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実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

ミスター 実戦教師塾通信九百六十三号

2025-06-06 11:16:48 | 戦後/昭和

ミスター

 ~時代を凌駕する「前向き」~

 

 ☆初めに☆

誰もがこの日が近いと思っていたはずなのに、こんなにも早くと、思いました。本人の意思を分かっていた周囲は、病院の協力と共に静かな最期を用意していたのでしょう。何度も、そして静かに浄土との間を行き来したはずです。最後まですごい人だった。ミスターは東京オリンピックの聖火ランナーとして、国立競技場を王・松井と白いタキシードで現れた。それは、アトランタ五輪で現れたモハメドアリを彷彿とさせるものでした。感極まって当然のシーンでしたが、松井に支えられた長嶋は、ふたりと同様、笑みをたたえていました。おそらく、心中のボルテージは頂点だったけど、それを上回る「道行き」が強かった。すべてにおいて不自由になった分、晩年のミスターは、以前に増して周囲に気遣うようになった気がします。「みんなが心配するような振る舞いはダメだよね」と笑ってる気がします。

別な記事を投稿する予定でしたが、頭がそちらを向いて言うことをききません。ありがとうの気持ちを込めます。

 

 ☆ライク ア ローリングストーン☆

『わが巨人軍は永久に不滅です!』(写真は朝日新聞)

1974年のミスター最後の言葉を、唖然とした思いで聞いたのは私だけだったのだろうか。前田敦子の「私を嫌いになっても、AKBは嫌いにならないで!」なるシーンと重ねてしまいたくなるような感じ。いやぁ、ジャイアンツの話じゃなくて、長嶋さん、アンタの話を聞いてたんだよ、みたいな放り出されたような感じ。その時に受けた不安な感じは、結局、覆らなかった気がする。一番は監督ミスターの「解雇・クビ」だ。私たちほどの巨人ファンが、この時多く「アンチ」になり、巨人敗北のニュースに喝さいの拍手を送るようになった。長嶋が監督に再び復帰した頃の巨人は、えげつなくあちこちから四番やエースを買いあさる金萬経営だった。石が坂を転がるように無残だった。

「ヤですねぇ。ジャイアンツのホームランは……」(吉田拓郎『真夜中のタクシー』)

それでも、長嶋がイチローを「巨人に来ませんか?」と笑顔で誘う姿は、しょうがないナと思いつつ、何故か許してしまうアンチ巨人であった。ドジャースから誘いを受けても承諾される事がなかった残念な気持ちを、イチローに託せなかったのかと思いつつも許してしまう。そんなものを気遣いと大らかさのミスターは、持っていたのだろう。

 

☆セコムしてますか?☆

バントのジェスチャーで、監督・長嶋は審判に「代打」コールをするので、たった一球でアウトになるという失態は沢山?あった。勝利監督のインタビューも自分の考えや思い入れを語り続けるので、インタビュアーには苦労の種であった。プリティ長嶋はものマネだった(現在は千葉県議)が、ミスターはお笑い芸人のギャグネタとなった。

「いや監督、そうではなくて私が聞きたかったのは……。いや監督、それはさっき聞きました。そうではなくて監督……いや、トータルなディフィカルトって……和製英語はいいですから。いや、監督のことではなく、今日活躍した選手のこと……。いや監督、だから……いや、インタビュー続行不能! もう!聴取不能!」

本当は失礼千万のおチャラケはミスターの一方的語りに因するもの故、私たちは便乗して笑った。あの天覧試合の前夜は、枕元にバットを置いて寝たというミスター。さて、あの日のサヨナラホームランがファウルだったと、この時の阪神・村山がずっと言ってたことが、今回なぜか余り報じられないけれど、ことあるごとに村山は「長嶋、あれはファウルだったぞ」と言っていたそうだ。長嶋はそれに対し「村山クン、ナイスピッチ!」と、いつも応えていたという。すべては肯定的に、ということか。更に深く、山本哲士の言う述語的存在としてあり続けたということか。審判に抗議する実写に「セコムしてますか?」を上書きする悪ふざけのCМも、ミスターの承認なしには成り立たないのだ。

こんな時に「人となり」は出るものです。

「『ありがとうございました』で、すべてを表してくれると思います」

とは王貞治の言葉。「感謝だけですね」「ありがとうございましたのひと言です」なる無残なオンパレードに、もちろん並ぶことはしなかった。考え抜いた言葉とは、相手を真剣に思った言葉とは、そういうものです。「色々考えたんですが、結局、感謝しかありませんでした」でもいいんです、紋切り型の言葉とは違いが出る。

ラジオの向こうで躍動する長嶋に耳を傾け、私たちは収穫が終えた田んぼに走った。田起こしが始まる春先まで、そこが私たちの球場だった。グローブが5つしかなくても下駄ばきのままでも、畔(あぜ)をみっつ超えた時の「ホームラン」は、私たちのすべてだった。長嶋は私たちのすべてだった。寂しい気持ちは打ち消しがたい。ですが、どうしてか元気が出る、私たちを前向きにする、長嶋はそんな存在であり続ける人なのです。

 

 ☆後記☆

本文よりもここで書いた方がいいと思いまして。2004年に脳梗塞で倒れたニュ―スには、びっくりしました。何より、長嶋がこんなに孤独な生活を送っていたのか、という驚きです。この時まで家庭でのシビアな事情が漏れなかったのは、周囲が長嶋を心配し、何より本人が嫌った結果なのですね。太陽のような日々をミスターが送っていたと信じて疑わなかった私たちは、逆に勇気づけられたはずです。そうして、あのリハビリする姿。私もリハビリ頑張ります。

そんなわけで、次回は身体の話。目ではなく、腰の話。以前書いた「筋肉」「所作」の続きとなります。あの時の話が通じなくなるように、身体が変化・老化しているわけです。それは確実に。ではどうするかという話です。

 ☆☆

6月です。今月の子ども食堂「うさぎとカメ」は、定番メニューの焼きそば。デザートは「パンナコッタ」に決定🍏

先月の様子もお送りしま~す📷 中学生がたくさん手伝いに来てくれて、助かりました💛

それと、いわき信用組合の件、ご存知でしょうか。四倉の「ニイダヤ水産」なんですが、いわき信用組合からの融資で再開できたのです。心配になって確かめましたが、偽装の口座を作られることもなかった、という話でした。まったく、油断がなりません。

 ☆☆

ブログの引っ越し、9月になります。それまではここで、よろしくお願いします✋


石破首相・上 実戦教師塾通信九百三十三号

2024-10-11 11:27:54 | 戦後/昭和

石破首相・上

 ~「斜陽日本」の行く手~

 

 ☆初めに☆

石破茂が新しい首相に選ばれました。時おり真っ当なことを言うせいなのか、ずっと爪はじき的存在に甘んじてましたが、内閣総理大臣になりました。ところが、総裁選前の約束(ではない?)が次々にひっくり返されました。一定程度修正はされましたが、もともと私の関心は裏金や夫婦別姓ではありません。きな臭い国際情勢に、日本も好戦的になっているのは間違いない。新しい首相がどう対応するのか気になります。日本を取り巻く情勢の変化、そして、そんな状況にかつての石破茂がどう対応して来たのか、洗い出してみます。二回にわたります。

 1 湾岸戦争

 大きなターニングポイントが、1991年の湾岸戦争だったことは間違いない。この時アメリカは、日本に対して財政的支援のみならず、人的なものを強力に要請した。この時の首相・海部俊樹は、法律上の困難を理由に要請を断る。時を同じくして2年前の選挙で圧勝し、参議院の第一党となった社会党を忘れてはならない。党首だった土井たか子は、サダムフセインにクウェート侵攻を思いとどまるよう、イラクまで出向いている。申し出は当然だが、断られる。しかし大切なことは、フセインが面会・会談に応じたことだ。社会党、そして土井たか子に勢いがあったからという理由ばかりではない。この時期、日本に力があったからだ。日本の国民総生産は20年以上にわたり、世界第二位に君臨していた。日米の貿易摩擦は常に争点で、アメリカからの自立は相対的ではあっても明らかだった。しかしこれが、湾岸戦争を機に、政治的(経済的側面では少し遅れる)に対米追随となる。国連決議のもとに多国籍軍が形成され、クウェートはイラク侵攻を免れる。日本は支援として、戦費総額の2割と言われる膨大な財政支援を行っていた。しかし、ここでも何度か書いて来たように、戦争が終わった後、支援を感謝する国の中に、クウェートは日本を入れなかった。日本においても人的支援をしなかったことへ、否定的な世論が形成された。土井たか子も「ダメなものはダメ」というに留まった。戦争が終わったら平気な顔して今まで通りオイルを買おうというのか、という欧州の蔑(さげす)みに、日本は耐えることが出来なかった。最も先を見通していたのはアメリカだ。欧州のオイル依存を利用し、アラブ諸国間のオイル利権地図を読み取っていたばかりではない、この時すでに国家の体をなさなくなっていたソ連(現ロシア)の弱みを握っていた。事実、この時ゴルバチョフはこの問題に対し、戦争でなく外交での解決をアメリカに訴えている。しかし昔のような脅威的存在ではなくなったソ連に、アメリカは聞く耳を持たなかった。そしてアメリカはこの時を、日本追い込みのチャンスとしていた。一石三鳥の戦略を手にしていたわけだ。クウェートが日本に対して感謝の旗を外すことを巡って、もしかしてアメリカが絡んでいたんじゃないかと勘ぐっておいていいのだ。

 2 壊し屋・小泉首相

 この時、本当なら「NOと言える日本」の登場が望まれた。宗教や文明にかこつけた欧米の引き回しには乗らない、平和的外交という道を何故模索しないのか、イラクを野蛮視した欧米の戦闘という選択こそ野蛮ではないのか等々。下心のあった欧米がたじろぐことはなかったにしても、日本への攻撃にひるみをもたらしたとは思える。しかし、日本は「NO」と言えなかった。自虐的?謙虚?だったからだろうか。それにプラスしていいのが、ソ連の崩壊-冷戦の終了だったように思う。これを境に右も左も、針路を見失った。「右」は宿敵を失った。「左」は米ソの協調路線に戸惑った。日本全体が一瞬、思考停止状態に陥った。実際、筋金入り右派の論客に関してはこの流れに乗らず、湾岸戦争への加担に反対した。新左翼と呼ばれる部分の多くは、ゴルバチョフはともかく、ソ連の解体に何の感慨もなかった。しかし取りあえず日本の湾岸戦争対応に、日本全体はひどくコンプレックスを持つこととなった。

 そして、ここに追い打ちをかけたのが「バブル崩壊」である。崩壊した日本経済の再建を公約に、日本を「ぶっ壊す」バッターとして小泉首相が登場する。郵政民営化/規制緩和/派遣事業/原発政策等々。もっとゆっくりやるのだったら、いい政策もあった。しかし、単純明快・猪突猛進、そして、実は対米追随だった。これが絶大な人気をバックに、突き進んだ。原発に関しては「間違ってた/ウソつかれてた」と言って反省できるところは、また普通でない首相だったが、日本を壊した張本人であることに変わりはない。安保理決議がなかったにもかかわらず始めたアメリカのイラク戦争なのだが、小泉首相が世界に先駆け「アメリカのイラク戦争を支持する」とぶち上げたのである。

 思い出したと思うが、小泉内閣で防衛庁長官を務めたのが石破茂である。

 

 ☆後記☆

袴田さん、晴れて無罪になりました。おめでとうございます。この決定を報告する際、検察の不満がぶち撒けられています。再審決定からやり直し裁判に至るまで、いや、それ以前の経過をちゃんと追っているのかと思わせる検察の見解でした。「証拠の捏造」が一番の不満なのでしょう。でも、そこから「犯人とする根拠は残っている」までジャンプしてしまうのは、いかがなものかということですよね。検察の言う通り「事件の検証は続け」て欲しいです。

柏場所に行って来ました。バタバタしてて、取り組みも見ず隆の勝にも会えませんでした。お母さんと話せたのが、かろうじて良かったこと。よく見ていて下さって、と言ってもらえて良かった。見渡す限りいっぱいの人で、前回よりもはるかに多い入りでした。写真では空席はありますが、まだ開場したばかりのもの。

お土産は買いました。カレーとタオル。北の富士カレー。辛口なんです。意味するところ、分かりますよね


黄昏 実戦教師塾通信九百三十二号

2024-10-04 11:25:30 | 戦後/昭和

黄昏(たそがれ)

 ~戻れる場所/戻れない場所~

 

 ☆初めに☆

今までで『奇ッ怪Ⅱ』(ただし、これは舞台)が一番良かったかなぁと、未だに思います。しばらく仲村トオルの映画やドラマを見てませんでした。先だって「☆」で書きましたが、МX2の『飯を食らひて華と告ぐ』は、くだらなくも面白く、見逃し配信ですべて見ました。それと今回は、BS・NHK『団地の二人』を取り上げます。ふたつのドラマはともに、越えてしまった、あるいは越えられない、時代や人生の境界線を示している気がしました。

 1 「関係ない場所」との遭遇

 独りよがりというより、ひとり合点の食堂オヤジは、どこかでつまずいて店に迷い込んだお客といつも交叉する。

Tシャツ、買っちゃいました。

仕事の過労/仲間とのいさかい/夫婦のすれ違い等、どれも「良くある話」で、その上「それほどドラマチックではない」結末のドラマである。疲れ切るか投げやりだった気持ちが、食堂を出る時には上向いている。しかし、フルに充電&頑張るゾ!モードには及ばず、「もう少し続けてみるかナ」「案外いいかも」程度だ。他に、このドラマに共通しているのは、中華の看板をかかげてはいても「何でも作れる」こと、そして、そのどれもが「美味しい」ことだ。どんな悩みを抱えていても、客はみな「美味しい!」とつぶやく。オヤジの演説は、途方もなく筋違いだ。しかし、見当違いな語りは、何故かかすかに客の背中を押す。ある客は職場に戻って苦手な上司に話しかける。別な客は田舎に電話し、別な客(生徒)は駅に向かう。気持ちの折り合いがつくという積極的なレベルではない。黄昏は、すれ違う相手をはっきり判別出来ない「タレ(誰)ガソ」「タ(誰)ガソレ」の時間帯と言われる。しかし、相手がいることははっきりしている。そして、もしかしたら、自分が見知った人や場所なのかもしれない、という覚醒に支えられている。

 例えば、親を看取った帰り道、または大切な友人と喧嘩した後、あるいは疲れ切った身体を引きずる時。ひとりで引き受けるしかないと思うそんな時、その苦しみに近寄れる「優しさ」があるとすれば、自分に差し迫ったものと「関係がない」ものなのだろう。それで、無邪気な子どものはしゃぐ声とすれ違う時/橋のたもとで真っ赤な夕陽に照らされた時/店で出されたスープの滲みわたった時。誰かが気持ちを分かってくれたわけではないのに、何故か私たちはどこかで癒される。私たちは自分と違う生活や世界が、毎日過ぎては更新されていることを知る。黄昏時の覚醒は、戻る道を示すのだろうか。決して寄り添うことのないオヤジの話は、遠い場所から旨い料理を提供するのだ。

 2 「黄昏」「境界線」

 よく言われる「日本的(庶民の)住居」は、ひと間で食事・就寝・仕事場(内職)・雑事、すべての機能を持っていた。食卓(ちゃぶ台)を畳めば、そこは子どもの遊び場や服を繕う場になり、寝る時間には布団を敷く。公団の住宅供給が進む中、公衆衛生の観点から出て来たのが「寝食分離」だ(『都市・空間・建築の根拠を探る』飛島建設・文化科学高等研究院)。食事と就寝を分ける考えは、やがて教育的配慮から「(親子)分離就寝」を促進する。ここから戦後住宅に「子ども部屋」という、驚くべき風景が生まれる(同)。成長に伴った子どもの性が違えば、そこでも分離がされる(同)。これらがnDK団地の根深い根拠とされる(同)。この考えは、後の戸建てにも反映する。

 この理念を忠実に後追いしたのが、公営団地である。しかし当然だが、成長した子どもは団地を後にする。また、新居に住み替える世帯の増加などに伴い、団地はかつての「憧れ」的存在ではなくなっていく。階段から道に向かって放たれる華やいだ声は、くぐもった愚痴やクレームに変わっていく。昔の賑わいを「騒音」だと、抗議する人たちも出て来る。「独立」した子どもの中に、団地に帰って来るものもいる。もちろん、それは「凱旋」という晴れがましいものではなく、うつむき加減の影を背負っている。中年を越えようとする「子ども」と暮らすダイニングに、トースターに代わる電子レンジや大型冷蔵庫はあっても、ガラス戸の向こうには脱衣場で着替える年老いた父の姿を映すのだ。彼らの生活に、今やリビングという部屋は所在なげで、就寝以外のものは全てダイニングに集中している。

 ドラマ『団地の二人』の住民は、もちろん日の出ではないが、日没を生きているのでもない。言ってみれば「黄昏」を生きていると思える。「黄昏」が生き死にの「境界線」と言うなら、団地(私たち)という存在は、その当否を巡ってじたばたしている。たまさか入り込んだ子猫や少女は昔の記憶を呼び起こし、黄昏に灯りをともすどころか、さらに暮色を濃厚にする。少女やコンビニ店員の若者と、陰りゆく団地の姿は見事なコントラストである。

 

 ☆後記☆

あと、仲村トオルのドラマでは『黒革の手帳』が良かったな、などと思い出します。他にも『家売る女』とか、初期の『職員室』とか……あるもんです。来年か再来年で還暦なんですね。定年はない仕事なんだから、他界してしまいましたが、原田芳雄とか、まだ現役の石橋蓮司のようないい先輩もいます。楽しみです。

10月です。今月の子ども食堂「うさぎとカメ」は、焼きそば🍝 麺が続きます。今度こそ暑さも収まることでしょう🌞 頑張ります👊 頑張りましょう🍄🍐

先月のお土産です。すっかり色変わりしてしまった枝豆(手前)でしたが、中はしっかりしてるのです。失礼かと躊躇しましたが、並べました。皆さん、お持ち帰りいただけたのには感動しました🍺💛


足利・下 実戦教師塾通信九百十三号

2024-05-17 11:39:26 | 戦後/昭和

足利・下

 

 ☆銘菓/そば☆

「名物」に旨い物なし、でも「銘菓」となれば、裏打ちされる歴史がある。両毛の駅を降りて線路沿いに、片側二車線の道を歩くと、ほどなく細い道に通じるY字路に出る。もう、多くの足利市民は知らないと思うが、この細い道がかつての銀座通りだ。町の賑わいは太い道の方にあって、かつての銀座通りは多くがシャッターを下ろしていた。合流地点近くの踏切辺りに、足利銘菓『古印最中』はあったはずだが姿なく、踏切も隧道に代わっていた。仕方なく検索すると、だいぶ離れた広い道沿いに案内された。間口も奥行きも大きくなった店に入ると、そこに『古印最中』はあった。

前は助戸にあったはずですが、と店員さんに声をかける。こちらに引っ越して、今は姉妹店もあるんです、という答だった。確かに、少し離れたところ同じ屋号のお店があった。しかし、そこに『古印最中』はない。あったのは『古銭最中』だ。ネーミングに分店の事情が容易に想像できる。「こ〇んもなか」。〇の中に入るひと文字の違いに、お家騒動が見える。何より、姉妹店に『古印最中』は置いてないんだから。のれん分けではない、跡継ぎか販売戦略でもめたと考えるのが道理だろう。小豆をしっかり残した粒あんの程よい甘み、『古印最中』は懐かしい確かな味がした。

 もうひとつ。名店『一茶庵』。本店は足利だ。このそばを初めて食したのは大学時代。宇都宮の市内にうまいそば屋があると教えたのは、いつも面倒ばかりかけていた林学科の先輩。説明されたように、東武の賑わいから離れた閑静なエリアまで出向いた。言われてはいたが、お屋敷と思しき門構えと手入れされた庭にたじろぐ。敷石を歩いて玄関の高い敷居を越えて声を掛けると、奥から中居さん!が案内に現れる。大きい座敷に客は、私たった一人だった。学生の自分でも食べられる、極めて庶民的単価なのだ。ざるそばを頼んだと記憶している。それっぽっち頼むことにずい分躊躇したが、中居さんは静かだ。見えないずっと奥の厨房で、たった一人の客の一人前のそばのために大量の湯が使われ、冷たい水で引きしめられるのである。ソバの実を惜しげもなく磨いたのだろう、真っ白なそばが盛られて出てきた。若かったお腹には少なすぎるはずなのだが、濃厚な香りとのど元を過ぎる腰のあるソバが、お腹で満足感と共に膨らんでいく。千葉県で先生をするようになって間もないある日、柏駅のすぐそばに『一茶庵』を見つけた! 宇都宮と違い普通のそば店だったが、期待を胸に入店した。それから50年経つが、駅ビル内に移転した後も含め、行ったのは3回ほどしかない。宇都宮の味には遠かった。大昔のその時、足利の従弟に宇都宮の味を報告すると、本店にかなうわけがないよ、と笑ったのを覚えている。その本店に出向いたわけである。二回。一回目はお昼を少し回ったあたり。店の入り口に「売切れ」という貼り紙を見つけた。そばが無くなったら閉店、というやり方のようだ。次の日、開店間もない時間を見計らって出向く。しかし、店の入り口には信じられない長蛇の列。待つことしかやることのない行列が、こっちを見る。『新参者』(東野圭吾)のたい焼き屋を思い出す。並んでも「ここまで」と札止めされる、あれです。諦めました。**ネットで検索したら、宇都宮一茶庵は、大体記憶通りのようです。表の佇まいが少し違ってました。

 ☆足利学校/大日様☆

足利学校が地元から愛されていたのかどうか、はなはだ疑わしい。従弟から行こうと誘われたり、大人から行ってこいと促された記憶が全くない。整備されて公開されたのもつい最近のこと。一応行ってみました。

京都を思わせる空気も感じました。水戸の弘道館や岡山の閑谷学校と共に、日本教育の歴史的建造物だそうです。以上。って感じなんです。私には毎日が縁日のようだった「大日様」(正称『鑁阿寺(ばんなじ)』)が、大事。

参道の正面に入口。四方を巡るお濠には、錦鯉がのんびり泳いでます。ここは足利尊氏の屋敷跡です。ずい分、賑わいが変わったと思いました。ここは子どもたちの遊び場で、そばで大人も笑っている場所でした。地元の賑わいが凝縮した場所でした。奥の広場でも木のたもとでも、子どもがいっぱい遊んでいました。そんな気配もありますが、奥の広場は車のための駐車場となっていたし、何より、わざわざここまで来たという観光客の顔が歩いてました。境内の空気に浸るというより、観る・歩くという目的が満ちています。憩いの場というわけにもいかないようです。いや、市民や商店の努力が集まって、賑わいが守られて来たのでしょう。郷愁を押し付けてはなりません。確かに今は、鎌倉に来たという錯覚を覚えたりするのです。実際、一茶庵のそばを逃がした一日目、参道沿いのわらび餅をお昼にしましたが、出店は鎌倉のお店だった。食事処はみんな、しゃれたカフェスタイルの店が多く、熱い日差しの下で順番を待っています。二日目のお昼は、ブティックも兼ねたカフェでチキンサンドを食べました。そうか、ここって足利だったっけと思い直す、手の入った街並みでした。自分が好きだった足利ではない、と思うのがいけないのです。

 ☆菩提寺☆

実家から少し行ったところに、琴寄一族の菩提寺・龍泉寺があります。山門を入って右手に、手水処があります。水を汲んだ桶を持って転んで、情けなさに泣いて……泣いた場所。生きているうちは、もう来ないかもしれません。しっかり挨拶をしました。頑張ってます/身体に気を付けます/見守りください。

 胸を張ってお二人に会えるよう頑張ってます、と両親に誓いました。

 

 ☆後記☆

実家近くの踏切です。昔は、つい手前まで町の賑わいがあって、突然こんな景色になるのです。今もこうなのか、と思った次第です。吸い込まれそうにまっすぐの線路。少年時代に戻されそうです。

先日、爽やかな天気に誘われてバイクを転がしました。向かいからやって来たバイクの若者が手を挙げます。私も手を挙げます。一年間で数日しかないバイク日和。気持ちいいね~🏍

さて、明日は節目の50回「うさぎとカメ」です。いつも通り、明日用の記事をお届けします。✊✌✋もありますよ~

 


足利・上 実戦教師塾通信九百十二号

2024-05-10 11:39:42 | 戦後/昭和

足利・上

 

 ☆初めに☆

何年振りっていうか、叔父の法事か叔母の葬儀以来のはずで、十年以上ご無沙汰の足利詣です。私の両親が結婚したのが5月3日であることは前も言いましたが、ふたりの結婚を祝ういいタイミングだったと思います。

頂いたシャクヤクです。結婚記念日のその日、固かったつぼみは、見事に開花しました。花瓶というには目障りなジョッキ、握りの引き金を引くと泡立つプラスチック製品です。おめでとうございます。乾杯🍺

当然ちゃあ当然なのですが、超久しぶりの足利なわけで、諸行無常という感じになりました。

 ☆織姫神社☆

夏のような日差しが注ぐ中、懐かしの織姫神社に出向きました。すっかり観光地として有名を得た「あしかがフラワーパーク」には、もともと行くつもりはありません。それなりの知名度があった足利学校と織姫神社は、フラワーパークにドミノでブレイクしたようです。小さい頃です。長い階段を上ると、眼下に足利の町を見下ろす山頂が織姫神社でした。織物は縦糸と横糸で結ばれる男と女のようなもの。それで神社は織姫となった。明治以降、絹織物の人気と需要が急上昇し、群馬は富岡、栃木は足利で増産されます。足利が織姫神社を地の神として確信したのは間違いありません。父や琴寄一族が育った場所からは散歩コースで、早朝の織姫神社からは、低い木立の山頂から薄もやの中に町が一望出来ました。でも、山と川のある町という以外は、すっかり変貌の姿を見せている。静かだった境内では、多くの人々がお参りや撮影に余念がありません。駐車場には横浜や長野ナンバー等がぎっしり停まっている。

229段?の階段を登ってここに着きます。でも、朱塗りの本殿やら欄干やらは一度として見た記憶がない。あるいは、大昔の織姫神社は、本殿も境内もこじんまりとしていたかもしれません。さらに階段を登ったところにある、簡素な鳥居と祠を抱える大山神社まで登って、私たちが愛していた織姫神社はこれかと思った次第です。ホッとして町を見下ろすも、今は高く生い茂った木々の間からやっと見える町は不細工なビル群に埋もれていました。

そして何と言うか、神社の上をさらに登ったところに、レストランが建っていたわけであります。この罰当たりめが! 山頂の神社を人間の建物が追い越す非常識は、レーダー基地建設をした富士山頂しかしなかったゾ。……って、あてにはなりませんが。渡良瀬川と鉄橋(当時は茶色だったと記憶してます)が救いでした。

 ☆鉄橋☆

渡良瀬川と鉄橋を確かめに行きます。お世話になっている整体院の先生が、思いもかけず「足利は日本で一番いいところだ」と言ったのを聞いたのは、つい先日のこと。どうやら水と空気のことらしく、今はすっかりダメになったよ、という付け足しがあるのです。見るたびに感動していた鉄橋は、隣に新しい橋が出来るのか、周辺の景観の変化と共に無残な様相です。工事中を示すグロテスクなフェンスや足場の中から、昔の記憶をたどります。

父は長男で、目抜き通りにあった米屋を継ぐのが当たり前だったはずです。法学部を目指して東京に向かうことは、家を飛び出すことを意味していた。父と足利に来た記憶がないのは、そのせいだと思います。父は足利に顔向け出来なかった。記憶に間違いがなければ、私が初めて足利に来たのは、父の遺骨を菩提寺に納めた時です。父のとばっちりを食らって米屋を継いだのは、ふたりの弟(叔父)です。大学時代とその後の「活動」のお陰で、父の身体はボロボロだった。こんな生活をしていてはいけないと腰を上げ、父は法律事務所を立ち上げる。運転資金はあとで何とかなるという算段は、自らの死で崩れる。丸ごと残った借金はともかくも、請け負った仕事のキャンセルと事務所閉鎖手続きを真っ先にしないといけなかった。途方にくれる母。様々な種類の客が訪れる毎日。実務処理に明け暮れた叔父は遺骨を納める時も一緒で、常磐線から東武線で足利へ向かう。道行きは長く、6時間と記憶している。駅からタクシーという乗り物を、初めて経験します。黒いタクシーが、巨大な檻のような橋をいくつも潜り抜けるように渡る。鉄橋は当時、列車が通る川にしか架けられないものでした。列車から見える鉄橋は斜めの鉄骨だけですが、タクシーは前方の窓からもその姿を見せていた。そびえる巨大な鉄橋は、賑やかできらびやかだった足利の入口にありました。

 納骨を終えて帰るまで、緊張がなかったと言えばうそになるけれど、悲しみに沈むことはありませんでした。今は旧市街となって静かな界隈は当時、元気な品物や声で満ちていました。店の品物は行く先を知っており、それを待っている人がいる。これを「商い」というのか、と思って見ていた気がする。表には米や雑貨を買いに来る人たちが、裏からは炭や薪を運んで来る人たちが出入りしていた。その元気な声が、天気や商売以外の「情報」だった。私は道の向かいにある、たくましい木々に囲まれた神社で従弟たちと遊び、疲れて店に戻るとお盆におやつが載っている。店の前には舗装された!道があるだけではない、耳をすまさなくとも、すぐ近くを通る両毛線の列車(汽車でした)と踏切の警報音が聞こえる。道を少し入ると、白い土塀の壁が続く奥から、機織り機の轟音が聞こえていた。紛れもなく、ここは足利のど真ん中だった。父が死んで、明日をも知れぬ生活に入った私たちの前に、大きな町の不自由ない生活がありました。いや、親戚筋の優しかったことを強調すべきかもしれません。私には贅沢と発見の日々でした。

 

 ☆後記☆

すっかりブルーに、のめり込んでしまいました。お付き合いいただき、ありがとうございます。しょうがない、少年期は薄暗い地下道のようなもの(吉本隆明)ですから。またしても、バックナンバーの曲を思い出しちゃいます。

公園の落ち葉が舞って……/駅前のパン屋と踏切の閉まる音(『アイラブユー』)

学生時代、足利から寮に戻ると、店からもらう即席ラーメンを待ち受ける仲間(でないものまで)が、部屋に合掌してやって来ました。いつもふた箱(40個)もらって来るのですが、幾日ももたなかった。それでもみんな持って行くのは一個だったし、盗むようなことは絶対しなかった。確か、サッポロ一番(みそ味)でした🍜

次号は紀行文的内容になるよう、心掛けます。次号も⁈と言わないで。なんせ最後の詣かも知れないんだから✋

 ☆☆

なんか腹の立つことが続きました。ひとつは、東京15区で立候補した乙武氏への妨害活動。メディアの取り上げ方に異議があるのです。それと、水俣病患者と環境省との懇談。これも取り上げ方です。また、相も変わらぬ敬語の暴走。柏市立高校の問題も、ニュースにあがってました。言いたいことが山のようです。順を追って書こうと思ってます。

皆さ~ん、そろそろ五月病。寝る・食べるを、心しましょうね☺ 最後は我が家のツツジ、今年は満開🌺

藤井・オオタニ両氏から目が離せませ~ん☖⛊🥎👀