実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

男と女(上) 実戦教師塾通信七百二十八号

2020-10-30 11:10:38 | 思想/哲学

男と女(上)

 ~男女差の混沌&混乱~

 

 ☆初めに☆

前回、編集後記に子ども食堂の写真を掲載しました。「やはり調理は女の人がやるんですね」という思いがけない感想が飛び込んで来るのですよ(良く見ればそうじゃないんだが)。私事ですが、「私は男です」と言ったら、自分の性別に違和感を持っている人たちがいるんですよと言われて、宇宙をさまよったこともあります。今や「男は(恋愛相手として)タイプじゃない」と男が言おうものなら、それはLGBTへのハラスメントですと言われるのかな。いやぁ窮屈なことこの上ない、と思うのは私だけなのでしょうか。

近年、日本は「めくら滅法」や「つんぼ桟敷(さじき)」等を、差別語として追放しました。そろそろ「バカ野郎」も危ないと思ってます。そして近々「男」や「女」も追放されるかも、と恐れおののく私です。

 

 1 自分が望むと思うなら

 どうして「めくら」や「つんぼ」が良くないか、「親切に」解説してくれる人がいる。そんな時私は、

「自分が幼少の時、高熱で左耳をまったくダメにして以来、『つんぼ』と言われて来たし、自分自身で左の耳が『つんぼ』なんですと言ってます」

等と「親切に」言うことにしている。当事者が傷つくのは、悪意を持った「つんぼ」である。しかしこれは、普段のやり取りに使う「つんぼ」でもある。それは「オマエには言われたくない」言葉であったり、「うかつにそう言えない」関係を示す一方、それが「通じやすい」「普通」に使える言葉でもあるのだ。

 そうだ!関係ないこともないゾ。以前ソフトバンク一家(黒人もいた)のCMに対して、お父さんが犬なわけで、じゃあ「黒人は犬から生まれたというのか」という「告発」があった。日本人からのものだったという。すごい! さて、フェミニズムに行こう。古いけど、日産の「男なら乗ってみな」というCMもバッシングにあった。

 思い出す。自分が子育て真っ最中の時のことだ。夏のキャンプで、私がさっさと全員(三世帯ほど)の焼きそばを作ったのだが、少しばかり遅れて登場した女たちは、それに見向きもせず別なメニューを作り出した。オマエ(男)の出る幕ではない、雄弁な空気と行き場をなくした焼きそばがそこにあった。子連れで公園に散歩に行った時もそうだった。オマエ(男)がどうしてここにいるのだ?という露骨な表情には、ママ友たちが積み上げてきたものが張りついていた。いま語られている女たちの怒りややり切れなさには、私の体験と共通なものがあるのかも知れない。そこには出来上がった、仕方がない世界があるのだ。始めようと思ったところからしか始まらない。自分が望むことがあり不満に思うなら、そこから始めるしかない。「平等のはず」なんて、あった試しがない。ついでに言えば、いま騒ぎとなっている「学問の自由」なんてのも、あった試しはない。「与えられていた」だけだ。許認可の範囲を出れば、いい意味でも悪い意味でもそれは禁止される。その度(たび)に奪い取ったり、涙を飲んで来ただけだ。分かりやすい例で言えば、クローン人間の研究開発だって禁止されている。

 

 2 親

どんな苦しみにも黙って耐えろ お前が男なら 男に生まれたなら」

とは、言わずと知れた『鬼滅の刃』のワンシーンである。こんなセリフの映画が大ヒットするのだから、どうやら新しいフェミニズムも、それほどの勢いはないようだ。まぁ、「男(女)らしく」と言われるのは、たとえば「男」がもともと「泣き虫」だから、仕方なく「男なんだから泣くんじゃない」等になると思っている。では、これで女の魅力度がアップするというCMや、かなり古い決めゼリフ、それじゃお嫁に行けなくなる等への「女(男)らしさ」批判は新しいのだろうか。

 すべては音声で始まっている。漢字表記を検証してみよう。「旦那」なんて漢字表記はずっとあとだ。「ダンナ」は古代インドのもの、修行僧から見た師匠(ししょう)のこと(または「檀家」から見た「檀越」)だ。奥さんの少し古い言い方が「オカミさん」。もちろんこれは、後の漢字表記「御上」であり「御神」である。上方では「オイエサン」と言い、東北では「エヌシ」と言った。みんな音声で了解していた。これらは「家主」のことだ。家の責任者が女だった。それも、昔の集落(大所帯)での暮らしがあって生まれた言葉だ。また、「親」が父母を意味するものだったはずがない。「オヤカタ」という言葉に今も少しは残っているが、集団の「上に立つ」ものという、広い使用法がなされていた。なにを言いたいのか。

「言葉は一定の時期/エリアで有効なもので、絶対的価値や意味を持っているわけではない」

ことだ。「女(男)らしさ」批判は、新しくもなんともない。そんなに目の敵にして追い出すより、もう少し考えつつ楽しんだ方がいいんではないだろうか。

 フェミニズムの行く手に未来はあるのか。ある。それは次回に。

 あ、それとお願いです。「さすが国語の先生!」という感想はご勘弁願います。民俗学とまでは言いませんが、せめて社会学ぐらいの扱いで願います。

 

 ☆後記☆

今週月曜の『沈黙のアリバイ』見ましたか。いやぁ良かったですねえ。凶悪犯の仕組んだトリックなんかじゃない。最後の10分、いや5分のところです。そうだったのか、それにしてもこんなに広い場所に連れて来られようとは思わなかった、という感想を持ちました。さすが横山秀夫という称賛に、俳優の演技を加えないといけない。この後記の部分で書こうと思ってたのですが、改めてちゃんと書くことにしました。次号です。なわけで「男と女(下)」は、その後になります。

夕闇迫る手賀沼の鉄塔です。

 ☆☆

千葉県知事選が、結構な展開です。県外の人たちは、ネットでも頼らないと分からなかったと思うので、この場を借りてお知らせします。鈴木大地が自民党公認候補として上がった直後、自民党内から不満の声があがりました。どうやら前回も、自民党県連全体としては「つんぼ桟敷」に置かれたようです。いつ決まったんだという声が上がり、熊谷千葉市長とともに行政を担ってきた自民議員が離反しました。同じ動きをしたのが公明党県連です。森前総理が盟友の、しかし政治も千葉も知らない鈴木大地に対し、公認を一応は迷った。結局反対したのは、唯一の勝算だった自民党県連の一本化がダメと踏んだからです。え? 現知事? 台風対策本部も放り投げて、床屋だの別荘確認だのしてた、森センセイの迷友ですか? ひたすら意固地になって、引っかき回しましたねえ。県連に対しての最後っ屁ってやつですね。

我が家のコキアです。今年も立派に紅葉しました。


原子力災害伝承館 実戦教師塾通信七百二十七号

2020-10-23 11:31:31 | 福島からの報告

原子力災害伝承館

 ~朝日新聞報道の真否~

 

 ☆初めに☆

9月に開館した、双葉町「原子力災害伝承館」に行って来ました。途中の大熊/双葉エリアを通る時ですが、やはりシャッターを切ってしまいます。大熊交差点のGSに牛丼店、そしてパチスロ。

双葉厚生病院交差点を海岸方向に曲がると、荒れ放題の病院群のずっと向こうに、白い真新しい建物が見えてきます。

最上階から外を見たところ。隣に見えるのは、産業会館。彼方に海が見えます。

写真でお見せできるのはこれだけ。館内はすべて撮影禁止なんです。

 

 1 担当者と話す

 伝承館には「原子力災害」と冠されている。私のようなものでなくとも、これが原発の危険性を啓発するものだと思うはずだ。しかし結論から言うと、伝承館は「公平中立」が基調。まだ公開間もない気づかい、いや警戒心がそこここに見えた。一階大ホールで最初に見る映像とナレーション。1966年での原発立地決定をめぐっては、

「多くの雇用を生みました」

1971年運転/送電開始。

「首都圏に安定した電気の供給をしました」

確かに両方ともに間違いはない。更にナレーションは「原発は津波によって壊れた」と続けるが、政府事故調の報告でも、原発崩壊の原因が地震か津波か、まだ分からないとしている。また、事故後の人々の発言が映される。被災し避難した学校の先生は、

「(事故のあと)子どもたちが優しくなった」

と言い、おなじく住民の方は、

「双葉の人たちの優しさが分かった」

と言う。どれも本当だ。私も聞かされている。しかしそれが全てでないことも聞かされている。また、展示されている原発建設当時の小学生の作文には、

「みんなクツも買えなかった暮らしだったけど、今は大金持ちもいる」

とある。私は担当者をつかまえて、感じたことを率直に言いますね、と断った。おそらくは、前を向いてみんな頑張っていることを強調したいのだろう、しかしここは「原発災害」を伝承する施設ですよ、原発の「貢献」が目につくのは気のせいでしょうか、ひどい目にあったということを伝えないでどうするのですか、と。職員は林立するパネルの中のたったひとつに私を誘った。そこには原発事故発生から、避難行動やふるさとを無くした人々の動きが書かれている。新聞・ニュースを出るものではない。「ひどい目にあった」という人々の発言や、小学生の作文が必要ですよ、と。職員は、私のような声も拾ってこれからの伝承館に生かしていきたい、と、汗を拭き拭き言うのだった。展示物に病院のホワイトボードがあった。緊急搬送の連絡が手書きの乱れた字で書かれている。これを撮影禁止でどうするのですか、私は几帳面に撮らずにいるが、みんなが知りたい「ここでしか見られないもの」とはこういうものだ、また、真っ暗な原発オフサイトセンターで、決死の東電社員が必死に書いたホワイトボードを、ここで展示しないでどこがするのですか、私は続けた。すると職員は、撮影したものがあちこちに拡がったら、ここにお金を払って見ている人たちの利益を守れない、と答えるのだった。自信がないのか私たちをバカにしているのか、と思ったのだった。

 

 2 語り部

 語り部口演は、最上階(三階)にある、大きさが教室ほどの一室で行われる。9月23日の朝日新聞の記事「語れない語り部」が、話題になっている。語り部活動マニュアルにある「特定の団体・個人・他施設への批判」は控えるという点が、そのポイントである。「ある語り部が、『(国や東電への怒りを)言わないでと言われる筋合いはない。(それが出来ないなら)語り部を辞める』と怒っている」記事だ。

 職員は、このことに関して私に囁(ささや)いた。内覧(関係者やプレス向けのもの)の時、朝日さんはその点に触れなかった、一般公開になった時の話で、しかもそれが質疑の時でなく、終わってから語り部に個人的に聞いて記事にしたものです、だから、記事になって私たちは初めて知った、と。なるほど、メディアの行うやり方としては私も経験があることで、こういうのは日常茶飯だ。まあ、この発言が信じるに足るかどうか、それは語り部口演を実際に経験すれば分かる、私はそう思った。

 語り部は、富岡の学校の先生(OB)だった。12日の一号機爆発に伴って富岡町は隣の川内村に避難する。人口3000人の村に、富岡の6000人が避難する。川内村は公的施設をすべて避難所として解放し、そこに村の人たちが炊き出しをしてくれたという話。しかしこの時、川内村には屋内退避という指示が国から降りている。一体どうやって炊き出しが運べるというのか、国の対応に語り部さんの批判が向く。長岡(新潟)に避難した時、誰がしてくれるのか、自分たちの軒先に何度も食料が届けられていたことなどが続いた。

 双葉の風土紹介に始まった語りは、予定時間を大幅に越えた。質疑の時間はとっくになかったのだが、誰も手をあげないので私だけが質問した。楢葉の渡部さんが言っていた、

「みんなばらばらになっちまった」

ことを思い出すからだ。全国のあちこちに散らばったことばかりではない。その後は被曝線量の違いで、そしてさらに補償金の違いが、そのばらばらに追い打ちをかけた。その話をした上で私は、何が一番大変でしたか、と語り部に尋ねた。丁寧に答えてくれた。その中のひとつ。一番印象に残った部分だ。

「子どもたちが『宿泊』のため、初めて避難先から戻ってきたとき、『良かった』『嬉しい』と言っていたのが、2年目3年目と年を追うに従い、それが変わるんです。そして、なに言ってるんだみたいな顔で『もうここの人間じゃないんだよ』と言うようになるんです」

 朝日の記事にあるような違和感はなかった。しかし、語り部のそばにいる職員は、実にいつもそわそわしていた。私の質問の際、このそわそわがマックスになるのが、はっきり分かった。先の展示内容/方法もそうだったが、これは53億円をかけた県の公的施設なのだ、と思える場面は要所にあった。

 

 ☆後記☆

先週の子ども食堂です。ただいま奮闘中、この日の調理スタッフです。

これはこの日の焼きそばとともに配布した、フードバンクから寄付の品々。出来上がった焼きそば12個が積み重なってますが、次々と配られて行くのです。


楢葉郷 実戦教師塾通信七百二十六号

2020-10-16 11:39:21 | 福島からの報告

楢葉郷

 ~千年の時~

 

 ☆初めに☆

台風14号による雨風の福島でした。楢葉の渡部さんのお庭では、たわわになったカリンが風に揺れてました。

せっかくの実ですが、食べられないから捨てているんだそう(この言い方、テレビでの決まり文句になってます。嫌ですね)。

小雨の中を牛さんが草を食べてました。向こうに柿の実がなってます。

今回の福島は、前半は楢葉町の歴史資料館。後半は9月にオープンした「原発災害伝承館」への道行でした。

 

 1 「南相馬世界会議」で

「開いてるのに、誰かと思うよ。びっくりした」

資料館の職員の方が、おっかなびっくり非常口から顔を出した。

 前に「楢葉郷(郡)」と「標(しね)葉郷(郡)」、「双つの葉」が合併して「双葉郡」となったことをレポートした。もっと詳しいことを知るなら資料館がいい、と渡部さんたちに言われていた。ようやくこの日、町役場の近くにある歴史資料館に出向く。行き着くまでが結構面白かった。

 コミュニティセンター内だが、大きくて分からず職員の方に尋ねた。すると、ホール奥にあった「閉館中」という看板と鎖をどけて、大丈夫ですやってますからと中に案内してくれる。階段下に行くとシャッターが降りてるのだが、今度は横の非常口のドアを何度も叩くのだ。ホールには大きな音が響いた。そして、係長さんが顔を出したのである。案内してくれた女の方は、ドアを一生懸命押していたのだが、ドアは「引き」だった。ホントにありがたい。

 福島県で「千年の時」を初めて感じたのは、震災からもうすぐで一年を迎えようという2012年の2月、南相馬で行われた「南相馬世界会議」で、だった。東大アイソトープ研究所長・児玉龍彦(当時)を始めとした学識者(友人の山本哲士も)や福島県内の高校生もパネラーとして登壇した、大がかりな討論会である。そのパネラーのひとり、都市建築研究者・岡本哲志は、原発事故からの復興ポイントは「相馬野馬追(のまおい)祭」の再構築にある、とした。野馬を育て戦力とする平将門に端を発する相馬野馬追祭の作り上げた場所は、千年以上の時を受け継がれて来た、というレポートだった。討論会が終わったあとのことだ。姿が隠れて見えなくなるほど、地元の人々は会場の外で岡本氏を囲んだ。反省会の時、岡本氏に確認したところ、自分たちがやって来た祭はあれほどにも長い時と広大な空間を抱えていたのかと、みな驚きを口にしたという。人々は「千年の時」と、京(京都)~江戸(柴崎)~下総(しもうさ)~相馬という広大な空間を意識せずに、野馬追祭をやっていた。

 前も書いたが、将門が統括したエリア(相馬)の南限(双葉/大熊)と、相馬氏と岩城(いわき)氏の挟み打ちにあいながら抵抗したエリアの中心(夜ノ森)が共に原発立地点だったということを、私は偶然とは思えない。これから調べるが、多分に「夜ノ森」は後からの漢字表記であって、民俗学的観点からすれば、もとは「余の守」という意味合いだったと思っている。

 そんなことを係長さんと話した。すると、この辺りは地盤が上下に入り組んでいる、ちょうど固い/高い処が「夜ノ森」地区だったのではないでしょうかという、私にすれば渡りに舟のような答が返って来る。そして、熱心にご研究のようだ、郷土史は買うには高額だし該当(中世)部分だけでも送ります、と言う。なんとも感謝に耐えない。

 またこれで、双葉という場所が見えてくる。

 

 2 さつま芋

 この日たまたま、渡部さん家で野馬追祭の話になった。今は馬が足りなくてよ、競馬の馬も使うんだとよ、きっとおとなしめの馬を連れて来んだな、とおばあちゃんが言う。そうかなあと私は異議を唱える。ここから野馬追祭の会場まではずいぶん遠いのだが、渡部さんたちの口ぶりからは、すぐそこで行われているように思える。千年の時を超えて、ここでも話は尽きない。

今回は美味しいさつま芋をたくさんいただきました。キャベツやキュウリも。

 そして前回初登場した猫ちゃんたち。段ボールの家から、立派なマンションに引っ越しました。気持ち良さそうなんですが、ピンぼけです。

 

 ☆後記☆

明日になってしまったんですが、子ども食堂です。好評だったので、焼きそばの第二弾です。お天気が心配ですが、近くの方、良かったら来てくださいね。

 ☆☆

前回の李珍宇(イジヌ)の記事のことです。どうも冤罪(えんざい)と受け取られた方が結構いたようなので確認しておきます。私の書き方が悪いのでしょうが、李はやはり屈折していて難しい。冤罪事件として取り上げた人たちもいるのですが、私は重視していません。李が殺人を犯しているのは間違いないと思えます。公判記録によれば、取り調べで強姦未遂なのに書き換えられた・警察への電話を何回したか・電話が回を追うに従い段々長くなった理由等々が、殺害時の様子も含めて実に淡々と李の口から語られます。それがかえって、李珍宇の絶望の深さを感じさせるものとなっています。そういう意味で「貴重な公判記録と思えます」と書いたのです。


民族差別 実戦教師塾通信七百二十五号

2020-10-09 11:22:56 | 戦後/昭和

民族差別

 ~大阪なおみ選手から「民族差別」を考える~

 

 ☆初めに☆

大阪なおみが「日本人」であることを知った時、私たちはある種の衝撃を受けたはずです。出生は日本であっても、幼少でアメリカに移った彼女は、拙(つたな)い日本語しか出来ませんでした。私たちには想像も及ばない「自分探し」を、彼女がしていたことは間違いありません。先日、その彼女は決勝戦までの間に、7枚のマスクをしました。

一方、NBAの八村塁選手は生まれも育ちも日本で、日本の言葉で生活が出来たわけです。しかし彼が小さかった頃(青春時代も)、彼が「英語を話す転入生でなかった」ことで受けた嫌な思いも多かったはずです。相手は子どもです。「どうして日本語?」という違和感を、彼ら(私たち)は肌の色の違いとともに残酷な言葉で表現するからです。

しかし二人が提出する問題に、私たちは真剣さを欠いた思いしか持てない気がします。彼らが差し出す「黒人差別」問題は、日本で距離があるからです。でなければ、「スポーツに政治を持ち込むな」みたいな的外れの考えが出て来るとは思えません。水泳競技に黒人がいないことを、こういう人たちは気がつきません。スポーツはいつも「政治的フィルター」を通過しています。

 

 1 在日(朝鮮人)

 無理やり連れて来られる、あるいは豊かな生活に憧(あこが)れてやって来る、その際自分の言語を捨てるか奪われる。経済的文化的収奪に伴って、必ずこれらの差別は行われる。「黒人差別」は「民族差別」ではない。「人種差別」だ。「黒人」というカテゴリーが、ひとつの「民族」でくくれないからである。大阪なおみと八村塁、とりわけ大阪なおみが提出した問題を、私たちは我がこととして受け止められない気がする。だからここで、黒人差別に似た歴史的文化的背景を持つ「民族差別」を、私たちは考えることが必要で、かつ出来ると思った。

 「朝鮮人差別」である。

真っ先に思い浮かぶのが、1958年に起きた都立小松川高校「女子生徒殺人事件」である。息を吹き返した被害者を、犯人の李珍宇(イジヌ)は再びその首を絞めて殺した。そして、警察や新聞社を通じて被害者所持品の櫛を送りつけ、あるいは電話で「どこを探してるんだ」と彼女の遺体がある場所を教える。やがて、彼女は高校の屋上で発見されるのである。実はこの四カ月前にも、李珍宇は通りがかりの23歳の賄(まかない)婦を殺していた。冷酷無比で残酷な殺人犯として、当時の日本社会が震撼とした。この時未成年だった李珍宇は、少年法の最高刑が無期刑だったにも関わらず、死刑を言い渡される。

 やがて事件の全貌とともに、李珍宇の周辺が明らかになる。在日の暮らす場所は、貧しさに打ちのめされていた。父は朝早くから仕事に出かけ、夜遅く帰る時はすでに安酒で飲んだくれており、そのまま死ぬように眠った。母は重度の聾唖(ろうあ)者だった。つまり李珍宇は、故郷の言葉を聞かずに育った。彼はこの時、窃盗(せっとう)の常習犯で保護観察の処分を受けていた。自宅のあばら家に積まれた本は、都内の図書館から盗んだものだった。ギリシャ哲学に始まり、サルトル、ドストエフスキー、ヘミングウェイ、そしてヘーゲル、マルクスまで、53冊に及んでいた。

 中卒の李珍宇は成績優秀だったが、朝鮮人という理由で日立製作所は採用を断っていた。これらのことに触発され、李珍宇の減刑願い/支援活動が大きく起こる。その象徴と言えるものが、被害者遺族の発言である。

「これまで、日本人は朝鮮人に大きな罪をおかしてきました。それを考えると娘がこうなったからといって、恨(うら)む筋あいはありません。もしも珍宇君が減刑になって出所したら、うちの会社にひきとりましょう」

よく「被害者や遺族の気持ちを考えないのか」と憤(いきどお)る人がいるが、この遺族の発言を目にすると、本当に良く考えないといけない、と私も思う。

 

 2 朝鮮人として生きる

 私たちの世代は、今より在日が近い存在だったような気がする。「朝鮮」というエリアがあったし、私の家も劣らずそうだったが、そこには吹き溜まりのような生活があった。家に遊びに行くと、父親は「分からない言葉」を話した。良く遊んだ友人とは、高校時代まで交流があった。オレたちは身分証明書を持ち歩かないといけないんだ、と彼はそれをみせてくれた。そこには「本名」が書かれていた。成績優秀だった彼は、私立大学では最大級の難関と言われた早稲田の政経に入学した。でもオレは就職のために行くんじゃない勉強しに行くんだ、彼は言った。朝鮮人が就職できるとこはたかが知れてる、と。

 事件が起きるまで、金子鎮宇(しずお)の「本名」が李珍宇であることを、友人は誰一人として知らなかった。多くの在日がそうだったように、彼は日本人を演じていた。しかしもうひとり、日本人を演じた女性がここに登場する。朴壽南(パクスナン)は「国語」(日本語だ)でクラス一番をとるような、同じく成績優秀な生徒だった。予科練にあこがれたあげく自殺する兄を持った彼女は、兄の影に李珍宇を見いだす。獄中の李と手紙でのやり取りが始まる。李は彼女のことを「姉さん」と言う。

 朝鮮語を勉強し民族教育を受けた朴壽南は、次第に日本人化された自分に気づき、そこから脱却し「祖国」を見いだす。李珍宇が「朝鮮人として生きる」ことに気付いていたら、こんな事件は起こさなかったと思う。彼女は「もしあなたが、朝鮮人学校に行ってたら(朝鮮人の誇りを持てた)」と書くのだ。しかし李は違う。朝鮮人と聞いただけで嫌悪を感じる。「その『朝鮮人』という言葉に含まれる『みじめさ』があるから」だ。自分たちは「朝鮮人に生まれる」のではなく「朝鮮人になるのだ」と李は言う。一方は「誇らしく」他方は「みじめに」、二人は全く反対の言い方で「朝鮮人として生きる」と言っているのだ。

 ヘイトスピーチを引き合いに出すまでもない。ある時ひょっこり、私たちのそばに「チョウセン」が顔を出す。私はまず、東日本大震災の時に何の前触れもなく現れた、「朝鮮人による泥棒の横行」を思い出す。街のいさかいで、相手から「オマエ、朝鮮人だろう」とからまれたという話も、やはり忘れた頃に耳にする。その時、

「朝鮮人だとしたら、どうだと言うんだ?」

と言えるのは、私たち「日本人」の中に何人いるのだろうか。

 

 ☆後記☆

李珍宇の裁判のことで、いくつか書いておかないといけません。警察の実況検分によると、第一の被害者である賄婦はスラックスが裂けていた。さて、彼女の遺体を最初に発見したのは、彼女の婚約者でした。彼の証言によれば、発見時にスラックスは正常だったというのです。ふたつの事件ともに強姦殺人として処理されますが、李珍宇は姦淫は認めるも「(最後まで)していない」というもので、これは認定されるのです。繰り返し警察に電話したのは「異常な自己顕示欲」ではない、本当に「自分がやったのか確認したかった」と、李珍宇は言う。貴重な公判記録と思えます。

 ☆☆

庭の金木犀が満開です。家中、そして前の道路まで芳しい! 台風のおかげで見納めですが、秋はいいですね。昨日から福島です。新酒を買って来ようと思います。まだ無理か?


『ベイジルタウンの女神』 実戦教師塾通信七百二十四号

2020-10-02 11:21:28 | エンターテインメント

『ベイジルタウンの女神』

 ~万国の乞食(こじき)、団結せよ!~

 

 ☆初めに☆

久しぶりに、世田谷パブリックシアターまでお邪魔しました。休日のこの界隈(かいわい)は、以前より人出は少なかったでしょうか。しかしマスク姿ではあっても、表情に陰りが感じられない皆さんからは、おびえた日々が少し遠く感じられました。

一方主催者側には、時ならぬ緊張がありました。入り口での検温・消毒はもちろん、終演後の「列ごとの退場」に、私たちは覚悟に近いものを見たように思いました。

「こちらにひとりでも感染者が出たら、それでおしまいですから」

関係者の言葉に、そうだったと思いました。来てもらっていいものか随分迷いましたという言葉、そして開演までこぎつけるまでの苦労と不安を伝えられていたことを思い出しました。

行って良かった。ケラリーノ・サンドロヴィッチは初めてではないけれど、この演出家の舞台を初めて観たような気がしました。終演後、初めて立ち(スタンディングオベーション)ました。

 

 1 同居/共存する世界

 盲(めくら)/キチガイ、すれすれに、いや、十分に禁句の言葉が飛び交う舞台だった。登場するのは「ホームレス」ではなく、「乞食」なのである。おそらくテレビだったら、これらは流されることが許されなかった。これらの言葉をバックに、ステージは無言の強烈な力で覆(おお)われていく。

「しっかり気を保ちなよ」「何を怖がってるんだい」

 一カ月間だけスラムから逃げ出さず、自分の正体をあかすことなく暮らすことが出来たら、そのエリアをあなたに無償で提供しましょうと提案され、大企業の社長マーガレット・ロイドは、その貧民窟(ひんみんくつ)に乗り込む。私はすぐ、地獄の中を無言で通過出来たら魔法を教えてあげようという、芥川の『杜子春』を思い出した。しかし、悪霊と疫病の巣窟(そうくつ)と言われるスラムの中で、マーガレットは住民から「チキン」という愛称をもらう。すぐに「なじんで」しまったのだ。『杜子春』にあった悲惨が、ここにはなかった。気がつくと、私たち(観客)が広い場所に解放されている。物語が寄せる力は、マーガレットに向かったものではなく、実は私たちに向けたものだったということに気付くのは、おそらくすべてが終わって、スタンディングオベーションをする頃だった気がする。私たちは背中を強く押されていた。さあ、行こうよ、と。

 相対する世界が、この舞台でふたつ登場する。ひとつはもちろん「富めるもの」と「持たざるもの」。そしてもうひとつが、兄はロイド社社長の婚約者、弟がスラムの住人という「双子」だ。相対していても、ともに「人間=生まれ」という共通の要素を持つ。とりわけ双子は「そっくり」だが、「似て非なる」ものでもあった。「富めるもの」と兄は舞台を猛進するが、ものにあふれた豊かな生活が「明日」は無事かどうかおびえている。他方の「持たざるもの」と弟の方は微動だにしない。スラムの住人は屋根のない満天の空に星を眺めて暮らし、弟はこだわりの言葉/行動を毎日終日繰り返す。

 マーガレットは正統な大富豪だ。スラムに入っても果敢にというより、無自覚にブランドの紅茶を注文する。今は一文なしでも、一カ月あとには数百万倍で返すと言って紅茶を注文する。貧しい店の女主人は、

「一カ月先の百万円(舞台での実際の単位は違う)なんかいらないよ、今は百円がいるんだよ!」

こう言ってマーガレットを鼻で笑って追い出す。私たちは、いかがわしかったり必要がなかったりする「善意」や「未来」を思い出し、そこにしがみついて来た自分たちの姿を見るのだ。一方、スラムの住人たちは、マーガレットがここにいてはいけない金持ち/富豪であることに気がつかない。住人としては、彼女を追放するのでなく「キチガイ」とすることで、帳尻を合わせた。こうして彼女はここで、市民権-共存する権利を得る。スラムの持つ力とマーガレットに固有な興味関心、このふたつが両者をつなぐ。

 

 2 霊気は舞い降りる

 「乞食」の「乞」は、霊気を祈ること。托鉢(たくはつ)ばかりではなく、軒下をめぐり門の前に立って人々が「乞(こ)う」ことは、そのことによって普段知らない人々が分かち合う、ということでもあった。人々は昔、そういう習慣を持っていた。所有するものが「分ける」ことによって、集落が家族が豊かな共同体になった。「ものもらい」の習慣は、集落の力でもあった。そこに霊気が宿るのだ。

 スラムには「ものもらい」を習慣とする力があった。人々が願う霊気は、そんな力をバックに突然舞い降りる。きっかけのひとつは、マーガレットがニセモノではない本物の「乞食」となったことである。彼女は、いやこの場合は彼女たちというべきか、彼女たちは、いまは過去の傷や悔恨に見えるものが、宝物だったことに気付く。大切な「子どもだったこと/時」に気づき、

「明日のこと?………分からないわ」

と言う。絶望して言ってるのではない。それって大切なことなの?と言っている。もっと大切なことの中で、私(たち)は生きてるわ、と言っているのだ。観ている私のマスクが濡れそうになる。

 霊気が舞い降りるもうひとつのきっかけは、過去の出来事のせいで精神を病んだ双子の弟のもとから、である。彼は同じ言動を繰り返すことで、逸脱(いつだつ)的ではあっても自分の道を歩いていた。その不動の姿は、スラムの地盤でもあった。終盤、マーガレットに湧いた不信が原因で、スラムの人々に動揺が生まれる。しかしスラムが買収され撤去されるという土壇場で、弟はどんでん返しを演出する。霊気は舞い降り、物語は一気にハッピーな終幕を迎える。それはまるで不動な場所はあるのだ、とでも言ってるかのようだ。

乞食を続ける一部を除き、サクセスなストーリーだった。「王様」が石油王になるというラストを見て、私はこの俳優がかつて小学生(5年生)だった時の「大金持ちになる」作文を思い出してしまった。

 ケラリーノ・サンドロヴィッチは、この舞台で「人を食った」のではない。「コロナを食った」のだ。

 

 ☆後記☆

チャーミングな姉妹と出口で会えました。「私たちも立ってしまいました」と言うのです。少し遅れて立ったことを、若干後悔した私です。ぜひ皆さんも観てください。お勧めです。兵庫公演は10月4日まで。北九州は9日と10日です。北九州の読者の皆さん、チケットは買えましたか。

 ☆☆

嫌なニュースが続くこの頃ですが、いい季節となりました。中秋の名月って久しぶりに見た気がします。コーヒー飲んで見上げる空に、ホッとしています。

学校を回ると、様々な工夫をこらした運動会や体育祭を語る先生たちの顔が嬉しそうです。頑張りましょう!