実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

ケーキが切れない? 実戦教師塾通信七百六十七号

2021-07-30 11:21:47 | 子ども/学校

ケーキが切れない?

 ~「頭のいい人」が書いた本~

 

 ☆初めに☆

前号記事はネガティブではありましたが、私は白鵬をいつくしむ気持ちでいっぱいでした。でも今回の記事は違います。『ケーキの切れない非行少年たち』(新潮新書)が、巷(ちまた)をにぎわしています。読む気が起こらずにいたのですが、きっかけがあって読んだのです。今年の「読書特集」では、この書を組まない。推薦できないからです。

少年更生施設はともかくも精神医療の臨床現場に、この本が影響を与えているとはとても思えません。専門家相手の本と言える代物ものでは、到底ありえません。でも、学校現場や一部保護者には少なからぬ影響を与えているらしい。放置できないと思えました。

 

 1 「頭のいい人」

 『ケーキの切れない非行少年たち』というタイトルが意味することはなんだろう。「非行少年たち」と限定したのは、この本に見られるようなケーキの切り方が、少年院に入院している子どもたちに特有な現象だったからだ。正確には、著者がそう「思ったから」である。

表紙にある「ケーキの図」

内容は、精神医学や発達障害等の文献を一定読んでいれば、難しいものではない。ケーキが切れない他に、この本は、

反省や計画や計算等が出来ない/見ること聞くこと想像すること等が出来ない

という「非行少年たち」の特徴をあげる。例えば「いま我慢することでいつかいいことがある」ことが「想像できないから」簡単に手に入れる方法に走る、時としては犯罪に走る。ここにはびっくりするほど「なぜ?」がない。なぜ我慢できないのか。なぜ犯罪に走るのか、というアプローチがない。私が見てきた、また現在も見ている問題行動を起こす少年たちは、例外なく「我慢を重ねて」いる。どうしてこんなことをするのかと思えることも、よく見ていけば、ずいぶんな我慢を重ねているのを知ることが出来る。ひとつだけ例を挙げよう。トイレの床に自分の汚物を置いて放置する女子がいた。彼女は母親のしつけの厳しさと、何かにつけ弟と比較される家庭環境にあった。そしてこれは転校して間もない、自分の周辺の環境が激しく変化した頃に起こった。こう言うと、同じ環境にあっても永山則夫の兄も酒鬼薔薇聖斗の弟もちゃんとしていたという反論は、必ずと出て来る。そんなものは「頭のいい人」の言っていることだ。

 引きこもりも万引きも知的な障害、または精神的な障害を背負っているからだという。著者の言う「支援」は、それらを「矯正」する「更生」することで一貫している。例があげられている。どんな方法でもいいから一週間以内に10万円用意する、という課題を非行少年たちに与えると、親族から借りるという答えのほか、強盗するとか脅し取るという答えが出て来るという。これは「先のことを見通す計画力がない」からだそうだ。そんな少年を相手にして来た私には、どれも著者が「頭のいい人」だと思う以外なかった。著者が「頭の悪い」、あるいは「不幸な境遇にいた」ものの気持ちを分からない人だと思う以外なかった。

 

 2 「それどころじゃねえ」

 現場の目線から考えよう。教師の多く(「全員」ではない)が、子どもたちは話が聞けない/すぐ切れる、そして、自分のことしか考えない/相手を思う想像力に欠ける等々と言う。この著書に多くの教師がシンパシーを感じる所以である。現象をなぞるとも分析ともつかないこれらが、実は大人の「子どもの気持ちを考えずに断定する」態度であることは疑いがない。今では無言や無視の対応が、少し前は「普通」というものがあった。「元気?」と聞こうが「どうした?」と聞こうが、すべて「普通」と返される。これは著者がいうような「対人スキルの乏しさ」によるのではない。子どもが大人にとって「分かりにくい姿」で現れる時、間違いなく「それどころじゃねえ」、または「オメエには関係ねえ」子どもの状態がそこにはある。「あいさつ」どころじゃない、「頭髪」どころじゃない、「勉強」どころじゃない、そして「ケーキを三等分」どころじゃない。そこにあるのは「対人スキルの乏しさ」ではなく、いわば「相手を拒絶する積極的態度」だ。この書は、こんな状態の子どもをじっくり見ようとしない、怠惰な大人の在り方を追認するものとなっている。そしてもちろん、不本意で少年院に送られた少年たちが、教官と称する連中に一体どの面下げて対面するのかという胸の内を、この選び抜かれた者たちは決して分かりはしない。学校でもよくあるし、刑事ドラマでもよく見るではないか。精一杯に反省する姿を見せるかと思うと、相談室(または取調室に)の相手が言う。

「それ、さっき言ったし」「またおんなじこと言わせるのかよ?」

そしてだんだん、表情が仮面のようになっていく。口数も少なくなる。この本のタイトルの「ケーキの切れない」が、「ケーキを切らない」とならなかった理由が良く分かる気がする。

 

 3 「あなたと私」へ

 DSM(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders)は、10数年に一度改定される精神障害の診断と統計のマニュアルである。いま出回ってるのが2013年にされた「5」のバージョン。面白いのがこの「5」版の登場により、ご存じの「アスペルガー障害」や「広汎性発達障害」が消えてしまったことだ。これらは、大きな「自閉症スペクトラム」という概念に包まれてしまった。もともとが精神医療上では、病気や障害の境界線や枠づけが難しい、いや、はっきりしないものである。私は、これらのことをしっかり説明できる専門家のとても少ないことを、残念ながら存じ上げている。

 著者はDSMー5を取り上げつつも、そこで消失しているアスペルガーを何気なく使っている。おそらく今も行政や巷で使われているからなのだろう。それはいい。大切なのは、以前は障害であったものがそうでなくなるという、精神医学会において発生する、言わば「日常的な出来事」の方だ。私たちはこのことを踏まえつつ、現場・子どもに向き合うことが必要だ。障害があろうがなかろうが、当事者には悩みや苦労があることを、私たちは繰り返し思い返すことだ。

 2014年、佐世保で起こった同級生殺人事件に対して、著者は「人を殺したいという気持ちを消し去ることはそう簡単ではない」と言い、さらりと「どう対処したらいいか」という。次に「ストレスがたまらないようにする」等々の「対策」が来るのは、もうお約束と言っていい。その多くが生活スキルの育成や学力の向上なのだ。一体、あの女子高校生が「実の母を亡くす」「有名弁護士の父は別な女性と再婚する」「その前かその直後、彼女はすぐに一人暮らしを始める」「多額のお金が、父から生活費として送られる」等々の背景がどうして問題とならないのか、不思議としか言いようがない。

 信頼のおける精神科医に、この書をめぐる意見を求めた。返って来たのは「しっかりして下さい」とも思える激励だった。

 私たちは「あなたと私」という具体的な手触りの中にこそ、解決や希望があると考えるものである。

 

 ☆後記☆

内村君も大坂なおみも残念。結局、大坂なおみの2回戦しか見なかった。それもたまたま。なんせテレビ番組欄を見ないんで。知らないうちにオオタニさーん、37号打ってるし。これも見れない。ラグビーだって、話題にならないと思ったら、サッカーのフットサルみたいなミニチュア版らしいっすね。な~んか……ですね。

あんまり興味ないコロナなんですが、先日、小児科医・山田真の論文で初めて知りました。今回のワクチンて、遺伝子治療なんですって? 12歳以下に接種しないのは、子どもに感染者が少ない&副作用(副反応?)が理由だと思ってましたが、どうも表に出されてない「副作用」の方に理由があるようですよ。

大徳寺と言うのかムクゲと言うのか、毎年かわいらしく毎日のように満開。今日も頑張れよ、と言われてる気分です。道行く人がみんな見上げていきます。

明日は少し遅れたけれど、「土用のウナギ」で~す!


復活? 実戦教師塾通信七百六十六号

2021-07-23 11:49:34 | 武道

復活?

 ~さようなら、白鵬~

 

 ☆初めに☆

制限時間一杯でにらみ合う両者を批判する向きもありましたが、照ノ富士が白鵬から目をそらさずに、堂々と最後の蹲踞(そんきょ)する姿は、見ごたえたっぷりでした。にらみ合いなど、問題にすることではない。後味の悪さは、その他の所にありました。

朝日新聞より。最後の小手投げ。

振り返れば、土俵下から審判に待ったをかける不作法は文句なしにひどかった。その他、万歳三唱や三本締めなど、白鵬に多くの「過失」はありました。しかし、それをカバーして余りある実績が白鵬にはあります。優勝回数だけではない、野見宿禰(のみのすくね)や双葉山に始まり髷(まげ)をめぐる歴史まで、白鵬には相撲文化を日本人以上に愛する姿があったのです。東日本大震災の後、被災者から頼まれ海に向かって土俵入りした姿は、今も記憶に鮮やかです。土俵入りのあと余震が減ったという感謝の言葉を、白鵬は受け取っています。

でも、もう違う。人は変わる。まさか白鵬に、この言葉がずっしり寄り添っているとは思わなかった。悔しくて仕方がない。

 

 1 「そんなにしてまで勝ちたいのか」

 二年前の五月場所で栃ノ心と対戦し、まさかの物言いの後で勝利した朝乃山の言葉だ。

「一生残るんじゃないか」「昨日の相撲はすみませんでしたと謝りたい」

土俵際の下手投げで、完全に栃ノ心の勝ちと見えた取り組み。自分でも負けたと思っていた朝乃山に、この後白星と優勝が転がり込んだ。自分は負けていた。それほどまでして勝ちを得たいとは思わなかった、という朝乃山の言葉だ。

 何度か書いた。朝青龍と白鵬が勝ち星を重ね、千秋楽を迎えるという状況下、朝青龍が体力を温存し、星を得る目的で変化し白星を重ねた。直後、白鵬は朝青龍に対し、変化して勝ちをもらう。「あなたがしたのは、こういうことです」、朝青龍を土俵で見下ろす白鵬は、そう語っていた。そんな自分の姿を、白鵬は忘れたのだろうか。名古屋場所13日までの立派な相撲/復帰戦は、残り二日間ですべて台無しになった。

 

 2 「技」

 繰り返し問題として取り上げられる「かち上げ」。今場所見せなかったこの技を、千秋楽の照ノ富士戦で初めて見せた。いまだに素人筋から「ダメというならルールを変えるべきだ」という声があるが、関係者は「かち上げとひじ打ちは全く違う」と繰り返し指摘している。白鵬のやっているのは「ひじ打ち」であって「かち上げ」ではない。何度も書いたが、以前、妙義龍戦で見せた「かち上げ」で、妙義龍は土俵上で痙攣を起こし立ち上がれなかった。あれは上体と上腕が一体となった「かち上げ」である。ツボに入った偶然を「技」にまで高めようと、白鵬は稽古を重ねるが失敗した。その結果が「ひじ打ち」だ。遠藤や豪栄道は、失敗作のおかげでさんざんな目にあっている。それを封印しようという白鵬の思いは、使用頻度の低さで伝わっていた。しかし、まさか復帰場所、それも大切な千秋楽での再来。

 前日の正代戦で見せた、徳俵ぎりぎりまで下がる取り口。親方衆は「弱い相手のすること」と評した。私は「相手のかく乱を誘う作戦」と見ている。以前、栃煌山戦で使った「猫だまし」と同じ目的である。相手を侮辱する取り口と言える。しかし、正代があまり動揺する様子を見せないとみるや、白鵬は激しい突っ張りに転じる。今度は怒りを誘おうとする作戦である。私に言わせれば、千秋楽でようやく勝ち越しを決めて小躍りするような「大関」相手に、どうしてあれほど警戒をするのか、理解に苦しんだ。稀勢の里がまだ大関の頃、白鵬の感情を高ぶらせようとして取ったのが、この「突っ張り」である。稀勢の里から学んだというには、白鵬はあまりに「大」の付く横綱である。この突っ張りを千秋楽でも使う。そっちが怒るまで続けるぞと言わんばかりの執拗さは、照ノ富士の逆鱗に触れる。照ノ富士がまんまと白鵬の作戦に乗った形だ。白鵬の技が勝ちを収めたのではない。下品な作戦が功を奏しただけだ。

 

 3 「相撲よ!」

 白鵬の著を何冊か読んだ。一番は最初に出した『相撲よ!』だと思う。双葉山が69で連勝が止まった時、「我いまだ木鶏(もっけい)たり得ず」と語った時のことを、当時は(!)かみしめるように言った。

「私は人から優しいとか、闘志が顔に出ないなどといわれるが、この(双葉山の)『泰然自若』の状態を目指してそうしているからなのだ」(「相撲よ!」より)

今場所13日までの取り組みの要所にも、確かに「未熟な点」(同書より)は見られた。遠藤戦では、やはり熱くなるし、隆の勝戦では完全に追い込まれた。しかし、ここでも全盛期を思わせる対応の早さを見せ、思わず土俵下の審判部を見渡す目はいたずらっぽかった。それとは対照的だったのが、大栄翔戦と高安戦。白鵬の身上としている「流れ」。土俵上では流れが目まぐるしく変化する。その変化を一瞬で見極め、新しい流れに合わせていく姿に、誰でもをうならせるものがあった。北の富士さんいうところの「これが出来ちゃうんだよなあ」だ。

 私たち格闘技・武術を学ぶ者の多くは、そのきっかけに「勝つならきれいに」というものを持っている。死に物狂いの相手に、自分は平然としていたい、という在り方だ。「泰然自若」を目指した白鵬も同じだった。勝つだけなら、闇討ちや多勢に無勢や武器使用など、方法はいくらでもある。きれいな勝負だからこそ、勝とうが負けようが相手を尊敬できる。だから「試合」を「仕合」、別読みで「つかえあう」という。白鵬の最後のガッツポーズを見て、朝青龍の再来かと思った人は少なくないはずだ。「もう執念ですね」、待ってましたと舞の海が喜ぶ。

 「食道がん」(柳生新陰流・前田英樹氏の説)に冒され苦しみ、それでも霊厳洞まで這うように通って書き上げた、武蔵の『五輪書』。

「われ三十にして跡を思ひみるに、兵法至極にして勝つにはあらず。おのづから道の器用ありて天理を離れざる故か。または他流の兵法不足なるところにや」(『五輪書』・地の巻)

一体何度引き合いに出しただろう。六十回以上戦って負けを知らないまま三十を迎え、その後三十年稽古を重ねた武蔵の言葉だ。負けなかったのは、生まれついた自分の身体や資質によるのか相手が弱すぎたのか、いやそんなはずはないという強い思いがここには記されている。その理由の解明に、武蔵は執念を燃やした。これも執念だ。しかしこれは、白鵬のような勝ち負けへの執念ではない。

 観客席の白鵬の家族「全員」の涙は、おそらくここに至るまでの白鵬の大変さ苦しさを示している。祝いねぎらう家族も、きっとつらかった。でも、もういい。家族の誰かがそう思っているような気もする。

 悔しいし寂しいけれど、そして再生する日が来る奇跡を願わないこともない。でも白鵬、さようなら。

 

 ☆後記☆

なんか、オリンピックが大変なことになってますね。「安心・安全」でないものに「万全を期す」って、「ある程度覚悟する必要があります」のようにしか聞こえません。それと、あれよあれよって感じの関係者の不祥事と、その気もない「謝罪」。今回の五輪って、相当なレベルの突貫工事だったのですねえ。

オリンピック見るかって? 内村君と大坂なおみは見たいかな。池江選手の表彰式も。あとは別に。それよりオリンピックのせいで、大リーグが見れなくなってる。そっちが悲しい。

 ☆☆

最後に先週の「うさぎとカメ」で~す。ターメリック風味のピラフ、絶賛の声をいただきました。


再び 伝言館 実戦教師塾通信七百六十五号

2021-07-16 11:38:19 | 福島からの報告

再び 伝言館

 ~知らないこと、忘れてしまうこと~

 

 ☆初めに☆

福島県・楢葉町の宝鏡寺を再び訪ねました。読者は覚えておいででしょうか。前回は、震災から10年を刻む日まであと三日という時でした。記念碑も建物も未完成で、ご住職はもちろん火の車でしたが、今回はゆっくり話が出来ました。

 

 ☆境内☆

この時期だからでしょう、境内の階段を青大将が上ってるところに出くわしました。突然の失礼をわび、写真は撮りませんでした。

四十世宝鏡寺早川篤雄住職は、この日も「死ぬまでやり遂げねばいけないんで」と、反対運動の記録を書き綴っていた。ご住職は80歳、耳が少し遠くなっている。

新緑は、濃くなり始めてて、夏の予感です。静かなたたたずまいの中、池には鯉が泳いでいます。

 

 ☆反対運動の始まり☆

少しご住職の事に触れておこう。ご住職の原点は「第五福竜丸事件」である。1954年、太平洋のマーシャル諸島にあるビキニ環礁で、アメリカが行った水爆実験に巻き込まれたマグロ漁船「第五福竜丸」のことだ。映画化された5年後、学校で観に行くように言われ、みんなで観に行った。5年生のことだ。太陽が西から昇ったように見えたという、当時の漁師の言葉、そして至近距離で放射能を浴びて亡くなった久保山さんのことを覚えている。この事件が「オレの原点だ」と、ご住職が言うのである。

「私が教員をやってたと言ってもね、当時よく言われた"デモシカ先生"ってやつ、先生デモやるか、先生シカねえなっていい加減なきっかけで教員になったんでさ」うず高く積まれた書類の奥から、ご住職が話した。

ご住職直々に、お茶を淹れていただいた。美味しいのです。

「いやあそんなわけで、二足の草鞋(わらじ)を履(は)くって言っても、教員も坊さんもいい加減だったんだけどね。原発建設の話が持ち上がって、住民たちと反対運動を始めたんだよ」

「すぐに科学者が支援の声をかけてくれた。それが東大原子力工学の第一期生・安齋育郎先生だったんだ」

原子力工学は、もちろん原発を建設するに際し、立ち上げられたものだ。

伝言館発足を二週間後に控えた今年の2月下旬、国際平和運動に貢献したことが評価され、安齋氏はユネスコから「地球市民賞」を贈られました。東大では万年助手だった。つまり、大学が目指す方向とは別なものを目指したことを意味するのです。

境内にともされた広島と長崎から引き継いだ「火」。復習しておきます。上野の東照宮から楢葉の宝鏡寺が「非核の火」を引き受けるに伴い、伝言館の建設が始まったのです。前回はロウソクがともされてましたが、ガス灯になったようです。

「我々が歴史上初めて原発の公聴会、それも全国公聴会を要求したんだ。実現のあかつきとなったのは1973年。ところが、公聴会とは名ばかりの、東電の『説明会』になっちまった」

この時はおそらく、ご住職も安齋氏も20代を終える頃だ。国の総力をあげてのプロジェクトに立ち向かうのは、並々ならぬ勇気と努力が必要だったはずだ。そして、信じられない悔しさが待っていたはずだ。でも今回はまだ、そこまで立ち入れなかった。

 

 ☆式典☆

式典の様子を伝える情報誌『げんぱつ』

「非核の火」をともす式典呼びかけ人には、玄雄宗久を始めとする人たちが列をなしている。その中の福島県元知事・佐藤栄佐久の名を見落としてはいけない。楢葉町の第二原発プルサーマル計画当初の1998年、計画を了承したが、その後東京電力によるトラブル隠しが発覚し、了承を撤回し東電管内の原発稼働を拒否した佐藤栄佐久である。そしてなぜかこの直後、実弟(本人ではない!)の競争入札妨害が発覚、責任をとって辞職を求める動きが県議会で起こる。本人とは関係のない出来事なので、追及したのは、あくまで「道義的な責任」なのだ。しかし辞職した佐藤栄佐久である。収賄で起訴されるも、地裁から高裁へと、無罪にこそならなかったが、量刑は軽くなっていった。このことは忘れてはいけない。原発には魔物が潜んでいる。

「電源交付金なんて金がさ、原発の不安から目をそらすためのもんだってことぐらい、住民は分かってるよ」

「今、楢葉のあちこちに建てられている大きな施設だって、結局昔と同じことをやってる」ご住職の言葉は、静かだった。

「これ無ければこれ無し」

は、寺の教えだと言います。

 

 ☆後記☆

白鵬と照ノ富士だけで、隆の勝へのエールはないのか、と聞かれます。 う~ん、隆の勝ですがね、場所を追うに従い、上体だけの相撲になってるんですよ。残念です。以前は慌てた時に両足がそろうという「悪い癖」にとどまってたのですが、今や重心がすぐに高くなるんです。そこに気づかないと、稽古をしても結果は出ません。残念。

でも大相撲、目が離せません。白鵬はやっぱり格が違いますね。照ノ富士はもう立派な横綱です。

あと、オオタニさーんはもちろん(藤井君も)ですが、ホンダが4連勝って、なんかセナ以来のことが続いてますよね。いいニュースって、やっぱりいいですね!

 ☆☆

最後は楢葉の渡辺さん家から見える海。分かりづらいけど、真ん中の屋根の向こう、隣の家の木を伐採した後に見えるようになったそうです。

子ども食堂「うさぎとカメ」、明日ですよ~ フードバンクからお土産で、スヌーピーのタオルもあるからね。

もう夏休み気分だよね~ お疲れ様でした!


聖火リレー 実戦教師塾通信七百六十四号

2021-07-09 11:26:20 | 福島からの報告

聖火リレー

 ~引き継がれるもの~

 

 ☆初めに☆

コロナがあって、福島が遠くなりました。

自粛期間の5月31日までは大変でした、いつも利用しているホテルのフロントさんが言いました。福島は感染防止対策が必要なほど、患者は出ませんでした。いわきもあくまで「自粛」だったのです。今や学生たちが大会などで宿泊する時に使ってくれますし、お店も普通に飲み物を出してますよ、と笑顔で言いました。ここのところ見かけなかった女性の方が、フロントにいました。出産と育休だったそうです。コロナから一年が経つのか、と改めて思います。

 

 1 新入社員

「二回ワクチン打ったしさ、もう何も怖いものはないよ」

笑いながら言う、おばあちゃんはいつもこうだ。たくましく、かわいらしい。いなくなったと思ったら、ひまわりを植えてきたと、杖なんか突かずに庭を歩いている。卒寿をとうに過ぎている。

 福島・楢葉の累計感染者の累計が「3人」? ちなみにわが柏って2900人に迫っている。なんだこれはと思っているそばで渡辺さんは、そのうちのひとりは県外から来てる現場の人間だ、楢葉に来ているのは3000人?だったか、そのうちのひとりだからな、すくねえよと言った。

 福島が遠くなったのは、渡辺さんのところも同じだ。この一年は季節に一度のお邪魔となっている。いつもの空気を思い出すのに時間を要している。そして結局、変わらないここの時間の流れを見つける。ありがたい。

ハウスに大きく育ったトウモロコシ。

春の時も新入社員の話で盛り上がった。オレはもう社員に格落ちさ、息子が社長だよ、渡辺さんが笑う。相変わらず朝を苦手とする社員はナスが嫌いなんだという。だから(6月の)ボーナスはナス(なし)と、今度は奥さんが笑う。その社員が、リビングに遅れて登場。猫とじゃれてるところを、トラクターの運転技術のほどを聞いた。学校の授業を受けてくれば、オレより上手く使えるようになって帰ってくるさと、渡辺さんが前に言っていたのだ。渡辺さんが公道を走って、田畑に入る。それからが社員の仕事だ。特殊免許がなくても、そこでは運転が可能。

「いやあ、畑の中もお父さんの方が全然うまいっす」

社員の答えはすぐに却って来た。

 

 2 聖火リレー

 福島は聖火リレーをやった。お笑い芸人のしずちゃんは、いわきで走ったそうだ。走ることはなかったが、渡辺さんは沿道に駆け付けたそうだ。配られた小旗を、そこで振ったのだ。

小旗ではなく扇子、とタオルの応援グッズ。参加した人がみんなもらえるわけではない。

応援する人と人の間を1~2メートル空けるのはもちろんだが、よく聞けば、渡部さんの応援場所は「農業関係者」エリアだったという。なんだ、喜び勇んで行ったんじゃなく「動員」だったの?などと私はつい口走り、奥さんがまた笑う。でもこの日を、渡辺さんはどんな気持ちで迎えたのだろう、ちゃんと聞けばよかった。

 

 3 バトン

 ここの読者なら御存知と思う。「福島第二原発の廃炉作業始まる」は、この日のニュースだった。全部終わるまで40年だとよ、その頃なにやってんのかな、お父さんはもうこの世にいないね、広大な敷地が残るよ、そこで記念公園でも作ったらいいべ、あれこれとみんなで言い合う。ジジイになってそんなことやりたくねえ。

 最後のセリフは社員のものだ。いま彼は20歳。廃炉40年後は「ジジイ」なのだ。聞けば、将来のための貯金も頭にある。それは「お父さんがいなくなったら、自分がやらないといけない」からなのだ。出産のため夜中に牛小屋に立ち会うこともあるが、朝が苦手な社員は「給料にぜいたくは言えない」と言う。でも、牛の競りが好調だった時に「お父さんはちゃんと考えてくれてる」んだと。仕事の上でも父親としても、息子さん(やっぱり「さん」付けでないといけないかと)は渡辺さんを尊敬している。渡部牧場のバトンの渡される手続きが、確かに始まっている。

こんな場面が現実となった。こうしてえさを用意する新入社員は、震災の10年前、小学校の4年生だった。

 

 ☆後記☆

この日は収穫した梅を砂糖漬けにしたエキスをいただきました。今はまだ涼しい夏となってますが、暑さにはもってこいの味です。気が付けば図々しく「もらって帰ろう」などと言ってる。

 ☆☆

先日たまたま私は車だったのですが、前を行くバイクがCB750、それも初代!ナナハンであることに気づきました。

これです。これはあくまで私のおもちゃのコレクション。

四本出しのさっそうとしたマフラー。交差点が赤になったので、たまらず私は車を降りて走り寄りました。若者でした。

「すごいね、初期型でしょ?」『あ? いや72年だったかな、少しあとだったかも知れません』「よく買ったね、なかなか出来ることじゃないよ!」『ありがとうございます。この間、買ったばかりなんですよ!』(信号、青になる)「気を付けてね!」『ありがとうございます!』

いいもの見ました。ナナハンはもちろん、若者も。

クソ面白くもないニュースばっかりの中、オオタニさーんが勇気と元気をくれます。白鵬と照ノ富士、そして藤井君も。


生理の貧困 実戦教師塾通信七百六十三号

2021-07-02 11:09:12 | 子ども/学校

生理の貧困

 ~大手をふるう「正義」~

 

 ☆初めに☆

予定では福島の報告をするはずでした。でも、千葉県・柏市議会、そして議場外で「生理の貧困」のことが激論になった報告を受け、熱くなってしまいました。「ヤングケアラー」の時、すでにうんざりしていました。だから今回の「生理の貧困」をメディアが取り上げた時は、もう黙ってました。でも、市議会のことを聞いたもので、あわてて経過を確認し関係者もヒアリングしました。

福島のレポートは、来週にいたします。

 

 1 「# 生理の貧困」

 経済的な理由などで生理用品を購入したり、入手できない「生理の貧困」。コロナでアルバイトの収入が激減し、節約のために生理用品を使えなくなった専門学校生の声が、NHKでレポートされた。調査によれば、この状態に「学生の5人にひとり」が該当する、という。今年の3月のことで、これが発端である。

 これは専門学校に通う環境にある「学生」のことだ。それが生理用品に事欠いているという。貧困の極限というよりは、訴えにくい自分の環境がある、あるいは、コロナで引きこもってしまって動けない等、理由は様々だが、自分が前から抱えている問題で、生理用品の欠如も発生した。生理用品の不足は、あくまで学生が抱えている困難の「結果」だ。

 またこれは、児童・生徒のことではない。生理用品を簡単に入手できない児童・生徒がいるのは事実だ。しかし彼らは、専門学校生や大学生と違い、そんな状況を見守る周囲・大人の環境がある。まぁ確かに、いじめに気づかず放置する学級・学校もあるのは、ここで繰り返し報告している事実だ。しかし、そんな学校で「トイレにナプキン」をすれば、無自覚・怠惰のグレードはアップしてしまう。そこに今度は「ちゃんとやってる感」が作られるからだ。肝心なことは、困っている子に私たちが気づき近づけるのか、ということである。そして、その子が一体「何に困っているのか」を把握することだ。口にするのをはばかる「ナプキン」に困っているというには、別な「よほどの」理由がある。これがスタート地点だ。この「生理の貧困」論争は、いつだったかの「生きる力がない子には生きる力をつけましょう」と言っていた無能を思い出させる。メディアの訴える安っぽい正義感など、次々と目先を変えては離れていくネットの向こうを張るものだし、それに乗っかる政治屋どもは支持率と選挙で頭が一杯だ。曰く、困っている人を助けるのは社会の責任だ……。しかし地道で大変な作業がなければ、ついに「現場」には到達できない。いいことをするのに理屈はいらないだと? 気遣いのない、無神経で無責任な場所に遭遇すると、まるで「困ってるなら黙って施しを受けなさい」と言われているようで、恥ずかして仕方がない。

 「手厚くする」ことで「子どもが助かる」わけではない。

 

 2 市議会議員有志に欠けているもの

 先月の柏市議会の会期中、市議会議員有志の手によって「生理用品を学校のトイレに設置を求める」要請書が出された。それによると、教育委員会が「自分の使うもの(生理用品)は自分で持ってくる」「個室に設置すると消費量が増える」と答弁したという。そのことに抗議し、トイレに生理用品の設置を求める、というものだ。以下は議場内や外でのやり取りなどの報告をベースにしたものだ。

 以前、市教委(学校保健課)から柏市内の養護教諭に、お願いと調査依頼がされている。目的は「今まで通り、(生理用品に)困った時や必要としている児童生徒が保健室に行けば気兼ねなくもらうことができる……環境をさらに充実させ」とある。柏市内63校の養護教諭の回答では、無償配布が48校。忘れた等の理由によるのだが「後日返却が基本」が15校。トイレに設置しているのは1校だけだった。

 この事実もそうだが、私が直接委員会に聴いたところでも、「要請書」が指摘する乱暴な答弁が出てきたとは思えなかった。「自分の使うものは自分で持ってくる」とは、養護教諭回答の「後日返却が基本」がベースになってると思えたし、「消費量が増える」は、おそらくトイレに設置しているのが市内で1校だけだったことをバックにしている。つまり、その必要を現場は感じていない、と言いたかったと思えた。このことを答弁では「養護教諭の意見を都合のいいように解釈した」と批判したと聞いている。

 はっきり言うが、このことも含め、私は「要請書」に多大な違和感を持った。状況のつかみ方や支援の方法が、学生と子どもでは全く違うのに同じ扱いであること、そして「プライバシーの配慮」と言いつつ、これを構築する手続きと大変さに触れていない(分かっていない?)ことである。小中学校のトイレにナプキンを置くことが、どうして「プライバシーの配慮」となるのだ。口にするのをはばかるような現実を抱える子どもは、そっとしておくことが大事だとでも言うのだろうか。この議員有志たちは現場にもっと近づいて、その努力と困難のほどを見てほしい。

 「貧乏人をバカにするなよ」、私が小さいころ、胸で何度もつぶやいた言葉を思い出す。

 

 ☆後記☆ 

さて、この「要請書」に連署された名前を見たら、なんと仲間(と思っていたヤツ)をそこに発見! さっそく厳重に抗議、いや、注意いたしました。それと聞くところでは、この「要請書」は女性議員だけで提出しようとしたという。まとまらなかったらしいんです。どんないきさつだったのか、少し気になりました。

「和さび」さ~ん、やっとアルコール規制が緩和されましたね。良かった、そして嬉しいです! 女将さん、体調崩されたようで、無理しないように、なんて無責任で適当ですが。無濾過生酒を味わいに行きます!

今月も「うさぎとカメ」まであと二週間となりました。早すぎるのですが、夏休み宿題点検とやら、大学生や高校生の応援を借りて行います。勉強する子どもたちは、少し早めに来るといいよ~。