実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

森の時間  実戦教師塾通信四百九十七号

2016-05-27 11:12:05 | 子ども/学校
 森の時間
     ~「自立」「甘え」~


 1 40年の時を越えて

 いま出向いているのは小学校である。40年の時を越えて、私はあの時の空気を吸ってる気がしている。

多分その頃の写真。丸ごとオフモードで口を開けている私。当然だがこの時は、土曜日も学校だった。おそらく子どもたちが下校した後の昼下がりに、すっかり弛緩(しかん)している私だ。職員室は茶飲みコーナー、穴だらけのソファも、後ろの掲示用黒板も、時代を写している。ちなみに私もビートルズ世代の申し子よろしく、長髪である。
 新規採用の年だった。小学校で、初めて子どもを受け持った。三年生だった。何があっても相手のせいにしたアケミ。授業中、ずっと教室内を「散策」していたヒロユキ。すぐに泣きだす甘ったれのリュウジ。そして、ウサギのように結んだ髪が交互に目に当たる感触を味わうように、授業中ずっと首を振っていたマユミ。
 大変だったはずなのだが、かわいい、いつもそう思っていた気がする。この感覚は、そんなに長く続かない。当時、私の学級通信を読んで、
「こういうの(話題)は、クラスに無限にあるんでしょうね」
と、嬉しそうに言ってくれた保護者がいた。しかし、「似た話」は、学級通信に書けなくなる。私の子どもを見る目も、子どもたちの好奇心も幼さも、時間とともに別なものに移るからだ。これがいい意味でも悪い意味でも「慣(な)れ/成長」だと、少しして分かった。いつもその変化に接して、楽しく対応して行こうと心がけるようになったのは、数年後だったと思う。
 採用一年目にしかなかった空気が、あそこにはあった。
 まさか、この空気にもう一度触れるとは思わなかった。

 2 「明日も来てね」
「おはよう」
「昨日と服がちが~う」
「このノート見ていい?」
「(窓から)なに見てるの?」
窓の外で子どもたちが、水を撒(ま)いていた。ミニトマトの栽培らしい。
 こんな風に子どもたちは、ふたこと、あるいはみこと、通りすがりに話しかけて、別な場所へ消えていく。低学年の子どもたちだ。
 担任の先生たちは、まだ部活動の時間だ。教室に大人は私しかいない。朝の活動前のひととき、私はふと、森を歩いているような錯覚(さっかく)に落ちる。木々の間から差し込む優しい光の中に、鳥たちのさえずりが聞こえる。

     これは森ではなく、手賀沼。蓮畑のそば

 前日のアクシデントを思い出し、本人が登校したので確かめる。どうやら勘違いだったようだ。連絡帳には、担任の先生からの報告と、そのあとにお母さんの「すみませんでした」のやりとり。
 また森に入った。
「出来たよ!」
前日、ペンケースに分厚く置いた糊(のり)が固まったのだ。星のシールでデコレーションがしてある。かわいいねと言ったら、あげると言われてしまい、少しあわてる。
「明日も来てね」
って、まだ今日は始まったばかりだよと、私の胸が反応する。担任の先生たちは、ドリルに生活ノートに、授業の準備。そんななか、私は美味しいところばかり食べている、そんな気がして申し訳ないような朝。
 朝のあいさつは「おはよう」ばかりを言うのではない、新採の時からずっと感じていたことを、また思い起こす。

 3 「自立」「甘え」

     これは私の最後の勤務地での体育祭

 私がいまの段階で一番手にしたいもの、それは子どもたちからの、
「安心」
である。そして、以前と違っているのは、今度はそれを、
「(若い)先生たち」
にもキープしてもらいたいと思っているところだ。ここの「安心」が大切なのだ。
 自慢話だが、私が担当した教育実習生の多くが、
「先生の授業は楽しいとかうまいとかもありますが」
「一番は、子どもたちが『安心』して授業を受けてるんです」
と言ってくれた。なるほどそうかと喜んだあと、なんか大切なことだよなと思ったことを覚えている。以下のあれこれは、子どもたちのことで言っているが、先生たちに当てはめて読んでもらっていい。
 まずは「肯定/承認」だ。これがなくて対話はない。子どもたちを承認すること、
「分かった」
「そうなんだね」
とすることである。これがあって子どもたちは「安心」に足を踏み入れる。
 するとここで、
「それでは子どもは自立しない」
「甘えてしまう」
「勝手なことに走ってしまう」
と考える、しょうもない「指導者」たちが出てくる。そしてこの人たちは、
「だから、我々が導かないといけない」
という道筋を立てる。断るが、こういう指導者は、あくまで「多く」であって、すべてではない。ちゃんとした指導を出来る人もいるのだ。
 また私も、すべてを「肯定/承認」するわけではない。出来るわけがない。たとえば、世間というものをまったく知らないくせに、怖いもの無し風情(ふぜい)いっぱいのケツの青い連中(中学生に多い)を、いい気にさせておくことはない。
 しかし、こういう連中に対しても、また、正体をつかめない子どもたちに対しては特に、
○一体どういうつもりなのか
○どういう子どもなのか
探らないといけない。こういうことを私たちは、
「子ども理解」
と呼んできた。それで私たちは、フェイントやカーブで、そして直球で、子どもたちを試(ため)したりする。直球でいきなり勝負に出ると、向こうが立ち直れなくなるダメージを受けたり、こっちが後に引けなくなったりと、あんまりお勧(すす)めできない。やっぱりフェイントでコンタクトするべきかと。
 まあ、こういう手続きをしないといけない。この「子ども理解」も含めて「承認」と考えていい。そのあとだ、「指導」は。この大切な手続きをしないものを、日本語では「はったり」と呼んでいる。
「オレの言うことを聞けないのか!」
「ならんものはならん!」
というやつだ。「はったり」ってのはボロを出す。頭の切れる奴には「即(そく)」、どんくさい奴でも回数を重ねるとばれる。
 よく、相手は子どもだから、
「毅然(きぜん)とせんといかん」
などと言う。いやあ、私に言わせれば、
「子どもはみんな分かってる」
ですね(良かったら、拙著『学校をゲームする子どもたち』を参照してもらえると嬉しいです)。

 さて、席に着くことについて考えてみよう。席に着けないのは、
○生来、ボーッとしている
○もともと学校のリズムになじめない
○家が大変で、それどころではない
○友達とうまくいってない
○いま楽しくて席に着けない
○ルールと反対のことが楽しい
○みんなが席に着いた後の方が落ち着く 等々
もちろんもっとあるが、こういう子どもの状態を、私たちがつかんでいるかどうか、だ。そこに、
「子どもの安心の場所」
が生まれる。私たちは、意識的/無意識にその作業をしている。そしておそらく、私たちのほとんどは、「はったり」に我が身をゆだねてはいない。しかし同時に、そこんとこを自覚してはいない。自覚すべきなのだ。
「あわてなくていいよ」
あわてている子どもを見たら、私たちはそう言っているはずだ。そしてきっとその言葉を、自分自身にも言っているはずなのだ。


 ☆☆
給食なんですが、職員室で食べてます。見ていれば、
「それ、違うだろ!」
と、イノシシの突進で介入することは間違いないんで。
誰もいない校庭を見ながら、そしてお昼の放送を聴きながら、昨日はシチューを食べました。

     今年も手賀沼の蓮は、たくさん生い茂るようです。

 ☆☆
31日(火)に、館山中2自殺事件の第三者委員会(第三回)が開催されます。このニュースに触れることの出来る千葉県の読者は、すでに会議がどんな方向に行くのか見えているかも知れません。いいにつけ悪いにつけ、秋ごろには方向性が明らかになると思います。
新しい読者はご存じないと思います。良かったら、このブログの295号を参照してみてください。

牛の乳  実戦教師塾通信四百九十六号

2016-05-20 11:16:25 | 福島からの報告
 牛の乳
     ~日々の暮らし~


 1 冷や汗流しつつ

 事務員さんが笑顔で出迎えて言った。
「ここ(『ニイダヤ水産』)に来るお客さんがみんな『どうしてこのお店に、これ(写真)があるんだ』って聞くんですよ」

この写真は、仲間のみんな(私の娘も)と一緒だが、仲村トオルだけひとりアップされているものも、一緒に貼ってある。二年前の夏、みんなでいわきの支援をした時のものである。
「おかげでいい宣伝になります」
この日は社長が不在で、彼女は嬉しそうに話した。
「少しでもお役に立てていれば」
とは、いつも本人が言っていることだ。きっと喜ぶ。
 また、首都圏で研修のチームを作っている歯医者さんたちは、相変わらず注文を欠かさないらしく、
「どうしてでしょうね」
と、これも嬉しそうに言う。だから、
「ニイダヤが美味しいからですよ」
「『こんなに美味しいんだからもっと売れるはず』って言ってましたよ」
と、私も応じた。
 毎日、無事に終われるのかどうか、いまも「ニイダヤ水産」は、自転車操業である。しかし、こんなふうにいつも、いいことがあるそうだ。そのことで頑張ろうという気持ちが出てくるんですよ、と話した。

 冷凍のガラスケースには、新製品の「鯖の塩焼き」が並んでいた。

 2 天神岬スポーツ公園
 いわきも楢葉も、嵐のようだった。これはだいぶ前の写真、曇天(どんてん)の空に浮かび上がった広野の火力発電所である。

 この日は、雨と波の中にすっかり姿を隠していた。

 天神岬のスポーツ公園が、装(よそお)いも新たにスタートしたとは、福島テレビのニュースである。


確かに新しく立派な遊具が、ふたつあった。でも、強風と吹きつける雨の中に、まったく人の姿はなかった。まだ、咲き残っている八重の桜が、雨に打たれて、健気(けなげ)に咲いていた。

 3 牛の乳
 その天神岬に、
「ゴールデンウィークの時、高校の友達を10人ぐらい連れてきてさ」
「(公園敷地内の)しおかぜ荘で温泉に入って行ったよ」
酪農家・渡部さんの、息子の話だ。
 この日も私は、広野町役場内イオンで弁当を買って行ったのだが、前回同様、渡部さんの具合が良くない。前回は二日酔いだったが、今回は、
「なんか、どうも」
だった。渡部さんはまたしても、
「夜、息子に食わせっか」
と言って冷蔵庫に入れるのだった。少し気になる。こたつテーブルの上に、胃薬が置いてある。
 周囲は家もまばらである。それから考えれば、庭は広くない。よく手入れがされた植え込みの枝先に、袋が被(かぶ)せてある。ブルーベリーだそうだ。
「おっかがやってんだよ」
その庭の向こうには、広い牧草用の畑地が広がっている。当分、牧場を再開する予定のない渡部さんは、仕方なく除草剤をまいたそうだ。

 楢葉でも、乳牛の試験飼育を始めた農家がある。木戸川を少し上ったところで、震災前は100頭ぐらいの規模でやっていた農家だ。それが、北海道から6頭ほど買いつけ、いよいよ乳を搾(しぼ)るという。半数は買った飼料を与え、残りは自分のところでとれた牧草を与える。それで線量を測定する。前も書いたが、牛の乳は血液と考えていい。餌(えさ)を食べた結果、線量がどうなったか、その日か翌日に明らかになる。肉とはまったく違う世界だ。
「その農家の試(こころ)み、目が離せませんね」
という私に、渡部さんがうなずく。
 それにしても、牛は生まれてから死ぬまで、ずっと乳をだしているものなのか。私は聞いた。渡部さんの答えは、「イチネンイッサンが理想だって言うよ」だった。「イチネンイッサン」?
「一年一産」
と書くらしい。これは、牛(もちろんメスである)が、一年に一匹子牛を産むことを言う。
「出産前2カ月は、搾乳(さくにゅう)を休まないといけない」
つまり、年間10カ月、牛は乳を出す。だからナニ? 私にはまだ分からない。
「子牛は生まれて4カ月ぐらい母乳で育つんだよ」
驚いた、そうか! 私はまったく気にせずにいた。牛の乳は、子牛のためのものだった。私たち人間のために出してるわけではなかった! そういう現実にあるにしても、だ。
「子牛が飲まなくなっても、乳は出るんですねえ」
感心しながら、私はつぶやいた。
「(品種)改良されてっからね」
なんてこった。牛の「品種改良」とはそういうことか。そしていい加減、乳が出なくなる頃、また子牛を産むと乳が出る。それで「一年一産」なのだ。私の驚きは消えなかった。

 4 福島県産の肉牛?
 もう肉牛への転向を決めている渡部さんである。乳牛なら北海道、しかし肉牛は、宮崎や岡山から仕入れることが多いそうだ。
「でも県内産(川内など)っていう手もあるんだ」
え? 渡部さんの言葉に反応してしまう。飯館のブランド牛も、一部は避難したものの、みんな殺処分の憂き目にあったんではなかったっけか。
「いや、殺処分されたのは、原発圏内20キロの牛だよ」
そうだ、思い出した。それ以外は、岩手や九州に避難した。そして、そこで「肉」となった牛は、それぞれ「岩手産」「宮崎産」となった。それは、原発事故以前もやっていたやり方だそうだ。
 当時、ニュースとなった「産地偽装」を、私たちは思い出した方が良さそうだ。
「福島産の牛なのに、信州とか言ってる」
というやつだ。本当は堂々と売れるものだった。でも、世間はそうは思わなかった。そして、売る側も萎縮(いしゅく)していた。

 原発事故は終わってないんだぞ、いつものように、そして改めて思った。


 ☆☆
九州の地震があってすぐ、佐賀の方に連絡しました。東日本大震災のおり、大挙していわきにやって来てくれた中の一人です。佐賀はそれほどでもなかった、熊本には事情があってかけつけられなかった、いつか九州にぜひおいで下さい等と返信をいただきました。ありがたい返信でした。
いわきの社協は、九州派遣の余裕を持たないそうです。残念。

 ☆☆
先日、たまたま30になる教え子と会ったので、
「今度、現場復帰するよ」
と伝えると、
「え~?! 若い先生がかわいそうだよ~」と、声を上げるんです。
「後ろから『オメエ、なにやってんだよ!』って言って、自分でやっちゃうんだよ、きっと」
「ガムテープで口にバッテンしておきな」
とは、なんて失礼なやつらだ。
そんなわけで、もう始まってるんです。とりあえず学校ってやっぱり、いろんなウィルスが入りこみますねえ。呼吸器系の弱い私はすぐ、のどがいがらっぽくなりました。

 ☆☆
大相撲、いよいよ大詰めですねえ。舞の海は下らん水を差すな。

「しなやかに」  実戦教師塾通信四百九十五号

2016-05-13 11:46:46 | 子ども/学校
 「しなやかに」
     ~『学校でしなやかに生きるということ』を読む~



 1 公立学校へのこだわり

 北海道の石川晋先生から著書『学校でしなやかに生きるということ』(フェミックス)が届いた。石川先生はいつも間を置かず本を出していて、気が向くと?私に送ってくれていた。でも、そろそろ私に見切りをつけたんではないかと思っていたので、郵便受けに本を発見して、オヤと思ったのが正直なところだった。
 このブログの読者は、学校関係者の割合が、おそらくかなり低い。だから、学校界において高名な石川先生なのだが、その紹介しておかないといけない。
 石川先生は、北海道の小さな町(上士幌)の中学校で先生をしている。その一方、全国の教師から誘いを受けて、講師として走り回っている。旭川での経験もあるが、都市でもやってんだゾみたいに偉そうな気負いはない。こだわりは、この上士幌の子どもたちが、
「大人になって利害関係も生まれてくる」(2章「十年後の子どもたちを想像しながら」)けれど、
「地域のいろんな生業(なりわい)を持つ地域の『公立学校』で、話し合いが出来る信頼関係を作って」(同)
おけば、
「(いつか)地域に戻ってきても、顔見知りの『あの子』との関係を頼りに(できる)」(同)
というものだ。自分が出立(しゅったつ)し、そして戻る場所は都会ではない、ということのような気がしている。石川先生は現在、このことを実践しているのである。

 2 「教育技術」
 震災があった年の冬、新しい年になっていたかと思う。石川さんはわざわざ柏まで、私の話を聞きに来た。ずいぶん深夜まで駅近辺の酒場で話した時の印象は、どうしてこんな真面目な人がわざわざ五百キロ以上も遠くから足を運んで来たのだろう、ということだった。でも同時に、石川さんが子どもや学校現象に対して、学校的な眼差しから免(まぬが)れた「いらだち」を持っているとも感じた。私のモチベーションから最も遠いところにある、あの「教育技術」という枠組みと、石川さんが発する「いらだち」は、別なもののように思えた。
 その後何度も、石川さんは私に著書を送ってくれたのだが、失礼を承知で言えば、どれも五分ほど読んでいると、居眠りしてしまうものだった。酒場で感じた石川さんの「いらだち」が、そこには感じられなかったのである。本の中、時には苦労話や怒りもつづってある。しかしそこには、ある「完結感」が否めないのだった。石川先生を信じて慕(した)っている先生方は、この「完結感」がまたたまらず、きっと自分の指針と希望にしているのだろうなあ、と思ったのだった。それはもちろんいいことなのだが、私の興味関心をそそらなかったのは間違いない。
 その後、対談『教師をどう生きるか』(2013年・学事出版)という本が届いて、私の気持ちが少し変わった。どうやら石川先生のこだわり・たたずまいがようやく見えた、柏での姿が見えてきたと、私は思った。そして今回の本である。今度は身体半分ぐらい見えたと思っている。

 3 「合法的たち歩き」
 石川先生の本を評するのは、初めてだと思う。なんか嬉しい。
 石川先生は、以前、病休に入った新卒の先生から、こう言われたそうだ。
「生徒と上手くいかない。……やりたいことが、職場で理解されなかったり、事前に指導されたり、保護者会できつくいわれたりするのがつらい。……」(1章「教室をめぐる21の風景」№11)
石川先生は、
「あなたがうまくいかないと嘆(なげ)いていること、それらすべてを含めて仕事というんだよ」(同)
と言いたかったが、言えなかったとある。おそらく石川先生の持ち味も、自身で感じているもどかしさもここにある、と私は思った。
 石川さんが「喉(のど)まで出かかったが……いえなかった」ことをどうこう言っているのではない。相手は病休に入った人間だ。私には石川先生の土俵が、ここに示されているように思えたのだ。石川さんは、まだまだひ弱な教員を、何とかしてひっぱり上げようとしている。
 たとえばこの本以外にも書いているが、石川さんは、前から「合法的たち歩き」なる授業を提案している。私はそんなくだりに速攻で反応してしまうのだ。つまり、いま多くの学校で、しょうもない生徒どもが「非合法的たち歩き」なるものをやっているわけである。私(たち)は、
「オマエたちがそんなことをやったつもりが、しょせん『合法』の枠を出られないのさ」
と、お釈迦様の手のひらを見せてきた。いや、これが簡単なことではないのだが、これが私のエネルギー/やる気だった。これを石川先生も否定はしない。と思う。
 おそらく、子どもとの向き合い方/語りかけの仕方など、多方面、いや全面かな、にわたって、若い先生たちが方途を見いだせないでいる、そのことを何とか出来ないだろうか、そう石川先生は思っていたのだと、今回の本でようやく私は気づいた。と思った。生徒を机と椅子に拘束(こうそく)し、黒板/スクリーンに注目させ、一時間の授業を無事すませる/自分(教師)の目標にひたすら邁進(まいしん)する、そんな若い教師の姿を、石川さんは複雑な思いで見ていたのだろう。そして、それらはそんなに大切なことではありませんよ、もっと自由にやっていいのですよと、石川さんは語りかけていたのだ。そしてこの眼差しは、大人/教師に対してばかりでなく、いまを生きる子どもたちの大変さにも注がれている。
 いつも「遅刻しそうな時間なのに、自転車置き場から歩いてくるのはけしからん」(1章)と、教員の間で評判の悪い、かな子の話である。石川さんが育児休暇をとって、毎朝娘うららの通園で車を走らせている時、かな子とよくすれ違っていた。その時のことを取り上げている。
「彼女は少なくとも家から(学校まで)……猛スピードで自転車をこいでいるのだ、顔を真っ赤にして。……自転車置き場にたどり着いたときには……体力も気力もなくなっている。……学校玄関までのとぼとぼも説明がつく」(同)
全編にこんなしっとりした温かさが流れている。
 これが石川先生の持ち味である。

 4 教師の仕事
 そして、石川先生自身がもどかしいと思っている部分だ。
 1章の「いじめアンケート」のところである。岩手県矢巾町の生徒が自殺した事件の後、いじめ調査による発生件数が一挙に跳(は)ね上がった。それは今まで、
「管理職は上からの、教員は管理職からの、無言の圧力の中で、できるだけ事案を減らして報告したい」
思いがあって少なかった、だから今回は「ごまかしてきたものを……『白状した』ということだ」と、石川先生は書いている。
 ここからは私の持論である。大体の教師が、
○物事は丸く収まるのがいい
○だから、「おおごとになることは避けないといけない」
とする体質を持っている。そしてそれは、石川先生も言うところの「学校にあふれる『善意』」(1章№1)に支えられている。だから教師は、子ども周辺に起こるいやな出来事に対して、
○気にすることじゃない
○オマエが大人になることだ
などと言ったりする。念のために言うが、これは正しいあり方である。そして、これらは教師の「自主的/主体的」態度だ。管理職から言われているわけではない。しかし、これらの出来事がしばしば「気にするな」ですまなくなる。そうなったら、その現実に自分も子どもも向き合わないといけない。ここの見極めを誤ると、取り返しがつかないことにも進行する。子どもは地獄に、教師は非道な存在に成り果てる。それはあっと言う間だ。
 こんなことを話すと、私はよく、
「先生って、そんなにひどい人たちですか」
と聞かれる。そんなことはない。みんないい人たちなのだ。丸く収まっている時はいい。その「収め方」のキャパに差の出ることもあるけれど。しかし肝心なときに、多くの教師が、向き合わないといけない現実に、残念ながら背を向ける。
 石川さんが、前出した、
「それらすべてを仕事と言うんだよ」
と言う時の、おそらく感じている「もどかしさ」を、私は自分のこんな気持ちに重ねてしまう。
 本のタイトル「しなやかに生きる」とは、自由に伸びやかに生きるために、僕たちは何ができるだろう、という気持ちを込めたタイトルであるという。
 石川さんの気持ちが、子どもたちや先生たちに通じればと思う。


 ☆☆
小学校は運動会の季節に入ったようです。ある母親から、組体操を残せないかと、相談を受けました。手遅れですねと言いました。あんなに巨大なものになる前に、と思うのです。もともと組体操は、ちゃんとした指導体制ができてなければ、簡単な倒立(逆立ちですね)やサボテンでも骨折したりするものでした。何せ、規模が30人なんて少人数でなく、100や200になるのですから。
感動も悪のりすれば、大きな災いが待ってます。科学や、そして「きずな」も悪のりしてはいけない、私は思ったのでした。

     今年も庭のバラが咲いてくれました

 ☆☆
柏の事件、驚きました。残念です。

ぼうず小山  実戦教師塾通信四百九十四号

2016-05-06 11:59:37 | 戦後/昭和
 ぼうず小山
     ~孤独の心地よさ/心細さ~


 1 アホノミクス

 先日、柏市民文化会館で行われた浜矩子の講演会「私たちの生活どうなるの?―『アベノミクス』を斬る―」に出向いた。主催者も驚きの1338名の参加者は、大ホールをすべて埋めつくした。
 浜氏が語る政治経済をめぐる諸問題の先々に、一体どんなものがあるのだろう。私はここ最近考えていることを思いつつ聞いていた。
 経済政策の底に横たわっている様々な社会問題、今回書くことと関連するものを少し列挙すると、
・保育所不足を含んだ子育て問題
・孤独死などの高齢者問題
・さびれる自治体/商店街  等々

 結論のひとつをあらかじめ言っておきたい。
「仕方ないこと」
があるのだ。前号の続きではない。
「自分たちの都合のいいようにはいかない」
のである。自分たちの選んだ道の向こう側に何が待っているのか、私たちは知らないといけないし、覚悟しないといけないという意味である。
 少し言っておくと、いま所狭しと言ってもいいくらいあちこちに出来ている施設や病院/診療所、そして葬儀屋。これらはあと20年後、そして30年後に一体どうなっているのだろう。我々団塊の世代は、その頃に大体片づいている。箱ものと言うべきこれらの建物は、きっと行き場を失っている。それは、団塊ジュニアを当て込んで乱立した大学や高校が、行き場を失っている現状に重ねて見ると、分かりやすいかも知れない。

 2 ぼうず小山
 前号で少し登場した私の最初の勤務場所の近くに、仲間の便利屋が、先だって事務所兼倉庫を移した。昔は毎日のように通過した場所を、私は懐かしい思いで訪ねた。そして驚いた。

40年前は、当たり前のように辺り一面こんな田園風景だった。理科や図工(写生)はもちろん、体育の場所としてもキープされており、子どもたちが虫や花と戯(たわむ)れる場所だった。

それが今はこうして、高圧電流を流す鉄塔が空を配し、荒れた土地のあちこちに、おそらくは「ヤード」と言っていい、ゴミの集荷と処理をする施設が点在していた。これらは昔、緑を満々とたたえた田園だった。

前の写真手前方向に森に通じる細い道を見つけて、今となっては荒れ果てた森と丘陵(きゅうりょう)が「ぼうず小山」であることを、私はようやく思い出した。もしかしたら「ぼうずっ子山」が、子どもたちによって「ぼうず小山」にいい変えられたのかもしれない「ぼうず小山」。登下校や虫取りに使ったこの道は、痴漢出没の名所でもあった。しかし、どこにもそんな名残(なごり)などなく、たまにトラックがほこりを舞い挙げて通りすぎるだけだった。
「田んぼはやめちゃったんだけど、地主は土地の管理をちゃんとしてたんですよ」
「でも、二代目がいい加減で、だまされてね」
「事務所にしたいとか言うんで貸したみたいだけど、ゴミ置き場にされちゃったんですよ」
と、便利屋の仲間が話した。このあたりの空気はとてつもなく悪いんだろうなあ、と私がつぶやくと、仲間は笑った。
 実は、初めの田園風景も現在の写真で、私の母校から見て西側のものだ。反対側がひどいことになっている。しかし、こうしてしっかりと暮らしを守る人たちはいるのだった。
 私たちはどこから来て、どこに行こうとしているのだろう。

 3 月島
 月島界隈(かいわい)は、大正の関東大震災後に、隅田川河口を埋めたて、住宅地として整備された。第二次大戦時、東京が丸焼けとなった中、奇跡的にそのままの形で残った月島は、1950年に改正された建築基準法のため、建て替えか増改築時には、路地を拡張し建物を縮小しないといけなかった。 

     これは月島地区を散策中の吉本隆明(撮影・荒木経惟)

 そして実際どうなったかは、読者もご存じの通りで、写真のように狭い路地に二階建ての住居が密集している。古いながら、何度も手入れされたあとがうかがえる。
 初めはみんな平屋だった。それがあとでみんな二階建てになった。人々の必要が住居を上へと拡げ、空を縮めた。そして戦後の人々の必要が、狭い路地の密集した住居を守った。柱の一本でも残せばすべて建て替えようとも、それを家の「模様替え」として理解してよいという常識が、この月島でまかり通ったのである。
 月島も、銀座や谷中と同様、路地の魅力の広告塔となっている。若者が古い民家に住もうと言い出したり、空き家を改築してお店にするということが起こっている。いい兆候だといい。持続するといいが。などと思う。空き家はこれからも増え続けるからだ。

 4 心細さとわずらわしさ
 私が住んでいる近所にも、あちこち新築の家が並び、スーパーがびっくりするくらいたくさん開店している。一戸建ての家があっても、それが古ければ、そこには親(年寄り)が住み、若い世代は新しい家を求める。ショッピングセンターがあってもスーパーが進出するのは、そこが通る人の多い道だったり、交通手段を持たない老人を抱える団地があったり、という事情が働いている。空き家と老人の孤独死は、目の前にある。
 もともと私たちは、家業を継(つ)ぐことがなくとも、家屋とともに親(の老後)を引き受けた。しかしその後の私たちは、(父)親から自立して家を出て、あるいは家族を形成した。目指したのは東京(都会)だった。そんな私たちが孤独に死んでいくのは「仕方がない」ことではないのだろうか。私たちは家と親、そして故郷を拒絶する場所へと移動したのである。
 地域が空洞化して、かつての田野が産業廃棄物の置き場になっている。また、水道やガスをとてつもない料金で、ようやくまかなっている町や村も出てきている。故郷に帰ることや、家族を再構築するということが、選択肢としてあり得るのだろうか。

 私たちは、よく行く店でよく見かける客を確認して、なんとなく安心したりしている。しかし、その人が挨拶をして来たりすると、なんとなくだが、わずらわしく思ったりもする。そんな風に私たちは、それほど孤独を嫌っていない。そして、人との関わりをわずらわしく思ってもいるものだ。私たちがいま経験している問題の発端(ほったん)は、ここにあるような気がしている。独りで自由でいることの心細さには耐えられても、私たちは人々との関わり(きずな?)のわずらわしさに耐えられなかったのだ。
 この心細さに耐えられず、私たちはきっと雑踏(ざっとう)を求めた。それは心細さとわずらわしさのバランスを、うまく取ってくれた。
 東日本震災の後、私たちは心細さの方を露出させた。道を譲るとか、挨拶をするようになった期間が、確かにあのころはあった。この心細さこそが、わずらわしいと思える近隣との「きずな」を、昔の私たちを支えてきた。つまり「復興」とは、それを削る過程だったのかも知れない。
 震災後、初詣(はつもうで)参拝の人たちが増えたという。初詣は、「幸福」という共通の目標を持った、心細い人々の「行進」なのかも知れない。
 それはいつか、空き家/空き地/故郷へと向かうのだろうか。


 ☆☆
九州で、建物の全壊/半壊の判定が問題になっています。また5年前を思い出します。
「たった一本でも柱が残ってたら『半壊』なんだよ」
と怒りに震えながら話す被災者がたくさんいたんです。その後です。被災地にたくさん入っていたボランティアの弁護士さんたちが、それはそれは一生懸命に走り回って、こういった案件は全壊扱いになりました。
皆さんどうしているのでしょう。

 ☆☆
前回の『刑事の勲章』でのセリフ引用ですが、違ってたみたいですね。三人ぐらいが混じって、私が勝手に構成していたみたいです。指摘を受けました。don't mindですね。

 ☆☆

これは旬も最後、東京は檜原村から先輩が送ってくれたものです。今年は筍三昧の年でした。ありがたいです。