実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

非核の火 実戦教師塾通信九百十六号

2024-06-07 11:25:06 | 福島からの報告

非核の火

 ~続く歩み~

 

 ☆「のらっこ」☆

二ツ沼直売所にも、真っ青な空からさんさんと日が注いでいた。数は少なくても、元気な野菜が並ぶ。キャベツの一個130円に驚いていると、あっちは高いんですって?と、レジから声が上がる。この倍か3倍ですよと言って、私はひとつ取り上げる。それでもやっぱり品薄は気になる。店が開くのも週の後半だけになった。

「のらっこ」が町営となったのは、つい最近のことだ。町営に伴い品薄となったとは考えにくい。その逆なのだろう。広野町の警戒規制が解除されて(2011年の9月末日)から2年後、私はこの「のらっこ」を知った(詳細は『大震災・原発事故からの復活』を参照ください)。かつて警戒区域だったエリアで、農家が米を作った。その米を「のらっこ」が販売していると教えられたからだ。元気そうなおばちゃんたちが、学校も始まったしね、と嬉しそうに話す当時のことがよみがえる。当時はたくさんの野菜に販売規制がかけられていたわけで、その野菜が置かれてないか県の職員が確認のため来ていた。その職員やパトロール中のお巡りさん、そしてたくさんのお客さんと一緒に談笑した。不満を遠慮なく言うおばちゃんたちも、彼女たちに罵られる職員も表情は柔らかかった。「のらっこ」は生産組合の作ったものだ。たくさんの農産物は、各農家が組合に委託した。地元の農家が作った野菜を、避難先のいわきから町の人たちがわざわざ買いに来ていた。受け取るのは野菜ばかりではない、住んでいた町が今どうしているか、ここに来ると分かるからだ。住んでいた町の新たな活力がここにあったからだ。私も来るたび元気をもらった。当時レジに必ずいた元気な組合長さんも、町営となったせいなのだろう、全く見かけなくなった。広野町の役場駐車場にイオンが出来た時、ここって閉鎖されちゃうの?と聞く私に、私たちも頑張るよと笑っていたおばちゃんたちが懐かしい。

 近隣農家の作ったゴマと、みかんサイダーも買う。サイダーとは、炭酸飲料ということですかと聞く。シンプルなラベルで、高校の先生が指導して生徒と作ったものだそうだ。専用棚で冷えている。同じ棚で冷えている豆腐も、どうだい?と勧められるが、多分、防腐剤加工がない自然食品だから足が速い。三日間はもたないよね、と断りました。

笑ふるタウンのベンチで飲んだみかんサイダー。ナチュラルな味わいです🍹

いま働いてません的な表示のモニタリングポスト。

 ☆伝言館☆ 

いつもはヘビが元気な頃合いの宝鏡寺・伝言館は、静かに川が流れていた。暑いくらいの日差し。

原発事故集団訴訟原告であり、伝言館事務局長の丹治杉江さんがいらした。ちょうど掃除の最中で、一階(伝言館は坂に建っているため「地下」の印象が強い)に巨大ムカデが出るのよ、と殺虫剤を持って降りて行った。

非核の火(碑)前を掃除する丹治さんです。

怖くてついていけない私は、二階で前回見過ごした能登地震のパネルを読む。あとで、安齋育郎先生から聞いたが、改めてパネルを作るそうだ。同じ能登の珠洲原発誘致を潰した住民の力をレポートするという。隣の平和館に行くと、大きなパッチワークが下がっていた。先生の奥様が作ったという。パッチワーク製作者として、著名な方らしい。写真では分からないが、模様のひとつひとつに綿を入れて行くそうだ。それで膨らんでいる。近々、奥様のパッチワーク展も企画中である。

かたわらのテーブル上には紙細工の龍があった。聞けば、こちらは先生自身の手によるもの。今年の干支だ🐉

今回も先生とは、またしてもすれ違い。福島市で行われる自由法曹団主催の憲法集会に出るため、この翌日に伝言館に来るということだった。集会のテーマは「汚染水」だという。入管法ではないのですか?という私に、福島での集会だからねと丹治さんは言った。すでに書いたことだが、上野東照宮の宮司が「重要文化財に火が点いているのは困る」として、引き継ぐ場所を探し始めた。宝鏡寺の早川住職が手を挙げて、この地にやって来たのは原発事故から10年後のことである。丹治さんが掃除しながら、「非核の火」ってね、と話した。戦後、全国に広がった「非核の火」だが、簡単に「火」を分けていないともいう。実際、伝言館の火を「分けてください」と頼まれることがある。「自宅で灯したい」という。でも、逡巡するそうだ。「正式な火」は、もともと兵隊さんが、広島の原爆投下直後の親族の家に残っていた火をカイロの種火としたものだ。そして、福岡県(八女市)の自宅に持ち帰ったものだ。だから「正式な火」は八女市と楢葉町などで、いくつもないという。早川住職が生きていたら、どんな判断をするのだろうと思う。

 新潟県は原発立地調査で訪れた東電職員は肩身が狭く、制服で歩けなかったという。一方、福島県は原発誘致に「諸手を挙げて」歓迎した。孤立無援の中、檀家から批判されつつ早川住職は原発反対を続けた。そう言えば、住職のお通夜の折り、安齋先生や原発反対を訴える人たちは伝言館に集まっていた。もしかしたら、寺の敷地にひしめいていた檀家の人たちには、別な思惑があったのかもしれない、などと今は思う。宝鏡寺を初めて訪れたのは、原発事故から10年を数える時だった。非核の火(碑)と伝言館は、まさしく完成に向かって突貫工事だった。本堂近くの書斎を訪れた時、いやぁ本当に間に合うのやらと、初めて会った私に笑うのだった。もっと聞きたかった、改めて思った。

 

 ☆後記☆

飯塚事件の再審請求が却下されました。新証拠に対する裁判所の判断は全て憤懣やるかたないものですが、中でも腹が立ったのが、被害者の女の子の血液が被告の車から出たという案件です。これが10年前の第一次請求で「有罪の根拠と出来ない」とされました。しかし、今回の第二次請求では「他の証拠で殺人は立証はされている」としたのです。血液鑑定が正しかったかどうかの判断を回避したか、「そんなの関係ねえ」としたわけです。死刑が執行されたというのに、今さら何を言ってんだというのが一番なのでしょう。何故か報道されませんが、1990年に起こった、いわゆる「足利事件」の犯人とされた菅家さんの血液のDNA鑑定と、その2年後に起きた飯塚事件の鑑定法は同じです。DNA鑑定が始まったばかりで不確実だという疑念は、鑑定を策定した科捜研の担当者本人から出されていた。ついでに付け足せば、この「足利事件」と「飯塚事件」の鑑定をしたのは同じ人物です。このDNA鑑定により菅家さんは有罪となり、後に精度が増した鑑定により無罪となったことはご存じですね? 当初採用されたDNA鑑定は、余りにも大雑把だった。より絞り込むことが可能となった鑑定で、菅家さんは「シロ」となった。そのことを裁判官が知らないはずはない。いや、知らないかも知れないというのが悲しい。更に請求を続けるためには、またしても新しい証拠を提出しないといけません。今市事件の勝又さんのレポートでも言いましたが、相手が「証拠開示」に応じることが大切です。

 ☆☆

6月になりました。子ども食堂「うさぎとカメ」は、1日が土曜だったため、早くも来週となりました。久しぶりの飾り寿司ですよ。一体、どんな顔が出来るのでしょうね🍙 ワンタンスープも頑張りま~す👊

 オオタニさん🥎も、藤井君☖⛊もファイト


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