楢葉蛭田牧場
~出発、そしていま~
1 蛭田牧場
20日の『福島民友』の記事である。旧警戒区域の中から、ついに原乳の出荷が始まる。ここの読者なら、この大変さが少しは伝わると思う。何より消費者がどう反応するのか。餌の牧草をどうするか。関連するが、生乳を製品化するプラントが福島県ではたったひとつ、という事情が物語る大変さだ。生乳は会津や郡山を問わず、すべて混ぜられる。
「双葉郡(楢葉も含まれる)は、酪農をしないで欲しい」
という声があったことを、以前書いた。
楢葉町の蛭田牧場、実はこのブログ初登場ではない。冒頭の写真を見たことがあると思った読者は、相当熱心な方か、記憶力の持ち主です。これは、同じ楢葉の渡部さんに紹介されて、初めて蛭田牧場を訪れた時の写真である。この写真で、かつて蛭田牧場に、たくさんの牛がいたのが分かるはずだ。その二カ月後に、この写真を撮った。
仲村トオルの右にいるのが蛭田さんで、左がお父さんである。今回のことに、仲村トオルも「鳥肌がたつような」気持ちになった、という連絡を受けた。念のため断るが「感動した」のである。
旧警戒区域の酪農家が再開を目指している、ということを聞きつけたマスコミが、それはすごい勢いで取材に来たそうである。それに対し蛭田さんは、どうかそっとして欲しい、放射能の線量だけではない、これからずっと生産を続ける見通しがつくまで、まだ道のりは険しい、もう二度と「殺す/埋める」ことはしたくない、そう願っていた。原発事故から、個人的にずっとつながっていた一社を除いて、蛭田さんは取材を断り続けてきた。また、そのたったひとつの新聞社にも、営農を再開するまで一切おおやけにしないことを条件に、取材をし、カメラを回すことを認めたという話だった。
だからこの写真も、今回の再開でOKとなった。
2 「捨てるために搾(しぼ)ってた」
以前紹介したこの写真も、同じ時に撮ったものだ。
さんざん迷い悩んだあげく、蛭田さんは酪農の再開を決意し、牛を競り落とした。蛭田牧場は、かつて130頭の牛を抱える大きな牧場だった。5頭の牛を買い入れた。たった5頭の牛たちの中から、
「一匹目の子牛が生まれた時の感動はなかった」
と語る蛭田さんの目には、光るものがあった。
当時の警戒区域に通じる道はどこでも、バリケードと検問があった。私も山道を使って試みたがダメだったことを報告したと思う。動物愛護団体はそれを越えて、あちこちの酪農家を回ってこのポスターを貼った。他の酪農家はみんな、電話も受けている。渡部さんのところにもあったそうだ。もちろん携帯に、だ。
「あんた、一体誰なの? 名乗りなさいよ!」
名前も言わない相手に、
「私たちが一体どんな思いで牛を置いてきたのか、分かってるのかい!」
「子どもみたいに育てた牛たちを、私たちが好きで殺すと思うのかい!」
と言って罵(ののし)ったのは渡部さんの奥さんである。優しく諭(さと)すように話すダンナにじりじりして、電話を代わったのである。
「じゃあ、あんたんとこで引き取ってよ!」
相手は沈黙したそうだ。
牛舎で生まれ育った牛たちは、外の世界を知らない。放っておけば、沼でも入っていくそうだ。沼地にはまり、朽ち果てるように死んだ牛たちの写真は、ここで紹介しただろうか。
蛭田さんは、12本分のドラム缶が乳で一杯になると、「産業廃棄物業者」に頼んで、全部捨てていた。でもみんな「線量不検出」だった。敷地内には捨てない。それが「ちゃんと最後までやってる」証拠になるのだ。
「捨てるためにだけ乳を搾ってるんだよ」
あの時の蛭田さんの顔は、仕方なく笑っていた。
でも今度は本当の笑いだ。来月こそちゃんとお祝いを言おう。
☆☆
今回の雪、いわきは無事でしたが、楢葉は違ってました。渡部さん家まで行くと、自宅前に拡がっていたひまわりの畑は、こんな具合でした。
そして、前から会いたいと思っていた娘さんに会えました。
「避難先で食べた昼御飯のレシートはあるのか」という東電とやりあった娘さんです。
詳しい報告は今度にしたいと思います。
☆☆
稀勢の里、横綱に昇進しましたね。どう思うかと、ここんとこよく聞かれます。期待する声に流されるまま、早く横綱になってしまったなという思いはあります。でも、まあいいか、というところです。
ただ、相撲の歴史/文化、そして「技」というものの極みまで相撲を考えているのは、白鵬だけです。それだけははっきりしている。薄っぺらに「人格」だの「日本人」だのと、姦(かしま)しいとしか思えません。いつかきちんと話したと思ってます。
~出発、そしていま~
1 蛭田牧場
20日の『福島民友』の記事である。旧警戒区域の中から、ついに原乳の出荷が始まる。ここの読者なら、この大変さが少しは伝わると思う。何より消費者がどう反応するのか。餌の牧草をどうするか。関連するが、生乳を製品化するプラントが福島県ではたったひとつ、という事情が物語る大変さだ。生乳は会津や郡山を問わず、すべて混ぜられる。
「双葉郡(楢葉も含まれる)は、酪農をしないで欲しい」
という声があったことを、以前書いた。
楢葉町の蛭田牧場、実はこのブログ初登場ではない。冒頭の写真を見たことがあると思った読者は、相当熱心な方か、記憶力の持ち主です。これは、同じ楢葉の渡部さんに紹介されて、初めて蛭田牧場を訪れた時の写真である。この写真で、かつて蛭田牧場に、たくさんの牛がいたのが分かるはずだ。その二カ月後に、この写真を撮った。
仲村トオルの右にいるのが蛭田さんで、左がお父さんである。今回のことに、仲村トオルも「鳥肌がたつような」気持ちになった、という連絡を受けた。念のため断るが「感動した」のである。
旧警戒区域の酪農家が再開を目指している、ということを聞きつけたマスコミが、それはすごい勢いで取材に来たそうである。それに対し蛭田さんは、どうかそっとして欲しい、放射能の線量だけではない、これからずっと生産を続ける見通しがつくまで、まだ道のりは険しい、もう二度と「殺す/埋める」ことはしたくない、そう願っていた。原発事故から、個人的にずっとつながっていた一社を除いて、蛭田さんは取材を断り続けてきた。また、そのたったひとつの新聞社にも、営農を再開するまで一切おおやけにしないことを条件に、取材をし、カメラを回すことを認めたという話だった。
だからこの写真も、今回の再開でOKとなった。
2 「捨てるために搾(しぼ)ってた」
以前紹介したこの写真も、同じ時に撮ったものだ。
さんざん迷い悩んだあげく、蛭田さんは酪農の再開を決意し、牛を競り落とした。蛭田牧場は、かつて130頭の牛を抱える大きな牧場だった。5頭の牛を買い入れた。たった5頭の牛たちの中から、
「一匹目の子牛が生まれた時の感動はなかった」
と語る蛭田さんの目には、光るものがあった。
当時の警戒区域に通じる道はどこでも、バリケードと検問があった。私も山道を使って試みたがダメだったことを報告したと思う。動物愛護団体はそれを越えて、あちこちの酪農家を回ってこのポスターを貼った。他の酪農家はみんな、電話も受けている。渡部さんのところにもあったそうだ。もちろん携帯に、だ。
「あんた、一体誰なの? 名乗りなさいよ!」
名前も言わない相手に、
「私たちが一体どんな思いで牛を置いてきたのか、分かってるのかい!」
「子どもみたいに育てた牛たちを、私たちが好きで殺すと思うのかい!」
と言って罵(ののし)ったのは渡部さんの奥さんである。優しく諭(さと)すように話すダンナにじりじりして、電話を代わったのである。
「じゃあ、あんたんとこで引き取ってよ!」
相手は沈黙したそうだ。
牛舎で生まれ育った牛たちは、外の世界を知らない。放っておけば、沼でも入っていくそうだ。沼地にはまり、朽ち果てるように死んだ牛たちの写真は、ここで紹介しただろうか。
蛭田さんは、12本分のドラム缶が乳で一杯になると、「産業廃棄物業者」に頼んで、全部捨てていた。でもみんな「線量不検出」だった。敷地内には捨てない。それが「ちゃんと最後までやってる」証拠になるのだ。
「捨てるためにだけ乳を搾ってるんだよ」
あの時の蛭田さんの顔は、仕方なく笑っていた。
でも今度は本当の笑いだ。来月こそちゃんとお祝いを言おう。
☆☆
今回の雪、いわきは無事でしたが、楢葉は違ってました。渡部さん家まで行くと、自宅前に拡がっていたひまわりの畑は、こんな具合でした。
そして、前から会いたいと思っていた娘さんに会えました。
「避難先で食べた昼御飯のレシートはあるのか」という東電とやりあった娘さんです。
詳しい報告は今度にしたいと思います。
☆☆
稀勢の里、横綱に昇進しましたね。どう思うかと、ここんとこよく聞かれます。期待する声に流されるまま、早く横綱になってしまったなという思いはあります。でも、まあいいか、というところです。
ただ、相撲の歴史/文化、そして「技」というものの極みまで相撲を考えているのは、白鵬だけです。それだけははっきりしている。薄っぺらに「人格」だの「日本人」だのと、姦(かしま)しいとしか思えません。いつかきちんと話したと思ってます。