実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

夏祭  実戦教師塾通信三百九十九号

2014-07-25 12:29:22 | 戦後/昭和
 子ども歳時記-夏祭
     ~「誇り」だ?~


 1 教え子たち

 夏休み! なんと心地よい響きなのだろう。ここ(夏休み)にはきっと何かがある、と昔、私たちは子ども心に思った。きっとそれは大人が言う「自由」とか「解放感」と呼ぶものだった。草むらや木立(こだち)や沼に私たちが分け入ったのは、その「何か」がそこにあると思ったのではないか、とさえ思える。
 お祭りなるものが、その夏休みにあるのだ。なんとお誂(あつら)え向きなことだろうか。鴨がネギを背負って来るとはこういうことを言うに違いない。この千葉の柏でも、明日と明後日の両日、かしわ祭りが開催(かいさい)される。
「先生が見に来んなら、神輿(みこし)を担(かつ)ぎますよ」
と言う教え子は、中学校時代にさんざん暴れた奴だった。そして、その神輿を仕切る中堅(ちゅうけん)の若大将も、私がまだ若い頃の教え子で、中学時代、それは柏で有名を欲しいままにした男だった。みんな夏の演出者として、そして神事の担い手(にないて)として登場する。


 2 喪(うしな)ったもの
村の鎮守(ちんじゅ)の神様の
今日はめでたいお祭日
ドンドンヒャララドンヒャララ(繰り返し)
朝から聞こえる笛太鼓  (『村祭り』)
      
これが私たち世代のお祭である。どうやらこれは、私の絵日記にあった小二の時のお祭の写真と見える。パソコン画面でも分かりづらいと思うが、左側のやぐらのように見えるのが山車(だし)。神輿は右の方に鎮座している。おそろいの法被(はっぴ)を着たたくさんの子どもたちは、神妙(しんみょう)というよりは堂々としている。30世帯ぐらいの小さい集落に、こんなにたくさんの子ども(しかも小学生以下だ)がいた。バックの家の瓦(かわら)のあちこちが割れている。そして、この家の勝手口の見事に崩(くず)れ落ちているのが、右端に見える。そんな生活の中、子どもたちの顔はお祭の喜びに満ちている。集落/町/村がそのまま、風習/俗習を毎年繰り返していた。私は写真の左端で、抜けるように笑っている。この時のみんなは、「今がすべて」で、あとは「失うものと言って何もない」と思っていたかのようだ。朝から興奮の中にあった小さな広場は、夕方になって町に向かう神輿の緊張でもあった。

君がいた夏は
遠い夢の中
空に消えてった
打ち上げ花火     (ジッテリンジン『夏祭』1990年)

好きな女の子を、切ない気持ちでみつめる男の子の歌。
彼が失ったのは彼女だけではない。かつて彼は、
○人ごみの中で彼女の手をとろうとして出来なかった。
○金魚すくいに夢中で浴衣(ゆかた)の袖をぬらす彼女と、それを見るぼく。
○綿菓子買った彼女は友だちを見つけて行ってしまう、置いてけぼりのぼく。
すべてが消えた。
取り返しのつかないすべては、神社の境内(けいだい)の中にあった。
 何度も登場する吉田拓郎の『夏休み』にまたお手伝い願う。決して「取り返せない夏休み」がここにあるからだ。
            
            ぼちぼち開花の始まった手賀沼の蓮
麦わら帽子は もう消えた
田んぼの蛙は もう消えた
それでも待ってた 夏休み

確かに今も麦わら帽子はあるし蛙もいる。しかし、麦わら帽子は「貸し農園」を耕す(たがやす)おじさんの頭の上にある。そして田んぼに人影はない。今やそこに麦わら帽子を被(かぶ)った子どもたちは、いないのだ。一体どれだけのものを私たちは手放しているのだろう。
 夏のお盆がまたやってくる。このお盆だけは旧暦(きゅうれき)で行われるのだが、多くの祭事(さいじ)は新しい暦の上で過ぎていく。例をとれば、女の子の雛(ひな)の節句に私たちは桜餅を供する。しかし、一体、この頃に桜は咲かない。この節句のひと月あと、ようやく桜は開花するのだ。生産活動も含めた自然の条件を、私たちはことごとく手放している。村と神の作り出す「村祭り」から始まり、うつろうものを喪失(そうしつ)した拓郎の「夏休み」、そして、ジッテリンジンの「(ふたりの)夏祭」へと、私たちは突き進んできた。
 それでも私たちは遠くなった夏休みを喜ぶ。神社のお祭では、やはりケンカ/博打(ばくち)/恋にお咎め(とがめ)がない。そんな中で夏祭を慈(いつく)しむのだ。


 3 『若者たち』
 『若者たち2014』、やはり古い。その古さは置いとくとして、前述(ぜんじゅつ)した1966年の元祖『若者たち』に、「祭りの夜」だったかいう一話があった。今回の記事の流れとして、書いておきたい。よくも覚えていると思うくらい鮮明(せんめい)に覚えている。
      
        元祖版『若者たち』
 四男(松山省二)が、べそをかいて家にもどって来る。祭りの境内でかつ上げされたというのだ。ケガはないかと心配し、警察に届けましょうと言う長女(佐藤オリエ)を押し退(の)け、次男(橋本功)は、キサマそれでも男かと四男を罵(ののし)る。三男(山本圭)は、自分も中学生の頃に似たような経験があるが、その時は戦ったと言う。さて、長男(田中邦衛)は、
「オマエの気持ちはよく分かる」
「でも、そんな奴らは虫けらだ。気にすることなんかねえ」
「今にオマエは立派になって、そいつらを見返せばいい」
と言う。長女もそれにならう。しかし、それを後ろで聞いていた三男が決心したように言う。オレは嘘(うそ)をついていた。不良(昔は悪ガキをこう言った)たちと戦ったというのは嘘だ。あいつらの言われるままに、川の中で石を頭の上に持ち上げ、ずっと立っていた。もういい、とそいつらが言ってくれるのを、ひたすら待っていた。
「オレはあの時のことを今でも思い出す」
「そしてあれで良かったのかって思うんだ」
「どうして戦わなかったのかって思うんだ」
「人間の誇り(ほこり)っていうのはさ、あとでなんとかなるってもんなのか?」
「今を逃したらどうしようもないってこともあるだろう!」
暴力はやめて、と長女が間に入ろうとするがきかない。四男はやがて、祭り囃子(ばやし)の響く夜へと飛び出すのだ。
 しばらくして、顔をはらし地を這(は)うようにして四男が帰って来る。大丈夫?としがみつく長女。よくやったと讃(たた)える次男。こんなことになってどこがいいの?と長女に責められ、三男は立ち尽くすのだ。
 ドラマの終わったあと、「むやみにケンカするのはやめましょう」という、取ってつけたような字幕が流れたのも覚えている。

「ホコリ(誇り)って? ゴミのこと?」
「プライド? なんか疲れません?」
私は、今どきのこんな若者たちの反応を思い出す。そうだよな、と私は思う。なんにも分かっちゃいない大人たちが「人間としての尊厳(そんげん)」などと言う。場所もタイミングも、そして相手も見ずにいうしょうもない大人(私はこんなやり方に「因縁(いんねん)をつける」との訳をしている)に、多くの若者は答えているように見える。その大人たちの「おせっかい」は、傷つくことを恐れその道を回避(かいひ)してきた若者には、たまらなく「疲れる」ことで「面倒な」ことなのだ。まあ、私は腰抜けな連中を擁護(ようご)するつもりはないんであるが。

 それでもやっぱり夏祭はやってくる。町と神社で浴衣の袖をぬらす少女が金魚をすくい、雄叫び(おたけび)をあげ練り歩く男たちは、神輿を担ぐのだ。その姿は、まるで喪(うしな)った時を取り戻そうとするかのようだ。


 ☆☆
前回ブログ絵日記の七月二十六日(つまり、ちょうど58年前!)のところに、
「カメラで、しゃしんをうつしてもらいました。……おしろいのとこがかい(ゆ)くなってふいてしまいました」
      
とありました。多分この写真のことです。座っているのが私。立って私の肩に手を置いているのは、隣の家のノリちゃん。野球がうまくて手先が器用で気持ちの優しい、もう私のあこがれのお兄さんでした。

 ☆☆
『若者たち2014』、瑛太演じる次男にも、どうもあんまり期待できそうにないですね。この流れの古さをちゃんと書いた方がいいのかな。先週出た「偽善(ぎぜん)」ってセリフ、もう死語ではないのですかね。「いい/悪い」という選択肢(せんたくし)は、かなり前に力を失っています。それに先週のラストって、元祖版の映画第二弾『若者はいく』のラストとぴったり重なっちまいました。長男の妻夫木が、次男を侮辱(ぶじょく)した社長をなぐるって、ちょっとショートし過ぎだろう!って思っちゃいましたが、違いますかねえ。

 ☆☆
昨日の白鵬、いやあ驚いた。琴奨菊の塩を待たずに、自分が先に塩を振りました。横綱が先に、なんですよ。琴奨菊に合わせるのでなく、自分からいったんですねえ。「勝ちにいく気か」と、私は目を疑ったのですが、立ち会いもそのあとも「自分の相撲」に徹(てっ)したのだと思います。あの「小手なげ」、もう「一本背負い」みたいだったなあ。

 ☆☆
やっぱりガザのこと書いておきます。あの地域の子どもたち、そしてあの地域は、このままだったら世界と人類へ、不信と絶望を育てて行くしかない。我々はなにをしても許されるという、そんな権利を彼らは手にしつつあるのでしょうか。村上春樹がイスラエルの受賞あいさつで言った、
「私たちは壁にぶつかっていく玉子の方を支持する」
とは、今どんな方向と方法を示すのでしょうか。

分かっちゃいない 実戦教師塾通信三百九十八号

2014-07-18 11:40:19 | 福島からの報告
 分かっちゃいない


 1 海の暮らし

「そりゃ、豊間にいた時ゃ台風って大変だったよ」
この日、いわきは台風が近づく本降りの雨だった。新居(しんきょ)に越したおばちゃんが、玄関のコンクリート敷きの床でシンビジウムの手入れをしている。豊間の家の時は堤防(ていぼう)が目の前だった。よく堤防を越えて波がやって来る。堤防のこちら側にある道路を波が越えるとおしまいだそうだ。
「畳をあげる?」
私はすっ頓狂(とんきょう)な声をあげる。高波/高潮の備(そな)えはどうしていたのかと尋(たず)ねたら、家の中に自転車や鉢をいれるどころではなかった。二階に荷物を移動し、一階は畳をあげたそうだ。でも、高台に避難まではしなかった。ついこの間の津波の時もそうだったが、
「いわきの津波はおとなしい」
ずっとみんながそう言っていた。三年前は違った。地震だって尋常(じんじょう)じゃなかったのだ。そして、あんなに海が底を見せることは今までなかった。だから消防団の必死の広報は、間違いなく本当だと思った。きっとこのあとすごい津波が来る。みんな駆け足で逃げた。
 おばちゃんは、コルクのふたのように固く丸くなった鉢植えのシンビジウムの根をバラバラにほぐしながら話すのだった。
「ここの近所はだれも知らない人ばかりで、つまんないよ」
「確かに暮らしは窮屈(きゅうくつ)になったけど、今は海から離れて安心だ」
玄関のツバメは、第一陣が巣立ったそうで、第二陣が卵を温(あたた)め始めたという。このツバメたちのために、夜遅くにシャッターを閉め、朝早く開けるというのはけっこう大変なんだよ、とおばちゃんは言う。
「だから、二つ目の巣は壊(こわ)しちまったよ」
それはひどい、と私が言うと、
「息子にも言われたよ」
はるか何千~万キロの向こうからやっと生き延びて来たツバメなんだよ、と諭(さと)された。
「また巣を作り始めたからよ、だから今度は壊さねえんだ」
その玄関の巣から親鳥がこっちをのぞいている。


 2 不透明すぎる「明日」
 牧場主さんの勤(つと)める上荒川仮設住宅に向かう。いつも通り、半分期待し半分恐(おそ)れながら向かう。私たちが知ることの出来ない出来事がそこにあり、「ちっとも分かってない私たち」の姿が確認されるからだ。
 私が、みなさんへ、とぶら下げていった薄皮饅頭(うすかわまんじゅう)を、
「今そこでしゃべってたな」
と、主さんは縁側(えんがわ)に集まっていたおばちゃんたちに渡しにいった。窓の向こうからおばちゃんたちの盛り上がる声が聞こえる。
 話はいきなり核心にはいる。いつもこうだ。

① 楢葉インター
「なあに、前から楢葉にもインターチェンジを作るって話はあったのさ」
読者は覚えているだろうか。『福島民友』にあった楢葉スマートインターチェンジのことだ。なんにも分かってない私は、それが町の復興(ふっこう)を考えてなのかしら、などと考えた。まったく違ってるのだ。つまりまずそれは、高速インターチェンジが、

○原発隣接(りんせつ)地域の緊急避難路(ひなんろ)

としてあることだった。一応再確認すると、富岡町と楢葉町の境に第二原発はある。
 また今回は別な項目が加わる。「中間貯蔵施設」を拒(こば)んだ楢葉町は、10万ベクレル以下の「保管庫」の建設が予定されている。だから高速のインターとは、

○施設建設と、その後の廃棄物を運搬する時に必要となる

のだった。なんだそんなことだったのか、と私は憤(いきどお)ってみる。主さんがこんな時静かに笑うのは、いつもの通りだ。

② 道の工事
 高い線量の下で本当に復旧工事はやっているのだろうか。
「やってるよ。作業員が防護服着てやってるよ」
信じがたい言葉が主さんの口から出てくる。少し地図を見てもらおう。
            
赤い線で囲(かこ)んであるのが、震災当日に発令された避難指示区域(半径5キロ圏)だ。そして次の日には点線の部分(同10キロ)まで拡大する。この区域は今も「帰還困難区域」、つまりもっとも放射線量の高い地域である。そこを目指して道路の復旧工事が行われている? 常磐高速はすでに開通している70キロ北側の南相馬を目指すのだ。それがやはり現実のことのようだ。どうして工事をしているのが分かるのだろう?
「ニュースでやってるよ」
と、主さんは淡々としている。ローカルなニュースでしか分からないのか、とやっぱり不思議な私だった。工事車両も被曝しているのは間違いない。私はキツネにつままれたような気持ちでいるままだ。構築される道路自体も被曝を続けるのだ。
「だって、作業員がずっと前から第一の現場に行ってるんだからさ」
「6号線(国道)も使ってるわけだよ」
「高速が開通すりゃ、工事も迅速(じんそく)ってわけだよ」
なるほど、と思ってしまった。私は口をあんぐりと開けたままである。それは確かにその通りだ。オレはなんにも分かっちゃいない。そして作業員は、この暑さの中を防護服で働いてるのか。
「6号線も一般開放するって話だよ」
主さん、もうこれ以上驚かさないでくれ、と私は思うのだった。地図をもう一度見てもらえば分かる。国道6号線は第一原発から3キロ以内、もう目と鼻の先だ。そしてもちろんここは「人が住めないところ」だ。

③ 「家庭が崩壊(ほうかい)しちまうよ」
 慰謝料(いしゃりょう)を町全体として請求している浪江町を覚えているだろうか。「個別に対応する」という東電に対して、
「それでは戦車に竹やりで向かうようなものだ」
という浪江町長(馬場有)の発言は記憶に鮮(あざ)やかだ。
 今月に入ってすぐ「5万円増額(ぞうがく)」という和解案が出されたが、東電は拒否した。何度か断(ことわ)ったが、この「原子力被害賠償紛争解決センター」という舌を噛(か)みそうな機関は、文部科学省直轄(ちょっかつ)のものだ。それを東電が拒否している。町民の請求額は25万円。従来は月々4万円(だったと思う。少し自信ない)。おそらく、和解の調停には、もうこれ以上待てないという町民の気持ちが見えている。私たちはこの金額を多いと思うだろうか。それとも少ないと思ったらいいのだろうか。牧場主さんが語る。
「オレたちは就業(しゅうぎょう)補償として、東電から給料全額を受け取れる」
それをもらって家でゴロゴロしている人もいる。パチスロやアルコール依存への道が開かれる。そして「原発による直接的被災のない」、つまり原発賠償のないいわき市民の、冷たい目も生まれる。
 補償を受けながら働く人もいる。すると働いた分は補償から差し引かれる。主さんは今の仕事をしているため、就業補償の半分を差し引かれているそうだ。
「でもそうしないと、家庭が崩壊しちまうよ」
「オマエは毎日一体なにやってんだって家族から思われちゃうよ」
主さんは続ける。でもさ、前は牛とばっかり話してて、人と話すのが苦手だったオレが、
「この仕事を始めて仮設のみんなと話しているうちにさ」
「人と話すの、慣れちまったよ」
と言ってまた笑うのだった。


 ☆☆
今日は終業式。一学期最後の日、明日から夏休みですね。もう関係ないのに嬉しい!

絵日記つけてた 夏休み
水撒き(みずまき)したっけ 夏休み
ひまわり 夕立 蝉の声    (『夏休み』吉田拓郎)

           
なんか嬉しくて、母が大切にとっておいてくれた絵日記を引っ張りだしてみました。二年生(当然、小学校です)の時の夏休み初日には、
「したじきとえにっきをかってもらいました」
「うれしくてたまらない」
とありました。この写真の日(8月1日)は、
「きょうはおにいちゃんのえんそくなので、ぼくは、5じはんにおきておとうさんと……えきまでいっておにいにゃんをみおくりました」
とあります。「かいようくんれん」という名の「えんそく」ってきっと今でいう「臨海学校」なのでしょう。なんて幸せに満ちた絵なのだろう、いとおしい気持ちを私はおさえられません。

 ☆☆
それにしても岡山の女の子、こんな終業式になろうとは。通信簿は、担任が直接渡そうとして、きっとまだ持っているでしょう。無事でいてくれるといいです。

 ☆☆
フジの『若者たち』、面白いですね。やっぱり古いですけどね。
「オレたちゃ金のために生きてるんじゃねえ!」
って、そのまんま50年前のセリフですもんねえ。時代は「金がテーマかどうか」ではなく、「テーマそのもの」を私たちが喪失(そうしつ)している時代だ、というところからスタートして欲しいと思うんです。その点、瑛太演じる次男には、多分曲がりくねった道を通らせるように見えます。これからどんな景色が見えてくるのかな。第一回目で失望した人が多かったようですね。ずいぶん視聴率落ちたみたいです。
『hero』26%? だからなに? 見ませんよ。テンポがいい、見た方がいいよ、と言われましたけど。

いくつかの質問  実戦教師塾通信三百九十七号

2014-07-11 14:56:23 | 子ども/学校
 いくつかの質問
      ~「死に損ない」・解釈改憲・セクハラやじ~


 1 「対等な光景」

 横浜中学生の長崎での不始末(ふしまつ)に関して、読者からいくつかの「どうにも割り切れない気持ち」をいただいている。ことは「広島/長崎」、そして「命」のことである。私たちのよりどころという意味では、「最後の砦(とりで)」ではないのかという読者の気持ちだ。
 繰り返しになって残念だが、70年の昔にならんとする話を今に引きつけることは、やはり簡単なことではないように思う。それではいけない、ではない。私たちがどんな時間を過ごして今、どんな世界にいるのかということが肝要なのだ。「分かったような」顔は巷(ちまた)に満ち満ちている。世界で唯一(ゆいいつ)の被爆国であるわが国が、世界有数の原発を持つ国となり、それが歴史上最悪の事故を起こし、その検証もまったく中途だという中で、「再稼働」だ「輸出」だと言ってる。そのことに反対する世論は「ようやく」過半数だ。
「だって(原発は)必要でしょ」
そんな世界に私たちは住んでいる。そういう現実があることを承認しないといけないと思える。
 そして、ふたつ目の現実は、長崎の語り部を「死に損ない」と冷やかしたしょうもないガキどもが、頭の中はまだ三歳の幼児と同じだという現実だ。相手が誰であろうと、
「バーカ!」
と言って憚(はばか)らない現実だ。いい年をした中学生だぞ、と私たちが思ってもそうなんだからしょうがない。

 70年前の出来事を私たちが無条件に受けいれることは可能だろうか。ありがちな「被害者(被爆者)に寄り添う」というのが、言ってみれば甘ったれた「分かったような」気持ちだということに、私たちは気がついているだろうか。長崎で被爆した作家林京子は、そんな私たちの気持ちに優しく寄り添ってくれる。 
 作品『ギヤマンビードロ』は、長崎で被爆した主人公と友人の話だ。長崎に原爆が落ちて32年後の祈念(きねん)会場でのことだ。二人の前に立っている女の子が、静かな式典で、袖なしワンピースから出た腕の日焼けした皮をはがし合っている。それを見た二人は、32年前の焼けただれた腕を思い出す。腕の肉をぶら下げながら焼け野原を逃げまどっている人々の姿を思い出す。
「三十二年を経過した光景には、比べようのない開きがあった」
32年前、小学生ももっと小さい子もみんなすすり泣いた。式典会場は、その声にならない声でいっぱいだった、と思い出す。でも主人公は、そんなかげりのない子どもたちの動作を見ても、特に「感慨(かんがい)はわかなかった」。そして、
「あの日と今日とが、二つ並んで、平面な、対等な位置でわたしの内にあった」
と言う。二人は両方の光景を「承認」している。そして、
「わたしたちは顔を見合わせて、かすかに笑った」
のである。この直後に、32年前の傷をえぐり返される二人なのだが、それはここでは扱(あつか)わない。
 静かな式典で日焼けした皮をむくことと、語り部に「死に損ない」と罵る(ののしる)こととは天と地の開きがある、と私たちは思うのだろうか。


 2 「風化させないため」?
 この『ギヤマンビードロ』だが、実はその一部が『友よ』というタイトルで、かつて中2の教科書(教育出版)に載(の)っていた。私たちはこの教科書を使って、「広島・長崎」を「教え」ていた。
 ある年、私の担当した教育実習生がこの教材で授業をした。すると、これを見たベテランの先生が、授業を罵倒(ばとう)した。
「なんて明るい原爆の授業なのでしょうか」
私が修学旅行で広島に行った時、そのひどさと悲しさに私は一晩中ふとんで泣き通した。それがあなたの授業は一体何よ。ということなのだ。方や実習生は真っ青になって、
「私は被爆者を差別していました」
と「ベテラン先生に」詫(わ)びを入れ、批判した先生も実習生も泣きだす始末だった。この人たちはなんなのですかね。オマエラ一体なにやってんだ、と私は苦(にが)り切って無言でいたのを覚えている。勝手なことばかり言いやがって。ってエラそうだがしょうがない、そう思った。被爆者に寄り添ったつもりの傲慢(ごうまん)さと、被爆者への実体のない懺悔(ざんげ)が宙を舞っていた。横浜と同じだ。

 年中行事のように、8月の6日と9日に平和を祈(いの)る日本の夏は、やはり変化している。この日のニュースも私たちも、広島・長崎へかかわる方法と時間を、今はまったく変えてしまっている。半世紀をさかのぼれば、私たちはこの両日はどこにいても手を合わせた。私たちの世代の多くが、今も『原爆の歌』を、さびだけでも歌えるのではないだろうか。そして今となっては、私だってこの日に手を合わせることはない。
 先だって紹介した岩手の先輩からの返信だが、このたぐいのことにも示唆(しさ)している。津波直後、NHK盛岡は生還(せいかん)した人たちの証言を放送した。一日三回、年300人以上にのぼる人たちの話は、
「それは絶句(ぜっく)してしか見られない」
ものだったという。それが諸事情の結果、心待ちするほどのものでなくなった。上手に暮らし始めた人が増えてきたせいもあるのだろう。しかし、
「(津波で)九死に一生を得たような人たちの現状の証言なら、たとえ裕福そうに映っても感慨深く見られるのに」
と、先輩は思ったらしい。
 おそらく私たちは、
「風化させないため」
必要な手続きを省(はぶ)いては、
「これではいけない」
と訴(うった)える手法をとっている。寄り添うのではなく、倫理(りんり)や道義で相手に迫るという方法だ。こんなやり方の中から、
「死に損ない」
なる罵(ののし)りが生まれる。
 被爆者(被災者)の数だけ、きっと手続きがある。
            
           台風の中、咲いて頑張ってる我が家の花


 ☆☆
結局、原爆のことしか書けませんでした。残ったふたつはまたあとで、ということにいたします。でもとりあえず塩村議員、いじめでもなんでもいいですが、弱いものは常につぶされます。そしていくら声を大きくしても、もっと大きな声にかき消される。それが弱いものの立場です。頑張れよ、
「私に謝(あやま)ってもらっても困ります」
ぐらいは言って欲しかった。相手のマヌケ野郎は、
「結婚しようとしても出来ない人たちに失礼をした」
って、無礼を重ねてることに気がついてないですから。

 ☆☆
フジテレビ『若者たち2014』始まりましたね。私はなんせ、元祖(がんそ)『若者たち』の世代ですので、見ましたよ。原案が元祖版の演出家森川時久というのも驚いた。どろどろ感はさすがに違うというものの、似てますねえ。みんなまじめだぁ。あの時は物語も人々もとにかくまじめだった。今回のは、
「不真面目と言われようと、それはそれとしてまじめに徹(てっ)してやっている」
ってうまく言えませんが、そんな現代的なものを感じます。なんせ妻夫木の役をやってたのが田中邦衛なんだから、しみじみ隔世(かくせい)の感がありますねえ。妻夫木負けてるぞ。
1966年のドラマの時、私は高校生でした。電気屋さんが我が家に貸してくれたテレビを見終われば、家中が議論の渦(うず)でしたね。それがどこの家も同じだったようだから、なんかみんなまじめな時代だったなって思います。政治や不正、社会差別を次々と放送したこの『若者たち』は、突然打ち切られるんですよ。そして映画になるんです。すでにずっと前に大島渚たちがやっていた「自主制作」、そして「自主上映」という手法を、『若者たち』制作スタッフがやったのです。私はこの時この言葉を初めて知りました。そして、町を走り回ってチケットを売り歩きました。ドラマを放映したフジテレビはこの映画にタッチしなかった。十分「火傷(やけど)」をしていたからです。って、書いてたらきりがない。
瑛太のやっている次男の役って、元祖版では真っ直ぐないい奴でした。今回も役回りはそんな感じに思えます。
年寄りたちもこのドラマを見るんじゃないでしょうか。

『坊ちゃん』  実戦教師塾通信三百九十六号

2014-07-04 13:00:42 | 子ども/学校
 夏目漱石『坊ちゃん』を読む Ⅰ
     ~「無償の愛」~


 1 「無償(むしょう)の愛

 子育て、学校、そして友だちのことで壁に突き当たったら、この短い小説『坊ちゃん』を読んだらおおかたは解決してしまうのではないだろうか。まあ、恋愛に関してはこの作品では少し無理があるというものの、とにかく漱石は深い。というか、漱石は出生(しゅっせい)から苦労を重ね、悩み続けた。その結果だと思う、作品から送られるメッセージに私たちは多大な慰(なぐさ)みを得る。日銀発行の千円札に印刷されるようなサクセスストーリーを、お世辞(おせじ)にも漱石は持っていない。でも、漱石の実直さと孤独が作品からよどみなく伝わって来て、日本人は漱石を好きにならずにいられなくなる。それで今も漱石は愛され続けている。
            
           映画『坊ちゃん』(1977年)
ちなみに原作では『坊つちやん』という表記である。

 この明治の話、いや、この『坊ちゃん』に登場する「清(きよ)」の存在は、今もってリアルである。「揺(ゆ)るぎない愛」だの、「無償の愛」などとよく言う。このありもしないような姿を、「清」は如実(にょじつ)に示している。


 2 「贔屓(ひいき)」のすすめ
 偏屈(へんくつ)で頑固(がんこ)で無鉄砲な主人公の坊ちゃんを、父も母も見放している。しかし、坊ちゃんの家に仕(つか)える下女(げじょ)の清だけは違っている。清は、すべてを坊ちゃんの正直(しょうじき)がなせるものだと思っている。兄弟げんかのすえ、兄をケガさせた坊ちゃんを勘当(かんどう)しようとした父に、清は泣いて謝(あやま)って止めた。そして、
「あなたは真っ直ぐでよい」
とほめる。お世辞は嫌いだと坊ちゃんが言うと、
「それだからよい」
とまたほめる。
 母が病気で死ぬが、その後清は坊ちゃんをもっと可愛がるようになる。お菓子や小遣いまでくれる。もちろん自分のお金でだ。人目を忍んでやるもので、頑固な坊ちゃんは我慢がならない。兄にはやらないのかと聞く。すると、
「お兄様はお父様が買ってあげるからかまいません」
と、清は言うのだ。親父(おやじ)は頑固者だが、そんな依怙贔屓(えこひいき)はしないはずだが、と坊ちゃんは疑いつつも、
「教育のない婆さんだから仕方がない」
と「あきらめる」。
 坊ちゃんが言うように、清は「愛に溺(おぼ)れている」のである。そして、それでいいのだ、と清と坊ちゃんのやりとりは言っているかのように見える。「人を愛することにいいも悪いもない」と言っている。
 私たちの多くが、自分の子育てに自信を持てない。そして、その不安はそのまま子どもへの眼差しとなる。しかし、この清の姿はそんな私たちの迷いを「要(い)らぬもの」として、そして、好きなものはおおいに贔屓しなさいと言っているかのようだ。「好き」だということは、それでOKなのだ。だからその贔屓目に自信を持っている時、
「少し違うんじゃないか」
「オマエらしくもない」
という励(はげ)ましにも似た「おとがめ」を、私たちが子どもに言っているのは確かなようだ。好きだからこそ、そこに違和感が発生する時を絶妙(ぜつみょう)にキャッチする。そしてその中でうまい言葉を生み出す。あるいは生み出す努力ができる。自分の好きな気持ちがピュアであれば、意地とも言えるふてくされた相手の気持ちはそこで揺らぐはずよ、と清は言っているかのようだ。そして同じく、好きな気持ちが揺らぐ時は、
「オレは許さんぞ」
などと一方的に言ってしまうのですよ、と言っている。そんな時相手は追い込まれるだけだから、いわゆる「開き直り」をするのである。
 半端(はんぱ)な気持ちはお捨てなさい、贔屓すればいいのですよ、そんな風に清は言うような気がする。
            
            もうすぐ開花する手賀沼のハス池


 3 「信じる」こと
 清は坊ちゃんに、何かにつけ、あなたは立派に出世すると言う。要するに今で言う、お抱(かか)えのベンツが乗り付けるような、立派な玄関の家を持つということのようだ。そして清は、建てるのは麹町か麻布か、と言い出す。そして、庭へぶらんこをこしらえなさいませ、西洋間はひとつでよろしいです、などと言う。そんなものはいらないと坊ちゃんが言うと、清は、
「あなたは欲がすくなくって心がきれいだ」
などと言い出す。すごいものである。いつの間にか、坊ちゃんまで家を持てるような気になってしまうのだ。坊ちゃんのいう通り、清は、
「自分の力でおれを製造して誇(ほこ)っているように見える」
結局坊ちゃんは、四国での短い教員生活を終えたあと、立派な役人にも社長にもならず、鉄道の技手となり、こじんまりした家を借りるだけである。しかし、清には本当はそんなことはどうでもいいことなのだ。清は坊ちゃんが、
「かわいそう」で「不仕合わせ」だ
と思っていた。そして、
「立派」だ
と「信じて」いただけだ。その清の気持ちを坊ちゃんは受けいれた。それだけのことだ。そして、そのことが大切なすべてである。私たちにこれだけの覚悟があったら、と思うのは私だけなのだろうか。
 四国に旅立つ駅のホームで清は、
「もうお別れになるかも知れません。ずいぶんご機嫌よう」
と目に涙をいっぱいにしながら、小さい声で言う。汽車がずいぶん進んだのでもう大丈夫だろうと坊ちゃんは窓から首を出すのだが、はるか向こうに清がやっぱり立っている。坊ちゃんの中に、しっかりと清がいる。
 「信じる」ことの強さと切なさなのだと思える。

 坊ちゃんが四国・松山から帰って、荷物も持ったまま真っ先に行ったのは、甥(おい)の家で北向きの三畳間(さんじょうま)で暮らす、清の部屋だったのだ。


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週刊で出すことにしたブログですが、まあこんな感じです。必ず月に一度は「子ども/学校」、「福島からの報告」をいたします。あと二回は別なジャンルか、または「子ども/学校」としたいと思っています。
この『坊ちゃん』は、不定期で書いていきます。次の「子ども/学校」は、愛知の「いじめるなら私を」の事件かもしれません。目が離せません。

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マー君、久しぶりの勝利ですね。そしてヤンキースにとっても五連敗のあとの久しぶりの勝利となりました。でも、マー君苦しみましたねえ。思い通りのところにボールが行かない。7回で交代となりましたが、帽子をはすにしてマウンドを降りる姿は、自分に腹が立ってしょうがないという気持ちが露(あら)わでした。嬉しそうなマー君の顔、久しく見ないです。
でも楽天松井のやっとこさっとこの一勝。あの松井の嬉しそうな顔、嬉しいなあ。