実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

〈新〉と〈旧〉Ⅳ  実戦教師塾通信三百十一号

2013-08-31 11:29:53 | 子ども/学校
 〈新〉と〈旧〉Ⅳ

     ~「もともとない希望」と「初めからある絶望」その3~


 1 盗撮冤罪(とうさつえんざい)


 電車内の痴漢(ちかん)を告発するのは、結構大変だと聞く。実際に間違いもあるので、証拠の写真をとってから「容疑者」を止めて、関係者に引き渡すぐらいは必要だという弁護士もいる。でも念のため確認するが、警察官でないからと言って、現行犯を止められないわけではない。無益な暴力ざたに巻き込まれるのは避けないといけないが、目の前で困っている人をそのままにしていいわけがない。当然のことだ。
 さて、こんなことを言うのも、仲間が「今っぽくないかい」と指摘(してき)して言って来たニュースのことがあったからだ。つい最近話題になったことだし、覚えている人もいると思う。電車内でくつひもを結ぼうとして携帯を床に置いたら、これを盗撮だと男性客に取り押さえられて、警察に突き出されたという20代男性の話だ。警察でこの男性は、その時酔(よ)っていたから、というより、取り調べはプロの相手に、つい「すみません」と言ってしまう。男性は「晴れて」盗撮の犯人となってしまった。その後、この男性は弁護士に相談をし、結果、事態が悪化(あっか)する前に不起訴(ふきそ)となった。長期の勾留(こうりゅう)は避けられ、前科ともならなかったが、冤罪につきものの「ホントにやってないのか」という周囲の冷たい視線はなかなか消えない。大変なのだ。
 ニュースになった時も、肝心の「被害者」となったはずの女性の様子が、さっぱり分からなかったのは不思議だった。でも、まず感じたことは
「せせこましい世の中だ」
ということだった。よくあるスーパーでの万引きや、デパート内エスカレーターでの盗撮犯人が捕(つか)まるってやつ、あれは仕方がない。スーパーやデパート(駅なども)は、相当に気をつかって補導している。つまり、スーパーにしてもデパートにしても、
「お客さん、いい加減にしてください」
という相手、常習犯を大体が捕まえている。普通、世間とか人間というものは、こういう行動を起こす前、それを保留(ほりゅう)する、いわば「執行猶予(しっこうゆうよ)」の期間/時間を持っている。分かりやすく言えば
「ことの成り行きを見守る」
のだ。別な表現をすれば「寛容な姿勢」を世間というものは持ち合わせていた。このくつひものケースは、果たしてそれを持っていたのだろうか。現場で一体どんなやりとりがあったのか不明である。
 でもここで、とりあえず言ってみれば、この「盗撮」とは、大昔の「覗き(のぞき)」である。それが保存出来るという点で、罪は重いのだろう。しかし、トイレの壁に穴を開けてのち覗きに及ぶ、建造物破損のような、大胆かつ甚大(じんだい)な妄想(もうそう)に駆られなくても、盗撮は充分可能な行為ではある。すると、
「いや、その写真をネットでばらまくとか、あるいはそれをネタに相手を脅迫(きょうはく)したり、しかるべきマーケットに販売することを盗撮は可能とする」
なんて反論もありかと思う。しかし、その行為はすでに「盗撮」を逸脱(いつだつ)した行為だ。ストーカーか、あるいは詐欺(さぎ)脅迫行為のカテゴリーだ。以前書いたように、捕まってから
「盗撮に興味があった」
とか、カッコ悪くうそぶく連中はそんなことまで考えていない。自宅で淫靡(いんび)に楽しむだけだ。だからいいじゃないか、というのではないぞ。
 昔、番台…なんて、分かるわけないか。番台とは、銭湯(せんとう)の入口でお金を受け取るシステムのことで、昔は男湯女湯共通の入口にひとり、この銭湯の主人か女将(おかみ)がお金を受け取るために座っていた。番台はその高くなった台のことだ。この番台に座るものだけが、男女の裸を「堂々と」見ることが出来た。私が大学の頃、この番台のダンナ越しに首を伸ばし、女風呂に顔を出さんとするオジサンが、
「いいなあ、ここに座りてえなあ」
と、言っていたのを思い出す。私は番台のダンナはもちろんだが、女風呂に顔を突き出すオジサンがうらやましかった。ハンパな根性で出来るもんじゃない。このオジサン的行為、あるいはそれに類した行為が「盗撮」であるように思えて仕方がない。今日は見えただの見えなかっただの、せっかく見えたのに顔はイマイチだっただの…覗かれている方は、知るはずもないのだが。
 また言うが、盗撮ぐらいいいじゃないかだの、女性に肖像権(しょうぞうけん)はないだのと言っているのではない。まず、この電車の男性客は、警察にくつひも君を突き出したのだ。くつひも青年が一体どのぐらい執拗(しつよう)だったのだろうか、と思う。よほどのことがあったと想像するのが普通だ。仮に、スマホ上で証拠(写真)が確認出来たのだったら、
「今すぐここで記録を消しなさい」だの、
「もうするなよ」とか、
「この(女の)人に謝(あやま)りなさい」
とかいうやりとりはあったのだろうか、と思う。実際、不起訴だったのだから、証拠らしいものはなかったはずだ。つまり、くつひも青年はそんなに女性周辺をしつこく嗅ぎ回ったわけでもなく、男性客の一方的なやり方だったと考えるのが妥当(だとう)だろう。この電車内での「盗撮かどうか」という状況を、先の番台の話で考えれば、銭湯の入口で金を払う時、一瞬(いっしゅん)向こうの女湯脱衣場(だついじょう)を見たのかどうか、みたいな微妙(びみょう)なものと同じではないかと思える。この男性客の、おそらくは「少しの猶予も許さない」ような態度と、そしてそこに寄り添って、まるで「揺るぎない証拠」のように床に置かれたスマホというオブジェとが重なる風景は、実に今風(いまふう)だと思えた。ついでに言えば、このくつひも青年は、弁護士に訴(うった)えたのだ。確かに事件は、本人そっちのけみたいに、あれよあれよと進んだのだろう。しかし被害者も客も含め、当事者というものが事件に向き合ったことが、一体どの時点であったのだろうか、と私は思ってしまう。


 2 実際と向き合えない現実

 この事件の「新しい」ところは、
①事件らしさが見当たらない(被害の実態が分からない)
②男性客が、ちっとも融通(ゆうずう)がきかない
③その場で確認がされない
④加害者?が直接釈明(しゃくめい)しない
⑤機械(スマホ)が多くを語ってしまう
ことだ。すべてに共通なことは、

○実際の姿になかなか到達出来ない現実

に私たちは生きているということだ。
 男性客が、
「夜遅くの電車で、若い女性の前の床にスマホを置くことの意味を想像出来ないのがそもそもおかしい」
と考えたのはほぼ間違いがない。こんな社会の中に私たちがいるということを、この盗撮事件は分かりやすく教える。
「そんなことも想像できなかったのか」
というわけだ。学校でたびたび、
「今の子どもは想像する力がない」
などと指摘(してき)するのだが、それを思い出す。今私たちは、様々なことを「分かる」ずっと前に、「使う」ことを知り、使いたい、そして使わなければと思っている。スマホのことを言っているわけではない。今の世の中は「なぜこうなる」を示した「算盤(そろばん)」の社会ではない。「どう使うか」しか問わない電卓の社会なのだ。「なぜ?」を考える必要がない、と社会が言い始めてから、ずいぶんの年月が流れている。
 手に余るものを私たちは手にしてしまった。スマホとは、電話/カメラ/録音機の機能を備えたコンピュータである。一個人が処理出来る働きや情報をはるかに越えたマシンだ。それゆえに、ある日ある時、ある機関や人物から
「こんなことも知らなかったのか」
と問い詰められる。身に覚えのないお金を請求されたり、逮捕(たいほ)!されたりするのはその一例だ。
 字数をだいぶ使った。ここで一区切り。
前にも言った。「分かっている」と「知っている」こととはまったく違う。子どもに、また、どんな大人であるかを問わず、まったく同じ情報を垂(た)れ流すことを、今の社会は可能にした。それで
「そんなことも知らなかったのか」
とは、ずいぶんなものだ。

 たとえて言えば、私たちは「死んだ人」をたくさん見ている。しかし、私たちは「人の死」を一体どれだけ見たというのだろう。「死んだ人」から「その人の死」にたどりつくまでは、無限の距離がある。


 ☆☆
マー君またまたやりましたね。ついに19連勝! 試合を見ていたものとしては、勝ったというものの、なんともピリッとしない試合展開でイライラしました。マー君から交代したピッチャーが誰一人抑えられないんですからね。見ようによっては、この流れの始まりはマー君だったとも言えるのでしょう。
「早い段階でうちが大量得点して、あいつに油断ができたかも知れん」
とは星野監督の話。
がんばれ、東北楽天!
イチロー、久々のホームラン! 

 ☆☆
この写真、岩手・盛岡での巡業中のものです。みんなで50m走をしたというものです。以前「武道」のところで言った「ナンバ式歩行」ですが、白鵬だけが、はっきりと「ナンバ式走法」をしているのが分かります。
      

 ☆☆
暑かった暑かった夏休みが終わりますね~ でも今日も暑い暑い。そして、熱い熱い体育祭がやってきますね~

大川小学校  実戦教師塾通信三百十号

2013-08-27 12:00:50 | 福島からの報告
 魚/町/学校


 1 試験操業


 間寛平が今年も被災地を縦断した。昨年から寛平は、岩手/宮城/福島の被災地三県を縦断するマラソンをやっている。ゴールは昨年同様スパリゾートハワイアンである。21日の福島のニュースは、大きくこのことを伝えた。昨年は単身(たんしん)で480キロを走りきったと記憶しているが、今年は応援に来た芸人たちも一緒(いっしょ)の、たすきリレーだったらしい。
 いい話はそれぐらいのものか。福島テレビは、同じ日に地元相馬で行われた漁協と経産省との話し合いを配信した。
「汚染水問題も、チビチビと、こっちの様子を見ながらやってんじゃねえのが!? こっちは今が今がと思って待ってんだよ! はっきりこの先一年間は無理だとが、十年間は無理だとが、百年間は無理だとが言ったらどうなんだよ!」
説明する役人にかみつく組合員。この映像は全国には出ないな、と思った私である。相馬双葉漁協は前日、シラスを採取(さいしゅ)して放射性物質を調べたが、検出限界値未満だったと伝えている。しかし、相馬漁協は9月上旬試験操業(そうぎょう)を断念。いわき漁協も同じだ。
「試験操業を開始するにはタイミングが悪すぎる」
「数値だけでなく、世の中の雰囲気(ふんいき)も見極(みきわ)めたい」
ということだ。

「7、8月は底引き漁なんかは軒並み(のきなみ)お休みなんだよ」
ニイダヤの社長が言った。
「そうやって資源を絶(た)やさないようにしてるんだ」
社長が言っているのはよその海での漁業のことだ。どっちみち福島の海での操業は出来ない。
 いつもニイダヤにボランティアだ、と笑いながら手伝いに来ている長距離の運転手さんは、陸揚げされた魚や、修理を終えた網(あみ)を新潟・岩手・宮城と運んで往復している。
 海がこんな調子で、角刈り頭の運転手さんのお手伝いは、しばらく続きそうだ。

 『福島民友』に小さく、
「桑折(こうり)町の大豆、出荷、販売可能に」
そして、
「牛肉(セシウム)検出されず」
の記事。あの汚された飯舘村の牛は、ブランド「飯舘牛」だったことをご存知だろうか。


 2 大川小学校

 楢葉町の集会所を訪ねる。雨樋(あまどい)が外れっちっゃてさ、という住民の訴え(うったえ)にいそいそと出掛けていく牧場主さん。そんなことまでやってるんですか、という私の問いかけに、主さんは苦笑(にがわら)いで出ていく。
 その主さんから資料を渡された。7月発行の『群馬司法書士新聞』(震災対策特別号)である。なぜか群馬なのだ。この資料の
「特別寄稿 被災者が生きる時間に寄り添って」(野田正彰)
は、相通じることが実に網羅(もうら)されていた。

①「時効」
民事で賠償を請求(ばいしょうせいきゅう)出来るのは、民法上で3年という「時効」があるのをご存知だろうか。ニュースを細かに見ている人は、今回の福島原発事故に限定して、その時効が「延長」となる見通しだ、ということを知っていると思う。しかし、誰でも請求出来るわけではないことを私は知らなかった。
つまり、3年を過ぎても賠償請求出来る人とは「原子力損害賠償紛争解決センター(ADR)」に
・仲介申立(ちゅうかいもうしたて)をした人
さらに、
・そこで和解しなかった人
に限定される。
これだと、3年以内になんとしてもADRに申立をしないといけない。残されている時間はわずかなのだ。被災者は東電の膨大(ぼうだい)な資料を前にし、一体どのように「証拠」を集めたらいいのか苦慮(くりょ)している。放射線の影響(えいきょう)が、50年を見積もってしないといけないというのに、だ。目に見えない生活再建を探りながら、同時にそんなことをやらないといけなくなっている。

②復興(ふっこう)バブル
この部分はレポートを抜き書きしよう。
「この時とばかりに三陸海岸部の小さな漁業をつぶして、大手の資本を入れようとした策略(さくりゃく)はどうなったのか。瓦礫(がれき)処理に土建業の利権はどのように関与(かんよ)しているのか。なぜ仙台はすぐ津波バブルの都市と化し、復興頽廃(たいはい)とよびたくなる現象が起きているのか」

③大川小学校
このブログ上で、以前取り上げた大川小学校のことだ。行政の対応があまりにひどいということで、検証委員会が立ち上がって四回目の会合をしたのは、三日前の8月24日だ。
震災当日、校長はいなかった。娘の卒業式に出席するためだったという。これは仕方がなかったと言っていい。しかしそのあとがよくない。その後6日間校長は学校に行っていない。そして遺体を探す作業にも参加していない。二つとも当時はずいぶん言われた。しかし、私なりに『河北新報』を検証して来たつもりだったが、以下の部分はこのレポートに教えられた。
「事件」の3カ月後、石巻市長は説明会の席上で、二人の子どもを亡くした父親の悲痛(ひつう)な問いかけに
「もし自分の子どもが亡くなったら、自分の子どもと自分自身に問うしかない。これが自然災害における宿命だ」
と答えていたそうだ。また、津波の時の避難マニュアルがなかった、という教育委員会の見解は知っていると思うが、大川小学校近くにあって、同じくそのマニュアルのなかった相川小学校では、裏山の神社まで無事避難している。祖父(そふ)が連れ出した子どもが一人亡くなったが、あとは全員助かったというのが相川小学校である。地図を見てほしい。
               
携帯の画面では分かり難いと思うが、右(東側)の海に突き出した金比羅近くの赤いマークが相川小学校である。では大川小学校はどこか。この相川小学校よりさらに7~8キロ追波湾の奥、あの新北上大橋のふもとだ。50分近くの「待機」を校庭でしたあと、河口(かこう)にかかった橋の方に向かって、つまり海に向かって!職員と子どもたちは「並んで」「走ることもなく」「行進」を始めたのだ。
 相川小学校がはるかに海側と言っても、大川小学校と違い、入江(いりえ)ではなかったから津波が軽かったのではないか、などという詮索(せんさく)は無用だ。相川小学校は流出(りゅうしゅつ)し、現在は陸側に10キロほど入った学校に統合されている。
 「上意下達のシステムは想定外の事態に弱い」とレポートはまとめている。私は、以前報告した時と同様、
「おおごと『になること』を避けようとする学校的日常が生んだ悲劇」
だとくくっておく。管理職の管理的態度が学校を作るのではない。


 ☆☆
「なんで原発近くの人が補償金(ほしょうきん)出て、うちらには出ねえのがな」
と、ニイダヤがまた言うのです。追い出された人たちが、追い出されている間に受け取れるお金だよ、と私はまたしても説明します。議員さんが言うには、そのクレームはずいぶんなくなったんですよ、とのことでした。でも、働きもせず、買い物袋をさげている人たちを毎日見ているのは、気分のいいものではないのでしょう。難しいものです。

 ☆☆
涼しいですね~ いやあ有り難い。熟睡(じゅくすい)ですよ。明日からまた暑さが戻ると言いますが、素麺(そうめん)からご飯にと、気持ちが変わりますねえ。昨日、TBSの吉田類が、新潟・新発田の『菊水』を美味しそうに飲んでました。ビールも『秋味』が店頭に並びました。いよいよ魚の季節がやって来ますね。ついでながらというか、干物の「ニイダヤ水産」もよろしくお願いします。

宿題やってるか?  実戦教師塾通信三百九号

2013-08-25 15:44:19 | 福島からの報告
 元気ですか?


 1 さつま芋の甘辛煮


 まるで梅雨が戻ってきたみたいないわきだった。でも降るのはじとじとした雨でなく、毎日滝のように降り注ぐ雨だった。前日も深夜から、雷と一緒(いっしょ)に地面にたたきつけるような雨を降らせたが、明け方はすっかりあがり、そのおかげで気温をさげた。
 中央台の朝は、照らされただだっぴろい駐車場が、ねばっこい空気を急激に撒(ま)き散らしつつあった。
「暑いね」「お早うございます」
集会所に入った私に、常連(じょうれん)のおばちゃんたちが笑って話しかけてくれる。今日のおやつは、リーダーさんが作ってきたさつま芋の甘辛煮(あまからに)だ。
「コトヨリさんが来るからってよ、煮てきたんだよ」
私の分だと言って、皿に盛ってラップをしてあった。屈託(くったく)なく言う顔が、いつも嬉しい。
 リーダーさんの「帰る」久之浜復興住宅の建設状況は、はかばかしくない。
「どうなんだがよ」
「(仮設住宅を)出でぐしかねえんだげどよ、落ち着かねえってねえよ」
そうこぼす。私は、さつま芋の甘辛煮に舌鼓(したつづみ)を打つ。これは醤油と…と私が言いかけると、あと砂糖で煮込んだんだよ、と豊間のおばちゃんがサポートする。輪切りにされたさつま芋を半分にすると、醤油(しょうゆ)がちょうどミディアムにしみ込んでいる。口の中でいい具合にほぐれるのはそのせいだ。
「このしみ込み具合が絶妙(ぜつみょう)ですね」
と私が言うと、リーダーさんが照れたように手を顔の前で振る。途中でトイレに立ったおばちゃんが戻ってきて、
「いやあ、いろんな味噌(みそ)が来でんだあ」
と、通路に山積みになった味噌のことを言う。本当に素敵な人たちだ。
「藤圭子自殺だとよ」
テレビをあまりつけない集会所だが、それをみたおばちゃんの声が高くなる。あらあらあら、一瞬どよめく集会所だ。
 今日は軽トラを頼めたよ、と嬉しそうに会長が入ってくる。初めの頃ははキャリーカーを引っ張ってやっていた。軽トラは、上から積み込み、上から出して配っていく。これは楽に違いない。そうして時間がもう定刻(ていこく)の二時を回る頃、
「会長さん、始めましょう」
と私は促(うなが)すが、
「いやあ、もちっと涼しくなってがらにすっぺよ~」
と弱音(よわね)を隠(かく)そうとしない。
「今日は30分でやっちまおう」
と、暑さを思って言ったのだろう、そう言ったのは別な役員さん。でも、この日この役員さんは味噌のカウントをかなり間違った。私は、
「この人が送った数と違う」
と宅配のラベルを見ながら言う。もうひとり、集会所の受付担当(うけつけたんとう)の人は恐縮(きょうしゅく)したように確認する。この役員さんが初めに確認したのだが、それが間違っていたのだ。こんなに間違ったことは今までなかった。私はそれでその役員さんにいらだっていたのかも知れない。
「30分でやっちまおう」
を聞いて、すぐに
「出来るわけがないし、そうしたくもない」
などと私は言ってしまった。
            
       恒例(こうれい)の記念&証拠写真。バックに西田敏行


 2 宿題無理すんなよ

 前回に回った時の私のきまり文句は
「仮設住宅の閉鎖も近づきましたが」
というシビアなセリフだった。今回はやっぱり
「暑いですね」
と近況(きんきょう)をうかがった。
「こんなに暑いと出るのもおっくうでね~」
と、すっかり疲れた顔の方。私が、集会所にも顔出してください、と言うとそんな言葉が返ってくる。集会所までわずか100~200m、しかし、この暑さにみなさんは家々の玄関まで重い足どりで出てくる。わずか二間の仮設住宅なのだ。
 いやあ、熱中症(ねっちゅうしょう)にやられてさ、参っちゃったよ、と玄関に出てきた方がこぼした。
「海岸の方でイベントをやったのよ、外でテントはってガス釜でご飯とあら汁を作ってたら、目まいがして気持ち悪くなってね」
二の腕が真っ青になってさ、と赤みが戻ってきた手を見せてくれた。そして、医者が言うにはガス釜のそばにずっといたからだろうってさ、と続けた。束の間(つかのま)の会話のあとは、いつも美味しい味噌をありがとうございます、と笑顔で言う。誰のための炊き出しだったのか、聞けば良かった。自分たちが大変な思いをしているというのに、と思った。
 なんとなしに、いつも気にかかる家になる。いつもの高校生(中学生?)の女の子が、玄関の扉(とびら)を少し開けて味噌を受け取る。この頃ようやく、こちらから気さくに話しかけられるようになった。ヨッ、と声をかけてこの子が笑うようになったからだ。扉のすき間からこの日も小学生らしき男の子が見える。この間もそうだったが、向こうもこちらをうかがっている。私は
「元気か? そうか。宿題やってるか? 無理すんなよ。宿題なんて終わらなくてもいいんだからな。プールも行けよ」
次々とそう言った。いちいちうなづく男の子だった。そしてそれを見て、ありがとうございます、と言った女の子は、やっぱりお姉さんなのだろうか。いつも必ずここにいる子たち。
 夕涼みと言うには、プレハブの住宅はあまりに似合わないと思えた。それに日はまだ高かった。でも、玄関前に縁台(えんだい)を出して座る方は、まるで涼しかった海岸での生活をなつかしむようだった。そんな方が、
「暑い中をありがとうございます」
と言う。もう一人、玄関前のあがり口に座ってタバコを吸っている女の人。手には不動産の広告。私は、いよいよ家を買って引っ越すんですか、と尋(たず)ねる。
「とんでもないよ、でも買えなくてもさ、こうして楽しんでんのよ」
と、笑う。そうして自分の向かいのプレハブの並びを指さし、娘が出産でいないから、娘の分もいいかい、と私に言った。娘と住んでいた二世帯の家が流されたのだろうか、それとも娘の家と自分の家の両方が流されたのだろうか。
 途中、一緒の役員さんが、もう熱中症だ、と何度かこぼす。温度よりは湿度の演出する暑さが、仮設住宅の長屋の細い通路をめぐっていた。窓からさがるゴーヤの蔓(つる)。窓を開けている家、閉め切ってエアコンの空気を吹き出している家。今さらながら、仮設住宅の窓の小ささがもたらすひどさを思う。ここの窓はやっと上半身が見えるほどだ。下半分は壁だ。だからもちろん、外に突き出す縁側などあるはずがない。その窓の外に、みなさんは洗濯物を干している。それでも、私が玄関先で、元気にしてますか、と声をかければ、
「元気です」「なんとかやってます」
「いつもありがとうございます」
と、笑顔で迎(むか)えてくれる。
「いつまで来てくれるんですか」
の言葉に、私は、まだ来ますよ、としか言えない。有り難いような、申し訳ないような気持ちでいっぱいだ。

 終われば、おばちゃんたちが集会所で
「お疲れさんでした」「ありがとね」
「冷たいの飲んでよ」
と出迎える。おばちゃんたちは一度として手伝ったことはない。見れば分かる。もうそれで精一杯(せいいっぱい)なのだ。そして必ず、精一杯の感謝と労(ねぎら)いの言葉をくれる。
ありがたい。


 ☆☆
お陰さまで八月も、みなさんに物資の支援が出来ました。今回、新たに多くの支援者を迎(むか)えました。複数の方から
「まだ支援をしていたのですか。驚きました」
と言われました。怒っていいのか、感謝した方がいいのか、考えてしまいました。この場で支援者の方に御礼申し上げます。ありがとうございました。

 ☆☆
宗家山口先生の招待(しょうたい)で、今年も剛柔流全国大会に顔を出して来ました。いつも8月最終土曜開催なのですが、これまたいつもこの時に、原宿・表参道よさこいソーラン祭が開催されてます。神宮の鳥居前に野外ステージが設置されてますが、体育館周囲の竹下通りは、よさこい一色です。体育館の外で、試合前に練習する姿の向こうに、通りで踊っている群れが見えます。
            

 ☆☆
イチローやりましたね。日本風の花束贈呈(ぞうてい)こそありませんでしたが、自然な風や波が寄せるような祝福(しゅくふく)、良かったですねえ。黒田に一瞬の躊躇(ちゅうちょ)があったのを私は見逃(みのが)しませんでしたが、それは真っ先にいっていいものか、という躊躇にも見えました。
「4000回の嬉しい陰に、8000回の悔(くや)しい思いがあったということです」
と、こんな言葉だったと思います。イチローはいつでも、簡単なことではない、天才という言い方で語れるものではない、と言っているかのようです。イチローはそうして壁を乗り越えることの困難さと、その道筋(みちすじ)をずっと示してきたんだと思います。
「頭の白いものは勲章(くんしょう)なんだよ」
とイチローなら言える。
おめでとう、そしてありがとう、イチロー!

 ☆☆
まだ報告したいことがあります。次回にいたします。

〈新〉と〈旧〉Ⅲ  実戦教師塾通信三百八号

2013-08-21 14:52:49 | 子ども/学校
 〈新〉と〈旧〉Ⅲ

    ~「もともとない希望」と「初めからある絶望」その2~


 1 好きにしなさい


 もうまったく見てないTBSドラマ『なるようになるさ』だが、番組案内を見ている限り、その判断は間違っていなかったようだ。家出少女陽子もひきこもりの昇も、旧式の行方(ゆくえ)をたどるようだ。
 このひきこもりの昇の方の話をしておきたいと思っていた。ドラマの主人公の姉が営(いとな)む小料理店。そのごひいきさん(医者夫婦)が頼み込んできたのが昇だ。息子になんとか社会性をつけて欲しい、と姉は頼まれた。店で手一杯(ていっぱい)の姉が、悠々自適(ゆうゆうじてき)に見えた妹のところに昇を連れてきた。
 この脚本の筋書きにはどうしようもないことがたくさんある。
 この昇は開業医の次男で東大入学。卒業後、銀行につとめるがうまく行かず、それからひきこもりとなる。なんの不自由なく、不足もないこの次男に欠けていたものはなにか、という分かりにやす過ぎる設定。
 泉ピン子演じる姉の小料理店は、打ち水はしてあり、本人はいつも着物をたしなんでいる。これは町の食堂なんかではない。そして、妹夫婦は三人の兄弟を世に送り、人生の成功者として方や定年を先にのばし、妻は町で自宅兼のレストランを始める。レストランが、数々の人生ドラマを経た後、閉鎖するのか続くのか、それはどっちでも同じ気がする。脚本家の、申し訳ないが安っぽい「なにが幸せか、それが大事」みたいなメッセージは、もはや見え透いている。
 まず全般に言えること。それは、このドラマに「挫折が見当たらない」ことだ。正確に言えば、その挫折から立ち直ることが分かっている。あるいは、挫折のやってくるのが「遅すぎる」ことだ。
 開業医と、予約がひきも切らない小料理店。三人兄弟の独立した、定年間近い大手企業の夫をもつ妻との所帯。これを「作り物だし」と割り切って面白く見られる人は、どのぐらいいるのだろう。そして、昇は東大卒。その後にやって来る「挫折」。おそらくドラマをちゃんと見れば、この挫折は今に始まったことではなく、幼少(ようしょう)の頃から始まっていた、との展開になっているのだろう。しかし、そんなことはどうでもいいことだ。
 これらの事柄(ことがら)の間から透けて見える
「好きにしなさい」
「好きにできる」
ことの「旧さ」に、私は鳥肌がたつような思いだ。


 2 「棲み分け(すみわけ)」

 少なくとも私たち「団塊(だんかい)の世代」には、それぞれの持ち場というものがあった、あるいはそんな時の記憶をしっかりと持っている。
○あそこに行けば蝉(せみ)がいる
○あそこに行けば仲間がいる
○あそこに行けばそばがうまい
○あそこまで行けば家だ
というような、そんな「棲み分け」られた世界が健全にあった。しかし、今はそんなはっきりした区分はなくなった。
 「そば屋」で考えてみよう。この「専門食堂」として最後の旗を守っているのは、この「そば屋」と、その他いくつもないはずだ(がんばれ、うなぎ屋!)。今は、居酒屋そして寿司屋と、そばを最後のあがりに「そば粉百%の手打ち」とうたって出している店は、いくらでもある。私たちは脱サラした、または「定年後の楽しみ」と銘打った、そば屋や自宅を改造した「カフェ」が、無惨(むざん)にシャッターを下ろしていく姿をたくさん見たはずだ。町の一角(いっかく)で、ちんまりとした味を作り、わずかばかりの客を夢見た人は多い。しかし、もう世界はそんな「棲み分け」を許容するところにはない気がする。
 仕事のお昼にそばを食べたいという人ばかりではない。カツ丼なら救いはあるが、ここにミートソースのパスタを食べたいという人がいれば、じゃあ今日はイタメシでとなることもあるにはある。しかしこれが、海鮮丼(かいせんどん)となれば、どっちも食べられるお店に行くことになる。そんなことに対応できるのが、今の大衆社会であって、
「こだわりのざるそば/月見そば」
とやっていてうまく行くはずがない。金物屋に行ってもそこにはシャンプーやコーラまである店(ホームセンター)でないといけないし、薬屋にも文房具がある(ドラッグストア)という具合だ。町から初めは魚屋、次に八百屋、そして肉屋という順で次々と小売店が撤収(てっしゅう)していく時期は、「ご近所」がなくなるのと、時を同じくしていた。多くのそば屋とカフェはおそらく、この昔懐かし「ご近所」の姿を思い、そこに向けた「自分の店」を考えたものだった。
「好きにできる」
「好きにしたい」
と思った人々が夢見たものは、もうそこにはなかったのだ。

 
 3 前倒しされた「好きにできる」

 昔、私たちは
○お風呂に二人っきりで入りたい
○二人だけの台所が欲しい
と思った。あるのは銭湯(せんとう)と共同の台所だったからだ。次に
○自家用車が欲しい
○ベッドのある寝室が欲しい
と思った。
 私たちが持っていた飢餓感(きがかん)は、収入の増加に伴(ともな)って、例えば「明日のご飯への不安」がなくなることで、減少する。お風呂も台所も夢物語ではなくなる。それらは、以前の漠然(ばくぜん)とした
「仕事に追われることのない」
「のんびりした」
生活へのあこがれを、誘発(ゆうはつ)する。実はこの時、私たちは
「今日を生きる」
「今が一番」
大切/楽しいのだということを手放つつあった。
「好きにしたい」
「好きにできる」
私たちの姿は、子どもたちの見本にならなかった。子育てから自由になった母親のやる手習いは、退屈そうで楽しそうなものに見えなかった。父親が通う「そば道場」や釣りも気持ち悪かった。そして、一念発起(いちねんほっき)して始めたそば屋(カフェ)も見ちゃいられなかった。なにより子どもたちは
「とりあえずなんでも持っていた」
のだ。子どもたち(若き親たち)が、それなら
「今から好きにしたい」
「今からでも好きにできる」
と思ったとしても不自然ではない。
 今ある世界/生活を
「たいしたことのない」
「どうでもいい」
世界として生きる基礎(きそ)が出来上がった。ネイルアートやスポーツジムに通う母親は、
「今しかできない」
子育てより、自分の美しさが
「一刻の猶予(ゆうよ)もない」
と考えた。この母親は、自分の子どもを虐待(ぎゃくたい)する「父親」を前に、
「だって『じゃあオマエを殺してやる』って言われたら止められません」
と言った。
 この一世代前と言えるのが、ドラマの昇の挫折だ。普通の子どもたちは「東大」に辿り着く(たどりつく)前に、多くの絶望を経験する。
「オマエに一体どんな不満があるというのか」
という天からの声がそれを導く。まるでそれは、三つのシートに分けられた電車の優先席のようだ。


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この「棲み分け」のなくなった世界をさらに凹凸(おうとつ)のない平面的な世界にしているのがネットです。それは次回に回します。

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イチロー、あとひとつで4000本安打ですね。地元ニューヨークはすごい騒ぎで、イチロー本人も
「こんなに皆さんが覚えているんですね」
と感動していました。4000本安打記念のTシャツ、いいですね。明日発売かな。

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福島に出発です。暑い中の物資(お味噌)配布ですが、協力者のみなさんの気持ちと、仮設住宅のみなさんの顔を思うと嬉しいです。行ってきます。

空手の行方  実戦教師塾通信三百六号

2013-08-15 16:24:21 | 武道
 武道論 Ⅲ

     ~空手の行方~


 1 チャンバラ/武道


 まずは「武道もどき」の剣道/空手の現状をひとつ。
 テレビや映画で見る時代劇と、剣道の試合を比べ、私たちはどちらにリアリティを感じるだろう。この場合のリアルさとは、文字通り「本物らしさ」だ。竹刀(しない)の先を振り回して、足を小刻み(こきざみ)に忙しく動かす、あの剣道を私たちは「本物」だと思っただろうか。ちなみに「技あり」は、面と胴、そして小手(高校からは「突き」も入る)の、たった三つ(四つ)だけというとんでもないルールを私たちは知っているのだ。当然のことだが、真剣(しんけん)だったら、どこを切っても「死ぬ」。だが、「選手」たちは、その三箇所を目指してひたすら動く。失敗したらまたそこを目指してやり直す。「やめ」の合図(あいず)があれば止まる。
 これらを取りあげただけでも、日本剣道連盟が運営するところの現代剣道が「ポイントをとる」ことを目的にして、スピード化したことが分かるはずだ。全空連(全日本空手道連盟)が運営する空手も同じだ。「技あり」は上段(顔面)、中段(腹部の急所)、そして下段(金的)。上段を「禁じ手」としていた流派(りゅうは)も、ヘッドギアのような防具(ぼうぐ)をつけた状態でならOKという最近の流れだ。あとは同じだ。この「技あり」を取るため、「選手」たちは三箇所の急所に狙い(ねらい)を見すまし、ピョンピョン跳ねる。すぐに「やめ」の合図のあることが分かっているから、一発入れたら下がる、が習慣づいてしまっている。「『一撃必殺(いちげきひっさつ)」の技』だからそうしている」、なんて言い訳がもう通るとは思ってないだろう。あまりにも現実とかけ離れた展開ではないか、との内部からの批判もあり、少し打ち合うのが最近の傾向(けいこう)となっている。でもそんなものだ。どっちも勝った負けたと結果に大騒ぎなのだ。
 武道家にとって当たり前の「ナンバ式歩行」を励行(れいこう)しているものが、このスポーツな剣道や空手をやるもののなかにどれだけいるだろう。「ナンバ式歩行」とは、よく「同側歩行」などと言って、右足が出る時に右手も出るというように言われる歩き方である。厳密(げんみつ)には違うし、そんな歩き方はあり得ないのだが、分かりやすくするためそう言われている。歌舞伎(かぶき)役者はもちろんのこと、映画俳優でも田村正和や村上弘明は、このナンバ式歩行をしている。今度ドラマで見かけたら見てほしい。分かりづらいとは思うが、そこでナンバ式の歩行が見られる。


 2 富名腰義珍/本部朝基

 この二名、もちろん琉球出身の唐手武士(ブーサー)である。
 以前も触れたが、空手を大衆化したのも骨抜きにしたのも、残念だが空手四大会派を形作る「松濤館(しょうとうかん)」の祖、富名腰義珍が大きく担って(になって)いる。僣越(せんえつ)を承知で言うが、前も書いたように、それは義珍の望むところではなかった。
 首里手系(しゅりてけい)空手の基本稽古(きほんげいこ)で欠かせない「騎馬(きば)立ち」と呼ばれる立ちかたがある。ちょうど乗馬した時の形に似ていてそう呼ばれる。この立ちかたをすると、全身の筋肉が伸びて緊張(きんちょう)状態となる。この立ちかたが大流行したあと、稽古方法として定着したのだ。大正時代の当時、空手(この頃は「唐手」と呼んでいた)が内地に上陸するや、東大や法政、早稲田大学に続々と空手部が生まれた。その学生たちが四年間という時間的制約(せいやく)の中で、体力と技を身につけるために生まれた稽古方法とも言われた(そう以前に書いた)。しかし、琉球の唐手指導者の中では、すでにその前から立ちかたをめぐって、議論があったようだ。
 それはもう、さすがにはしょるが、兵庫県で内地入りをした本部朝基が、東京の雑司ヶ谷(ぞうしがや)に道場を開いた義珍のもとにおもむいた。その時、稽古のあまりに騒がしいのに笑ってしまったというエピソードがある。基本や型で飛んだり跳ねたりするもので、騒がしかったのだ。本部だけではない、琉球人はこの内地の空手の傾向を批判していた。当時、戦争相手だった中国名が使われているという理由で「唐手」を「空手」に変えたのもそうだったと言われる。義珍が、般若心経(はんにゃしんぎょう)から「空」を採用し、「唐」を「空」に変えたのだが、これに地元琉球はおおいに不満を唱(とな)えた。また、上達を「段位」で認定するやりかた、それを「帯」で与えるやりかたなど、批判は様々だったが、最上位にあったのが「試合」だ。「無闇(むやみ)に人に使うべからず」という、伝統の教えに背(そむ)くものだからだ。ルールを作れば大丈夫、という義珍の息子や学生の説得というより、一方的な申し出に義珍は試合を受け入れさせられる。そして空手は「原型(げんけい)を失」い、使い物にならなくなる。
 一方、喧嘩(けんか)空手の暴れん坊と呼ばれた本部は、実際、地元琉球の路上(ろじょう)で、辻斬り(つじぎり)と呼ぶに等しい試合を申し出、次々と相手を倒した。義珍もその相手となったと口伝(くでん)にはある。その本部の空手を「本物だ」とする学生たちを、
「オマエたちは本部君を分かってない」
と義珍はたしなめた。本部は勝ち負けばかりにこだわっているのではない、と言いたかったのだ。空手の全国代表理事まで登り詰める義珍は、しかし「こんなはずではなかった」思いで死んでいく。そして、本部の方も結局、内地での空手伝導(でんどう)をあきらめ、琉球に帰り、義珍より一足早く他界する。


 3 空手-型

 「武」という字についてご存知だろうか。心ある武道家から、武道啓発(けいはつ)の思いで、「矛(ほこ)」を「止める」と表した字が「武」だ、と言われている。一方、漢字博士の白川静氏によれば、「武」の「止」の部分は「歩」を意味するという。つまりそれで行けば「武」はそれ自体で「進軍」を意味することになる。
 私は両方から学ぶべきだと思っている。勝ち負けは武道の究極の目標ではない。もう少し言えば、どのような「勝ち/結果」を目指すのか、ということだ。その点で、勝った負けたと騒ぐことは、いさめないといけない。「矛」を「止める」ことは必要なことである。一方の「歩く」は、武道の観点から言えば「居ついて」はいけない、ということだ。分かりづらいですね。簡単に言ってしまおう。「終わりがない」ことだ。終わりがあるから、そこに向かって力(りき)んで飛んだり跳ねたりすることにもなる。
 そこで型(形)の話になる。私自身、型の奥深さを少しは分かってきたつもりだが、一体今までなにをやっていたのか、の思いは強まるばかりだ。受けたら突く、の順番で型ができていると、まだほとんどの空手家たちが思っている。
           
これは富名腰義珍が、攻撃してきた相手を倒す(たおす)場面である。これを空手の技だと言われたら、ほとんどの空手家はハテナ&びっくりマークを頭上(ずじょう)に浮かばせるはずだ。前回書いたように、空手の技には投げ技・組み技がある、いや、かつてはあったと言うべきか。そして、次の写真は同じく本部朝基が攻撃してきた相手の手をとり、水月(お腹の急所)に猿臂(えんぴ-ひじ打ちのこと)を入れる場面だ。
           
この二枚の写真を見て、これは首里手の型「ナイファンチ」の流れだと気付く人は、ほとんどいないはずだ。そう言われてみれば、と気付く人もいるかと思う。型の通りに考えて稽古をすれば、こんな流れは生まれるはずがない。「型通り」だからだ。
 型が古ければ古いほど、奥行きは深く、相手のどんな動きにも対応し反撃する流れを作り出していく。止まることのない我が身の動きを、型は教える。「型に始まり型に終わる」琉球古来の稽古の考えを、空手に限定することはない。野球で素振りの大切さ(本数ではなく)を桑田が言っているのも、そんなことに通じると思うからだ。そんな大切な原点を、今の沖縄空手がちゃんと継承(けいしょう)しているかと言えば、残念な現状である。
 型をどう考えるか、それが空手の行方を決する。


 ☆☆
書いていて思った予想される反応。
「では総合格闘技(そうごうかくとうぎ)ならいいのですか」
という質問は、ホントによく受けますね。極真(きょくしん)会館はその限界を破ろうとしたのではないか、も同じ類。それを書いていればこのシリーズはあと二回ほど続けることになります。でも、もうやめときます。とにかく、どっちも「違う」、武道とは関係がない、とだけ言っておきましょう。

 ☆☆
サイゼリアに入ったら、あとから入ってきた家族連れの小さい男の子が
「ねえ、どうしてケーキの写真があるの?」
と、店内の壁を指さすのです。母親が、サイゼリアにはケーキもあるからよ、と答えていました。つまり、この子たちは食事をしに来たのだなと思いました。なんか温かい気持ちになりました。この子はまだ、なんでも知ってる、それくらい知ってる、みたいな「分別(ふんべつ)ある」少年ではないのです。ずっといつまでも「サイゼに行けばケーキも食べられる」と、楽しみにする少年であるといいな、などと思った私です。

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終戦記念日。お盆です。仏壇に初めてお花を生けました。花瓶(かびん)なんてしゃれたものはござんせん。ビールのジョッキに飾りました。父と母に平和の誓いをたてました。