実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

父と母の路(2) 実戦教師塾通信七百六十二号

2021-06-25 11:09:17 | 戦後/昭和

父と母の路(2)

 ~「最後の皇帝」の弟~

 

 ☆初めに☆

戦時/戦後のことに関心をお持ちの方、結構いらっしゃるのですね。感想をありがとうございます。私も母も恥ずかしい勘違いをしていました。両親が結婚した時代の5月3日に、憲法記念日はなかった。当たり前です。それを私たちは「父のこだわり」などと勝手に思っていた。私はともかく、母はどうしたというのでしょう。戦後の憲法がすっかりなじんで、結婚記念日と結びつけることになったのでしょうか。私たちが話すかたわらで、父は困った顔して何十年も笑っていたのかもしれません。ご指摘ありがとうございます。それにしてもこれは、面白い偶然ですね。母は「新しい憲法」読本を、幾重にも包んで大事に持っていました。

 

 1 薄茶色のレインコートの男

 母がいつも思い出すことと言えば、という枕詞のような話。

母の話は間違いなくこの時期だった。前回書いた羽田精機の社宅で、出征する社員の壮行場面。たすきはおそらく日の丸、それをした方が戦地に出向くのだろう。その隣、写真で言うと左から二番目が父である。

 母はお決まりのように、この時の話を治安維持法犠牲者を悼む集会や歴教協(歴史教育協議会)、そして母親大会などで話した。以下は20年ほど前の、茨城県龍ヶ崎市発行「戦争体験記」に寄せた母の原稿である。一部を抜き書きます。

(五月に結婚し)……十月になり叔父叔母の元へ里帰りをしようということになり、切符を求め、お土産に竜ケ崎の野菜を送り、明日は出発だからと夫は夜七時ごろ床屋に出かけた。

 それから少し経った頃、玄関に人の声がして、出てみると知らない人が一人薄茶色のレインコートを着て立っていた。

「ご主人おられますか」と言うので不在を告げると、「どこに行かれましたか」という。私はこの時行き先を言いよどんだ。何となく言いたくなかったからだ。客は急用なので行く先を教えてほしいと何度も言うので、私は威圧感を感じ、行き先を告げた。客は頭を下げ、やっと帰ろうとしたので私はいつものように客を送って玄関の外に出て見送ったが、一人だと思った客は実は二人だったのだ。二つの自転車の影が角を曲がって行ったのを私は確かに見たのだ。「何なのだろうか、一人ではなく二人だったんだ」自問自答しながら不吉な予感が私の頭の中を走った。

 それから少したって夫は普段と変わらない様子で、でも私にはすまなそうに「会社の急用で明日の大阪行きは中止になったよ、仕方がない、もう少し先に延ばそう」と言った。私はがっかりしたが会社の用事では仕方がなかったのだ。

読者も察したはずだ。両親の兵庫・西宮行きは、直前に薄茶色のレインコートの男たちに阻止されたのだ。戦後しばらくして、我が家に人が集まった時、父がこの時のことを話したらしい。それを母が小耳にはさんだ。それは両親、いやこの場合は父親だ、父親の乗る列車は、満洲国皇帝の弟が上京する列車とすれ違うものだったという。特高(特高警察)が動いたのだ。父の話す顔は笑っていたというが、母の「身の毛もよだつ」記憶がここで刻まれる。

 

 2 『ラストエンペラー』の弟

 特高は、満州の皇帝・愛新覚羅溥儀の弟である溥傑が乗る特別列車に対し、父が何かしでかすことを予想し、阻止すべく手を打ったのだ。私が成人して後、ソ連(現ロシア)や共産党、そして満州のことを少しばかりかじったわけで、この時の出来事を母に説明する成り行きとなった。特高がやったことは「冗談ではない」んだと。彼らは、父が爆弾を放り込む可能性さえ考えていたはずだ、と。しかし、これは間違っていた。私の思い込みの強い頭は、この事実を共産党が武装闘争を掲げた「50年綱領」の時期に重ねていた。今思えば恥ずかしい、極めてアマチュアな質問を満州の研究者にあたったりした。50年という時には、現在の中国が建国されている。この時期、溥儀も溥傑も「再教育」を受けているのは、文献上でも、映画『ラストエンペラー』でも明らかだ。この時日本に溥傑はいませんよ、と研究者はあっさり言った。母の残した記録をきちんと読めば、この「身の毛もよだつ」出来事が、前回の記事で報告した通り、1943年だったことは明確だ。大体が戦後、特高は治安維持法とともに解体を命じられている(直後、これに代わる公安警察が出来るが)。

 戦時中なら、溥傑は確かに日本にいた。太平洋戦争が勃発した翌年までは満州にいたが、溥傑は日本の陸軍大に入学する1943年から次の年の1944年まで、一年間だけ日本にいた。当時、満州から東京へは大連から神戸が船、そこから東京まで列車で向かうというのが大体のルートだった。偶然だろうが、両親は溥傑の乗る列車とすれ違うはずだった。特高がそれで動いた。

 しかしこの時、父に何かを「しでかす」気はなかったと思っている。この時期、共産党は壊滅状態だった。主な指導者はソ連に逃げたり、投獄されていた。あるいは、左翼から足を洗う「転向」をしていた。1936年の4月、父が大学へ再度入学したのは、2,26事件から一か月後だ。それから3年間という期間、日本は激動のさなかだったが、父の人生では一番平穏だった期間ではなかったか、と思っている。

 父の謎は、軍需産業・羽田精機が解散を命じられた1947年以降、もっと深まる。この年、父は共産党に入党する。

 

 ☆後記☆

こども食堂「うさぎとカメ」、久しぶりの焼きそばでした。手際は慣れたものとなり、スタッフの増員もされました。

「ありがとうございました」「また来てね」 このやり取りが嬉しいです。

一番手前の段ボールは、コンニャクです。

 ☆☆

昨日から福島にいます。県境越えましたが、いいですか。3か月ぶりとなります。楢葉の渡部さんのおばあちゃん、ワクチンをすでに2回打ったそうです。元気ですよ~

我が家の庭。椿の枝を全部払ったら、初めてこんなに元気に咲きました。


父と母の路(1) 実戦教師塾通信七百六十一号

2021-06-18 11:49:06 | 戦後/昭和

父と母の路(1)

 ~本当だった交差点~

 

 ☆初めに☆

今回は大きく風呂敷を広げます。

両親、とりわけ父親のことを調べるようになったきっかけは、私が大学に入り、全共闘運動に足を踏み入れてからです。父は私が9歳の時に他界したので、本人からは何も聞けませんでした。調べ始めてから50年、文献もそうですがネットのおかげで、父親の周辺が少しずつ分かってきました。そして今回ようやく、長年解けなかった父(母)にまつわる謎のひとつが解けました。『モモ』に出てくる灰色の男みたいに、ある日我が家を訪れた男たち、その謎が解けました。緊迫した歴史の現場を見た気がしています。これからは、さらに深まった疑問を解いて行こうと思います。母が、そして父も仏壇でほほ笑んでいる気がします。

このシリーズ、長くなりますが、取り敢えず2回書きます。

 

 1 歴史修正主義

 長い能書きになる。父を語るためなので、お付き合い願います。

 以前に書いた。吉田清治なる輩(やから)が、自分で実行するには不可能だった「慰安婦狩り」を「告白」した。そのいい加減な「事実」が暴かれることによって、慰安婦そのものが「なかった」という流れに大きく加担した。また、犠牲者の多さを理由に「南京事件はなかった」とするのも同じだ。これらを歴史修正主義と呼ぶ。しかし、「あった」ものを「なかった」とする歴史修正主義は、どこにもはびこる。日本共産党もそうだ。

 現在、日本共産党は「暴力革命の方針を決めたことは一度もない」と公言している。戦後すぐ共産党は、平和的に民主的社会を作ろうした。それがソ連(現ロシア)の干渉によって、強引に党が破壊され方針が曲げられた、という。これはアメリカの「帝国日本の再生を許さない」占領政策に乗っかって「平和的に民主的社会を作ろうとした」ことを指す。それで共産党は何を思ったか、占領軍を「解放軍」と言った。「ソ連の干渉」とは、あっけにとられたソ連が、共産党を怒った(「コミンフォルム批判」という)ことを言う。事実、この民主化政策はすぐにひっくり返る。財閥の解体はストップし、争議行為も禁止となる。すべては「日本を反共の防波堤にする」ためであったことはご存じと思う。では人々にとって「民主化」とは、他人事だったのか。違う。1917年に起こったロシア革命に、世界中の人々が触発された。日本の人々も例外ではなかった。短い期間だったが、ソ連は人々の光だった。アメリカの記者ジョン・リードがレポートしたように、それは「世界を揺るがした」。また大正デモクラシー以降、すでに芽生えていた日本民衆の「民主化」への思いは、終戦後に大きく動いたのである。影響はあったとはいうものの、共産党のせいではない。

 以前、1950年の朝鮮戦争の記事で書いたが、この米ソの代理戦争とも言える戦争を契機として、北朝鮮を支援するべく、日本共産党に武装闘争の指令が下りる。ここに武装闘争を明記した「50年綱領(テーゼ)」が生まれた。

 共産党は、暴力による権力の奪取を明言したことを、歴史から葬り去ったのだ。

 

 2 父の大学時代

 父が大学に入ったのは1930年、しかし2年後に退学している。在学中、社会運動に身を投じ拷問を受け、入院治療を余儀なくされたからだ。治安維持法下です。小林多喜二たちが殺されたのは1933年、というのは参考のため。そして4年後、再入学して無事に卒業している。

大学時代に知り合ったらしい、郡司次郎生。郡司の書いた『侍ニッポン』は、父の自転車に乗せられて観に行った。別の映画だが、本人直筆の写真が残っていた。

父の社会運動が一体どんな活動だったのか、今となっては知る由もないが、獄中にいる時に救援してくれたのが、渡辺政之輔の母親だったという。労働運動の渦中、台湾で警官隊と交戦し観念、その場で自殺したのが渡辺である。ついでながら、その漢字をひとつもらったのが、私の「政人」だと聞かされて意味が分かったのは、私が高校生の頃だった。

 卒業後、羽田精機という軍事運搬用車両を作る会社に就職したのは、1939年。そして4年後、母と結婚する。一体、父のような「前科者」のもとに、どうして関西の資産家の娘が嫁いだのか、これも分からない。媒酌人となった人は、たまに家を訪ねて来ていたので、そのいきさつを聞いたこともあった気がするが、記憶にない。きっと言葉を濁したんだと思う。結婚は5月3日。法学部を出た父の思い入れなのかなどと、いつも母と話した。

 そして5か月後、ふたりの男たちが、両親の住む社宅にやって来る。

 

 ☆後記☆

コロナのことを最近語らないがどうしたのか、と言ってくださる方が結構いるのですが、関心が薄いのは今に始まったことではないのです。ワクチンなんてもっと関心がない。通知来ましたけどね。あ、そうだ。繰り返しますが「基礎疾患をお持ちの方」って、やめて欲しいなぁ。ダイヤモンドを持ってるんじゃないんだから。「基礎疾患のある方」でいいんです。

早くお店を開かせてあげて、ぐらいは思います。五輪についても、どうでもいいや、という気分です。でも、何があってもなくても、誰かのせいにするのはやめたいですね。政治家はどうにも判断が出来ない。でも、「どっちかはっきりしてくれよ」というテレビからの声に、私はもっと我慢できない気がしています。

 ☆☆

4チャンネルの「オモウマい店」見てますか。番組が面白いのは、店の味わいもだけど、コメンテーターのヒロミがいいんですね。ああいう媚びない自然なしゃべりって、出来る人ホントに少ない。ヒロミよろしく! サラメシ負けんなよ!

子ども食堂「うさぎとカメ」、明日ですよ!


武道 実戦教師塾通信七百六十号

2021-06-11 11:21:26 | 武道

武道

 ~「平常心」の在り方~

 

 ☆初めに☆

大阪なおみ選手の発言をめぐって取沙汰されるのを見ていたら、武道を語りたくなりました。私は毎日、短時間でもいいという思いで、稽古をしています。身体はもちろん前のように行きませんが、道場の若い猛者相手も楽しみに思えるのです。コロナのおかげで、対面の組手(殴り合い/蹴りあい)の再開は遠いのですが、「勝つ」ではない「負けない」稽古は、確実に積みあがってる気がしています。

「自信」とは「意地」ではありません。「意地では勝てない」と言い換えてもいい。誤解を恐れつつ言えば、「平常心」は「メンタル」を意味しません。「嫌な質問にも耐えて、もっと自分を鍛える必要がある」という、大阪選手への「助言」に違和感を持った私です。

 

 1 老いた身体

 シニアの読者も多いはず。きっと役に立つ。

① 腰から肩へ

 前も言ったが、私は脊柱管狭窄症だ。9年前に発症した時は、激痛で歩くことも息をすることもままならなかった。私が30代後半の頃、これは遠からず歩けなくなるよと、当時お世話になった整形外科のお医者さんが腰のレントゲン写真を見て言った。考えてみれば、それから優に20年以上が過ぎたあとの発症だ。その間、ハリ治療や整体やと様々なメンテナンスをしながらだったが、よく持ちこたえたものである。10年前の発症の時、「あなたの筋肉なら大丈夫」というお医者さんからの言葉を励みに、リハビリを続け病気との向き合い方を学んだ。

 とりわけ年寄りの病気というものは、治るものではない。どうお付き合いするかというものだ。脊柱管狭窄症にはストレッチが不可欠である。それを怠らないことで、病の暴発を抑えた生活と稽古を続けている。昨年の秋、思い付きで懸垂を始めた。これがすこぶるよろしくて、重い腰が伸びて軽くなって行く。しかしやがて、今度は肩が重くなってきた。懸垂をやる歳じゃないからだ。それでも腰が重いよりはずっといい。張りが強くなるのも構わず懸垂を続けると、やがて腕が動かなくなった。整形外科に行くと、「五十肩」という診断がおりた。二十年以上前に過ぎた五十だが、「五十肩」は俗称だそうだ。注射だ手術だと必ず医者は言う。いつも言うように、身体に害のない治療などない。そうしないことで被る害の方が大きいために、仕方なくするのが治療という。自分ができる最良のことは、優しく戻してあげることだ。今は毎日、少しずつ肩/腕を伸ばしてあげること。焦れば痛めつけるだけで悪化する。お大事に、なのだ。

② 睡眠と呼吸

 シニアの読者は眠れてますか。夜中に何度も目覚めて悶々とする、とは良く聞く。「ラジオ深夜便」が人気なのも、そういう事情らしい。目が覚めれば、美味しいものや楽しみを想像するも、目がさえる。推理小説なんてものを読みだしたら最悪である。こんな時は呼吸を工夫すべし。人は生きるために「吐く」。吸うのではない。「息を引き取る」という通り、人は臨終で息を吸うと見える。「吐いて」「吐いて」と、いつもアドバイスしていたのは、キューちゃんの小出監督である。吐いた後、勝手に酸素は入ってくるから、吸うのは考えずともいい。吐いた分だけたくさん吸わないといけない、と思う必要はない。自然に入ってくる分だけ吸う。

 息を吐く時の注意は、吐き終わったと思わず、お腹の力でもう少し吐くこと。その後自然にまかせて酸素が入ったら、また同じように吐く。集中しないでいると、意外にできない。つまり、それ以外に考えることを許さない作業だ。しまった忘れたと思う時、実は眠気が襲っている。

 私たちはここで、前者は「逆らわない」ことを、後者は「集中」ではない「無心」というものを、一定だが経験している。

 

 2 「武」

 「武」は「矛」と「止」が組み合わされたものだ。つまり「剣」を「止める」ものとして、今も多くで使われている。「空手に先手なし」は、この「武」の精神が生きたものだと言われたり、自衛隊の元隊員や防衛関係のお役人なども、「刃を磨くことは許されても、使用することは決してならない」時のたとえとして使っている。それはそれでいいことで、ポリシーとして否定するものではない。しかしこの「武」が、戦闘/戦争を指すことは誰も否定しないだろう。「武」の漢字の成り立ちとして、もともと「止」の部分は「歩」を意味する。「剣が前進する」のが「武」なのだ。中国は春秋時代の後半に生まれた文学上で、この「止める」解釈が登場したらしいが、本来の「武」は、やはり「闘い」を前提としている。

 では武術家たちはどうしていたのだろう。剛柔流の祖・宮城長順のことで、いくつかのエピソード。

 沖縄の米軍基地に忍び込んで食料を盗む人たちは昔、それを泥棒行為ではなく「戦果」と言ってたそうだ。宮城は、山に行けば食べ物はある、武道をするもの盗みなんかしてはいけない、と言った。また、自ら「空手をやってます」とは決して言わず、人に見せない/見世物じゃない/自分で鍛錬していればいいとしており、酔っ払いのいる道は避けたという。「怖かったから」なのだ。お分かりの通り、「怖い」のは「自分の技が出てしまう怖さ」だった。この後者のエピソードに関しては当地でも批判があり、師匠と仰ぎ見ていた弟子が、見切りをつけたものもいると聞いている。

 この時宮城長順は、周囲の動向に全く動じなかったらしい。大阪なおみも、ぜひ「我が道」を行って欲しい。

 

 ☆後記☆

え~と、これ、ごひいきの「豆壱」記念タオルなんです。この6月で10周年なんだそうで、知らなかった。いわゆる「巣ごもり需要」とやらで、お店は売り上げが伸びたそうです。「自転車操業なんですけど」というマスターの顔は、笑っていました。

さてこれも、ごひいきの「和さび」の品々。アジとホタテとイカのフライセット。ホタルイカとミニホタテの炊き込みご飯。そして刺身セット。カンパチは、歯ごたえと脂の乗りのぶつかり合いのすごさと言うか、美味しい! 同じく、この6月で「和さび」は柏での開店7周年(前からも合わせると17年)なんです。テイクアウトでなく、店内でのお酒も遠慮なくという日が、あと少しで来ますように!

 ☆☆

最後に田村正和のことを少し。「キザが似合う」とは「一流のキザ」とは何ですか、と何人かの方から聞かれました。そうですね、二流のキザってのは、単なるナルシストです。表情のあちこちから透けちゃうんです。

初夏の手賀沼ジョギングロードで~す。皆さん、水分しっかり摂りましょう。


言葉の場所・下 実戦教師塾通信七百五十九号

2021-06-04 11:51:52 | 思想/哲学

言葉の場所・下

 ~気持ちのいい言葉~

 

 ☆初めに☆

大坂なおみ選手の記者会見拒絶に始まる大会棄権をめぐり、様々な意見が交わされています。ある日本国内のニュースは、彼女の「うつ病」なるスピーチが、本当は「うつ状態」と訳すものだったのか、あるいは診断書はあったのだろうかなどという取り上げ方をする。この人たちは一体なにをしたいのでしょう。拒絶や棄権の根拠を問いただし、オマエはファンや大会に責任があるというのに、と偉そうで悪意に満ちているのです。どこからも責任を問われないのをいいことに、無責任なおしゃべりをしているとしか思えません。大阪選手に海外アスリートからのサポートが次々に登場すると、これらが軌道修正されていく様は情なくもありました。

これひとつとっても、いま大切なものが何か、という視点が再考されねばならない気がしています。一体誰が敬われ何が大切にされるべきか、そのこと抜きに言葉を語ることはいけないと思うのです。見当違いの言葉の現状を、前回に続いて考えてみたいと思います。

 

 1 「忖度(そんたく)」ではなく

 日本語は日増しに成長している、大きくなるものは丈夫に育てねばならぬ、と言ったのは民俗学の祖・柳田國男である。柳田が次のような言葉を目にしたら何というだろう。

「以前の会社で勤めていただいているという現実があられるわけで……」

誰かの不祥事のニュースである。ニュースキャスターだったか解説者の言葉だ。先日耳にし、もう怒りを越えて笑いながら聞いた。話題に上せた会社は、解説者の会社ではない。つまり「私が頼んで勤めてもらったわけではない」。でも「勤めていただいてる」のだ。そして「現実があられる」。「現実」をなぜか敬っている。あるいは別な番組では、緊急事態宣言下の飲み屋街を「人がいらっしゃりません」などと言う。おそらく丁寧に言いたいのだろう。「いません」だったら「居りません」とすればいいのである。しかし「もっと丁寧に」という思いが、愚にもつかない道を歩く。丁寧に「居りません」とするのは可能だが、「いらっしゃる」は敬語だ。一体何を敬おうというのだ。ニュースの役割は、どうやら「伝達」より「敬う」が重要になったらしい。この優先順位の逆転によって、物事が伝わりにくく分かりにくいと感じているのは、私だけではあるまい。

 以前、雑誌の『AERA』だったかで、メディア上の「総理がおっしゃる」への違和感を取り上げていたと思う。「メディアの大事な仕事は『権力の監視』」という観点から、これが権力におもねる発言ではないかと批判していたようだ。しかし今、言葉は別な地層を作り上げている。起こっているのは「忖度」という次元でなく、もともとが「必要な相手への改まった物言い」という敬語の在り方が、いまや完膚なきまで食い破られていることだ。敬語はそういう意味で「非日常」のものである。それが「日常語」に成り下がっている現状が、上記のような例なのである。

 

 2 「古典」

 江戸の落語『時そば』は、今も一字一句違わず語られる。それでもその語りには平凡非凡があり、素人と名人がいる。観客はそれに応じてある時は笑い、ある時は席を立つのだ。お笑い芸人又吉の『火花』に、

「……ほんまにやっても誰も笑わへんから、それくらいの本当の気持ちで、子どもも大人も神様も笑わさなあかんねん。歌舞伎とかもそうなんや」

というくだりがある。古典とは繰り返してきたものであり、繰り返しの試練に耐えたものである。そして、子どもから大人までの鑑賞に応えられたものだけに与えられた称号である。子どもを相手にするものを作るのだったら雑作もない、と言える甘いものではない。子守唄代わりに聞かせるものでも、そこを流れるリズムや色彩、そして深い影を落とす筋書きによって、「繰り返し」の試練に耐えるものが出来上がる。あるいは「繰り返し語ろう/聞こう」という気になるものが生まれる。それを怠って「分かりやすい」道を選べば、子どもさえ興味を示さないものが生まれる。それで仕方なく、これでもかというような過激な筋や言葉で無理やり気持ちを引こうとする。これはつまり、残酷や露悪を一途に走る、現在の一部路線をあらわしてもいる。

 『となりのトトロ』が古典と言えるのは、そこにメイの夢と安心があり、もうすぐ大人になるさつきの不安と自立があり、子どもたちに愛を注ぐ大人たちが同居しているからだ。そこに森と集落の生態/生活が、周囲にずっしりと広いすそ野を広げているからだ。「子どもも大人も神様も」みんな一緒と思える世界なら、そこで言葉は大切にされる。人を笑うのでなく共に笑う大切さが、そこで生きている。神と仏と年長者を大切だ、と思うのが「敬う」ことだとして生きている。まさに「敬語」も、こんな中で生きて来た。今や同輩や同僚の間でも徘徊する勢いとなった「敬語」は、もはや別なものに成りすましている。何よりもおそらく、私たちは「敬う」ものを喪失しているのだ。

 しかし、手掛かりがないはずがない。繰り返し姿を見せる肯定的な姿は、例えば、ベース上でさりげなく会釈するオオタニさ~んであり、子ども食堂での、子どもたちの「うれしい」というつぶやきがそうだ。それらのひとつひとつこそが、「丈夫に育って欲しい」と思うのである。

 

 ☆後記☆

ライオンズクラブから、45周年イベントの一環で、玄米が60キロ届きました。ありがたい! そしてありがとうございます! 大切に使います。

そして、今月の「うさぎとカメ」は、焼きそばです。目玉焼きを乗せる予定。どうぞ、おいで下さ~い。

 ☆☆

お陰様でこのブログも、PVがあと少しで100万を数えます。でもお気づきの通り、気持ちの良くないコメントが続いています。反論した方がいいのではないか、と言ってくださる方もおります。このコメント氏は、この10年にわたって、多く場合、元◇◇という様々な姿を装って投稿してきました。もう中年の域を越える女の方です。別件でだいぶ以前、男の方で宗教の言葉を繰り返す方もいらして、その時一定期間、コメント欄を閉じました。今回もそうしようと思います。バックナンバーに投稿することは可能なので、彼女はそうするかも知れませんが、仕方ないです。

申し訳ありませんが、しばらくの間、感想はメールでお願いします。皆さんそうされてます。私の判断でそれをブログで紹介するというのも、今まで通りさせてください。メールアドレス、書いておきます。よろしくお願いします。

kotoyori.masato@lilac.plala.or.jp