っていうよく考えたらなんの根拠もないことが、非常に純朴に信じられていて……自殺する人は心の弱い人なんてことが平然と言われてることにイヤ気がさしたからってだけの話だ。……『イザとなったら死んじゃえばいい』っていう選択肢を作って、閉塞してどん詰まりの世の中に風穴を開けて風通しを良くして、ちょっとは生きやすくしよう、っていうのが本当のねらいだ」

こんな調子なのだ。確かにこのあとがきは、著者のものであって編集者が書いたものではない。しかし、自殺礼賛(らいさん)とも取られかねないこの書を出すにあたって、編集者は配慮が必要と判断したのだろう。では今回の『絶歌』に関してはどうだったのか。さすがに今回は、

「イザとなったら殺人をやっちゃえばいいし、解体するのもいいんじゃないか」

と、編集者(部)は書けなかったようだ。太田出版の落合氏は、公的な場では言い訳以外に未だ何も語ろうとしていない。そして、何も言わずに5万部を増刷した。当ブログ読者はこれを読んで、幻冬舎の見城社長がなぜ太田出版を選んで(本人は「違う」と言うが)引き継いだのか、納得してしまうに違いない。ついでに、その見城社長の格言を思い出したい。

「顰蹙(ひんしゅく)は金を出してでも買え」

である。まさしく、その現場を目の当たりにした思いだ。

 2 「大人の責任」
 たくさんのご意見/感想をいただいた。

「そうだったのですか」「確かに」
「(『絶歌』を)読みたいとは思いませんが、この事件から目を背けてはいけないと思っていますし、改めてそう思いました」等々。

きちんと読んでくれたあとがうかがわれて有り難い。また、その反対に、

「もう勘弁してほしい」「あまり知りたくない」
「何と言われようと許せないものです」
「こんなものを読もうという神経を持ちあわせていません」等々。

という意見もあった。でも、あくまで私のブログを読んでのことである。ブログだけでも読んでしまう/読ませるのは、少年Aの「力」であり、事件が与えた衝撃だ。
 私が気になって仕方がなかったのは、

「こういう事件は、大人の責任が問われないといけない」
「国や社会が悪いからこういう事件が起こるのではないでしょうか」
「いじめも少年の犯罪も、同じ病根から来ていると思います」等々。

といったものである。
 もともと私のブログを読もうという人たちは、大体が真面目な人たちで、「なんか面白いことないですか」的発想の連中は、めったに(たまにあるということです)やって来ない。そしてさらに、私に共感している人たちが大体だ。だからこそますます、私にはこれらの共感は「安易」としか思えないし、それらを放置出来ない。
 ただならぬ現実を前に、おそらく私たちは性急に解決/解答を求めている。しかし、私たちはまだ「なにが起こった/起こっているのか」を見極めないといけない場所にいる。そういう時に、この「大人/社会/国の責任」なる方向性は、大体「今より窮屈な社会」を呼び込む。

 3 「ゆとり」
 先日、
「タバコ15歳に販売」
なる「事件」が騒ぎとなった。処罰されるべきは店主か販売員か、そして買った15歳の本人は、という議論である。
 この事件、喫煙中の少年を見とがめた警官が、この少年を補導して聞き出すというのがきっかけだったようだ。これが裁判になったという。これこそが異様でなくて何だろう。タバコをガキンチョに売ったことが大問題になっているのだ。普通だったら、いや少し昔だったらというべきか、警官は少年と一緒にコンビニに出向き、店長と販売員にお灸(きゅう)をすえる、そして家庭連絡を行い、改めて「もうするなや」と本人にたしなめる。これで一件落着だ。学校への連絡はケースバイケースである。「大人の責任」が言われるとしたら、言ってみれば、
「お互い顔が見える」
場所だったかどうかだ。この場合、タバコ少年は、たくさんの人に顔を認証され、諭(さと)されている。しかし、(自動的)システムは顔を遠ざける。ニュースを良く吟味すれば分かるが、今回問題になったことは、「未成年者にタバコを売った」ことではない。

「せっかくのシステムが活用出来なかった/なぜ大人は活用しなかった」

が問題にされている。「安心」のために動くのは「人」なのに、それを「システム」でまかなおうとすれば、新たな「不安」が生まれることが示されている。15歳にタバコ販売というこの「事件」は、タッチパネル(年齢確認システム)の導入が、タバコや酒を飲む若い連中を、世の中という場所からさらに遠ざけたことを教えている。
 昔、それも少し前までは「タバコ屋のおばあさん/おばさん」がいた。彼女たちは、未成年にタバコを売ったり売らなかったり、ひと言言ったり言わなかったりした。事情は様々だが、大体がきっと、その時の「空気」で決めていた。はっきりしていることは、子どもたちのそばに大人がいたことだ。彼女たちは、子どもの顔が見えるところにいた。
 ではどうしたらいいのだ。
 子どもの登下校時に黄色い旗を持ち、毎日朝と夕、子どもたちに声をかけている保護者や老人たちがいる。当番でやっている人やボランティアの人もいるのだろう。あれは「子どもの顔が見えるところ」に、大人がいることなのだろうか。私は、あの姿が「大人の責任」という看板に見えて仕方がない。少しでも子どもたちの「顔を見よう/見たい」というせっかちな姿に思えて仕方がない。
 子どもたちの不安な現状は、毎日ご近所や親を正門付近に集めるという「システム」を導入した。しかし、「見てないといけない」という動機は、見たことを「伝えないといけない」ことにつながる。こんな緊迫した空気を「見守る」とは言わない。いま校門は、人垣となって、木々や鳥のさえずりを妨(さまた)げている。みんなそれぞれの位置で生きることを「生活」と呼ぶはずなのだが、その中で生まれるものを「ゆとり」と呼んできたはずなのだが、ここでは「子ども対大人」という、正面から向き合うたったひとつの空間/関係をせり上げている。
 
 せめて、子どもたちの登下校の時、さりげなく散歩したりスーパーの買い物に行き帰りする(車ではダメなことはもちろんである)、という訴えをあちこちでつぶやいている私である。


 ☆☆
以前、ローソンなんですが、私がビールを買い求めたところ、いかにも腹が立って仕方がないという様子で、バイトの店員が、レジの向こうから自分の手を回してタッチパネルを押したのです。ああ、こういう若者がいるんだなあと、いやあ感動しました。

 ☆☆
仲間と話しました。なぜ避妊具のコンドーさんにはタッチパネルがないのだろうと。そういえば、コンドーさんに関しては、自販機にもどこにも「年齢確認システム」がないのです。コンドーさんは幼稚園児でも買える!って悪のりしてすみません。エイズ啓発という観点からすると、誰でも自由にということになるのでしょう。でもそれでも「R15」も「R12」も指定は必要ないのだろうかという感じで、けっこう盛り上がりました。

 ☆☆
今日から元通り、毎週金曜日発行に戻しました。次回は7月3日(金)発行予定です。よろしくお願いします。

『絶歌』(下)  実戦教師塾通信四百四十八号

2015-06-23 10:26:03 | 子ども/学校
 『絶歌』(下)
     ~「揺れる」~


 1 第二部

 第二部の書き方は、それまでと変化を見せる。退院直後、初っぱなに登場する監察官を「ハッカイ/サゴジョウ/ゴクウ」と置きかえるあたりは相変わらずなのだが、
「○○してくれた」
と、おずおずと彼らに敬意を見せる。
 その後に一緒になった「ケンジ君」、また、廃品回収をともにした「ジンベエさんとイモジリさん」では、明らかな「温(ぬく)もりの感受」を見せ始め、更生施設から身元引受人のYさんの家に移る時には、
「ジンベエさんとイモジリさんに、最後に直接会ってお礼が言いたいと監察官に申し出」
ている。不遜な酒鬼薔薇から、距離が見える。
 そして、彩花さんのお母さんが書いた本と、淳君のお父さんが書いた本を読んで苦しむ日々。それらの日々も温かく優しく見守るYさん夫婦と一家。Aは言う。

「なぜ僕は生きているのだろう?
  …… ……
救いようもなく壊れているからなのか?」

平気で生きている自分はおかしいのではないか、と言う。これらの心境が、あとがきとも言える「被害者のご家族の皆様へ」に記されているのだろう。

「僕にはもう、失うものなど何もないのだと思っていました。……でもそれは、大きな間違いでした。こんな自分にも、失いたくない大切な人が大勢いました。……そんなかけがえのない、失いたくない、大切な人たちの存在が、今の自分を作り、生かしてくれているのだということに気づかされました」

第二部だけ、あるいは第二部の基調で本書が出されるとあったら、淳君の両親は出版を反対しただろうか。両親が、そうではないと思ったから、そうではないと分かったから、この本が出ることに反対した。仮に第二部の流れだけで書くつもりだったら、Aは両親に事前に申し出ることが出来ただろう。著者も「A」ではなく、本名を名乗ったと思われる。Aはまだ第一部のAのままなのだ。

 2 「生きる手だて」
 では第二部に書いてあることはフィクション-ウソなのだろうか。監察官やジンベエさんとイモジリさん、あげくはYさん夫婦までもが、
「こんなことは事実ではない」
と、Aの記述に反論し、Aの非常識や性悪をあげつらうということも起こるのかも知れない。ずっと寄り添った人物の記述が、この本にはまったくないという指摘(前回掲出『週刊文春』)も気になるところだ。
 しかし、それだったら、事細かに事件の詳細を書いた第一部のように、第二部も展開すればよかったではないかとは、当然に思える。「更生の証拠」を示すためなら、第二部だけでいいのだ。第一部の必要が分からなくなる。結局、『絶歌』のすべてがAの姿だというのが、正確なところだろう。
 Aは相変わらずAのままでいる自分を持て余している。あるいは、Aという自分から逃げられないでいる。もう最後の部分だが、それが書かれている。親切な職場の先輩の家族から食事の招待を受け、その食事の途中でたまらず逃げ帰ったこと。自分を慕ってくれた中国人の後輩のカメラを突然壊して叩きつぶすこと。

「信頼されている?
必要とされている?
 …… ……
そんなものはすべてファンタジーに過ぎなかった」

と、それらの出来事を振り返る。社会の一員なる資格は自分にはない、と言う。

 こんな『絶歌』から伝わって来るのは、どちらが夢でどちらが現実なのか、Aがまだつかめていないということだ。
 夢とうつつを揺れ動き、往復するA。
 1997年の2月、彩花さんをハンマーでなぐった直後、ナイフで別な女の子を刺す。その数日後、Aは不安に陥(おちい)った。誰も自分を疑わず、普段通りの生活が続いたからだ。Aはこの時、

「あれは夢だったのか?
僕は現実には何もしていないのか?」

とつぶやく。その後、『懲役13年』という手記を書く。そこに、
「魔物と戦うものは…自分も魔物になることがないよう、気をつけないといけない。深淵(しんえん)をのぞき込む時、その深淵もこちらをみつめている」
という、前回に引用したくだりも出て来る(これはどうやら、ニーチェからの直接引用ではなかったようだ。多分K・レスラーの連続殺人犯レポートのものだ)。
 淳君の時も同じだ。5月の犯行後、事件の進展がちっともはかばかしくないと業を煮やし、神戸新聞に手紙を書くのは6月に入ってからだ。「酒鬼薔薇」を「オニバラ」と読むとはどういう了見だという手紙は、警察や世間に向けた挑戦状だった。
 ではどっちが本当かとか、このままでいいのかということではない。どっちも本当だ。それでは手記は公にすべきではなかったのか。Aは言う。

「この十一年……僕はひたすら声を押し殺して生きてきました。……でも僕は、とうとうそれに耐えられなくなってしまいました。……そうしないことには、精神が崩壊しそうでした。自分の過去と対峙(たいじ)し、切り結び、それを書くことが、僕に残された唯一の自己救済である、たったひとつの『生きる道』でした」(前掲「被害者のご家族の皆様へ」)

Aにとって、この『絶歌』を書くことが、つまり第一部も第二部も全部書くことが、唯一の「生きる」ための手だてだった。

「僕にとっての救いは『死刑』だけだった」(本書15頁より)

かつてこう言い放っていたAが、ここでは別な言葉を言っている。「生きる」ためだという。それがいいだの悪いだの、ではない。
 Aが揺れている。

 3 補足
 前回取り上げた「Mr.サンデー」のコメンテーターのひとりの登場に、私は驚愕(きょうがく)した。草薙厚子という方である。多分、著書に「少年A矯正2500日全記録」(文藝春秋)というものがあるからなのだろう。しかし、この方は、かつて『絶歌』と同じように、出版をやめるように訴えられた人なのである。『僕はパパを殺すことに決めた』(講談社)の著者だ。
 このブログの熱心な読者は覚えていると思う。2006年、奈良県で起こった医師宅放火殺人事件のことだ。英才/スパルタ教育や、家族に対する疎外感に耐えきれず、長男が義母と子どもを殺してしまう事件だ。その後、反省した父親が、

「お父さんが悪かった。一緒にやりなおそう」

と、長男に泣いて謝(あやま)った事件だ。そういう事情を分かっていたにも関わらず、この人はこの本を出版する。取材は、精神鑑定を担当した医者の鑑定書を盗撮するという異例の方法で、それが本にそのまま使われるという乱暴なものだった。大体が、医者の軽率か表現の自由かというレベルで議論されたことに、未だに私はとても残念に思っている。当の草薙氏は、本を出版したところで父子の今後に影響はない、とでも言うかのように、

「この件は回復不可能なケースです」

と言い切ったことも苦々しく覚えている。
 草薙氏は、この夜のテレビで大したことは言っていなかったはずだ。要するに少年Aに関する「良くなった/良くなってない」類の発言だったと思う。そんなことはいいのだ。この人に一番話して欲しかったことは、この『絶歌』出版の是非であった。私の耳は、自分の書いた『僕はパパを…』出版差し止めに関して、草薙氏がいつ触れるかそればかりを待っていた。
 しかし、無駄に時間が過ぎたのだった。


 ☆☆
前回の記事に、多くの意見をいただいています。それでやっぱり、この『絶歌』(上/下)の補足を出したいと思っています。ご意見を読んで、やはり大きな事件だと改めて思った次第です。一部予告しておくと、1958年、18歳で死刑囚となった李珍宇に触れないといけないという思いでいます。

 ☆☆
『天皇の料理番』面白かったですねえ。晩餐会の準備とアクシデント、そして奇跡的な展開。妻との復縁と兄の死。かつてのメンバーも顔を揃えてと、どう見ても最終回の内容でした。でも人気に乗っかっての延長なのでしょう。私としてはもういいんですがね。
一方で、ひたすら視聴率のために、おそらくは担当スタッフ総動員でネットに話題を振りまいて、というやり方の番組ありました。それで実際、視聴率が『天皇の…』を追い越してたりして……いやですねえ。

 ☆☆
マー君、ノックアウト。残念。イチロー、ホンダも頑張れ~

『絶歌』(上)  実戦教師塾通信四百四十七号

2015-06-18 17:01:37 | 子ども/学校
 『絶歌』(上)
     ~「再犯」としての手記~


 1 詳細な描写(びょうしゃ)

 14日(日)夜の「Mr.サンデー」で、特集していた。コメンテーターが次々に発言した。
「ひどい本だ」
初めは私もそう思った。途中で放り出した読者も多いと思う。
 神戸連続児童殺傷事件の犯人による『絶歌』は、二部構成となっている。第一部は、少年Aが事件を起こして逮捕され、医療少年院を退院するまで。第二部が社会に復帰して現在にいたるまでの話となっている。
 第一部は、不快感を伴わずに読めるものではない。あの時に世間を恐怖に陥(おとしい)れた文章力は健在だが、Aが過去の記憶におののいているとは感じられない。また、生命を弄(もてあそ)ぶ初めての対象のなめくじと、次の猫たちの解体の様子は、これでもかと思われる詳細さである。淳君犯行の部分についての記述がないのだが、おそらくそれも、当初は同じく事細かであったことは疑いえない。
 この本を読んだものは誰でも、Aが相も変わらない「エリート意識」を持ち続けていることを感じるに違いない。

○(僕は)スクールカーストの最下層に属する「カオナシ」のひとりだった
○僕は病んでいた。……「精神病か否か」という次元ではない。「人間の根っこ」が病気だった

これらが劣等感/自己嫌悪というより、Aの「選び抜かれた」意識から派生した露悪な姿勢であることを、私たちはずっと前に見てしまっている。「客観的姿勢/視点」を持つ、いや手放そうとしないAに、私たちはなかなか共感出来ないはずだ。担当刑事や係官を「禿げ頭/一角獣/ワトソン」とたとえる場違いな表現は、あの時に警察を罵(ののし)り倒した「(犯行)声明文」を、私たちに思い起こさせる。また、あえてゲバラやガンジーを取り上げ蔑(さげす)み、妙にドストエフスキーや太宰といった文豪を引用する手法も、以前と同じだ。ニーチェの文章はこれで二度目と記憶しているが、誰のものか告げないままの引用になっていた。
 第一部を読んで、私は1981年、パリで女子大生を殺して食べてしまった佐川一政、その佐川の手で書かれた『霧の中』(1983年)を思い出した。彼女を、自分のアパートに呼んで殺すのである。指先から脳まで解体し味わう描写(びょうしゃ)は、微に入り細に入りの克明さだ。そして、佐川も少年Aと同様、被害者が死んだことを知ると「泣き崩れる」のだ。さらに、佐川は『霧の中』巻末に、西洋との文化比較として、「日本と西洋の間」なる川端康成論を載せていることを補足しよう。あくまでカニバリズム(人肉嗜食)を展開する上での取り上げだが。

 Aは医療少年院を退院後、淳君の両親へ毎年3月に手紙を書いている(常に膨大な量だったという)。そして両親は、メディアを通してずっと思いを語ってきた。今年の3月に手紙を受け取ったあと、
「もういいのではないかと思っている」
という見解を、両親は出している。この「もういい」の意味することは、Aの更生を期待する言葉だったのだろうか、それとも「もうたくさん」の方だったのだろうか。
 これらの手紙の中でも、Aはこの本で展開したように、過去の凄惨(せいさん)な場面を再現していたと思える。少年院退院後は、第三者による手紙のチェックは入らない(仮退院の期間は続くという)。本書にもあったが、この手紙の送付はメディアが仲介したもので、両親はきっと「生」の手紙を読んでいる。そして先程の、
「もういいのではないか」
という発言なのだ。その後突然の出版に驚き、出版の差し止めと販売停止を願った。内容が想像出来たからではないだろうか。両親に無断の出来事だったことで、充分内容を暗示していた。
 それが、反省の弁だけでなく、なぜ今さらとも言える「過去」の記述が両親への手紙にあったと思える理由である。

 第一部の最後の方で、Aは、

「僕は、自分が、自分の罪もろとも受けいれられ、赦(ゆる)されてしまうことが、何よりも怖かった。あまりにも強烈な罪悪感に苛(さいな)まれ続けると、その罪の意識こそが生きるよすがとなる。……自分を許容されることは、自分を全否定されることだった。それは耐えがたい、自分への『冒涜(ぼうとく)行為に他ならなかった」(124頁)

と言う。これがAの『絶歌』を書くひとつの動機であったことは間違いないと思われる。この動機からすれば、「反省していないのか」なる批判は、的(まと)を得ないものだ。「確信犯」なのである。Aの中で事件は終わっていない。だからこそ、筆者は「少年A」を名乗る。「もう立派な成人、卑怯ではないか、名を名乗れ」と道義的な決断を迫る批判も、やはり見当違いと思われる。

 2 「無責任」のあり方
 本の発行に抗議する両親のコメントが発表され、少しばかり躊躇(ちゅうちょ)はあったが、私はすぐに購入した。この事件は見過ごせないからだ。淳君のお父さんは、

「この事件は非常な特殊性を持ったもので、事件の再発を防止するというようなものではない」

とのコメントを出した(私は「Mr.サンデー」で見た)が、神戸事件の時、私たちに与えた衝撃は、まだしっかりと形をとっている。その上「酒鬼薔薇」に心酔し、いや、より正確には「酒鬼薔薇」の名前を借りて、事件を起こすものが未だにあとをたたない。申し訳ないが、Aが「悪魔/異常/理解する必要のない」人間なのかどうか、確かめないといけない。また、『絶歌』を出すことは、「表現の自由」「なに言おうと勝手だろ」という馬鹿げたものではない。こんなもの、本人も出版社も覚悟して出すものだ。そういう資料であるのかどうか、確かめないといけない。

 今週の『週刊文春』が、この本について特集している。まずは「出版社の覚悟」を知る上で、発行までのいきさつに注目しておきたい。Aから突然手紙をもらい、途中まで編集した幻冬舎の見城徹社長の「弁明」は見逃せない。興味深いのは、出版にあたって、社長がAに申しつけた三つの条件である。
① 贖罪(しょくざい)意識を持ち、それが世間に理解されること
② 実名で書くこと
③ 遺族にあいさつに行くこと(許可は難しいと思われるので)

この条件をクリアするには「二年はかかる」と思っていた社長は、しかし今年一月、「週刊新潮」の「Aの本、幻冬舎から出版」なる記事により撤収を決める、とある。その後、社長が候補としてあげた三つの会社から、Aは太田出版を選んだという。社長は続ける。

○ 太田出版から出したのは彼(A)の独自の判断です
○ 僕が太田出版に対して「やってくれ」と言ったわけじゃない
○ 僕は(『絶歌』を)読んでないんだけど

僕は関与していませんと言うのだ。こういうのを無責任と言わずして何というのだろう。何より、手記出版にあたって必要な三つの条件を、太田出版に引き継いだ様子が微塵もない。私は、この条件の一部ではあるが、Aがこの条件のクリアを試みた気配を感じている。それはいいのだ。それよりも、自分の処ではだせないが、余所(よそ)だったら出せるというこの醜悪な流れを、どうやって帳尻合わせることが出来るというのだろうか。
 さらに、不可解/不愉快だったのは、太田出版の編集者(部)の見解を、ここ(『週刊文春』)で初めて見たことだ。最初に本書で出すべきことだ。以下は『…文春』の、太田出版編集者のものだ。

「私は編集者としてひと言も本文に言葉を加えていません。直す時は本人に伝えて彼が自分で直している」

この部分、ごちゃごちゃ言わずに「手を加えました」と正直に言ってくれればいいだけのことだ。それに私たちが気づかないとでも思っているのだろうか。

「手を入れると世界観を崩してしまうので、下手に変えられないんです」

こんな言い訳でもいいから、本書にどうして書かなかったのだろう。事件の渦の中心にいる人物が書を出すのである。それにあたっての「覚悟」は、幻冬舎も太田出版も持っていなかった、と断ずるところだ。日本中を揺るがし震撼させた事件の犯人の出版とあれば、その是非について世論が二分することは百も承知だったはずだ。そのリスクを、ひとりは避け、もうひとりは頬かむりした。

 先の、佐川一政による『霧の中』の時はどうだったか。編集部(「話の特集」)は、出版に際し、長文で解説を加えている。佐川を断罪するでもなく、しかし擁護するのでもない姿勢は、出来るだけ事実に沿って事件の解明しようというものだと思えた。それで、私たちが感じた「不気味な衝撃」を形にしようとしていると思えた。

 Aの気持ちは今どこにあるのだろう。それが希望であるかどうかは別なことだが、私は第二部を読むことでいくらか見えたように思っている。


 ☆☆
それにしても、詳細なAのその後の記述は、Aの現在を特定するように思います。その時に、
「『正義』を自称する『集団的悪意』は野放図に肥大化する」(関川夏央「楽には読めなかった第一部の暴力描写」(同『文春』)より)
ことでしょう。その時、Aはどう対応するのでしょうか。これこそ自分が望んだものだとするのでしょうか。まるでそれは『異邦人』(カミュ)のムルソーのようではないかと言ったら、Aは狂喜(「狂気」ではありません)するのでしょうか。

 ☆☆
この特集では、久田恵の記事が良かったと思えました。母親の存在が時に消え、時には積極的な姿として現れる。Aにとって母親は、そんな特異な存在だったのではないか、という視点だったと思います。
筋を通すことが、今もAには難しいことが分かります。他の記事には、筋が通らないとか筋を通せという見解が多いと思いました。

 ☆☆
久しぶりに、金曜の定期を無視しての発行です。気持ちが急(せ)いて仕方ないのです。次号「下」もなるべく早め、3、4日後に出したいと思っています。よろしくです。

『あん』  実戦教師塾通信四百四十六号

2015-06-12 12:29:20 | エンターテインメント
 『あん』
     ~「どら焼いかがですか!」~


 1 出会い

  ハンセン病を描いた作品は二度目。『砂の器』が初めだ。『あん』もつらい映画なのだろうと思って、映画館への足は少しばかり重かった。しかし違っていた。
 カンヌ映画祭の作品(河瀬直美監督)である。ホントに映画っていいなと思った。美しかった。心を洗われ、そして力をもらった。
       
「あたし、50年間あんこを作ってるのよ」
映画が始まってすぐの、この徳江(樹木希林)の言葉で考えた。徳江の手は病(やまい)で侵されて、大きく形を変えている。十代で故郷を追われた徳江は、施設入所の時、母が徹夜して作ってくれたブラウスもみんな、洗いざらい処分される。患者は人と接触してはいけない。外部の人間は、施設/患者に近づいてはいけない。ハンセン病は、骨をも溶かす「忌(いま)わしい」病気だった。
 「伝染性の強い不治の病」という世の中で、徳江が小豆のあんこを作ろうと思ったきっかけはなんだったろう。これは食べ物だ。豆にも水にも自分の手を浸(つ)けるのだ。毎日豆と話をして腕をあげたのだろうか。
「こんなに美味しい」
そう思い、施設の仲間とそう言い合い食べたのだろうか。身体に対する不安も、自分自身あったに違いない。それが日々の生活の中で少しずつ払拭(ふっしょく)されたのだろうか。
 時を追うに従い、菌や伝染性の極めて弱いことが発見/解明される。治療法が確立される。それらの出来事に伴い、外に出たい/出られる思いが作られたのだろうか。長い年月と苦しみの向こうから、徳江が千太郎の店にやってくる。
「あたしが作ったあんこ、食べてみて」
と、徳江が差し出すあんこを、プレハブ小屋で店長をする千太郎(永瀬正敏)は、いったんは捨てる。しかし、
「つぶあんか」
と言わせることを忘れなかった。つぶあんだったから捨てた。徳江に対して「不浄(ふじょう)のもの」という見方を、一度も千太郎はしなかった。そんな人間の深い部分を徳江が見逃さなかったから、千太郎に声をかけた。あとでそれが分かる。

 2 「世間」というあり方
 徳江が小豆と会話しながら手塩にかけたあんこは、やがて小さな店の前に行列を作る。
      
      
しかし、客は波を引くように途絶える。徳江にはみんな分かる。でも、大量に売れ残ったどら焼を前に、そして素通りする人々を前に、招き猫を磨く。
 このあと物語は、静かに進む。私たちははある期待をして観続けた。それはある部分で受けいれられ、ある部分では裏切られる。
 中学生のワカナ(内田伽羅:樹木希林の孫)に誘われ、千太郎は施設を訪れる。徳江は静かに二人を迎える。はしゃぐでもない、かといって嫌な顔をするのでもない徳江の静かな顔から、様々なメッセージが流れて来る。千太郎は、そのメッセージをどう受け取ったらいいのか、身の置き場所に困るような躊躇(ちゅうちょ)をする。
      
幸せでした、という最後の徳江の手紙には、

「私たちはこの世を見るために、聞くために、生まれてきた」

としたためられていた。これは世間の非情を責める言葉ではない。千太郎と出会って、世の中を見ることが出来た感謝の言葉だ。映画は、誰が心ない噂をばらまいて客を奪ったのかという展開をしない。徳江は誰も責めない。千太郎は自分を責めた。
 私は強烈に教えられた気がする。

○私たちが向かうのは「世間」や「世界」とは別な処(ところ)でいい
○私たちが向かっているのは「世間」や「世界」ではない

と教えられた気がしている。
 私は「風評被害」なる言葉を、いきなり思い出した。自分に降りかかった災難を、他の誰かから「克服しなさい」「そうしないと復興しない」と言われる時の言葉だ。そして、せっかく丹精込めて作った米や野菜を、邪険にされる時に訴える言葉だ。徳江はそういう場所にはいなかった。
      
 徳江の好きな桜が満開の公園で、千太郎がどら焼を売るラスト。客の来ない屋台で、やがて意を決したように、
「どら焼いかがですか!」
と声を上げる千太郎の頭は、もうボサボサの長い髪ではなかった。

 土曜日の盛況だったのだろう。思いの外(ほか)、若い人が多かった。その満席の観客から、これも静かな拍手が起きたのだった。

 3 補足
 「癩病(らいびょう)」の意味を、ハンセン病と限定して、揉(も)め事を避けている辞書も多い。しかし、聖書や日本書紀の昔から登場する「癩病」が、固有の疫病(えきびょう)として分類されていたはずがない。「正体不明の恐ろしい病」程度の意味づけで始まっているというのが正確なところだ。ちなみに白川静の『字訓』によると、癩病の作りの「頼」の部分は、神から天与されたものを意味するので、癩病は神聖病だったという。中国は孔子の時代の話である。
      
映画『ベンハー』(1959年)にも、癩病に罹(かか)った人々が追い込まれる谷/洞窟が出て来る。キリストが処刑され、キリストの血と、その時に降った雨が病を流すという奇跡で映画は終わる。多分にこの時、谷には他の「正体不明の恐ろしい病」、性病患者や精神疾患の患者がいたことは間違いない(フーコー『狂気の誕生』など)。

 そして、あと補足したいことは、ふたつの『砂の器』(松本清張原作)である。ケチつけから入るが、2004年フジテレビのドラマを、私は相当入れ込んで見た。しかし、最終回は見なかった。事件は、ダム建設反対で村八分にあった人間が、その過去を知られたくないということを動機としている。待ってくれ、東京まで逃げれば村は追いかけて来ないじゃないのか。自分の過去を知る人間を殺す動機としては、はなはだ貧弱だ。
 さて、ハンセン病が「伝染病」として予防法が施行されるのは1953年。これによって患者の徹底管理/隔離をはかる。この予防法が廃止されるのは、1996年。たかだか20年前だ。映画制作の時期、癩病に関する世間の認識は「正体不明の恐ろしい病」だったはずだ。映画の上映は1962年なのである。制作にあたって、松竹と制作側(監督・野村芳太郎)は、激しく対立する。制作費は監督と松竹が折半(せっぱん)という結末まである。そしてさらに、この映画上映を全国の癩病患者(全癩協)が反対する。「差別を助長する」からだ。そして、全癩協との長い話し合いで、ようやくこぎつけた上映だ。
 家を、村を追い出された親子。全国どこを放浪しても、石を投げつけられる。そんなハンセン病の過去を持つピアニストを、ある日子どもの頃世話になったお巡りさんが訪ねる。彼はその夜、お巡りさんを殺すのだ。


 ☆☆
いろんな人に『あん』を勧めてます。皆さんもぜひどうぞ。上映は、全国で77館とはずいぶんな数字(少ないという意味ですよ)とも思いますが、また一度、
「私たちが向かうのは『世間』や『世界』ではない」
と、思うことにします。

 ☆☆
『天皇の料理番』好調ですねえ。見てますか。先週ひとつ残念だったのが、篤蔵の頭。髪を伸ばすのもいいけど、明治のコックがあれでいいのかなあ。一気に今風になってましたが、パリなら許されたのでしょうか。かなり残念。

 ☆☆
珍しく体調崩しました。年取ってからの風邪はこたえますねえ。皆さんも梅雨時の体調、お気をつけて。

デジタルの行方  実戦教師塾通信四百四十五号

2015-06-05 12:07:49 | 子ども/学校
アナログ/デジタル
     ~彼方なる「可能性」~


 1 迷惑電話

 先週のことだ。変な電話があった。
「奥様はいらっしゃいますか」
女の声だった。いるわけねえだろ、と鼻の穴を膨(ふくら)らませて、
「なんのご用でしょうか」
と言うと、
「急がないので結構です」
と切ってしまった。
 さて、着信の番号を見ると、私の記憶にある番号だった。かなり前だが、やはり似たようなことがあって、私の脳に記憶されていたのだ。今度こそ検索してみると、どうやら有名な番号らしい。参考のため読者にもお知らせしておこう。「048-650-1411」である。設置場所は埼玉県川口市とあった。「被害者」は、すでに6000人に及ぼうとしていた(これってアクセス数なので「実害」はもっと多いかも)。相手はその時々「三菱東京銀行」や「太陽光発電会社」を名乗ったり、「間違い電話」をわびたり、無言電話まであるようなのだ。もちろん「奥様は……」のパターンも数多い。伊東や松坂を名乗る女だというが、後の方で電話する声がたくさんするという口コミもあるので、油断はならない。

 将来的に預貯金の額面まで把握出来るようにしたい、というマイナンバーが話題だ。居ながらにして、現在の通帳の貯蓄額が分かるとか、振込や現金の移動が出来るとかいうことが便利というのだろうか。そこに来て今回の「年金情報流出」とやら、なにか犯人まで到達できないみたいだ。その前に被害をブロックすることに集中している状況である。これはつまり、
「原因究明」前の「再発防止」
を意味する。今のシステムを休止するわけにはいかないからだ。これはまるで、今の世の中の間違った流れを象徴しているようだ。
「奥様は……」
の電話と、年金情報流出とは直接関係ないと思うが、自分のことが知らない間に、ネットにだだ漏れしているのは確かだ。

 2 デジタルの行方(ゆくえ)
 読者もネットで本を注文する時、
「この本を読んでる人はこんな本も読んでます」
と、アップされてるはずだ。これがどうも、
「必要なら、送ります」「明日の○時です」
という「大きなお世話」が登場しそうである。この辺の話はどうでもいい。しかし、アメリカの大都市で、リアルなことが起こっている。ジョン・アーリ著『モビリティーズ』に関するレポートで知り、驚いた。
 路上で目的地を検索(スマートフォン)していると、画面上に、
「車を利用されますか?」
と突然アップされる。OKで返すと、
「あと○分で車が行きます」
と応答が出る。○分後に車が到着する。無言で乗り込んだ客は、目的地に無言で降りる。目的地は先程「客」が目的地を検索した時点で、すでに運転手に了解済みであり、もうタクシーのナビに打ち込んであるのだ。支払いは電子マネーによるものなので、現金は登場しない。目的地検索は移動要請を意味しており、運転手と客のマネー交換の信用は、ネットが保証している。
 驚くことはまだ続く。実はこのシステム、登録すればタクシー業界の人間でなくとも、誰でも使える。自家用車を持っている人間が、近くに車を必要としている「客」と出会えればいい。道のあちこちに無数の送迎車が控えている、と言ったらわかりやすいかも知れない。アメリカ大都市の無愛想なタクシーを利用するより、はるかに快適な移動が出来るというこのシステムは、タクシー業界を震撼(しんかん)させているという。カード/クレジットによる決済は、タクシーを使うよりはるかに「安全」というおまけまでついていると言う。

 3 手に入らないもの
 この話で、私が前(拙著『学校をゲームする子どもたち』)から言ってきたことが、改めて検証されていると思えた。
 とりわけ若い連中はいとも簡単に情報を手にする。初めての町に降り立ち、迷うことなく地元の人気店でご飯を頬張り、隠れ宿に泊まる。ご贔屓(ひいき)のアスリートの行動をキャッチし、待ち受けることも出来る。先生/学校の話で言えば、教材研究は実に「深化した」。児童・生徒の行動様式とその理由が、おおむねどうなっているかを知ることも出来る、等々だ。
 私たちは、これらが本当は自身の力で獲得された情報ではないことに気づいていない。大切なポイントはここだ。良くあることだが、たとえば、美味しいそば屋を旅先で訪ねると、
「われわれ地元の人間は、その店より……」
と、雑誌やネットとは別な店を教えられる。
 旅の先には、そこで暮らしや生業(なりわい)を立てている人たちがいる。それを私たちは「旅/旅先」と呼んでいるのだ。しかしそのことを、ネットや雑誌は無視して出来上がっている。少し脱線するが、吉田類(BS6『酒場放浪記』)のいいところは、酒場とそこに集(つど)う人々の空気をうまく伝えていることだ。なるべく自分を出さないようにしている。主役はつまみと客がいる「酒場」であって自分ではない、というスタンスを守っている気がする。良くやってるような、有名人が町に来ましたよ、と我が物顔で歩く愚劣なものとそこが違っている。また、オレは舌の肥えたグルメライターなんだぜ、という俗物が登場する番組とは違っている。って少しほめ過ぎかも知れないが。それで、次第に人々に知られることとなったのだろう。
 少し熱くなってしまった。
 前段の本のことで言おう。私は昔、たとえば江戸川乱歩の『サーカスの怪人』が読みたいと、図書室にそれを求めた。しかし、それが収まっているべき場所は、いつも暗いすき間となっていた。司書の先生に聞くと、あの本は人気があるからねと気の毒そうに言う。
 立ち読みをしようと本屋に出向く。しかし、やはりない。そのうち、そんな自分の話(グチ)に気がついた友だちが、
「あいつが持ってるよ。貸してもらえよ」
などと教えてくれる。
 今だったら迷わず買うのだろう。本屋でなかったら、ネットで。それより何より、どこにあるのか、「彼ら」は、その情報をいとも簡単に手に入れるのだ。私たちには情報もお金もなかった。しかし、「彼ら」が手に出来ないものを、私たちは手に入れていた。私たちがそれを求める過程とは、江戸川乱歩や『サーカスの怪人』が、私たちを虜(とりこ)にしていた場所だ、と言える。それは「私たち」が作られた場所だと言ってもいい。そして私たちはその中で、司書の先生や本屋のおやじが、親切だったり冷淡であることを知った。そして、友だちというものを知った。
 今、子どもたちが、

行ってみよう/聞いてみよう/やってみよう

としないのは、いとも簡単にものごとを手にしてきたからだというのは、間違いないと思われる。若さ=好奇心とも言えるものと疎遠になったのは、それが原因と思われる。そして、決定的に大切で打撃的と言えることは、この人たちが、

「自分が動かないことには得られない情報に対応出来ない」

ことだ。分かりやすい話、彼女の自分に対する気持ちは、自分が確かめないことには絶対分からない、のである。そこは究極にアナログの世界だ。
 結婚はもちろんのこと、恋愛も出来ない社会を、私たちは猛烈な勢いで作ってきた。道も聞かず、地図帳や時刻表、ましては通行人や駅員を必要として来なかった人間が、
「貴女(あなた)の気持ちを聞かせてください」
って言えるのだろうか。さあ、ここが清水の舞台だ、ここで飛び下りろ! ってことかも知れない。それが出来ずに、一方的に妄想を募(つの)らせてストーカーか。そんなことが現実だとでも言うかのように、私のもとに「ライン外し」の報告がやって来る。……しかし、

 デジタルの行方には、希望もあるのだ。


 ☆☆
マー君復活! なんてこった! 期待を背負った人間が、それに応える。大変なことですよね~ マー君のメンタル調整力って……ですねえ。すごいなあ、嬉しい!

      
            夏も近づいた、手賀沼です
 ☆☆
今年、お向かいさんのガレージにツバメが巣を作りました。昨日、カラスがねらってて、親鳥が戦ってたのですが、今朝やられました。残念。お向かいさん一家と、悔(くや)しさに歯ぎしりしました。
      
      こちらは白鳥。今、手賀沼で良く見られる光景です