年末・年始(2)
☆優しさに出会う街 盛岡☆
いつか紹介した、新聞のタイトルそのままです。夏まで待ちきれず、20年ぶりで岩手に出かけました。駅前。街は大きくても、人の行き交いは静かです。駅も駅前も、音の種類は首都圏より少なく、大きさも控えめな気がします。
街中を結構散策しました。すると、いやでも気が付きます。交差点のない十字路を通ると、必ず車は止まります。歩行者が渡るかもしれないと思うのでしょう。車は、軽だろうがBMWだろうが、同じです。
駅のすぐそばに、盛岡市を縦断する北上川。開運橋から撮りました。向こうの雲の中に雄大な岩手山。川沿いにプレハブ造りの喫茶店がありました。川が見える席に座ると、外側のストーブをつけようとするので、大丈夫ですよと断りました。でも、いやぁ点けますよと笑う、オーナーらしき金髪の若者です。
東京駅を設計した辰野設計事務所が、1911年に建てたレンガ造りの岩手銀行。国指定の重要文化財だとか。
帰りはバスに乗りました。そこでまた、いいものに遭遇。四人の子を連れたお母さんが乗って来ました。すると、お年寄りがひとり立って席を譲る(男の方でした)。近くにいた主婦らしき人が、それに続く。遠慮するお母さんを気遣ってだろう、お年寄りは少し離れたところに行ってしまう。すると今度は、お年寄りが移動した先の女子高生グループが、どうぞ、とお年寄りに席を譲るのです。それはまるで、駅伝のようなリズム感がありました。
☆南部藩☆
岩手銀行の手前を歩くと、盛岡城跡があります。守り神とされる烏帽子岩の、正月の準備がされていました。
盛岡城と言えば、完成は江戸時代を迎えて後のこと。言わずと知れた「北の関ヶ原決戦」は、主要に南部藩と伊達藩の間で行われます。この因縁の対決は、豊臣の時代までさかのぼる。安堵(領地承認)を巡る戦いは、当然ながら境界線を巡って熾烈となる。この境界線の中でも、北上は磁場だった。言語や文化の違いが、ここでは今でも強いと言われ、例えば北上から南は米文化、北は鋳造技術とも言われます。いまも宮城と岩手の不仲は健在と言われますが、まさに境界線の北上エリアで生まれた大谷翔平は、ご多分に漏れずこの洗礼を受けているのでしょうか。もしかしたら、この世界的スーパースターは、五百年以上に及ぶ南部・伊達間の遺恨に決着をつけてしまうのではないか、などと思っています。大らかで前向きな歴史的存在は、両藩にわだかまるものを包み込んでしまうのはないかと。
☆後記☆
花巻には、翌日行って参りました。もちろん、花巻東にも言って来ましたよ。次回のレポートとなります。
夜のことです。駅ビルで、後ろから歩いて来た3人組女子のひとりが、いやぁ仙台ヤバいよ、と大きな声で何度も言いながら抜いていきます。確かに盛岡の人口は30万に満たず、我が千葉県の柏にも及ばない。片や仙台は、100万の政令指定都市。しかも、ここには高島屋もない。しかし……この盛岡という街は、ヤバいんじゃないのか。
☆☆
暮れの出来事はまだありますが、とりあえずひとつだけ報告して締めます。先月のことですが、泥棒と傷害の老人という、ローカルなニュースです。90歳の老人が、無人販売所から野菜を盗み、追いかけてきた男性を殴るというもの。年上のたくましい老人がいることに、大笑いしました。でも、そんなに離れていない所でこの事件が起こったことを、ニュースは知らせてました。何か支援できないものかと思って(交番ではなく)警察まで出向きました。でも、この老人の正確な居どころを教えることはもちろん、支援したいという思いも断られます。加害者を応援することは出来ない、というのが理由です。あなた方が罪を犯した人たちを全く支援して来なかったはずはないと食い下がると、たじたじとなったのですが、とうとう逃げられました。でも、まだ諦めずにいます。
皆さん、どうぞよいお年をお迎えくださ~い 来年もよろしくお願いしま~す💛❤