実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

邪気/不作法  実戦教師塾通信二百八十五号

2013-05-29 11:48:57 | 武道
 白鵬/作法


 1 江戸の場所


 江戸の場所で優勝出来て嬉しい、「江戸」という呼び方がいいんです、と優勝インタビューで白鵬は語った。この人が話すと、本当に土俵は神様が降りて来る場所だと思える。土俵入での四股(しこ)は、悪鬼を地面に閉じ込めるものだ、と思えて来る。今の相撲の始まりは、江戸時代と言われる。発祥の地は江戸であるが、京都/大阪も時を同じくしている。当初は神社や寺院の境内(けいだい)で公認されて行われた。時を追うに従い、それが豊作祈願(ほうさくきがん)の行事として定着したのは、その経過から当然のことと思える。土俵という「リング」は、俵で囲まれている。だから「土俵」という。この俵は稲穂(いなほ)から作られていると、今の私たちがどれだけ意識しているだろうか。でも白鵬は、私たちをそんな場所までいざなっているように思える。
 モンゴルの近頃の子どもたちは、馬のことを臭いといい、表に出るより家でゲームをやっているという。子どもたちがやっているゲームとは、もちろんデジタルのゲームのことだ。モンゴルから日本にやって来るこれからの若者は、もう大関や横綱になれないかも知れない、とは白鵬自身の言葉だ。白鵬自身は馬が大好きで、草原で馬と一日中親しんでいた。自分の腰の強さは、この馬と遊んだことで作られたと、秘かに思っているという。
            
         写真は『相撲よ!』(角川書店)より

 この号はやっぱり相撲でしょ。相撲は別にいいですという人もいるようだが、その人には飛ばしてもらって、後半部だけでも読んでもらえればと思う。やっぱりここは白鵬の話をしないといけない。
 今場所の白鵬の相撲は秀(ひい)でた相撲が多かった。力相撲ではない「技」を目指す、白鵬らしい場所だったと思う。特にということで三番、まずは十日目の対豪栄道戦は、相手の腕を逆にたぐる「とったり」、いわゆる危険な関節技である。舞の海は「白鵬が調子の良くない時に出す技」と解説した。舞の海の解説は好きだが、これは違う。そして十三日目の対琴奨菊戦は「下手投げ」。正面の解説北の富士は「相撲勘がいいねえ」と言った。私は北の富士の品ある語りを好きだが、これも少し違う。この二番とも白鵬の「格」を語る。相手の二人は、ともに白鵬がねらってきた得意の右差しを殺し、自分の形にしようとした。そしてそれは成功したかに見えた。しかし白鵬は、その相手の流れに沿って自分の流れを作った。その流れはあくまで自然だが、一瞬を逃せばそのまま相手の流れになる。そして、その場合残されるのは「力ずく」という道だ。その一瞬を、白鵬だったら「流れが見えた」、あるいは「流れに沿っていけた」と表現するような気がする。確かに、その一瞬の速さは群を抜いているのだが、あくまでスピードではない「技」の世界だ。力ずく、あるいは力対力の取組は、今場所では十四日目の対稀勢の里戦だけだったと思う。
 そして私が今場所一番の相撲だと思ったのは、十一日目の対琴欧州の一番である。決め技は「上手投げ」だが、いつ投げの態勢になったのか、何度か見たが良く分からない。スローで何度か見れば分かるのだろうが、幾つかの技が組み合わされて投げに入ったのだ。切れ味が鋭いせいで、その移行する経過が見えない。そして決め技だけが見える。おそらく、琴欧州に言わせても「いつの間にか」地面に這いつくばっていた、という結果だ。
 最後の千秋楽の取組、対日馬富士戦は、日馬富士が弱かったのではない。白鵬が強すぎた。写真は寄り切りで日馬富士を破るところである。左手で相手日馬富士の右手の動きを封じている。写真では分からないが、日馬富士は白鵬の回しの奥をしっかり捕らえている。白鵬は初め左手で相手の回しを探ったのだが、とれないという「流れに逆らわず」に、この形になった。これで白鵬が左の回しにこだわったら別な結果になったかも知れない。
           
 
 そして、白鵬の「格の違い」を見せるのはこのあとのことだ。


 2 邪気と不作法

 白鵬の優勝インタビューは、いつも感心しきりである。今回はなんて言ってくれるだろう、と思わずながら期待してしまう。そして、いつも白鵬は、その期待以上の語りをしてくれる。

○自分は稀勢の里について行けば良かった
○稀勢の里がいて、自分の今場所の集中があった
○今場所の稀勢の里の活躍をたたえて欲しい
○25回の優勝で、朝青龍に恩返しが出来た

自分を常に脇か後に控えさせる姿がすこぶる見事だ。北の富士が「憎いねえ」を連発していたが、まったくその通りだ。最初に書いたが、「『江戸』という響きが好きだ」という、ファンサービスとも思えなくもないことだって白鵬は忘れない。こういったことを白鵬はいつ考えているんだろう、と私はいつも思ってしまう。千秋楽結びの一番が終えて控室に戻れば、そこには記者たちがインタビューを待っている。大銀杏(おおいちょう)を結び終えれば、すぐに表彰式である。そして優勝力士インタビューだ。しかし、あの考え抜いたかに見える話がそこで始まる。
               

 お察しの通り、白鵬は「いつも頭にあること」を話している「だけ」だ。だから「いつだって」話せる。あるいは白鵬が「常に考えている」ということだ。きっと今場所白鵬は「どうして楽にとれるのだろう」「楽に考えればいいのではないか」と一日々々を振り返った。それがそのまま言葉となった。しかし、だ。そのことをみんなの前で簡単に言えるものではない。それが「邪気」というものだ。「邪心」と言ってもいい。そんな白鵬のまれに見る態度を、周囲は「謙虚だ」「素直だ」とか「余裕さえ見える」と表現する。そんな情緒(じょうちょ)的なものでもいいが、私たち武道の世界は、もう少し別な観方(みかた)をする。
 実力のあるものを、私たちは「強い」と言っている。この強いもの同士の戦いで、勝敗を決着づけるものは「気持ち」だの、
「こうなったらあとは意地ですねぇ」
な~んていう、マヌケでたわけなことではない。「邪気」があるかないか、が決着をつけるのだ。朝青龍の「弱さ」はそこにあった。「邪気」を払わずに強さを保とうとすれば、残っているのはやはり「力ずく」なのだ。それで「不作法」が露呈する。作法が出来ていれば勝てるなんて言ってないぞ。清く貧しく美しく生きていれば勝負に勝てるって、んなバカなことがあるかよ。精神が出来ていないものは勝てない、なんて学校の教科書じゃないんだ。「邪気」が「不作法」を招くのだ。
 この「邪気」は「自己愛」の別な姿でもある。技と「場」に集中することで、この世界は消えていく。もちろん簡単なことではないぞ。消えたと思ってもまたすぐに現れ、復活するのが「邪気」である。なんせ「無常」なのだから。
「われ未だ木鶏たらず」
と双葉山が言ったのはそういうことだ。十四日目の対稀勢の里戦を終えたあと、
「一枚も二枚も自分が上」
とは、うかつな白鵬の発言。確かにその通りではあっても、らしからぬ。ホッとして気が緩んだための言葉と思えた。大横綱の道を歩み続ける白鵬にもスキはある。そして、自分のスキをちゃんと振り返ることで、白鵬はまた大きくなる。

「四股/摺り足(すりあし)/テッポウをやっていれば必ず強くなる」
と言ったのは確か大鵬だったと思う。
話は飛ぶが、
「話す/聞くをきちんと積み上げれば必ず強く生きる道は見つけられる」
とは、私が思うことである。「読み/書き/算盤(そろばん)」ではない。



 ☆☆
少しばかり風貌(ふうぼう)が、朝青龍に似ているようにも思えるビートたけしですが、それはそれは「邪気」に満ちている。しかし、その「邪気」を不作法が支配することなく、「無邪気」が引っくり返して行くんですね。そこがビートたけしの凄味(すごみ)であり、魅力ですねえ。

 ☆☆
初鰹(はつがつお)、いわきで食べましたがあまり感動がない。そのことをおばちゃんたちに言うと、
「鰹がホントにうまいのは戻り鰹っつってよ、お盆から9月にかけての鰹がうまいんだよ」
ということでした。地元の人でもそう言うんですね。まあでも、初夏の季節がやってきたということです。こちらの梅雨入りも時間の問題ですね。冷奴を食べることが多くなりました。

地元の暮らし  実戦教師塾通信二百八十四号

2013-05-26 10:44:36 | 福島からの報告
 地元の暮らし


 1 サトウのごはん

 
「なんだぁサトウのごはん一個と水だよ~」
そうぶつぶつ言いながら、集会所におばちゃんたちが戻って来る。この日は東京からキリスト教の団体が、「飛び込み」で物資の支援にやってきた。
 集会所の入り口で管理人さん(市の派遣スタッフ)がなにかやりとりしていると思ったら、そんなわけだった。それを知ったおばちゃんたちは、もうそわそわして落ち着かず、すぐに腰をあげるのだ。
「じゃ、オレ、うちの玄関閉めてあっからよ、て~へんだ」
「誰もいねってよ、品物もらいはぐっちまう」
「こっちがら行ってもらってくっぺ」
いやもう、私は遠慮なく笑ってしまう。それでもらって帰って来れば文句を言ってる。軽口をたたいたって、もらう時には丁重にありがたい気持ちでいるのは分かってる。見ればCDと宣伝案内用のパンフレットも入っている。
「こんなの、どうせ宣伝用だっぺ」
などと彼女たちは口が減らない。でも、見れば癒し系のクラシック小品集だった。クラシックみたいですよと、私は言うのだが、
「こんな水もよ、もらってもしゃーねーなぁ」
などと、止まらない。確かにコップ一杯の水がどんなにか有り難かったかという時期と、今とでは違っている。おそらく「初めて」の団体なのに「飛び込み」で支援に来たということ、さらにプラス「宗教団体」で、この毒舌があるのだろうと私は思った。
 落ち着きを取り戻してから、味噌醤油の話になった。この日私は、来月の醤油配布の打ち合わせに来た。さっきの遠慮のなさ、というか屈託のなさで彼女たちは続ける。
「ああ、そろそろ味噌がなくなるなあと思うと、味噌が来るのよねえ」
「有り難くってさ」
「そう思ってたんだげど、今となっては味噌がそろそろ来るんじゃないかって思うようになっちゃってさ」
聞いててこちらが有り難い。


 2 救急車

「またこの間救急車が来てよ」
以前書いたが、この間の家にまた救急車が来たらしい。原因は、えーと息が苦しくなる、なんだっけ、と言うので、過呼吸でしょ、と私。酸素が足りなくなるんで酸素吸入だったか、と言うので、いやそれじゃ逆で、酸素を減らさないといけないから、口と鼻を紙袋で覆って呼吸をするんです、と私。そうらしいんだよな、だから、消防の人に怒られててさ、こんなんで救急車呼ぶなって言っただろうってさ。
 若い女の人らしい。相方と怒鳴り合いになると、この過呼吸を起こすという。
「オレもなんか、注意しようと思うんだけどさ」
あんな真っ黒いデカイ車に男が乗って来るんだよ、怖くってさ、という。
 そして今度は別な家の話。
「昼間もずーっといんだよ、仕事もしねえんだ」
「いや、窓も入り口もカーテンもよ、ぜ~んぶ閉めてんだよ」
「いるのがなーって思ってよ、たまに見かけた時にさ、声かげんだげどよ」
ほっといてくれって言うんだよ、あんなのが隣にいるとなーんかよ、そんでまた夜中に電話で話す声が聞こえたりよ、気持ち悪くてよ、と言う。
 会長さんが安否の確認のため、その人の車が置いてある駐車場の地面に、印をつけるんだそうだ。毎日それをチェックすると、確かに動いた形跡がある。
「大丈夫、生きてっど」
実はこのおばちゃんたちが、色々な人たちのライフラインになっている。
 お騒がせなご近所さん、と考えればどこにでもある話だが、このお騒がせな人たちもみんな被災者で、ここに流れ着いた人たちなのだ。
 おばちゃんたちの中の息子さんは、仕事探しをしていたが、ようやくこの間遺跡発掘の仕事を見つけて始めたという。教育委員会から請け負う発掘だ。以前、息子さんは楢葉町のネジ製造工場で働いていたという。楢葉町の除染が終わるのは来年3月の予定だ。工場が再開されるまで、あちこちの遺跡を回りながら「日銭をかせぐ」んだという。ついでながら、これらの遺跡は、今、いわき市でたくさん発掘されている。復旧工事のため、市内のあちこちを掘り出したせいらしい。
 皆さんの慌ただしい生活は相変わらずだ。


 3 危険/安全

 バイク野郎は、なぜか会えば必ず会話する。最低でもあいさつ。今回、年配の、と言っても私も充分にオジサンだが、私より少しばかり年上と思しき方と、サービスエリアの駐車場でだいぶ話し込んだ。やっぱり、という感じでこの人もハーレーに乗っていた。福島に行っているという私の言葉に興味を示し、耳を貸してくれた。二年前のことや近況にうなずきながら、つい先日の北茨城漁港解禁の話題に触れて、
「でも、すぐ上(北)の福島の漁港はダメなんでしょ?」
「茨城の海と福島の海に、危険と安全とかいう境界があるんですかね」
ともっともなコメント。つい私は嬉しくなって、干物の営業をしてしまった。

 この人の言葉で、数日前に会った楢葉の牧場主さんの言葉を思い出す。放射線量の規制値を緩和してくれないか、という知事を初めとした一部の住民の意見に対して、だ。
「何言ってんだって。帰りたいから『安全な数字』を変えろなんてよ」
「安全じゃねえから帰れねえってのによ」
話は二年前の事故当時のこととなった。あの時、警戒区域指定に伴い、家畜を動かしたり売ることを、国と政府は禁止した。
「でもよ、同心円での区域指定だったから、ホントは動かせたし売れた牛や馬はたくさんいたんだ」
「逆に、飯舘の連中は牛や馬と逃げ出せたのに逃げなかった。たくさんの家畜が殺された」
なのに、今度は数値を緩めろって、一体なんなんだ。主さんの怒りは収まらない。


 ☆☆
このハーレーの方は、この日、群馬までバイクを転がし宿を探し、美味しい食事と酒を味わって、次の日は自分の茨城に帰るんだということでした。いつでもこれが最後の旅になるんだろう、という気持ちでいますよ、とバイク歴まだ3年目という「新人」さんの話を、私は感心して聞いてしまいました。

 ☆☆
いやぁ大相撲、スゴイですね~ 日本人力士久々の優勝という期待の声も大きいですが、私はやはり日本人以上に日本人らしい白鵬びいきなもので。でも、今場所の稀勢の里は確かに違いますね。両者譲らずがっぷりの四つ相撲は、ずいぶん前の白鵬対朝青龍の、両者ともに地面に根が張ったような相撲を思い出させてくれました。さて、千秋楽どうなるか。

教師の善意/親の愛Ⅱ  実戦教師塾通信二百八十三号

2013-05-22 14:56:16 | 子ども/学校
 教師の善意/親の愛 Ⅱ

     ~その2 「信じる」ことが生む奇跡~


 1 ライフ・イズ・ビューティフル


「いいかい。これはゲームなんだ。泣いたり、ママに会いたがったりしたら、減点。いい子にしていれば点数がもらえて、1000点たまったら勝ち。勝ったら本物の戦車に乗せてもらえて、おうちに帰れるんだ」

1997年のイタリア映画『ライフ・イズ・ビューティフル』を見ただろうか。ユダヤ人の家族がナチスに捕らえられる。幼い息子ジョズエが恐れたり絶望することのないよう、父親のグイドがこんな言葉で息子ジョズエに言い聞かせた。母親は二人と違う場所に収容されたため、ジョズエの心をなんとか補強しないといけない、そう父グイドが考えたのだ。いっぱいに詰めこまれ、イモを洗うような部屋で嘆き悲しむユダヤ人を見て、「泣いてるよ」と不安がるジョズエだが、
「あいつは大事なゲームなのに、あんなことをしていたら減点ばかりだ」
「オマエはあんなミスをしたらダメだよ」
と、グイドは泣いてるユダヤ人をあざけるようにし、ジョズエをなだめる。ナチスの兵隊がドイツ語で話すので、息子は兵隊がなんと言ってるのか分らない。それでグイドは、ジョズエに、ルールの説明に来たんだとか、まじめにやらないと点数をあげないぞ、と注意しているんだ、などと「通訳」する。どこまでも、そして「最期」まで父親のグイドはこの態度を貫く。
 やがて、連合軍がナチスを制圧して収容所は解放される。そして、ジョズエは連合軍の戦車に乗せられて帰り道につく。ついに「ゲームで1000点を獲得したおかげ」だと思う息子のジョズエは、父親グイドがいなくなったことを知らない。そんなジョズエが、戦車上で歓声をあげて凱旋(がいせん)するラストは圧巻だ。ダウンタウンの松本は、この映画を誰もが涙する映画と評した。


 2 「信心」

 前回の「分かったつもりの勘違い」「分からないことの勘違い」と併記しましたが、分かりづらかったですね。映画『ライフ・イズ・ビューティフル』のようなことは可能なのだ、と言いたい。現実は作られているとも、作ることが出来るとも言える。そのことを承認するのが大切だ。それを承認しないで不幸になるくらいなら、そのことを承認しようじゃないか、ということだ。まだ分かりづらいか。
 映画の話に戻ろう。なんだ、息子のジョズエは甚だしい勘違いをしているだけじゃないか、と思うむきもあると思う。父グイドが、まんまとジョズエをだましただけじゃないか、と思うかも知れない。違う。「信じる」ことは、明日や現実を作るということを、この映画/父は示している。きっと反論者は言うに違いない、父親は殺されてしまうじゃないか、と。違うぞ。父親の希望/未来はちゃんとやってきた。未来を信じた父は、だからこそ最期まで息子に言い聞かせた。
「そんなことじゃゲームに負けてしまうぞ!」
「オマエは必ずゲームで勝てるんだ!」
そうしてやはり、未来/希望はかなえられた。生半可(なまはんか)な「信心」では、こんな奇跡は起こらない。
 私たちの誰もが持つ「善意」とやらは、そんな中途半端なものを指すのだ。例えば、
「オマエを信じていたのに」
という言葉がそうだ。そこで問われているのは、あなたは最後まで信じられますか、ということなのに。
 そろそろ学校の話にしよう。私たち学校/教師の周辺は、この中途半端な事柄で満ち満ちている。私たちはまず、

「信じる気持ち」と「信じられない気持ち」

を生徒に対して持っている。そこから中途半端な気持ちは生まれる。実はこのことをあんまり気にすることはない。仕方がないのだ。グイドのように行かないのが現実だからだ。しかし、父親グイドのように私たちが出来るかどうかとは別に、こういう道があるのだという気持ちを心構えとして持っていることは、大切だ。そんな態度がある、というだけでも、教師の日常はいくらか変わって来る。所詮(しょせん)、教師の善意とかいった代物(しろもの)は、いつだって意地悪な気持ちにひっくり返る。「信じる」ことを例に言えば、
「オメエなんか初めっから信じてねえよ」
などと、教師が生徒に吐き捨てるシーンは結構多いわけだ。「信じる」かどうか、そのことで現実は別な姿を表す。「信じる」という言葉に抵抗があるのなら、

「子どもはちゃんと分かってる」

と思えるかどうかだ、と言ってもいい。それが出来れば、今までは

「子どもに注意するように言わないといけない」
と思っていたことが、実は
「子どもからこっちが指摘(注意)されている」

ことなのかも知れない、と思うはずだ。ひっくり返っている、というそういうことだ。


 3 そんなんじゃゲームに勝てないぞ!

 さあ始めよう。
 私たちが子どもたちをいかんせん、どうしても「信じられない」理由はそんなわけで、私たちが「子どもは分かっていない」と思うからだ。実はこの言葉を別な言葉に変換すると、教師や親が

「子どもが成長していることに無自覚な」あるいは
「子どもの成長に耐えられない」

となる。驚いてはいけない、本当だ。子どもの成長に「待った」をかけているのは、私たち大人だ。教師/親、そして大人の不安や心配というものは、例えば子どもがはいはいをする、歩き始める、といったそれらのことに喜んでいられないものを指している。「成長」とは、その都度いつでも「背伸び」したものを伴う。その「背伸び」した姿を承認出来るかどうか、それが
「子どもを信じるかどうか」
の分水嶺(ぶんすいれい)だ。それを回避する大人は、子どもの成長を承認出来ない。私たちはそのことを自覚すべきなのだ。子どもがつかまり立ちをして「背伸び」した時、テーブルの上に、熱湯の入ったティーポットが乗っていたとする。その時、少し慌てつつも笑いながら対処するか、相方(妻かダンナ)や本人(赤ちゃん)をとがめるか、という違いだと言ってもいい。
 いや、それなら逆にいつまでも子どもが、はいはいもしないし歩かない時はどうなのだ、こちらとしては心配もするし、不安でたまらないじゃないかという反論もあるかも知れない。しかし、そんな子どもたちがいずれにせよ「背伸び」していることを、まずは承認されるべきかと思う。そして、この子どもたちが、
「お父さんお母さん、ボクのことを好きですか」または、
「お父さんお母さん、もともとぼくのことを欲しくなかったんじゃありませんか」
と問いかけていることに気付くべきかと思う。子どものこの「もともと」という言葉は、かなりラジカルな意味を持つ。つまり、この言葉は
「こんな子どもが欲しい」、または
「こんな子どもは生まれて欲しくない」
と、親が考えていたことを指摘しているからだ。そこを子どもが「もともと」と言っている。子どもを見守る幸福が、別な親には不幸だ、と言い換えてもいい。今、
「子どもはそこまで考えているのか」
「子どもはそこまで分かっていないだろう」
と思ったあなた、それが「子どもを信じていない」態度だ。

「そんなことではゲームに勝てないぞ!」

 次回から学校教師の「信じる」「信じられない」態度の葛藤と、子どもの「指摘/忠告」をもっと深く検証してみよう。


 ☆☆
今26歳か27歳の連中なので、10年以上前のことですが、この連中が卒業する直前の三年生特別日課で、『ライフ・イズ・ビューティフル』を見せました。終わって体育館の灯をつけ、退場だよ、と言ったのですが、いやあ、みんな立たない立たない。何人か(女子でした)が、涙ながらに、先生、とだけようやく言うのです。まるで私に、どうにもならないこの気持ちをどうにかしてくれ、とでも言うかのようでした。「感想を述べなさい」みたいな手法がいかに野暮(やぼ)ったいか、ということが分かるシーンでした。
関係ないけど、これも10年以上前の、木村拓哉・常磐貴子主演のTBSドラマ『ビューティフルライフ』もよかったですね。

 ☆☆
是枝監督、カンヌで泣きましたね。ニュースで言ってると思いますが、是枝監督の『誰もしらない』は、あの柳楽優弥クン(当時14歳だった)が、名だたる名優男優を差し置いて主演男優賞をとってしまった。ついこの間の2004年のことです。ドラえもんのジャンレノが、
「強烈に印象に残った」
と、柳楽クンのことを話したことは有名です。昨日の福山のインタビューもよかった。
ところで、面白いと思っていたこの福山の『ガリレオ』ですが、最近つまらない。おかげでBS6チャンネルの吉田類を見てご機嫌のこの頃です。

教師の善意/親の愛Ⅰ  実戦教師塾通信二百八十二号

2013-05-19 10:20:07 | 子ども/学校
 教師の善意/親の愛 Ⅰ

     ~その1 高村薫/よしもとばなな~


 1 「べつに」「何となく」


 冒頭の作家を私は二人とも好きである。この二人が今回の大震災のことで発言していることを、読者もご存知かと思う。二人がここ最近発表した作品に奇妙な一致があって、私は少しばかり驚いた。まず初めに紹介するのは2012年2月の『新潮』に発表された高村薫の短編である。

 「これはそのバスの話-というより、バスのある風景の話と呼ぶべきか-だが、先月のある朝、高校生のわたしはいつも乗るバスに乗らなかった。わたしが乗らなかったそのバスが、丘陵を下った先にある国道の交差点でタンクローリーと衝突して炎上し、乗客十五人が焼け死んだ。わたしは生き残った」
            
 津波で破壊された福島県相馬市原町火力発電所(『東日本大震災 ふくしまの30日』より)

で始まるこの『同行死者』は、明らかに今回の大震災を記録している。いや、記録を試みている。事故・事件で生き残ったもの、というより「残されたもの」の上にどんなことが起きて、その彼女が、事故・事件をどう受け入れていくのか、という道筋が示されていく。生き残った幸運がどのように、そしてなぜ起こったのか、ということについて周辺が慌ただしく嗅ぎ回って、彼女がその対応に追われる。その時、周囲からしつこく繰り返される「なぜ」という騒音に似た疑問や好奇心に、彼女は繰り返し
「べつに」「何となく」
と言うのだ。どんなに必死に考えてもそう言うしかなかった、と彼女は思う。
 そうしていつの間にかと言うべきか、
「べつに」「何となく」
と、以前はなんのこだわりも抑揚もなく言っていたこの言葉を、彼女はふたたび以前と同じように、投げやりな響きで言うようになる。この頃、周辺が自分の上に見ていた希望らしきものはいつの間にか色薄れている。彼女はと言えば、事件の忘却が徐々に周辺に行き渡るに伴い、自分もある微かな絶望に捕らわれている。
と、私はこの作品をそんな風に読んだ。それはまるで、今回の震災から、日本あるいは福島が「復旧/復興」する姿に似ている、と思った。


 2 大震災の半年前

 この高村作品にも私は充分考えさせられた。しかし、さらに驚いたのは、よしもとばななの作品『どんぐり姉妹』である。同じく『新潮』に発表された中編と言えるこの作品は、2010年8月のものだ。大震災前なのだ。つまり、私はこの作品を震災前に目に入れている。震災後、と言ってもついこの間、この作品に再び相まみえた。そして、一体オレは何を読んでいたんだと、目から鱗が落ちる思いをする。まず作品始めの部分だ。

 「そんなかわいらしい心を持っていた私の両親は、ふたりで朝のジョギング中に居眠り運転のトラックが突っ込んでくるという、全部で六人が亡くなった大きな交通事故に巻き込まれて死んだ。私が十歳のときだった」

ここの部分で、高村作品との奇妙な一致に気付いたのは、ついこの間だ。トラックは九州から東京に刺身を届けるものだった。おかげで、このどんぐり姉妹や、ほか四人の遺族が「新鮮な魚」にトラウマを抱えるようにもなる。ある時、どんぐり姉妹の妹分、ぐり子は気付く。そうして思う。

 「この世には、意味なく存在するものはない。魚だって、親だって、トラックだって、居眠りだって。
 でも深い意味があるっていうほどのことでもない。
 それらはただあるだけだ。よくも悪くもない。
 それなら、今日たまたま目の前のお皿にやってきた魚をしっかり食べてあげよう。両親の命だと思って食べよう……そう思えるようになったことを、よかったと思う」

というこの部分を読んで、私はあの震災のあと、家族を失った母親が海辺にたたずみながら、
「誰も悪くない、誰も悪くないけど…」
と泣き崩れていたことを思い出さないわけには行かなかった。繰り返すが、この作品は震災前に書かれたのだ。さてそこで、ばななは、これが震災後だったとするなら、果たしてこの作品をこのように書けただろうか、と思わないわけにも行かなかった。


 3 割り切ったり受け入れたりする前に

 それが他人のものだろうが、自分のものだろうが、死というものは必ずやってくる。死を受け入れようが拒もうが、どっちみちやってくる、と言い換えてもいい。それを受け入れる困難さは、その不可思議さに匹敵する強さで並んでいる。それでみんな「死」に群がる。と、そんな風に私はこの『どんぐり姉妹』を読んだ。確か『存在と無』だったと思う、そこでサルトルが「可能性の不可能性としての死」と言っていたはずだが、ばななの考察の方がはるかに深いと思う。
 傷を受け入れるまでの時間、あるいは受け入れられない/信じられない/拒む時間、それらすべてはその人に必要不可欠な時間だ。そのあと「肯定的な心」は、焦りや気負いに負けなければ、必ず芽生える。周囲にきちんと見守る人がいれば、それはしっかり育つ。これは「死」の問題に限らない、おそらくすべての「傷」に共通なことだ。

「いつの間にかこんなに具合が悪くなっていたなんて、信じられない。そう思った。
 人間てそんなにわかりやすくできていて、ごはん以外のものも毎日食べているんだ。
 雰囲気とか、考え方とかそういうものまで。」

と、ほんとうは「わかりやすくない」自分の傷に気がついた妹のぐり子だ。そうして、

「子どものときいろいろたいへんだったことで、自分が曲がったなんていうことはない。たとえ多少曲がっていても、じわじわとのばしていけばのびていくだろう」

と、引きこもっていた身体をようやくもたげる。

 本当は相手(人)とかいうものを、ちっとも分かっちゃいないという気持ちを、私たちはどれだけ持ち続けることが出来るのだろう。あるいは、子どもというものをなんにも分かってないということに、私たちはどれだけ耐えることが出来るのだろう。
 「分かったつもりの勘違い」を私たちはたくさんやって、不幸を繰り返してきた気がする。まあ、そんなことは誰でもやることだし、くよくよといつまでも悩むことがいいことでもないとも言える。しかし同時に、これを「分らないことの勘違い」に置き換えると、実はもう少しみんな楽になれる。

 そんなことをこのシリーズで考えて行きたい。


 ☆☆
ホンダ、F1復帰ですね。嬉しい。会社の景気が上向きになったという理由ばかりではなく、社内の熱気に押されたということもあったらしいですね。嬉しい。ホンダスピリットは生きていた。復帰は2015年だといいます。まだ私、生きて見ることが出来そうです。なんて、冗談じゃない。活躍ぶりをずっと見ていきたいです。
写真はあのホンダ伝説の始まりを告げた、1965年のメキシコGPの優勝車RA272です。ドライバーはもちろんリッチギンサー。このミニカー、缶コーヒーのおまけや、グリコではないですよ。ツィンリンクもてぎのホンダコレクションホールで買ったんです。って、かなり熱くなってます。
              

 ☆☆
刑務所内の作業で払われる給料って安いですよね。その数字知ってましたか。127円なんです。日給? いや月給なんですよ。最高は一万円まで昇給するらしい。でも、みんなタオルだ石鹸だと日用品を購入すると、結構なくなるということでした。その道ベテランの教え子は、いつも刺激を送ってくれます。いつか詳しいレポートをするつもりです。

忘れられ方  実戦教師塾通信二百八十一号

2013-05-16 12:34:59 | 福島からの報告
 忘れ去られること


 1 毎時2,64マイクロシーベルト


 富岡町はどれくらいの放射線量なのか、という質問を受けた。福島のメディアは、地元の測定値を毎日報告している。それによれば、私が立ち寄った町役場は毎時2,64マイクロシーベルトだった。ちなみにいわきも、私の住む千葉県柏も、発表では0,09~0,2マイクロシーベルトが大勢を占めている。富岡町役場の数値を計算すると、年間積算量としては23㎜シーベルトに迫る。一応これでも、年間積算量が20㎜シーベルト未満の「避難指示準備解除区域」ということになるのだろうか。しかし、この町役場数値には「※」がしてあることに注目しておいた方がいい。それはこの町役場の測定点が地上3m、という印なのだ。他の地点は地上1mの地点での測定なのに、だ。胡散(うさん)臭い。どっちみちこのままでは暮らせません、ということに変わりはない数値ではある。
 物議をかもした双葉町長選挙だが、井戸川町長から変わった井沢新町長は、双相地区最後の地区として、警戒区域見直しを受け入れた。この受け入れは、区域見直し結果に関わりなく、家屋・土地の賠償額は町すべて一律とする、という条件付きで行った。仮に放射線量が低くても家屋・土地の賠償額を下げない、ということだ。警戒区域の見直しの結果は、双葉町の殆どが最もグレードの高い「帰還困難区域」となった。しかし、一部だがなぜかグレードの一番低い「避難指示準備解除区域」となって、間となる「居住制限区域」は、双葉町にはない。つまり、自分の家は足を踏み入れることも出来ないのに、隣の家は昼間に限って片づけをすることが出来る、というようなことが起こっている。
 どっちみちこんなバカな、ということが起こっている。


 2 ニュースにならないこと

「東電、来週にも海洋放出」
という記事が新聞(『福島民報』)のトップ面を飾ったのは、先週のことだ。この時このことが、首都圏のニュースになったとは聞いていないし、見てもいない。初め私は、このことを首都圏、あるいは全国紙が流さないのは、もしかしたらニュース性の高さを考慮してなのか、つまり、ニュース性が低い、という考えなのか、と思った。だとすると、それはとんでもないことだ。またしても漁業はダメを押される。こうしてまた福島は忘れられるのだと思った。あるいはもしかして、これもをもって「福島へ配慮している」と言うのだろうか、とも思った。この放出する水というのは、なぜかまだ原因不明の、原子炉建屋に流れ込む地下水のことだ。地下水そのものは汚染されていない、と言われている。その安全性を確認したうえでの海への放出だという。これによって一日の流量約400トンという汚染水が、300トンまで減少する。しかし、つい先日も汚水保存の貯水池から水漏れ、という不手際が確認されている。ついでながら言えば、この貯水池による保存法は安価ではあっても、確実性に欠ける、だからそれよりも地下水のルートを絶つように地面深くコンクリートを打ち込むべきだ、というアメリカの進言を政府・東電は拒んだという過去を持っている。
 そんなわけで、建屋で汚染される前の水を、安全確認しながら海に放出する、ということではあっても、福島は被害を受ける、と考えて当然だ。この風評被害を未然に防ぐ、ということをメディアが目的としたならば、それは「自主規制」の結果だということになる。
 実際のところどっちだったのだろう。その週明けの今週14日、東京新聞は今度はこのことを取り上げた。
「地下水放出結論先送り 県魚連、東電側へ異論」
の見出しだった。これがトップ記事ではないのが、やっぱりの思いはある。社会面だった。ここには、
「地下水だろうと汚染水だろうと原発から水が海に放出されるのは望んでいない」
という、魚連の主張はあくまで要点である。
 地元紙だったらもっと生々しい発言が聞けただろう。
 参考のために、地元紙から記事の見出しをいくつか。
「第一原発で保安規定違反 (マスクの)フィルターなしで作業」(『福島民報』)
「3月15日原発20キロ圏に2000人前後 東大(&ゼンリンデータコム)事故後の住民分布推計」( 同 )
「日大工学部 汚染土回収事業に着手」(『福島民友』)
三番目の記事の「ゼンリンデータ」だが、携帯のGPS機能を使ったことを意味する。今まではすべて聴き取りによるデータだった。

         写真は、始まった堤防の嵩上げ(四倉)
         
「高台にある四倉の復興住宅も勧められたんだげどよ、外を歩ぐ人の顔が知らねえ人ばがりじゃよ、やっぱり不安はあっても(津波で流された跡地の)久之浜の住宅の方がいいがなって」
「今はこうして集会所に来れば誰がいるもんよ。でも、あたしは豊間じゃねえどごに家造っちまったがんなあ。引っ越して、それで仮設なぐなったら、周りに誰も知ってる人いなぐなっちまうよ」
「こうして二年間ここ(集会所)に通いつめてるげどさ、知り合いになれたのって4人ぐらいしかいねえんだよ」
すべてはニュースにならないようなことだ。しかし、被災者の切実な思いは掃いて捨てるほどある。


 3 事故検証

 1月12日にいわき市長がNHKテレビに出たのを見ただろうか。私は見ていないが、そこで安定ヨウ素剤配布のあと、服用を認めなかったことを反省する内容で話したという。このことを無所属の佐藤和良議員が、定例議会で質問している(5月の市議会だより)。市長は国や県からの情報提供も的確な指示もなかったので、そういう決断となったと答えている。
 当時の大きなニュースになったが、福島県三春町のことを覚えているだろうか。三春町は3月14日深夜、住民の被曝が予想されたため、安定ヨウ素剤の配布と服用指示を決定。次の日の午後、防災無線などで町民に知らせ、薬剤師の立ち会いの下、対象者の殆どに安定ヨウ素剤の配布を行った。ところが福島県は、国からの指示がないことを理由に、配布中止と回収の指示をだしたが、三春町はこれに従わなかった。
 以前、佐藤議員と話したことはブログで報告したが、あの時と、今回の議会やテレビでは若干違いがあることを確認しておこう。
 1999年の東海村JCO臨界事故があって、佐藤議員は、いわき市に安定ヨウ素剤の備蓄を提案。市はそれから備蓄に踏み切った。そして、2011年の福島原発事故が起こる。事故直後、佐藤議員は市長に、安定ヨウ素剤配布の直談判をしている。市長はその時、議会で答弁した内容で応えている。その後、配布だけは踏み切ったのか? 議会答弁によれば配布はした、ということだ。いずれにせよいわき市は、三春町とは違い、上からの指示を待っていた。
 ついでにもうひとつ、市長が福島から真っ先に逃げたという市民・被災者の怒りは正当なのか。当日、市長はいわきにいた。このことを私は結構あちこちで言ったのだが、
「そのあと逃げたのさ」
という皆さんの意見だった。

        もう一枚、いわきの嵩上げ工事の写真
        


 ☆☆
「ふじ滝」の駐車場で、
「バイクなんですね」
と話しかけられました。作業服を着た人でした。滅多に館内の廊下で宿泊する人とすれ違わないのですが、現場の人が宿泊しています。やっばりバイク好きな人が話しかけてくる。
「私ですか、ハーレーです」
とは、恐れ入りました。

 ☆☆
フジテレビの『家族ゲーム』見てますか。桜井翔クンの家庭教師、結構行けるかも、でもお誂(あつら)え向きに過ぎてるな、と思いつつ見てましたが、やっぱりダメですね。森田芳光監督の映画(1983年!)は良かったですね。いるようでいない家庭教師(松田優作)は、いないように思えて、実はいるんじゃないか、というそんな気持ちにさせましたね。ところが翔クンは違う。あんなあり得ない離れ業はやっちゃダメでしょ。方や森田『家族ゲーム』は、ラストに近いところで、父親(伊丹十三)のくだらない演説がありましたが、シュールなチャチャを入れる優作の演技が笑えました。でも、今回は家庭教師の方から演説が始まってしまった。あの「弱者に寄り添う」って受けのいい発想、やめて欲しいんですよねえ。