実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

実戦教師塾通信百二十二号

2011-12-31 19:07:35 | 福島からの報告
 歳末 その3


 忘年会 その2

 1 干物屋再開へ


 「東電からお金が降りるんだよ」
干物屋さんがそう言った。ダメもとで申請書を出してみたら、それが認可されたという。もういわきで干物を作っても、それが福島産だということで誰も買ってくれない、と抗議したのだ。補償金が認可されたのは
「ついこの間のことだよ」
12月上旬のニュースを覚えているだろうか。ブログでも触れたが、阪神淡路大震災の例をあげて、サービス業の損失の原因は原発に限らない、だから風評被害を補償しないと、東電はそれまで補償を拒んでいた。それが12月5日、賠償基準を見直すと発表したのだ。拒んでいた売上高の減少率3%を賠償することとなった。
 「あきらめなくて良かったね」、私は言った。世の中そんなもんだ、が口癖の干物屋さんだが、実際はそうでもないところもあり、そこがいい。
 しかし、そのお金は初期費用の一割にも満たない。残った数千万のお金は補助金として行政や銀行に申請する。その経過も書いてきたところだが、風向きが変わった。つまり、大手の銀行は焦げついてしまいそうな案件は、見向きもしないのだが、こういう時には地方の小さな銀行が力になるとは聞いていた。その通りだった。この29日の全国紙に記事が載っている。「福島の2信組資本注入」(読売)
 窓口に相談に行ったらよ、まだ若い行員なんだけどさ、ちゃんと話を聞いてくれるんだよ。干物屋さんによると、その行員は、平地区には干物屋がない、会津にある「素材市場」といった需要もある、という認識だったという。本当は65歳を過ぎたら銀行は融資しないそうだ。干物屋さんは65歳だ。息子が跡をやる、というのが担保だ、そうなった。
 今は暗闇に浮かぶ体育館のような干物工場は、道路側に傾くように崩れている。そこからまだ使える冷凍庫と冷蔵庫を運び出した。そして乾燥機を運び出したら、行政に解体を依頼するのだ。そのすぐそばに押さえてあるという土地は今度の津波にどう備えるのか、
「これから考えるよ」
干物屋さんの春が近いといい。


 2 だからダメだっつーの

 にわかに熱くなった私だった。
 「原発がなくなって困る人だっているんだよ」
だからなんだ、ということだ。同席した人の半分くらいが同調することに私は興奮する。もう聞き飽きた「原発は怖くない」論がそれに続く。しかも、3号機が爆発した3月14日、いわきの空が北から真っ黒になって流れてくるのを見て怖くなって避難を始めた、という人までそう言う。
○自然被曝を自分たちは受けてきたのにびくともしない
○40年間、毎年4000円(一年分だ)を東電からもらってきた
○もう以前のレベルに近い
○誰が当時の数値を知っているというのだ
等々。
ここではすでに書いた項目なので、そのことは繰り返さないが、とりあえず「4000円なんて端金、40年間分、のしつけて返してやれ」とひとつ。そして「当時の数値」だが、それは発表されている。「広報いわき11月号」に放射線量の推移がグラフで載った。測定場所はいわき合同庁舎駐車場だ。3月13日が「0,09」のグラフは、ロケットが宇宙を目指すような角度をとり、15日に「23,72」を示す。そして21日が「6,00」となる(単位はマイクロシーベルト)。飯館村の「18」という数字に驚いた人々も多いと思う。しかし、それをはるかに上回る数値を当時のいわきの中心部で記録している。
 ホントか、と干物屋さんも聞き返す。そんなことも知らないで安全だとか、原発も必要だとかいってんじゃないよ、と私は一気に返す。自分が言えるような立場かどうかと思う。でも言わないといけないとも思う。そして思う。
 振り返る余裕すらなく、みんなある時は逃げ、ある時は佇むしかなかった。比喩でなく逃げる時に人をはねとばし、それすらあとで気がついて、今になって畏れ、悔いている。沿岸の人たちは数日間、わずかにラジオだけを頼りに情報を拾っていた。そのかすかな情報さえも、心ない「偽り」を幾重も羽織っていた。中には「誰か原発をどうにか出来るというのら、こっちが教えて欲しいくらいです」(12日の原子力安全・保安院記者会見)のような生々しい「真実」もあったが。
 食物を確保し、寝る場所を見つけ、ガソリンを得るため並び、ということが当時の「生きる」ことだった。大切なことを見いだし、胸に刻みつけるという作業は困難を極めたはずだ。しかし、今から始めるしかない。

 呑まない干物屋さんに、この日も湯本「ふじ滝」まで送ってもらう。来年はコトヨリさんどうするんだと聞く干物屋さんに、オレは話をすることしか出来ないけどね、と私は言う。少しは干物の宣伝もするけどさ、と。干物は作るけど、実際どうなるのかな、とやはり干物屋さんの話はいつもの場所に来る。
 来年もよろしくね、そう言ってもらえてよかった。車を降りた私はそう思う。


 ☆☆
前も言いましたが、「紅白なんか見るもんか!」としてきた40年間です。でも、今年は気合入れて最初から最後までしっかり見さしてもらいます。松田聖子親子が『上を向いて歩こう』だったのには少しがっかりですが。

 ☆☆
ブログの読者のみなさん、ご愛読ありがとうございました。大変な年がやってきそうですが、少しでもいいものを目指し、少しでもいい方へと歩いていきましょう。
また来年もよろしくお願いします。

実戦教師塾通信百二十一号

2011-12-29 18:33:09 | 福島からの報告
 歳末 その2


 忘年会

 1 リゾートマンション


 いわき駅で久之浜行の電車を待つこと30分。でも湯本のバス停・駅と、それは私を待ち受けていたかのように、バスも電車もやってきた。前回優に二時間かかった行程「旅館ふじ滝」→「四倉」を、私は一時間と少しで着く。二両編成の電車を降りて、トイレに寄って改札に出るが、そこに駅員はいないし清算機もない。あるのは「切符はここに入れてください」という箱だけだった。私の切符はいわきまでだったので、駅員室に向かって声をかけるのだが、誰も出ない。二駅分の無賃乗車となった。
 海岸沿いで空気は水分を含んでいるはずなのに、そしてやはり汚されているはずなのに空に一杯の星が見える。食堂「くさの根」まで、私は少し海岸を回り道した。八年前脳梗塞で亡くなった友人のリゾートマンションがそこにある。久しぶりに見たかった。一階部分は津波で全部やられたと聞いていたが、その一階に友人の部屋はあった。そこに私はよく招かれて、すぐ近くの市場で仕入れた海のものをつまみ、飲んで話を弾ませた。
 マンションのあちこちの部屋から灯が漏れている。直ったのだ。以前ボランティア活動中、傍らを走りすぎた時には、駐車場も辺りもがれきで埋まっていた。駐車場には結構な量の車。私は思わず建物の向こう側に回り、暗い海岸から懐かしい部屋を見た。
 冷たいものが私の中を通りすぎた。人が住んでいた。レースのカーテンの向こう側に複数の人影。部屋の中にかかっている洋服の陰から笑い声が聞こえる。そうだ、友人はもういないのだ。ここでは別な暮らしが始まっている。そう思うと風がしみた。友人はとっくにいない。でも、故郷をきっぱり失ったとはこんなことなのか、そんな気持ちだった。そうして歩きながら、故郷を奪われた人々のことを思った。この界隈で少しく双葉郡の人々の風聞が良くないのは確かだが、あの人たちの帰る場所を原発が奪ったのも確かなことなのだ。


 2 オマエも逃げたのか?

 この日は四倉海岸を根城としていた方や、この「くさの根」のオーナーなど合わせて七人ほどのおしゃべりとなった。板さんも途中から厨房を抜け出した。
 お互いのことを知り尽くしているかと思いきや、そうではなかった。干物屋さんの話はある程度聞いていたが、この日彼も「逃げた」とは初めて聞いた。ひたすら新潟の避難所に逃げたのは、御ひいきが新潟にいたせいなのか、三日後、「カミサンの実家岩手」に逃げて二十日余りを過ごす。しかし、これもよく聞いた話だが「親戚の家で居候する息苦しさ」で、結局古巣の四倉に戻るのだ。その間、四倉に残った知り合いから「オマエんとこの冷凍庫の干物が腐らずに残っている。食べてもいいか」と自分の電話にかかってくる、ということもあったらしい。電源はストップしても寒さと真空での密封状態に救われたのだ。
 干物屋さんの知り合いの方は、オマエはいいなあ新潟から岩手か、オレはなと言った。翌日この人は埼玉に逃げ「放射能を追いかけた」と言って笑った。そしてあの3月11日の午後の恐怖を語った。柱につかまって一時をしのぎ、倒れた仏壇を直して庭のほうを振り返ると、その庭の空には壁が昇るように海が見えた、という。
 板さんはあのホテルサザンに勤めていた。覚えてる方もいらっしゃるだろうが、あのホテルの売り文句「全室オーシャンビュー」の意味することは、部屋が海側にだけある、幅の薄っぺらい建物だったということだ。6階にある板さんの仕事場だったレストランに一度だけ行ったことがある。全面ガラス張りの展望レストランは確かに「絶景」だった。しかし、今やそこからはがれきとなった建物と、片づけの終わったのっぺらぼうな更地、そして地面が80㎝沈下したという、そのせいで半分の広さしかなくなった狭い海岸に、波が寄せているのが見えるだけだ。
 揺れてもいないのに、その「絶景」におもわず私は柱に身を寄せた。あの日、食器やポットが音をたてて崩れ、ガラステーブルも飛び、窓ガラスがこんなにもと思うくらい波うったという。板さんはその時外を見たのかと私は聞いたが、それどころじゃない、もう床に這いつくばり、どうかホテルが倒れませんようにと祈るのが精一杯だったという。忘れてはいけない、6階建てのそのホテルは塩屋の灯台のように、磯の高台に建っていた。ただの海岸沿いに建っていたのではない。私も野暮なことを聞いた。

 食べ物を味わうことを忘れそうだったが、この日のメインは刺身。中でも鰹と勘違いしそうなくらい厚く包丁の入ったマグロは、赤身の味わいを堪能させる中トロだった。板さんは「まあ、大体の場所で(捕れた)」と口を濁す。揚げたてカリカリのカキフライに「手作りですからね」とことわるタルタルソースだった。カキは「広島産ですけどね」と、やはり顔が曇る。それで思い出す。四倉漁港であがった魚介は、すぐそばの市場で直売だった。「道の駅四倉」はこの春営業開始だったのだ。それまでは観光客や自営の業者みんなは、直売所で新鮮な鰹や巨大な殻に包まれたカキを買っていた。
 埼玉に逃げた方は、火鉢を抱え、鰯を焼きイカの塩辛で日本酒「芳の川」を煽っている。まだ「くさの根」は宵の口である。


 ☆☆
「忘年会」まだ続きます。次回は干物屋さん再開に向けた見通しと「放射能」です。

 ☆☆
大掃除ということで、台所と洗面所、便器をやりました。福島で見たテレビで「酢」が洗面所やトイレの黄ばみにいいというのでやってみたら、なかなかいい。おすすめします。

実戦教師塾通信百二十号

2011-12-24 18:24:22 | 福島からの報告
 歳末 その1


 醤油お渡ししました


 中央台は「薄(すすき)野だったんだ、こんなとこ」と言われるように、冷たい風が空の向こうから、まだ紅葉を残す山の向こうへと吹き抜けて行く。仮設はまったく同じ格好の平屋が見渡す限り続いている。楢葉の仮設が木造の温かみを感じさせるのとは対称的に、広野のプレハブは色も白で、寒さがよりしみ入るようだ。そこを、遮るもののない喜びがあるとでもいうのか、冷たい風は遠慮なく通り抜けていく。一度だけ、同じ仮設なのにどうしてこんなに差があるのか尋ねたことがある。その時は自立生活センターの理事長さんだった。それがね、とやはり理事長さんも同じ印象を持ったらしく言った。それがね、同じなんだよ、と言う。予算は同額なので、高いとか安くとか出来ない、と言うのだ。それでさ、と理事長さんは続ける。楢葉木造の仮設住宅は業者自慢の代物なんだ、高級感とあわせて、解体と移動が簡単なのだそうだよ、と言う。そうだったのか、私は思わずうなった。
 いわき(海岸沿い)を中心とした第一仮設も広野とまったく同じ建物だ。地面を露出させた広い駐車場は、ロープで丁寧に仕切ってあり、そのひとつひとつにビニールテープで番号が振ってある。しかし、多くの車が住居の間近に停めてあるのは、「水はけが悪くてねえ。雨が降ったらもう駐車場までは大変なのよ」という事情によるのだろうか。それを聞くたびに、こんな高台だというのにどうして水はけが悪いのか、といつも私は思う。殺風景な駐車場を風がまた喜んでいるかのようだ。
 この日は全国的にそうだったように、いわきも学校は終業式だった。お昼近く、道々子どもたちの姿が見える。「一年で一番嬉しい日」、七月も三月もそんな日があるのだが、子どもたちに聞くと二学期の終業式が格別だという。イベントが続くせいらしい。金回りも他に比べると、この冬休みが一番だという。
 集会場で醤油の本数を確認する。「いろいろなんだねえ」、役員の方が確認しながら言う。本当だ。一人で数十本という方も、友だちひとりひとりから一本ずつ集めて五本とか、本当にいろいろで、そしてありがたい。役員の別な方が「こんなにたくさん」とため息をついている。ひと世帯一本なのだが、第一仮設の分全部集まると160本。何度も経験したはずなのに、見ればうんざりする量なのだな、と私は思う。
 集会場玄関前に積み上げて用意していると、子どもたちがキックボードや自転車で、そして歩いて群がってくる。醤油か、サイダーはないの、と群がって来る。仮設の子は、みんな知らない人でもまったく違和感なく近寄ってくる。いや、知らないひとがいても自然に受け入れると言った方がいいのか、それだけいろいろな人が出入りしているということだろう。「ドイツの大統領が来たよ」と、なんの力みもなく言う。「首相(メルケル)なら知ってたけど、大統領って誰だよ」とは、こっちも聞きたくなる。
 そうして段ボール箱(空き箱)をくれ、と言う話で、いやオレが先だと言い合いを始める。子どもはいいなあ、と思う。この「いいなあ」は「好きだな」という意味だ。「気楽でいい」という意味であるはずがない。そんなことを言い争いながら、サッカーや鬼ごっこに消えていく。ゲーム機を持ちながらというのが、また今風だ。
 役員さんと職員(市役所の集会場専属)とあわせて六人で手分けして始める。慣れているからだろうが、早い。私も一人の方と一緒に回る。「○○○」という表示がガスメーターになければ住んでいないということだよ、そう教えられた。ポストもない、玄関先の履物やカーテンもない、これで人が住んでいるのか、という印象を受けるところもあった。でも、そこで誰かが息づいている、そう思いながら私は玄関のサッシを開ける。やはり開いた。人はいるのだ。そうして「醤油配布に参りました」と声をかけて、置いていく。そうだ、事前に回覧板を回してもらっているんだっけ、そう思い出す。
 棟と棟の間は簡易舗装の狭い道となっている。玄関の向かいが向かいの家の軒先だ。軒下は洗濯物を干すのがやっとで、花を植える空間などない。そこには夏の暑さ除けのゴーヤの名残が残っていたり、多くは洗濯物が下がっている。たまたま空気の入れ換えをしているのか、窓が開け放たれている家もあったが、その窓から部屋を通して玄関が見える。狭いのだ。
 一番嬉しいのは、わざわざ「ありがとうございます」と玄関にでてきてくれる方が多いこと。玄関を開けると、その向こうは部屋との仕切りの入り口になっているのだが、その間に暖簾やカーテンをかけている方も多く、そういう時は仕切りの戸を開けている家も多かった。そこから顔を出してくれるのだ。なにせ回るのが早く、少し話をすれば良かったな、と少し後悔もした。次回は「品物のリクエストがあれば」というくらいは聞いてこようと思った。
 そうだ、子どもたちの「サイダーはないの」で、心配した今回の支援者もいた。大丈夫。子どもたちはこれから、つまり今日とこの先、イベントが目白押しである。ボランティアや地元の方の主催するクリスマス・餅つき・ラーメン・カレーと、サイダーはもちろん、様々なプレゼントが待っている。
 
 大変な年だった。少しでもいい年が来ますように。


 ☆☆
実は今回のいわき行き、車(四輪)でした。ずっしり重く冷たい空気の中をバイク? そう身悶えして変更したのです。いや自分の車は好きなのですよ。そういうことではない。車での移動が嫌いなのです。
楽でした。ホントに。以前BMW(バイクの)に乗った方から「寒くないのかい」と、サービスエリアで言われたことがあります。そのビーエムのバイクはバッチリ風防があったのですよ。心配してくれたんですね。
一、二月は車で行こうかな。

 ☆☆
喫茶「パリー」のマスターから、長い立派な山芋をもらいました。古殿地区のものです。「大丈夫ですよ、ちゃんと調べてあるから」と言うのです。みんな屈辱的な思いをしてしばらく生きるのですね。

実戦教師塾通信百十九号

2011-12-20 14:20:27 | 子ども/学校
 <学校>と<子ども> その7

       「古い教育闘争」と「新しい教育理論」 その2


 「反国家」か!?


 『飛び出せ、ちびっこ!』(エール出版)を手放すにあたり、ざっと目を通してみて赤面してしまった。時代を感じさせる赤鉛筆のアンダーラインがあった。私が40年前に引いたラインだ。「よく出来ました」「もっと頑張りましょう」という評価(ゴム印や手書き等)は、子どもへの関わりをそこで断ってしまうという、筆者でこの学級通信を出していた村田栄一の文章だ。子どもへの関わりはそこに留まるものではない、といったくだりに私は丁寧に線を引いている。
 まだその頃学生だった私は、子どもへの現実的関わりを見た思いだったのだろうか、それとも成績評価という行為に対置するものを見たような気がしたのだろうか。今思えば、私たちが選んだ行為のまた向こう、というのがあって、それが面白い、本当はそれがいいのだ、ということを感じたのだ、と言ったら買いかぶりになるのだろうか。前号でも触れたが、日本での学校や教育をめぐる当時のリアリティは「古い」。
「機会均等・平等」、またその裏返しの
「(反)差別」
「手作りの教育」
「(反)公害」
「非行は宝」
などで、その他当時まだアメリカ統治下だった「沖縄を(どう)教えるのか」などもあって、その中で「反戦」があったりした。それはこのシリーズ「その2」で書いた通りだ。多くの場所で「戦後教育」は、依然として「国家教育なのだ」、という大義・前提で「新しい教育」が論じられた。とどのつまり「教師とは国民・子どもにとっては加害者なり」という発想・主張の根拠となった。結局これらがマルクス主義的な誤謬と独断に満ちたものだ、と分かるのはあとのことになるが、そこで己を「教育の当事者」としながら、その「毎日をどうするのか」こだわった、という点で当時、村田は秀逸だったとは言える。
 それにつけても、国家=学校という安直な発想と路線は、ひたすら「首になること」が正しいことであるかのような、だから実際「そこ(首)に向かう」、「純粋」で「頑な」教師を生んでいた。


 スマホ

 スティーブジョブズが亡くなった時も少し触れたが、スマートフォンが「便利なツール」として使用されつつ、流通する観念がある。愛用者・非愛用者に聞くと分かるが、非愛用者は、
「使いこなせない」「(買う)金ないし」と若者が言い、年寄りは「知らない」と言う。
 電車の中で見ると、確かに若者でも高校生は殆どが従来型を使用し、若い社会人の多くがスマホを使っている。金の問題はあるようだ。スマホ愛用者の顔は誇りに満ちている。愛用者は「これひとつあれば(デジタル)カメラも(デジタル)プレーヤーもいりませんよ」と胸をはる。しかし、若者が大切なのは「便利さ」ではない。自分が「胸をはれる」方が大切なのだ。そのステイタスは「現在を生きる」、時代の先端にいる、というものに支えられている。それはツール世界とは別次元のものだ。
 若者はまたしても大人・老人に対し「こんなことが分からないのか!」「こんなことも出来ないのか!」という機会を得ることになった。文化そのものは、歴史的・社会的背景を持ち、その継承者が次代のものにまた引き継いで行くというものだった。だからこそ先代(世代)は跡継ぎ(世代)を叱咤し、鼓舞するということでその文化(社会)が「伝統」となる、というものだった。「若者文化」という言葉そのものが形容矛盾で、若者が社会の牽引者たる大人を罵倒・軽蔑することは、かつては見られなかった現象だ、とは少し書いた(拙著『さあ、ここが学校だ』)。スマホ浸透で進むものがある。影で進むカリキュラムだ。
 この「影のカリキュラム(hidden curriculum)」(邦訳『脱学校の社会』:東京創元社では「潜在的カリキュラム」と訳している)はイリイチが使った言葉だ。


 何を教えても

 「学校化社会」を啓発したイヴァン・イリイチは、様々な誤解をもって迎えられた。まずその前にそのイリイチのひらいて見せた内容を簡単に見てみよう。

 学校は子どもたちに学習指導をする。その中で子どもは学習内容を獲得し、成長する、と思われている。しかし、それは表の出来事に過ぎない。実はその裏で進められる見えないカリキュラムがある。

1学校を通してのみ人々は社会的メンバーとして認められる。
2学校の外で教えられたことは価値がない。
3学校の外で学んだことは価値がない。

という枠組みである。そして、そのことを行うため不可欠な学校制度がある。

1年齢別に区分された30~40人の集団。
2資格ある教師の下で監督されている生徒として定義づけられた児童。
3年に1000~1500時間の段階的カリキュラムへのフルタイム出席。

以上である。

 見れば、①このことに裏打ちされて「成長」というものがある。 また、②「価値」「成長」というものには「段階・優劣」がある。 ③それが承認されるためには学校社会というものが必要だ。ということが分かる。そして、そういうものとして社会は再生産され(てい)るということだ。
 溜飲が下がる、という思いをした。授業で産業社会を絶賛しようが反公害をやろうが、毛沢東を教えようが清水次郎長を教えようが、そんなこととは関係なく「学校(化)社会」は貫徹される。私なりに「いい教育」を目指した流れにちっとも魅力を感じない、という根拠はあったのだ。そう思った。
 イリイチの登場は、相当な衝撃で日本に迎えられた。しかし、私には大いに違和感のある賛同だった。

 以下、次号です。


 ☆☆
こんなに寒い日にはラーメンですね。「くさの根」のラーメンは一種類だけ。その塩ラーメンは具のチャーシューも塩ゆでです。ちょこっと添えられる「香の物」ですが、よく見ると小さな昆布と柚子が入ってます。温かい店ですよ。

 ☆☆
その「くさの根」で明日は小さな忘年会。震災での出逢いと来年に向けて、一献傾けます。

 ☆☆
明後日は第一仮設で皆さんからいただいた醤油を配ってきます。ありがとうございます。次回も是非よろしくお願いします。

実戦教師塾通信百十八号

2011-12-17 19:17:36 | 子ども/学校
 <学校>と<子ども> その6

      「古い教育闘争」から「新しい教育理論」へ


 「教育共闘」


 1970年の時点で大学・反戦闘争は後退局面となっており、私たちはバリケード闘争から授業再開反対闘争へと追い込まれていた。授業再開に直接ストップかける場合もあったが、徐々にそれも校舎の外からスピーカーで呼びかける、という形態になってもいた。そんな時、まったく意に介せず校舎・教室に出向く学生たちはいいのだが、うつむいて済まなそうに私たちの前を過ぎる学生や、場合によっては授業を抜けて私たちに合流する学生を見て、こんなことでいいはずがない、と思った。こんな心情的に訴えるものは、生活や思想と触れることがない、と思った。オレたちを支えているのは「根性」かよ、とも思った。
 70年12月の折原講演(<学校>と<子ども>その3参照)で、私たちは伝習館の質を大学闘争として引き継げるのだろうか、いや引き継ぎたいと思った。講演後折原氏に、大学で伝習館の検証をしているところはあるか、と尋ねた。どこまででも出向くつもりだった。氏は「横浜国大ですね」と、間を置かずに言った。それから三カ月後、私たちは横浜へと向かった。
 天気のいい日だった。大学構内に入ると、たまたまなのだがこの日はヘルメットの人たちと民青の人たちがドンパチやっていた。ズタボロになっている民青の人たちを赤や青のメットの人たちが追求している。この中に「教育共闘」の人たちがいるのだろう、そう思って赤のメットの人に聞いた。いや、今日は来てない、とその中の一人が私たちをプレハブの建物へと誘った。そして、その奥に向かって「おい、ヤマモト」と言うのだった。「お客さんだよ」
 中に招かれて私たちは山本(哲士)氏と向かい合った。山本氏以外の四、五人は立って後から様子を見守るといった格好だった。よくは覚えていないが、意見・感覚の一致を見た。授業再開反対はやめよう。私たちは授業そのもので勝負すべきだ。
 「教育共闘」は都内の早稲田・立教・法政などの大学と、横浜が一緒だったが、これが縁で私たちの宇都宮も加わり、秋には「関東教育共闘」を立ち上げることとなった。私たちは大学の講義の中で議論をすることを柱とした。
 ふたつの路線があった。ひとつは「単位認定権を行使するのかどうか」という、教官を多数集めるが、一人一人の意思を尋ねる団交の形。もうひとつは、当初から予定の、授業でその内容について議論すること。主に「道徳教育」と「教育評価」の授業を中心になされた。かつてない授業の展開に、教室は熱気に包まれたが、教官がついに「これは授業妨害ではないか」と訴える局面があったのも確かだ。授業再開反対闘争の時は、学生が教室に逃げ込むようだったのに対し、今度は逆に、教室から逃げていく学生がいたのも興味ある現象だった。横浜ではその学生に対して「待て! 今は授業中だ、オマエはどこに行くのだ!」と止めた場面もあったという。おお怖い。


 消滅、そして訣別

 しかし、この「教育共闘」の取り組みは消えていく。授業での議論はある意味、まるごと取り込まれていく。そのさらに向こう側を見据えた取組を、私たちは出来なかった。私たちはまだまだ未熟だった。そんな中多くの仲間は教師になった。なんと私まで教師になってしまった。採用試験に向かう宇都宮駅のホームまで刑事が来て、
「オマエみてえな奴がセンセイになれるわけがねえんだ!」
と言われた私が、受けること9回の採用試験(第二次ベビーブームの当時はこんなに採用試験があった)の9回目で採用されてしまった。
 しかし結局、大学闘争・教育共闘の質を学校現場(教室・生徒の実際)に持ち出すことはやはり私たちには出来なかった。「伝習館高校」→「伝習館」という質的転換に、私たちはまだまだ遠かった。そしてせいぜい「いい先生」という姿以上のものから私たちは抜け出せなかった。
 徐々に「教育共闘」は姿を消す。そして最後はついに山本氏と二人だけとなった。

「日を追うに連れ、とうとう二人だけになりながら、しかもこの二人も終に、
殴りあう力もなく、沈黙の亀裂のうちに訣れた。その最後の日の氏の面貌をわ
たしはいまだに忘れない。『海棠』と銘打ったガリ版刷りのワラ半紙につづっ
た文字は、いきつくところまでいきつめた最後の二人の交流の懸崖を、わずか
二号であるが、印していた」
           (せんだん書房『教育の分水嶺(山本哲士講演録)』あとがきより)

 私はこの時新採だった。山本氏はこの後すぐメキシコに飛び立つ。
 五年後(1979年)、その頃私は地域の医師たちと共に障害者の会を立ち上げていた。成長・発達が階梯的であるという学校的言説に抗するものを確立したいという願いでいた。そして、同時にこの頃、地域・家庭と学校の間がきしみ始めていた。小学校では学級崩壊の元祖みたいな現象があちこちで始まっていた。授業中の徘徊、ベランダで作品が燃やされる等。高校・中学では校内暴力が始まる。週末の夜道は暴走車(バイク)で埋まる。
 そんな時、山本哲士がメキシコから帰って来る。ある日、自宅の電話がなる。元気か、の声は唐突だった。東京の北千住で山本氏は「みんなひっくり返っている。琴寄もだ」、そう言ってイリイチ率いる「国際文化資料センター」で学んだ興奮を語った。
 70年代、その頃日本の「教育理論」「教育実践!?」は、まだまだ「戦後教育」「国民教育」という枠を抜けていなかった。「よい教育」は「国家教育」と対立するもの、という概念だった。ステージはまったく古かった。
 この山本氏がひっさげてきた、イリイチを先頭とする70年代欧米・ラテンアメリカの教育理論・運動に、私は今までしてきたことに確信を持つ。


 ☆☆
次回、この70年代の代表的論者・実践家としてあげられる村田栄一を少しだけ取り上げます。「もうこれはいらない」と、この村田著『飛び出せちびっ子』を北海道の石川さんに進呈いたしたのですが、当時私は先輩から作ってもらい受けた、私御用達の「蔵書印」を自分の本に押していたのです。懐かしかった。そして、扉に自分の思い入れを書くのも習慣だったようです。買った日はなんの因果か「1971,4,28」なのですよ。

 ☆☆
昨日、東京上野は『黒船亭』で、娘と晩御飯を食べました。知ってますか、あの店のハヤシライスをジョンレノンは偉くお気に入りだったそうです。