父と母の路(2)
~「最後の皇帝」の弟~
☆初めに☆
戦時/戦後のことに関心をお持ちの方、結構いらっしゃるのですね。感想をありがとうございます。私も母も恥ずかしい勘違いをしていました。両親が結婚した時代の5月3日に、憲法記念日はなかった。当たり前です。それを私たちは「父のこだわり」などと勝手に思っていた。私はともかく、母はどうしたというのでしょう。戦後の憲法がすっかりなじんで、結婚記念日と結びつけることになったのでしょうか。私たちが話すかたわらで、父は困った顔して何十年も笑っていたのかもしれません。ご指摘ありがとうございます。それにしてもこれは、面白い偶然ですね。母は「新しい憲法」読本を、幾重にも包んで大事に持っていました。
1 薄茶色のレインコートの男
母がいつも思い出すことと言えば、という枕詞のような話。
母の話は間違いなくこの時期だった。前回書いた羽田精機の社宅で、出征する社員の壮行場面。たすきはおそらく日の丸、それをした方が戦地に出向くのだろう。その隣、写真で言うと左から二番目が父である。
母はお決まりのように、この時の話を治安維持法犠牲者を悼む集会や歴教協(歴史教育協議会)、そして母親大会などで話した。以下は20年ほど前の、茨城県龍ヶ崎市発行「戦争体験記」に寄せた母の原稿である。一部を抜き書きます。
(五月に結婚し)……十月になり叔父叔母の元へ里帰りをしようということになり、切符を求め、お土産に竜ケ崎の野菜を送り、明日は出発だからと夫は夜七時ごろ床屋に出かけた。
それから少し経った頃、玄関に人の声がして、出てみると知らない人が一人薄茶色のレインコートを着て立っていた。
「ご主人おられますか」と言うので不在を告げると、「どこに行かれましたか」という。私はこの時行き先を言いよどんだ。何となく言いたくなかったからだ。客は急用なので行く先を教えてほしいと何度も言うので、私は威圧感を感じ、行き先を告げた。客は頭を下げ、やっと帰ろうとしたので私はいつものように客を送って玄関の外に出て見送ったが、一人だと思った客は実は二人だったのだ。二つの自転車の影が角を曲がって行ったのを私は確かに見たのだ。「何なのだろうか、一人ではなく二人だったんだ」自問自答しながら不吉な予感が私の頭の中を走った。
それから少したって夫は普段と変わらない様子で、でも私にはすまなそうに「会社の急用で明日の大阪行きは中止になったよ、仕方がない、もう少し先に延ばそう」と言った。私はがっかりしたが会社の用事では仕方がなかったのだ。
読者も察したはずだ。両親の兵庫・西宮行きは、直前に薄茶色のレインコートの男たちに阻止されたのだ。戦後しばらくして、我が家に人が集まった時、父がこの時のことを話したらしい。それを母が小耳にはさんだ。それは両親、いやこの場合は父親だ、父親の乗る列車は、満洲国皇帝の弟が上京する列車とすれ違うものだったという。特高(特高警察)が動いたのだ。父の話す顔は笑っていたというが、母の「身の毛もよだつ」記憶がここで刻まれる。
2 『ラストエンペラー』の弟
特高は、満州の皇帝・愛新覚羅溥儀の弟である溥傑が乗る特別列車に対し、父が何かしでかすことを予想し、阻止すべく手を打ったのだ。私が成人して後、ソ連(現ロシア)や共産党、そして満州のことを少しばかりかじったわけで、この時の出来事を母に説明する成り行きとなった。特高がやったことは「冗談ではない」んだと。彼らは、父が爆弾を放り込む可能性さえ考えていたはずだ、と。しかし、これは間違っていた。私の思い込みの強い頭は、この事実を共産党が武装闘争を掲げた「50年綱領」の時期に重ねていた。今思えば恥ずかしい、極めてアマチュアな質問を満州の研究者にあたったりした。50年という時には、現在の中国が建国されている。この時期、溥儀も溥傑も「再教育」を受けているのは、文献上でも、映画『ラストエンペラー』でも明らかだ。この時日本に溥傑はいませんよ、と研究者はあっさり言った。母の残した記録をきちんと読めば、この「身の毛もよだつ」出来事が、前回の記事で報告した通り、1943年だったことは明確だ。大体が戦後、特高は治安維持法とともに解体を命じられている(直後、これに代わる公安警察が出来るが)。
戦時中なら、溥傑は確かに日本にいた。太平洋戦争が勃発した翌年までは満州にいたが、溥傑は日本の陸軍大に入学する1943年から次の年の1944年まで、一年間だけ日本にいた。当時、満州から東京へは大連から神戸が船、そこから東京まで列車で向かうというのが大体のルートだった。偶然だろうが、両親は溥傑の乗る列車とすれ違うはずだった。特高がそれで動いた。
しかしこの時、父に何かを「しでかす」気はなかったと思っている。この時期、共産党は壊滅状態だった。主な指導者はソ連に逃げたり、投獄されていた。あるいは、左翼から足を洗う「転向」をしていた。1936年の4月、父が大学へ再度入学したのは、2,26事件から一か月後だ。それから3年間という期間、日本は激動のさなかだったが、父の人生では一番平穏だった期間ではなかったか、と思っている。
父の謎は、軍需産業・羽田精機が解散を命じられた1947年以降、もっと深まる。この年、父は共産党に入党する。
☆後記☆
こども食堂「うさぎとカメ」、久しぶりの焼きそばでした。手際は慣れたものとなり、スタッフの増員もされました。
「ありがとうございました」「また来てね」 このやり取りが嬉しいです。
一番手前の段ボールは、コンニャクです。
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昨日から福島にいます。県境越えましたが、いいですか。3か月ぶりとなります。楢葉の渡部さんのおばあちゃん、ワクチンをすでに2回打ったそうです。元気ですよ~
我が家の庭。椿の枝を全部払ったら、初めてこんなに元気に咲きました。