実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

楢葉蛭田牧場  実戦教師塾通信五百三十二号

2017-01-27 11:35:35 | 福島からの報告
 楢葉蛭田牧場
     ~出発、そしていま~


 1 蛭田牧場



20日の『福島民友』の記事である。旧警戒区域の中から、ついに原乳の出荷が始まる。ここの読者なら、この大変さが少しは伝わると思う。何より消費者がどう反応するのか。餌の牧草をどうするか。関連するが、生乳を製品化するプラントが福島県ではたったひとつ、という事情が物語る大変さだ。生乳は会津や郡山を問わず、すべて混ぜられる。
「双葉郡(楢葉も含まれる)は、酪農をしないで欲しい」
という声があったことを、以前書いた。
 楢葉町の蛭田牧場、実はこのブログ初登場ではない。冒頭の写真を見たことがあると思った読者は、相当熱心な方か、記憶力の持ち主です。これは、同じ楢葉の渡部さんに紹介されて、初めて蛭田牧場を訪れた時の写真である。この写真で、かつて蛭田牧場に、たくさんの牛がいたのが分かるはずだ。その二カ月後に、この写真を撮った。

仲村トオルの右にいるのが蛭田さんで、左がお父さんである。今回のことに、仲村トオルも「鳥肌がたつような」気持ちになった、という連絡を受けた。念のため断るが「感動した」のである。
 旧警戒区域の酪農家が再開を目指している、ということを聞きつけたマスコミが、それはすごい勢いで取材に来たそうである。それに対し蛭田さんは、どうかそっとして欲しい、放射能の線量だけではない、これからずっと生産を続ける見通しがつくまで、まだ道のりは険しい、もう二度と「殺す/埋める」ことはしたくない、そう願っていた。原発事故から、個人的にずっとつながっていた一社を除いて、蛭田さんは取材を断り続けてきた。また、そのたったひとつの新聞社にも、営農を再開するまで一切おおやけにしないことを条件に、取材をし、カメラを回すことを認めたという話だった。
 だからこの写真も、今回の再開でOKとなった。

 2 「捨てるために搾(しぼ)ってた」
 以前紹介したこの写真も、同じ時に撮ったものだ。

さんざん迷い悩んだあげく、蛭田さんは酪農の再開を決意し、牛を競り落とした。蛭田牧場は、かつて130頭の牛を抱える大きな牧場だった。5頭の牛を買い入れた。たった5頭の牛たちの中から、
「一匹目の子牛が生まれた時の感動はなかった」
と語る蛭田さんの目には、光るものがあった。

当時の警戒区域に通じる道はどこでも、バリケードと検問があった。私も山道を使って試みたがダメだったことを報告したと思う。動物愛護団体はそれを越えて、あちこちの酪農家を回ってこのポスターを貼った。他の酪農家はみんな、電話も受けている。渡部さんのところにもあったそうだ。もちろん携帯に、だ。
「あんた、一体誰なの? 名乗りなさいよ!」
名前も言わない相手に、
「私たちが一体どんな思いで牛を置いてきたのか、分かってるのかい!」
「子どもみたいに育てた牛たちを、私たちが好きで殺すと思うのかい!」
と言って罵(ののし)ったのは渡部さんの奥さんである。優しく諭(さと)すように話すダンナにじりじりして、電話を代わったのである。
「じゃあ、あんたんとこで引き取ってよ!」
相手は沈黙したそうだ。
 牛舎で生まれ育った牛たちは、外の世界を知らない。放っておけば、沼でも入っていくそうだ。沼地にはまり、朽ち果てるように死んだ牛たちの写真は、ここで紹介しただろうか。
 蛭田さんは、12本分のドラム缶が乳で一杯になると、「産業廃棄物業者」に頼んで、全部捨てていた。でもみんな「線量不検出」だった。敷地内には捨てない。それが「ちゃんと最後までやってる」証拠になるのだ。
「捨てるためにだけ乳を搾ってるんだよ」
あの時の蛭田さんの顔は、仕方なく笑っていた。
 でも今度は本当の笑いだ。来月こそちゃんとお祝いを言おう。


 ☆☆
今回の雪、いわきは無事でしたが、楢葉は違ってました。渡部さん家まで行くと、自宅前に拡がっていたひまわりの畑は、こんな具合でした。

そして、前から会いたいと思っていた娘さんに会えました。

「避難先で食べた昼御飯のレシートはあるのか」という東電とやりあった娘さんです。
詳しい報告は今度にしたいと思います。

 ☆☆
稀勢の里、横綱に昇進しましたね。どう思うかと、ここんとこよく聞かれます。期待する声に流されるまま、早く横綱になってしまったなという思いはあります。でも、まあいいか、というところです。
ただ、相撲の歴史/文化、そして「技」というものの極みまで相撲を考えているのは、白鵬だけです。それだけははっきりしている。薄っぺらに「人格」だの「日本人」だのと、姦(かしま)しいとしか思えません。いつかきちんと話したと思ってます。

大川小学校へ(下)  実戦教師塾通信五百三十一号

2017-01-20 11:47:22 | 子ども/学校
 大川小学校(下)
     ~遺族の佐藤和隆さんを訪ねる~



 「小さな命の意味を考える会」が二年前に発行したパンフレット

 1 『イーハトーブ』
 初めに訂正しておきます。
 前号の「」で、「奇しくも、遺族側も控訴した、その日に私たちは訪れたのです」と書きましたが、違ってました。私たちがお邪魔したのは1月6日。この日は、遺族側が「控訴理由書」を仙台高裁に提出した日です。昨年中に控訴したはずだと思ったのですが、うっかりしました(控訴は昨年の11月)。すみません。宮城県と石巻市が提出した「大津波の予見は不可能」なことを前提にした和解案に対し、この日遺族側は争う考えを示したのです。
 付け足せば、このことを首都圏のニュースも新聞(朝日)も伝えませんでした。

 今まで何度大川小学校のことを書き、話しただろう。どう考えてもおかしいと思えたからだ。そしてその都度、現場を見たい思いが強くなったのも確かだ。今回こうしてここに来て、やはり私は、もっと早く来ておけば良かったと思った。
 前号で紹介した佐藤和隆さんは、旧大川「中学校」跡地で、環境リサイクル事業『イーハトーブ』を統括している。大川小学校から車で移動すること、5分ぐらいだったと思う。プレハブの事務所とビニールハウスが、敷地に拡がっていた。私たちはプレハブの二階に案内された。

    佐藤和隆さんと。私がえらそうでスミマセン。

 2 「海は見えるんですよ」
 私にはきっと、今まで腑に落ちなかったことが、ここで明らかになるという安心感というか、期待があったと思う。ぶしつけで無遠慮な言葉が続いたに違いない。佐藤さんは、時に意外な顔をし、時に残念そうな顔をしたのはそのせいだと思っている。今更だが、申し訳ない思いだ。しかし、佐藤さんは感情を抑え、そして真剣に話してくれた。
「すべては(行政の)裁判対策じゃないかと思ってます」
佐藤さんがこう切り出した時、私は何を言われたのか分からなかった。
 私が三角地帯から北上川大橋を渡り、海の様子を見てきたことを話したのだが、佐藤さんは悲しそうに、そして突き放すように言った。
「海は校舎からも見えるんですよ」
かつて私は、校舎が海に背を向けるように建っていると報告した。校舎の窓は南側の校庭/裏山の方向に向かっていると思っていた。でもそうか、窓が校舎の反対側にあるのは当たり前だ。風が吹けば、校庭から教室/廊下/窓を吹き抜ける。その反対側の二階の窓から、海は見えるという。
 私が、どうして誰か橋(三角地帯)まで行って、海の様子を見に行かなかったのでしょう、と言うと、佐藤さんは、こちらがさらに驚くことを言った。
「見に行ってないんでしょうか」
今度こそ何を言ってるのか分からない。
 知らなかったのだが、あの日の二日前、つまり3月9日、東北を地震が襲っている。石巻が震度4。午前11時頃だそうだ。その時大川小学校の職員は、橋まで川/海の様子を見に行っているそうだ。では11日のあの日、見に行かなかったのか? ということになる。私たちは口を空いたままである。

 3 「あんなにひどい対応でなければ」
「裏山は登りましたか」
佐藤さんが聞いた。上まで行ったわけではないが、なだらかな山道を私たちは確かめた。「立入禁止」の看板を少しばかり気にして。
「あの山は私有地なんですよ」
石巻が看板を立てられるものではないと言う。前回報告したように、看板は震災後に立てられた。その前までは子どもたちが椎茸取りをし、中腹には幅4mのコンクリートでたたきまで設置されている。今でこそ中腹部はうっそうと草が繁っているが、その下は今もしっかりした「山道」が存在する。ここに来た人たちがみんな、足を踏みしめているのだろうか。

    前回使った写真ですが、もう一度掲載します。

 そして佐藤さんは、見てくださいと言って、3,11石巻市内学校・地震発生後避難状況報告書を、見せてくれた。
「ひどいですよ、大川小学校の部分だけは何も書いてない」

  よく見えないと思いますが、一部掲載します。大川小は一番上。
避難の行き先や決定は誰がし、経過はどうだったかという項目に沿って記録されている。「記載なし」という記述をしている学校もある。しかし、大川小学校の部分には、それさえもない。「係争中」が理由なのだろうが、それも書けないのである。

「宮沢賢治の詩が書かれた建物は、野外音楽堂ですか」

    これも前回に掲載した写真です。
私がそうたずねると、佐藤さんはうなずき、寂しそうに笑って言った。
「私たちはいつも、子どもたちに『先生の言うことは聞け』と言ってきた」
「でもそう言ってきたことを、私たちは後悔してしまいます」

「学校/当局の事後対応があんなにひどくなければ」
「私たちもこんなに腹を立てなかったと思うんです」
ぽつりと言った佐藤さんの言葉が、深いところで響いた気がした。


 ☆☆
今回の道行をこのまま終わらせるわけにはいかない。そんな思いが大きくなりました。さっそく動き始めてます。いずれ皆さんにも報告します。注視してください。

   途中で立ち寄った冬の松島です。寒いけれど穏やかな海でした。

 ☆☆
今日明日と、雪の東日本になるとか。いまから福島に向かうものとして、荒れないでくれと祈ってます。車なんだし。

     冬枯れの手賀沼です。

 ☆☆
大相撲、目が離せませんね。やっばり場所を締めるのは白鵬だった。そして御嶽海みたいな若手がいると、場所が盛り上がります。残念なのは北の富士の解説が聞けないことです。舞の海って、ホントに白鵬を嫌いなんですねえ。アナウンサーが舞の海をたしなめてる感じ、分かりますか。
いよいよあと三日、お相撲さんは大変だ。

大川小学校へ(上)  実戦教師塾通信五百三十号

2017-01-13 11:30:40 | 子ども/学校
 大川小学校へ(上)
     ~新北上川大橋を走る~



 ☆☆
あの日、宮城県下で亡くなった小中学生は261人。そのうち、学校管理下にあって亡くなった子は75人。その75人中74人が、大川小学校の子どもという結末は、あまりに不可解でむごい。世界史的視点で見ても、これは戦時下でないとあり得ない数字だと言います。
次週に登場いただく、遺族であり裁判原告である佐藤和隆さんが、持ってってくださいと渡してくれた、昨年11月8日「河北新報」のコピーに、村井知事の見解が載っている。私たちも新聞やニュースで目にしているはずだが、次の一文を私は初めて見た。
「教員も11人中10人が亡くなった。ベストと思う選択をした結果、あのような結果となった」(赤字は私の作業)
私なりに、今までウェブやブログでこの事件の検証を書いてきた。私の考えは間違いなかったという思いを強くした大川小学校への道行だった。


 1 新年会
 塩竃駅で電車からレンタカーに乗り換え、ナビに「大川小学校」と打ち込んだ。分かっていたつもりだったが、すっかり忘れていた。車は大川小学校が「間借り」している、二俣小学校に着いたのだ。
 こんなときは電話ではなく、実際に道を指さしながら教えてくれる、地元を頼るのがいい。近くに仮設住宅があったので、私はそこに駆け込んだ。集会所は一杯の人で、さあ上がってください、と連呼される。仮設の新年会が真っ最中の人たちは、お雑煮をすすり酒をかわし、私の目的をなかなか分かってくれない。
 やがて(私より)年老いた方が、用向きを了解したようで、私の肩に手をおいて、外で説明しようと言う。そして、期待通り道を指さし、優しくゆっくりと説明してくれる。
「どこから来なすった?……おお、千葉、そうかそうか……しっかり見てきてください。よろしくお願いします」
そう言って手を振るのだった。

 2 校舎南の裏山
 北上川沿い通りの、だだっぴろい田野を走った。すると、土手を上がった巨大な橋のたもとにある信号の向こうに、ニュースで何度も見た光景が現れた。ぽつりぽつりではあるが、人や車が切れ目なくやって来ては去っていく。

頭が働き始める。時刻はまだ午後の1時を回ったあたりである。写真でも分かる。あの裏山は、校舎の南側になる。その裏山の影が校舎に落ちているのが分かるだろうか。裏山はこんなに近いところにあった! 最初にそう思った。校庭からものの一分もかからない!
 大川小学校の卒業生だというボランティアの人に、矢継ぎ早に質問する。三角地帯はあそこですね? 子どもたちが椎茸取りをしたという裏山の道はどこですか? 市の広報車が緊急避難を呼びかけ、猛スピードで通りすぎた道はここですね? 
 住宅が密集していたあたりは、すっかり荒れ果てた更地となっている。献花台でお祈りをし、校舎を回る。


下の写真が、裏山のふもとから校舎を見たものだ。繰り返すが、走ればものの一分もかからない。

これが、裏山に続く、子どもたちが椎茸取りをしたという道。「裏山は危険だし、立入禁止だ」と当局が言い続けた見解を思い出す。なだらかな道沿いに、石巻市が「震災後に」立てた「立入禁止」の看板。そして、子どもたちの死を悼(いた)む、たくさんの石。


 3 新北上川大橋を走る
 この川の向こうが追波(おいなみ)湾ですよね、私は訪ねる。すると、ボランティアの彼女は、
「ちげんだ、オッパ(追波)ってんだよ」
と笑う。校庭から橋の方向(三角地帯)を指して、彼女は言った。
「あのおっきな橋を見て」

あの頑丈な橋が、津波の運んで来た瓦礫や木を止めた、だから行き場をなくした海水が、土手を越えたんだ。そして、校庭にいる子どもたちを飲み込んだんだよ。
 読者は分かるだろうか。この写真は、校庭から撮ったものだ。150m先のこの地点を見上げるように校舎がある。そう言えば校舎二階とここは、同じ高さだった。私は驚き、おののく。
 私はじっとしていられず、予定通り校庭から三角地帯に走った。一体どれくらい時間がかかるのか。海はどんな風だったのか確かめるため、私はここに来たのだ。

橋のたもとの三角地帯から、さらに橋を走る。海はどこだ。海をそばに控えた河口は、どこも水面が高い。怖いくらいに川面がふくらんでいる。走っているうちに、いたたまれない気持ちになって思わず叫ぶ。
「おーい、みんな逃げるんだ!」
見える。蛇行した川のはるか彼方、いや、すぐそこにというべきか、両岸がへこんだあたりに。防風林を津波が越えた、と広報車が伝えた海が。


 13分ですよ、計測をした仲間が言った。橋の中央から、私がへたるように歩いて、橋にもたれ川面を見ながら、そんなふうに戻った結果である。それでも13分。子どもたちが校庭にいたのは50分だ。
 ボランティアの彼女に、話の「証人」なのでと、写真の撮影をお願いしたが丁重に断られた。顔を出してしまうとね、彼女は言った。遺族も見に来る人も、それはいろいろで、そのすべての事情に責任を負えないからと。でも、3000~4000人という人たちを相手にして来た人である。
「あなたたちがどんな思いでここに来たか、くらいは分かります」
と言ってくれた。


 ☆☆
遺族の佐藤和隆さんとのことを、次号で報告します。ひどい当局の対応を、拍子抜けするぐらいあっさりと、語ってくれました。奇しくも、遺族側が控訴したその日に、お話を聞いたのです。

 ☆☆
横浜でのいじめ事件、目が離せませんね。「150万円はおごり」という第三者委員会の報告を真に受ける当局は、今後一体どうする気でしょうか。どう考えても滑稽、いや、非常識な結論しか想定できません。
「おごりの行為」なので、
○当事者間で調整/解決する問題だ
○「おごった」側が不服ならば、民事で訴える問題だ
○「おごられた」側に、どうしたらいいかアドバイスする
行政/当局は「一番無難なのは最後のやつかな」などと、頭をすり寄せているのかも知れません。

行く年来る年(続)  実戦教師塾通信五百二十九号

2017-01-06 11:20:16 | その他/報告
 行く年来る年(続)
     ~風に吹かれて~



  
新しい年が明けました。今年もよろしくお願いします。多分初めてだと思うのですが、年賀状貼っときます。
     
毎年交換してる人は、昨年のと似てないかと思ったかな。思うわけねえじゃねえかと言われそうですが、皆さんにも去年のものをお送りします。
     

  ☆☆
大晦日はいつも、上野アメ横と浅草を回ってます。

     国際通りから、スカイツリー

いつもの賑わい雷門、と思ってたら、内田裕哉の収録にばったり


  ☆☆☆
  仲見世のホントの混雑はこれから。

  尾張屋の天ぷらそばで年越し。銀杏のから揚げも。

  いよいよ人出が多くなって、大量のお巡りさん。

  これはTX沿線の「おおたかの森」駅前。

 今年始めたスケートリンクです。近々、真央ちゃんのお姉さんの舞さんが来て滑るそうです。

  ☆☆☆☆
暮れは、とっときの映画(DVD)をみます。今年は『砂の器』でした。これからも頑張れよ、そんなことを言われてる気分になります。あの時の森田健作、良かったなあ。知事にまた出馬だと? ああ恥ずかしい。
暮れが好きで、正月は嫌いな私です。正月のテレビってなんにもない。でも、再放送SPで『孤独のグルメ』をやってたので、2話だけ見ました。この番組は深夜の時間帯だったから見られなかった。良かった。旭川の居酒屋「三四郎」、いいですね。箸袋の表書きが「ご主人の手書き」ってとこで、いつか紹介した柏の居酒屋「和さび」を思い出しました。ここは、味噌汁も注文受けてから、一杯ずつ作るんですよ。千代田町です。近くを通り掛かったら、ぜひ一度どうぞ。女将さんのお酒の講釈も、単純明快で深いですよ。

読者の皆さん、今年もよろしくお願いします。