実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

あいみょん 実戦教師塾通信七百二十三号

2020-09-25 11:50:04 | 子ども/学校

あいみょん

 ~欅坂46と比べつつ~

 

 ☆初めに☆

巷(ちまた)から音楽シーンは、すっかり消えてなくなったと思っていたら、けだるそうで物欲しそうな曲が、どこにいても聞こえてくるようになりました。シンガーソングライターという懐かしい言葉が、よくお似合いな空気です。気がつくと私も、聞くともなしに聞いている。

少し前、香港のことと絡めて欅坂46のことを書きましたが、あわせて今の「若者」の歌について書いてみます。カテゴリーは迷いましたが、やはり「子ども/学校」といたしました。

 

 1 若者の本音

 記事中の《 》はすべて、あいみょんのアルバム『おいしいパスタがあると聞いて』からの引用。同じく「私」は、作中の「私」である。

 《今 恋をしている》私は、恋に落ちたのではない。《あの頃より好きな人に出会うまで》《いつかいつか……そして今も》と、いつも思っているからだ。《この恋が実りますように》と「思う」のではなく、《思わせる》のだ。《乾電池みたいな女》とは、使い切ったら捨てられるという意味だろう。潔く言い切ったのではない。《傷つけて 気付かないで 傷ついて キスせがんで》《愛されて 愛してみたい》と悩んだあげく、私は《ダメね こんな私ではダメね》と言う。これを執念というのか正直というのか。また、北千住の駅で《もっと もっと 大切を増やしていこう》とは珍しく積極的なトーンだ。でもそれを言うのはなぜか、私ではなく彼氏=《僕》なのである。

CDのジャケットではありません。我が家のお庭です。

ずいぶん時代とかけ離れた曲がヒットするものだと思う。これほどまでに「みっともない、傷つく自分」を、今どきの若者がさらしている。このあいみょんの曲がモラージュ街のアーケードで、そしてニュース番組のエンディングから、スーパーの店内でと、どこでも流れている。みんなが共感している。

「若者たちの本音がそこにあるからだ」

こんな時、必ずと言っていいほど物分かりのいい大人たちが顔を出す。こういう「若者の本音」とは、「大人が納得できる若者の言い分」にすぎない。今の子どもたちは、小学5年生から「紛らわしく煩(わずら)わしい人間関係」の渦に巻き込まれる。その多く(特に女子)は、疲れ切ったあげく「傷つきたくない」道を選ぶようになる。女性のシンガーソングライターをあまり目にしなくなったのは、そのせいだと思っていた。そこにあいみょんなのだ。

《(月を)見ながらしよう》という《貴方》へ、そう言う前に《綺麗だね》って、どうして言ってくれないの、という激しさが痛いほどだ。あいみょんのステージは、あくまでワンルーム、古い言い方で四畳半、そして駅前だ。テレビの向こうからこちらを不満そうににらむあいみょんの目は、数百万人の視聴者に向かってはいない。ワンルームで一緒に肩を寄せる、ひとりの男に向かっている。《余裕のある人はかっこいい でも余裕のない人生は燃える》行き着く場所は見つけられるのだろうか。フェードアウトしないあいみょんの曲は《だらしなく帰る場所を探し続けている》。聞いていると、一体「だらしない」のは、どれを言ってるだろうと思う。聞いている私たちはきっと、それらに自分を重ねることはない。シンパシーはあくまで、距離感があるように思える。

 

 2 香港の若者だったら

 以下の記事中《 》は、アルバム『真っ白なものは汚したくなる』からの引用。

 欅坂46の曲は、女の子の曲ではない。偶然を装(よそお)って好きな彼女と自転車ですれ違おうとか、僕は街角でキスして罪滅ぼしするとか、一体いつの時代の話なのか。多くの「僕」が掲げているのは、秋元康が、あるいは中年となった男たちが過去に置いて来てしまったもの(ノスタルジー)である。そして、彼らの操り人形となった彼女たちが目指すのは「センター」なのだ。彼女たちは《似たような服を着て 似たような表情で》歌うのだ。何とも皮肉なものを感じざるを得ない。

これ、もちろん欅坂46ではありません。ワタシが最近ハマッてるワークマン。広告です。

それがいいとか悪いとかいうのではない。仲間を押し退ける欲望を個性というなら、要所に掲げる友情は協調だろう。彼女たちのやり切れない不満と葛藤に、中年男のノスタルジーがからんでいく。この三者各々が発生するエネルギーの中、曲に独特で不思議な緊張が生まれている。

 《大人たちに支配されるな》《行動しなければ Noと伝わらない》、そして、あの『不協和音』の《最後の最後まで抵抗し続ける》《支配したいなら 僕を倒してから行けよ》等も、同じく中年男の悔恨と読める。一方、ラインを読まなかったら返信しなかったら等々と恐れ、多くのエネルギーを「友人」関係のやりくりで費やしている若者に、これらのフレーズはどう響いているのだろう。今の彼らを支配しているのは、どうやら「大人」ではないからだ。

 しかし、これらは香港の若者に重ねれば、全く変わるのだ。中年男の、そして高齢になった私(たち)の悔恨など、恥ずかしいまでに弾き飛ばされている。

 

 ☆後記☆

先日の子ども食堂には「家のお使い」を引き受けた小さな男の子が、持参したチラシをかざしながら「3つください」とやって来ました。いよいよホントの子ども食堂だね、と私たち一同感動しました。そろそろ40人分では足りないと、嬉しい悲鳴をあげています。

その時一緒に配ったカボチャ。玉ねぎやジャガイモなども寄付いただきました。

 ☆☆

大相撲、いよいよ大詰めです。隆の勝すごいなぁ、今場所は朝乃山、そして照ノ富士を破ったんですよねえ。いよいよ三役か!


鳥瞰がやらかす事 実戦教師塾通信七百二十二号

2020-09-18 11:16:54 | 子ども/学校

 鳥瞰(ちょうかん)がやらかす事

 ~「幸福」と関係ない世界~

 

 ☆初めに☆

色々な先生から、この間の苦労や工夫の話を聞きました。「時間はたっぷりあったはずだ」「子どもたちに不安や不備があってはいけない」という声は、腹立たしいかな、行政の声です。現場がのんびりしていたはずはないのです。校長会の動画を、現場が見たかチェックしているとは、冗談でしょうか。もっと工夫をもっと報告をという無責任な風を、現場は浴び続けていたのです。

コロナ騒ぎの中、様々な工夫や試みがされています。会食できない状況下で、弁当を宅配する子ども食堂や、学習支援を行う学生団体のことなど、励みになります。気になるのが、リモートやユーチューブの活用による「新しい学習様式」です。子どもの実態とかけ離れた発想と実験は、問いただされないといけません。

 

 1 十年遅れている日本

 AIが変える学校現場とは、コロナ騒ぎの中でこそ進んだという報告については、以前も触れた。授業はリモートで出来る、資料の活用はもちろん、師範(しはん)もユーチューブで自由自在、不登校の生徒も学習に参加できる等々。集会など必要ない、教室で始業式も出来る。実際そうだった。コロナ騒ぎの中、学校はバラ色なのだそうだ。

 アメリカで視察をしてきたという先生の話から。生徒一人一人がタブレットを与えられ、休み時間には廊下や校庭でそれを楽しんでいる。日本でも生徒が全員タブレットを持つ時代はもうすぐだ、でも、それを使いこなせる力量を教員が持ち合わせていない、アメリカより十年遅れている、という話だ。

 半畳を入れよう。視察そのものは、日本においても「先進校」が対象だ。ここまで出来ます的実績公開とメディアによる拡散は、今まで現場に多忙と苦労をもたらして来た。ちなみに視察で行ったアメリカ、どこの学校? ルイジアナのニューオーリンズじゃないだろうし、ニューヨークのダウンタウンでもないだろう。マサチューセッツのボストンあたりか。なに不自由ない生徒たちが、何をか言わんや、である。フランスだったら、大統領にならって、生徒たちが「私たちは、他者を冒涜(ぼうとく)する自由がある」と、タブレットから容赦ない誹謗と中傷をぶつけている、なんてのはどう? カッコいい話の陰に隠れている現実がある。

 鳥瞰とは高い空から眺めること。こいつがしでかす罪は軽くない。

 

 2 私たちの実際行為

 機械が人間という領域を手に入れるのは、もう時間の問題らしい。それを利用しないことはない。しかし、その手前の「自分が何を手に入れたいのか」という問題は考えていいはずだ。スポーツの興奮は、ゲーム世界で十分可能だという。いま取り上げられているe-スポーツなら、する方見る方に密集が要らない。さらに、コロナが収まれば大観衆前での興奮が実現する。格闘技系だったら、相手も自分も怪我しない。両者はともにコントローラーを操る親指で対決するのだ。それでいい。しかし、勝利するための修練をしても、脚・跳躍・均衡等の力、筋肉は全くつかない。添加物満載のスナック菓子を食べながらの「鍛練」は、自分のお腹にたっぷり脂(あぶら)をつけたりする。それで(又は「それが」)いいという人たちがやるものだ。どちらかに軍配をあげるというわけではない。両者ともに代替は出来ない。ある種の人間にとって、機械は「自分が手に入れたいもの」を用意するわけではない。面倒な手続きを「無駄」と思わない人間世界もあるのだ。

 レジでは今や、ほぼ自動的に品物とお金のやり取りがされている。お札も小銭も全部入れてしまえば、客の出した金額が表示され釣りが出てくるこの機械を信じれば、お札と小銭を全部レジに渡せば、余分なものは機械が返却し運が良ければ小銭は全部消える(セルフレジで私はそうしている)。しかし私たちはそうせず、お金を数えてレジのトレイに入れ、多い足りないのやり取りをする。会計が2045円の時に5035円を出せば、おつり2990円が渡されるのでなく、店員さんは「十円足りないです」と、親切に言う。これらのやり取りに、無駄なものは全くない。私たちはそこで、お金以外のやり取りをしている。カード決済にはない世界だ。

 教室には、元気な子もいれば元気でない子もいる。家が原因で/一週間前の友だちとのケンカが原因で/理由もなく動悸が高鳴るのが原因で等、元気でない理由は様々だ。落ち着けず怒鳴ったり、友だちに甘えたり熱が出たり等と、その対処も様々だ。そこに先生が、何らかの関与をして行く。子どもの表情を読んだり目に入らなかったり、心配だったり迷惑だったりする。そこに数々の風景や人生が刻まれていく。子どもたちは注がれる愛を感じたり、投げやりになったりする。これらのあれこれに、無駄なものはひとつもない。「生きる力」がどうでこうで、という話ではない。子どもたちは紛れもなく、その中で「生きている」。その中でオンライン授業やリモートの行事が「必要なら」やればいいだけだ。しかし、必要ない邪魔だという子どもたちも必ずいる。AIは「目的」ではない。苦労してリモートの集会をやったのに音声や映像が乱れて、というグチは山ほど届いている。技術がいつか向上すれば、という話ではない。子どもの様子を見る余裕をなくしてまでしてやることなのかという共通理解がされないまま、「コロナが呼び寄せた新しい時代/生活様式」に「追い付き/追い越せ」という気分に支配されているのは間違いない。

「すぐ目の前にいるんだから、メールじゃないだろ。声かけろよ」

という、会社や子どもの間で多少は出来ていたやり取り。このグレードが、また下がる気がする。

 

 ☆後記☆

連絡遅れましたが、子ども食堂「うさぎとカメ」、明日です。お近くの方、都合がよろしかったらどうぞ。

 ☆☆

ニュース、全く見る気にならないので、スポーツニュースだけ見てます。大阪なおみ選手のアメイジングな活躍に、ただただリスペクトしてます。が………日本の文化人というか、レベル低いっすね~。「ぼくなんかは『黙ってた方が楽だな』と思ってしまって、そうして来た」という複合ジャンプの萩原選手、これは良かった。そうじゃないのが、スポーツに政治を持ち込むのは考えないといけない、だって? 情けない「文化人」の意見がテレビに横行してる。なんか恥ずかしい。「ちゃんと話を聞いて欲しい」って大阪選手、言ってなかったっけ。

さあさあ、気分変えよう。手賀沼近くの稲刈り風景。収穫の秋で~す。


なみえ創成小学校 実戦教師塾通信七百二十一号

2020-09-11 11:43:28 | 福島からの報告

 なみえ創成小学校

 ~「創成のとき」は~

 

 ☆初めに☆

「浪江町立なみえ創成小学校」の校長先生から、お話を聞く機会をいただきました。レポートには事務的な部分もありますが、部外者としてのたしなみと思ってもらえればありがたいです。

浪江の学校として真新しくスタートした姿には、苦労はもちろんですが、慎重に少しずつという気持ちを感じました。

 

 1 和合亮一

空と海が 青くめざめて

星はやさしく 雲を追いかけ

はじめのかなた 光をはこぶ

風にあこがれ 夜明けの道で

知る 学ぶ  想う 愛する

歌う 笑う  駆ける はばたく

季節は ぼくに  きみは 未来に

声は いのちに  鳥は こころに

虹をかけたい

なみえの朝だ 創成のとき

読者は、原発事故直後に「放射能が降っています 静かな夜です――」と書き発信した福島在住の詩人、和合亮一を覚えているだろうか。その和合亮一によって作詞されたのが、このなみえ創成小学校・中学校の校歌(引用は一番)だ。

 

 2 ここで生まれ育った

 門をくぐり、玄関に入る。

新しい学校の色や匂いが、あちこちから漂っている。校長室からは、夏の日に白く照らされる広い校庭や、フェンス向こうの家々が見えた。

全校生徒21名。昨年より2名増えている。一番多い学年は2年生の8名。特別支援の生徒をここにひとり加えれば、9名となる。一番少ない学年は5年生の1名。学校関係者でなくとも、これはよく吟味した方がいい数字と思える。クラスは7つ。つまり特別支援の学級と、一学年ひとつのクラス。通常こういう場合「複式学級」と言って、たとえば2、3学年一緒でクラスを構成する。しかし、ここでは復興推進加配教員を活用し、複式ではなく単学級での学習指導を行っている。この方法が阪神淡路大震災の時に生まれたものだと、私は知らなかった。しかしこれは、10年を区切りとする。東日本大震災から今年で10年なのだ。校長先生は、この期限が延長されることを願っている。

「子どもがひとり転入しても出て行っても、その時の職員配置が大変でね」

本当だ、そう言われて気がつく。

 中学校はどうか。全校生徒は5名。生徒に教える先生は10人。つまりひとりが一教科を担当する。私の暮らす千葉県東葛エリアで考えても、国語や社会の先生はだぶつくことがあり、美術や技術の先生がなかなか見つからない。だからここの大変さは、きっとひと通りではない。また全学年を教えても、担当する授業が少なすぎる教科が出てくる。従って教科によっては、その不足分を隣の南相馬市の学校まで行って教える先生がいるのである。

 今までの苦労や先立つ苦労ばかりを考えるのでしょうか、私は聞いてみた。そうではない、仕方ないというか、ありのまま受け入れて行くつもりだ、と先生は答えた。そして、

「私はここ(浪江)で生まれ育った人間です。最後までここにいたいと思っています」

と言って笑うのだった。校長先生は、退職まであと4年を残している。

校歌の一番は以下のように続く。

空よ 海よ 風よ 銀河よ

はじめの 光を 胸に 生きる

高瀬 請土 川は 明日へ

なみえの朝だ 創成のとき

 

 3 アライグマ参上

 楢葉町・渡部さん家でのレポートpart2です。

庭先は早咲きのコスモス、種類が違うそうだ。

檻(おり)の中に、驚きのアライグマ。同時に入らないと扉が閉まるというのに、どうやったら二匹もかかるんだろう。かかっている写真が一杯あった。渡部さんが網から太い棒を差し込んで、これでもかとアライグマをこらしめている動画も見せてもらった。しかしこいつらはちっともひるまず、棒に食いかかってくるのである。アライグマ恐るべし。その後どうするのかと思ったら、山奥に行って放してくるんだそうです。こらしめるのは、もう来るなよという意味なのである。私は能天気に、動物園で引き取ってくれないのかなと言うのだが、渡部さんは笑うだけだ。

首をのぞかせて、これは新しい家族の猫。玄関先の「家」だ。車のボンネットに入ってたという変な話。おばあちゃんのひと声で「同居」が決まったそうだ。お年を召し、行方不明となった「うーちゃん」の生まれ変わりでしょうか。

 

 ☆後記☆

前回の「☆」に、多くの反応をいただきました。ありがとうございます。そうですね、皆さん気付いてますね、総理は引け際もアグレッシブだったのです。無能な野党の「辞めろ」の声と、自身の体調不安の間で退陣のタイミングを見図らっていた、というあたりが核心でしょう。「内閣の実績」と「体調不安」は別問題、とすることも出来ない野党と踏んだのです。今は「専守防衛」再検討に、その後の攻勢を続けています。中央の政治にいい加減に嫌気がさしますね。方や北海道の寿都(すっつ)町ですが、これは最終処分場の是非が提案されたと考えた方がよさそうです。福島にあるのは「中間貯蔵施設」であることを、私たちは忘れてはなりません。それを見守る福島県は、トリチウム排水に関する全国的議論も呼びかける一方で、来月には東電を提訴する準備をしています。地方政治、頑張りましょう。

今年もコキアを植えました。だいぶ大きくなりましたよ。

藤井君、谷川9段に勝ちましたね!


浪江へ 実戦教師塾通信七百二十号

2020-09-04 11:32:37 | 福島からの報告

 浪江へ

 ~6号線を上る~

 

 ☆初めに☆

福島県浪江町に行って来ました。目的は、二年前新設・開校された「なみえ創成小学校」に行くためです。何度か浪江町を通ったことはありました。でもある時は、福島市から南相馬に向かう途中だったし、別な時は高速を使ってでした。国道6号線を使ったのは初めてです。

今回は、原発近くの大熊/双葉町通過レポートです。「なみえ創成小学校」については、次回に書きます。

 

 1 点滅する信号

 楢葉から富岡に入り、夜ノ森交差点に差しかかる頃、それまで途切れなく並んでいた車が一気に流れるようになる。理由は簡単。道路の信号が黄色で点滅し、北上(南下)する車は停止する必要がなくなるからだ。楢葉の渡部さんから聞いた時は半信半疑でいたのだが、本当だった。

つまりこれは、青から赤に変わる前の信号ではない。ずっとこの状態。左右の信号は赤で点滅し、そこにはバリケードがあるか、パトカーがいるかお巡りさんがいた。要するに曲がれない交差点だ。大きな現場に通じる交差点だけが、赤や青を示していた。道の両側には、10年前の量販店や住居がそのまま残っていた。気がつくと、私の心臓音が大きくなっていた。

 こんなこと、分かっていたはずだと言い聞かせる。ニュースばかりではない、ずっと前に渡部さんにエスコートしてもらった富岡や、人影のない「牛に注意」の看板がある夜ノ森地区をさまよった時だってあった。でも、その時から5年あまりが過ぎている。昔に戻されたように思ったからだろうか。富岡の途中から道路は生活の色を奪われて、事故の痕跡ばかりを見せていた。

大熊や双葉の道路で見かけたモニタリングポストの数値は、「毎時2μシーベルト」に近い数値を示している(読者は、安全とされる数値が「毎時0,23μシーベルト」だったことを覚えてますか)。分かってたはずじゃないかと、ここでも私は言う。しかし、心臓の高鳴りは変わらなかった。事故直後、浪江町の最大数値が、毎時170μシーベルトだったことを思えば、線量は落ち着いたと言えるのだろうか。そうではない。ここを通るトラックや作業員は、みんなここで仕事をしている。そして、目と鼻の先のエリアでは、人々が毎日の暮らしをしている。もちろん数値がさらに低いからだ。でも私たちは、

「やっぱり(線量が)高いな」「それでも暮らしたいのだろう」

などと、全くの他人事に思うのだ。気の遠くなるような気持ちの乖離(かいり)。

 やがて、大きな交差点に「請土(うけど)」が表示される。その方向に信号を曲がる。すると今度は、楢葉でもすっかり見なくなったフレコンバッグが姿を現した。いわゆる中間貯蔵施設はすぐそばだ。ひしめくトラックやダンプ、そして、赤い旗を振って交通整理をしている作業員と、スコップを振るい続ける人たち。そこに場違いな私がいる。お邪魔しております、私は首をすくめてそばを通りすぎる。

 

 2 ナスやカボチャ

 渡部さんのところでの拾い読み。

お宅に着くと、ちょうど奥さんがナス収穫の最中。

これが畑。手前から奥がナス。左側に少し見えるビニールハウスの中には、カボチャ。奥のフェンス沿いに見えるのが里芋。これからです。

ひどいもんだよ、と手にしたのはカラスのえじきになったナス。

お土産にいただいたのは、ヘタのトゲで怪我しそうな立派なやつ。野菜が高いんだよね、私の言葉に、

「スーパーに行っても、野菜のコーナーは素通りだよ」

と奥さん。渡部家の野菜は、売り物ではない。自宅用を作っている。ナスの他にキュウリやカボチャ、ニンジンやしし唐などもいただきました。それもドッサリ。帰ってみんなで山分けです。

ここ最近、群馬などで牛や豚の盗難。まだ捕まっていないようだ。

「盗んでも売れねえはずなんだがな」

牛は一頭一頭、耳にタグがつけられる。タグがないものは売れないし、タグのニセモノを作ることも出来ない。

だからなのか、渡部牧場に防犯カメラはない。それにしても3、4月はコロナの影響で、子牛一頭あたり20万ほどの値下がりだった。そんな時にひでえもんだ、と渡部さん。

牛が美味しそうになめてるの、これ、塩なんです。私もなめてみましたが、微妙。

 

 ☆後記☆

総理やめました。読者はご存じの通り、私は辞めさせてはいけないと繰り返してきました。病気が報道され始めた頃、私は「死んじゃうのが一番困る」と、仲間に話してました。予想に違わず、一番みっともないのは野党です。相手は非を認めてないのに「辞めろ」って言って来た。そのため正視に耐えない混乱をさらしている。掟破りと言える閣議決定によった憲法の解釈変更、そして政治の私物化をして来た張本人の、未だ説明のなされないままでの退場。与野党を問わず花道を用意している情けない様相は、政権の支持率をアップさせる結果となっているとも言えます。

野党さん、なにやってんの。分裂しようが合流しようが、勝手にしたら。

 ☆☆

福島の写真を見て、少し気持ちを鎮(しず)めますか。

楢葉の天神岬から見える広野火力発電所。いつ見てもすごい。

「みちの駅なみえ」です。町役場のすぐ隣。残念ながら、この日は休業日でした。