森の時間
~「自立」「甘え」~
1 40年の時を越えて
いま出向いているのは小学校である。40年の時を越えて、私はあの時の空気を吸ってる気がしている。
多分その頃の写真。丸ごとオフモードで口を開けている私。当然だがこの時は、土曜日も学校だった。おそらく子どもたちが下校した後の昼下がりに、すっかり弛緩(しかん)している私だ。職員室は茶飲みコーナー、穴だらけのソファも、後ろの掲示用黒板も、時代を写している。ちなみに私もビートルズ世代の申し子よろしく、長髪である。
新規採用の年だった。小学校で、初めて子どもを受け持った。三年生だった。何があっても相手のせいにしたアケミ。授業中、ずっと教室内を「散策」していたヒロユキ。すぐに泣きだす甘ったれのリュウジ。そして、ウサギのように結んだ髪が交互に目に当たる感触を味わうように、授業中ずっと首を振っていたマユミ。
大変だったはずなのだが、かわいい、いつもそう思っていた気がする。この感覚は、そんなに長く続かない。当時、私の学級通信を読んで、
「こういうの(話題)は、クラスに無限にあるんでしょうね」
と、嬉しそうに言ってくれた保護者がいた。しかし、「似た話」は、学級通信に書けなくなる。私の子どもを見る目も、子どもたちの好奇心も幼さも、時間とともに別なものに移るからだ。これがいい意味でも悪い意味でも「慣(な)れ/成長」だと、少しして分かった。いつもその変化に接して、楽しく対応して行こうと心がけるようになったのは、数年後だったと思う。
採用一年目にしかなかった空気が、あそこにはあった。
まさか、この空気にもう一度触れるとは思わなかった。
2 「明日も来てね」
「おはよう」
「昨日と服がちが~う」
「このノート見ていい?」
「(窓から)なに見てるの?」
窓の外で子どもたちが、水を撒(ま)いていた。ミニトマトの栽培らしい。
こんな風に子どもたちは、ふたこと、あるいはみこと、通りすがりに話しかけて、別な場所へ消えていく。低学年の子どもたちだ。
担任の先生たちは、まだ部活動の時間だ。教室に大人は私しかいない。朝の活動前のひととき、私はふと、森を歩いているような錯覚(さっかく)に落ちる。木々の間から差し込む優しい光の中に、鳥たちのさえずりが聞こえる。
これは森ではなく、手賀沼。蓮畑のそば
前日のアクシデントを思い出し、本人が登校したので確かめる。どうやら勘違いだったようだ。連絡帳には、担任の先生からの報告と、そのあとにお母さんの「すみませんでした」のやりとり。
また森に入った。
「出来たよ!」
前日、ペンケースに分厚く置いた糊(のり)が固まったのだ。星のシールでデコレーションがしてある。かわいいねと言ったら、あげると言われてしまい、少しあわてる。
「明日も来てね」
って、まだ今日は始まったばかりだよと、私の胸が反応する。担任の先生たちは、ドリルに生活ノートに、授業の準備。そんななか、私は美味しいところばかり食べている、そんな気がして申し訳ないような朝。
朝のあいさつは「おはよう」ばかりを言うのではない、新採の時からずっと感じていたことを、また思い起こす。
3 「自立」「甘え」
これは私の最後の勤務地での体育祭
私がいまの段階で一番手にしたいもの、それは子どもたちからの、
「安心」
である。そして、以前と違っているのは、今度はそれを、
「(若い)先生たち」
にもキープしてもらいたいと思っているところだ。ここの「安心」が大切なのだ。
自慢話だが、私が担当した教育実習生の多くが、
「先生の授業は楽しいとかうまいとかもありますが」
「一番は、子どもたちが『安心』して授業を受けてるんです」
と言ってくれた。なるほどそうかと喜んだあと、なんか大切なことだよなと思ったことを覚えている。以下のあれこれは、子どもたちのことで言っているが、先生たちに当てはめて読んでもらっていい。
まずは「肯定/承認」だ。これがなくて対話はない。子どもたちを承認すること、
「分かった」
「そうなんだね」
とすることである。これがあって子どもたちは「安心」に足を踏み入れる。
するとここで、
「それでは子どもは自立しない」
「甘えてしまう」
「勝手なことに走ってしまう」
と考える、しょうもない「指導者」たちが出てくる。そしてこの人たちは、
「だから、我々が導かないといけない」
という道筋を立てる。断るが、こういう指導者は、あくまで「多く」であって、すべてではない。ちゃんとした指導を出来る人もいるのだ。
また私も、すべてを「肯定/承認」するわけではない。出来るわけがない。たとえば、世間というものをまったく知らないくせに、怖いもの無し風情(ふぜい)いっぱいのケツの青い連中(中学生に多い)を、いい気にさせておくことはない。
しかし、こういう連中に対しても、また、正体をつかめない子どもたちに対しては特に、
○一体どういうつもりなのか
○どういう子どもなのか
探らないといけない。こういうことを私たちは、
「子ども理解」
と呼んできた。それで私たちは、フェイントやカーブで、そして直球で、子どもたちを試(ため)したりする。直球でいきなり勝負に出ると、向こうが立ち直れなくなるダメージを受けたり、こっちが後に引けなくなったりと、あんまりお勧(すす)めできない。やっぱりフェイントでコンタクトするべきかと。
まあ、こういう手続きをしないといけない。この「子ども理解」も含めて「承認」と考えていい。そのあとだ、「指導」は。この大切な手続きをしないものを、日本語では「はったり」と呼んでいる。
「オレの言うことを聞けないのか!」
「ならんものはならん!」
というやつだ。「はったり」ってのはボロを出す。頭の切れる奴には「即(そく)」、どんくさい奴でも回数を重ねるとばれる。
よく、相手は子どもだから、
「毅然(きぜん)とせんといかん」
などと言う。いやあ、私に言わせれば、
「子どもはみんな分かってる」
ですね(良かったら、拙著『学校をゲームする子どもたち』を参照してもらえると嬉しいです)。
さて、席に着くことについて考えてみよう。席に着けないのは、
○生来、ボーッとしている
○もともと学校のリズムになじめない
○家が大変で、それどころではない
○友達とうまくいってない
○いま楽しくて席に着けない
○ルールと反対のことが楽しい
○みんなが席に着いた後の方が落ち着く 等々
もちろんもっとあるが、こういう子どもの状態を、私たちがつかんでいるかどうか、だ。そこに、
「子どもの安心の場所」
が生まれる。私たちは、意識的/無意識にその作業をしている。そしておそらく、私たちのほとんどは、「はったり」に我が身をゆだねてはいない。しかし同時に、そこんとこを自覚してはいない。自覚すべきなのだ。
「あわてなくていいよ」
あわてている子どもを見たら、私たちはそう言っているはずだ。そしてきっとその言葉を、自分自身にも言っているはずなのだ。
☆☆
給食なんですが、職員室で食べてます。見ていれば、
「それ、違うだろ!」
と、イノシシの突進で介入することは間違いないんで。
誰もいない校庭を見ながら、そしてお昼の放送を聴きながら、昨日はシチューを食べました。
今年も手賀沼の蓮は、たくさん生い茂るようです。
☆☆
31日(火)に、館山中2自殺事件の第三者委員会(第三回)が開催されます。このニュースに触れることの出来る千葉県の読者は、すでに会議がどんな方向に行くのか見えているかも知れません。いいにつけ悪いにつけ、秋ごろには方向性が明らかになると思います。
新しい読者はご存じないと思います。良かったら、このブログの295号を参照してみてください。
~「自立」「甘え」~
1 40年の時を越えて
いま出向いているのは小学校である。40年の時を越えて、私はあの時の空気を吸ってる気がしている。
多分その頃の写真。丸ごとオフモードで口を開けている私。当然だがこの時は、土曜日も学校だった。おそらく子どもたちが下校した後の昼下がりに、すっかり弛緩(しかん)している私だ。職員室は茶飲みコーナー、穴だらけのソファも、後ろの掲示用黒板も、時代を写している。ちなみに私もビートルズ世代の申し子よろしく、長髪である。
新規採用の年だった。小学校で、初めて子どもを受け持った。三年生だった。何があっても相手のせいにしたアケミ。授業中、ずっと教室内を「散策」していたヒロユキ。すぐに泣きだす甘ったれのリュウジ。そして、ウサギのように結んだ髪が交互に目に当たる感触を味わうように、授業中ずっと首を振っていたマユミ。
大変だったはずなのだが、かわいい、いつもそう思っていた気がする。この感覚は、そんなに長く続かない。当時、私の学級通信を読んで、
「こういうの(話題)は、クラスに無限にあるんでしょうね」
と、嬉しそうに言ってくれた保護者がいた。しかし、「似た話」は、学級通信に書けなくなる。私の子どもを見る目も、子どもたちの好奇心も幼さも、時間とともに別なものに移るからだ。これがいい意味でも悪い意味でも「慣(な)れ/成長」だと、少しして分かった。いつもその変化に接して、楽しく対応して行こうと心がけるようになったのは、数年後だったと思う。
採用一年目にしかなかった空気が、あそこにはあった。
まさか、この空気にもう一度触れるとは思わなかった。
2 「明日も来てね」
「おはよう」
「昨日と服がちが~う」
「このノート見ていい?」
「(窓から)なに見てるの?」
窓の外で子どもたちが、水を撒(ま)いていた。ミニトマトの栽培らしい。
こんな風に子どもたちは、ふたこと、あるいはみこと、通りすがりに話しかけて、別な場所へ消えていく。低学年の子どもたちだ。
担任の先生たちは、まだ部活動の時間だ。教室に大人は私しかいない。朝の活動前のひととき、私はふと、森を歩いているような錯覚(さっかく)に落ちる。木々の間から差し込む優しい光の中に、鳥たちのさえずりが聞こえる。
これは森ではなく、手賀沼。蓮畑のそば
前日のアクシデントを思い出し、本人が登校したので確かめる。どうやら勘違いだったようだ。連絡帳には、担任の先生からの報告と、そのあとにお母さんの「すみませんでした」のやりとり。
また森に入った。
「出来たよ!」
前日、ペンケースに分厚く置いた糊(のり)が固まったのだ。星のシールでデコレーションがしてある。かわいいねと言ったら、あげると言われてしまい、少しあわてる。
「明日も来てね」
って、まだ今日は始まったばかりだよと、私の胸が反応する。担任の先生たちは、ドリルに生活ノートに、授業の準備。そんななか、私は美味しいところばかり食べている、そんな気がして申し訳ないような朝。
朝のあいさつは「おはよう」ばかりを言うのではない、新採の時からずっと感じていたことを、また思い起こす。
3 「自立」「甘え」
これは私の最後の勤務地での体育祭
私がいまの段階で一番手にしたいもの、それは子どもたちからの、
「安心」
である。そして、以前と違っているのは、今度はそれを、
「(若い)先生たち」
にもキープしてもらいたいと思っているところだ。ここの「安心」が大切なのだ。
自慢話だが、私が担当した教育実習生の多くが、
「先生の授業は楽しいとかうまいとかもありますが」
「一番は、子どもたちが『安心』して授業を受けてるんです」
と言ってくれた。なるほどそうかと喜んだあと、なんか大切なことだよなと思ったことを覚えている。以下のあれこれは、子どもたちのことで言っているが、先生たちに当てはめて読んでもらっていい。
まずは「肯定/承認」だ。これがなくて対話はない。子どもたちを承認すること、
「分かった」
「そうなんだね」
とすることである。これがあって子どもたちは「安心」に足を踏み入れる。
するとここで、
「それでは子どもは自立しない」
「甘えてしまう」
「勝手なことに走ってしまう」
と考える、しょうもない「指導者」たちが出てくる。そしてこの人たちは、
「だから、我々が導かないといけない」
という道筋を立てる。断るが、こういう指導者は、あくまで「多く」であって、すべてではない。ちゃんとした指導を出来る人もいるのだ。
また私も、すべてを「肯定/承認」するわけではない。出来るわけがない。たとえば、世間というものをまったく知らないくせに、怖いもの無し風情(ふぜい)いっぱいのケツの青い連中(中学生に多い)を、いい気にさせておくことはない。
しかし、こういう連中に対しても、また、正体をつかめない子どもたちに対しては特に、
○一体どういうつもりなのか
○どういう子どもなのか
探らないといけない。こういうことを私たちは、
「子ども理解」
と呼んできた。それで私たちは、フェイントやカーブで、そして直球で、子どもたちを試(ため)したりする。直球でいきなり勝負に出ると、向こうが立ち直れなくなるダメージを受けたり、こっちが後に引けなくなったりと、あんまりお勧(すす)めできない。やっぱりフェイントでコンタクトするべきかと。
まあ、こういう手続きをしないといけない。この「子ども理解」も含めて「承認」と考えていい。そのあとだ、「指導」は。この大切な手続きをしないものを、日本語では「はったり」と呼んでいる。
「オレの言うことを聞けないのか!」
「ならんものはならん!」
というやつだ。「はったり」ってのはボロを出す。頭の切れる奴には「即(そく)」、どんくさい奴でも回数を重ねるとばれる。
よく、相手は子どもだから、
「毅然(きぜん)とせんといかん」
などと言う。いやあ、私に言わせれば、
「子どもはみんな分かってる」
ですね(良かったら、拙著『学校をゲームする子どもたち』を参照してもらえると嬉しいです)。
さて、席に着くことについて考えてみよう。席に着けないのは、
○生来、ボーッとしている
○もともと学校のリズムになじめない
○家が大変で、それどころではない
○友達とうまくいってない
○いま楽しくて席に着けない
○ルールと反対のことが楽しい
○みんなが席に着いた後の方が落ち着く 等々
もちろんもっとあるが、こういう子どもの状態を、私たちがつかんでいるかどうか、だ。そこに、
「子どもの安心の場所」
が生まれる。私たちは、意識的/無意識にその作業をしている。そしておそらく、私たちのほとんどは、「はったり」に我が身をゆだねてはいない。しかし同時に、そこんとこを自覚してはいない。自覚すべきなのだ。
「あわてなくていいよ」
あわてている子どもを見たら、私たちはそう言っているはずだ。そしてきっとその言葉を、自分自身にも言っているはずなのだ。
☆☆
給食なんですが、職員室で食べてます。見ていれば、
「それ、違うだろ!」
と、イノシシの突進で介入することは間違いないんで。
誰もいない校庭を見ながら、そしてお昼の放送を聴きながら、昨日はシチューを食べました。
今年も手賀沼の蓮は、たくさん生い茂るようです。
☆☆
31日(火)に、館山中2自殺事件の第三者委員会(第三回)が開催されます。このニュースに触れることの出来る千葉県の読者は、すでに会議がどんな方向に行くのか見えているかも知れません。いいにつけ悪いにつけ、秋ごろには方向性が明らかになると思います。
新しい読者はご存じないと思います。良かったら、このブログの295号を参照してみてください。