実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

北野武 実戦教師塾通信七百七十五号

2021-09-24 11:15:23 | 戦後/昭和

北野武

ビートたけしの懲(こ)りない/切ない場所~

 

 ☆初めに☆

1986年のフライデー事件では「襲った方」だったのが、襲われる方となったビートたけしでした。しかし「警察から何も言っちゃいけないって言われててさ」(ニュース7デイズ)と言いながら、たけしはやはり饒舌(じょうぜつ)でした。

ビートたけしの映画は、熱烈なファンからの支持と海外からの高い評価があって、興行的には成功することが少なくとも今日まで続いている、と思われます。役者や監督というものは、売れるか否かより「この人にしか演(や)れない撮れない」が肝心なことです。ビートたけしが演る/撮る世界は、おそらくもう出てこないのではないのでしょうか。熱烈なファンとして、ビートたけしをもう一度眺めてみます。

 

 ☆『取り返しのつかない』☆

10年以上も前の小誌に寄せた自分の文を読んだら、ここの読者にも読んで欲しいという思いが強くなった。『取り返しのつかない』と題された当時の文章を、全面的に添削した。かなり削ったのだが、それでも長文となるので、よろしくです。

 

◇昔……◇

 すっかり装いを変えて、今は多くのテナントを抱えた駅ビルとなった(千葉県)南柏である。駅前ロータリーは舗装さえおぼつかなかったのが、レンガ風の石が敷き詰められ、街路樹と商業ビルが人々を誘っている。

 ついこの間まで、東口のこちら側には長屋でトイレも汲み取り式の貸家が並んでいたもので、私は4年ほど腰を落ち着けた。駅まで歩いて五分という交通至便な立地条件の物件としては、格安だったわけだ。国道六号線をすぐそばに控えた西口の駅前のアーケード街と、それは馬の背と腹を分けるような陰と陽の顕著さがあった。

 長屋に住んでいた当時、我が家に戻るには、線路伝いから少し斜めに入った暗い細い道が近道だったから、電車を使った時はその道をよく歩いた。道の曲がり角にたたずむ焼鳥の屋台。暗い道から抜けると、昔の街道の賑わいで潤ったと思われる古い商店街に出る。旧水戸街道までのわずか五十メートルにも満たない細い道沿いに、肉屋/魚屋/八百屋が、道の際まで品物や匂いをせりだしている。肉屋はクリスマスだけの特別メニューだと言って焼き豚を鍋で煮る。オーブンではなかった。八百屋は真っ赤になったトマトを持っていけと言ってくれたし、魚屋は閉めかけたシャッターを、こちらの顔を見て開けてくれた。

 南柏のこの一角を「今谷」と呼び、その昔、罪人を処刑する場所だった。霊感が強く(と自分では思っている)、「時代」を信じている自分としては、この界隈(かいわい)を通る時に感じる、まとわりつくような「風」や、ぶちまけたような夕立にであうと、「今谷」は健在だなと勝手に思っている。都会・商業資本がいくら頑張っても、駅前のきらびやかさは半径二百メートルである。細い路地に入れば、手入れのされていない生け垣や枯れた井戸がある。それらは「簡単には消せないぜ」とでも言っているかのようだ。そんな時私は、切ない気持ちと、ざまあみろという気持ちをいつも交錯させる。

 

 ◇懐古趣味ではなく◇

 ビートたけしを見ていると、「違和感の磁場」みたいなものを覗(のぞ)いているような気になる。映画でもテレビでも、本も雑誌もだ。居心地の悪さのような「違うんだ」と言いたげな、いつもきわどい語りをする。いつだったか17歳の少年たちが次々と凶悪犯罪を犯して世間をにぎわした時、雑誌で

「近所のオヤジやおばさんが子どもを不断にしつけた昔だったら起きないことだ」

みたいなコメントをした。私は強い違和感を持ったのだが、たけしは次のようなことも言う。まさに「違う」「面白くねえよ」なのだ。

「学校の服装検査でも、徹底的な服装検査の方が、おいらはいいと思うわけです。服装検査で、服からカバンから全部やる時、それをかいくぐって学校にナイフを持ち込んだだけで、そのワルは番長になれる。でも、全部自由でなんでも持ち込み可能だとしたら、そのナイフで人を刺さなきゃダメでしょう。そうじゃなければ、ワルとして英雄になれないんだから」(『巨頭会談』)

みんなで子どもを注意しましょう、子どもを良くしましょうという提言からは程遠い。私流に言えば「根性もねぇケツの青いガキが分不相応な事件を起こしてるだけじゃねえのか」と怒り心頭なのだ。いいも悪いもあるもんじゃねえ、と唾を飛ばしている。昔を懐かしみ肯定しているのではなかった。

 昔ってそんなによかったのだろうか。「粗末な服を着ていても、お腹いっぱい食べることが出来なくても、みんな笑顔だけは最高だった」(『昭和の時代』小学館)のだろうか。『昭和の時代』に収められた写真の子どもたちが恵まれていたのは間違いない。あのフレームに入らず、撮影の様子をじっと眺めているしかなかった子どもたちの姿が、私にははっきり見える。忘れもしない。辺りが長屋で当時は貧乏というか、純朴を絵にかいたような風景の中でも、更に貧乏だった我が家。ご近所はいつも年の暮れには、崩れ落ちそうな我が家に「寄贈」の味噌と醤油を、簡単なセレモニーとともに届けてくれた。そんな習慣があの時代・あのエリアにはあった。

 大卒の初任給が一万円とちょっとの時代であった。私の高校合格の祝いにと、栃木の叔父が四千円の腕時計を買ってくれた。今でいえば高校(中学)の入学祝いにスマホ、という話にしてもいい。さて、先ほどのご近所は、私が腕時計をしている、一体どうして手に入れたものかという噂をあっという間に広めた。「放っておけない」という「気遣い」は、同時に要らぬ「干渉」もした。昔ってそんなによかったのか。

 

 ◇それじゃ本当のことを言おうか◇

 いつでもそうだ、ビートたけしの映画は、負けたものへの温かいまなざしがある。そして「勝った」もの/ことへの自戒と自嘲を促す。そう言うと、ビートたけしはきっと言う。

「いや、違うんだよ。『負けた』じゃなくて、『降りた』とか『抜けた』って言わなくちゃ駄目なんだよ。今の世の中、そういう奴を見かけると『偉い』って言わなくなっちまって、逆に『そんなんじゃ駄目だ』って言うようになっちまったんだ。品がなくなっちまった」

名画『キッズリターン』のラストシーン。校庭の自転車の上で、ワルのなり損ないの片割れが、マーちゃん、オレたち終わっちゃったのかなと言うシーンだ。相棒が怒鳴って返す。何度見ても胸が熱くなる。

「ばかやろう、まだ始まっちゃいねえよ!」

自分が生きていく上で、大事にしなくてはならないことに、いつだったか気づいた気がする。「忘れられない/忘れちゃいけない」ことがある。両者とも「積極的な面」ばかりでなく「消極的な面」もあることだ。陰陽の一方を称賛したり叩いたりするもんじゃない。どっちかを忘れれば、楽観的な自画自賛か悲観的なナルシストになるしかないからだ。「じゃあ本当のことを言おうか」と居直らなくなったら、何事も始まらない。

 ビートたけしの映画を見ると、いつも励まされているような気がする。

 

☆後記☆

嵐の中の子ども食堂を中止するかどうか迷いました。でもやって良かった。

びしょ濡れになって来てくれた人。「ここ(『うさぎとカメ』)がいいんです」と言ってくれる子。

きんぴらみたいに見えますが、牛丼風豚丼です。美味しかったはず!

添え物はコーンとおかかの炒め物。おかかはカラ煎りしたんですよ!

いつもより少し少な目にしましたが、すべて「完売」です! この場を借りて御礼申し上げます。

 ☆☆

今週の「和さび」です。右上はジャガイモの細切りを揚げてバスケットにし、グラタンに仕上げました。ホタテではなかったけど……貝の美味しい具でした。右下がイカとナスの肝焼き!

一週間の間「和さび」は、店内改装のためお休みだそうです。ご贔屓の皆さん、リニューアルオープン楽しみですね!


『砂の女』 実戦教師塾通信七百七十四号

2021-09-17 11:38:20 | 思想/哲学

『砂の女』

 ~「生業(なりわい)」の危機と「密」~

 

 ☆初めに☆

劇中の緊迫感は、男や女や集落やの設定場面から出て来るものばかりではない、紛れもなく「現状/現実」の中で演じられるから生まれるのでしょう。「マスクをすることなく絶叫する、口元からは大量の飛沫が出されている」のです。そんな舞台が、現実とどんなニアミスを起こすのかというものがもたらすのでしょう。

たくさんのものを見逃してしまったな、期せずしてやって来た圧巻のラストでそう思いました。

曇天(どんてん)の世田谷パブリックシアターには、いつにない緊張がみなぎっていたと言えます。でも見終わってみれば、これがたまらない感動の裏に張り付いたのです。

 

 1 「失踪(しっそう)」

 「家出」は、いたたまれない気持ちを抱えながら、家と「峻別」する行為を指す。そこには置き去りにされるものがいる。置き去りにされたものは、決して頼られることなかった存在でもある。だから置き去りにされたものは、出て行った理由も探す。この物語は「家出」ではない「失踪」を、人々と本人が選択するのである。つまり、出て行った「男」(仲村トオル)の所在も理由も分からない。残された人々は男を諦(あきら)め、ついには憎んだ。「そのうち帰って来るさ」という心情は、徐々に「いなくてもどうということもない」気持ちになる。最後に彼らは「これは失踪だ」とした。男の行為が「理解不能」であることを考えれば、それが本人の「勝手な」行為だからだ。そして、迷い込んだ砂丘に男が残ると決めた時、この主体的「失踪」なる事態は完成する(ちなみに「砂丘」は、実際は「砂浜の穴」なのだが、英語版タイトルには「dunes(砂丘)」とある)。

 それまで男は、出先の村の人たちに「拉致(らち)」され、砂丘に幽閉されたと思っていた。何度も地上への脱出を試みては、砂の壁を仰いだ。しかし、男が砂丘からの脱出を自らの意志で「やめ」た時、誘拐されたのではなく自ら「姿をくらます」ことになった。「地上ではないどこか」を目指すのである。

 男が巻き込まれた「不可解」は結局、人間が日ごろ行っている「生業」だったと思える。

 

 2 「密」

 男が降ろされた「砂丘の底」に「女」(緒川たまき)はいた。家でスコップを振るい砂をかき出す女は、そうしないと村が砂で埋もれるからだという。そうして毎日、砂をかく。男は、こんな不便な生活のどこがいいのか、さっさとここから出なければいけないと訴える。村で言葉が通じないと感じていた男は、砂丘の女とも同じ気分を味わう。本当は相手にされていないだけだったことに男が気づくのは、最後の方だ。「言葉が通じない」のは男の方で、それを「思い知る」ことになるのを、村や女は分かっていた。人の生業(なりわい)に優美も野蛮もない、それを男は知らない。生業とは日々食べ/排泄し、就寝/起床し、生殖(性)行為をすることである。生業にとっては、リズムを崩さないことが一番だ。それで女は砂をかき、村人たちは「助っ人」を探し出して「拉致」する。

 男が降ろされた「穴倉」を、文明や人類の消極的場所と言うのはたやすい。ある選択をしたら、それが母体だったとかいう聞いた風な「母胎回帰」は分かりやすい「退行」かも知れないが、とりあえず、出会ったばかりのふたりは「男と女」ではなかった。男は地上に執着し、家を壊して地上への足場を作ろうともする。「目の前で女と交わるのを見せろ」と村人たちに言われた時、飢えに負けて要求に応えようとする男を、女は激しく罵倒する。「飢えに負ける」男に性的偏向を重ねたくもなるが、男の目指すのは女体ではなく、「地上」だった。男が変わるのは、腰を据えて「砂をかく」と決めてからだ。この時男は穴への「退行」ではない、「潜伏」という場所に移行した。「失踪」という選択を開始したのだ。ふたりは夫婦(めおと)の会話をするようになる。すべての生業のリズムが整い出す。

 そして男でもない女でもなかったふたりが、やっと男と女(らしきもの)になったと思った瞬間引き裂かれた。あれほど帰りたいと思っていた「地上」に、男は村人たちに女だけを託す。自分だけが砂丘に置き去りにされる。この時、穴からの逃亡に必要なはしごがまだ残っていたというのに、男は砂丘に残る。あんなに距離を置いた人たちとの「密接」な関係が誕生している。これを私たちは「親密」と呼んでいるはずだ。そして、このいきさつを「和解」というのだろう。男が前の街に戻ったとして、都会人は、どうして戻って来た/裏切者などと、口々に罵(ののし)るような気がしてならない。男は自ら姿をくらまし、失踪したからだ。でもどうあろうと、男は自分がいた場所を静かに見つめ、揺るがない気がする。

 「急がなくてもいいかな」という男の抑制のきいた言葉と表情が、ずっしりと劇場を包んだ。

 

 ☆後記☆

来てくださいと言っていいものかという連絡には、現状をお気楽に考える私なんかには想像もつかないものがあったはずです。現場には、問われる「責任」ばかりではない、「使命」に近いものがあったんだろうと思いました。愛知県のコンサートの顛末を見ているうちに、そう思えて来たのです。靴の消毒や遠くからの検温に終演後のトイレ使用禁止など、昨年の『ベイジルタウンの女神』以上の気遣いと決意を感じた次第です。

兵庫の公演も終えた今、もうこの舞台はないのですが、DVD発売が予定されているそうです。皆さん、ぜひご覧になるといいです。

 ☆☆

藤井君やりました。元気もらえますね~ オオタニさーん、最後まで楽しんでね~

今週も「和さび」です。右上はアジとホタテ(ハム巻き)フライ。家呑みセットはイチジクの生ハム巻きやシラスの卵焼きなど。そして何より、おにぎりが「新米」なんです。ありがたい!

こども食堂「うさぎとカメ」、明日ですよ~ 天気が心配です。


多様性 実戦教師塾通信七百七十三号

2021-09-10 11:15:23 | 思想/哲学

多様性

~「みんな違って、みんないい」?~

 

 ☆初めに☆

パラリンピック終わりました。オリンピックもそうでしたが、パラリンピックも同じく興味がありません。私のような不届き者から見ると、ずい分な「健常者」からのエールがあふれてました。当事者はともかく、どうしてこんなに簡単に「みんな違って、みんないい」と言えるのだろう。また、選手の「だからあなたも頑張って」という言葉を聞くと、ニュース画面から目を背けてしまいます。これはパラリンピックに限らず、活躍をする人物から「希望や感動を与えるため頑張ってる」などという御託を聞く時の気分と、大体同じです。イチロー的世界からは、ほど遠い世界です。

方や期間中に、男女の違いをことさら取り上げることはいいのだろうかと言われました。「可愛い」ことと競技は関係ないだろうという。それはまあいいとして「豪快」なる言葉まで、使用回数をチェックされるというご時世です。「男勝り」「女々しい」など、論外なのでしょう。こういう世界を表現するために、「狭隘(きょうあい)」という言葉があるのです。

今回は身体的ハンディキャップのカテゴリーではなく、ジェンダーの領域で整理しておこうと思います。

 

 1 AV店で

 前も取り上げた、LGBTの話で考えてみようと思う。「みんな違って、みんないい」をLGBTに持って来れば、ゲイもレズもその他もない。これは余りに乱暴だ。思春期によくみられる極度な同性への接近やあこがれまでも、LGBTと括(くく)られてしまうんではないか、と私はおののくのだ。現状は、それぞれのカテゴリーが自由に行き来することを許さない縛りを持っているのは間違いない。やっぱり男(女)でいたいとか、女(男)と結婚し直したいという「転向」を許さない勢いがある。女同士の結婚で失敗し離婚したと知るや、それ見たことかという反動的なリアクションも、そんなことをバックに起こる。離婚の原因が女同士だったとは限るまい。相性が原因だったのかもしれない。

 単純ではないな、と思った経験をひとつ。私はごくたまに(本当に「ごくたまに」です)AV販売店に出向く。だいぶ前だが、居並ぶディスクの、あるジャケットに驚いた。あられもない姿で写っているコの、可愛らしい胸元から下に視線を移すと、股間に結構なイチモツがぶら下がっていたからだ。しかも勃起していた。普通に考えて、不快なことが原因で起きる現象ではない。さて、このコが感じている快感は、男としてなのか女のものなのか。きっとどっちでもない、どっちでもいいのだろう、というのが私の結論だった。大切なことは本人の気持ちであって、他人が決めることではない、と。こういった本人の気持ちは「みんな違って、みんないい」なのだろう。だったら「混乱する人がいてもいい、承認するのに時間がかかっていい」というサブフレーズも欲しいと思うのは、私だけではないだろう。雪崩を打ちそうな「多様性」は、あまりに性急でいい加減だ。

 

 2 はるな愛

 私たちの多くがたどって来た道は、自身が抱えた「不全感/欠如感」への対応だったはずだ。イザナギ&イザナミの日本人初の営みも、

「我が身は成り成りて成り余れる処一処あり。故、この我が身の成り余れる処を持ちて、汝が実の成り合わざるところにさし塞(ふさ)ぎて、国土を生みなさむ」

と、イザナギの余分な身体(ペニス)と、イザナミの欠けた身体(ヴァギナ)が結合するものだ。『古事記』における「不全感/欠如感」は男女の違い、それも生理的身体の克服が課題となっているように見える。しかし、私たちは乳幼児を観察して分かる通り、この「性の違い」を、彼らは自由に超えていく。彼らが相手を異性と限定することなく、同性/近親/獣などと自由に絡み合うからだ。この複雑かつ自由な往来が、時間の経過とともに一定の限られた道に収束していく。同時に彼らは、その過程で多かれ少なかれ「傷」を負う。それで、中学入学時にスカートを決意し、でも男子トイレに「頓着せず」入ったりする。また深い「傷」を負ったものが暴力的「解決」を目指して、幼児を性的な対象に選んだりしてしまう(こともある)。後者のようなケースも「トランスジェンダー」と呼ぶほど、今の世の中は寛容だろうか。逆に、様々な性の在り方を「トランスジェンダー」と一括することの乱暴は、考えられないといけない気がする。おそらく「みんな違う」からだ。成長する過程で受けた「傷」の数だけ「違う」からだ。ここで生じているはずの違和感を「それで(みんな)いい」とするのは、相手のみならず自分への不誠実と言える。

 「男の子の服を買うのも好きな」はるな愛は、積極的/肯定的感覚をいつも披露してくれる。彼女は性的少数者のことを「わからなくていい」と言う。「わからないことをなくす」より、相手が「どうして欲しいと思っているのかを聞ける」ことが大切だと言う。そして、自分のような性別適合手術を受けた人間に対して、「ホントは男のくせに~」とからかえる気軽さが、今の世の中から締め出されていると感じている。「みんな同じ」という錯覚は、私たちを常に「部外者」の人間にする。

 ついでながら、コロナのお蔭で「多様性」の建前とやらは、吹っ飛んでしまっている。ワクチンを接種したものには、対策が強い県境を越える承認がささやかれている。ワクチンの効果や副作用が一向に議論されてない現状で、こんなことが俎上(そじょう)に上がる。ちなみに、ワクチンによる死者数と原因について、データは明らかにされていない。そして、さあどっちにするんだ、というのだ。

 

 ☆後記☆

舞台『砂の女』を鑑賞させてもらいました。詳しくは次回レポートします。前座として、劇場・世田谷パブリックシアター近くのカレー屋さんでのお昼のことを。夜は牛タン専門店となるカレー屋さん、この日は牛すじカレーを食べたのですが、いや、ターメリックライスに驚きました。お店の方に思わず「これってタイ米ではないですよね」と尋ねました。日本米ですよ、の答に「よくもここまで……」と感嘆の声をあげると、「ひと工夫加えました」と嬉しそうな顔でした。パブリックシアター近くの交番裏のお店です。機会があったら、ぜひ皆さんもどうぞ。

タケシ、やられましたね。車好きですよ。この日はロールスロイスだったそうです。いつだったか、ジェームスディーンが事故死した時の車と同じ、ポルシェ550スパイダーに乗ってるのには驚きました。とにかく無事でよかった。明日のニュース7デイズは見逃せませんね。

☆☆

こども食堂「うさぎとカメ」、来週となりました。牛丼風の豚丼です。食欲の秋、味わってください。

最後は、「和さび」です。右側は穴子の天ぷらです。和さびさんは、いつも骨をから揚げにしてくれます。ひと手間かかるんですがね、嬉しい。今回の家呑みセットは、稚鮎の三種揚げ、この苦みがたまらない。いつだったか、板長の「太ったのも、あれはあれでいいもので」のコメント、良かったなあ。

 


ルール 実戦教師塾通信七百七十二号

2021-09-03 11:52:14 | 武道

ルール

 ~「公平」とは違う世界~

 

 ☆初めに☆

九月場所が目前です。大相撲が始まります。先場所の横綱・白鵬の取り口について、ずいぶん騒がれました。私のところへも意見が寄せられました。多くが「ルールを明確にする」ことで、弊害はなくなるんではないかというものです。大相撲の審判部や親方衆は口を濁しました。でも、これは問題をあいまいにするとか、白鵬を甘やかすというものではなかったと思います。

ここには「闘い」というもの、とりわけ格闘技系の持つ特性があります。難しい問題なのです。白鵬が、その「難しさ」をないがしろにしてしまった、という記事になります。

 

 1 訴えないわけ

 まず私の実戦上の経験から始める。私は空手の稽古の最中、目を抜かれたことがある。幸い、それが白目の部分で、指が奥まで到達しなかったのが幸いし、「これは大変な怪我です」と病院で警告されたものの、無事に回復した。いまも右目の白目は、内側をよく見ると年輪のように指跡が残っており、この時から右目は乱視となっている。もちろん(目の)抜き手は禁じ手である。試合であれば負けが宣告される。しかし、この時の私もそうだが、反則行為があっても抗議しない。反則とはいえ「技」が入ってしまったことが重要なのだ。目をねらうのが禁じられているものの、目を無防備にしていいというものではない。私の場合、顔面をねらった拳(けん=こぶし)が開いてしまって、指が入った。その指は回避しないといけない。

 相撲で、髷(まげ)に手がかかったかどうかで物言いがつき、双方の力士が土俵下で待つという場面をよく見る。待っている力士は黙って待つ。それは審判部に一任しているからとか、作法として必要だから等ではない。髷をつかまれた力士は、反則の有無よりも負けたという事実の方に沈み込んでいる、はずだ。野球でも、ボールにヤニをつけているかチェックするのを、打者全員が果たして気にしているのだろうか、などと素人の私は思う。ヤニのおかげで回転やスピードが上がったとして、それも打たなきゃと思う選手がいないとは思えないからだ。ラグビーの試合を見た時に感じた気分の良さに、思いは共通する。シンパ~ン、いまの反則です、取ってください的アピールが全くないからだ。サッカーには無数にあるこのシーンが、私にはとても醜悪にしか思えない。それで、自分でやるのは好きでも、観るのは嫌いなサッカーとなっている。

 

 2 不可能な「作法」の改定

 相撲の48手は、足を使った「かけ」/手による「投げ」/腰を使った「ひねり」/頭を使った「そり」を基本に、それぞれの12手を「決まり手」とし、合計したものである。成立は奈良時代と言われる。この時、今では最も強い勝ち方と言われる、「押し出し」「寄り切り」が見当たらない。土俵が無かったからだ。昔の相撲は、今風にギャラリーと呼ばれる、野次馬や見物人が取り囲んだ中で行われた。興奮した群衆が、相撲を邪魔しないように設けられたのが土俵だ。そこで初めて「寄り切り」「押し出し」が生まれる。

 48手以外で、禁じ手となったのが「蹴る」「殴る」「突く」である。これが結構、難解だ。「突っ張り」は、もちろん「突く」のだが、手を開いているので「突く」にならない。「張り手」も手を開いているので「殴る」を免れる。ちなみに、顔側面を張られる時、力士はまともに耳も食らうことも多い。我々ならもちろん即死であるが、左手で右の耳を抑えられて、反対の手で左の耳に張り手を食らえば、お相撲さんと言えど脳内圧力が異常になって死にます。禁じ手なのかどうか知らないが、誰もこれをやらない。「突っ張り」はともかく「張り手」は、相手のスキを誘うものだからだ。相手を倒すものではない。「け返し」はもっと微妙だ。キックボクシングや空手の「ローキック」に見えなくもない。しかし、これも「突っ張り」と同じく、蹴りで相手を倒そうというものではない。相手のバランスを崩しながらの「投げ」が伴わないと決まらない技である。「蹴り」だけで相手を倒そうとした時には反則となる。

 つまり、その見極めとなると結構難しい。そこまではとか、それはまずいんではないかという、言ってみれば「作法」に近い暗黙の了解が、その場を仕切っている。白鵬が、先場所の対照ノ富士戦で見せた執拗な「突っ張り」はマナー違反で、相手のスキを誘う戦略を逸脱する「失礼」なものだった。マナーや作法破りを、横綱たるものがしてはいけません、という問題である。

 この部分に手を付ける「ルールの改定」なんて、始まったらきりがない。ろくなものではない。

 さあ、照ノ富士の新しい、楽しみなスタート。隆の勝は足を揃えてぶつからないこと。踏み込んで立ち会って。

 

 ☆後記☆

いやあ、長雨とは言うものの、涼しくなりました。ありがたい、ホントにありがたい。

これはまだ残暑厳しきおり、2丁目に没する太陽です。そして今、すぐ近くの大津ヶ丘の田んぼの稲穂は、黄金一色となっています。

最後は先週に引き続き、「和さび」のテイクアウト。家呑みセットと、サバの竜田揚げ&おにぎり。「和さび」のサバが食べたかった。やっぱり美味しかった! おにぎりは蕗(ふき)みそを乗せたのが、いいんです。穴子の煮凝(こご)り寄せも旨かったなあ。食欲の秋。もう1キロ太っちゃいました。

菅総理、辞めるんですねえ。