実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

実戦教師塾通信七十三号

2011-08-30 18:51:53 | エンターテインメント
現代能楽集Ⅵ『奇ッ怪 その弐』を見る その1

「向こう側」から見えるもの


 俳優仲村トオルに私は「あなたの仕事を全部追いかけていたら大変なことになってしまう」と良く言う。すると彼は必ず「(見なくても)いいんですよ」と言っていた。
 そんな彼が「是非見て下さい」と言ったのは二回目である。一回目は『空飛ぶタイヤ』(2009年放映WOWOW制作)、そして今回である。
 そっと彼の仕事を見守りつつ帰る、というこの日の私の予定は、終演後、誘われるままに楽屋に出向き、そこで我を忘れて「良くやった!」と言ってしまうという思いもかけない結果となった。

「今、この作品をきちんと創り 上演することはひとつの『使命』であり とても大切なことのように思えるのです」(舞台バンフレットより)

という彼の意気込みは、劇場のどこにも充分感じられた。演出・作/前川知大のこの作品、数年前の地震による災害で、多くの山間の住民の命を奪った、というもの。住民の命を奪った地下からのガスは、温泉の存在を保証していたが、温泉街として復興するだけの力が村には残っていなかった。となれば、もちろん私たちの現在の焦眉の課題、私たちのぶつかっている壁を思わないわけにはいかない。
 俳優仲村トオルは、さきのインタビューの部分を直前になって差し替えをしている。そこにはこのブログ64号「応援」のことが触れられていた。あの日は稽古休みの日だったという。そして久之浜で見かけた神社と鳥居の残骸。そして、そこにたてられていた『ここに故郷あり』ののぼり。

「その時は偶然の符号に驚きすぎて、しばらく思考停止のような状態になってしまったのですが、その後、いろんなことを考えて、戯曲が完成した今、あの場所で感じたことがこの作品を演じ、上演することの意味と重なっているように思えて来たんです」
これが仲村トオルの「使命」感を作った経過である。
 
 唐突と言われてもその通りであるが、この作品と共におおいに消化不良となっている、精神分析家ジャックラカンを解きあかすヒントとして私はこの舞台を感じた。だから、ジャックラカンが、この舞台を解きあかすヒントとして浮上していると勝手に考えたとも言っておく。今回はいつにも増して読みにくい部分が発生するかと思うが、そして極めて恣意的な私の、この舞台の「楽しみ方」となると思うが、私の消化不良に免じて許して欲しい。
 
 神社の床を模した舞台だ。奥行きのある部分は描いてあると思いきや、本当に奥まで続いており、ギャラリーに向かって斜になっている。客が見やすいようにとかいう安直な設定ではない。恐らく「向こう側」と「こちら側」が続いていること、「向こう側」と「こちら側」が不安定なバランスで保っていることを示している。それはこの神社の床のあちらこちらに見られる「穴」がそれを示している。「穴」が、こちらの油断を見澄まして大切なものを奪ってしまったり、また「患者」とつながるための電話や、精神医療の文献や、祭り準備に必要なものがその「穴」から出てきたりすることが、それを示している。
 多くの死者に関する逸話が展開される。それらはひとつのテーマに支えられている。ひとつ初めの方の逸話で考えよう。不慮の事故で死んだ息子は、その息子自身の生前の意思により、腎臓と肝臓を提供する。その息子の意思を知らなかった両親は、骨壺で帰って来た息子の死をどう受け止めるべきか悩む。母親は移植された腎臓と肝臓の中に息子は生きている、だからその移植先の人間を突き止めることが息子を探すことだ、とする。父親はそんなことをしても息子が喜ぶとは思えないと、母親をいさめる。遺族に、死者の死を受け入れる時間を提供しない現代医療の過誤と言えなくもないこの逸話は、実は三人目の人物「息子」が、もっと深い所に私たちを連れて行く。
 想像の行為によって相手を憎み、愛し、そして奪っていく(詐取)という症状をパラノイア精神病と言っておく。この行為は究極的に「おまえは私だ」という極限まで続いていく。これを病気と言わずに、ラカンは主体形成の過程と同じだという。パラノイア精神病の過程は「通常の」人間の主体形成の過程と同じものだという。そういう観点からラカンは「フロイトを越えて」患者に接し治癒していくのだが、さて、「私はこれだ」「おまえはこれだ」という袋小路が、死んだ息子のこの両親を通して見事に展開されていく。三人目の人物「息子」は二人の奥でじっと佇むばかりだ。
 似たようなことを、私たちは数多く経験してきたはずだ。その時私たちはきっと「おまえは分かっていない」「人の話を聞けよ」と言ったはずだ。「向こう側から考える」ことの難しさに私たちは苦り切ったはずだ。その「向こう側」は友人だったり、親だったり恋人だったり、「老い」だったりした。しかし、究極の「向こう側」は「死」だ。究極の意味することは、それが経験出来ないこと、死者からの話を聞けないこと、「死人に口なし」ということだ。

 3月11日から私たちは抜き差しならない状態に陥っている。村が町が、山が海がなくなり、多くの人がなくなったというそのことが、未だどういうことなのか私たちはつかめていない。では私たちの方から「向こう側」にいく手だては見いだせないのだろうか。「向こう側」は私たちの行く手を阻んでいるのだろうか。そんな筈はない。
 生者が死者をなつかしみ、そのおかげで生者同士が罵り合うという場面は、劇中、生者の死者をいざなう場面でもあった。死者はそんな中ためらいつつ「こちら側」に人知れず現れては消えていく。そんな死者を「悼む」ことが「向こう側」から考えるきっかけになるのではないか、それが「こちら側」と「向こう側」をつなげるきっかけになるのではないか、ずっと山田(仲村トオル)は語り続ける。
 あっと言う間にラストが来る。いや、始まりでもある。圧巻だ。静けさに心打たれる。数々の哄笑に癒されている私たちがいた。いやが上にも、舞台の中央にそびえ立つ「のぼり」に注目する私たち。


 ☆東京での千秋楽は9月1日 引き続き新潟、北九州、兵庫と公演されます。是非ご覧になるといいと思います。
 ☆この文章、携帯でなくパソコンで見てほしいです。携帯ではきっと分からないと思います。

実戦教師塾通信七十二号

2011-08-28 16:22:33 | 武道
全日本空手道剛柔会全国大会


 『日本復興剛柔の息吹』というメインスローガンのもと、大会が開催された。

「地震からすでに五カ月過ぎましたが、未だ被災地では不自由な生活を強いられる中、復旧から復興に向けて、被災地は勿論全ての日本人が一丸となってこの困難の克服に向け、心を一つに立ち向かっている姿に私は大きな感動を覚えます。
 失われた多くの尊い命に心からのご冥福をお祈りすると共に、一つの命も無駄にしないよう、これからの日本の未来のために皆で力を合わせようではありませんか。……本大会会場から被災地に向けて、いや、全国に向けて力強い『剛柔の息吹』を贈ろうではありませんか。
 『剛柔の息吹』とは強さと優しさの生命力です。
 厳しい境遇に晒された被災地に春の息吹と元気を失った日本の未来に大きな活力がみなぎることを願って、私の挨拶といたします」(大会パンフ『宗家・山口剛史先生あいさつ』より)

 剛柔会最高師範・山口剛史先生から大会の案内が届いた。剛柔流・剛柔会とはまったく無縁で、門外漢の私に案内をくれたことに驚き、感謝の気持ちを込めて酒をぶら下げていった。
 行ってみて驚いた。私は「来賓」だった。大きな会派・流派なので来賓も多いが、全くの部外者である私を来賓扱いする先生の器量に頭が下がった。
 私が来たら「(山口)先生のところまで案内するように、と言われています」と受付の方は、広い広い代々木の体育館の一番上座のところまで私を案内した。また驚いた。そんなことになっているとはつゆ知らず、私は先生と話したいと思っていたたくさんのことをすっかり忘れてしまった。先生はあの全空連役員が着るダブルのジャケットで立ち上がって、私のところまでやってきた。
「どうですか? あちらは」片づきましたか、という先生の顔が眼鏡の奥で笑っている。
 うれしいです、懐かしいです、としか言えない私に先生は、立派なスローガンだって?/偉そうなこと言っても我々はこんなことしか出来ないんだ/情けないよ/あなたはほんとに偉いよ/被災地のことを知りたいね/「呼吸」は全部(メニュー)をこなすことはない、忙しい中少しでもやっていけばいい等々、私には全てが励ましだった。
 大学での講義(これがもともとの縁だった)は、申し込まなくとも、来られるときにいつでも来てください、とは別な方に言われた。秋に少しは顔を出したい。
 午後一のプログラムで、先生の演舞を見る。フロアいっぱいに先生の気がみなぎる。そうして大学で先生と対面し、組んだ時のあの威圧感・重量感、体重でもない、力でもない、あの天と地の両方から送り出されるかのような力を思い出す。
 先生の態度は、私にかつての琉球での道場・指導者のことを思い出させる。今にありがちな唯我独尊、門外不出といった態度が昔の琉球では全く見られなかった。「型だったら摩文仁のところへ」「棒(杖)だったら松茂良のところへ」行きなさい、と指導者自ら自分の門下生に言うのが当たり前だった。


勝ち負け

 興味関心のない人にはどうでもいい話だろうが、今ばかりでなく、昔から武道界では「武道とは」とか「スポーツと武道」について侃々諤々の議論を続けてきたし、続いている。すっかりスポーツ化してしまった多くの武道。柔道は昔「一本」と「技あり」しかなかったのが、それに「有効」が加わり、今は「効果」という「技は決まらなかったが、相手のバランスを崩した」「積極的な技の形が見えた」等とかいうものまで勝敗のポイントになってしまった。「時間内で」「場内で」という制約が、作戦として浮上する情けない現実が生まれてくる。
 このポイント制に対する批判はもちろん様々なところから出されている。

「選手を見るかぎり、その選手がどの流派の選手かはまったくわからなくなってしまっています。……跳足で間合いをとって、相手の虚だけを狙ってポイントを上げる、という現行の試合では、たしかにその方が合理的ですし、効率的です」(摩文仁賢栄『武道空手への招待』より)
一行目の意味する所、競技化したおかげで「技」が消滅した、ということである。
「この全空連(全国空手道連盟)の試合が目も当てられないほどひどいことになっている。もはや沖縄空手の痕跡もない。組手(試合)はひたすらスピード勝負。しかも、ほとんどWKF(世界空手道連盟)の言いなりで、外国人のゲーム感覚をとり入れた六ポイント制。上段の蹴りが高ポイントになっている。テコンドーかよ、まったく…」(今野敏『琉球空手、ばか一代』より)
 また、空手ではないが、武道のスポーツ化に対しての発言。
「刀剣を取っての生き死にが百年以上も日常茶飯であったような時代では、そうはいかない。野球のバッターは打率三割で褒められますが、あとの七割で死んでいたのでは、戦国武士は勤まらない」(前田英樹『五輪書の哲学』より)
 さて興味深い試合上のルールが、この大会で提案されている。
〔自由組手試合について〕
 「自由組手試合」は通常の「競技組手」のように「技あり」「一本」等の有効打によるポイントで判断するのではなく、空手道本来の「攻防」の妙味を重視し、剛柔流独特の接近戦、及び「円」の動きと技の連続性などを二分間の攻防により判定し、優劣を決するものです。…馬力があっても技能が低い者、見かけが良く瞬発力があってもスタミナ不足の者、態度・品性に劣り粗暴な者、高技術を持ちながらコントロールに欠け「当て」が多い者、自由組手は、技量のみならずその者の人間性までを映し出してしまうものなのです。

 抜粋であるが、以上のような内容をもっている。もう十年以上も前に提案されて実施されているというこの試みには幾多の困難が待ち受けているだろう。昔、琉球・沖縄では路上の試合(掛け試し)が行われていたという。複数の立会人がその試合に臨むが、多くは途中で制止される。「あなたの実力ではこの人にはとても及びません」とその立会人は言うのだ。
 空手の近代化に伴い、禁じ手による技の封印、そして型軽視とスピードの奨励は進んだ。
 剛柔会・剛柔流の行く手を見守るとともに、自分自身の技の充実に励もうと思う。


実戦教師塾通信七十一号

2011-08-26 12:46:29 | 福島からの報告
スマイルさんから七十号にコメント


 ありがとうございます。ここにお礼の気持ちとともに、少し前号に書きついでおきたいと思ったので、補足します。

 被災地は変わったと書いたが、瓦礫処理をして来てよく分かったことがある。実は今、瓦礫処理をしていても被災者の顔が全く見えない。朝、仕事(依頼)内容の説明を私たちにすると、それで依頼主がいなくなることが多くなった。以前、依頼主は一緒に活動するか、それを見守る、という姿勢が基本だった。それで私たちは彼らが見守る傍らで、休みがてら津波や周囲の様子を聞くことが出来た。私たちがいる、というそれだけで被災者は気が紛れているように見えた。一緒に活動するというそのことで被災者は自分たちを奮い立たせているように見えた。「ありがとね」を繰り返していた被災者の方々の顔が、今はどこにいるのだろう、と考えて思わずハッとしてしまう。
 今被災者は、おそらくほかにやるべきことがあるのだ。アパート、あるいは仮設住宅に行って新しい生活の準備をする、または新しい生活をしないといけないのだ。瓦礫の現場で被災者の顔がストレートに見えたのは、ゴールデンウィークの頃までだったのではないだろうか。そうして被災者への支援はまた別な地点に来たと言えるのだ。しかし、それはセンターを解散するということではない。
 私は避難所回りから避難所暮らしをする機会を得、それで被災者の顔が少しは見えるところにいられたのではないか、と思っている。そして、そのお陰で今も活動の足と手を得ていると思っている。私は忘れてはいけないと思う。私は人助けでいわきに向かったのではない、ということを。あの、震災直後に見た東北の映像が何であったのかを確かめるためにいわきに向かった、ということを。私が役所とぶつかったのは、あの東北の人たちの映像をひどく歪めてしまうかのように役所は現れた。だから、おまえたちは邪魔だ、と言っていただけだ。「被災者を自立させよう」だと!? 今思ってもちゃんちゃらおかしい。いや、許し難い。
 不幸はみんなのところにやってきた、今さら自分だけ幸せになってどうするのだ、と雄弁に語っていたかのような震災直後の映像。それは今どうなっているのか。政治や国がしっかりしてないからとか、人々に過酷な現実がやってきているとか、無責任で無能な評論家諸氏は騙る。しかし、被災者が「あの頃」の「あの時」のことをちゃんと語れることをこの連中の中の誰一人知らない。被災者が振り返って「大変だったが頑張ってきた」と肯定的に話すことをこの連中は知らない。まだ東北の力は解明されていない。
 私はこれからきっと、除染や生活支援やと被災者の傍らで、志を共にする人と一緒に活動する。そして、被災者の笑顔や辛そうな顔と接しながら東北の力の謎を解きあかしたいと思うのだ。




露出したもの

 東北の力(謎)ばかりではない、震災・原発は様々なものを露出させた。とりわけ原発事故はそれまであいまいだったものを分かりやすい形にしてくれた。
 私はいわきに支援に行くということをきっかけに、そしてブログを発信することで結構多くの仲間を失った。いや、正確に言えば、「仲間だと思っていた」ものを失くした。「オマエは放射能を浴びて死ぬんだ」とでも言うかのように私を「見送った」奴を頂点に、四月以降、私を遠ざける仲間は少なくなかった。放射能汚染を恐れるのではない、多分、私が「煙たい」「重い」のだろう。
 海老蔵はこっそり七月に復帰したが、それで震災直後に九州へ身重な妻とともにトンズラしたみっともない姿が消えるわけでもない。一体、大震災というものはその人の器量や体質を露出させて、その後その連中にどう尻拭いをさせようというのだろう。抜いた刀の納めどころを見つけることが出来ず、あの数々の醜態を働いた連中は、なんとか元の生活とやらに逃げ場所を見いだそうとしている。「逃げる場所がある奴はいいよな」とは、被災者の言葉だ。3月12日、恐怖のどん底に落ちた人々・私たちは、そこで見栄や節操を失いそうになった。今になって「再臨界・メルトダウンは怖くない」と言われても困る。今の時点で「冷静に行動、考えよう」と言われても困る。とりあえず、「ここから出て行け」と駐車場で福島の車に書いた連中は謝れよ。そういうところからしかこういう連中の「今後」はないよ。
 同時に、福島県の農産・畜産物は安全なのか、それは残念ながらしっかりと把握しないといけない。農家の人たちに気の毒だと言って無理をしてはいけない。小さい子どもがいるところはなおさらだ。スーパーに、たまになのだが並ぶ福島県産のなすやピーマンは驚くくらいに安い。丹精込めて作った野菜が投げ売りされていることは、国(この場合の国は、「自民党政権時代の国」が大きくかかっていることを、もう少しみんな言った方がいいのだ)や、とりわけ東電が責任を持たないといけないことなのであって、気の毒だから買ってあげよう、というのは少し違う気がする。ちなみに私は必要な分だけ買っている。
 「恐れることはない」のはウソである。差し迫った恐怖がなくなった、ということに便乗したウソはきちんと見ておかないといけない。
 さて、私は失うばかりではなかった。支援やブログの活動をすることによって、新たな仲間を得ることもあった。また、忘れていたところや関係の薄かったところから共感の連絡をもらい、勇気をいただいた。そして、改めて結束を強めた仲間があったということだ。そのてっぺんに6年3組がいることは言うまでもない。私の誇りであり、私の今の支えとなっている。
 つい先日、この3組の幹事長テラカドから、写真とあの8月2日の記録をしたCDが届いた。CDには被災地と楢葉の人たちの写真が納められていた。ここではテラカドの思い入れたっぷりなナレーションを、ありったけの感謝を込め、一部ではあるが紹介したい。64号でも言ったが、ここで改めて思う。オレ、お前たちの担任なんだよな。嬉しいよ。ありがとう。先生やっててよかった。少し脱線。私が最後の中学校の最後の体育祭終了後、グラウンドの真ん中で全校生徒に囲まれて、空に向かって叫んだ言葉、
「先生やっててよかった!」
また、こんなところで言えるとは思わなかった。ありがとう。
 では、テラカド、よろしく。

 『8月2日に被災地:いわきに行きました』

 八木南小学校の恩師だった琴寄先生が、2年4カ月前に柏の西原中学校を定年退職された。あの震災の後、先生はボランティア活動で福島県に長期滞在するとの連絡があった。
 災害にあわれた住民の避難地では生活物資が不足し、事細かな必要物資の要請が先生からあり、宅配便配送ルートが確立された後、我々クラスメートはお金を出し合って物資を購入し2回にわたり送った。要望のある物資を届けることが、すぐに活用されることから、事細かな先生の要望に沿うようにした。
 7月初旬、ただ送るだけではなく、今度は直接物資を届け、現地をこの目で見て実態を知ることが必要ではないか。また疲労しているだろう先生を励ますこともできる。ということになり、俳優でクラスメートの仲村トオルの都合に合わせ、8月2日に現地に行くことになった。
 6月に私は家族と佐原方面へドライブに行き、地震の影響で電柱が傾いている、また、アスファルトの道路が起伏している悲惨な現状を、目の当たりにみて、涙をこらえた経験から、福島(いわき)に行ったらものすごく悲しくなり落ち込んでしまうかも知れないと一人思っていた。
 しかしながら、先生の案内で色々な現場を見せていただいたが、涙が出る以前に、目の前にある現状を現実のものとして私の心に理解することだけで精一杯であった。それもゆっくりと少しずつである。

 ……略……

 帰宅後のクラスメートのメールより(抜粋)
〔トオル〕
何度も泣きそうになった…。先生から教えてもらうことが「まだ、こんなにあるのか!」…と少々情けない気さえする。
〔静江さん〕
二年間ですが、お世話になった街に連れて行ってくれてありがとう。改めてこれからも支援していきたいと思いました。
〔ちえさん〕
貴重な経験と衝撃を受けて帰ってきたね。先生の作った道を皆で歩いていこうね。
〔将人くん〕
先生はいつまでも体を大切にして、俺達の真ん中にいて下さい。先生の笑い顔安心するから!
〔テラカド〕
一人では限界でも、みんなの力が合わされば、すごいパワーとなることが実感出来ました。この夏、最大の衝撃的な経験となることでしょう。

 私はこの8月2日の経験で思ったことは次のとおりです。
●避難されている楢葉町の方々が、とっても喜んでくれた。うれしかった。とにかく、皆さんの笑顔がたまらなくうれしかった。
●8月2日以降、テレビや新聞での関連報道(記事)に敏感になった。
●とにかく、頑張ってきた(いる)ボランティアの方々に頭が下がります。
●日常生活の中で、あの津波あと(ガレキの散乱)の悲惨な状況と、楢葉の方々の顔がすぐに思いだされる。もっと力になれないのか自分は…とちょっと悲しい気分になってしまう。…その反面、ちょっとした苦境にはまけないぞーという強い気持ちが芽生えた。

 ……以下略……


ありがとう、みんな。もう思い残すことはないよ、って、そんな気分です。


☆☆突然、文字に色付けできることを知り、見出しでやってみました。

実戦教師塾通信七十号

2011-08-25 19:13:25 | 福島からの報告
ボランティアセンター閉鎖


 正確には違うが、より正確にはそんなものだ。
 例のお巡りさんから「九月からセンターは活動を週の半分くらいに減らすみたいですよ」という連絡は受けていた。ので、私も活動スタイルの変更は考えていた。
 24日、久しぶりにセンター到着。「ボランティアの皆さまへ」という貼り紙は「当センターは、29日の活動をもって一旦休止いたします」とあった。活動する時にはブログやツィッターで発信するから、それで把握・連絡をして欲しい、というのだ。
 まったくやる気の感じられない方針と、その報告法に私は舌打ちしながら五階の詰め所に向かい、そこで専従の職員に「誰に聞いたら(経過を)答えられますか?」とたずねる。「私が答えられます」との応答だった。
 これまでボランティアがやっていた屋内・屋外の片付けを、重機で行う、という方針が行政から提案・承認された。それまであった被災者からのニーズは激減。センターもそれに伴い頭書にあるようなやり方でいいのではないか、ということになった。
 こんな感じである。もともとが「とばっちりを受けた」レベルのセンターの取り組み方だ。このブログで逐一それは報告した。センターの姿勢とは、五月、六月、七月と常に「閉鎖」をちらつかせながら、そんなことができるはずがないだろう、という私たちの、そして被災者の声に仕方なく延長してきた、そんな姿勢だったと断言させてもらおう。まじめな対応をしてくれた職員もいたが「非常時」という認識という点において、全くなってなかった。少なくとも四月は夜を徹しての活動が必要とされていた。「夜も手伝います」や「トラックを提供したい」という私たちの多くの提案がことごとく排されたことは、今でも鮮やかに蘇って胸を騒がせる。なぜか、という私たちの問いに、センター職員は口をつぐんだが、役所の慣習を多少分かっている私としては、それが煩雑な事務手続きを必要とすることや「例外的措置」を嫌がる体質から来ていることが、容易に想像出来る。「夜も会議をやっています」という職員の声もあったが、残念ながら「すぐやる」ための会議でなく「やっていいかどうか」の会議だったことは疑いがない。審査・査定の会議だったことは、「被災者が自分でできる、自分でやるべきだ」なる方針が蔓延してきたことで分かった。
 あんたたち来るのが遅かったよ、避難所を私たちが回った時、言われた言葉だ。もう自分たちでやっちまったよ、手伝うんだったらもっと早くだ、手伝えるっていう知らせをもっと早く出すべきだったんだ、そうご主人は言った。そして、まだひとりでやってる人たちがいる、その人たちの手伝いをしてやってくれ、と言葉をついだ。
 宮城でもボランティアをやってきた、という人が言っていた。ここのセンターの仕事の段取りはどうしてこんなに悪いんだ、と。そして、以前報告したが、福祉士が言っていた言葉「いわきの社会福祉協議会は全国ワースト5に入る。だから、九州の社福は震災直後『すぐにいわきへ!』と立ち上がった」という言葉もまた思い出す。
 いわき久之浜はそんな中にあって、まだセンター的な役割を果たしている。久之浜の諏訪神社の神主さんが軸になってすすめているという。その久之浜から、センター解散とはいかがなものか、という抗議も上がっているという。
 そういう現状だ。議員さんにそのところの照会を願っている。しかし、夏に入ってボランティアの増加を見込んでいた私だが、思いの外それは伸びなかったのも事実だ。センターの姿勢が反映しているのは否めない。
 同時に、被災地の様子も変わった。亀裂があっても整然とした道路、復活した信号。家々の庭にあった船や車、そして大量の土砂、それらは大体が見当たらず、庭や家のたたずまいが復活している。あるいは、きれいに土台だけが残っている。必ずどこかにいた人々の影は見えない。被災地に残された人々の怯えたような、虚脱した顔から必ず出された震災の話。それらが変わった。
 その変わったことに便乗したというか、そして行政の出した方針に「渡りに舟」とばかりにセンターはきっと飛びついた。そういうことだ。

 センターでの最後の仕事になるかも知れない、そう思ってやった四倉の半壊家屋の片づけだった。行ってみると「解体撤去」を依頼する家主の貼り紙があった。すべて重機で片付けるという話だったのではないか? 主もそう言って抗議したという。「ある程度やってくれますか」といういい加減な答だったらしい。そしてさらに「袋詰めした瓦礫・ゴミは業者に頼んで」と言ったという。有料になるのだ。絶対抗議すべきです、と私は言った。主はその場で抗議。結果、後始末(回収)は市の方でやるということになった。こんなことがきっとこれからも続く。
 このままではすまさないぞという気持ちと、被災者の気持ちに沿うということ、このふたつを両輪としないといけない。私たちは下らない百人に失望することはない。たったひとりの姿に希望を見いだせる。それを震災で見たはずだ。

 頑張るぞ、とまた思った。

実戦教師塾通信六十九号

2011-08-21 18:42:47 | エンターテインメント
「取り返しのつかない時間(とき)」は今



 ファンというものは「自分だけが分かっている」という幸福な誤謬を冒し続ける、とは前号で書いたが、この傾向をもっとも偏執的に持っているのは村上春樹氏の読者(ファン)だという。私は村上春樹の評論やエッセイを何冊か読んだが、まじめに読んだ小説は多分『ノルウェイの森』だけである。それだけで「分かったような顔」ができないのは分かっているが、「私だけが知っている」ことを標榜する上で、うってつけの作品がある。『バースデイ・ガール』(村上春樹翻訳ライブラリー『バースデイ・ストーリーズ』より)である。
 この作品、実は中三の国語の教科書(教育出版)に全文掲載されている。私はこの教科書で三年生を二十クラスくらい教えている。だから二十回読んでいる。ってそんなバカなことはない。その二倍、いや五倍ぐらい読んでいるのではないだろうか。つまり百回くらい。
 しょうもない連中が、秋の研修会だかに来る。そうして「子どもたちには何度も読ませないとダメです」と、よく私たちに「指導」する。何度も読まないといけない生徒ほど読みたがらない現実に、なんの指針も示せないこの無能な連中は、どうせ現場にいた時にろくな仕事をしていない。そういう生徒の現実をどうお考えですか、と私はおうむ返しのように言うこの連中によく言ったものだ。それでこの連中の「我々は指導に行ったというのに、とんでもない扱いを受けた」という怒りをかって、私の(教育)委員会での評判をさらに悪くしたという。
 いくら仕事だと言っても、興味のない教材に取り組むのはなかなか至難の業である。それで私の場合、最悪の時は「そこを飛ばす」という方法もよくとった。魯迅の『故郷』はいろいろな教材が消える中で、延々と教科書に残り続けているが、辛亥革命や袁世凱やという歴史的背景にまったく無知で無関心だったせいなのか、私にはさっぱり興味が持てず、「卒業近し」というこじつけで、私はよく魯迅を飛ばした。
 しかし、この『バースデー・ガール』は違っていた。ある「謎」が読者を惹きつけてやまないからだ。二十歳の誕生日に、飛び込みのシフトでレストランのバイトが入ってしまった女の子の話だ。このレストランの上階を住まいとする、従業員にとって「正体不明」のオーナーに、この女の子は夕食のチキンを持っていく。そして、そこで思いもかけずオーナーから「願い事」をかなえる、というプレゼントの提案を受ける。
 おそらく知的で、十二分に魅力的なこの女の子の「願い」を読者は知りたいと思う。意地悪なまでに「願い」を封じ込めたラストに、子どもたちは教科書に縛りつけられているかのようだ。
 おしゃれでしっとりとしていて、料理の蘊蓄もあるストーリーの小道具たちが、何度読んでも飽きさせない柱となっていて、この話を支えている。授業が終えても読み続けて悶々とする子どもたちを見て、私はやはりこの話、あるいは村上春樹、いいよなあ、と思ったものだ。
 私がこの「謎(願い)」が分かったのは、なんと私が退職する年だった。読む事百回に近づいた頃にようやく開眼した、ような気がする。ここでその答らしきことを披瀝すると、私が知っているだけでも五人、未だにこの「謎」で悶々としている成人・若者がいる。ので、やめとく。ちなみに、あの「指導書」とやらにはこの「答」は載っていたのだろうか。だとしたら許せない。この「答」を知ったものはみんな、それに触れないようにしようと思うはずだからだ。それを無神経にも軽々しく踏みにじることになるからだ。
 そのタブーを冒してあえてヒントめいたことを言えば、「願い」は問題ではない、そういうことだ。このことに気付けば、この作品はまた別な色彩を帯びてくる。「小さなため息」「バンパーにへこみのあるドイツ車」、あちこちに実はヒントはあった。そうして「失った時間(とき)の輝き」という、この作品のテーマが見えてくる。東京タワーが見える六本木のしゃれたレストラン、それは黄昏の色彩をいやが上にも帯びてくる。「取り返しのつかないもの」、私たちはそれを時間(とき)とともにそれを重ねる。
 
 私の好きな積水ハウスのCMがある。もう放映していないが、仕事を終えたサラリーマンのお父さんが、居酒屋の前で同僚の誘いを断っている場面でそれは始まる。そのお父さんは改札口でスーツのあちこちを探って慌てる。スーパーの商品売り場で携帯を手に笑う妻(母)と、空き地のサッカー練習を終えて帰り道につこうとしているまだ小さい息子、そして家の玄関前で道の向こう側を見つめ続ける柴犬。ラストは河原の土手をスーツ片手に歩くお父さんの姿。夕日がその姿を照らしている。一家団欒の幸せなショットに私は感慨を深くしてしまう。注意深く見れば、駅員のいない改札口でお父さんが探しているのはもちろん定期券などでなく、ICカード(スイカ)であり、息子やその仲間は見事にお揃いのサッカーチームのウェアだ。スーパーに店のオヤジやオカミさんがいるわけもない。見事に無人化・自動化し、成り上がった日本の姿が本当は見える。変わらずにあると思えたのは、暖簾の下がった居酒屋と、そこに誘っている仲間の顔。おずおずとした過去への郷愁、そんなCMに思えていとおしい。
 対称的と言っていいが、60年代のCMはそんなおずおずとしたためらいを全く見せない。例えば61年だったか、資生堂の口紅のCMは、4つつながった電話ボックスで話をする女たちがそれぞれ自分のカラーに染める(テレビのカラー時代の走りである)唇で、顔を演出する。自信たっぷりの女たちの横にボックスの「110番または119番に電話する時は…」という注意書きが見える。電話ボックスはスタジオのものでなく、実際のものを使っていたらしい。というのも、その電話の真新しさとおよそ釣り合わない瀬戸物製の「110番…」の注意書きは、実に使い込んでいるというか、年期を隠せない、年期を感じさせるものなのだ。使うものや使う人の新しさの勢いに、入れ物がついていっていない、というかそんな象徴性を感じさせる。
 少し風合いの変わったところで言えば、1995年日本公開の映画『フォレストガンプ』は、実に見事だった。足が不自由で「知能指数の低い」主人公は、ある日ホテルだった自分の家にEプレスリーを客として迎え、またその不自由な足が奇跡的に治り、大学時代のアメフトの優秀な成績をかわれてケネディ大統領と面会。兵役時代には、アフリカ系マイノリティをベトナム戦線で救い、私の記憶では帰国してのち、あのワシントンDCの反戦集会で昔の恋人に出会う、という実におあつらえ向きオンパレードの映画だ。カッコいいアメリカ・世界の平和に貢献し、身体障害、黒人差別をまで克服したアメリカ… この「失われたアメリカの夢(取り返しのつかない、と言ってもいい)」よ、もう一度というコンセプトのこの映画は、見かけはパワフルだが、哀愁に満ちた『一期一会』(知っていると思うが、この映画のサブタイトルである)なのだった。

 取り返しのつかない時間(とき)は、『バースディ・ガール』の上にどのような今後を用意しているのだろう。
 私たちは「現在(いま)」を生きる。積水ハウスのお父さんの「現在(いま)」が、悔いとともにあろうとも、それを踏みしめて生きたいと思う。


 ☆☆「被災地に行きました」という連絡や手紙をあちこちからいただいた。嬉しいです。テレビや写真では見えなかったことがやっぱり大切だ、ということが語られています。嬉しいです。

 ☆☆いわきにまた復帰します。ブログともどもよろしくお願いします。