実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

言葉の場所・上 実戦教師塾通信七百五十八号

2021-05-28 11:35:17 | 思想/哲学

言葉の場所・上

 ~「そこ」で大切なこと~

 

 ☆初めに☆

「義勇軍」に対する反応、ありありでした。苦しかった日本が選択する道にどんなものがあったのだろう、という感慨めいた感想が多かったのです。いずれ近いうち、満州の続きを書きたいと思っています。日中・太平洋戦争の犠牲者は「犬死」などと評する人たちが、今でも少なくありません。でも、「こんなことがあってはいけない」ことと「犬死」は違います。書かないといけないと思っています。

今回は言葉をしょうもなく弄(もてあそ)ぶことで崩している現実、について書きます。「正確」「丁寧」の風呂敷は、今や我慢がならん大きさに広がっています。少し落ち着こうぜ、そんな内容になります。

 

 1 「暗黙の了解」

 通信簿の所見は、職員が相互点検した後に管理職も点検し、めでたくOKとなる。

友達と仲よく遊ぶ姿が多く見られます。でも、たまにぶつかる場面も見られます。相手の気持ちを考えて行動することができるようになれば、友達との関係がもっとスムーズにできると思います。頑張って欲しいと思います。

こんな感じが点検合格の定番というところか。一方、私の書いた所見は、点検で常に抵抗にあった。その所見は、上記の例になぞらえれば、以下のようだった。

言い方が冷たいと思う仲間もいるようです。でも本人は、自分の考えを正直に言っているだけです。相手を傷つけているわけでもないのです。友達ができないとか少ないという心配は要りません。自分を信じましょう。

私に言わせれば、前者はコピペ?みたいなもんだ。例文を検索したら出てくる。万人向けで無難という点で、コーヒーならブルーマウンテン、日本酒なら越乃寒梅なんて思いでやってないかい(ブルマンや寒梅の生粋のファンさん、ごめんなさい)。この人ならモカだろう、仙禽(せんきん:栃木)だろう等という一対一の世界が、ここにはない。私が所見を書く時常に頭にある(「頭に置く」のではない、「ある」のだ)のは、私とあの子と、その子の親だ。所見とは、特定の親子に向けたメッセージである。その親子にマッチするものしか書かない。

 でも、私の所見を読んだ皆さん、多くが、どうも分からんと言うか、文学的で……という顔をする。一番ひどかったのは、「我々はプロの教師だ。そのプロが読んでも分からないものを、アマチュアな親が読んでもわかるはずがない」という、能無しの管理職だった。まだ私が20代の小学校教員時代のことで、経験二校目の教頭が言ったことだ。そしてこの無能な教頭は、これ、全部書き直してくれ、と私の顔に全員分の通信簿を突き返した。だから私は、プロのあなたには分からなくても、アマチュアの親には分かるんです、と続けたことは、

この親子は家で学校の話をする、この親がこの子に言い方のきつさを注意している。さらにこれらをみんな、子ども本人が先生に報告するのだが、それも親は知っている、それを前提にこの所見を書いてる。

である。「ホラ、お母さんの言った通りでしょ、先生もそう思ってる」『いや、先生は今のままでいいと言ってるよ』と家で親子が語り合う様子が、私には目に浮かぶ。それを想像しながら私は書く。この文章を読む時、そこには当事者同士の「暗黙の了解」があるのです。あなたは教師のプロかなんだか知らないが、自分の子どもに関するプロのグレードは、親たちに及びもつきません。と言って、私は通信簿を、もう一度読み直してください、とさし返した。

 日本語には、おそらく「収まるべき場所」がある。

 

 2 「省略」ではない「不要」

「国境の長いトンネルを抜けると雪国だった」

大昔にここでも登場いただいた、川端康成の『雪国』の冒頭である。知日家で翻訳家のサイデンステッカーが「トンネルを抜ける」のが一体何なのか、ずいぶん苦しんだとは有名な話だ。抜けたのが汽車か私か私たちか。考えればわかる通り、私たち、いや日本人私たちにとって、それは「どっちでも」「どうでも」いいことなのだ。トンネルは上越に抜ける道を意味し、この瞬間とは、薄暗い車内を純白の雪原が照らし出す、息を呑むような瞬間であること、それが「暗黙の了解」となっているのを、私たちは知っている。そういう冒頭なのだ。ここで大切なのは「自然に伝わる」情報/情景である。「何がどうした」はどうでもいいことである。

 見せしめ的自殺をはかって亡くなった、俳優で監督でもあった伊丹十三が、翻訳をしていたことをご存じだろうか。このマルチなポテンシャルを持った伊丹によると、日本語は省略される要素があまりに多く内容が伝わらないと。そして翻訳作業をしたが失敗に終わった、と言うのは言語学者・金谷武洋(『日本語に主語はいらない』)である。分かりやすい話、私たちは英語教育なるテキストで初期、こんな文を目にした。

I have a pen in my hand.

健全な「私はペンを持っている」ではなく、「私は私の手にペンを持っている」という、かしこまった居心地の悪い訳文が正解とされた。伊丹は、この居心地の悪さを貫徹することで、情景&人物記述がより正確になると信じたようである。しかし上記の例で言えば、ペンを持っているのが誰か、そして体のどの部分がペンを持っているのかを日本人の誰も考えない。いや、英語圏の人々だって、ペンを持っているのは「手」なんだ、そしてそれは「私の手」なんだと注意深く考えて話しているはずがない。どうやら英語で「必要」なものが、日本語には「不要」なのである。金谷はここで強調する。「それは『不要』なのであって『省略されている』のではない」(同書)。伊丹は翻訳にあたって、

「僕の父は僕の母に、彼女が僕と僕の父を彼女の車で送ることを断った」

のようにすることを予告したが、出版社から「極め付きの悪文」と拒絶される。「父は、母が僕と父を車で送ることを断った」ですむことだったはずである。おこがましいが、私の「暗黙の了解」と金谷の「不要」は、どこか通じる気がしている。

 相も変わらず学校では、必要のない「正確さ」が流通している。

「『違うと思います』って、誰が思ったの? A子ちゃんでしょ? ちゃんと主語を言いなさい」

この場で一体「誰が思ったか」火を見るよりも明らかなのだが、学校という場所では、「立ってから」「立ったあと椅子を中に入れてから」話しなさい等と言われる。それが「正しい」からだ。中学生なんかが、厳(おごそ)かにに立ち上がって椅子を入れて、という動作を伴う時はまた違う色彩を帯びる。この儀式めいた動作に、周囲は「何かが始まる」予感を持つのだ。しかし、猫も杓子も人類と名乗るならこうしなさい的矯正(きょうせい)の姿勢の方が、矯正されるべきことだろう。

 

 ☆後記☆

やりました! 1992年以来のモナコでホンダの優勝! もちろんセナ以来ということです。とうとうコンストラクターのエンジン供給でトップとなったわけです。ホンダはホントに今年で撤収するのでしょうか。本田宗一郎、そしてセナおめでとう!

前を行くのが、同じくアルファタウリ・ホンダの日本人ドライバー角田(16位)ですが、おそらく周回遅れ。後ろが優勝のフェルスタッペンだと思います。

それにしてもこのスクープがニュースに出ないのは、残念至極。モータースポーツの陰りでしょうか。一番腹が立つのは、放映権のとんでもない額です。

 ☆☆

田村正和第二弾。ネットや週刊誌で、自分の娘を俳優にしなかったわけが話題になってました。それによれば「一緒にいる時間が短くなるから」だったらしい。私が覚えているのは、「そういうことはしたくない」です。この時期、ある父親と娘が共演していたのです(今も?)。名指しこそしませんでしたが、明らかに彼らを指してるとしか思えなかった。「そういうことをする人もいますが」と言う田村正和の表情は、明らかに好意的ではなかった。彼らを「気持ち悪い」と思っていた私としては、溜飲が下がったのです。

最後は「和さび」、もう第四弾?です。焼きサバ棒寿司。稚鮎の天ぷら。そして「酒飲みセット」は春巻きが豚しゃぶで、ほうれん草の酢味噌和えにはウニが仕込んであって、手前の餃子は海老とホタテのすり身入りです。解説すればきりがない。料理長の、出来立てを食べて欲しい無念を思いつつ、とにかく美味しい!


少年義勇軍・下 実戦教師塾通信七百五十七号

2021-05-21 11:22:59 | 戦後/昭和

少年義勇軍・下

 ~ふたりの「カンジ」~

 

 ☆初めに☆

いま、批判の矛先(ほこさき)にされているミャンマーも中国(の東北部)も、かつては日本の占領地でした。日本の劣勢、あるいは敗戦とともに、これらの国は独立しますが、日本の占領軍と戦った戦闘部隊が、今は民衆を弾圧している。歴史の不可思議と片付けるわけにはいきません。

この謎解きをする上で、満州を検証することは無駄ではないと思われます。「ふたりのカンジ」とは、満州事変の仕掛人、石原莞爾と、前回触れた少年義勇軍訓練所の所長、加藤完治です。ふたりは初め協力を誓い、のちは罵(ののし)り合うのです。

 

 1 石原莞爾の「転向」

 資本主義に対置する農本主義の「農本」とは「反資本」「反中央」「反集中」であり、当時も異常な膨張をしていた都市に対し農村を置いたものである。危うく命を落とす経験がきっかけで加藤は、人間にとって最も大切なのは「衣」「食」「住」であるということに目覚めた。それが「農本主義」のかなめだった。残念ながらこの思想に瞠目(どうもく)すべきものは何もなく、土地は気持ちを込めて掘れば肥料など必要ないなどと言う精神主義だった。日中戦争に一貫した「大和魂を備え持った突撃は、近代戦車や飛行機をもうがつ」精神主義に共通すると言ってもいい。

 併合直前の韓国にいた石原莞爾は、孫文の辛亥革命を聞き「万歳」と叫んでいる。しかし中国は、帝政の復活や軍閥の乱立等を繰り返し、孫文も日本に亡命する。そのあり様を見て石原は中国の独立を断念し、「領有(占領)」を決意する。5,15事件の後、ふたりのカンジは協議し、石原は二万町歩の土地を約束。加藤は移民加速へと動く。

国家総動員法成立後に発行された「拓け満蒙」12月号。

しかしこれに前後し、石原が変化する。諸説あっていまだに謎とされるが、石原は満州の領有はもちろんのこと拡大に反対し、日・朝・満・蒙・漢の五族協和による独立建国へと、自らも「転向」と称する路線変更を表明する。日本の役割を縮小・後退させ、新たな国は言語・思想を自由に共有するというものだった。関東軍の参事長だった東条英機と激しくぶつかる。東条が関東軍のメンバーを「共産主義に染まっている」と検挙したからだ。東条たちが悪風思想と排した魯迅やトルストイ、マルクスたちを、どうやら石原は承認していたようだ。これが満州事変の、つまり日中戦争のきっかけを作った人間のやったことなのだ。さて、東条お抱えの部下や憲兵たちが見守る中、石原は、

「農地を奪われたものが、当然だが抵抗している。彼らは『匪賊』と呼ばれている」「正当なのは我々ではなく、『匪賊』の側にある」「満州に来た日本の連中は、シナ人や満人をあごで使えると思っている」「いい暮らしが出来ると思ってやって来た奴らばかりだ」「満蒙開拓団ってのは、土地泥棒だ!」

と、あちこちの講演会でぶち上げた。

 

 2 加藤完治の「非転向」

 石原のおかげで満州に土地を用意できた加藤は、義勇軍の体操に「皇尊(すめらみこと)、弥栄(いやさか)、いーやーさーかー」という掛け声を取り入れた。「国土」という展望・思想を欠いた薄っぺらな尊王だった。

義勇軍日課表。右側が「日本体操(ヤマトバタラキ)」

ちなみに「弥栄」とは「万歳」の意味。義勇軍の後に、また前には「大陸の花嫁」「北のからゆきさん("接客婦人"のこと)」「満州国防婦人会」と、女たちが続いた。

 満州に先陣を切って出向したのは、高収入の鉄道敷設技術者や商人だった。あとから来たのが開拓移民である。高給取り邦人の生活を横目に開拓移民が不満を持ち、現地農民の生活や土地の収奪に走ったのは成り行きと言える。加藤の「思想」は、農家の貧困・土地の狭小さ、埋蔵資源のなさ、そして、それにもかかわらず増大する人口等に対処する、日本国内へのものでしかなかった。石原が「あんたは祝詞(のりと)をあげて泥棒するのか!」と罵ったのは、この加藤の、いや「農本主義」の他者を顧みない「一国性」だった。当時、満州を走る満鉄には中国の軍閥が敷いた鉄道が並行していたし、いったん線路を外れれば、そこでは現地の住民が日本人たちを憎悪のまなざしで迎えた。一時代前、与謝野晶子夫妻が奉天~哈爾濱(ハルピン)を乗り継いだ時に感じた「排日の気運と恐怖」も、芥川が中国の観光地で見た排日の落書きも事実だったのである。

 敗戦後、石原の極悪な体調を考慮した極東国際軍事裁判は、山形の酒田で異例の出張裁判となった。この時法廷までの石原を、自ら名乗り出てリヤカーで運んだのは、極真空手の大山倍達である。石原が法廷で一級戦犯を問われると、

「空襲・原爆で非戦闘員を殺害し国際法を蹂躙(じゅうりん)したトルーマンだ」

と答えている。東条英機と意見が対立したかと問われれば「東条には意見も思想もなく、意見のない者との対立はない」と断言している。

 方や、加藤である。いまだ行方知らずの義勇軍の少年たちは2万人に及ぶという。その責任を負って切腹かと思いきや、加藤は「満州の夢」を断念し、敗戦後の「日本の再生」を願い、元通り農民主義運動(具体的には農業学校)を続ける。石原とは違い、「非転向」なのである。82歳の天寿をまっとうしている。

 義勇軍資料館には「加藤完治先生」の大きな枠取り写真が掲げられていた。

 

 ☆後記☆

こども食堂「うさぎとカメ」、皆さんの喜びの声がありがたいです。

配布場所となった屋上です。奥の方に見えるのが、紙容器に入れたクリームシチュー。左側に見えませんが、いただいたカブもどっさり控えてます。

これがロールパン。揚げたての一口かつを乗せてるところ。最後は調理場面です。少しスタッフの増員をはからないと、お客さんに対応できない、みたいなうれしい悲鳴です。

 ☆☆

驚きました。そして残念です。田村正和、亡くなりました。カッコいい人って、キザが似合う人っているんだなっていう、たった一人のひとでしたね。このコーナーで、何回か書きたいです。今回はじゃあ、ちょうど30年ほど前かな、タイトルも定かではないけど「パパとなっちゃん」。小泉今日子が、娘役です。最終回が泣けました。娘の結婚相手に「キミがどれほどの男であっても、僕がキミを認めるとでも思ってるのかね」だったかいうセリフ。制作スタッフの思い入れたっぷりなセリフだったと聞いてます。

ああ、残念だ。この際、ガッキーの結婚なんかどうでもいい。


少年義勇軍・上 実戦教師塾通信七百五十六号

2021-05-14 11:43:49 | 戦後/昭和

少年義勇軍・上

 ~移民政策の破綻(はたん)~

 

 ☆初めに☆

GW水戸での別な目的は、内原にある「義勇軍資料館」に行くためでした。熱心な読者は覚えていると思います。前に訪れた時、改装中で見学出来なかった場所です。

「満洲国」は、1932年に「建国」されました。あるものは勇んで、あるものは仕方なく「満洲国」に出発しました。総数8万人と言われた少年義勇軍でした。しかし満州を統治する正規軍(関東軍)は、まず太平洋戦争に伴いインドネシア方面への「南進」政策で減少し、終戦間際に至ってはほとんどが満州から真っ先に逃亡しました。義勇軍は邦人移民とともに置き去りにされるという、あまりにひどいものでした

一体どのような記録が残されているのだろうと思って見に行けば、こんなものが公設の資料館としてまかり通っているのか、という驚きばかりが残りました。

 

 1 2,26事件の後

 1931年の満州事変をきっかけに、急速な移民計画が進められる。しかし、植民地や移民を担当する拓務省が立ち上げた移民案を、大蔵大臣・高橋是清の内閣は「投資するだけの価値があるか」と否決する。四年後、この提案が可決される。この年2,26事件が勃発し、高橋是清たちが殺されたからだ。5百万人の移民計画が実施に移る。昭和の恐慌と農村の慢性的貧困にあった当時、女子には紡績・女中・子守、そして売春婦、次男三男坊には、農業手伝い・作男など、限られた道があるだけだった。

復元された内原訓練所の「日輪兵舎」です。ここに50人ほどの少年たちが寝食をともにしました。300棟あったといいます。

そんな時、未来を約束するかのように、移民計画は現れた。国内の訓練で2か月間、現地の実習を3年修了すれば、10町歩の農地が付与される、支度の服も日用品も提供されるという、夢のような募集要項だった。国内唯一のこの訓練所が内原に出来たのだ。

少年たちに配られた品々です。支度品の一部ということです。

ここからさかのぼること30年前、持てる金をはたいて「金のなる木がある国」ブラジルへ出発した移民の事実がある。そこに待っていたのは、電機はもちろん、便所も井戸もないあばら家と重労働だった。こういう移民に伴うウソと悲惨が繰り返されようとしていた。資料館には、確かに「戦況の拡大に伴う犠牲者も多かった」とはある。

しかしなぜか、悲劇の原因は「ソ連(現ロシア)によるもの」と限定している。ソ連の一方的な中立条約破棄と、ソ連兵による在留邦人への暴力と略奪はもちろんであるが、中国国民党の残留部隊や匪賊、そして日本人から仕事や土地を奪われた現地の人々による「地面が波打って押し寄せるごとき」暴行/略奪は、資料館になかった。そして、ぬけぬけと「満州国が建国され」「義勇軍に応募したものは……国から10町歩の土地が与えられ、大農経営が許可された」と記し、悲惨な記録は抜け落ちていた。少年たちがけなげに訓練する様子と、訓練所の歌が流れているのだった。

 

 2 戦争が生んだもの

 「義勇軍」という名前自体、疑惑に満ちている。いわゆる「正規軍」という法的な根拠を持たない「義勇軍」という名称は、少年たちの「義」を感じて「勇」ある姿を表すのだ。そして「軍」という名の意味する通り、訓練は農業のみならず「武」にも及んだ。現地からの抵抗があり、自衛/自警を余儀なくされることが分かっていたのだ。そして、「義勇」の実態そのものも、実は疑わしかった。つまり、政府は全国に応募人数を「割り当て」て、役所の人間が成績優秀・健康な次男三男のいる家を個別訪問して説得に当たったのである。京都府の役人だった水上勉は、その時のことを書き留めている。

 その後、当初の17歳から19歳までだった応募資格は次第に前倒しされ、最も小さい年齢としては14歳にまでなる。応募人数が伸び悩み、減少の一途をたどったからだ。満州から届く便りにいいものがなかったのが、その理由だ。開拓を建て前としてはいたが、多くが現地の農民が耕した土地を安く買い上げたり奪ったりという、いわゆる「入植」が現実だった。現地からの激しい抵抗にあい、当然、生活も厳しかった。夢のような生活は、そこになかった。そして皮肉なことだが、日中戦争の引き金となった1937年の盧溝橋事件以降、景気は戦争特需という活況を呈し、多くの若者の雇用を国内に生み出した。義勇軍の応募は減少の一途をたどった。

 

 ☆後記☆

少年たちに精神的な影響を与え「支え」たのが、内原訓練所の責任者である加藤完治です。加藤が掲げた「農本主義」は、当時ダイナミックだった「資本主義」に対置したものです。これを実験したのが、内原訓練所と言えるのです。それがどうなったのか、次回に書きたいと思います。もちろん、そういったことにも資料館は全く言及していませんでした。

 ☆☆

ゴルゴ13のコミックが、ついに200巻を記録しました。いつもは増刊号でお茶を濁しているのですが、この区切りをおろそかにするわけにはいきません。買いました。

こども食堂「うさぎとカメ」、明日ですよ~ よろしかったら、どうぞおいで下さい!

 


GW後 実戦教師塾通信七百五十五号

2021-05-07 11:47:16 | 旅行

GW後

 

 ☆県境を越えて☆

混雑に力を貸すとは分かってましたが、少し出かけました。水戸~日立(常陸)。

水戸に行ったら必ずここです、千波湖。写真中ほどの奥に見えるのは、水戸芸術館のモニュメント。「好文カフェ」から、カプチーノを飲みながら、人波が途切れたところを撮りました。人出は普段のGWと比べれば6割くらい? この直後、天気は曇天(どんてん)から突然の土砂降り。みんな一斉に、画面の左から駐車場がある右へと走りました。白鳥のボートは係員の操縦するモーターボートで岸辺まで運ばれてました。

 ☆御岩寺(御岩神社)☆

常陸太田にあるお寺。宇宙からもオーラの見えるパワースポット、と言われているそうです。721年編集の「常陸国風土記」に「太古よりこのかびれの高峰(御岩山の古称)に天つ神鎮まる」と記されてます。週刊誌のGW特集記事上で見かけたのです。私のようなきっかけでやってきた人も多かったのかもしれません。駐車場も境内もいっぱいでした。

お参りの順番を待つ人たち。

これは樹齢600年と言われる「三本杉」。すごかった。根元近くから分かれてます。近寄れないようになってました。やたらに触ると、かえってご利益が逃げるそうです。

水が美味しいところです。神社のそばには、湧き水を求める人の行列。そして、豆腐の売店。生揚げと豆腐のドーナツを買いました。

 ☆竜神大吊橋☆

御岩寺からさらに車で20分。ここも人出がすごかった。駐車場は入れたけれど、たまたま運がよかったという感じです。

これはバイク野郎の場所。いわきのナンバーが目立ちましたが、「足立」「川崎」「湘南」などもひしめいてました。年齢層は老人対若者が6対4といったところか。

橋の中ほどに、バンジージャンプ用のロープが下がってます。一回だけ見れました。ゴムのロープが衝撃を吸収するんですね、死なないんだなぁ。

こいのぼりを見て分かると思います。すごい風でした。メロンソフト、美味しいですよ。坂を降りていく人たちは、下の駐車場に行くのです。坂の途中に、とっても美味しいそば屋さんがあります。今回は行きませんでしたが、おすすめです。

それで思い出しました。水戸近くの友部サービスエリアに、常陸そばがのれんを下げています。今回初めて食べました。チケットや番号札によらない、ちゃんとしたそば屋さんです。二八そば。どうしてここまで出来る?と思うほど細い。でもしっかりしてて、のど越しがいい。サービスエリアのそば屋なんてとバカにして、今まで食べませんでした。注文すると、そば茶とそばのかりんとうが出てきます。値段は高めですが、ぜひ一度食べるといいです。

 ☆和さび☆

から揚げと「酒飲みセット」を味わいました。セットの内容です。シンプルでも味わいのあるネギの和え物。タケノコと蕗(ふき)の肉みそ炒め等、全部解説したい気持ちです。おろした山芋と海老のすり身を詰めた春巻き揚げ、美味しかった! 酒が進みます。

GW、皆さんはいかがでしたか。

おっと、忘れるところでした。こども食堂「うさぎとカメ」、来週ですよ。チラシが、カラーでの登場です。

 皆さ~ん、どうぞお出でください!