実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

白鵬の行方 Ⅱ 実戦教師塾通信六百八十九号

2020-01-31 11:27:25 | 武道
 白鵬の行方 Ⅱ
  ~不世出(ふせいしゅつ)のかげり~


 ☆初めに☆
こんな場所は二度とないでしょう。星数と関係なく最高位同士が結びを戦って来た千秋楽。それが今場所は、幕尻と大関の取組です。結局、最高位同士の取組はなかった。貴景勝はともかくも、豪栄道の屈辱は計り知れません。取組にあたった審判部の決断もどれほどのものだったでしょうか。今場所の様相は、まさに諸行無常でした。
 ☆ ☆
最大の立役者・徳勝龍のインタビューは、大相撲の魅力を改めて知らせたとさえ言える気がします。それと徳勝龍の奥さん、チャーミングですねえ。
 ☆ ☆
今回のタイトルは、以前の「白鵬の行方」(489号)の続編です。大横綱とはいっても盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理から自由ではありません。どのように最期に臨むのか、白鵬びいきの私が、かつての記事との重複をいとわず書きます。厳しい内容となります。


 1 泰然自若(たいぜんじじゃく)
 双葉山を尊敬し目標として来た白鵬は、双葉山の「よく稽古するものにはケガがない」「稽古場は本場所のごとく、本場所は稽古場のごとく」などを励みにして来た。北の富士が先日も言ったように「白鵬が一番稽古をしている」のは、その気持ちが健在なことを示す。「『泰然自若』の状態」(『相撲よ!』より)が、白鵬の信条だった。これは、かつてこだわりを持って語った「自然」「流れ」「勝ちに行かない」状態を指す。双葉山の「後の先」(後から出て先をとる)を目指したのは、必然の成り行きだった。
 「後の先」は武道の世界の話だ。「先に(勝ちに)行けば負ける」「相手より遅れないといけない」のが武道の原則である。武道のスピード化がかまびすしいが、それはスポーツの世界の話だ。スポーツがいけないとは言ってない。武道とは違うのだ。下の写真は、柳生新陰流第21世宗家・柳生延春が示す太刀(型)の場面(季刊『iichiko』1995年)である。

お互い正面から同時に振り下ろしている。右側の柳生延春が早く出したように見えるが、一瞬遅れて出した。そのことで相手の振り下ろす力が自分の刀に伝わり、相手の切り筋が外されている。こちらが「弾(はじ)きに行った」のでなく、相手が自ら「弾かれた」のだ。
 次の図は唐手/空手の組手の場面(摩文仁賢和『攻防自在 護身術空手拳法』)。

受けから攻撃に転じる瞬間に見える。本当は先手を「とってしまった」から負けることが、図で示されている(空手をやっている方は、これが「ナイファンチ」の動作であることに気付いたと思う)。富名腰義珍の「空手に先手なし」とは、そういう理念だ。「ケンカは売ってはいけない」という道徳的教えではない。ここに「こう来たらこうする」スポーツの道筋はない。「先に行かず」ぎりぎりの間合いを探り、相手の動きを封じ呑み込む「型」がある。
 白鵬の「自然」「流れ」「勝ちに行かない」は、武道に根ざしたものだったはずだ。

 2 「仕合」というあり方
 「勝つためにはなんでもやらないと」という言葉が、まさか白鵬の口から出ようとは思わなかった。そして、相撲ファンなら気付いているはずだ。白鵬の立ち会いが、思わせぶりで呼吸を合わせにくい、名前こそ言わないが、ある力士の立ち会いに似たものをするようになったことを。これも信じがたいことだった。「駆け引き」は、スポーツの世界のものである。いけないとは言わない。しかしそれは、白鵬が目指すものだったのか。
 「試合」とは、歴史上「仕合」と言われた。「仕(つか)え合う」ことは、互いを敬い尽くし合うことを意味する。「勝負」とはその関係の絶対性を言うのであって「勝敗を決する」ことではない。かつて、横綱朝青龍が千秋楽で大関の千代大海相手に「変化」して、この時大関だった白鵬とまんまと星を並べた。この日のことを忘れはしまい。直後の優勝決定戦で、今度は白鵬がよもやの変化をして優勝を決めたのだ。この時白鵬の顔は「こういうみっともないことはやめましょう」と雄弁に語っていた。乱れ飛んだ座布団は、朝青龍への半畳であり、白鵬への賛辞だった。白鵬が「日本人よりも日本人らしい」と言われた時期だった。
 遠藤戦では必ずと言っていいほど使われた「かち上げ」が、今場所その遠藤に封じられた。これも前に書いたが、今の白鵬の「かち上げ」は、10年前にもなろうという妙義龍戦で見せたものとは全く違う。あの時妙義龍は、白目をむいたまま土俵上に痙攣していた。その技をまた出せるよう研鑽を重ねたのは分かったが、結局今のような「ひじ打ち」に「落ち着いて」しまった。それが封じられた。もう気がついて欲しい。
 これら白鵬の変容一番の原因は、大横綱としての「実力」「品格」が求められたことだ。記録は伸ばせ、しかし勝ち方や取組に少しの抜かりがあってもいけない。監視とも言える人々の期待は、意地悪な色さえ帯びた。ひるがえって考えれば、ここまでの重圧は白鵬自身が作り上げてきたものだということだ。白鵬は、自分自身をはねのけないといけない場所にいる。
 「美しくない」白鵬がどんなに記録を伸ばそうと、私たちの誰が喜ぶだろうか。



 ☆後記☆
一方、前頭の隆の勝、千秋楽で惜しくも負け越しました。残念。引かれたり落とされたりする負けが目立ったなあ。一喜一憂せずに精進だ、頑張ろう。とにかく前より相撲は良くなってるんだから。
 ☆ ☆
私も脊柱管狭窄症にめげず頑張ります。1月も今日で終わりですが、2月は道場での稽古をレポートできれば、と思っています。

 我が家でいつも一番に春を告げてくれる、ちっちゃな梅さん。

CO 2 /ダム 実戦教師塾通信六百八十八号

2020-01-24 11:53:38 | 思想/哲学
 CO 2 /ダム
  ~ディストピアではない~


 ☆初めに☆
昨年の暮れにかけて、考えさせられる意見をたくさんいただきました。今回はそんな中、皆さんにも一緒に考えてもらおうと思いまして、知人からのレポートを紹介します。
 ☆ ☆
以前の「八ツ場ダム」の記事にもコメントしてくれていますので、あわせて読んでください。難解なくだりを掲載するか迷ったのですが、省略しました。

 1 正義漢?
 あらかじめ断っておけば、この方はゼネコンでもポスト構造主義者でもない。「地域での自立したシステム」を、ずっと探求/実践されている方である。
「………気候変動の主因が温室効果ガス濃度の上昇によるものであり、これを緩和するには濃度の低下が必要というIPCCやCOPパリ協定の警告は、それが本当であるなら、低炭素というだけの省エネや再エネの普及拡大だけでは全く力不足で、この地球大に広げた風呂敷を詐欺にしないつもりなら、少なくとも既存のCO2の回収除去がどうしても必要です
下線は私がほどこしたもの。産業革命以前とその後、そして現代のCO2排出量は、図(ベネッセ)を見れば分かる通り、驚異的な変化である。

「………その見通しは今、誰が持ち得ているでしょうか。………現状から未来を見るのではなく、あるべき未来からあるべき現在を考えるという、未来投企を囃(はな)すロマンティックが北欧の中学生にまで蔓延しているように感じます。ロマンは短期的であり非妥協的に走りやすく、『闘争』を呼び寄せると懸念されます
「中学生」とあるが、あのグレタさんを指すのだろう。
近年こそ私を「琴寄さん」と呼ぶようになったものの、以前は「コトヨリくん」と呼んでいたこの知人は、いつも私のことを、この「ロマンティックな正義漢」と言って来た。下線部が私には耳が痛い。
「温室効果ガスの回収については、悪循環的な工業的地中貯蔵を言う派もありますが、私たちは吸収体である造林育成と伐採木材の長期固定(100年以上使用の木造建築)の啓発を始めました。………」
この方は再生エネルギーを指向するものの、よく言われる「バイオマス」という方向ではない。そもそも自然界を媒介としたエネルギーがどうして「マス(大量)」なのか、その発想自体がすでに破綻(はたん)している、あくまで小規模なものがたくさん立ち上がらないと、結局同じものが出来上がるというのである。

 2 人間の傲慢(ごうまん)
 以下の文中の「藤原さん」とは、ここに何度か登場いただいているが、私の恩師でもある藤原信先生のこと。
「藤原さんの『なぜダムはいらないか』が先週、荷物の中から出てきたのでザッと見ましたが、緑のダム機能には限定があり、100年に1度未満で、まあ30年に1度程度の中小規模降雨の緩和には有効という、私たちにとっては至極当たり前の成果が述べられていると読みました。
今回の台風は百年に1度の規模であり、また今後見直すハザードマップ作成では、三陸地震に懲(こ)りて千年確率を使用するということなので、緑のダム機能だけでは到底対処できないレベルの準備が必要になると思います。………そういう意味で、八ッ場ダムが高評価されたとかいうのは、その一瞬のTPOにおける流体についてのことであり、しかし次の機会にどうなるかの保証が与えられたものでもありません。
藤原さんの本のころに比べ、大きな気候変動がさらに進むのであれば、緑のダムだけでは対応できない大規模降雨に対する方策が求められ、それは河川工作物の問題だけではなく、河川沿線住宅や下流市街地の改造や移転などにも及ばす策が必要、と考えます。
はるか、なことです。」
読者はどう読んだろうか。私にはこれが、大きな存在を無視して来た人間の独りよがりを啓発しているように思えるのである。次の引用も読んでいただきたい。
「直截に言おう。自然は破壊されない。………大地に一木一草もなくても、大気がいわゆる有毒ガスで充満しようとも、それはそれなりに自然であって、ただ自然のある状態であるにすぎない。………(人間が)生態系の一員である……にもかかわらず………むざむざと生態系からはじき出されるということである」(村尾行一『人間・森林系の経済学』より)
 私はまた、2012年に亡くなる直前の吉本隆明のインタビュー『「反原発」で猿になる!』(週刊新潮)も思い出した。これらはすべて、勝手なことを言うなよ、勝手を続けてきた人間の勝手な都合に合うわけはないんだよ、と言っているかのようだ。タワーマンションで暮らし、パソコンとスマホの電化/自動化生活をしていた人が、「死んだら骨は森(海)へ」などと考えるのもそうなのかも知れない。
 いつもながら、悔しい思いと、うすっぺらな自分の思いへの反省が交錯するこの方の話である。でも、この方が目指すのはディストピアではない。念のため。



 ☆後記☆
一昨年、千葉県柏市の市立柏高校吹奏楽部の生徒が自殺した事件(まだ「自殺」と認定していない)が、にわかにニュースになっています。遺族の願いで第三者委員会が発足しました。市内の学校によっては、詮索や噂話はつつしんでくださいと釘を刺す校長もいるようです。いくつか情報は寄せられていますが、いずれにせよ、この吹奏楽部が全国大会で常に優秀な成績を収めていること、練習を休むのは「年」に数日、平日は朝早くから放課後は暗くなっても続ける部活として有名なことは、地元のみならずひろきに渡って知られていることです。
これを「ブラック」と言うことはたやすいのですが、多くの生徒がそれらの事情を「了解済みで」入部していることは、いや、もっと言えば、それらの事情に「あこがれて」入部していることは、今後の展開に複雑な影を落とすことは間違いありません。
2013年、大阪桜宮高校のバスケ部生徒が自殺した事件が思い出されます。
 ☆ ☆
先週寒かった日に、コトコトと煮込んだ牛すじ(400グラム300円)を牛丼にしました。

  吉野家もびっくり!の味でした。

うさぎとカメ 実戦教師塾通信六百八十七号

2020-01-17 11:32:53 | 子ども/学校
 うさぎとカメ
  ~子ども食堂始めます~


 ☆初めに☆
ずいぶん時間がかかりましたが、子ども食堂を始めることになりました。近くでこれを読んでる皆さんには、食べるだけでも来てくれればいいかなと思いまして。遠くの方々には、ぜひ地元でやっていただきたいなと思っています。
案内チラシです。*この日(1月17日)掲載のチラシが若干変わりました(追記・1月19日)。


遠くの方は「近隣センター」が耳慣れない言葉かも知れません。いわゆる「公民館」です。千葉県柏市の永楽台地区ということです。

 ☆近くにもあるのだろうか☆
以前のこのブログを読んだ何人か、それも遠くの読者から、すでにいくつか質問を受けています。その第一は「自分の地元でも子ども食堂はやっているのだろうか」というもの。その後は必ずと言っていいほど、「調べてみたらやってました」というメールが届きます。全国で四千に迫ろうという昨年の統計ですが、二年前の二倍に近い数字だそうです。そして、これはあくまで登録された数ですので、実際は一万を下らない食堂が運営されていると思います。私が地元の柏を少し回っただけでも「未登録」の食堂にいくつか出会いましたし、その人たちは「登録することが子ども食堂の趣旨なのかどうか」考えている様子もうかがえました。

 ☆やり方☆
たとえば、私たちが運営する「防災教育を考える会・柏」のメンバーは、以前からそれぞれ子ども食堂の見学・お手伝いをしていました。その中で「私たちでまとまってやれないか」という声があったこともきっかけのひとつです。お手伝い(見学)をすると、やり方や手続きも分かってきます。誰でもどこでも出来ます。

 ☆受付のこと☆
「何かあった時のための参加者の名簿記入」についてずいぶん議論しました。結局やらないことにしました。やっとの思いで来る子どもが居るかも知れないと考えた時、その方がいいとなったのです。そういう子だったら、始めのうちは誰にも知られずに参加し去って行きたいと思うでしょう。
発足当時の子ども食堂は、生活保護や就学援助を受けている子どもたちを対象としていましたが、それが生活困窮者に「行きづらさ」をもたらせたのも確かでした。その結果、誰でも参加できる子ども食堂に変わってきました。賑(にぎ)やかさに紛れて、困っている子も来れればいいと、ホントに思います。

 ☆徐々に☆
また直前に連絡します。そして折に触れて開始後の様子を報告します。始めから欲張らずに、徐々に開催日を増やして行こうと思っています。また、一年に一度だけ(防災訓練の時)しか使っていない防災公園で、いつかやりたいと個人的には思っています。



 ☆後記☆
前号の『Fukushima 50』に、感想・意見をたくさんいただきました。感想を読んで、もう少し分かりやすく書けば良かったかなと思うこともありました。三月の映画公開の時に、また書くかも知れません。ありがとうございました。
 ☆ ☆
白鵬、負けましたね。休場しましたね。今までなぜか遠藤に対しては、厳しい取組を見せてきました。ついに、その大きなひとつの「かちあげ」を封じられました。そして、取組後の割れんばかりの遠藤コール、これでは休場です。大横綱の名にふさわしく、謙虚に振り返って欲しいと思っています。
「かちあげ」を封じられたことはいいことだと思っています。会場の遠藤コールは、これまでの遠藤との取組に対する批判なのかも知れません。私は、白鵬が稀勢の里から、63連勝でストップをかけられた時の「万歳」を思い出しました。いいのでしょうか。
 ☆ ☆
今年も亀十の、おっきいどら焼が届きました。ポイントはやはり皮ですね。このソフトで優しい食感は、どこもまねできない。ありがとう!

『Fukushima 50』 実戦教師塾通信六百八十六号

2020-01-10 11:39:35 | エンターテインメント
 『Fukushima 50』
  ~映画公開にあたって~



 ☆初めに☆
吉田昌郎所長を先頭に、原発の危機的状況を戦ったメンバーの記録が映画『Fukushima 50』になりました。予告編も流されています。震災・原発事故から9年を超える3月11日の前に公開です。
 ☆ ☆
現場での苦しみ葛藤は私たちの想像を絶するものだったことを、映画は伝えるのでしょう。しかし、こう書いていくうちにも、原発事故を描くのは「(日本)映画には無理ではなかったのか」という思いが、私には強く出てしまいます。

 1 「それをやったら誰が責任をとるのか」
 そもそも原発決死隊が、なぜ「福島原発の50人」でなく「フクシマ・フィフティーズ」として広まったのか。海外メディアが積極的に報道したからだ。常時数千人が従事する原発が、危機的となった現場に数十人しか残らない(実際はもっと多かった)事態を、日本のメディアは報道することに二の足を踏んだ(「しなかった」のではない)。この「様子をうかがう状態」を上杉隆(なぜか現在、N国党国対委員長)たちフリーランスは告発したのである。
 一号機/三号機が爆発した映像は、福島中央テレビがとらえたものである。

すぐに全国に流してほしいと、某テレビ局に連絡を入れるも「その爆発が何なのかという事を説明できないと放送できない」という理由で見送られる。
 いわきの佐藤和良議員(原発事故刑事告訴副団長)に私が会ったのは、福島に入ってから三カ月後である。その時の話がそれを裏付ける。いわき支局のメディアは、3号機が爆発した3月14日にすべて撤収し、以後一カ月間は郡山と福島での取材となる。この時、朝日新聞が50㎞圏外、時事通信は80㎞圏外に避難していた。避難するなとは言っていない。「危なくて近づけない」という記事を書かなかったのだ。枝野官房長官が「ただちに健康に被害はない」と繰り返していたからだ。
 佐藤氏に会見したいという申し入れは、氏に郡山まで出てきて欲しいというものだった。「そっちが出て来い」と怒りの返事を叩きつけた、という話である。
 さて、事故が危機的状況を脱したあと様々な表彰イベントがあり、自衛隊員や消防隊員など多くの方々が顕彰された。しかし、命がけで原発事故に立ち向かった東電職員たちが、これらの対象になったのだろうか。私は記憶していない。おそらく、東電職員は「事故の責任者」だからだ。
 これらのすべては、「それをやったら誰が責任をとるのか」と言い、結局誰も責任をとらない日本的体質がもたらしている。SPEEDI(緊急時放射能予測システム)のデータを米軍には流したが、原発周辺自治体に流さなかった理由が、「これは予測のシステムである(外れたらどうするんだ)」とした姿勢と共通する。住民は原子雲が流れる方向に沿って、国道114号線を避難したのである。

 2 東電の人たち
 震災の年、福島でのボランティアで、何人かの東電職員と知り合った。たとえば、会社から「罪を償(つぐな)うつもりで行って来い」と言われた人(こういう人たちが結構いた)。この人の話だ。原発での作業中、突然「室内の電気が消えて、白煙がたちこめた」という。そして、「ただちに帰宅しなさい」という放送が入ったという。ことの詳細は聞けなかった。
 多くを話してくれたのは、危機的現場に居続けた職員の家族(母親)だった。彼女は私に、危ないから千葉に帰った方がいいですよと繰り返した。いわきでも北端の久之浜に活動に行くときは、私たちに向かって手を合わせるのだった。そして、職員である息子さんの言葉をたくさん聞かせてくれるのだ。
「燃料プールは大丈夫なのかな」
3月11日、震度6の揺れがあった時は家にいて、こうつぶやいた。無防備状態と言える使用済み燃料が、息子さんの第一の気がかりだった。実際、4号機の燃料プールは、震度6が引き起こした偶発的「事故」によって、ウェルと呼ばれる水槽からの水があふれて奇跡的な冷却を行っていた。
「僕たちは逃げるわけには行かないんだよ」
原発に残った多くを下請けの労働者だと思っていたのは、私の間違いだった。仕方がないのだ。その後有名となった「まるで駅伝のよう」な修復のチームプレーは、40年以上前から、高木仁三郎を始めとする科学者によって警告を受けていた。日常的にあった汚染水の「拭き取り」や危険な「ネジ締め」は、下請け労働者の放射線アラームとのやりとりの中で行われていた。加えれば、今回の政府事故調の報告にも「下請け依存」の体質が指摘されている。
 今の原発には、それはもう原子力の精鋭メンバーが残っています、とはこの母親を通して伝えてくれたことだ。

 3 映画がおそらく避ける場所
 もちろん、こんなこと以上に壮絶な現場を映画は描いているはずだ。全電源を喪失し計器さえも作動しない状態を、在庫のバッテリーでは足りず作業員の車のバッテリーまで動員。格納容器の圧が強すぎて冷やす水が入って行かない。やっと注水し始めたところで建屋が爆発、トン単位のガレキが降り注ぎ、ホースはもとより作業員の重傷。また、注水車のガス欠。私たちが忘れてはいけない凄惨な場面を、映画は忠実に再現しているのだろう。
 しかし、原発事故に残ったままの多くの謎を、映画は避けたに違いない。
 政府事故調の所長の部分に関して、吉田所長は「公開しないで欲しい」という、遺言状とも言える「上申書」を残した。これが「断片的で正確さを欠く情報が一人歩きしかねない」として公開されるのは、所長が亡くなったあとだ。事故調の報告から優に2年を過ぎた2014年である。
 吉田所長は「食道ガン」で亡くなった。そう言われるのは、亡くなってずいぶんたってからだ。体調を崩して原発の現場を外れた時、「病名は不明」だった。そして亡くなった直後、遺族は「そっとしておいて欲しい」と病気を明らかにしなかった。これらを吉田所長の本意ではない、という人も多いのだろう。
「声を大にして言いたいが、原発の安全性だけでなく」
どうして自然災害対策は批判しないのか(吉田調書)という所長の言葉には、技術者の「誇り」がある。そして何度も死を覚悟したものだけが知る「現場」があるのだろう。吉田所長が決死隊を率(ひき)いて原発事故に臨まなかったら東日本は壊滅していた、ということは間違いない。しかし、だからこそ原発はこんなにも危ないものだと吉田所長に言って欲しかった、と思うのは私だけではないだろう。
 少なくとも上記したような事柄を避けないで、この映画が作られただろうか。そして、この映画を双葉郡の人たちは見るのだろうか。
「あの人たちのおかげで日本の今はある」
とは、日本が75年前から言っている言葉だ。同じ言葉が、ここに透けて見える。この映画は、作る側の明確な「立場」が必要とされる映画だ。この立場から逃げずに、映画は作れたのだろうか。
 私はこの映画に、あの人がキャスティングされていないことにホッとしたのである。



 ☆後記☆
字数がかさんでしまいました。でもしょうがない。当時のスクラップや資料を、とりあえず出来るだけ読み返しました。すっかり疲れました。ホントに危なかった、よく助かった助けてくれた、と思います。あの時のことを忘れてはいけませんね。原発が再稼働していることに、改めて慄然(りつぜん)とします。
 ☆ ☆
遅まきながら、例年通り初詣に行って参りました。

こうして見ても、我ながらもう立派な老人だなぁと思います。そして年に何度かしか着ませんが、着物、いいですね。いいですよ。


上野/浅草 実戦教師塾通信六百八十五号

2020-01-03 12:02:35 | 戦後/昭和
 上野/浅草
  ~「見てはいけません」~



 ☆初めに☆
新年号ですが、いつも通りに年を逆上り大晦日に関する記事となります。そしてこれも恒例ですが、上野/浅草界隈(かいわい)のレポートとなります。

 ☆アメ横☆
大晦日のアメ横は早めに閉まる。逆に言うとその頃は、いつもの安値にさらなる拍車がかかり、中トロのさくが1000円などという状態だ。その熱気と乗りは尋常ではない。

一緒に歩いていた若い仲間が、どうしてアメ横というのか、と尋ねて来る。進駐軍の品物を横流しする戦後の闇市として、とりわけ多くの中国からの引揚者(ひきあげしゃ)や朝鮮の人たちのてこ入れがあって賑(にぎ)わったアメ横(アメや砂糖の説もある)。こんなことも知らずにいるのかと驚くと同時に、今はトルコや中東の人たちが仕切る店も目立つようになったこのエリアの、相変わらずと言えるいかがわしい相貌(そうぼう)に、私は考えてしまった。
アメ横入口にあったレストランが改装されて再開した。名前は知らないが、昔からの「聚落台(じゅらくだい)」なのだろうか。

  終戦から15年後に開店し、2008年に閉店した「聚落台」。
今のそれはきらびやかに変身したものの、私には影のようにあちこちにうごめく人たちの姿がはっきり見える。

 ☆傷痍(しょうい)軍人☆
東京は昔、遠い場所だった。茨城の片田舎から、今なら一時間もあれば着くことが出来る上野は、当時は着くまでに優に二時間を越えた。列車の蒸気機関車は颯爽(さっそう)と煙を吐き、ゆっくりと進んだ。そして発車の本数も頼りなく、私たちはホームで長い時間を過ごしたのだ。
上野に到着すると、そこには汽車に代わりチョコレート色の機関車が、モーターの音を響かせている。それは東京という「体験」だった。
幼年時、一年に一度も行かなかった東京だが、そこで必ず恐ろしいものを見た。電車の中に、白い布をまとった人たちがやって来るのだ。みんな身体のどこかが無かった。ある人はアコーディオンを弾き、片手のない人はハーモニカを吹き、両足の無い人は、床は手を頼りに「慰問(いもん)箱」を抱えていた。お揃いの軍帽を被り、全員サングラスをしていた。ある人は無くなった片手の代わりに、フック船長のようなカギ状の金属をつけているのも恐怖をあおった。しかし、目が離せなかった。気がつくと、私の顔は母の懐(ふところ)の中だった。「見てはいけません」。
上野駅を降りても同じだった。西郷さんの銅像に上がる階段で、同じ出で立ちの人たちが、やはりひざまずき軍歌を歌っていた。一体あの人たちは何をしたのだろう、そして何をしているのだろう、私はきっとそう思っていた。そしてそこに戦争の姿を見ていた。
「見てはいけません」と母が言ったわけではない。しかし、どうすることも出来ないことをどうにかしろと言われても困ります、そういう母の気持ちがはっきり聞こえた気がする。この始末はまだついていない。戦争とはそういう始末のつかないものだ。

 ☆上野駅☆
この戦争の影のあとにやって来たのが「集団就職」だ。高度成長が陰りを帯びる1975年まで、集団就職列車は東北や北陸から「金の卵」を運んだ。15歳の子どもたちが数々の手作り荷物を持って、ホームで泣く家族をあとにした。
時代は違うが、啄木が「ふるさとの訛(なま)り」を聞きたくて、本郷のアパートから向かったのも上野駅である。
上野駅広小路口に、流行歌『ああ上野駅』の歌碑が建っている。たまにだが、私より少し年かさのいった人たちが、碑のそばで談笑しているのを見る。
そんなこんなの上野界隈なのだ。うごめいている、あるいはじっとたたずむおびただしい影があるのは当たり前だ。若い人たちは池袋も上野もそんなに変わらないというのだが………私は上野の影とまた一度向き合う。

 ☆浅草☆
さて、浅草です。少し時間が遅めだったせいか、雷門前は若干(じゃっかん)人出が少なめだったかな。

これも変わらず、仲見世で揚げ饅頭と甘酒を買って味わいます。


もちろん、尾張屋の行列につきます。

注文にもたもたしていても、この店は「ゆっくりでいいんですよ」と、言ってくれます。こんなに混雑してるのに。

そして、そばみそを頼もうとすると、「いやそれは『八海山』についてますから大丈夫です」と。この店はやっぱり気分がいい。

いい気分、ほろ酔い気分で店を出ます。
来年がいい年でありますように。



 ☆後記☆
新しい年となりました。今年も頑張ります。どうぞ、このブログを今年もよろしくお願いします。
 ☆ ☆
正月のテレビってどっしようもないんですが、BS1の「ホンダはどうしてF1に勝利できたか」(だったかな)は、感動しました。新入り社員の時にセナと一緒に戦った人たちが、今トップで指揮してるんですねえ。ブラジルへの思いがひと通りではないのがまた良かった。
今年はやってほしい。F1中継!