実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

実戦教師塾通信十八号

2011-04-30 14:55:23 | 福島からの報告
楽天が勝った

 楽天が勝った。テレビから遠くなった自分は、テレビでやったのかどうかも知らず、ネットで知った。「絶対に勝ちたい、勝たないといけない試合だ」と前から言っていたまーくんが先発し、勝利して再び言ったという言葉だ。「耐えて耐えて、闘いぬきましょう」とは言っても、あえて「頑張ろう」を言おうとしないように見える星野監督が、笑顔でスタンドの声援に応えている。
 何故だろう。自分は被災地の現場で片づけをし、避難所で被災者の切実な声に耳を傾けてきたが、一度として胸がしめつけられるような思いをしことがない。なのに、こうしてまーくんの声を聞き、ファン(それは野球場や避難所でと様々だ)の喜びの声を聞いていると、胸にこみ上げるものを禁じえない。
 仙台が被災し、球場が使えなくなった楽天イーグルスの選手たちは、当初「野球をするよりやらないといけないことがあるだろう」と、九州のキャンプ地で口々に言った。その後、開幕のスケジュール調整があった。パリーグはそれほど議論せずに「やるべきこと、やってはいけないこと」が確認されたように見える。セリーグの醜悪な動向・調整の中で、セリーグをも含んだ選手たちに「自分たちが出来ること」が認識されていったのではないだろうか。
 そうなのだ。関西であちこち居候の生活をしながら、楽天は「今までどおり野球を続ける」気持ちを固め、しかし「今まで通りの生活をすることの困難さと大切さ」をどこのチームより感じていたはずだ。「絶対貯金をして仙台に帰るんや」と強く言った監督。北京のオリンピックで「火だるま状態」になった闘将は、仙台に降り立ち「監督、お帰りなさい」の声に、わずか反応しただけだ。笑顔で応える時ではない、今は耐える時なのだ、と言っているようにも思えた。
 そうして、まーくんはインタビューに応え「これほど声援が力になったことはない。野球人としてこんなに幸せなことはない」と言った。そうか、この人たち(イーグルスと東北仙台の人たち)は同じ道を探して歩いている、そんなことを感じ、分かったように思って自分は感動しているのだ、そう思った。間違ってはいけない。「この人たち」である。「私たち」ではない。そういうけじめは必要だ。


「昭和の大合併」いわき

 以下は『いわき市誕生の記録』(いわき市発行)と『いわき市誕生の軌跡 14市町村合併後の記録』(レポート)によっている。要約が過ぎた紹介となるが、抜粋しておく。
 市町村合併のために広域都市建設促進協議会が立ち上がったのが1961年。そして結局、この合併はもめにもめて1966年10月に終了する。5市5町5村合わせた日本一広い面積を擁するいわきは、その広さゆえ産業的・経済的・風土的な大きさを抱えていた。広域広範囲でサービスを要求されるいわきはその点でも不安を指摘されていた。
 最初から合併に難色を示していた市町村がいよいよ激しく対立したのは(1)合併後の新しい都市名(2)本庁舎の建設場所(3)仮庁舎の建設場所、の3点だった。名前をめぐって、各地区で「磐城平市」「小名浜市」「常磐市」「勿来市」と名乗りをあげる。とりわけ「常磐市」(今の湯本地区である)は、「名前と温泉は余所にはやらない」と強硬に主張。調停に入った県議会調停委員会は「仮庁舎は平地区に、本庁舎は懸案事項」として、最終的に撤収してしまう。
 私はボランティア活動に従事していて、「勿来」や「小名浜」が同じ「いわき市」のもとにある、と感じたことがない。いわき市は一緒の立場で活動していない。ましてはそれらの地域を指導する立場にあってそうしていない。「ここ(って『いわき』の『平地区』のことか?)の活動は小名浜よりずっとましだ、小名浜はメチャメチャだ」という発言が出てくること自体摩訶不思議なことなのだ。
 さて、昭和41年(1966)と平成12年の比較表を見てみよう。全体の人口は33万人から3万人増の36万人。しかし、40%増加を示した平地区以外は9地区が減少。田人村地区においては55%も減っている。そんな中での全体人口微増だ。
 さらに職員数の増減を見てみると、水道部では発足当時と殆ど同じ。教育委員会はなんと減少。病院勤務の職員は昭和の間増えるが、平成に入って減少の一途をたどっている。
 別な資料によれば、病院の閉院と各事業(病院事業もだ)の民間委託があちこちに見える。つまり、いわき市という巨大な市の誕生以来(1)ライフラインの整備(2)ニュータウン事業の発足等の陰で、(1)公的サービスの劣化(2)民間委託に伴う財源確保(増税)等があるということだ。広域・広領域でのサービスを行うためには、本庁・支所の連携したきめ細かい対応が必要とされるのに、行政は肥大化・複雑化しただけで、結果は生んでいないという。

 私は、避難所や海岸沿いの瓦礫地域での声を思い出す。原発建屋が爆発した3月12日のあとのことを人々は声高に語った。
・あのことがあって、いわき市の人口は一時半分になったんだ。
・市長が真っ先に逃げたんだ(避難所の掲示板におびただしい抗議・悪口を見た)。
・ここ(いわき市)の断水は他県の水道部の人たちが修復してくれた。ここの水道の連中はみんな逃げたんだ。
・避難所に来てくれるお医者はみんな遠くの人だ。すぐそこにかかりつけの医者がいるんだがな。どこに行ったんだか、出てきやしねえ。
・国立病院の職員が半分逃げて、近所の人たちまで介護や食事の手伝いをしてなんとかやってきたんだ。

 どうやら私(たち)の動きづらさは、一般的な「お役所的な壁」によるものばかりでないようだ。いい人(職員)たちもいるのだが、指揮系統が不明瞭で、しかし、横に連携をとろうとすれば「それはまずい」とストップをかけてくる、そんな傾向は、「いわき市」の肥大化・複雑化した行政のしくみにもあるようだ。


実戦教師塾通信十七号

2011-04-29 13:31:08 | 福島からの報告
〈震災〉後のこと

 塾生や、遠近を問わずあちこちから熱いメッセージをいただける。その都度私が思うのは、「みんな、〈震災〉が何だったのか、何なのかを考えている」んだな、ということだ。毎日、被災地・被災者の映像が流される。それを見ながら何か出来ないか、こうしていていいのか、と思う。そして少しでも節電をしたり、休日にボランティアに行ったりと、いう選択をしている。私は現地に滞在している。
 私にはそれらがすべて、送られてくる情報への処理態度に見える。そしてそれらは、大体において「前向き」に見える。つまり、「自分のこの態度は震災前と同じではないのか」という気持ちに支えられているように見えるからだ。どれも「今の自分でいいのだろうか」という気持ちが見えるからだ。しかし、この態度は「メディアが垂れ流してくる被災地」から自分を断罪するという消極的な方向も持っている。それで過剰な自己抑制をしたり(これは分かりやすく言うと「やろうとしても長続きしないこと」だ)、「電気を送ってくれる福島の人たちにすまない」とかいった「一億総懺悔」的な態度を選んだりする。
 しかし、現実には私たちはもう少し別な場所で考えているはずだ。部屋の明かりの節約をするときやテレビを控えるときに、「節電」以外にのことを考え、感じているのだ。歌舞伎の団十郎が「照明を落として演じ」ていたが、同じようなことを言っていた。「今までとは違った自分」がそこにいないといけない、そう多くの人が感じているはずだ。
 〈震災〉前も後も「変わってはいけない」こと、そして〈震災〉後「変わらなくてはいけない」ことがある。「自分は今までのように生きることにした」と言った仲間がいた。開き直りではない、恐らく「今までのように生きる」ことの難しさを分かっていて言うのだ。そんなことのひとつひとつがこれから検証されるのだ。
 ついでに「進行中の原発」に関して言おう。原発がないと日本、とりわけ首都圏は大変なことになる、と宣伝・威嚇してきたのは誰だっただろう。実際大変なことになって、企業・家庭が努力した結果ではあるが、今や「計画停電」は実施されていない。しかし、誰も「原発がなくても平気だった」とは言わない。大きい声で言って欲しいものだ。今大きい声で言われていることは「猛暑と予想される今年の夏こそ大変だ」という、相も変わらぬものだ。確かにその通りなのだろう。しかし、とりあえず「原発なくてもやってます」は必要な確認だ。


ボランティアの道

(1)縦割り
 私が活動を始めて四日目、報告会が二十人ほどの大きいグループだったせいもあろうが、通常はリーダーと職員の間ですませるものがこの時は開かれたミーティングのようになった。
 この頃私たちは、瓦礫の間を歩いて「何かお手伝いはありませんか」と、いわば「売り込み」で仕事をしていた。この時「それでは困る」と言われた。確かにそれまで私たちは「どこの誰の家を片付けた」のか知らないで、いや、名前は分かるにしても、「姿を見かければ、そして頼まれればやっていただけ」だ。
 職員の困った表情からは「家にはきてくれない」「連絡もない」という被災者の苦情が張りついているように思えた。避難所にいるためとか、自分の身体が思うようでないとかいう理由で、瓦礫の現場にいられない人が多いのは確かだ。「自分の家はなぜやってもらえないのか」という怒りはもっともなのだ。区長さんが聞いて回っているらしいが、どうもセンターの動きとうまく噛み合っていないようだ。
 つまり簡単に言うと「こちら(センター本部)の許可なく動かないで欲しい」ということだ。しかし、被災地を歩くと分かるが、私たちに「頼みにくい」様子のお婆さんがひとりでたたずんでいるし、「道路に倒れた塀を少し起こすだけだし」と遠慮がちの人たちも多い。
 私も含め多くのボランティアが時には声を荒らげ、発言した。そうか、縦割りとはこういうことだと、その時私は思った。

(2)役所仕事、あるいは「風通しの悪さ」
 社会福祉センターの職員がセンター(ボランティア)に専属としてついているのは、相当に少数である。そこにボランティアでも地元の専属と言えるスタッフがつき、その下に私たちがいる。また、ボランティアでも活動期間の長さによって本部に出入りする人たちがいる、という具合だ。
 ボランティアが瓦礫の処理と、避難所での「見守り」に最近別れたことは言ったが、「壁への仕事の掲示」は、今もやられておらず、アナウンスで少しずつ発表というのが瓦礫処理隊の現状である。土、日曜のボランティアの数は膨れ上がっていて、そんな状態の割り振りに我慢出来ず「三陸に行く」と言って去ってしまう人も多い、とは活動を共にしているメンバーから聞いたことだ。宮城・岩手に多くのボランティアが行ってしまうのは『被災の度あいが高いからだ』という職員もいたが、実はそうではない。市や福祉協議会のホームページから「県外のボランティアの方は対象外です」の文言は、この時点でまだ残っている。そして私が登録した四月四日の「歓迎されなかった」様子はすでに言った通りである。
 そして「見守り隊」の方だが、これがまた良くない。今やミーティングや報告会で多くの注文がつくようになった。
ア「見守り隊」の仕事は避難所での暮らしのことを聞くことにある。瓦礫のことに関しては『センターに電話を』で対処しないといけない」
イ「昨日の件がどうなったか、あなたは知らなくていい。今日別な人が行って、そのことはすんだ」
ウ「引っ越しの手伝いをして欲しいと言われて、OKをだしてもらっても困る。引っ越しの業者に頼んでくださいと言って欲しい」

 おかしいことばかりが起こるようになった。アに関してその通りではある。しかし、避難所にいる方々が家の様子を案じている、そのことは聞いていいのだ。そんな紋切り型の対応で「見守れる」はずがない。イは私が言われたので「いや、気になるので」と食い下がるしかない。ウにいたっては私たちが配るプリントに「引っ越しのお手伝いいたします」と書いてあるのだ。せっかく聞いてきたスタッフの甲斐がないというものだ。これはなんのためにあるのか、とプリントを示して迫る。ようやく重い口を開いて説明が始まったが、なんか大変なことになっていた。
 簡単な話、自分で出来る人から、経済的にも人材的にも(親類がいないとか)、自分の身体の状態からしても無理、という人までさまざまである、それを審査しないといけない、というのだ。身体が不自由と言っても、その人が「介護1」なのか2なのか等々。
 なんだこれは。こんなことをしていたら、一番大変な人のところまで支援が行く前に、その人はどうなってしまうのだということだし、自分で出来る人はさっさとやってしまう。そしてどちらも恨みだけを残すのだ。ボランティアも役所の人間として動けというのか、私は大いに憤った。
 最近この「見守り隊」の詰め所に本部直結のキャップ(二人)が顔を出すと、部屋の空気がピンと張りつめる。二人がいなくなると安堵の空気が流れ、みんなは「名前・住所交換」などを始める。少しずつ「見守り隊」のメンバーが落ちている理由を「ここ(見守り隊)の仕事がハードだからな」とキャップは言っていたが、もうひとつ分かっていない。


(3)「やっちまえばいい」
 家が全壊か半壊かという審査が終わるまで家屋に手を触れてはいけないという。写真もひとつの手段だと言われ、写真を撮って瓦礫の処理に移りたいと言ったが駄目だと言われる。そして、ひどい状態の屋根から大量の雨が家具や電気製品を駄目にしていく。審査はまだかと聞きにいくが、まだいつになるか分からないと言われる。
 そんな話ばかりだ。行政も大変なのだろう、しかし、その行政の遅れをボランティアまでもが引き受けている。市役所まで行きたいけど足がない、と言われて「『タクシーを頼んでください』と対応するのがボランティアの役割だ」と言われてハアそうですか、という顔をするしかないような状況になっている。
 私ははたと思いついた。私はこういうお役所的対応をたくさん学校で見て、そして経験してきている。「あなたの生徒じゃない」「あなたの所属の学年じゃない」等など。そういう時はでしゃばるしかないのだ。生徒諸君! て、中・高校生にもこの通信の読者がいるらしいので言っておくが、「オマエの出る幕じゃない」とか言われたら、迷わず出るべきです。はい。
 五月の課題はこのことのようだ。どんなことを一体いくつ出来るか分からないが、センターという所属を離れればやれる。その人と自分の関係において出来ちゃうのだ。そう思うともったいなかった。顔を見せなくなってしまった、あの優秀なヘルパーさんの連絡先を聞いておくんだったと思える。でも、これからですね。
 物品で、あるいは身体で支援したいと思っている人は、私の周辺にたくさんいる。そんな人たちにこれから手伝ってもらえるかも知れないという今の気持ちである。

 ☆このセンター、ひいては社会福祉協議会の機能の悪さ、つながりの弱さはどうも深いところにあるようだ。いわき市発足時の問題点がずっと尾を引いていることが調べたら分かった。そのことは次号に。

実戦教師塾十六号

2011-04-23 18:52:46 | 福島からの報告
ボランティアは金を払ってでもしろ(番外編)


(1)被災地ガイド?
 私の活動の二週目のことだ。一台の車に私と運転手の男、若い女の人が三人乗り、豊間へ派遣される。痩せたさだまさし風の運転手の男は歳の頃30代前半といったところで、その足どりの軽さと口の軽さに私は気付いた。声もさださんに似てたぞ。
 みなさん、現地にトイレはありませんよ。今ここでトイレはすませてくださいね(と親切である。あとで聞けば、この男は活動三日目。もっと前からボランティアをしていた人は私も含め、まだいた)。
 ほら、ここにも地割れ、さあ揺れますよ(と言いながらアクセルを緩めない)。
 津波はね、波と言ってもあれは砂なんです。だから力があるんですよ。あ、菜の花がきれいでしょ?
 だって船が川の橋みたいに横に渡ってるんですよ。
 あ、あの子、制服じゃないでしょ?(と下校中の中学生らしい女の子を指さす) つまり避難している子なんですよ。ここは通常、制服で登下校ですからね。
 (前の車に)じいちゃん、もっと早く走ってよ。
 ほら、津波の名残が残ってる(と田んぼの水を指す。私は思わず「いや、違いますよ。これ、先週にはなかった水で、きっと昨日の雨のせいですよ」と言ってしまう。車内に別な空気が流れ始める)。
 (「柏でも震度6だったのに、いわき(市内)はどうしてこんなに被災してるんだろう」と私がつぶやいただけなのだが) 
 いわき市内はねえ、もともとが湖でね、それで地盤が弱いんですよ(「あれえ?知り合いは炭鉱の跡が地下にあって、それで地盤が安定しないと言ってたような気がする」と、私の方はもう意地悪モードになっていた。本当のところは両方が原因となっているらしい)。
 (後ろの女の子たちが自分たちだけの会話を始める。エキストラかそれとも重要な役なのか、どうもひとりの子が映画に出たという話。でも自分の出た映画がどんな映画だったのか良く分からない…という話であった)
 『リアルクローズ』? ああ、それね不良の映画ですよ。マンガが原作なんですよ(と言うさださんに瞬時私は反応してしまう。「違いますよ。『リアルクローズ』もマンガだったと思うけど、女の子のマンガだった気がする。不良の映画・マンガは『クローズ』。『zero』と『zeroⅡ』があったやつですよ」)。
 でも、作者が…(見苦しく言い訳めくさだに、間をおかず私は言う。「高橋ツトムでしょ?」)あ、そう。その作者が会津出身で…(とまったく関係がないことを言う。でもまあ、私自身も年甲斐がないのです)

 な具合で、車の中は前列が勝手に熱くなっていた。

(2)泥棒
 震災翌日から泥棒は横行したらしい。伊達巻工場の泥の掻き出しをしていた時に社長が言う。流されずにすんだ家屋の、水の入らなかった二階に入るそうだ。目当ては貴金属と現金。もちろん、残っている家屋は運もあるというものの、頑丈な作りを持つことの出来る家だ。そして、自衛隊が瓦礫から道路を確保した夜からはもっとひどかった。二トントラックで横付けだ。それが深夜だよ。深夜にトラックで何をしてるんだ、ということだ。
 そういうことをするのに日本人はいない、というボランティアの言葉がきっかけで少し論議になった。結局、悪いことをするのに外国人・日本人はない、という結論になってよかった。
 また、これは別なところで聞いた話。「隣の家の親戚のもので、見舞いに来た。(隣に)入りますよ」という三人組がいたらしい。「隣の家って、名前は誰だっけ?」と聞くと「いいです」と言って退散したという。全員おばさんだった。


 ☆土、日曜はボランティアの人数がぐっと膨れ上がる。そんなわけで私はちょうどよく、いつも週末柏に戻る。ゴールデンウィークはさらにすごい数の人々が手伝いに訪れるそうだ。だから私はいつも通りのゴールデンウィークをすごそうと思う。来週は少し早めの帰柏となるので、その分いわきへの出発も早めて、明日出発。また何日かこの通信お休みします。


実戦教師塾十五号

2011-04-23 12:32:10 | ニュースの読み方
いわき 4 「原子力の町」から

 あの避難所アリオスが、原発すぐそばの地域の人たちが多く避難していることを知ったのはついこの間である。別に原発近くの人たちを何かの意図があって寄せ集めたわけではない。阪神・神戸の経験から、仮設住居も含めて近隣住民のつながりを考えた上での避難をしているのだ。
 一階のロビーで大体決まった人がそこに設置されているテレビをいつも見ている。ニュースであることが多いが、私もたまにお邪魔している。アリオスでやっている体操で知り合った女の子が、私の隣でテレビを見ていたご主人とわたりをつけてくれた感じだ。七十歳の年格好の人が私に話しかけてくる。
 オレはな、原発から逃げて来たんだ。楢葉(町)だよ。家は大丈夫なんだけどな、しょうがねえよ、放射能じゃな。オレもな、今まで原発のおかげで十五年間生きて来れたから、まあ諦めるしかねえ。オレみてえな舟を持たねえ漁師はな、結局体力も落ちてきたその後、海でやっていけるかっていうとな、難しいんだ。そこにやってきたのが原発さ。楢葉は原発の町だよ。町は立派だしな、仕事は原発が持ってきてくれるんだ。
 オレの仕事は洗濯だ。作業員が着た服を仕入れて洗うんだ。洗う前に放射能を測定してな、汚れがひどいのは洗えねえ。そして、洗うともう一度測定さ。それで測定値が基準を上回ればそれも捨てるんだ。アンタはまだ若い(そんなことないのだが…)から注意したほうがいいけどな、オレなんかは何をたべても平気さ。だって身体に現れるのが二十年さ。オレは二十年の間にくたばるからさ。
 私はご主人のさばさばした顔を見ながら「東京の電気は福島で作られている」という、メディアからの妙に分かったような言い方に、改めて腹立たしさを感じた。いわきナンバーや福島ナンバーの車が東京の路上で「出て行け」なる張り紙がされたとか、スタンドで「窓は拭けません」と言われたとか(実際身近でそういう人がいることは言った)、そういう風評被害を案じてそういう報道がされているわけではない。そういう「福島から世話になった」報道は原発がしてきたこと、していることとは別なところで話が進もうとするからだ。ご主人の話は明快だった。日本がどんなふうにこの半世紀進んできたのか、はっきりと語っているのだ。
 私は瓦礫を片付けで、休憩をとっていた時の話を思い出す。四月最初の週だった。茨城からやってきたボランティアの人が「東京はここのおかげで電気をもらえるんですよ」と言う。でも「ワタシらも東電からタネもらってるんでねえ」と、お婆さんは応じた。私はそこで漁協の話をはさまずにはいられなかった。
 私は女川町の漁協の原発反対運動を忘れられない。詳しいところは覚えていないが、原発立地を巡り町長の選挙は激しく、そこで負けた漁協は漁業権をめぐり裁判を起こす。しかし、敗北。1979年に漁業補償額が決定するが「女川は海を売ったんだ。もう女川は終わりだ」とテレビで吐き捨てるように言った漁師の顔を私は今でもはっきり覚えている。
 この女川町原発は東北電力であるが、その補償額を少し調べて唖然とした。この時の補償額98億3千万は建設が決定した一基分である。それを逆上って1966年の東電福島第一原発の漁業補償額は六基で一億円、つまり一基あたり1600万円という数字だった。
 東電ふざけるなとか、女川のごね得だとかいう話ではない。とりあえず、これからの漁業補償の進展をしっかり見ないといけない。
 付け足しておこう。今週一緒に活動した市内にすむヘルパーさんの話だと、いわき市内の住民にもいわゆる「原発振興金」とやらがある。年間4000円だという。安いとかそんな話ではない、と言っていた。


ニュースの読み方 「原発作業員の顔」

 以前触れた「フィフティーズ」であるが、気をつけて報道を点検すると今は500人体制ということも見える。たまにであるが作業員のインタビューもされている。しかし、消防隊や自衛隊の記者会見は堂々としたものだったのに、作業員とは記者会見ではなく、インタビューであって、それも極めてひっそりとした、むしろ秘めやかなものだ。元請けなのか、孫請けなのか分からないが、決死の任務についているというのに、顔は映されないかボカシが入っている。もちろんわけがある。本人がそうして欲しいと言っているか、会社の要請でそうなっているか、またはメディアの自主規制である。この三つに共通していることは「そうすれば(公にすれば)困ったことが起きる」からだ。例えば、この作業員の車に「ここから出て行け」なる張り紙がされるどころではない被害が、また「あの会社は原発の仕事に従事し、放射能で汚されている」と会社の陰の部分を糾弾されることが起こる、そんなことが予想されるからだ。
 3月16日に厚生労働省は「初めて」のこととして、原発作業員の作業時の放射線許容量の緩和(100ミリシーベルト→250ミリシーベルト)を発表する。そこに「今までの数値では活動が困難とされるが、これで大丈夫」なる文言がうかがえる。未だに私には理解不能な文である。
 その直後に「作業員の健康、そして補償のためにも作業員の造血幹細胞採取を緊急にするべきである」という虎ノ門病院の提言がされた。どうなったのだろう。
 今、私たちにとって大切なことのひとつとして「覚えておくこと」がある。あとで機会をみつけて書くが、「放射能対策は花粉症対策と同じ。怖がることはない」や「放射能は洗えば大丈夫。怖がることはない」といった笑ってはすまされない話が、公然とメディアを覆っていたことを忘れてはいけない。
 さて、作業員の新しい数値のもとでの作業に関することが報道されている。この新規制値のもとで作業に従事した場合、五年間原子力関係の仕事にはつくことが出来ないという。このことの意味することは、ひとつはこの地獄的な仕事に従事した人は五年間、給料補償のない失業状態になるということ。そして、原発の作業員はずぶの素人が多いという「噂」の裏付けともなっている、ということだ。

実戦教師塾通信十四号

2011-04-22 19:49:49 | 福島からの報告
BSを見よう

 NHKからこの教師塾通信13号にコメント入ったのを見ましたか。BSでチェルノブイリの特集が始まるという知らせです。5月9日からというのですが、ネットカフェと現場オンリーで、すっかり新聞やテレビから遠くなっている私は、見ることが出来るかどうか、とても残念です。皆さんは是非見て欲しいです。見て感想を聞かせて欲しいと思います。


避難所の声

 瓦礫の撤去作業で、毎日チームのメンバーや行き先も変わることにそろそろ私は限界を感じ始めていた。そこで、一緒に活動したことのあるメンバーで、このセンターの本部に所属しているお坊さんと、ここの所長さんに活動場所を固定してくれないかと申し出た。
 ついでに私は、センター自身が仕事の方向性を分かっていないのではないかと、いくつかのことを申し出る。所長さんは多忙な中でも話が聞ける人であると私には思えたからだ。
(1)なぜ、朝来たら仕事が整理されて出されてないのか、いつもずっと仕事の募集を待っている人の時間が流れている。普通に考えてオファーの一覧が壁に張り出されているのが当然ではないか。
(2)ニーズ整理係や報告係もボランティアがやっていて、それはいいのだが、本部は焚き出し申し込みや支援物資の受け入れで手一杯のように見える。しかし、ボランティアのやっていることを本部が把握していないと、力や人数の適正な配分はできない。
(3)例えば作業の継続をしないといけない現場がある。そしてその作業をするのは前日担当した人がやる方がずっと効率がいい。しかし、そういった仕事の段取りがその日のうちにきっと行われていない。それはそういう整理をするボランティアが4時を過ぎても活動しないと不可能だからだ。朝、受付に出されているはずのボランティアの名札が、前日の報告の窓口に置いたままだったこともあった。
 4時以降はお願い出来ないというのは分かるが、出来る人はいるし、それを押してもやらないといけないと思っている人はいる。夜もできる、という人はやってもらえばいいし、それをサポートしてくれる職員がいないといけないが、それはやってもらいたい。非常時だからだ。

 通常の業務だけで手一杯のはずなのに、非常時ということで何倍もの仕事を抱えている大変さを分かっていないで勝手なこと言って申し訳ありませんと私が言うと、所長さんは全くその通りでと笑う。他県の社会福祉協議会のスタッフがセンターに多数来てくれてはいるが、それが自分の手足となるにはまだ始まったばかりと言える。全体の把握は困難を極めているはずだ。
 それでも私の話が聞いてもらえて、そしてそれが通るように思えるのは、私の活動が三週目に入ったことをセンターの少なくない人が知っているからなのかも知れない。

 私の次の日の活動は、避難所への「聴き取り」となった。雨の日は放射能の不安があるため通常ボランティアの活動はなくなる。しかし、屋内の活動は続けられる。だから火曜日は雨だったが、この「聴き取り」の活動はあった。野球部の高校生(高専)達と一緒に避難所になっている学校の体育館へとでかける。色々なことが分かった。内容的なことはあとで触れるが、驚いたことは、体育館にいるはずの人が半分もいなかったこと。当たり前のことだが、話そうとしない人、少しだけ話す人、多くを話す人といること。市や福祉協議会の活動を知らない人がいること。と書くと当たり前のことだと思うだろうが、そうではなかった。「聴き取り」をして分かったことで、私は二日間の活動のあと、詰め所で声を大きくして申し出る。
(1)今回の震災で家を失った人でも、仕事をまだ持っている人がたくさんいる。その人たちは昼間避難所にいない。避難所での聴き取りは夕方以降にもやるべきだ。休日はチャンスと言えるが、おそらく避難所もそこは家族の時間にしたいのではないだろうか。
 夜、職員が回っているというが、少人数の人間で出来ることではない。
(2)話したくない人も次の週には分からない。また、話した人でもその内容は先週と今週では変わる。「一回聴いた」とかいう横着なものではいけない。そしてこれが大切だが、行く人はいつも同じ人が行かないといけない。各避難所に担当者をあてるのだ。聴く方には情報の蓄積が、聴かれる方は「またこの人が来てくれた」という気持ちが出来る。
(3)掲示板やお知らせ配布、また場内アナウンスは様々な内容を含んでいる。仮設住居の抽選という重要なものから、ゴミの捨て方やレクリエーションの話までと、大小さまざまで、余裕のない避難所の人たちが全部把握しようというのは大変なのだ。そんな中で「ここに電話を」とか「読んでおいてください」という回り方は、何の効果も生まない。同じことだが、その連絡は避難所にしてある、といったセンター側の納得の仕方は安易である。
 実数の半分もいなかった体育館の人たちに聴いただけでも、瓦礫の撤去をして欲しいという希望をは出てきた。その人たちはセンターに電話する術を知らず、中には自分で業者に頼み「目の飛び出るような」金額を払っている人さえいた。
(4)「不満なんて言ってたらきりがない」とか「ここ(避難所)の暮らしに満足している」と避難所の方は言うが、さらに話していくと結構出てくる。何もなくなったという諦めの気持ちや、考えることのわずらわしさが原因となって「忘れていた」ことが結構出てくる。こちらが「何もないんですね」という対応をすれば、結局相手は「何を言うこともないな」という気持ちだけを積み上げていく。
(5)聴くための専門のノウハウを持っている人もボランティアとしてたくさん来ている。その人たちは一緒に瓦礫の処理をした。彼ら彼女らが文句を言っているわけではないが「こういう仕事が来ています。誰かいませんか」という割り振りの仕方はあまりに無頓着である。

 私は「所長さんにちゃんとつないでおいてください」と言う。だいぶ浸透してきたと感じるが、明日も同じことを言う羽目になるだろう、と予測しておく。そして、この日(水曜日)一緒に活動してくれたヘルパーの資格を持った優秀なお二方に「明日も一緒にやりましょう」と約束する。
 次の日、予想通り壁への仕事一覧はなく「誰か…」のアナウンスが始まる。私は我慢出来ず「資格(介護士、カウンセラー、看護士、ヘルパー)を持っている人とそうでない人の仕分けをして欲しい」と申し出る。そして、一緒に瓦礫の撤去作業をした介護士や、ヘルパーの「適材適所を要望する」声を伝え、すぐに始めて欲しいと訴える。受付名簿上の資格整理は今日の夕方からの課題ということで、今はアナウンスで呼びかけをすぐ始めて欲しいと訴える。
 どうやら流れが変わった。資格を持った人を募るアナウンスが始まった。

 今週、センター本部の部屋に出入りを始めた私は、以前から何度か「顔を良くお見かけします。ありがとうございます」と声をかけてくれた職員に「宿泊はどこでなさっていますか」と聞かれる。ネットカフェです、の私の答えに「それはたいへんですね。分かりました」との応え。さて、少しばかり期待している私です。



「子ども論の最前線」

 17日の日曜日、東京で芹沢俊介×斎藤次郎の公開対談「子ども論の最前線」があったので、やっとの思いで出掛けた。
 「ある自己(to be)」が「する自己(to do)」に先行しないといけない、という芹沢さんの話は、教師の「生徒を読めない」あり方が、生徒の「ある自己」を理解出来ないことと同義だと思った。また、生徒を「する自己」へと導く「生徒への書き込み」を使命とする教師のあり方だと思った。
次郎さんが「勝手に支援を始めた」私に、何か話をと振ってくれたので、震災に際しての自分や日本のことを触りに、支援のことを話せた。次郎さんは「顔の見える支援を」とも言っていたが、今週になってそれが分かった気がした。
 このブログでは触れないが、この集会でも私は感じた。今回の震災は「その人となりをはしなくも露呈させてしまう」と。