実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

実戦教師塾通信二百二号

2012-08-29 15:42:18 | エンターテインメント
 『往復書簡』(湊かなえ)を読む



 第三者委員会発足


 報道によれば、大津の越市長は、
「学校でなにがあったのかという事実の解明を一番の目的」
としたい旨のあいさつをした。第三者委員会の発足席上である(8月25日)。先だって殺されかけた教育長の、
「家庭にも問題があったんじゃないんですか」
という立場とは違っていると思えた。それにしても教育長、死ななくて良かった。こいつが死んだら、正義がこいつの方に行ってしまう。襲った若者の気持ちも分からないではないが、死んじまったらまずい。
 「死んではいけない」などと安直に訴えることが、どんなに無力で無責任なことかこの第三者委員会で明らかになることを願う。尾木ママさんよ、頼むぜ。さてしかし、事実が明らかにされることはは無惨なことでもあるはずだ。そんな酷いことがあって、それで被害者は究極の選択をする。例えば、あえて具体的に記述しないが、ネット・携帯を使ったいじめに我慢出来ず、とうとう同級生をカッターで殺してしまう女の子がいた。そんな事実ひとつとっても、「殺してはいけない」「死んではいけない」ことは分かり切ってるということだ。ひとつひとつが具体的・切実である。


 『告白』あるいは露悪

 さて、子どもや若者「が」どう思っているのか、また子どもや若者「を」どう感じているのかという点を、湊かなえは展開して見せる。その一点だけ湊かなえを支持する。湊は「死んではいけない」「殺してはいけない」、そんな愚かな繰り言を一掃する。そして湊は小説だから言える、小説でないと言えないんではないかという表現で書いて見せる。それは世相・世論を敵に回す勢いか、と思わせる。
「子どもは大人に虐げられていると思われがちですが、みんなのほとんどは、勉強してください、ご飯をたべてください、などと大人に頭を下げられながら大切に大切に育てられてきたのではないでしょうか」
「ひきこもりの原因は家庭にある。その理屈で考えると、直樹(息子)は絶対に『ひきこもり』ではありません」(以上『告白』より)
実に湊の主張がたくさん散りばめられている作品なのだ。大ヒットしたこの『告白』は映画化もされた(私は見ていないが)。主人公の悠子先生のようになりたい、生きたいと思う人はたくさんいたのだろうか。作中のこれらの言葉が一体どこに行くのか、湊は触れることなく作品を閉じる。この場合「そんな言葉の行方など、ミステリーなのですから」という弁明を言うとしたら、あまりに都合がいい。
 言っていいのかどうか、現実の言葉にしてしまっていいのかどうかという迷いを今の社会が捨ててしまったかのように見える。本当は違う。つい一、二年ほど前まで「仮面をつけて生きることに疲れ果てた」などという言葉が紙面に溢れていた。前も書いたが、仮面とは自分の個性の萌芽である。例えば子どもの「真似」がそうだ。居心地がよければその「まね=真似」は「まな=真名」となる。そんなことを繰り返して、子ども(人間)は、仮面(personaペルソナ)を個性(personalityパーソナリティ)としていく。「仮面をつけて生きることに疲れ果てた」のではない、今つけている仮面が、今は馴染めない・負担になっているだけだ。また、耳や目を覆うような言葉がネット上に溢れている。そこにあるのが現代社会の「本音」だとしょうもない警鐘を乱打するものがいる。しかし、そこにある「本音」とは、
「言いたいことが言えない」
「どうにでもなってしまえ、と思ったところでどうにも出来ない」
「暇つぶしといってこれぐらいしか思いつかない」
連中の胸の内の方だ。本当は「死ね」「クズ」と言いたいわけではない。また言うが、スケボの國母が全世界に向けて
「チッ、うっせえなぁ」
と言ったのとは違うのだ。ああいうのが本音という。
 その「もの言えない」連中の心を真っ向から湊は受け止めた、いや代弁している、かのように見える。もしかしたら同じ仲間なのだろうか、と疑っても見る。氷の魔女のような悠子先生を生んだのは、そしてそれを支持するのは、やはりこんなネット社会だと私には思えた。今の人間たち、社会はこんなにも堕落し、どうしようもない、ウソを偽ってもだめですよ、と人の暗部にどんどん踏み込んで暴き立てているように見える。「希望」という虚像にすがっていてはだめですよと、どうにも嫌な気分にさせてくれる。よく言う話だが、影は光がないと出来ないのだ。でも、世界は影(だけ)で出来ている、とそれを否定する人たちが出てきたのは、近代以降だったはずだ。こういうのを「露悪」と言うのだ。さもあらん、影ばかりを書く湊が『告白』で書けなかったことは、影を演出する光の当たる部分-「愛するものへのまなざし」である。救いようのないこの小説で唯一の救いであったのは、悠子先生の一人娘愛美だ。この娘を失った悲しみと憎しみが悠子先生を変身させた、という設定なのかも知れない。しかし、悠子先生からその深い悲しみが残念ながら窺えない。上っ面では語っているものの、なるほど悠子先生の激しい憎悪が理解出来ます、という娘への深い愛情がついに見当たらない。この部分があれば、復讐劇も納得、後味も悪くなかっただろう。しかし、それがないことによって「世の中はみんな悪い人ばかりがいる」作品となった。娘はそれを語るためのスケープゴートのようだ。


 『大鹿村騒動記』のように

 予め断るが、これは映画『北のカナリアたち』のダメだしをするためのものではない。私はこれが胸を温め、気持ちを鎮める映画であることを願っている。いや、信じている。
 さてそんなわけで、私は一抹の不安を抱えながら、同じ作家の『往復書簡』を読んだ。湊かなえの作品を二度と読まないと決めていた私があえて読もうとしたのは、前も書いたけれど、この作品が11月に封切られる『北の…』の原案になっていたからだ。
 本の帯には「驚きと感動に満ちた…ミステリ」とある。そうかハッピーエンドになるのなら安心して読んでいいのだ、と思いつつ読んだ。が、だめだった。確かにハッピーエンドではある。しかしそれは『告白』で見せた娘への愛情に似て、とってつけたようなものだった。読むものには、「そうなんだ、どっちかと思ってはいたけれどこっちだったのか」とまあ、淡々とした気持ちにさせるものだ。堰を切って溢れる感動、といったものとはほど遠い。
 そういった気持ちにさせる原因ははっきりしている。ミステリーにつきものの「登場人物が抱えている秘密、そしてそれにまつわるウソ」にリアリティがないことだ。秘密を隠すことのつらさが、ちっとも真実味を帯びていないことだ。「隠していてゴメン」ではいかにも軽すぎる、そのいきさつと内容。「二十年後の宿題」で、担任の先生が教え子に頼んだ動機と苦悩。それはいかにも脆弱ではないのか。
 ひとつ考えよう。2006年、福岡市の職員が泥酔運転で橋上の追突。会社員男性の子どもたち3人を死に追いやったという事故。2007年、この事故がきっかけとなり、道路交通法に「危険運転致死傷罪」が加えられる。この時、同乗していた妻が夫の制止を聞かずに何度も海に飛び込んで子どもたちを救おうとした。「究極の選択」的問題(クイズだ、こんなもの)で、これに似た設定がよくある。橋の上から、または岸辺から「誰か助けて!」と叫ぶのが女の役割というわけではないのだ。湊かなえは、さもありなんという答を携えてこの問題に回答する。しかし、本当はこんな「究極」の場面でも無限の回答を現実は持っていて、おそらくその場の選択は「自動的」とさえ言える不可避のものとなるはずだ。湊かなえの答は私に言わせれば、悪意に満ちている。巻末インタビューの吉永小百合みたいに、肯定的に考えることは私には不可能だった。
 振り回されているのは登場人物ではなく、読者だ。担任の先生が秘めた思いと、隠す行為の乖離を感じるのは私だけなのだろうか。先生、苦しかったでしょう、と子どもたちはみんな了解してしまう。ひとりをのぞいて。どうして初めに言ってくれなかったのですか、と誰も言わない。思うのは読者だけだ。言っても良かったこと、話しておいて良かったことがあちこちに点在している。なのに了解してしまう。「和解する」とはこんなに簡単なことなのだろうか。先生はその度小さなウソをついて生徒の心に入ろうとしている。その苦しみがまた軽い、あるいは読む側に伝わらない。また、このことで彼と彼女と二人の間に生じたであろう疑いとわだかまりはどのように解決されたのか、それは明らかにされないままエンディングとなるのだ。東野圭吾の作品は、むしろ逆だ。秘密が暴かれるのを恐れるのは犯人ばかりではない、読者・観るものさえそのことに恐れおののく。作者の優しさが、人を追い詰めることを嫌っているからだ。
 さて、これだけのケチをつけても私はこの映画を信じる。吉永小百合、柴田恭平、仲村トオル、また宮崎あおい、森山未来が演ずる映画だ。意地悪で軽い作品であるはずがない。そしてここでもほめちぎった南アルプスのふもと『大鹿村騒動記』を監督した阪本順治の映画だからだ。原田芳雄の遺作は「忘れられないけど、思い出したくもない女が帰って来た」温かい映画だった。
 『告白』も『往復書簡』も2011年より前の作品だ。しかし『北のカナリアたち』クランクインは震災後なのだ。監督・スタッフ・キャストは、震災をくぐり抜けたものを送ってくれるに違いないと私は思っている。


 ☆☆
ホントに暑いですね。暑い時はカレーに限ります。カレーは本格派であろうが、ルーであろうがタマネギをしつこく炒めることがこつですね。昨日はゴーヤを入れてみました。いけてましたよ。

 ☆☆
夕方、ふと気がつくと我が家の郵便受けの上に猫チャンが寝てました。猫は涼しい場所・あったかい場所をみつける名人だそうです。涼しいのかな。おかげで一時間ほど外出の足止めをくらいました。

実戦教師塾通信二百一号

2012-08-26 12:43:41 | 福島からの報告
 このニュース知ってた?

           ~『福島民友』より~


 1 間寛平


 「疲れ見せず『かいーの』」という見出しの四段抜きの記事を『福島民友』は載せた。被災3県を縦断して462キロ、8月21日、ファンや関係者で一杯のスパリゾートハワイアンズで、ゴール直後に、間が一発ギャグ『かいーの』を連発したというものだ。この記事は23日に載ったものだ。全国紙では地方(福島)版で22日に小さく載っていた。いずれも私は福島いわきで確認した。驚いた。9日間かけているので、私が柏にいる時に走り始めているということだ。二年前の「アースマラソン」だったかの大騒ぎとは全く違っている。ネットで検索したら、全国ニュースになった時もあったらしい。読者の皆さんはこのことを把握していたのだろうか。二年前の馬鹿騒ぎに比すれば、今回の報道は吹けば飛ぶようなものだ。それでも間は意に介せず走った、ように見える。もう長距離は終りだ、これからは10キロ20キロぐらいでいい、と言って走った。走り終えて「東北が好きになった」と言っている。今まであまり知らない所だったという意味なのだろう。
 第一仮設でそのことが話題になり、間寛平いいねえ、とおばちゃんたちが言った。


 2 震災関連死

 この『福島民友』の記事は復興庁発表のものだから、みんなが知らないということはないはずだ。しかし、地元の切実さが、記事の扱いの圧倒的違いを生んでいると思う。この数字はここで改めて記憶しておいていいはずだ。東日本大震災岩手・宮城・福島の3県の「震災関連死の主な原因」で、福島の多さに驚いておいていいはずだ。

○避難所等における生活の肉体・精神的疲労によって 3県合計 638 うち福島433
○避難所等への移動中の肉体・精神的疲労によって  3県合計 401 うち福島380
○病院の機能停止(転院も)による既往症の悪化増加 3県合計 283 うち福島186
○病院の機能停止による初期治療の遅れ       3県合計  90 うち福島 51

原子雲の流れる方向に逃げてしまった飯館村や浪江町の人たち、をまず思い出す。私がお世話になった避難所で「7回逃げて避難して、ようやくここに来たんだ」と憤りながら話してくれた南相馬の人たち。福島から、栃木・神奈川・茨城と転々と逃げ、そして舞い戻った自分の罪滅ぼしだと語ってくれた地元のボランティア。そんな私たちの避難所見回りで、
「私の話も聞いておくれよ」
と催促する高齢の方がいた。数日後、その方が疲労のため?に亡くなったと聞かされた。その方が寝起きしていた場所に置かれた花束。
 この最後の方の例は恐らく原発関係ではない。しかし、福島といって原発抜きに考えることは出来ないというこの記事のデータだ。原発から3キロ圏内の人たちは、3月11日から丸一日の間に少なくとも3回の移動を強いられたこと、避難所がみっつ変わったことを思い出しておく必要がある。サイレンが鳴ってバスがやってきた。「すぐ明日に戻れる」そんな気持ちでバスに乗り込んだ、そう大熊の人が言っていた。避難の仕方も避難所もその都度変わる。防護服の人がお迎えという変化も現れる。
 いわきの病院でさえ職員が逃げて、地元の人たちが病院の炊き出しをするということが起こった。そんなことを思い出させるデータだ。


 値段の行方

 ここからは純然たる報告である。「ニイダヤ水産」は、9月正式再開に向けて最後の工事中だ(冒頭写真)。看板は大きいものも含め3つ、国道6号線に向かって立てられる。ここの工事を請け負っている会社は、この「ニイダヤ水産」が初めての仕事だ。建築・リフォームの会社を立ち上げた若い社長さんは、この「ニイダヤ」が成功するかどうか、我がことのように思って様々な相談に乗っている。
「広告はA4サイズだから全商品を写真で、となると小さくなっちゃうんですよ」
「だから『お試しセット』だけで出そうと思うんです」
と言うのは、工事の方の社長さんである。この社長さんと、ニイダヤ社長と値段を協議している。まだ決めかねている様子だ。様々な情報(近隣やネット)で調べて、ひとつは4~5種類の干物をセットで送料込み3100円を少し超えるが、それを3000円でと考えている、とは「ニイダヤ」社長だ。もうすでに書いた通りだが、社長は商売にむいてない。その売る側の100円の苦労を、買う側は知る由もない。逆だ、2900円のものを3000円で売んなきゃダメだと私が言うと、社長はいやいやと首を横にふっている。困ったものだ。あんなに美味しいものを自分から値切ることはない。100円高くしたところで、買う方の気持ちはそんなに変わるものではない。少しずつ変わってもらわないといけない。
 工場再開の経緯を知らせたいが、と私が言った。意外なことを言われる。私がこの春に試案で作ったちらし文をそのまま使うという。
 再開まであと5日、頑張ろう福島! がんばろう「ニイダヤ水産」!



 ☆☆
このブログでも報告しておきます。先週、第一仮設の皆さんに醤油を配布してきました。協力者のみなさんからの味噌・醤油180世帯分、これで五回目になります。
「お陰さまで醤油を買ったことがないんですよ」
というお礼の言葉、嬉しかった。

 ☆☆
『みちの駅だいご』で、まっキンキンの女の子から「忘れてますよ」とベンチに忘れた小銭を届けられました。ソフトクリームのお釣りでした。平日の昼間から暇そうにしゃべくってる女が二人いるな、くらいに私は思っていたのですが、ありがたいですね。
水戸のそば、那珂は国道沿いのガソリンスタンドで「まぁ北海道から大変ですね」と言われました。バイクから降りて疲れ切った私の表情が、「柏」ナンバーを「旭川」と読み違えさせたらしいです。ここの水は井戸水だから、少し休んで行くといいよ、そんなことを言われました。冷たい水! ホントにみんなありがたい。

実戦教師塾通信二百号

2012-08-21 10:26:57 | エンターテインメント
 ロンドンオリンピック 補記



 こんな日本はいいなあ


 当然だが、パレードの話をしたくなった。昨日は休み明けの月曜日、昼休み前の11時だ。その銀座に50万人の人が集まった。都心の気温は33度で、すき間なく埋まった人びとの場所は40度に達していたという。小さな子どもの高さではそれをさらに上回ったはずだ。人びとの歓声はヘリコプターのそばと同じレベルの100デシベルを超えたという。すごい。とは、選手が言った言葉だ。こんなにたくさんの人が集まってくれた、と驚く。内村は、少しだけアイドル気分になれた、と嬉しそうに言い、澤はこっちが逆に涙をと、そして松本は工事現場のおじちゃんが仕事しなくていいのかと言った。
 メダルの数が多かったということは、それだけドラマが多かったということだ。「もののけ姫」の形相。「一秒の奇跡」フェンシングの太田。父を超えた三宅。フルセットだったものの「これは惜敗ではない。大敗だ」と中国側に言わせた女子バレー。それとは逆に、らしからぬ凡ミスをして必死にボールを追いかけた澤。「マシン」内村が冒した団体戦でのミス。すべてはその後の結果の序章だったと思わせるような展開。私たちは「待ってました!」と思ったはずだ。
 きっと私たちは、オリンピック前半の男子400メートルメドレーリレーでの銀メダルで「奇跡」や「ドラマ」の予感を持った。
「北島先輩を手ぶらで帰すわけにはいかない」

前の晩、残りの3選手がこう誓ったという。しかし、だ。メダルが取れなかったらこのエピソードは封印されたはずだ。根性で勝利が勝ち取れるほど甘くはない。しかし、気持ちがなければ勝ちが逃げていくことも確かだ。そこの部分を私たちは「ドラマ」と言ったり「奇跡」と言ったりしている。奇跡とドラマの始まりだ。コラムニストの泉麻人が、今回のパレードに見られた現象を「日本人が自信を取り戻したい」ことの現れだといい、選手たちがまるで「七福神」のようだ、としているのもその辺りからきているのだろう。
 さて、またというか、最後になるが東京オリンピック世代に言わせてもらう。私の少年時代の郷里茨城から金メダリストがでた。柔道の岡野功と言って分かるのは団塊の世代か、柔道関係者だけだろう。当時は今のように細かい階級ではなく、軽量・中量・重量・無差別の4階級しかなかったと記憶している。その中量級の金メダリストである。床屋さんの息子だった岡野は、オリンピック後の市内をパレードする。当時、市内に1台だけあった(と思う)資産家のオープンカーを調達したのは市だったのかどうかよく知らないが、目抜き通りには岡野の晴れ姿を見ようという人で一杯だったらしい。「らしい」という私だって目抜き通りまで歩いて10分のところだったから、見に行こうとすれば簡単だったのだが、高1の気難しいお年頃であったんだかなんだか、とにかく行かなかった。その目抜き通りで電気商店をやっていた友人からあとで聞いた話が面白かった。
 沿道で日の丸や新聞社の小旗を振る人たちが、岡野のところに走り寄ってはみんな金メダルを触りたがった。ところが岡野の隣に座っていた母親が「触らないでくれ」としきりに止めていたという。
 岡野の店には、それまでもたくさんの賞状やトロフィーが所狭しと飾ってあった。ご近所のお客さんがそれを見て感心し、主人やかみさん(母親)が、それにまつわる床屋談義と花を咲かせていたわけだ。そのノリでご近所は金メダルを触りに走り寄った。それに対し母親は、例えば隣町の図々しいオヤジがメダルを触りに来た、みたいな感じで追い払っている。「いいじゃねえか、母ちゃん」「またアンタかい」とやり合っているように思えた。町が家族だったような時代の出来事と思える。ヒーローと「ご近所」の垣根の低さに私は思わず笑うのだ。どっちもいいなぁと私は思わず笑う。
 今回のパレードもいいな、と思った。女子アナが「入江クン、カッコいい!」ってみんなと同じに叫んでる。選手たちが胸の前でハートを作る動作をしてるのを何だと思ったら、沿道の人たちが用意したプラカードのハートを見ましたよ、という返事だった。選手たちが良かったのは、自分たちのやったことをこれほどのものだと思わなかったという反応と表情をしていたことだ。選手のみんなが観衆をバックにバスの上から写真を撮っていたことがそれを物語っている。アイドルではこうならない。「感動を与えた」などと言う余裕などなく、選手が「感動して」いるのだ。
 また澤が、内村選手と同じバスだったお陰で歓声が多く寄せられた、と言っている。これは、自分(たち)だけの活躍ではこうならない、という選手全体の思いを語っているような気がした。それは恐らく、観衆の一人一人が、メダルをとったことをまるで自分のことのように無心に喜んでいる姿に裏打ちされている。あたかも自分、あるいは自分の息子か娘がとったメダルのように喜ぶ人びとと、その人びとに驚いているメダリスト、本当は集まった人たち自身も、その数の多さに圧倒されていたわけだが。その両方が出会ったシーンは、これも「奇跡」の映像ではないだろうか。
 急遽窓際のテーブルを片づけ、整理券の発行を思い立った店、徹夜して待ち続けた小さな男の子、朝の5時から待ったおじいちゃん、みんな意中の選手はいたけれど、みんなひとつのことだけ考えた。豆粒のようにしか見えない、あるいはまったく見えない選手ではあるけれど、隔てる垣根など感じてなかった。それは観衆からの一方的なものではない、選手もだった。それがいい。
 直後のニュースがまた目を引いた。2020年オリンピック招致を東京で、という緊急アンケートの結果がそれほど思わしくないというものだ。確かに5月時の47%よりアップしているものの、55%と低迷している(フジテレビ)という。それより経済が大事とか、被災地に支援を、とかいうものが理由としてあげられたという。そうなのだろうか。私にはこの反応を、人びとの「現在」を大切にしている気持ちの現れと感じた。違うのだろうか。近い将来この招致を期待する数値が上るのかもしれない。それはいいのだ。そうではない、それよりも、人びと、いや私たちが2020年の先ではなく、選手と喜びを分かちあっている「現在」の満ち足りた気持ちに浸っている気がする。「今はまだ」さきの話はいいから、と言っているような気がして、なにかとても好感がもてた。この「現在を大切にする」というシーンをもう一つあげろと言われたら、私はやっぱり震災直後の東北の人たち、そしてそれに触発された首都圏の人たちの姿を思い出す。今回の奇跡的な活躍とその後の出来事が、やっぱり震災抜きに考えられない気がする。震災というフィルターをパレードは通過している、そんな風に思える。そして私は、こんな日本はいいなあ、と思えた次第なのだ。
 思い入れが過ぎるだろうか。


 ☆☆
今日で震災から1年5カ月と10日がたちました。通信が二百回を数えました。150号は吉本さんが亡くなった時でした。吉本さんが生きていたら、ロンドンオリンピックにどんなにか面白いコメントを言ってくれただろう、とそんなことを思います。

 ☆☆
『剛柔会空手道全国大会』で、山口先生の演舞に今年も感動しました。それを伝えると「いやあ、そう言われてもね、我々がいつもやっていることをやっただけでね」と、いつものようにさりげない。「あなたはあなたのやり方で頑張りなさい」と言ってくれます。ありがたい、頑張ります。

実戦教師塾通信百九十九号

2012-08-19 17:52:54 | 福島からの報告
 お盆-いわき 2


 経緯-「ニイダヤ水産」


 近場から「ニイダヤ水産」とのつながりについて聞かれた。干物屋再建の話を耳にしていきなりこちらから飛びついたと思う向きもあったらしく、もう一度新しい読者に向けた説明も必要かと思った次第である。
 楢葉町の避難所として、いわきの江名地区に「ホテルサザンパシフィック」はあった。昨年の6月頃だったと思う、ボランティアとして私たちが聴き取りの活動で出向いた時、このホテルの受付は実にユニークな人だったと、私はこの時ブログで報告した。この受付をつとめていたのが後の社長さんだ。慧眼な読者は気付いているが、この受付さんと社長さんが同一人物だと気付かれないような書き方を私はしてきた。家は全壊し工場も流された社長さんは、このホテルで雇われの受付をしている時、もう干物をやる気はなかった。あれこれ悩んだあげく、工場再建を決め、受付を辞めてこの避難所(ホテル)を出る時は、やはり色々あったようだ。それで私はあえて同一人物と悟られないような配慮の必要を感じた。
 ずいぶん気丈に生活していた避難所だった。この受付(社長)さんになんでも相談し、笑っている人たちだった。社長さんともうひとり、今は同じ四倉の「くさの根」で板長さんをつとめる人がいる。この避難所「サザン」の時はレストランのシェフとして朝・夕の食事のために勤務時間を厭わず、朝早くから夜までホテルのレストランで働いていた。その二人が被災者の柱となっているように見えた。この二人はともに被災している。とりわけ社長さんの被災は尋常でなかった。その後一年、社長さんから苦労話を少しずつ聞けた。当たり前のことだが、被災者にも色々な人がいる。楢葉でも、東電とつながりの深い人とそうでない人との違いに、私はあとでひどく驚いたことをここでも書いた。
 社長さんの工場再開は震災一年後の3月で、と言っていたのが4月に、そして6月にと延びた。ようやく9月再開の運びとなったのだ。
 冒頭写真で見えるだろうか。試作品の時の無印とは違う。このラベルの白い部分は福島県のシルエットをかたどっている。福島を語って品物が売れるのか、社長さんはずいぶん迷った。でも胸を張って福島の魚を売ろうと決めた結果だ。ラベルの端に見える「I love iwaki」もそれを語る。材料は残念ながら北海道・三陸・千葉などのものだ。でも、福島のいわき四倉で干物を作っているという意気込みで、今、社長さんは歩き始めた。


 「海竜の里」でもいいんだげどな

 お盆だったのでいつものように皆さんがいるかどうか不安だった。副会長さんに電話した。
「今日はみんな『部屋』にいるんじゃないのかな。声かけて置きますよ」
と、いつものように穏やかに彼女は言ってくれた。「部屋」とは住まいのプレハブのことだ。この日は常連さんと、会長さんも、お盆休みで仕事がないからと顔を見せた。リーダーさんが昨日はお墓を掃除しに行ってね、と笑った。お墓は助かったんだよ、と笑った。
 先行きのことが話題になった。市営住宅(復興住宅)は久之浜高台に7階の建物ができるという。それは2年先の話ということだ。なるほど仮設住宅の期限が2年から3年に延びたが、それだと復興住宅建設の見通しから考えて時間が足りない。5年に再延長になるという噂は真実味を帯びている。会長さんが役所とさんざんやりあった話をずいぶん話す。例えば復興住宅の設計に「ワンルーム」があったこと。新潟や阪神の教訓を踏まえれば考えられない設計だ、と役所や議員に申し立てているという。
 リーダーさんが、アタシも役所に出向いて怒ったんだよ、という。先日、畑の様子を見に行こうと思ってついでに寄った我が家の敷地に杭が打ってあった。津波で流された家の主が、この仮設にいることぐらい役所は知っているはずなのにと腹が立ち、息子を伴って役所(支所)に出掛けた。役所は小さな図面を見せて復興の計画を説明するのだが、道路にするための杭打ちをしたということを言うだけで、断りなしの手続き不備については触れようとしない。
「杭打ちをしたのは(たったの)三日前なんです」
と言う。同じような顔をした三人が同じような説明を交替しては言うだけで、最終的には「本庁に行ってください」となった。今度は図面が大きくなった。でも、手続きが不備な点は言及しなかった。道路ができるまで待てない、代替地はないのかとリーダーさんが何度も聞くが、向こうは、今度出来る道路の高さは堤防を上回るんだと胸を張った。じゃその道路はいつ出来るんだと聞けば、8年後だという。それまでこっちは死んでるよ、と言ってきたという。
 一緒に行った仲間が、「役所も大変ですね」とあとで私に言った。よく聞けば「職員も被災しているのに」と思ったらしい。同じ被災者でありながら、被災者の言い分を受け止める余裕がないのではないか、と思ったらしい。違う。私が知る限り、被災したという職員はあまりいない。お役所的対応とぶつかった数々はこのブログで何度か紹介した。わずかだったが親身になって相談にのり、無理をしてくれる職員もいた。「(支援物資を)余っているものですから、避難所にどうぞ」と、こっそり言ってくれる人もいたし、避難所からの引っ越しのトラックを「明日までなんとかします」と言ってくれる人もいた。しかし、ほとんどはルール順守を柱とし、そこからの逸脱を恐れた。被災地に一番必要なスピード感はまったくなかった。重要なポストにいた人物が、水戸からの通勤というのもしっかり覚えている。いわき市内の海岸線から勤務している職員はきっと、迅速で誠実な対応をしていたのではないか、そう思える。

 いいものを見せてあげるわ、副会長さんが持ってきたのは常連さんがインドの民族衣装サリーを着た写真だった。定期的に廻って来る健康相談員の方が、インドに行って買ってきた服を着てみませんか、というなりゆきで撮ったものだ。どこの人かと思うくらいのお似合いに私は笑ってしまった。そして、この人たちが生きていく強さを改めて感じた。そんなことやってどうなるとか、ずいぶん暇になっちまったとか、いい慰み物だとかいうグチを言うこともなく写真はみんな楽しそうに笑っている。
 京都のお寺ツァーは残念でしたねと私がふると、実際は20人の候補者(子ども)たちは、オリエンテーションの段階で「部活があるし」などの理由で半分に減ってしまったという。交通費・宿泊・食事込みで一週間1万円だど、とおばちゃんたちはまたしてもため息をつくのだった。確かに長距離のバスツァーと聞いている。おばちゃんたちをお坊さんは気づかったのかも知れないなどと、私は思ったりもした。
 京都はダメでも、秋の紅葉狩りとか今度の春に花見とかでもいいんだげどな、おばちゃんたちがいたずらっぽく笑った。三春のしだれ桜かと思ったら、
「『海竜の里』っつってさ、久之浜からずっと山に入ったどごで、恐竜の化石が出だんだ」
「そこを自治体がテーマパークにして、きれいに桜も咲くんだ」
ということだった。おばちゃんたちの笑いがまたそれで可愛らしくなる。
 副会長さんはいつも駐車場で車(バイク)が出るまで見送ってくれる。この日も私たちが車に乗るところまで来る。
「今日帰るんですか? いいなぁ」
と彼女は言った。この日の朝、私が電話した時彼女は、自分たちの住まいを「部屋」と言った。そしてこの時、私たちが「帰る」ことを羨んだ。被災地でのイベントで歌われる最後の歌は必ず「ふるさと」だという。ふるさとを奪われた人たちの心のひだに、私たちは少しでも入れているのだろうか、そんな風に思った。


 ☆☆
今年も『剛柔会空手道全国大会』に招かれ、行ってきました。天気予報の通り、東京に入ったら嵐のような雷雨。小雨をねらって代々木体育館へと小走りで向かいました。同じく小走りの若者集団が面白かった。
「なんだよ山じゃねーか、山行ってどーすんだよ」
と叫びながら、神宮の森の鳥居を抜けかけたところから走って戻ってくるのです。多分別のイベントか竹下通りを目指したかった「お上りさん」だったのですね。

 ☆☆
『北のカナリアたち』の前売り券開始が新聞に載りましたね。原作が湊かなえとは聞いていましたが、宣伝コピーを見ると、ミステリーのにおいがする。しかも、監督はあの原田芳雄遺作『大鹿村騒動記』の阪本順治です。なんか面白そうで待ちきれず、原作『往復書簡』を注文してしまいました。

実戦教師塾通信百九十八号

2012-08-16 12:23:56 | 福島からの報告
 お盆-いわき 1


 商売繁盛!


 「ニイダヤ水産」は11日と12日の試食会のあと、お休みに入った。お盆休みというよりまだ工場が完成していない。工場はやってないけど来てください、と社長さんに言われるままお邪魔した。すぐ隣の「みちの駅よつくら」は再開の賑わいを見せていた。確かに一階部分はそこから向こう側に海が見えるぐらいにすかすかだった。津波対策のこの造りは、一階は波にさらされてもいいように、そして二階三階が主要な売店・食堂、展示などがあると聞いている。海に臨む外側の空き地には、バーベキュー施設や遊具が以前あったように設置されていた。そこでくつろぐ親子連れや観光客。いよいよ始まったのだ。しかしさらに海側に進むと、そこには漁船が折り重なるように積み上げられている。津波被害のモニュメントとして残されている、と言われても納得してしまうような復興と被災の対照である。
 さて、「ニイダヤ水産」の工場は、教室がみっつつながったほどの大きさの、黒い板の外壁だった。「いか・たこの干物」「みりん干し」「あじの開き」などと書いた青いのぼりが工場の周りを囲むように立っていた。中に案内されて分かった。試食会の名残で、水を張った大型バケツに入ったままの缶ジュースや缶ビール、バーベキューの台や紙コップがそちこちに放置されていた。工場の従業員と、手伝いに来た新潟と福島の大学生、あわせて十人がてんてこ舞いで試食会を乗り切ったという。まだこれから塗装屋だの大工が入るんだよという社長さんの言葉通り、工場はまだ板がむき出しだったり、間仕切りの扉がなかったりだった。一番奥の部屋が解体・加工の部屋で、そこに隣接する乾燥室で干物になる。その隣の部屋で真空パックなどで包装し製品化するという。そしてそこに隣接する冷凍庫に保存、という段取りらしい。大型冷凍庫に入って見たが、一分といられない寒さだ。
 一番入り口に近い部屋を事務所にと考えていたのが、試食会をやって急遽「試食室」となったという。もともと工場は店を併設する予定でなかったので、では商売上なにか手を打った方がいいということで「試食室」を作ったという。仲村トオルを初めとする六年三組が、工場再開を祝った祈願のダルマと色紙は、試食室に棚を作ってそこに飾るんだ、と社長さんは嬉しそうに語った(冒頭写真)。資金繰りや原材料工面で悩んでいた頃の社長さんは、しみったれた顔をし、お腹に贅肉を下げていたものだが、言葉も表情も明るくなった。
 試食会は、銀鮭一切れ・イカ一匹・秋刀魚一匹の干物三種類・鮭のお握り・豚汁を来た人にふるまったという。ジュース百円、ビール二百円という貼り紙が残っていた。しかし、それ以外は無料だったという。アンケートを書いた人にはひとつ、その中から抽選で十人にはセットで干物をプレゼントする。この日、複数でお邪魔した私たちにも「まだ値段が決まってないから(お金は取れない)」と色々な種類の干物を用意してくれた。
 私たちが第一仮設でやっている物資支援の話になった。私のアイデアだが、いつもの味噌・醤油に代えて、10月はこの「ニイダヤ水産」の製品にするというものだ。「ニイダヤ水産」と第一仮設の人たちを応援するという、私の少し自慢のアイデアである。価格の話になった。いつも味噌・醤油はひとつあたり300円前後と踏んでいる。「毎回一本(一個)なら」長く支援出来る、という支援者もなかにはいる。だから干物もワンパック300円は可能かと私が言うと、社長は目を白黒させて首を振った。とんでもないことなのだ。でも秋刀魚はワンパック三匹を二匹にすれば350円でできるかも知れない、という話になった。でも、と、社長は言う。二匹じゃいやだな、三匹にしよう、と社長は言う。三匹でワンパックというこだわりが社長の中にあるのだ。
 こう書いて来たのは、社長が商売にむいていない人だということを分かってもらおうとしてだ。資金繰りをした信用組合のコンサルタントが「社長は奥で魚を焼いていればいい」と言ったそうだ。あんたが100円もうけるのに一体どれだけ売ればいいのか、ということを言ったのだ。
 こんな社長さんである。社長さんは今、地震で全壊した自宅からこの工場に出向いている。そしてもうけにならないやり方をいとわずにやっている。しかし、社長が作った干物がホントにおいしいことは確かだ。
 工場から表に出ると、威勢のいい太鼓と鐘の音が響いていた。いわき名物「じゃんがらの念仏踊り」だった。6号線を挟んだ通り沿いの家で法被の若者が躍っていた。新盆の家を回って霊を慰めるこの行事は、去年はいたっておとなしかったという。今年は賑やかだな、そう社長さんは言った。
 「ニイダヤ水産」9月1日、正式営業。


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今回、いつもお世話になる「ふじ滝」さんが「満室」でした。ニイダヤ社長さんからもらい受けた干物を持ってお礼がてら立ち寄りました。いや驚きました。スパリゾートハワイアンズのそばの「ふじ滝」さんです。その道の混んでること! 去年の夏はこんなことはなかった。何せハワイアンズは壊れていたし、使えるホテル部分は避難所としてありました。えんえんとハワイアンズを目指す車のナンバーは足立、静岡、富山等々。
ハワイアンズ手前で道を曲がって「ふじ滝」さんに着いてまた驚いた。玄関には今まで見たこともない数の来客用スリッパ。ハワイアンズのホテルを取り損ねた人たちです。
「(今度は)お待ちしてます」と恐縮する女将さんでした。
おめでとうハワイアンズ! 頑張ろう東北! 頑張ろう福島!

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ニュースの時間がまた通常のつまらないものになってしまいました。いつまでもオリンピック気分でいたいけれど、それはそれで選手の方も迷惑でしょう。いつもの時間を疎かにできないのは選手も同じなのですね。
ニュースでは領土問題がずいぶんと賑わいを見せています。2010年、中国の漁船が海上保安庁の監視船に突っ込んだ時だったと思います。あの頃、そのどさくさに紛れた感じで「沖縄はわが国のものだ」と中国が主張していました。琉球王国を全面支配するのは、江戸の島津藩が初めてかと思います。それ以前琉球は、江戸と明、等距離で外交をしています。その時のことを思って言っているのでしょう。
つまり、実は「固有の領土」という言葉も危ういものだということです。