実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

1968年(中) 実戦教師塾通信六百二十三号

2018-10-26 11:50:46 | 戦後/昭和
 1968年(中)
     ~<全共闘>(前)~


 ☆初めに☆
50年前の「10,21」をテレビが振り返ったのは、テレビ東京系「池上彰の『現代史を歩く!』」だけだったのかな。それも、パリの「五月革命」に少し付け足したものでした。1968年を振り返るテレビは、日大のアメフト事件の時もそうでしたが、悪意を感じさせるものはない気がします。まあ、ぜいたくを言ったらきりがないのですが。

50年前の10,21新宿東口、今のアルタ前です。学生ばかりではなく、労働者(なんと遠い響き!)や市民が身動き出来ないほど集まりました。
 ☆☆
前号の東大の写真は、古いものか?という問い合わせがありました。きっと、今の安田講堂の姿を知っている方ですね。今やあの後ろには、高層ビルのように校舎や研究棟などがひしめいています。すぐ近くまで講堂に接近して、ようやくあの写真が撮れます。

この銀杏(いちょう)並木が葉を散らせば、ビルのように不細工(ぶさいく)な校舎が、講堂の背後にそびえて見えて来るんです。
 ☆☆
「全共闘」と言えば、この安田講堂を思うのではないでしょうか。

これを「頂点」とするメディアは多いが、私たち地方の学生にとって、これはエールであり新たなスタートでした。全国どこの大学でも、すでにそれまで十分な兆(きざ)しがあったからです。

 1 十年前
 ほぼ十年前、2009,1,18の朝日新聞コラム『天声人語』である。東大の本郷キャンパスに入るのは「生まれて初めて」という筆者が、あの日を振り返っている。講堂に立てこもる学生七百人に対し、八千五百人の機動隊員が導入された、あの日のことである。
「2日にわたる安田講堂攻防戦▼先々の不利益を承知でとどまる学生らは、命がけで職務にあたる機動隊員に必死で抵抗した」
この「命がけ」は機動隊員だけにかかる言葉ではない。工学部列品館屋上の仲間は、ガス銃の直撃を受けて目を撃ち抜かれている。多くの学生が重症を負った。
「▼全共闘の運動を革命ごっこと嘲(あざけ)るのは楽だが、ベトナム反戦でも大学改革でも、時代と社会に向き合う一途(いちず)さはまぶしい。その『熱いバトン』を落とした世代の、勝手な感傷(かんしょう)だろうか」
我々より世代があとの方らしい。この文章からはあの頃、多くの「文化人」どもの「(全共闘は)言っていることは正しいが、やり方が間違っている」という、いまいましい姿は見えない。隔世(かくせい)の感とはこういうものなのか。

 2 あの頃
 68~69年のいきさつの前に、当時がどんな時代だったのか押さえておきたいと思う。
 新聞・雑誌の中に、当時の世相がしっかり見える。栃木・下野(しもつけ)新聞の川柳(せんりゅう)欄だ。
◇闘争をさけて学ぶ子に安堵(あんど)
◇学園が揺れて指針を見失い
◇悲しきは無学の母の読み違い
◇学校を出ないひがみが爆発し
学生自身のものと、おそらくは「母親」の句ではないか。「家を守った」この頃の母親。そのことに意味/価値を見いださず、平気で蔑(さげす)む息子か、そして母本人のものと思える句。
 当時の朝日新聞に、詩人・高田敏子の「落ち葉がしきりの季節になった」に始まるコラムがある。
「夏も過ぎれば子どもたちも大きくなって、責任のある仕事は一応終わる。葉の紅葉は、女性の第二の青春」
一体なんのことか。夏休み中、子どもが家にいることの大変さを語っているのだ。
「子どもの世話から解放されて、自分を美しくゆたかにかがやかせる季節と言えるのではないかしら?」
と結ぶコラムである。しかしその後、大きく成長した息子?は川柳で親への蔑みを歌う、そんな時代。
 一方父親は、いや男はと言うべきか、威張っていた。家は会社は、そして日本はオレが支えているという傲慢(ごうまん)が、多くの家々に満ちていた。
「何を生意気なことを言ってるんだ」
畳みかける姿はどこでも同じだった。男/父親が支配し、女/母親は我慢する。これが「戦後の民主化された日本」の姿だった。

 何度でも言おう。私たちが闘ったものは、
「戦前/戦中の残滓(ざんし)に満ちた社会」
「高度成長という背伸びした日本」
に対してだった。



 ☆後記☆
 <全共闘>とはなんだったのか。最後の機会は、私の出身・宇都宮大学を中心に、つまり、私の頭も肉体も通過した姿を通して考えてみたいと思います。「全共闘のやり方に、一般学生はついていけなかった」だと? 聞いたふうなことを言うな、という内容になります。
 ☆☆
「佃製作所」に入社しました!って。こんな「企業Tシャツ」があるんですねえ。『しまむら』です。

 ☆☆
いい陽気に誘われて、流山→三郷までバイクを転がしました。

調査報告本編 実戦教師塾通信六百二十二号

2018-10-19 11:30:57 | 子ども/学校
 調査報告本編
     ~真綿(まわた)で首を締めるような~


 ☆初めに☆
すでに報告しましたが、先月、千葉県館山いじめ事件の報告書*が、館山市長から遺族の田副(たぞえ)さんに手渡されました。何度も読みました。勝君が繰り返した、学校への訴えと両親へのアプローチ。ある時は戸惑いある時は失望したのでしょう。積み重なった孤独感と疲弊(ひへい)は、勝君を追い詰めました。
  *報告書は千葉県館山市のホームページに掲載されています。
 ☆☆
ヒアリングされた学校や両親。みんな勝君と一体どう向き合っていたのか、検証されました。前も触れましたが、報告書は両親に厳しく指摘する一方、学校への批判は控えめに見えます。
察するに、ヒアリングに対して、両親は正確にというよりは正直な、学校側は(記憶や供述が)あいまいだったからと思えました。
この報告が出来うる最善のものだったのか、検証をしたいと思います。

 1 若干の違い
 本編での記述から、私の読み違いかも知れないと思える部分があった。六百十八号で私が指摘した、
「部活動用のバッグに対する破損(はそん)行為が………心を傷つける結果となった『可能性は否定できない』」
どうして「可能性は否定できない」という表現にとどまるのか、私には理解不能でした。
とした部分だ。本編では、
「『カバンが壊されているところを見た』というもの(アンケート)があったことなどから、本件生徒に対するいじめとして………本件生徒の心を傷つける結果となった可能性は否定できない」
となっていた。分かりづらいのだが『可能性は否定できない』で言う「可能性」が指すのは、「いじめ」の「可能性」のようだ。
 もうひとつ、部活の「顧問」がほとんど見当たらなかったという点。確かに「担任ら」という表記は、本編では「顧問」の存在をうかがわせるものもあった。しかし、この部分は訂正の必要を感じない。追って読者とともに確認して行きたい。

 2 勝君の「におい」
 今号では「臭(にお)い」というポイントに絞(しぼ)って書く。7月5日のいわゆる「スプレー事件」と、それ以降の学校側の対応である。それが検証委員の調査から明らかになっている。しかしそれから考えれば、第三者委員会の学校への裁断が「甘い」ことも、残念ながら明確なのだ。
 報告書本編「第4」中の「3 本件中学校在籍時のいじめ等に対する対応状況」、
 ⑵制汗スプレーの件における対応 
の部分である。
 7月5日のスプレー事件後、15日まで学校を欠席したあと、勝君は学年主任に、
「なんで僕は臭(くさ)いんだろう。どうしたら臭いのがとれますか」(報告書)
と相談している。中学校の現場にいるものとして、この言葉の重みが痛いほど分かる。いや、中学生というデリケートな時期の、プライドを複雑に抱える子どもが、こんなふうに相談/告白したという事態を、大人は真剣に受け止めないといけない。
 ところが信じがたいことだが、
「臭いというのは誰にでもあるんだよ」(同上)
学年主任は切り出す。これは、
「そんなつまらないことを誰が言ってるんだ」
「オマエが臭い? そんなことはない」
と言うのが筋ではないのか。勝君は「自分が『臭う』のではないか」と訴え出たというのに、それは必死にだ。しかし学年主任は続ける。
「どうしても気になるなら、お風呂に入ったり、こまめに着ているものを洗濯したりはできるね。そういうことを言う人は、色々な人が色々なにおいを持っていることを知らないんだよ」(同)
報告書には、
「今となってはバカなことを言ってしまったと思う」
という主任の供述は見当たらない。つまりここには、主任の「善意/本気」が露出している。
 職員の間で、勝君の体操服の汚れが話題になったことがあったという。ホントに臭かったのか。それだったら、
「体操服の汗がにおうかな」
「でも、そんな程度だよ」
と言うもんじゃないのか。しかし、そう言わなかった。私には分かる、大体がそんなことで「臭(くさ)い」という、野球部員の間での噂(うわさ)は出来上がらない。だから主任は、本当なら、
「そういうことがあるのは知っている」
「根気のいることだが、いつか分からせてやろうな」
と、言うべきだったはずだ。まあそれは置いとく。
「どうしても気になるなら」
という主任の「解答」は「私(主任)は臭わないけど」を意味しない。これで、勝君本人の「本当に臭いのか」という叫びにも似た苦悩/呼びかけを、主任は回避し放り出した。勝君は、
「苦しみは自分で解決しないといけない」
ことになった。

 3 雪隠詰(せっちんづめ)
追い打ちは続く。
「その後、教員が見守る中で、関係した生徒から本件生徒に対して、本件生徒を標的にしたものではなかった等の経緯の説明を行った」(報告書)
というものだ。もうこれは「拷問(ごうもん)」に等しい。
 これ以前に2年生部員の大半が、勝君の「におい」に関して話をしていることがあったのを踏まえて、
「汗のにおいにしても相手が傷つくようなことは言ってはいけない、言われても直せないことは相手に言ってはいけない」
なる「一般的指導」がなされた。と報告にある。ちなみにここに野球部顧問の姿は見えない。
 陰湿なやり方を指摘する際、残念ながら決め手を欠くことは多い。これはもう繰り返し、その「可能性/蓋然性(がいぜんせい)」を指摘する以外にない。逆に言えば、この手の行為は繰り返されるので、指摘のチャンスも繰り返し訪れる。
「今度も冗談か?」
「今度も『たまたま』勝君だって?」
そうすることで道を開くしかない。この場合、教員の視線/指摘は、常に「冗談/言い訳」する相手に向かわないといけない。当たり前だ。ところが学校現場では「からかわれた相手」に向かうケースが、なぜか出現する。
「冗談だってさ」
「オマエじゃないよ」
だから安心しなさい等々。もう説得する相手を間違っている。教員は体の向きを変えないといけない。教員が囲むのは、「からかった」連中だ。被害者を囲んで「誤解」だと「説得」することではない。しかもこの場合、わざわざ「からかった」連中を呼び出し、一緒に被害者を囲んで「説得」している。これは拷問だ。
「関係した生徒(本件生徒から見れば、いじめられた相手である生徒)を目の前にして言いたいことを言わせようとすること自体に無理がある」(同上)
のは当然だ。ありがちな、学校の「丸く収めたい」気持ちは、はっきり見えている。この時はもう、崖っぷちの勝君だった。これが夏休み直前の出来事だ。夏休み中の部活? 行けるものではない。
 読んでいて書いていて、胸が高ぶってくるのを抑えられなかった。当時関わった学校関係者の、今の気持ちはどうなのだろう。



 ☆後記☆
「学年で取り組む生徒指導の生んだ欠点」という指摘を、報告書はします。でも、根幹にはもう一つの要因がからんでいることを、前回も触れました。この事件で肝心な顧問が不在だった理由をいつか書きたいと思っています。
 ☆☆
久しぶりに東大にお邪魔しました。

精神科のお医者さんと話して来ました。でも、治療を受けたのではありません。念のため。いつかお話します。
 ☆☆
あさってで、新宿の10,21から50年。ニュースは映像を流すでしょうか。

台風一過 実戦教師塾通信六百二十一号

2018-10-12 11:25:01 | 福島からの報告
 台風一過
     ~母屋も牛も~


 ☆初めに☆
「安倍もとうとう本性現したな」
楢葉の渡部さんがそう言うのを、何をいまさらと、違和感を持ちながら聞くのです。でも、福島の人間として我慢がならないことが、そして、私たちには分からないことが、きっとあるのです。
第四次安倍内閣が組まれた翌日の『福島民友』です。

『再稼働推進 世論厳しく』の世論とは、全国の世論なのかと考えると、この日のトップ記事がまぶしく感じます。見て分かると思いますが、この記事の上に閣僚の写真があります。居並ぶ閣僚の写真、すぐ下の記事がこれ。大手メディアの大体が、「お友だち内閣」や「代わりばえのしない」という論調に終始する中で、福島は原子力を「ベースロード電源」とする安倍政治への批判が基調なのです。「トリチウム水」の記事も大きい(『河北新報』も同様でした)。
オレたちゃ何にもわかっちゃいねえ、そんな言葉が久しぶりに私の中から出てきました。

 1 雨戸なし!
 いよいよ母屋(おもや)の完成まであと少し。左側に渡部さんが写ってます。

「この間の台風で足場や風除けの覆(おお)いが飛ばされちゃったかと思った」
と言う私を、夫婦は口を開けて笑うのだった。
良く見ると、窓がむき出しで雨戸がない。大丈夫なのかと驚く私だ。
「前の母屋は木枠(きわく)の窓だった。今度はサッシだよ」
なに言ってるんだ、東京も大阪も台風の風でビルの窓が割られてるんだ、怖くないのかと私はしつこい。
「あっち(都会)はものが飛んできて割れんだよ。こっちに飛ばされるものなんかねえよ」
渡部さんは広く開けた周りを見ながら言う。風をふさぐ木もあるしね、私は同調することにしたのだった。
 大工さんの仕事は、あと二、三日だそうで、最後は内装に移る。

見事な天井の杉の木目。

これは前の母屋にあった仏壇がそのまま移動したもの。大工さんが見事な手際(てぎわ)でやってくれたらしい。

 玄関脇上がりの壁の一部をへこませて、額のようになっている。大工さんに言ってやってもらったんだ、とは奥さんの話。
「ここに写真を飾ろうと思うんだ」
いたずらっぽく笑う奥さんのねらいは、もうわかっている。

 2 一頭だけ
牛舎の向こうに 柿がたわわに実っている。手前に樽の形でぐるぐる巻きにされた餌(えさ)。

渡部さんが、次々に種類の異なる餌をつぎ込んでは、牛さんたちがかぶりついている。

そんな群れの中で、後ろの一頭が前に出て来ない。
「なんか、仲間に入れようとしないんだよなあ」
奥さんが困ったように言う。宮崎から仕入れた新しい牛だからなのか。
「それだったら5頭いるんだ。でも一頭だけなんだよ」
渡部さんも浮かない顔である。二人は黙る。どのみち、満ち足りた牛たちが餌から遠ざかれば、この牛も餌にありつける。しかし餌の方に進もうとして何度か試みるも、激しく後ろに押し退(の)けられる牛の姿には、切ないものがあった。仕方がないという顔の夫婦は、黙々と餌を与え続ける。
 すぐそこで渡部さんの刻(きざ)む餌を受ける籠(かご)に手を添えもしない自分が、こんな時には極(きわ)だってしまう気がする。

一方、当たり前のような顔して、私はお土産(みやげ)をいただくのだ。庭の柿(渋を抜くためアルコール漬けにしたそうだ)と、左側が「紅あかり」、右側が「安納芋」だそうである。
ジャガイモと違い、さつま芋は保存が難しい。おばあちゃんから、
「冷やしちゃダメだよ」
とは言われていたが、収穫後30~40度で温めたあと日陰で風通しのいい湿度もある場所で保存などと言われると、うんざりするほどだ。
「すぐ食べっちゃえばいいんだよ」
奥さんは豪快に言い放つのだった。



 ☆後記☆
さつま芋、友だちにもおすそ分けしました。そして甘辛く煮たり、リンゴと煮てシナモン振ったり、と楽しんでます。柿は種なしだった!
 ☆☆
「こっちのテレビは巨人ばっかりだからさあ、金足の吉田も『巨人に行きたい』ってなっちゃうのよ」
とは奥さんの弁。でも吉田投手、考え直す感じですね。良かった。

     これは通り道、友部SAのコキア。かわいいですね。

1968年(上) 実戦教師塾通信六百二十号

2018-10-05 11:25:13 | 戦後/昭和
 1968年(上)
     ~本田宗一郎~


 ☆初めに☆
1968年から50年の年です。この年/時期を、私たちの世代は特別な思いで記憶しています。その記憶のいくつかを、50年後の節目に振り返ってみたいと思います。ひとつは、<全共闘>という時間/空間、もうひとつは「本田宗一郎」です。
今回はこの本田宗一郎を、次の機会には全共闘を書きたいと思います。

 1 前座/スーパーカブ
 実は、この1968年から十年逆上って1958年、ホンダから50㏄の小さなバイクが発売される。スーパーカブである。ニュースや新聞でご記憶かも知れないが、このスーパーカブの売り上げが昨年秋、累計(るいけい)一億台を突破した。世界で一番売れたバイクだ。

当時のカブの広告である。神宮と思える銀杏(いちょう)並木で、お父さんがカブを転がしている。ヘルメットを着用(1975年に義務化される)しないお父さんのむき出しの頭である。
 それ以外に私たちの眼を引きつけるのは、お父さんが和服であること、下駄履きのままであること、そして犬と結ばれているロープを、お父さんの左手が握っていることである。日本は当時まだ、和服や下駄が生活の一部だった。そして自転車と違い、左手と左足でシフトするバイクでの片手運転は無理だった。カブは、当時の人々の生活と融合(ゆうごう)すべく生まれ、見事に実現した。「ソバも元気だ、おっかさん」なる広告も、山のように積んだソバのせいろを、肩へかついでカブにまたがる若者の姿だった。
 そしてカブは、頑丈(がんじょう)で壊れなかった。これが大事だ。

その後この「リトルホンダ」は、リッター(1000㏄クラス)バイクのアメリカに上陸し、ホンダ世界戦略の一翼をになう。
デカイのじゃなくて
ちっちゃいのがいいんだ………
飛ばすぜ、いいかい (『リトルホンダ』ビーチボーイズ)


 2 CB750
 世界制覇(せいは)をになう、ホンダのもう一つの戦略は、世界の頂点に君臨する「性能」だった。ホンダは1959年マン島TTレースに初出場、1963年までには、世界GPロードレースの125㏄/250㏄/350㏄クラスでメーカーチャンピオンを獲得する。その時の250㏄マシンRC161である。四本のマフラーに注目して欲しい。

 宗一郎はサーキット上のマシンを、当初から「走る実験室」と位置づけていた。大型バイクの開発チームは、ホンダのレーサーを市販化するプロジェクトに立ち上げたのだった。
 スーパーカブから十年後の1968年とは、四気筒のエンジンを持つCB750の誕生である。市販は翌年の1969年だが、プロトタイプの発表は前年だった。
 ここからは、私のコレクションを使った報告としましょう。

もうよだれが出そうに忠実な再現がされたミニチュアは、マルサントーイズ製で、栃木はツィンリンクもてぎの「ホンダコレクションホール」で購入したものである。この写真より実物のミニカーの方がリアルです。少しばかり蘊蓄(うんちく)を。
 後ろのサスペンションは、金属製のバネを使ってます。ゴムのじゃばらで覆(おお)われたフロントのサスペンションも、ちゃんと動く!

 3 時計のように精密な
「日本製で走るのかい?」
ホンダがマン島TTレースに初出場した時、記者たちに言われた。しかしその後、このマシンの活躍と姿を見せつけられたヨーロッパの報道各社は、
「まるでスイスの職人が作り上げた、時計のような精密さ」
と、驚き称賛したのだった。

先に見たレーサーの四本を思い出そう。美しい形状のマフラーが、このCB750にも居並んでいる。

エンジンが四つのシリンダーから成る四気筒のエンジンを積んだバイク、それは市販車としては初めてだった。つまり簡単な話、それまではレーサーにしか使用していなかったエンジンである。
 世界の主流だった二気筒エンジンに対抗するホンダが、どうして四気筒だったのか。ホントは難しい話なのだが、はしょって言えば、二回の爆発では一回転のエンジンが、四回の爆発では二回転となる。ホンダのレーサーRC161は、他のマシンが一分間で6000~7000回転する間に、14000回転という驚きの数字を叩き出してしまう。もちろん、それでエンジンの構造は複雑になるし、その分壊れやすくもなる。耐久性が問われた。しかしそれは、レースによって見事に証明された。
 もうひとつ、二輪において世界では初めてのメカである。前輪にディスクブレーキを装着した。これで制動の力と安定が抜群となった。

出来上がったCBを見た宗一郎は、
「こんなデカイのに、誰が乗るんだ?」
「売れねえなあ、これ」
と言ったそうだ。
 しかし、宗一郎の予想は外れ、CB750は爆発的売れ行きを見せ、国内に大型バイクブームを引き起こした。

「このCB750は、日本の道路ではトップギアに入りません」
が、宣伝コピーだったのである。



 ☆後記☆
久々にWIU(WebIntelligenceUniversity)で録画しました。今回と同じテーマですが、違った展開です。書き切れなかった宗一郎の名言にも触れます。
配信されたら連絡するので、ぜひどうぞ。
 ☆☆
台風に耐え、我が家の金木犀(きんもくせい)は秋の香りを送ってくれてます。ありがたい。