実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

1968年(下) 実戦教師塾通信六百三十五号

2019-01-18 11:48:47 | 戦後/昭和
 1968年(下)
     ~`68/`69年の軌跡~


 ☆初めに☆
50年後のこの日がやって来ました。
     
あの朝、機動隊が控えた本郷の正門前で、
「東大がこんなに美しく見えたことはありません」
詰めかけた学生のひとりが言ったひと言が、鮮明に思い出されます。
 ☆☆
あの時期/時代、間違いなく現実は手応(ごた)えをもって目の前にありました。見えないとき聞こえないとき、私たちは前に出て行った。それは新たな現実を生んでいた気がします。行動をともにするか否かに関係なく、「あの場にいた」ものは誰も、「全共闘には『みんな』ついていけなかった」なるおしゃべりはしません。いや逆に、全共闘という場所を拒絶出来ないままでいたと言えるでしょう。
タイトルは「1968年」ですが、この記事の出所は1969年です。宇都宮での出来事を通して、書き記しておきます。思い出にひたろうというのではありません。現実や「手応え」とはどんなものなのか確認しておきたいのです。

 1 農学部林学会報『山びこ』
 記事を書くにあたって多く使用したのが、当時の朝日新聞に栃木の下野(しもつけ)新聞。これらは栃木県立図書館に、マイクロフィルムから印刷してもらったもの。そのせいで写真が不鮮明だ。
 そしてもうひとつは、宇都宮大学農学部の林学科で出していた年会報『山びこ』。

(左下に見える「ことより乃印」なる篆刻(てんこく)は、当時の私の手作りです。ご容赦ください)

これが表紙。文字のレタリングと写真は、某(なにがし)党派の冊子かと思われてしまいそうだが、れっきとした学科の年報で、教官たちの手による学術論文も載せられている。この時の林学科3年の誠実な先輩たちが編集して出来上がったもの。大学闘争の経過をきちんと残せたのはこれだけである。当時の宇都宮大学全共闘で、党派以外の「ノンセクト・ラジカル」層では、林学科が最も自立的だったと思っている(ベ平連も無視できない存在だった)。念のため断るが、私は教育学部。でも、この林学科の先輩たちには、とにかく語り尽くせないほどお世話になった。卒業後、先輩たちがみんな東大の大学院に行ってしまったあと、残された私は、しばらくロス状態になった。

 2 11月4日
 宇都宮大学の全共闘運動は、もともとが学生寮の新設に伴う反対闘争に退学処分、というものに端を発したものだった。同じ1969年の10月13日のレポートを、読者は覚えているだろうか。
 10月13日のショット。封鎖解除に来た教職員と相対する私たち。

 座り込みした仲間をごぼう抜きする職員。

この時封鎖解除に失敗した大学側は、綿密な計画のもとで11月を迎える。春の全学ストライキがあったため、秋の試験休みはないゾと宣言していた大学が、突然、10月31日~11月5日までの間(休日もはさんでいる)を全学休講と通告。以下は11月5日付朝日新聞の記事から。
「大学側は(前回の失敗を反省し)今回はまず裏側入口で『陽動作戦』をし、そのすきに正面入口から解除する」
計画だった。こんな内輪の事情まで書いてある。
 コスチュームはヘルメット装着を始め、バールやペンチも携えた教職員は多数を極め(新聞には100名とあったが、少なくともその倍はいた)、本部を取り囲んだ。10月13日の時との違いは、学生がいなかったことだ。あの時、封鎖解除を阻止する仲間は200名を数えた。しかしこの日、休講で連休となった学生の多くはいなかった。人々というものは、その場にいるだけで違う。10月13日の時は、無関心な学生まで、何をしているのか何が起こっているのかという眼差しを形作った。あの時学内は、現場検証の場となっていた。しかしこの日は違っていた。

     

これは新図書館の封鎖を解除しようという教職員。後ろ向きに見えるのが、林学科/ベ平連を中心とする無党派の仲間たち。みんな丸腰だ。私はここにはいなかったのだが、
「新聞社はうまく写真を撮ってくれたけど、オレたちは大波に呑まれる木の葉のようだったよ」
と、仲間が言った。多勢に無勢だったのだ。

そしてこれが本部前。新図書館の仲間を含めても、この時私たちは50名ほどしかいなかった。

 3 「そんなことは当たり前だ」
 新聞は見出しだけでも雄弁だが、
「林学科3年のA君は『われわれのクラスは今度の試験を全員が受けず、問題解決のための討論を続けてきた。また大学側にも団交を要求したが話し合いの機会さえ持たせなかった。怪我人が機動隊導入につながることを大学側は知らないのか』と解除策動に憤る」
という下野新聞の本文は、状況をしっかり伝える。「噛み合う」とはこういうことだ。
 以下は『山びこ』からの抜き書き。
「報道の目を恐れてか教職員は表立ってなぐりかかったりしなかったが、腹部、下半身に対する攻撃を加えた」
「(全共闘が封鎖した)本部の水道、電気を切ったことは、教授会が……やったのでしょうか」
「ある程度のケガ人もやむをえまい。教職員のケガ、衣服の破損はすべて大学で面倒みる」(大学の決定)
「学生が職員に袋叩きにあっているのを、『ああいうときは、ちゃんと頭をかかえるもんですなぁ』などと言って、笑って見ていた彼らは、一体なんだ」
「私たちは証拠というものは作られるものであることを学んだ。本部封鎖中、役人は土足で歩くじゅうたんの上を、共闘の諸兄ははだしで歩くほどだった。そのような……所も機動隊が土足で踏み荒らし……机、イスは窓から投げ出して破損する。………報道機関は、全共闘による……室内は荒らされていたと発表するのである」
教授や職員のひどさよりも、そして承服/納得できない怒りよりも、私は当事者同士をこんなにも「近く」で「確認」出来ることに、驚きさえ覚える。
「機動隊導入の責任をとるとかで、学長代行は辞任した。………が、驚いたことに、教授は代行をやめただけで、教養部長として………これからも宇都宮大学で教鞭(きょうべん)をとるのだそうだ。……責任をとるというから、当然彼らが宇都宮大学から去るのだ、と思っていたのは僕だけだろうか」
これも『山びこ』からの引用である。昔も今もそうなのだ、というのではない。私たちは、大学で「当たり前を通そうとした」だけだった。改めてそんなことを思わせる一文なのである。

 残された私たちが、<いま>言うことは同じだ。
 「そんなことは当たり前だ」



 ☆後記☆
稀勢の里、引退しました。このブログの熱心な読者は覚えていることと思います。稀勢の里が横綱に昇進した時、もう少し様子を見た方がいいのではないか、と私は書きました。本人の実力より、周りの「担(かつ)ぎだす」勢いが優っていたからです。この点は貴乃花が横綱になる時とは対照的でした。あの時、父親の二子山親方は、
「もっと苦しめ、それから横綱になれ」
と言っていたのです。稀勢の里の悲劇は、
「国技で日本人の横綱」
という勝手で一方的な思い入れと、それを背負いこんだ稀勢の里自身が生んだのです。
いずれにせよ、この件についてちゃんと書きたいと思っています。
 ☆☆
『ボヘミアン・ラプソディ』観てきました。内容もそうですが、確かに噂通り「コンサート会場」のような気分を味わえました。クィーンってああいうバンドだったんですねえ。
コメント

加齢 実戦教師塾通信六百三十四号

2019-01-11 11:34:44 | その他/報告
 加齢(かれい)
     ~出来事/目標など~


 ☆初めに☆
人の出入りが多い暮れ・新年でした。その中で、気に留まったことを書いておきます。皆さんのご飯のお供か酒の肴(さかな)にでもなれば幸いです。

いつもこの時期にもらってはいただく、浅草の「亀十(かめじゅう)」。どこもまね出来ないふっくらした皮に、はみ出そうな餡子(あんこ)。いつもの新年を味わいました。


 ☆年賀状☆
定年退職のあと、非常勤をやっている友人からです。
「孫のような小学生から『先生の将来の夢はなんですか。僕の夢は………』と真顔(まがお)で言われて、心の底から嬉しかった」
こんなびっくりするようなことが起こるんです。子どもはホントにいい、いいものですね。
私が出したお返事の中で、結構気に入っているのは、
「人の命も限りがあるのです。いい年をして資産運用の喧騒(けんそう)をになってる奴や、カツラをかぶってる奴らは、命に終わりがないと思(いたが)ってる奴らです」
であります。
私の今年の年賀状です。下部は削りました。

今年もよろしくお願いします。

 ☆絶滅な敬語☆
暮れ、教え子の出産祝いをデパートで注文した時のこと。
「では、お包みさせていただき、送らせていただきます」
と店員。呆然としました。もう日本は終わりだ、みんな死んじゃうんだなどと思ったのです。
これが京都のホテルのスタッフが違っていた。空いた食器を、
「お下げいたします」
でした。「下げさせていただきます」ではなかった! 嬉しかった。日本は終わってない、オレもまだ死なないぞと思いました。
ちなみに、絶滅している敬語、ほかにどんなものがあると思いますか(「→」の右側が平気で闊歩(かっぽ)している表現)。
「申し上げます」→「言わせていただきます」
「参ります」→「行かせていただきます」
そしてさらに、絶滅が危惧されている敬語は、
「召し上がる」
です。レストラン/食事処(どころ)で「どうぞ、いただいてください」なんぞと平気で言うもので、気の小さい私は、思わず身体がすくんでしまいます。
ここである反応が予想されるので、ひと言。これとは別件ですが。
新年になって「さすがは国語の先生」と言われました。ほめてもらった私ですが、
「それ、嬉しくないんだけど」
と言いました。

 ☆報道の傲慢(ごうまん)☆
新年に会って話した人たちが、学校の大変さを「モンスターペアレント」のせいだと言う。報道や噂を丸のみ/鵜(う)のみにした、この間抜けな物言い。これが私を良く知っている人たちの現状だと分かれば、これで私の本を読んだのかと思えば、又してもオレはまだ死ぬわけには行かないぞ、などと思うのです。
京都でのことを思い出します。観光地での外国人のマナーはどうなのか、私が聞いたのです。運ちゃんの話です。
「京都のお客さんは、皆さんマナーしっかりしておりますよ」
「そりゃ大きな声を出しはるお客さんもおります」
「でも、それは日本人でも同じですよ」
「テレビは、一番ひどい例を面白おかしく取り上げますからね」
思った通りだった。と言えば、
「じゃあオマエは100人の運ちゃんに聞いたのか」
などと反感を買うのでしょうか。

 ☆加齢/老化☆
今年の目標。「筋肉を作り直す」です。
四年前に「脊柱管狭窄症(せきちゅうかんきょうさくしょう)」が発症したことを報告したと思います。鼠蹊部(そけいぶ)に今まで経験したことのない激しい痛みを覚え、リンパ腫だと観念しました。
医療系友人のすすめで整形外科に行くと、医者は「脊柱管……」と。しかも「あなたなら自分で直せる」と。医者のすすめは「ストレッチ」。おそらくは「そこからやり直せ」という意味だと思い、頑張った。その過程でいいと分かったのが、ロードワークを「足」でなく「自転車」に切り換えること。腰とひざへの負担がまったく違っていた。自転車は医者&整体院泣かせのツールだと思った。ちなみに他の内臓に関する数値は良好で、毎年「血圧が正常な数値はあなただけです」「医者いらずの身体だ」などと、医者が言ってくれた。
でも間違いなく年はとる。見た目や髪はモチのロンであるが、たとえば道場の夜の稽古。次の日疲れが残る、ではない。それよりも、夜の食事時間が遅くなることで、就寝時間がずれることで体調が崩(くず)れる。少なくとも50代ではそんなことはなかったし、60代前半まではなんとかなった。もう違う。夜はやめた。
なんぞと思っていたら、持病(「脊柱管……」)が再発した。持病の名の通り、持ち物なのだった。その後、あれほど人に「良くない」と言っていた筋トレを、ジムでやった。走り込みもした。血迷ったのだ。状態は悪化した。昨年の秋だった。
逆らわず行こう、改めて思った。外側でなく、身体の芯から柔らかく作り直そう。
今は呼吸中心。超スローに腹筋/背筋/四股/スクワットを繰り返しています。効果は目に見えてて、早ければ春には稽古(けいこ)に全面復帰しようと思います。マリナーズでの練習と食事・睡眠以外はすべて、ウォームアップ&クールダウンと言っても過言ではないイチローや、怪我を公言し休場に踏み切る白鵬から学ぼうと思っています。最後は結局みんな、医者や薬に頼り入院して死んでいく。でも、それは出来るだけ先にと思うのは、みんな同じでしょう。そのために短気を起こさず、医者に通っているつもりで身体を調えようと思っています。
良く言ったものです。「年には勝てない」。その通りです。



 ☆後記☆
「レーダー照射」をめぐって日韓の確執(かくしつ)が続いています。様々な思惑(おもわく)がからんでて、単純に断言できる状況ではないようです。皆さんはどう思いましたか。1937年の7月、日中戦争の引き金となった「発砲事件」(蘆溝橋事件)を思い出します。
「そっちが先に撃った!」
こうして戦争に突き進んだのを思い出した人は多いことでしょう。
 ☆☆
初詣(はつもうで)行って参りました。
       
恒例の広幡八幡宮、いつもより早めに行ったせいでしょうか、行列はそれほどはありませんでした。

お礼とお願いを、しっかりとして参りました。

 ☆☆
続編「家売るオンナ」始まりましたね。
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補・師走 実戦教師塾通信六百三十三号

2019-01-04 12:43:12 | 旅行
 補・師走
     ~維新から150年(後編・京都)~


 ☆初めに☆
新しい年が明けました。今年もよろしくお願いします。本来ならこの記事は「下」になるはずなのですが、年が明けてしまったので「補」としました。いずれにせよ間が抜けてますが、よろしくです。
大晦日はいつものコースで東京に行ってきました。
アメ横をぶらつき、


その後浅草へ。






仲見世通りの干支(えと)も「亥」。


尾張屋で年越しソバ。今年はいつもの銀杏(ぎんなん)のから揚げに、そば豆腐もつまみました。お酒は吉の川。


師走はいいなあ大晦日はいいなあと、人波に身を任せながらゆっくり歩いて参りました。

 1 建礼門
 単なるお飾りに過ぎなかった朝廷が存在感を増すのは、天明の大飢饉(ききん)が契機となる。この天災に際し、幕府は有効な手だてをまったく打てずにいた。人々の請願(せいがん)の対象は、幕府から御所へと変わる。天明七年の六月、おびただしい人々が御所にやって来る。後に「御所の千度参り」と呼ばれる人々は、多い日で七万人を数えた。
人々は御所の築地塀(ついじべい)をまわり、

南門(建礼門)の衝立(ついたて)と門柱の空間を、賽銭(さいせん)箱に見立てて、祈って金を投げ入れた。

これに対し朝廷(光格天皇)は、築地塀に沿った堀をきれいにする。人々が水を必要としたからだ。そして、果物を振る舞う等の対応をした。それまでは朝廷と幕府のやりとりはすべて幕府の方針通りで、形ばかりの「朝廷の了解/承認」だった。しかし、幕府にもの申す天皇がここに登場する。

 2 その前に
 京都御所を少し下ると、ほどなく京阪三条駅である。そのそばの交差点に銅像がある。

高山彦九郎と呼ばれるこの人物は、早すぎた尊皇思想というべき人物か。京都に入るときは必ず御所に向かって平伏(へいふく)したという。全国各地をまわり尊皇を説いたものの、幕府から監視され追い詰められ、天明の大飢饉を目にしながら自刃(じじん)してしまう人物である。
 銅像を見ていた時である。近くで、日本第一党だったか、そんな方たちが演説を始めた。街宣車は普通の大型ワゴンで、スピーカーは中型。出で立ちは背広の老人たちだった。
「政府は年間三千万人の外国人観光客を誘致(ゆうち)するという」
「たかだか一億人の日本に、三千万の外国人が来たらどうなるのか」
と言っている。でも、移民でなく観光なんです。一日に換算すれば十万人にもならない。笑ってしまいました。

 3 石清水八幡宮~二条城
 海外の勢力が、天保(てんぽう)の時代以降、次々と日本に押し寄せる(ペリーは嘉永(かえい)で少し遅れる)。ここでも無定見/無方針の幕府を見て行動を起こすのが孝明天皇。50年もの間中断していた石清水(いわしみず)八幡宮の臨時祭を復活する。神に仕(つか)えるのが朝廷である。これは朝廷の幕府に対する宣戦布告とも言えた。

新年を迎える石清水八幡宮。本宮(ほんぐう)の飾りは、矢柄(やがら)である。石清水八幡宮は武神でもある。


正月の注連縄(しめなわ)を張っているところでした。

 舞台は再び御所となる。これは、幕府側(政府軍)と長州藩がぶつかった御所の蛤御門(はまぐりごもん)。


初めて見ました。無数の弾丸の跡は、弘道館にあったものと比較にならない。


 尊皇攘夷(じょうい)派が席巻(せっけん)し、幕府内では公武合体(こうぶがったい)が公然と叫ばれた。この時まさしく、朝廷の力はピークだった。
 そして大政奉還の二条城へ。






徳川慶喜(よしのぶ)が奉還を言い渡す二の丸は工事中で入れませんでした。こちらは本丸で、やはり工事中でした。


 幕末/維新をめぐって、駆け足の旅でした。

 4 こちらも
 ついでにこちらもどうぞ。京阪三条からさらに下ると祇園(ぎおん)です。舞子さんの姿が見えます。


外人さんたちがどっさり写真を撮っていた場所。なるほど、確かにいい眺めです。

八坂神社から清水に向かうと、八坂の塔がなんとも言えない佇(たたず)まいです。




 それと、石清水八幡宮そばの上木屋橋、ご存じですか。

木津川にかかった400m近い長さのこの橋は、通称「流れ橋」と言われ、川の水位が上がると水とともに流されるという橋です。
手すりも欄干もないこの橋は、戦後作られました。それまで石清水八幡宮の御参りは舟で行き来していたのです。

宮司(ぐうじ)さんに聞くと、
「今年も流されて………直ったかなあ」
と言うのがとても印象的でした。



 ☆後記☆
昨年もお世話になりました。昨年は新刊を出した年でもありました。ネット上や、直接いただけるあたたかい感想/意見に、この場で御礼申し上げます。
「忘れていたものを思い出すような気がする」
といった感想が、おそらくは30~40代の方たちに多いように思えます。励みになります。
 ☆☆
50年前は今日から数えて二週間後、
        
この日がやって来ます。報道は今でも「この日から学生運動は衰退(すいたい)する」と伝えます。でも、全国の大学が激動の時となるのは、この日を境にしていました。

 今年もよろしくお願いします。
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師走(中) 実戦教師塾通信六百三十二号

2018-12-28 12:14:15 | 旅行
 師走(中)
     ~維新(いしん)から150年(前編・水戸)~


 ☆初めに☆
京都に行ってきました。幕末/維新をめぐって、少しばかり確認したいと思ったのです。
NHK総合の『西郷どん』終わりました。ずいぶん楽しみにしていたのですが、夏ぐらいから見るのやめました。ドラマは俳優もさることながら、原作/脚本が重要なのだなと改めて思いました。
秋に水戸へ行って来ました。結構お邪魔する水戸なのですが、今回は幕末/維新がテーマでした。京都行きはこの暮れとなったのです。今回は水戸のレポート。

久しぶりの水戸駅です。そして、お決まりの偕楽園にも出むきます。



偕楽園の大銀杏(いちょう)。見頃でした。それと二季咲桜(にきざきさくら)。一年で春と秋の二回、開花する桜だそうです。少し分かりづらいのですが、この桜も五分咲きでした。
ついでですが、これが水戸芸術館。NHKの天気予報のコーナーで良く見かけるモニュメント、磯崎新の設計です。


 1 弘道館(こうどうかん)戦争
 もともとが、桜田門外で井伊直弼(なおすけ)を襲ったのは、水戸藩の尊皇攘夷(じょうい)派(以下、尊攘派と表記)の浪士(ろうし)。後の徳川慶喜(よしのぶ)が、一橋慶喜として幼少の時代に弘道館で学んでいたことを思えば、さらに、京都は二条城で大政奉還を言い渡して後、慶喜がここに戻って暮らしたことを思えば、気分も変わる。



蟄居(ちっきょ)を命じられた慶喜、何を考えて暮らしたか。


 筑波山で挙兵(きょへい)した水戸藩の天狗党。どうやら水戸の天狗納豆はここに名前の由来がありそう。ってどうでもいいけど、尊攘派が立ち上げた天狗党は、政権側に制圧される。しかし、戊辰(ぼしん)戦争で逆転する。

こんなものが残っていたとは知らなかった。弘道館戦争と呼ばれるこの戦闘で、正門に残された銃弾の跡。
 それまでの倒幕派(とうばくは)は、これを機に「官軍(政府軍)」と呼ばれ、それまでの幕府側(政府軍)は「賊軍(ぞくぐん)」と呼ばれる。まさに「勝てば官軍」だった。ちなみに、この時の奥羽(おうう)列藩同盟の戦いを、
「賊軍とは何事だ」
「再評価すべきだ」と、議論が今も続いている。会津を中心にして、である。福島にいると、はっきり分かる。



 ☆後記☆
次号の京都篇で幕末/維新の流れをおさらいします。そもそもまったく無力だった朝廷がどうして力をもたげたのか、という点を考えます。もう新年号なのですが、タイトルが「師走」のまんまになっちゃいます。悪しからず。

 ☆回顧(かいこ)2018☆
この場で今年の、私的でちっちゃな回顧をやっときたいと思います。

雷門前の「浅草文化観光センター」は、8階展望台から見たスカイツリー。

「いいね!」なこと。
まだ寒い春先のことだったと思います。国道をバイクで走ってたら、左車線の車がみんな右側の車線に移動を始めました。突然です。みんな左前方のダンプを追い抜いて行くんです。さて、私もダンプを抜いてみると、そのダンプの前には、なんと電動の車椅子が走っていたんです! 隣の車線を車がびゅんびゅん走り抜いてきます。おじいちゃんが、もう必死を絵に描いたような顔でした。何かの加減で車道に入ってしまったのでしょうか。私には、ダンプが車椅子を煽(あお)るのでなく、後ろからの車をブロックしているようにしか見えませんでした。ダンプだけは、右の車線に出ようとせず、ゆっくりと走り続けるのです。ホントにゆっくりと、距離を取りながら。

これも同じく、展望台から見た仲見世です。
 ☆京都☆
では最後に。京都のショット。駅です。

コンコースでは巨大なクリスマスツリーが出迎えてくれました。

そして京都タワー。


 毎年、ストーブでチャーシューやシチューを煮込みます。でも、黒豆や昆布巻きを作ろうという気にはなりません。店頭で購入もするのですが、いつも母親の味をしのんでいる年の暮れです。読者の皆さんも、親を大切にしなさいよ。

 この冬一番の寒気が襲っているようです。では皆さん、よいお年を!
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師走(上) 実戦教師塾通信六百三十一号

2018-12-21 11:30:50 | 福島からの報告
 師走(しわす)(上)
     ~新たな出発&出産~


 ☆初めに☆
車の動きも師走モードです。皆さん、運転に気をつけましょうね。
楢葉の渡部さんの母屋(おもや)は、いよいよ仕上げ。畳の部屋以外は大体出来上がってて、居間に上がれば床暖房!でした。お湯が床下を流れてるそうです。そして、床の間にはあのダルマさんが姿を見せました。

まだどちらの目も入ってませんが、片目はいつ頃入るのでしょうか。
 ☆☆
この日はなんと、牛の出産に立ち会うという幸運に恵まれました。

この子は牛ではなく、猫ちゃん。突然、渡部家に姿を現しました。実は、ずっと前から飼っていたらしいのですが、避難生活を送っている間、実家に預けられてたといいます。母屋完成を機に、戻ってきたのです。人懐(なつ)っこい猫ちゃんは、離れて写真を撮ろうと思うのですが、どうしてもこんな感じになってしまう。接近して甘えて来ては、ひざに乗ろうとするんです。

 ☆引っ越し☆
「ホントは三日前が予定日だったんだけどよ、遅れてんだ」
今日かもしれない、という渡部さんです。

お茶の間でゆっくり、引っ越しの話を奥さんとしていました。いつ頃終わるのかという私に、
「いつって? 考えてねえなあ。期限があるわけじゃないしね」
荷物は、離れに運んであるのです。それを母屋に移動するだけ。奥さんの言葉から、原発事故のあとの慌(あわ)ただしさと腹立たしさが感じられるのです。避難した方々は、避難所の時は学校の体育館にホテルにと、そしてその後は仮設住宅へと目まぐるしく動き続けました。いわきから会津、新潟、そしてまたいわきに戻るといった具合です。
しかし今は違う。「◇◇日までにお引き取りください」などということは言われない。
そんなことを話していると、牛舎から渡部さんが戻ってきました。
「どうも始まるみてえだ」

 ☆生まれた!☆
「破水したよ」

足が二本出ています。奥さんには「お湯を」と指示します。
そして奥さんも一緒に、二人がかりです。よいしょ、よいしょ!

気がつくと、猫ちゃんも来てました。猫の手も借りたいって、んなこと言ってると叱られます。

生まれました!

首がぶらぶらで、死んじゃったのかと思いました。渡部さんがお湯で拭(ふ)き藁(わら)をかけてあげると、やがて首を起こすんです。
そして、これが産声(うぶごえ)をあげた瞬間。ヤギのような「メエ~ッ!」という声。

それから母親に促(うなが)されて立とうとするまで、20分とかからない!

感動しました。あらかじめ決めてあったという「シワス」が名前。

そして牛舎には、次の日出発の二頭の子牛。

渡部牧場で生まれた牛としては、初めての子牛です。
「今日はお構い出来なかったな」
と、渡部さん。いやいや、とんでも御座いません。

たわわになった柚子(ゆず)が、冬至を迎えます。



 ☆後記☆
出荷のあと、すぐに肉になるわけではありません。今度は「肥育」の期間があるのです。肥育農家の仕事です。渡部さんは「繁殖農家」ということになります。再確認しますが、渡部さんは「酪農家」から「和牛(肉牛)農家」になったのです。
「肉になっちゃうんだよね」
「しょうがねえんだ!」
という会話を、渡部さん夫婦はたまにやってます。

     これは駅前通り方面に向かってのショット。いわきは師走の朝です。
 ☆☆
寝屋川事件、謎に包まれたまま判決が出てしまいました。
このままだと、勝手放題の子どもが変質者に遭遇(そうぐう)して被害にあった、という筋書きのまんまです。
いいのでしょうか。
 ☆☆
いくつか「子ども食堂」に顔を出している私です。クリスマス。サンタさんの真似事(まねごと)も、少しばかりやらしてもらってます。
これは前言ったクリスマスカードのもう一枚。60年前の温(ぬく)もりです。嬉しかった。本当に嬉しかった。

ケストナーの『飛ぶ教室』の一節。切ないマルティンの言葉をもう一度。
「僕たちは人間のできが悪いのか。まさか。じゃあ、いったいなぜだ。社会が不公正だからだ。そのためにたくさんのひとが苦しんでいる。こんな社会をなんとかしようと思っている、いい人もいる。でも、クリスマスイブはもうあさってだ。まにあいっこないよ」
今日は終業式です。明日からは冬休み。子どもたち、みんなお疲れさま!
素敵なクリスマスが来ますように。
MerryChristmas!
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