実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

学習の遅れ 実戦教師塾通信七百十五号

2020-07-31 11:25:44 | 子ども/学校

 学習の遅れ

 ~振り回されることなく~

 

 ☆初めに☆

東京五輪も夏休みも始まっていたはずの7月。今月、寄せられた相談や報告に「学習の遅れ」は外せません。保護者だったら気持ちも分からないではないのですが、これは現場での切実な声なのでしょうか。いま現場から聞こえる困惑の多くは、3カ月にわたる「巣籠もり」で培(つちかわ)われた、子どもの生活リズムではないかと思えます。

でもメディアは、この「学習の遅れがもたらす重大さ」を垂れ流し続けています。それでなくとも余裕のない家庭や、メディアからの煽(あお)りを少し軌道修正しなきゃと思っている現場のために、「長い目で見た」観点と正直な現実を書きたいと思います。

 

 1 何のために

 今でも子どもたちは、思い出したように「何のために勉強するのか」という問いを、私たちにぶつけて来る。それに対して私たちは、将来のため(仕事のためとかいつか役に立つときが来る)とか、恥をかかないためだ等という答を提供して来た。ほとんどの大人は、この解答を信じてない。どれをとっても「その時でも遅くない」からだ。そして、経験上「そんな時が来ないとやる気が起きない」と分かっているからだ。子どもたちの九九だの漢字だのという次元での「何のために」は、大体が「つまらない」という意味だ。これが因数分解だの東学党の乱だのという段階では、「いい加減にしろよ」「こんなのと付き合っている意味があるのか」というレベルになっている。

 私はこの類の質問には「ひと通りやってみるもんだ」「やってみて初めて興味がわくこともある」と、答えてきたし答えている。歴史や天文や古文もそうだが、サッカーもマットも剣道も、「ひと通りやってみるもんだ」というのが、義務教育の柱になってるんだと答えてきた。ひと通り眺めて見ないことには、好きも嫌いもないということだ。でも、嫌いならさっさと見切りをつけてもいいが、やってみると案外面白いんだぞ、と言ってくれる先生に出会ってたらキミはラッキーって感じ。子どもを好きでないと「さっさと見切りをつけてもいい」とは言えないし、自信がないと「やってみるのもいいと思うよ」と言えないからだ。その点でも、先生というものは「子どもが好きかどうか」がポイントだ。「ちゃんと見てくれている」安心感は、親や本人にしっかり伝わる。

 「さっさと見切りをつけた」場合に将来が絶望かと言えば、現実はそうなっていない。大切なことは、苦しみから解放されるため「見切りをつける」行為があるかどうかだ。そのことを周囲が理解するなら、つまり、この子は楽しく生きてるじゃないかとか、絵が好きみたいだしと大人が思えるなら、その子に心配はない。成績に関しても、「1」さえなければ是非うち(高校)に来てください、などというケースもある。まあ、今や成績に「1」を付けることは「御法度(ごはっと)」となっている。これは「そんな生徒でなければ」という確認だ。それで大学生が分数の計算も出来ないという悲劇が生まれる、などということではない。それは、使う機会が全くなければ記憶や技能として残らない、という出来事にすぎない。

 「いま現在、絶対習得すべき」ものは何かと考える時、以上のような視点も必要と思われる。

 

 2 心配することではない

 では実際、どのように学習の遅れが危機的なのか考えてみよう。私のことから話しましょう。国語。欠かせないと思われるのは、漢字と古文(漢文も)。あとは無くしてもいいとまでは言わないが、かなり精選可能だ。文法? このカテゴリーの疑わしさは、相当浸透しているらしい。今や昔大騒ぎした「ら抜き言葉」はどうやら承認ずみで、巷(ちまた)を闊歩しているし、さ行変革活用が一体にどんな根拠があるのかというあたりのせいなのか、入試に文法問題はとんと見当たらなくなった。ついでに敬語はどうか。昔、三つに分類されていた敬語は、今はなんだか五つだったかな、ひどいものだ。「おビール」なんてのも敬語に入れようって、信じがたいことやってる。そんなことやってるから、日本人は「させていただきます」を、何も考えず使う民族に成り下がったと言える。

 文学的文章。分かると思うが、この学習で感性や人間が育つわけではない。好きな子は藤井君のように、言われずとも日々積み上げ構築する。嫌いな子は作者の写真にヒゲや眼鏡を入れ、パンチパーマにしている。断るが、私はこの領域を好きですよ。精選しない。他を削っても入れ込んできた。まぁ今となっては後悔している、魯迅(ろじん)の教材「故郷」というのもあったが。退屈でたまらず、魯迅には申し訳ないことをした。中国の民衆への愛情とあきらめ、そんなものを抱えて書いていたことを、私はずっと後で知る。

 説明文もしかり。これは言ってみれば全教科に共通した領域で、訓練はそこここで行われる。国語も一緒にやってます、というのがこの領域だ。以上。国語で「学習の遅れ」を心配することはない。つまり小学校の先生は、教科間で時数をやり繰り出来るということでもある。小学校の先生に実際聞いてみたが、そういう答である。当たり前だ。

 昔は明治維新で歴史を終えたなんていう話はざらだったが、今は現代史も結構重視されている。でも対応は十分可能だという社会の先生である。さて、ニュースで繰り返し取り上げられるのは数学、単元は「三平方の定理」である。これが消化できずに卒業する恐れがあるという。たくさんの先生にうかがったが、これだけは意見が分かれた。数学に関しては判断が難しいようだ。それを土台にニュースにしている、ということのようだ。まぁでもほとんどが「どうにかなる」状況だ。心配することではない。あ、英語理科の先生、ちゃんと意見いただいたのに、はしょってすみません。

 いつも言うことだが、大人の仕事は、子どもに「何を焦ってるの?」「大丈夫だよ」と言ってあげることだ。

 

 ☆後記☆

大相撲、ここに来て目の離せない展開となりましたね。磐石(ばんじゃく)と思われた白鵬が、まさかの連敗。休場するんじゃないか、なんぞという勘繰りをする輩(やから)もおります。見てなさい、今日から三日間のドラマを。って書いたんですが、いやあ白鵬、そのまさかに! 以上、慌てて追記しました。

隆の勝も、星を並べた。あと少し!  オオタニさ~ん、やりました!

かわいいでしょう? 我が家の満開ですよ。

 ☆☆

少女の慰安婦像に土下座する安倍首相? ニュースを見て、私、笑っちゃったんです。まずいかな? 思い出します。ブルースリーが大ブレークした1970年、『ドラゴン怒りの鉄拳』は、日本が上海を統治していた時代を背景にした映画です。街をわがもの顔で歩き威張り散らす日本武道家を、リーがこてんぱんにするというもの。この映画に行列する日本人でした。みんなリーの虜(とりこ)になってただけなんです。一部の「国辱(こくじょく)映画に何をエキサイトしてるのか」という声は、かき消されてましたねえ。


とうかつ草の根フードバンク 実戦教師塾通信七百十四号

2020-07-24 11:22:31 | 子ども/学校

 とうかつ草の根フードバンク

 ~「選ばれる」方へ~

 

 ☆初めに☆

このブログの読者はご存じと思います。フードバンクは、寄付などで寄せられた食材をストックし、食事/生活に困っている家庭に配布するところです。それが昨年の11月、千葉県は流山に作られました。見学してまいりました。

私たち「うさぎとカメ」のメンバーは4人だったのですが、あちらの事務局の方は7人の大人数で待ってくれておりました。この人たちは「私たちはいつも倉庫番をしているわけではないし、それが出来るわけでもない」という人たちです。この日は、わざわざ来てくれたのです。ここにぜひ掲載しておきたい、参考になる意見や考えをたくさん聞くことが出来ました。

 

 1 コロナ騒ぎの中

 東葛という区分は、千葉/東京/埼玉にまたがる下総の葛飾が、西は「葛西」南が「葛南」、そして「東葛」がそのひとつとなったものだ。やけに大風呂敷を拡げてしまったが、全国の読者のみならず、地元の方にも知っていただきたく思ったわけです。ちなみに、このエリアは松戸/柏/鎌ヶ谷/我孫子/流山/野田の六市を統括する。

 とうかつ草の根フードバンク(以下「とうかつ」と表記)は、流山電鉄の鰭が崎駅から徒歩で数分のところにある。昔、江戸川の舟運(しゅううん)で栄えた周辺エリアは、今や車でないと移動や運搬は難しい。古い町並みと新しい住民の住まい、そんな新旧入り交じった風景の中に、フードバンクはあった。

入口。この倉庫のひさしには、釣り舟がぶら下がっていた。舟運の名残かと思ったら、伊勢湾台風(1959年)で江戸川があふれたそうで、という説明だった。

 野菜や即席麺や缶詰が積まれる中、米は蔵と専用貯蔵庫にあった。

扉の奥に米が見えます。

フードバンクは元来、生活保護や就学援助を受けている家庭を対象としたものである。この「とうかつ」も、そんなスタートだった。それが、コロナ騒ぎの中で、余った食材を大切にしたいと思う企業や何か出来ないかと思う人たちが、「とうかつ」に多くの物資を寄せてくれた。それらの善意が、時には12t(だったと思う)にも及んだという。そこで、食材がこんなに潤沢だったら子ども食堂でも活用出来るのではないか、と考えての新しい路線だったらしい。

各市ごとに受け付けた品物を置く棚。笑っているのが事務局長の高橋さん。

 

 2 ベンツに乗って

 高橋さんは東葛地域で、子ども食堂の草分け的存在とも言える方である。子ども食堂が全く認知されていなかったその頃、一体何のことかと、まわりから怪訝(けげん)な視線を集めたという。以下は、高橋さんや各エリアで子ども食堂をやって来た方々の経験、またそれで築き上げられた考えである。

 「本当に困っている子」に「届いているのか」、彼らは「来ている」のかということが、良く議論になる。私たちもしかりで、当の子どもたちからもそんな声が届いていることは、すでにお知らせした通りである。ベンツで子ども食堂にやって来て食べていく親子がいるが、あれはいいのかという話し合いがされた子ども食堂もあったそうだ。結論は、

「私たちは選ぶ側にはいない。選ばれる側にいる」

だった。この言葉が、この日の私たちの一番の収穫だと思っている。ベンツに乗っていれば、お金に不自由がなければ幸せなのか、そしてそんな子どもたちは「困ってない」のか、そんなはずはないという結論である。わずかばかりでも、そんな子どもたちの居場所になれれば、という思いが語られる。そこには来る子が100人とかひとりとか、そんな比較は必要がない。同じく月に一回とか週に一回という比較もいらない。

 ここまで聞いて、子どもが食事を待っている間、宿題をしたり折り紙をしたりというプチイベントをしている子ども食堂が多いことを、私は思い出した。私の知る学校だが、子ども食堂を学校で展開している。学校で子ども食堂など、普通は出来るものではない。全国的に見ても稀なこの子ども食堂には、ボランティアの美容師が来て、子どもたちの髪を切ることもある。「わずかばかりでも」という思いが、これらにはあるんだと思う。

 広報のチラシは一回しか実施せず、あとは口伝えで拡がるのを待っているという団体もあるようだ。私たちの経験で言うと、大手の広報機関と言うか、つまり「学校」へのチラシ依頼で多くのことを知ることになったと思っている。ひとつに、理解のある学校経営者=校長と、そうでない場合の対応の違いを知ることが出来ること。理解ある例としては「こういう子が行くと思いますが」という、心配ともお願いとも思える言葉に遭遇することもあった。煙たがる場合は、私たちが学校を見守る、時によっては牽制(けんせい)する存在としてアピールするようなのだ。これからも続けていこうと思う。

 お礼のあいさつに、笑顔が返される。暑い日曜日だった。その日差しは、もう西に傾きかけていた。

 

 ☆後記☆

相撲、始まりましたね。そして隆の勝、ついに白鵬との初対戦。どっちを応援するかって? いや、だいぶ前から「勝敗」よりも「勝負」、つまり相撲の内容を見るようになりました。隆の勝が上手をとらせず腕(かいな)を殺したのは立派。そして、自分の流れを封じられた後、すぐに切り換える白鵬は、やっぱりすごい。相撲、始まりましたね!

ホンダも頑張れ! レッドブルと組んでから、チームが噛み合っている。次こそホントに優勝ですよ。

 ☆☆

一年に一度のぜいたく。大串! 生ビールともずく、川えびです。


双葉の学校 実戦教師塾通信七百十三号

2020-07-17 11:35:18 | 福島からの報告

 双葉の学校

 ~事故から変わらない場所~

 

 ☆初めに☆

昨年10月以来、8カ月ぶりで楢葉南小・北小にお邪魔しました。いつも、開かずの門の方に行ってしまいます。でもこの日は校庭にいた女の先生が、車をバックしようとしていた私に手を振って、中に案内してくれました。昼休みなんでと、マスクの下で笑いました。

門を入ってすぐのところにある玄関前の花壇。中央の木は「楢」でしょうか(「ゆずりは」だったようです)。

 

 1 「浪江の小学校」

 時間を割いてくださった校長の堀本晋一郎先生は前日、県の校長会だった。資料を見せていただけた。表紙は、私が昨年いただいたものと同じものだった。「昨年と同じなんだ。そこが大事だ」と、表紙が語っているように思えた。先生は、資料をめくり噛みしめつつ話した。昨年聞いたことと同じものもあった。しかし、私は初めて聞くような気持ちで聞いた。校長室には、中庭から子どもたちの元気な声が、絶え間なく響いていた。

去年の676号にも掲載したが、もう一度見てもらいたい。悲しみの表紙。一番下の「休校」という表記。昨年も聞いたが、今回先生から同じ話を聞いて、ようやくその一端を見たように思っている。浪江町は小学校が6つ、中学校は3つ。たくさんの子どもたちがそこに通っていた。原発事故を境に、それらはすべて臨時休校となる。その後6つの小学校はひとつとなり、二本松市の廃校になった校舎を借りて再開する。名前は「浪江の小学校」だった。「浪江小学校」ではない。そこには請土小や大堀小の子どももいたからだ。これが時を追うに従い、「浪江」と「小学校」の間にあった「の」が消えていく。どうしてそうなったのか私などは知る由もない。繰り返すが、みんな「浪江小」に所属していたわけではない。ある子どもたちは幾世橋小にいた。あるいは苅野小にいた。「そこに自分たちがいた」という気持ちを支えていたのは、「浪江の小学校」の「の」だった。それがなぜか、いつの間にか消える。「浪江小学校」以外の「浪江の小学校」の住民、そして在校生である子どもたちの精気がそがれていく姿は、想像するに難くない。

 二年前、避難指示が一部解除された浪江町で、新しく『なみえ創成小学校』が開校した(同じく表紙の上部記載)。臨時休校措置から、浪江ではない二本松で新しい学校生活が始まり、それがもうすぐ終わる。浪江の小中学校は、原発事故前には約1900人が在籍していた。『なみえ創成小学校』の在校生は、現在19人。このふたつの数字の間には、私たちの知らない深い悲しみが、きっと横たわっている。

 

 2 「津島小学校」

 前もこの小見出しで記事を書いた。今回、校長先生は、

「津島小学校は今年度で休校になるんです」

私の顔を見ながら言った。前回と同じく詳細は書けない。でも経過は多少書こう。前も書いた。二本松に居住しながら、地元の小学校、あるいは前記した「浪江の小学校」を選ばず「津島小学校」に通うことを強く望んだ人たちがいた。行政は、浪江町津島地区の「津島小学校」を「浪江の小学校」の中で再開させた。この6年生の子どもが、来年の春卒業する。「津島小学校は休校になるんです」、校長先生はもう一度言った。「津島小学校」に、在校生はもういないからだ。

 原発事故が起きて半年後の8月末、休校していた浪江の学校が再開する。今回卒業する6年生は、その時はまだ学校に通う年齢ではなかった。近所の子と言っても、みんな二本松の一カ所にまとまって暮らせたのだろうか。その子どもたちが通う学校ではなく、「津島小学校」に通いたいという希望は、どんな経過で生まれて来たのだろうか。5年生以下の子どもたちは、誰もついて来なかったのだ。「津島小学校」の子どもはみんなと別な学校に行き、夕方はまたみんなの暮らす場所へと帰ってくる。どう見ても喜びの風景ではない。一体何があったんだ、昨年と同じ言葉が、私の口からもれる。津島小学校は休校になるのか、そう思った。

 事故から全く変わらない場所、私たちはそれを知らないといけない。

 先生、身体にくれぐれも気をつけてください、と玄関前で言う私に、

「琴寄先生も頑張りましょう」

思いがけない校長先生の言葉に、私は背筋を伸ばす。そのまま出ようとする私に、事務員さんたちが肩のあたりで両手のこぶしを握って激しく揺らしている。鈍感な私の首には、来校者用の名札がぶら下がっていた。

 

 ☆後記☆

気がつけば、二時間近くが過ぎていました。まだ報告したいことはたくさんあるのですが、次の機会といたします。この春に堀本校長先生、退職なのです。退職前にもう一度うかがいます、と言ってきました。

 ☆☆

子ども食堂のお知らせです。お近くの方、良かったらいらしてください。

先週半ばぐらいから、左半身一体のリンパ節が腫れてミシミシと痛みだしました。これはいよいよお迎えが来たかなぁなどと恐る恐る病院に行ったら、いやあ「帯状疱疹」でした。良かった! また生き延びました。

藤井君、ついに偉業達成だ。いつかこの日は来ると思ってたけど、すごいなあ。

いいニュースだ、私も頑張ります!


空襲より 実戦教師塾通信七百十二号

2020-07-10 11:19:45 | 福島からの報告

 空襲より

 ~牛肉・牛乳、そして戦争~

 

 ☆初めに☆

5カ月ぶりの福島です。迷惑になってはいけないと思っていたら、こんなに日数を数えてしまいました。

「キャンセルが相次いだ一方で、帰省先から『帰ってくるな』と言われ、会社からは『帰ってはいけない』と言われて宿泊を重ねるお客さんもいました」

とは、私がいつもお世話になっているビジネスホテルのフロントさんです。福島で「足止め」された人たちもいたのですね。お客さんは6月に少し戻ってきましたという声は、分厚いアクリル板の向こうからマスク越しに届いて来ます。なんだか懐かしくて、話が弾みました。

 

 1 牛の農家

 宿泊業や外食産業が軒並み休業する中、牛肉は大変な打撃を被っている、というニュースもあった。実は5月ごろに、余計なお世話と思ったが、私は楢葉の渡部さんに少しばかり連絡を入れた。しかし一向に返事がなかったので、おっかなびっくりでの今回の訪問だったのである。

庭のハウス。収穫された玉ねぎ。向こうはこれからのカボチャ。

大丈夫だよと言う渡部さんである。こういう時には補助金が出て、農家はちゃんと守られるんだと。今回の補助は、牛を大きくする肥育農家が対象だという。しかし、渡部さんは牛の数を増やす繁殖農家である。確かに4、5月は良くなかったけど、心配ないという。補助金をバックにした肥育農家は、繁殖農家から相場で子牛を買い取るから、というのだ。この話を真に受けていいものだろうか。お金はちゃんと回るのか。補助金は折半でという方が、よっぽど理にかなっているんじゃないかと思う私だった。

大丈夫ってホントなんですかね、私は、かたわらの奥さんとおばあちゃんの方を向いて言う。ふたりは、う~んと言って渡部さんの方を見るのだ。

変な写真になってしまいましたが、生まれて間もないオスの子牛。オスの方が値がいいそうです。肉の付きがいい、というのが理由。ちなみに、松阪牛はメスだそうです。

 では酪農家はどうか。休校措置に伴い給食がストップし、牛乳を供給していた酪農家を直撃している、というニュースを読者もご存じと思う。酪農家が牛乳を捨てているとか、廃業するというニュースだ。蛭田さんところは大丈夫なのだろうか。渡部さんははっきり言った。

「牛乳は心配ねえ。捨ててねえ」

だぶついた牛乳にはバター・チーズ、そして加工乳(コーヒー牛乳等)という道があるからだ。これらには牛乳と違う長い賞味期限がある。ニュースはいつでも一番ひどいところを取り上げ、危機感を募らせる。それは大切なことではあるが、情報は正確さが第一だ。報道の姿勢を、ここでも教えられた気がした。なるほど。しかし、と私はいぶかる。チーズやバターもいつも以上に生産される。やっぱり、過剰なストックになるのじゃないのだろうか。

「県産牛価格が下落」

とは、この翌日の『福島民友』の見出しなのだ。余計なおせっかいと思いつつ、今後の様子を見て行かないと、と思った私である。

 

 2 空襲より大変だ

「震災で逃げるってばオメエ」

おばあちゃんが話し始めた。この日、当たり前かも知れないが、家の中で誰もマスクをしてなかった。遠慮して私は最初していたものの、キュウリの梅カツオ漬けが出されたもので、途中から外した。いつも通り、おばあちゃんは結構激しい咳をするのだが、コロナじゃねえんだ、と笑って話すのだ。

 息子(渡部さんのこと)は消防だからワッしらとは別だった、ワッしらは始めはいわきの体育館で、それからはもうわけが分かんねえ。逃げるってば、昔はこの辺りも空襲でよ。この辺りはまだ良かった。南のいわきの空が夜に真っ赤になんだ、北の方は鹿島(南相馬の鹿島地区)の空が真っ赤でよ。空襲警報があれば、アタシらみんな、上繁(地区)の坂を上って降りて。いや、上繁の坂を降りるとお日様が西から昇るって前から聞いてて、そんなバカなって思ってたけどよ、ホントにアタシら、西から日が昇るのを、そん時見たよ。

 うまく聞けたか定かではないが、坂の勾配と空襲から避難する時の恐怖が、「西からの日の出」を経験したのだろう。まだ十代だった、きっととびっきりかわいかったおばあちゃんが、坂を走り降りて逃げていく。でもよ、おばあちゃんが続ける。

「空襲はまだ良かった。二年で終わったんだ」

「原発事故から逃げるのは二年で終わんねがった」

始めは隣接するいわきへ、そして県外をあちこち逃げた後は会津に。それからまたいわきに戻り、という目まぐるしい避難生活は、空中に拡がる放射性物質の数値とにらめっこしながらだ。道の渋滞と放射能の「空襲」におびえながら、それは行われた。

「空襲より大変だったんですか」

やはり私は確かめずにはいられなかった。やっとここに戻って来れたよ、おばあちゃんがキュウリをつつく。

 

 ☆後記☆

庭の畑はナスと左側はターツァイだったかな。

今年はありつけなかったコシアブラとタケノコ。残念で、という私に、ウマかったよ~と笑顔の奥さんとおばあちゃんでした。この日は大根と玉ねぎを、お土産にいただきました。

この翌日、小学校に行って、また校長先生にお付き合いいただきました。次回にレポートします。

 ☆☆

洗濯物がたまってなどという嘆きは、九州の人たちを思えば、罰が当たりますね。コロナから大雨と、ニュースにろくなことがない。こんな中、光をくれるのは藤井君ですね。昨日は負けたけど、「(ミスも)今の自分の実力だと思う」といういつものコメントが、この次を楽しみにさせてくれます。

ウチの梅?だと思うんですが、なぜか今年は豊作です。ジャムにでもしようか。


佃島 実戦教師塾通信七百十一号

2020-07-03 11:35:03 | 思想/哲学

 佃島(つくだじま)

 ~吉本隆明の足跡~

 

 ☆初めに☆

月島に用があった(もんじゃ焼きではなく)ので、ずっと行きたいと思っていた佃島まで足を伸ばしました。

佃大橋から勝鬨(かちどき)橋方面を臨む。

吉本さんの東京と言えば、木場/佃島/月島界隈(かいわい)、そして根津/谷中界隈です。谷中方面は何度か立ち寄りました。このエリアは初めてです。吉本さんの詩を省略しながらの引用には、大いに後ろめたさを感じつつ、それらが生まれた場所を確認したいと思います。

 

 「涙が涸(か)れる」

けふから ぼくらは泣かない

きのふまでのように もう世界は

うくつしくもなくなつたから そうして

針のやうなことばをあつめて 悲惨な

出来ごとを生活のなかからみつけ

つき刺す………… 略 …………

  佃川支川(隅田川)をはさんで、佃渡し跡方面。右手が佃大橋。

とほくまでゆくんだ ぼくらの好きな人々よ

嫉(そね)みと嫉みとをからみ合はせても

窮迫(きゅうはく)したぼくらの生活からは 名高い

恋の物語りはうまれない………… 略 …………

 

 「少年期」

くろい地下道にはいつてゆくように

少年の日の挿話(そうわ)へはいつてゆくと

語りかけるのは

見しらぬ駄菓子屋のおかみであり

三銭の屑(くず)せんべいに固着した

記憶である

幼友達は盗みをはたらき

橋のたもとでもの思ひにふけり………… 略 …………

  吉本家御用達の「天安」。天保より続く佃煮の名店。私もこの日、「醤蝦(あみ)」の佃煮を買いました。

仲間外れにされたものは

そむき 愛と憎しみをおぼえ

魂の惨劇にたえる

見えない関係が

みえはじめたとき

かれらは深く訣別(けつべつ)している………… 略 …………

 

 「少女」

えんじゅの並木路で 背をおさえつける

秋の陽なかで

少女はいつわたしとゆき遇うか

わたしには彼女たちが見えるのに 彼女たちには

きつとわたしがみえない………… 略 …………

  こんなのもありました。都知事選ポスター。

なにか昏(ねむ)いものが傍(そば)をとおり過ぎるとき

彼女たちは過去の憎悪の記憶かとおもい

裏ぎられた生活かともおもう

けれど それは

わたしだ

  佃島・佃町

生れおちた優しさでなら出逢えるかもしれぬと

いくらかはためらい

もつとはげしくうち消して

とおり過ぎるわたしだ………… 略 …………

 

 「佃渡しで」

佃渡しで娘がいつた

<水がきれいね 夏に行つた海岸のように>

そんなことはない みてみな

繋(つな)がれた河蒸気のとものところに

芥(あくた)がたまつて揺れてるのがみえるだろう

ずつと昔からそうだつた………… 略 …………

  中央大橋付近から、再び佃大橋方面を。

橋という橋は何のためにあつたか?

少年が欄干に手をかけ身をのりだして

悲しみがあれば流すためにあつた

  住吉橋から住吉川を臨む。

<あれが住吉神社だ

佃祭りをやるところだ

あれが小学校 小さいだろう>………… 略 …………

 住吉神社。茅(かや)の輪がありました。この時期「夏越の祓(なごしのはらえ)」といって、茅の輪くぐりでおはらいをします。私もして来ました。

あの昔遠かつた距離がちぢまつてみえる

わたしが生きてきた道を

娘の手をとり いま氷雨にぬれながら

いつさんに通りすぎる

 

 大学闘争の頃です。『少年期』の「見えない関係がみえはじめたとき かれらは深く訣別している」というくだりに、私たちは衝撃を受けていました。それは仲間や友人、そして同士というものへの省察だと思っていました。これがもっと深いところから出ているのではないか、と思うようになったのは、大学生活も終わりの頃でした。

 吉本さんは、私たち学生の闘争を全く評価していませんでした。まず理論的なものとして、従来の枠を出るものはひとつもなかった。吉本さんは、闘争を「紛争」と呼んでいたくらいです。ただひとつ、私たちには「行動のラジカリズムがある」としていました。例を挙げれば、私たちの教授会との団交の場があげられると思う。

「先生、あなたは大学への機動隊導入に賛成したのですか」

『それは教授会が決定したものだ』

「そうじゃない。あなたはその教授会に出席していたんですよね」

『いましたよ。でも、決定は教授会がしたんだ』

「だから、聞いてるのは教授会のことじゃない。あなたのことですよ。あなたは賛成したんですか。反対したんですか」

『………? 何を言ってるんだ。僕は関係ないだろう。決めたのは…………』

必死に抗弁する教授(たち)を、私たちは呆(あき)れて怒り、絶望のあまり笑った。知的に上昇したものが、あるいは知的なものを生活の糧(かて)にしている連中が、理念と現実と折り合いをつけるとなった時、彼らが全く無知・無頓着であることを露呈したからである。そして、戦後、日本は民主主義国家となったというが、それは「頭の中」だけのことで、身体は戦前・戦中のままだったことを示す出来事でもあった。吉本さんはこれらに、「従来にはなかった」質を見ていたようでした。

 

 ☆後記☆

月島商店街裏の狭い路地は、吉本さんの言う通り、きれいに丹念に手入れがされていました。

いつか谷中の三浦商店で、レバーフライを食べて来ようと思います。

 ☆☆

「ボクがこのパンをもらったら、本当に困っている子の分がなくなってしまう」

とは、先週のパン配布の時に来なかった子どもが言ってたことだそうです。次のときは、そんな子がいたら一緒に来てね、とお母さんに伝言をお願いしました。お母さんは、ウチも立派な貧困家庭だよと言ったそうです。なんか心が温まる話だった気がします。

7月になりました。今年は遠く見える夏休み、そして短い夏休みですね。