実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

『ゴジラ-1.0』 実戦教師塾通信八百九十七号

2024-01-26 11:44:19 | 戦後/昭和

『ゴジラ-1.0』

 ~私たちの「戦後」~

 

 ☆初めに☆

『ゴジラ-1.0』は、戦争映画でした。戦後が舞台ですが、戦争は終わっていないという映画です。そういう意味では、初代54年の作品も同じです。でも、初代が戦争から10年も経っていなかったのに対し、これは80年近くに及んでいます。監督は山崎貴。終戦から20年経って生まれた人です。戦争-戦後への思いが感じられました。

『ゴジラ-1.0』もうひとりの主役、戦闘機「震電」。

 1 『がばいばあちゃん』

「うちは最近貧乏になったのと違うから……自信を持ちなさい。うちは先祖代々貧乏やから」

いかにひっくり返った考えで私たちが生きているか、佐賀のおばあちゃんが教えてくれる。2000年代に入ってすぐ、島田洋七の『がばいばあちゃん』は大ブレイクした。夢はかなわなくても所詮は夢、だから夢を持て等々、蹴散らす勢いで、ばあちゃんは私たちを勇気づけた。冒頭の引用も、貧乏でなくなったとして貧乏だった記憶は大切にしないといけない、と読める。大切なことは忘れちゃだめだ、人として豊かになったのか、驕るな昂るな(いい気になるな)というのだ。ひとつだけ残念だったことがある。ラストで、ばあちゃんが月並みな年寄りになってしまうのだ。孫(洋七)に「はよ行け(帰れ)」と言っていたのが、「行くなー」となるのだ。その前の段階で、ばあちゃんの気持ちは十分伝わっていたというのに。「行くなー」と言ったのが本当だったかどうかは問題ではない。孫がホントにその気になり、戻って来たらどうする気だ。ばあちゃんが孫の身に着けたはずのすべが、台無しになるぞ。

 2 初代「ゴジラ」

 特攻隊戦術を採用するにあたって軍内部はもちろん、ひと通りでない議論があった。飛びっきりトップ級の某が「この戦術を採用するとあれば、陛下も休戦の決断をされると思う」なる発言もあった。この辺りを振り返っておくのも大切なのだ。特攻への志願と熱意が急速に落ち込んだのは、フィリピン海戦が境だったのはご存じと思う。特攻を決意するにせよ回避するにせよ、隊員は後ろ髪をひかれた。彼らの逡巡を描くように、映画は始まる。戦争は取り返しのつかない多くのものを生んだ。映画は、このことを引き継がないといけない、と言っている。初代ゴジラは、第五福竜丸事件の1954年に封切られた作品だ。そして、水爆のせいで眠りから覚めた、という設定である。

当時の映画ポスター。講談社・ゴジラDVD創刊号の付録です。

同時に、ゴジラは日本に上陸し東京を壊滅させる。銀座四丁目で、まだ健在だった都電の架線をずたずたに進むゴジラの姿を、私は当時見られなかった。怖かったのだ。親たちが一緒に見ている時代ではない。しかし当時の親たち、とりわけ母親たちが見たとして、このシーンをまともに見られただろうか。海の向こうの出来事だったのに、すぐそこまで迫っていた。本土から迎え撃つところまで、日本は追い込まれていた。映画は皮肉っぽく、太平洋戦争を比喩にしたのかとも思える。花火の音を恐れた終戦間もない親たちに、空襲を思わせる狂暴なゴジラの姿はリアルだったはずだ。

 2 「戦後」という場所

 取り返しのつかなかったことをどうにか出来ないのか、と苦しむ「戦後」にゴジラが現れた。そして、戦闘機「震電」が登場する。ゼロ戦がアメリカから研究され尽くし、最後の戦闘機として試作機までこぎ着けた震電。しかしついに実戦に飛ぶことなく終戦を迎えた、たった一機の震電が現れる。とすれば、もうひとつの「取り返しのつかなかったこと」を用意していないわけがない。「生き残ってしまった/死に損なった」者たちだ。ここに、生き残った者がどうしたら「生き続ける」ことが出来るのか、というテーマが浮かんでいる。最後は多くの死者、生き残った者との和解がある。諦めて死んでいくことと、死ぬ覚悟で生きることは全く違っている。出来すぎな結果が待ち受けていた。実は生きている、というような出来すぎは続く。一方で、多くの民衆はゴジラの餌食となっているのである。ゴジラはとりあえず絶命したと思われるものの、多くの人々にとっては惨事であることに変わりはない。比喩の続きで言えば、戦争は終わったが多くの尊い命が失われた。さらに続ければ、残されたものには生きていくという責務が伴う。戦争が終わってからもうすぐ80年だが、日本は戦争で直接、人を殺めていない。こういうことが「生き残った日本」の道だと言っている。でなければ、映画のラストは余りにも安っぽい。ラストは大事なんだ。がばいばあちゃんに「行くなー」と言われた洋七、戻ってどうする?ってなもんだろ。『風立ちぬ』(宮崎駿)のラストで、ゼロ戦は一機も戻って来なかった、との述懐がある。「みんな死んだ」という場所と、『ゴジラ-1、0』の「生きろ!」という場所の、どちらがリアルであるかは明らかだ。「一度死んだはずの日本」に、私たちは生きている。その平和な日本を守るのが、英霊に対する私たちの務めだとするのか。それとも、大変な中を静かに生きていく事が、無残な過去を引き継ぐことだとするのか。映画ははっきり伝えていない。はっきり伝えていることは、ゴジラがまたよみがえることだ。

 

 ☆後記☆

ついでに、同じく「ゴジラDVD創刊号の付録」から。当時の初代ゴジラを宣伝する、東宝写真ニュースです。

この時のテーマ曲が、今回の『ゴジラ-1,0』で流れた時は、胸が熱くなりました🦖

 ☆☆

今年初めての子ども食堂「うさぎとカメ」は、たくさんの皆さんにお出でいただきました。「今年もよろしくお願いします」という皆さんの、温かい言葉に癒され励まされました💛 お汁粉・炒り鶏、大成功

大相撲初場所、明後日が千秋楽ですね。四人ががぶり四つで優勝争い、目が離せません。あと、今場所の隆の勝、いいんですよ。引かれ負けしてない。初めて見た気がします。昨日豊昇龍に負けた相撲だって悪くない。楽しみ


改めて原発 実戦教師塾通信八百九十六号

2024-01-19 11:21:16 | 思想/哲学

改めて原発

 ~樋口秀明裁判官講演~

 

 ☆初めに☆

2014年、関電の大飯原発に対する住民訴訟で、運転差し止めを命じたのが樋口秀明裁判官です。また翌年、同じく関電の高浜原発再稼働で住民が起こした仮処分申請に対し、住民の訴えを認めたのも同じく樋口裁判官なのです。この日の講演会は当然、住民の訴えや取組と共にあった樋口裁判官の具体的なが聞けると思い、勇んで出かけました。

千葉県・松戸市民会館の大会議室で行われた講演会は、150人の人で埋められました。

 1 基本的認識

 ところが、こう言ってはなんだが拍子抜けしてしまった。講演内容が、こういう集会では周知と思える、原発が安上がりの電力でないこと・クリーンでもないこと・危ない理由等だったこと、また、偶発的要因が原発の暴走を奇跡的に防いだこと等だった。つまり、2号機が水素爆発を起こさなかったこと・4号機の燃料プールの水が枯渇しなかったこと等だった。せっかくなので復習します。使用済み燃料でも冷やし続けず空気にさらされると、再び臨界状態となり高濃度の放射能を発生する。枯渇した4号機の燃料プールに水を送ったのは「余震」だった。原発事故でメディアの果たした役割を講演では触れなかったが、これも振り返っておく。吉田所長を始めとする、決死の原発職員たちは「フクシマ・フィフティーズ(実際は100人以上いた)」と呼ばれた。つまり、決死隊の存在を、私たちは海外メディアに知らされた。いずれにしても、関西電力に対し「正論」が通ったのが何故か、聞けなかったのが残念だった。

 2 でも痩せたい?

 原発特有の危険性は、停止すれば安心だと言えない代物であることだ。停止している間も監視し管理しないといけない。その為に使う神経も経費も莫大なものだ。樋口裁判官が冒頭に語ったことは、何度でも繰り返し思い出されないといけない。ダムや火力による発電がどんなに大規模になろうとも、原発と根本的に違う点はここである。しかし、福島原発事故直後、原発は廃炉すべきだという世論は90%に及んだが、今は5割ほどになってしまった。その理由を樋口裁判官は ①間違った過去があっても、国は反省を生かすはずだと国民が思うから。②人間は同じ過ちを犯さないと国民が思うから等々と語った。国が悪いから過ちが起きる・世の中には悪い人といい人がいるといった発想を、私たちはマルクス主義と断じてきた。大熊町を特攻隊の練習専用飛行場としたが空襲に会い、戦後は原発用地と指定したことに対し「国策」だと言うことを、もちろんはばかるものではない。しかし、悲惨な事実が生まれた原因と自分たちは関係ないとするのが、正しいとは思えない。たとえ話で「食べたい・運動したくない・でも痩せたい」でいいのか、と言い換えてもいい。原発を廃炉にしようとする時、私たちは何かを我慢する、何らかの努力をする必要があるはずだ。

 3 「人並みの生活」

 私なりの小さな努力は、例えば東電をやめたこと(以前、銚子電力に変えたことを報告した)。そして、夏は連日、老人のやせ我慢でエアコンなしの生活を励行していること。などだ。「命を守るためにエアコンを」というアナウンスが、年を追うごとに強くなる。そんなことでいいのか、という思いがばかばかしいと笑われることは分かっている。「ひとりでやって何になる」と考える人たちから見れば、くだらないことだ。しかし、「社会が変わらない限り、根本は変わらない」と上から見下ろす「思想」は、勝手気ままな「食べたい・運動したくない・でも痩せたい」と同じだ。原発反対の世論が鎮まったのは国のせいではない、ひとりひとりの身に着いた習慣や考えにある。しかし、当たり前に「出来ることなら今まで通りの生活がしたい」という、市井の民の自然な願いを否定するわけではない。衣服のことで考えてみたい。昔の「麻」を中心とした織物文化は、神への捧げものとするような渾身の仕事として受け継がれた。これが「市場」として拡がりを要請されると、それまでのように「一世一代」「一子相伝」なる生産のやり方が馴染まなくなった。そうして、どこまでも繊維を細くできる麻の技術は、もっと手軽な「綿」へと移っていく。いったん流れが構成されると、社会は後戻りできない。麻の文化は零細な、しかし「人間国宝」的な場所へと移っていく。人々が麻を手放したのではない。恐らく、単に「人並みのものを着ていたい」という人々の思いに、綿がこたえたのだ。

 一度は活断層の指摘をされた志賀原発が、今回の地震で電源喪失の事態となった。しかし、危機感の薄さは顕著である。福島の時のような恐ろしい事態にならなかったのも一因に違いないが、「原発は無事だった」のだから「今まで通りの生活がしたい」思いの方が、人々に比べようもなく強いからだ。

 

 ☆後記☆

お年玉?もらっちゃいました! エンゼルスの「17番⚾」! ありがたい! 今年は春から縁起がいいや🌸!

子ども食堂「うさぎとカメ」は、もう明日なんですが、ここでまだ今月分のチラシを紹介していませんでした。明日用となる裏面も掲載しますね。今月はやっぱりお餅の登場で、お汁粉ですよ 炒り鶏もよろしく

あと、読者は大方の内容を分かると思いますが、別刷りの「お詫びとお願い」を、利用者に明日お渡しします。

今後ともよろしくお願いいたします。

 


年末年始(4) 実戦教師塾通信八百九十五号

2024-01-12 11:24:00 | 日記

年末年始(4)

 ~牡蠣の繋がり~

 

 ☆初めに☆

岡山の友人が毎年送ってくれる牡蠣。「海がおかしい」のは、瀬戸内の牡蠣も同じだという。今年の実入りが良くないと言ってましたが、暮れには大きいのが獲れたと。一斗缶に溢れんばかり、見事な牡蠣が届きました。

この牡蠣を楽しみにしている仲間や友人と、今年も様々なやり取りがありました。変わらない元気な姿、弱ってしまった身体。嬉しい近況や情けない姿など。いずれにしても、牡蠣の取り持つ縁は、今回も健在です。

 ☆御巣鷹山☆

話は牡蠣から少し飛びます。暮れに、剛柔流本部道場で稽古した後のことです。いつものそば屋で食べていると、この日は二人連れの同世代と思われるお年寄りが、隣で飲んでました。世界は陰謀で出来ている的おしゃべりな奴の話は、アルコールも手伝って機関銃のようでした。一番面白かったのは、政府がなぜ拉致問題に踏み込めないのか、という謎解き。横田めぐみさんは、金正日と横田佐紀江さんの間に生まれた子どもだから、という。金正恩が父親の正妻から生まれてないことぐらいは知ってましたが、この時は思わずそばを吹き出しそうになりました。もうひとつは、御巣鷹山での日航ジャンボ機墜落の真相。自衛隊によるミサイル誤射なんです。この事故を引き起こした隊員は自殺。

ここからは、牡蠣をあげた友人が話したことです。ジャンボ機のことを笑って話す私に、真顔で「真相」をさらに突っ込んで話してくれる。その筋の連中には有名な話だという。正確には、ミサイルの攻撃対象とする自衛隊の無人機が日航機に接触した、のが原因だという。生き残った人たちは目撃しなかった。見た人はいたはずだが、みんな亡くなってしまった。と。私は開いた口が塞がりません。陰謀論者として、昨年と変わらぬみっともない姿に、一体どうしてそんな不都合な「真実」が拡散されるのか、抜かりないはずの隠蔽もザルのようだなと皮肉って終わりにしました。

 ☆農業始めちゃいました☆

広い庭の草取りや樹木の間引きをやってるうちに、土地の有効活用を思いついてトラクター(新車!)を買ってしまった友人。どうせやるなら無農薬・有機栽培と、作物と会話しながら始めてしまった「農業」が面白いと言います。節くれだった穴だらけの芋だけど美味しい、そしてお金がかからない。農薬も肥料も使わないからです。牡蠣のお礼にと、いつも日本酒を持って来てくれていた友人ですが、来年はぜひ美味しいサツマイモを、と頼みました。

 ☆遺品整理☆

昨年、たった四日間のうちに兄二人を亡くした友人は、遺品整理に追われています。中でも長兄の遺品には手を焼いている。長兄は自由に生きた人で、高校を卒業すると田舎を飛び出しアメリカに渡る。そこで美人の奥さんをみつけ、向こうとこっちでビジネスを始めた。もともと好きだった絵は、自分で描くばかりでなく画商も始めた。遺品の中には藤田嗣治の絵もあるというのです。私が高校の頃は話す機会もあって、学生運動の話にも付き合ってくれました。それならこれを読んでみたらと、ペーパーバック版「Fight For Freedom」(ラングストン ヒューズ)をもらったりもした。

晩年は帰国したがアメリカとの往復も欠かさず、車は国際免許での運転だった。コロナがあって渡米出来ず、免許を失効したままで運転を続けたらしい。たまに検問で引っかかるが、捕まらなかったと言います。国際免許は結構分厚い書類という感じらしく、おまけに当然だが英語なので、お巡りさんが速攻であきらめるんだそうです。

 ☆フリーランス☆

そんな兄を持つ、ご本人も面白い。何度かここに登場している。こちらは中学校卒業と同時に、家を出ます。東京では沖中仕(港湾労働者)からバーテンダーと様々な仕事を転々とする中、中学校から好きだったギターで店に呼ばれるようにもなる。頼まれるジャンルは様々だったが、一番好きなフラメンコでプロを目指すようになる。もの書きになったきっかけは良く知らないが、単行本はもちろん週刊誌の連載も担当し、東大に関する著書で国会に呼ばれることもあった。大手の会社から声がかかっていたことは間違いない。でも彼は、最後までフリーランスの道を貫いている。60代に差し掛かると、公務員はいいよな、と弱気をむき出しにする日も出て来ました。自分の選んだ道を汚すようなことを言うな、といさめたものです。何度か手術や入院もしました。でも、脳梗塞の後遺症があってねと言いながら、見事な指遣いを見せてくれる現在です。そして、牡蠣は「暮れのとびっきりのご馳走だ」と、喜んでくれます。

 

 ☆後記☆

その他、親の認知症が進んだ知人や、車の運転に自信がなくなったので牡蠣を取りに来れない友人(届けました)など、年ごとに牡蠣周辺のつながりに変化が見えます。でも、ありがとう美味しかった、の声は変わりません。

今年も恒例、広幡八幡まで出向きました。「出来ることを出来る限り続けます」と、お願いというよりは決意を祈念して参りました。改めて、今年もよろしくお願いします🎍


年末年始(3) 実戦教師塾通信八百九十四号

2024-01-05 11:25:40 | 旅行

年末年始(3)

 

 ☆初めに☆

新潟市の駅近くで暮らしている親戚筋に電話しました。でも、全く何ともないので心配ないとのことでした。電気やスーパ―はどうなのかと聞いても、何ともないようです。何せ、携帯電話が通じるわけです。新潟も繰り返し映像が流れますが、エリアでずい分違うものですね。とんでもない元旦となってしまいました。北陸の方々にお見舞い申し上げます。東日本大震災の折りの、夜の寒さを思い出します。こんな時ですが、暮れのぬくもりを報告いたします。

 ☆花巻温泉☆

花巻と言えば、もちろん花巻東のオオタニさん。でも、宮沢賢治も忘れてはいないし、温泉もあるのです。

花巻温泉です。泊った旅館の部屋から撮ったもの。左から夜、朝方と昼近い時のものです。目まぐるしく変わる天候に伴う景色の移ろいに感動しました。こんな今となっては申し訳ないですが、お米が美味しかった。大根や豚の角煮で三杯お代わりしたのです。お風呂も広い湯船から、雪が舞う外を流れる川を見ながらゆったりとしました。

 ☆大谷翔平☆

花巻東高校に行きました。往きはバスで近くまで。降りて10分ほど歩きました。郵便局で道を聞くと、慣れた感じで、信号を左に曲がると右手に見えるよ、と笑顔で教えてくれます。小さな郵便局で、奥は住居のようでした。

見えて来ました。分かる通り、大きな高校です。まだ、ドジャース移籍前でした。のぼりがまた増えたことでしょう。ユニフォームに上着を重ねた、部活帰りの生徒がたくさんいました。大谷翔平のモニュメントを教えてもらい、グラウンドへと向かいます。手形のモニュメントでした。足元の小さな雪だるまは、部員が作ったのでしょうか。菊池雄星と一緒でした。ネットでは、この手に自分の手を重ね、来る年に願いをかける人たちも多かったようです。

部員がひとり、雪のロッカールームにいたので、言葉をかけました。2年生だというのです。来年が勝負となる彼は、世界を相手にする先輩がいる誇りを、笑顔で話してくれました。帰りは、部員の彼に聞いた道を歩きました。

新花巻駅。構内にある大谷翔平・菊池雄星の展示エリア。

花巻駅まで舗装された道ですが、歩行者二人がすれ違える程度です。広い道に出ても曲がらず、狭い道をまっすぐ歩きます。見知らぬはずの自分にも、すれ違う若者が挨拶を欠かしません。どうやら花巻東高校の通学専用道路らしく、時折「服装は乱れてませんか」「元気よく挨拶をしよう」等々の看板が立っていました。

誰かが言ったという記憶がないので、強調しておきたいと思います。大谷翔平は「日本人」なんです。セナもペレもブラジル人で、ジョーダンはアメリカ人でした。でも、大谷翔平は「日本人」なんです。そのことを、もっともっと噛みしめていい気がします。以前、大谷翔平は「力道山」に似た力を送っている、と書いたと思います。でもあれは、あくまで日本へのエールでした。しかし、大谷翔平は世界中に元気を送っている。世界中に力を送っているスーパースターが「日本人」であることを、もっともっと噛みしめたいです。

 ☆宮沢賢治☆

宮沢賢治記念館に行きました。入口にあった像は、悲しい「よだかの星」でした。

入口の階段降り口から、宮沢賢治のシルエット。中にはイーハトーブのジオラマ。

来館者は、決して多くはありませんでした。でも、寂しいというのでなく、落ち着きのある、というのが館内の印象です。忙しそうな足取りはひとつとしてなく、じっくりと見学し、中には係員に質問する熱心な人たちばかりでした。この記念館に私の母親が来たことを、この日知りました。いつの日もらったか、賢治の手書きを印刷した箱入り「雨ニモマケズ」のお土産が、ここにあったからです。記念館を回って、初めて知ることになった賢治の姿がありました。「ソウイフモノニ ワタシハナリタイ」の意味を、ようやく分かったような気がしています。

 

 ☆後記☆

新しい年をはばかりもしますが、暮れのことを。バタバタしてアメ横に行く時間がなくなり、今回は浅草界隈だけ歩きました。浅草寺は、時間までまだまだでしたが、皆さん行列しています。いつも通り、揚げ饅頭を食べました。

これも恒例、尾張屋のそばを食べないと、一年が終わらない。八海山のつまみは、銀杏揚げとナスの田楽。混雑した店でも、決して嫌な思いをさせない、見事な接客にいつも感心します。つまみに、そば味噌を頼んだ時のことです。「それならお通しについてますよ」の素早い返事が還って来るわけです。ひたすら感動するのです。

子ども食堂「うさぎとカメ」予告は、次号に載せます。

今年もよろしくお願いします。