週刊新潮・下
~「寄り添う」方へ~
☆初めに☆
東京高裁の判決について、いくつか問い合わせがありました。法廷で感じたことを少し書いておくと、週刊新潮の影響を世間はさして受けなかった、または、取手いじめ事件が人々の記憶に埋もれそうになっている、と思ったことです。地裁判決がそうであったように、判決理由を私たちが知るのは、かなり後になります。だから、後で書きます。
今回は、すでに何回か触れていた、今までの「?」を中心に書きます。慧眼な読者には、ある程度予想がついていたことかもしれません。思わせぶりですみません。とても書きづらいのです。
1 家庭での生活
<3-3は、みんな冷たい。怖い。いじめられたくない。ぼっちはいやだ>(報告書P30)
奈保子さんの明らかな孤立を示すくだりは、また繰り返すが、<スマホ持ってないからかな。LINEしてないからかな>(同)の後に続いたものだ。この「スマホ」のくだりにアンテナが立った読者もいるのではないだろうか。実は、亡くなる直前のBさんへの電話は、<(奈保子さんは)携帯電話の管理を母親に委ねていたが、この日は、母親の許可を得て>(同P29)行われたものである。そして、母親がかける最後の言葉となったのは<「もう明日の用意はしなくていいからお風呂に入りなさい」>(同)である。しっかりした親と自律した子の関係なのか、親の子どもを管理する姿勢が顕著だったとすべきなのだろうか。更に加えると、二学期のある日の夕、下校してない生徒を帰宅するよう促すため駐輪場に行った教師は、そこにAやFを待って困惑している奈保子さんを見出す。
<「どうしよう、どうしよう。帰らなければいけない時間なんです」と述べ、勝手に帰宅したら後で何か言われるかもしれないというようなことを気にしている様子であったため、a教諭は「帰ったことを伝えておくから大丈夫だよ」と言って>(同P19)
奈保子さんを帰している。「帰らなければいけない」わけが、ピアノであることは明確だ。それが「するべき課題」なのか「好きなこと」だからなのかは**保留する。しかし、最低でもこれは(これだけではない)、奈保子さんの周辺事情として、職員が共有すべきものだった。事件後、学校が行った初期の生徒への聞き取りで「ピアノが厳しいと悩んでなかったか」というものがあったのは、更にいただけない。前述の事情から、この聞き取りを否定するものではないが、この頃、学校は「奈保子さんへのいじめに関する聞き取りは出来ない」としていた。こんなのは、両親の過失ばかりを引き出そうという卑怯なやり方だ。
**奈保子さんがピアノを救いとしていたのは確かだ(<受け止めてくれるのは ピアノだけ>(報告書P31)。
2 不要だった「正しい裁定」
少し気後れはあるが、母親の対応に触れないといけない。Aが校内で行ったスマホによる写真撮影に対し、元担任は<「(近くにいた生徒は)Aと同じように悪い」「(そういう)友だちを見たならば、注意するべき」>(報告書P14)だと指導した。元担任から連絡を受けた母親は、そのまま伝える。奈保子さんは<「私がそんなことを言ったら逆にいじめられる」と、強く反発した>(同)のだった。そして最後となる、ガラスを割った事件の夕、憔悴し切って帰った奈保子さんの様子を元担任に伝える(この辺りの報告はもう繰り返さない)。ここで母親は<担任教諭と(奈保子さん)の言い分が噛み合ってない>(同P28)と思ったのである。奈保子さんはこの時、どう思っただろう。自分は「ひとりぼっち」だと思ったのではないだろうか。
ここまで読んで、ずい分学校を擁護するような書き方をする、と感じただろうか。これでは「自殺前にいじめの悩みを担任や友人に訴えることは全くなかった」(週刊新潮)のを、後追いするようではないかと思っただろうか。全然違う。学校の「訴えなければ分かるはずがない」などという言い分がいいはずがない。じゃあ大人の子どもに対する役割をどう真っ当するのか、と学校が問われないといけないのは当然だ。しかし残念ながら、それは親も同じではなかっただろうかと思うのである。<「いったんは娘になり切っていただいて……娘に何が起きていたのか……捉えていただきたい」>(報告概略版P2)という父親の訴えは、愚劣極まる市教委・当局の対応に憤って出たものに間違いはない。しかし同時に、娘に対する償いの気持ちのあったことが垣間見えるのである。
3 小括
思い返すに、奈保子さんはスマホ所持者ではなかった。そのことで、ネット上でのトラブルは避けられていたようだ。もしかして、スマホを所持する仲間うちでは何か起きていたのかもしれないが、それに気づくことが無かった(調査の俎上に乗らなかったのは、逆に不思議なこととも言える)。残ったのは、目に見えるアナログないさかいだった。だから、少なくとも大人として気づくチャンスはたくさんあった。周囲から見て、初めは友人に見えたのが、友人かどうか迷うようなものに変化した。そして、やはりおかしいと思わせるものに変わったのだと思う。昔の「プロレスごっこ」を思い出す。恐らく、現場にいる人間(大人も子どもも)にとっても判断の難しい局面はあったはずだ。この現場の目を濁らせ遅らせたのは、やはり「学校の荒れ」だったのではないだろうか。
☆後記☆
昨日は立冬。木枯らし第一号も吹きました 今年の秋ってどうなってたの?っていう気分ですね。今日から旭川に来ています 帰るのはまだ先で、来週にハードなレポートは間に合いそうもありません。せっかくですので、せめて美味しいものを食べて来ようと思ってま~す🍜
今年はマリーゴールドを植えました🥀 元気に咲いて嬉しい。日陰で見えませんが、コキアも紅葉し始めました。
トランプ再選されましたね。「バイデンよりはまし」なハリスも、無策な演説の繰り返しには失望したのです
♬~帰ってお出でよと振り返っても、そこにはただ風が吹いているだけ~♬